ケロイド   作:石花漱一

103 / 196
二十四、ファン感謝祭とその後⑥

 それから、少し経っても田上たちはトレーニング場の片隅に立って、頬を触り、触られ続けた。タキオンから田上の頬を触り返すという事はしなかったが、タキオンは、時折愛おしそうに田上のごつごつした手に頬擦りをしていた。

 トレーニング場の片隅だったので、人の話し声や走る音が聞こえても、それは遠くから聞こえるだけだった。だから、田上たちは誰にも話しかけられることも無く、安心して甘い雰囲気に身を委ねていたのだが、突然に田上の背後から足音が聞こえると田上は慌ててタキオンの頬から手を放して後ろを振り返った。

 後ろに居たのは、霧島だった。複雑そうな顔をしながらこちらに歩いてくる。そして、田上と目が合うと、軽く手を上げて挨拶をした後、言った。

「お前、………何してるの?」

「…あぁ、…あぁ、…あぁ、…あの、タキオンと話してた」

 田上は、自分が目に見えて動揺しているのを感じ取りながら、それでも――バレませんように、と祈りながらそう言った。霧島は、暫く、まだ複雑そうな顔をして田上の顔を見ていたが、次いで田上の背後から顔を覗かせているタキオンに向かって言った。

「アグネスさんと…田上って、………キスをしてたよね」

 田上は、自分の背中からぶわっと嫌な汗が大量に噴き出てくるのを感じたが、返答はタキオンがちゃんとしてくれた。

「ああ、あれを見られた時は、圭一君が大分焦ってた。あんまり広めたくないらしい」

「広めたくないって……。まぁ、いいや。頑張りな」

 霧島は、二人に質問するのを諦めると、複雑そうな顔をしたまま、また来た道を戻っていった。その背が遠のいていくのを確認した後、タキオンは田上の方を向いて言った。

「あれは、また、変だね。霧島君は、あんなにうじうじした人間じゃなかっただろ?」

「ああ、…怒られるのかな?」

「怒りもしないだろうけど、あれは、私たちの関係を良くは思っていなさそうな顔だった」

「嫌だな…」

 田上が面倒くさそうに呟いた。

「まぁ、普通の人から見れば妙な事だからね。…あそこでキスをしてしまったのは、やっぱり不味かったかな?」

「…分かんない…」

 田上は、そう言ってタキオンを見つめたまま、物憂げな顔をして口を閉じてしまった。タキオンは、その閉じた口に一度軽くキスをしたが、田上の表情は物憂げなまま何も変わらなかった。

 その後に、タキオンはお姫様抱っこをせがむと、田上は仕方がなさそうに笑いながら、タキオンを両腕の中に抱きかかえてくれた。タキオンは、運ばれている間は、何度も嬉しそうに田上の顔に頬擦りをした。田上もその時には少し嬉しそうな顔に変わっていた。

 そして、二人は、お姫様抱っこをしたままウマ娘寮の前まで行った。ウマ娘寮の前では、何やら騒いでいるウマ娘がいて、寮長のフジキセキがそれを追い立てている所だった。そのフジキセキに気が付くと、タキオンはバツが悪そうに体をモジモジさせたが、田上は寮の前に行くまでタキオンを抱っこしておくつもりだった。

 フジキセキは、騒いでいる子を巧みに寮の中に追いやると、すぐに少し離れた所で自分を見てきている人影に気が付いて、呼び掛けた。

「おや、タキオンにそのトレーナーさんじゃないか。…怪我でもしたのかな?」

 抱きかかえられているタキオンを見てそう思ったのか、フジキセキが聞いてきた。田上は、フジキセキの方に近寄りながら、これに首を振って答えた。

「タキオンが、甘えたいらしくてこうなりました」

 そう答えると、タキオンは田上の言動にちょっと不快感を感じたことを示すように、田上の胸を自分の肘で突いた。田上もタキオンの気持ちを理解はしたが、絶対に離さないようにより一層強くタキオンを抱えた。

