ケロイド   作:石花漱一

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二十五、カラオケと春①

二十五、カラオケと春

 

 カラオケの前の土曜日になった。今日は、授業は無いが、トレーニングがある。リリックは、タキオンと一緒にトレーニングをそれぞれ受けた。トレーニングの内容は違ったが、二人共今日はジムで筋トレなどを中心にした。リリックの憧れの先輩であるタキオンは、リリックよりレベルの高い物を一生懸命こなしていた。今日の所は、やる気はあるようだったが、どちらかというと、リリックの方がやる気は低かった。――こんな事やっても意味がないんだろうな、という最低の気分で、マテリアルが指示をしてくれるメニューをこなした。どうやら、田上は、自分の事のほとんどをマテリアルに任せるらしかった。勿論、ちゃんと様子を見て、色々口出ししてくれることはあったが、一番は、タキオンだった。

――期待されていないんだろうな。

 最低の気分は、こんなことも考えさせてきた。その度に、最低の気分はさらに最低へと深まっていく。機嫌の悪そうなリリックに、マテリアルはいくつか心配の言葉を投げかけてきた。しかし、リリックは、全くの無表情で「大丈夫です」と返すだけで、取り合おうとはしなかった。マテリアルは、そう返事をされると口を閉じたが、心配そうなのは変わらなかった。――きっと、ここでは話さないだけで、裏では、田上トレーナーに告げ口して、私の様子を話し合うんだ。そう思うと、今度は腹が立ってきた。しかし、リリックの表情は、感情を隠したまま見せようとはしなかった。

 トレーニングは、午前中にする事になっていて、昼前になるとそれも終わった。田上は、皆を一つの所に集めると、順々に今日のトレーニングの感想を聞いていた。まず初めに、マテリアルに「どうだった?」と聞いていた。マテリアルは、少し目を泳がせながら「まぁ、リリーちゃんは、真面目に取り組んでくれていたと思います」と答えた。リリックは、――嘘だ、と心の中で思った。――マテリアルさんが本当に言いたかったことは、私が、機嫌が悪そうだって事なのに。

 次に、田上はその隣に居たタキオンに感想を聞いた。タキオンは、汗を拭きながら「まぁ、この後、君とずっと一緒に居れると想えば、何の事はなかったね」といつものようにだらしなく答えた。そのタキオンを見つめる田上の目も、リリックには嫌だった。まるで、自分の恋人を見つめるような目だ。優しく和らいだ目は、いつもの田上の厳めしそうな印象を変えている。二人が、恋人だという事は知っているが、これにはいつもうんざりだった。何が嫌かと聞かれれば、この二人が恋人だという事実が嫌だ。リリックにとって最悪の二人だ。公衆の面前でキスはするし、駄々はこねるし、いちゃつくことをやめようとはしない。田上がいくらタキオンの事を注意しようと、心の底から言っている事ではないのだ。リリックにはそれがはっきりと分かっている。――結局、…結局、田上トレーナーは、タキオンさんが一番で、それ以外は見ようとはしていない。

 実に絶妙なところではあるのだが、先日、タキオンがリリックに話してくれた、田上は自分の事を気にしている、という話は忘れて、そう思っていた。

 そして、最後にリリックに田上が感想を聞く番が来た。田上が、「リリーさんは、どうだった?」と比較的優しそうな声で聞くと、リリックは、目を左右に一度泳がせてから言った。

「いつも通りでした」

 その言い草に、田上は疑念を持って、一度「本当?」と聞いたが、リリックがまた「いつも通りでした」と念入りするように頷くと、それ以降は聞かなかった。

 それから、何事もなかったかのように他の三人を見回すと、「これから、力を入れ過ぎず、抜き過ぎずやって行こう」という旨の言葉を二言三言述べて解散した。

 タキオンは早速田上の腕に張り付いていたし、田上もそれを止めようとはしなかった。これこそが、リリックにとっては目障りだった。公共の場で男女がいちゃいちゃするのは、法律で禁ずるべきだ、とさえ思った。タキオンは、もうリリックの事を見ようとさえしていない。すっかり、田上に夢中だ。マテリアルも、リリックと話すより田上の傍に居る事の方が楽しいようだった。マテリアルは、まだ話の分かりそうな人ではあるが、田上に懐いているだけリリックの敵だった。――あいつら皆、敵だ。去って行く三人の姿を憎々し気に見つめながら、リリックはそう思った。

 

 置いて行かれたリリックがそう思うのも無理はないが、マテリアルだって、ただ置いて行ったのではなく、田上に話したい事があったから、それがリリックの居る場所では駄目そうなので、田上の後をついて行っただけだった。マテリアルは、後ろをとぼとぼと歩いているリリックが十分に離れたとみると、田上に小声で言った。