 そんな二人のやり取りは露知らず、フジキセキはハハハと笑いながら言った。

「タキオンは、よっぽど君の事が好きなんだね。この前の時もそんな感じで運ばれていた。いやぁ、ぞっこんだね。超高速のプリンセスさん」

 フジキセキは、そう言って田上の腕の中に居るタキオンを覗き込んだ。タキオンは、恥ずかしさで居心地を悪そうにしながら、チラリとフジキセキを見て言った。

「あの時の傷はもう治ったかい?」

「ああ、心配してくれなくても、ちゃんと治ったよ。完治さ。傷跡もない。君は、乙女の顔に傷跡を残さずに済んだよ」

 その言葉にタキオンは少し安心した声で「それは良かった」と言った。それから、田上とフジキセキがタキオンを覗き込む沈黙の時間が訪れたが、その沈黙にタキオンは耐え切れなくなって、田上の衣服を少し引っ張ると、「これが私の彼氏だよ」と急に紹介を始めた。その様子が、あまりに微笑ましくて、フジキセキはニコニコと笑いながらタキオンに言った。

「良い人だね、君の彼氏は。君が甘えたいからってだけで、お姫様だっこしてくれるなんてね」

「いやぁ、分からないよ。圭一君だって、私に甘えたがりなんだから、この人もやっぱり私をお姫様抱っこしたかったのかもしれない」

「そうなのかい?」とフジキセキが田上に聞いてくると、田上はしどろもどろになって「いやぁ、僕はちょっとそれには答えかねますね」と絶対に目を合わせないようにしながら答えた。それで、フジキセキは一層ニコニコしてタキオンに言った。

「君の彼氏は答えてくれないよ?これは、黒って事でいいのかな?」

「ああ、答えないのであれば、黒で間違いないだろう。この男、こう見えて、私にはでれでれなんだよ。私の事が大好きなんだろうね」

 その言葉を聞くと、フジキセキは、田上の方を満面の笑みで見つめながら言った。

「トレーナーさんの彼女はこう言っているよ?やっぱり、タキオンだけにしか見せない恋人の顔があるのかな?」

「…いやぁ、どうでしょうねぇ」

 田上は、困ったように首を左右に動かしながら答えた。それを見て、またフジキセキは笑ったが、もう田上を困らせるような質問はしてこなかった。ただ、「私はここに居ると邪魔なのかな」と言うと、タキオンと田上を残して、自分はニコニコしながら寮の中へと入って行ってしまった。

 田上とタキオンは、その背を見送ると、顔を見合わせて安心したように微笑んだ。そして、タキオンが言った。

「騒がしい女だね、あの人は」

「さすがに、俺もあんな質問されたら困るよ」

「困るって分かってて、フジ君は質問してるんだから」

「タキオンだって、俺がフジ君に困る質問されると分かってて、あんなことを言ったんだろ?」

「恋人にしか見せない顔。あるじゃないか、今ここに」

「そんなに恋人にしか見せない顔か?」

「少なくとも、大分打ち解けた相手じゃないと見せない顔をしているね。いや、やっぱり私だけにしか見せない顔かな。うん。私にしか見せないね。マテリアル君や赤坂君、君の友達には今の顔は見せないよ。それに、私は見せられないね」

「そんなに恥ずかしい顔をしてるか?」

 田上が、その質問をすると、タキオンは一度目を逸らした後、答えた。

「いや、私が独占したいだけだよ。君のその顔は、一生私の物だからね」

 タキオンはそう言うと、田上の頬に軽くキスをした。そして、「私を下ろしてくれ」と頼んだのだが、田上はこれに抵抗した。

「嫌だ」

 そう言うとタキオンを抱えたまま、その身をぎゅっと抱き締めた。タキオンは、その田上の様子に少し戸惑ったが、次に微笑するとタキオンは言った。

「やっぱり、私の事を抱っこしたかったんじゃないか」

「ずっと抱っこしていたい」

 田上は子供のように、ある種無邪気に言った。

「おや、永遠かい?今、私たちの間では永遠がトレンドなのかな?」

 すると、田上はタキオンを強く抱きしめるのをやめ、タキオンの顔を見て言った。

「違うよ…。…ただの欲望。ずっとそうしていたいって感じ」

「なら、私と一緒だよ。私だってそういう『欲』だもの。もっともっと君と居たい」

「ところが、俺たちは離れなくちゃいけない」

「そりゃあ、ずるいよ。今の今まで折角寮の部屋に戻ってやろうという気でいたのに、わざわざ私の欲を掻き起こして泡立てて、それで、自分は私を目一杯抱き締めて、欲を満たして帰ろうっていうのかい?それじゃあ、道理に合わない。私をもっと満たしてくれなくちゃ!」

 タキオンが田上の腕の中でそう主張した時に、後ろをトレーニング帰りのウマ娘がクスクス笑いながら通り過ぎって言ったので、田上たちは一旦話をやめなければいけなかった。そして、田上が腕の疲れを理由にタキオンを下ろすと、彼女の少し怒ったような顔を悲しそうに眺めながら言った。

「もう少し早く一緒に住めたら良かったのにな…」

 そんな風に言われると、タキオンも簡単には言い返すことができずに、一瞬言おうとしていた言葉に詰まった。だから、別の言葉を探し出して、田上の顔を見ながら言った。

「……私も、…私もそんな風に思うよ。恋人の居る家に帰りたい」

「………恋人か…」

 田上が今度は悩ましげに言ったので、タキオンは少し眉を寄せて田上に聞いた。

「私が恋人じゃ不満足かい?」

「いや、…ただ、…何回も言ってるけど、…お前が恋人って言うのがな。…現実感というか、夢見心地というか…、信じられないというか…」

「嫌いかい?」

「いや、嫌いじゃないよ。…ただ、まだなんかふわふわしてるんだよ。…同棲したら、また何か変わるのかな?」

「どうだろう?…でも、君との同棲は楽しみ。どんな生活になるかな?料理は、初めは私も頑張らないといけないね。昨日作ったと言っても、君との同棲を始めるまでに、さすがに料理を簡単に作れるようになっているとは思えないからね」

「……結婚か…」

 田上は、またさっきと同じような調子で言ったが、タキオンは少し悲しそうな表情で言った。

「結婚が嫌かい?」

「嫌じゃない。…ただ、さっきと同じようなもんだよ。…結婚してみりゃ分かるのかな…」

「その割には、私たちの結婚はまだだからね。…結婚と同棲はどれくらい期間を空けるつもりだい?それとも、あれかい?入籍だけして、結婚式は後でするかい?」

「……ドキドキしてきたな」

「まぁ、ドキドキはするけど、そのドキドキから私たちは逃れる必要はないだろ。それに、規模を大きくするのでないのなら、私たちは、簡単に結婚式はできるだろ?家族だけ呼んで、結婚式をするという手もあるわけだ」

「家族の前で誓いのキスをしないといけないのか?」

「今まで散々やって来たんだから、キスの一つや二つ、家族の前でやっておかないと損ってもんじゃないのかい?」

 タキオンがそうお道化て言うと、田上は嫌そうな顔をした。

「父さんとか幸助とか…。お前のお義父さんとかお義母さんとかの前でしないといけないわけだろ?」

「それ以前に私たちは今日、人が大勢いる所で堂々とキスをしたんだよ。君からもしてくれた。これをやってのけたんだから、家族の前でくらい平気だろう。それに、結婚式をするくらいなんだから、私たちの家族の方もキスの一つや二つを見物するくらいの気持ちで来てるよ。だから、一種のパフォーマンスみたいなものだよ」

「パフォーマンス?…まぁ、理解はできる。向こうも俺たちのキスが見たくて来てるようなもんなのかな?」

「そんなもんだろう。私たちが幸せに暮らしてくれさえすれば、向こうは何のお咎めもないわけだ」

「…そんなもんか…」

 田上が、呟くように言うと、丁度切りのいいタイミングでフジキセキが寮から出てきて、田上たちに呼び掛けた。

「タキオン!もうすぐ門限だよ!彼女思いの彼氏さんと話すのもいいけど、門限はしっかりと守らないと」

 そう言うと、フジキセキはまた寮の方へ引っ込んでいった。タキオンと田上は、それを聞くと暫く見つめ合ったまま黙っていたが、やっぱり出し抜けにタキオンの方がキスを仕掛けてきた。そんなに長いキスではなかった。

 タキオンは、唇を離すと、田上の顔を悲しそうに見上げて言った。

「同棲するのはいつになると思う?」

「…いつだろう…?」

 田上は曖昧に答えた。

「君は、あのショッピングモールで言っただろ?――走る事をやめて、一緒に暮らしたいと言ったら?って」

「でも、あの時のお前は走る事を選択した」

「……ああ、…こんなに君の事が好きなのに…」

「ままならないね…」

「…ままならない。…もう一度、…君からキスをしてくれ…」

「いいよ」

 田上は、そう低く呟くと、目を瞑って顎を上げて待っているタキオンの唇にそっと自分の唇を触れさせた。それから、二人は、さらにもう一度強く抱きしめ合うと、それぞれの寮に別れて行った。

 タキオンは、フジキセキから面白がって色々と質問されたが、面倒臭かったのでそのどれもを首を横に振るだけにした。そして、自分の部屋に戻り、自分のベッドに突っ伏すと同室のデジタルに向かって言った。

「デジタル君……。私は、…圭一君の事が大好きだよ。…一緒に住みたいくらいに」

 デジタルは、初めは何も言えなかった。唐突にこんなことを言われると、さすがにデジタルも尊さに打ち震えたし、果たして、これにどう返事をすれば正解なのかが分からなかったのだ。やがて、答えを捻り出すと、デジタルは言った。

「私も…そう思います」

 中々に頓珍漢な答えで、一歩間違えばタキオンが嫌がりそうなまではあったが、タキオンはその頓珍漢さには気が付かなかった。ただ、暫くするとベッドに突っ伏すことをやめて、食堂に夜食をとりに行った。

 田上も同じくらいの頃に食堂に行って、夜食を食べていた。あんまり浮かれているとは言えなさそうだったので、食堂の修さんが「元気ね?」と聞いてきた。田上は、ただ、「微妙ですかね」と首を傾げて答えたのみで、それ以上何も話そうとはしなかった。

 そして、夜は更けていった。

 

 次の日の朝になると、田上はタキオンのモーニングコールより早く起きてしまった。そうなってしまったからには仕方がないので、田上は、朝の支度をしつつ、タキオンがモーニングコールをしてくるのを待った。

 タキオンのモーニングコールは、いつもより五分ほど遅かったが、ちゃんと田上のスマホに掛かってきた。第一声は、「おはよう」ではなく、「大好き」だった。そして、電話の向こう側で恐らく同室のデジタルであろう声が、「ひょえっ」と声を上げているのが聞こえた。田上もタキオンにそう言われると、「大好き」と返した。すると、また「ひょえっ」という声が聞こえた。多分、聞こえの良いウマ耳が田上の声を聞いてしまったのだろう。これを聞くと、タキオンも田上も苦笑してしまった。

「今の声聞こえたかい?」とタキオンが聞いてきたので、田上も苦笑しながら「聞こえた」と返した。それから、二人の間に沈黙が生まれてしまったが、また再びタキオンが「大好き」と言った。すると、また「ひゃぁ」という声が聞こえてきたので、田上もまた苦笑した。

「俺も大好きだよ」

 そう田上が答えたのだが、次はもう何も聞こえてこなかった。それで、タキオンが電話をしながらデジタルの方を確認すると、デジタルは自分の耳を抑えながら、聞かないで自分の声を抑えたほうが良いのか、それとも、恋人同士の尊い会話を聞いたほうが良いのか、葛藤に身悶えしている様子に見えた。タキオンが田上にそれを報告すると、田上は少し笑って言った。

「今日は授業には出ないんだろ?」

「そうだね」

「じゃあ、ゆっくり…ではないけど、のんびり朝ご飯が食べられるな」

「…今日は、君はもう起きてるのかい?」

「なんか、早くに目が覚めちゃったから、起きて、もう着替えも済ませた」

「そう…、それもまた恋人みたいだね」

 タキオンがそう言うと、また電話の向こうから「ふおっ」という声が聞こえてきたような気がしたが、二人ともそれには触れずに話を続けた。

「そんなに恋人みたいか?」

「起きてたら、君が朝ご飯作っているって、恋人みたいじゃないか?」

「朝ご飯は作ってないけど、朝に隣で恋人がもう着替えてるのも、朝にタキオンが恋人を起こしてあげるのもどっちも恋人みたいって事?」

「そりゃあ、どっちも恋人がいないとできない事なんだから、恋人みたいなことに変わりはないだろう?」

「大分、空想が膨らんだ恋人ごっこだな」

「ごっこじゃないよ。空想は膨らんでいるけど…。おはようのちゅーは?」

「ここで俺がマイクにキスをすれば嬉しいか?」

 田上がそう冗談を飛ばすと、タキオンは笑って言った。

「嬉しくない。むしろ、引いちゃうよ。……朝からあれだけど、同棲、早くしたいね」

「…そうだね。どんな暮らしになるのかは分からないけど」

「きっと、これまでどおりいちゃいちゃする事はできるよ。朝起きれば、君の寝顔を見れる可能性もあるし、私の寝顔を見れる可能性もある。子供は、同棲して暫くは作らないでいたいな…」

「なんで?」

「もう少し君との恋人の期間を感じていたい。…私の我儘だけど、いつかは子供も作る。でも、ちょっと理想があるんだよ。子供ができればあんまり君と、君だけといちゃつくこともできないだろうから、できる限り君との蜜月を感じていたいんだ」

「…そう…。…俺もそんな感じかもしれないな。…二十五歳がなにを言っているんだか、って感じだとは思うけど、……隠さないで言うなら…」

「私相手なんだから隠さなくてもいいよ」

「……お前ともうちょっと過ごしていたいよな」

「私も」

 タキオンは、愛おしそうに電話口に語り掛けると、その後は、少し二人共照れの残る沈黙で口を閉じた。そして、次に口を開くと、今の話は終わった。二人で、トレーナー寮の食堂で落ち合う事を決めると、電話を切って朝の準備を始めた。

 タキオンは、授業に出る気はないので、制服に着替える事はせず、田上が可愛いと思ってくれるような私服に着替えた。と言っても、普段の紫色の私服とあまり変わらない格好ではあるが、――これを圭一君が可愛いと思ってくれたらいいな、という期待は覗かせていた。それに、――圭一君が私の事を可愛いと思わないはずもないだろう、という確信もあった。実際にその通りだった。

 タキオンは、首に誕生日にもらった月のてんとう虫のネックレスを着けると、田上の下に行った。途中で会った田中にはニヤニヤと、国近には不思議そうに見つめられたが、特に話す事はなく、田上の部屋まで行った。

 部屋に着くと、田上がタキオンと同じように地球のてんとう虫のネックレスを着けて、出迎えてくれた。タキオンは、一旦その中に入ろうと思ったのだが、田上は、そのまま朝食を食べようと言ったので、タキオンは仕方なくそのまま食堂の方へ向かった。タキオンとしては、田上の部屋で少しいちゃつきたい気持ちもあったが、朝なので廊下にはそれなりに人目が合って、入るのは難しそうだった。

 

 食堂では、昨日は制服だったタキオンが今日は私服なのを見て、修さんがお節介を焼いてきた。

「今日は授業に出んね?」と聞いてきたが、タキオンはあまり答えたくなかった。そのタキオンの心中を察してか、代わりに田上が答えてくれた。

「こいつは元々こんな奴なので、好きにさせてます。じゃあ」

 そう言うと、まだお節介を焼きたそうな修さんを残して、田上はタキオンと共にテーブルの方についた。きっと、あのままあそこで修さんの話を聞こうとして居れば、田上の方に矛先が向き、「好きだからって甘やかしちゃいかんたい」とか「しっかり授業に出たほうがよかよ」とか言われた事だろう。だから、早々にあの場で話を切り上げた田上の判断は英断だった。

 田上とタキオンが朝食を食べている間に、リリックの方からスマホのメッセージで連絡が来た。

『二人は大丈夫と言っていました』との事だったので、タキオンはいよいよカフェを誘うか誘わないかという段になった。そこで、タキオンは少し尻込みして、田上に判断を委ねようとしたが、田上としては、カフェが居ようが居まいがどちらでもいいので、「お前が決めろ」と冷静に返した。タキオンは、暫く悩んだ後、田上の助言もあって、やっぱり誘うことに決めた。それで、二人は、一時間目の休み時間に研究室の隣のカフェの部屋に行く事に決めた。恐らく居るかもしれないが、居なかったときは、カフェの教室に直々に誘いに行くという物だった。

 その後は、普通に朝食を食べたが、トレーナー室に出かけようかな、という段になって、タキオンは「圭一君に甘えたい」と言い出した。それで、仕方がないので、田上は人の目が無いのを見計らってタキオンを自分の部屋に入れてやった。タキオンは、部屋に入れてやると、大変嬉しそうにし、一緒にベッドに寝転がってやると、もっと喜んだ。そして、タキオンと田上は、自分たちのネックレスを弄って、二人で遊びながら少しの時間を過ごした。その間に、二三回キスもしたし、それ以上に愛おしそうに抱き合う事もした。

 

 それから、田上はまだ二人きりで遊んでいたいタキオンを何とか説得して、自分のトレーナー室まで連れて行った。トレーナー室に行けば、もうすでにマテリアルがパイプ椅子に鎮座していたが、タキオンはそんな事はお構いなしで、すぐに田上といちゃつこうとし始めた。田上もマテリアルが居る手前、そんなにいちゃつきたくはなかったのだが、やっぱりタキオンの事が大好きなのと、マテリアルが二人のいちゃいちゃを完全に無視しようとしているのとで、田上はタキオンに甘えるようにしていちゃついていた。

 リリックから連絡が来たのは、あのメッセージのみだった。リリックもそれ以上の事がないので、連絡する事もなかったが、昨日ほどでないにしても、どことなく調子の悪さがあった。これを田上に相談して何か変わればいいが、いくら田上が自分の事を心配してくれていると言っても、あのいちゃつきようだと一目見ただけで気が滅入りそうだった。

 大人としてあまりにもだらしが無いように思える。あっちが大人で、タキオンが子供ならば、田上の方は、もっと厳しくタキオンの事を律するべきだ。公共の場で、公衆の面前でキスをするような大人など、到底大人とは言えない。まだ、十八歳という年齢の少女に押し流されて、公衆の面前でキスをしてしまうような大人など、何が信頼に足ると言えるのだろうか?リリックには、田上の事がまるっきり信用ならなかった。田上もリリックの事をもう少し気にかけてあげるだけでなく、気持ちも理解してやればいいと思うのだが、いまいちタキオンの虜になってしまってそれどころではなかった。

 それでも、リリックの頭の中に相談する相手として田上が出てきたのは、少しでも頼りになりそうな大人なのではあるのだが、どっちにしろ、タキオンと田上がイチャイチャしている所に、もし出くわしでもしたら、相談する気がぽっきり折れるのは目に見えていた。

 リリックは、今日はあまり友達とも話さないで授業を受けた。カラオケの事は、オータムは同室なのですぐに聞けたが、イツモはまた違う部屋なので朝に聞くことができた。ただ、その時にはカラオケに行きたい気持ちは折れかけていた。しかし、――言ってしまったから、と自分に言い聞かせながら、リリックは無理に自分の顔を取り繕って、イツモとオータムにそれを聞いていた。

 二人の方は、既に数人の友達をクラスに作っていたので、リリックと話していなくても全然問題がなさそうだった。リリックがそれに嫉妬をするという事ではないが、二人は自分が居なくても大丈夫なのかと思うと、少し寂しかった。リリックは、勿論、上手くクラスに馴染めたかと言われると、あんまりそうではなかった。休み時間はずっと机に突っ伏して寝ているし、話しかけてもあまり他の人を楽しませるようなことは言えなかった。

――私もあの輪の中に入れたらなぁ…

 リリックは、イツモとオータムが楽しそうにクラスメイトと話しているのをぼんやりと見つめながらそう思った。

 

 田上たちは、終始いちゃいちゃしながら一時間目の休みまでの時間を過ごした。タキオンは、椅子に座っている田上の膝の上から動こうとはしなかったが、さすがに、ずっと田上の上だと飽きてきたようだった。休み時間が近くなってきた頃には、タキオンは田上の膝で退屈そうにしていた。もしかしたら、カフェの所に行くのが憂鬱だったからかもしれない。

 そして、行くぎりぎりになって、タキオンと田上は、カフェの部屋に行っても松浦トレーナーがいるわけではない事に気が付いた。それに、二人共さすがにカフェたちのトレーナー室がどこにあるのかまでは知らなかった。それだから、二人はどうしようかと考えてみたが、まぁ、とりあえずカフェを誘ってダメなら松浦トレーナーを探して掛け合おうという事になった。

 そんなわけで、田上とタキオンは、一時間目の休み時間になると、嫌がるタキオンの手を引いて、カフェの部屋まで行った。さすがに、来るのが早かったからなのか、カフェはそこには居なかったが、カフェの教室に向かう途中の廊下でばったりと出くわすことができた。カフェは、手を繋いで歩いてくるタキオンたちの姿を見ると、怪訝な顔をしてすぐ傍の曲がり角を曲がり、二人をやり過ごそうとしたが、この二人も後をついてくるとなると、観念して「なんですか…?」と面倒臭そうな声で聞いてきた。そして、タキオンも些か気乗りしないような声で言った。

「君、カラオケ行かないかい?」

「嫌です」とカフェは迷うそぶりもなく、即座に答えた。その無遠慮な返答にタキオンの顔は、ムッとなったが、声の調子は変わらずに言った。

「嫌ならそれでいいんだけど、…私と同年代の人がカラオケに行かないんだよ」

「……誰が行くんです…?」

「私のチームのメンバーと、中等部の子が二人、保健室の先生が一人、それに、君がダメでも松浦トレーナーは誘おうと思っている」

「……なぜ…?」

 カフェは、怪訝そうな顔をして聞いた。

「…トレーナー君と同年代だし、うちの補佐君の方も松浦トレーナーと話したそうだからさ。それに、誘えば来そうだしね。…来そうだろ?」

「……行くかもしれません…」

 カフェは、とことん嫌そうな顔で言った。

「なら、君も来ていいんじゃないかい?別に、一人ぼっちって訳でもあるまい。私も松浦トレーナーも居るし、うちの圭一君だって居る」

 さすがに、田上とカフェの仲がいいとは言えなかったので、カフェは少し田上の顔をチラッと見た後、タキオンに言った。

「……ただ、私は歌えませんよ?」

「何を言っているんだい。ウイニングライブを忘れたとは言わせないよ」

「ウイニングライブは、歌えることには歌えますが、カラオケで盛り上がるような歌をこぞって歌うようなことはしませんよ。ということです」

「それなら何も構わないよ。君と似たような男がここに居るし、なんなら、大人たちは自分たちの話で盛り上がってるかもしれないから、君はただオレンジジュースでも飲んでその話を聞いていればいい」

「……そんなに私を連れて行きたいんですか?」

「だって、寂しいじゃないか」

「……横に居るのは、あなたの恋人なんじゃないですか?」

「うーむ。確かにそうではあるのだけれど、…たまには遊んでみないかい?」

「……なぜですか?」

「んー?…これと言った理由はないんだけどね。…まぁ、君が行かないのなら、松浦トレーナーだけでも誘ってみるよ」

 それを言うと、カフェはじっと考え込んだ挙句、はぁとため息を吐いて言った。

「いいでしょう。…トレーナーさんが行くのであれば、私も行きます。…あくまで、『行くのであれば』です。トレーナーさんが行かないというのであれば、私は行きません」

 その答えを聞くと、タキオンはパッと明るい笑顔を見せて言った。

「うん。いいとも。必ず説得してみせるよ」

「…別に、説得してほしいわけじゃありません…」

 カフェは、面倒臭そうにそう言った。そして、タキオンが、松浦の居場所をカフェに聞くと、カフェは、居場所も知らないで松浦を誘おうと言っていたことに驚いたが、仕方なく低い声で教えてくれた。そして、田上の方に無言でぺこりと頭を下げると、今来た道を戻っていった。カフェが、どこに向かおうとしていたのかは詳しくは知らなかったが、今来た道を戻っていったのは、確実に、自分たちが時間を取らせたので、一時間目の休みがそれほど残されていなかったからだった。

 

 田上とタキオンは、カフェに聞いた通り、南校舎の二階の方の部屋に来ていた。そこの白いドアをノックすると、中から「どうぞ」と聞こえ、田上とタキオンは顔を見合わせて中に入った。この行動は、ドアを開けて中に入るべき田上が少し怖気づいてしまって、不安そうにタキオンの方を見たので、タキオンもその顔を見返したことによって起こった。

 田上は、恐る恐る中に入ると、不思議そうな顔で待っている松浦と目が合った。松浦は、入ってきたのが田上だと分かると、嬉しそうな顔をして「ああ、田上さん!」と呼び掛けた。そして、田上が全く緊張した面持ちで頭をぺこりと下げると、松浦が言葉を続けた。

「何か御用ですか?」

 田上は、一瞬その言葉が飲み込めなくて、一度そこに立ち尽くしたが、ようやく頭の中で言葉を理解すると慌てて言った。

「ああ、…僕のチームの方でカラオケに行こうという話になって、このタキオンがお宅のカフェさんの方を誘いたいと言いましてですね。ついでなら、松浦さんもどうかなーと思ったので、…いかがですか?」

 緊張で上手く言葉を纏まらせることができずに、内心自分の顔が真っ赤になっているのを感じながら、田上はそう言い切った。松浦は、そんな事は意に介さないような表情で少し考えた後に言った。

「えー、…カフェの方には聞きに行ったって事ですか?それとも、僕を誘った後に、カフェの方にも聞くつもりですか?」

「あ、はい!…えーっと、カフェさんの方にはもう聞いていまして、松浦さんが行くというなら行くという返事でした。…はい」

「へー、あんまりカフェの好みじゃなさそうなイベントなんですけどね。条件付きでもオーケーを出してくれたんですか」

「はい。出して下さいました」

「へぇ…」と松浦は頷くと、また少し考えた後に言った。

「アグネスさんは、天皇賞・春には出ないんでしたよね?」

「えー、はい」

「なら、カラオケついでに少しレースの事について話しませんか?」

「あ、僕ですか?」

 田上は、少し驚いてそう聞いた。

「そうです。何しろ、菊花賞ではアグネスさんが勝ったんですから、少しアドバイスでも聞いておこうと思いまして」

「あー、…それなら、あんまり僕に言える事はなくて、どちらかというとタキオンの功績の方が大きいように感じます」

 田上がそう言うと、タキオンがこの部屋に入って初めて口を開いた。

「圭一君は、いつも自分が何もしていないような口ぶりで話しているけど、君だってちゃんと仕事はしているんだからね。作戦だって、私だけじゃ上手く立てられないから、君と一緒に考えたほうが良い。トレーニングも君が予定を立ててくれた方が、私が予定を立てるよりいい。君は、私にとって必要不可欠だったと思うんだけどね?」

 そのタキオンの話をニコニコしながら見ていた松浦は、話が終わると、田上に向かって言った。

「じゃあ、田上トレーナーの功績も甚大ですね。…カラオケ中でもいいので、少し話しませんか?」

「…まぁ、…あんまり何かを言えるとは思わないですが、聞くだけでもいいというのならそれでいいです」

 田上は渋々頷くと、松浦は今まで座っていた椅子から立ち上がって、田上に歩み寄ると言った。

「じゃあ、連絡先を交換しましょう。日程はどうなっているんです?」

「今週の日曜になっています」

 そう聞くと、松浦は舌先をペロッと出して「ちょっと待ってくださいね…」と言った。それから、自分のスマホを覗き込むと、そのカレンダーアプリで今後の予定を確認し始めた。そして、目的の今週の日曜日を探し当てると「日曜日は……うん。全然問題ないです」と言った。その後に、また田上に聞いた。

「お金はどうします?」

「…あの、…こちらで整理して、また後日に連絡しますが、明日までには連絡するので、現地で渡すなりなんなりをしてくれれば、嬉しいです」

 そこで、田上は不意にある事を思い出して、慌ててこう付け加えた。

「あ、そう言えば、あの、カラオケに来るメンバーについて言うのを忘れていたんですけども、勿論、僕とタキオンだけじゃなくて、僕のチームの…二人、ナツノマテリアルという補佐の方と、えー、ファーストリリックというこれは担当の子が来て、その友達が二人来ます。それに、保健室の先生もです」

「保健室の先生?」

「…縁があって結構仲良くしてるので、今回のカラオケに誘ったんです」

「ふーん、そうですか…。…成程。…オッケーです。いいです。うん。連絡先交換しましょう」

「ああ、はい」

 そう言うと、田上は自分のスマホを取り出して、松浦と連絡先を交換した。そのついでに、松浦はタキオンの方にも向くと、連絡先を交換しようと言い始めた。タキオンは、嫌そうだったが、田上と目を合わせると仕方なく松浦と連絡先を交換してあげた。しかし、タキオンの方からそれを使うという事は、恐らく一生ないだろう。

 そういうわけで、今日のタキオンの仕事は終わった。後は、もう田上のいちゃいちゃするばかりであるが、田上はやっぱりトレーニングの事などをマテリアルと意見交換しないといけなかったため、タキオンの相手を四六時中してやる暇はなかった。それでも、恋人同士が一日にイチャイチャする時間としては、上出来な量ではあった。

 意見交換には、タキオンも時々口を出すようになった。腐ってもアスリートだ。トレーニングで体感する事などの経験論をタキオンは持ち合わせているし、考えて田上に話す事もできる。田上は、熱心にタキオンの話を聞いてくれたから、それが、タキオンの話す要因の一つにもなった。田上に一生懸命話を聞いてもらうと、タキオンも嬉しかった。いちゃいちゃするような甘えの満足感ではなかったが、田上に話を聞いてもらえば得意になれた。

 

 カラオケで唯一問題だったのは、リリックの精神状態だ。到底、怠くて怠くて歌うような気にはなれないが、行くと言ってしまったからには行かなければならない。例え、初めに嘘を吐くつもりがなかったとしても、それを破るようなことがあってはならないのだ。

 リリックは、次のカラオケが憂鬱だったが、行ってみれば案外楽しめそうかもしれないという不確かな経験論もあった。ただ、日が近づくにつれて、リリックは自分の歌が上手いとは言えなかった事を思い出して、それもまた憂鬱になった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。