「リリーちゃんの事で話があるんです。トレーナー室で報告したいのですが、よろしいですか?」

 この言葉には、田上は大して驚いた反応は見せず、むしろ、やっぱりそうだろうな、という顔をした。その横で話を聞いていたタキオンでさえも、田上と同じような顔をしていた。

 三人は、昼食を取る前にトレーナー室に行ってから話をした。

 まず、マテリアルが言った。

「どうも、リリーちゃんの様子がおかしいみたいですよ」

 すると、タキオンが返した。

「月曜日から、態度は変だったね。その日の朝に、圭一君と私の所にリリー君が来たけど、まぁ、あまり芳しい表情とは言えなかったね。だろう?圭一君」

「ああ…、緊張してるのかな?」

「緊張?」とタキオンが聞き返した。

「ああ、あれだよ。レースに対して緊張してるのかと思ったけど、さすがに、まだ早すぎるよな。……ダンスレッスンが月曜日から始まるから、それで緊張してるのか?」

「ダンスレッスン…。難しい問題だね。…カラオケに緊張しているという説はないかな?」

「カラオケ…?」

「私たちが話を持ち掛けた時、少し悩んでいただろ?つまり、悩むべき要素があって、いよいよ前日になって気が変わったという可能性もあるわけだよ」

「うーん…」と田上は唸った。タキオンの意見は、的を射ているような気がしたが、田上には、的はそれだけではないような気がした。確実に、レースの時に仕掛けようとしない事にも繋がっている。田上には、なんとなくそれが分かった。しかし、あまり表面的な問題ではなかったから、その答えを導き出すのは、少し難しかった。代わりに、こんな事を思いついて言った。

「…リリーさんの模擬レースをゴールデンウィーク前に一度計画してみようか?」

 すぐさま、タキオンが「なぜだい?」と聞いてきたから、田上は答えた。

「なんとなく。でも、レースという舞台に慣れさせるためには、手をこまねいていていもしょうがないから、今思いついたので言った。リリーさんは、とりあえず、走れる段階に入ったと思う」

 すると、マテリアルが口を挟んだ。

「顔は、あんまり走れなさそうですけどね」

「…それが問題だ」と田上が難しい顔をして言った。

「リリーさんが、走れるか走れないか。…本人に模擬レースの事を聞いてみても良いと思うんだけど、本人が走れないと言った場合が困るんだよね。結局は、走らないといけないから、ぶっつけ本番よりかは、慣れておいた方がいい」

「圭一君もリリー君も怖いんだろうね」

 タキオンが急にそう言ってきたので、田上が一瞬タキオンを見たが、また、考えながら言った。

「…なんで、…なんで、あんな顔をしてるのかも分からないね。…不満があるなら…」という田上の言葉を遮って、マテリアルは言った。

「やっぱり、あなた方二人が付き合っているという事がいけないんだと思いますね。リリーちゃんは、まだ溶け込めていませんよ。カラオケだって、勇気を出して言ってみたものの、やっぱり嫌なんですよ」

「じゃあ、私たちが別れればいいのかい?」とタキオンが少しツンとしながら反論した。それに、困ったような顔をしながら、マテリアルは言った。

「別に、別れろとは言っていないんですけど、もう少し節操を持ってほしいんですよ。どこそこでいちゃつかない様な節操を」

「いちゃつくって何だい?」

「あんなに体を寄せ合って歩いていれば、誰がどう見ようと恋人に見えますよ」

「恋人じゃ不味いかい?」

 また、タキオンがツンツンしながら聞くと、マテリアルは「ええ、不味いです」と答えた。

「やっぱり、節操を持った恋人同士であってほしいですよね。トレーニング場で大胆にもキスをするような恋人同士ではなく。生徒とトレーナーとの恋愛なら、その節操を持った恋人であってほしいです。要するに、田上トレーナーがタキオンさんを制御しないといけないという事ですよ」

 マテリアルの矛先が、いつか自分に向くんだろうな、と思いつつ話を聞いていた田上は、予想通りの展開に申し訳なさそうに目を瞑って答えた。

「あー、…いや、…僕も悪いとは思っています」

「圭一君は悪くない。私の好きなようにさせてくれている」

「いや、好きなようじゃ不味いんだよ」

「だって、圭一君もそれが良いんだろう?」

「良くない事はない。でも、良い事もないんだよ。そりゃ、欲だ。お前と一緒に居たいというのは欲だけど、一人の大人としてはそれは抑えるべきだ」

「私は抑えないぞ」

「抑えてくれると助かるんだけど」

「圭一君に私は止められない」

 タキオンがこう言うと、田上は困り切った顔をしてマテリアルの方を見た。マテリアルは、自分が何か発言しなければならないとは思っていなかったので、すっかり油断していたが、田上が目を向けると背筋をピンと伸ばして言った。

「なら、お二人には別れてもらいましょう。愛し合っている男女の仲を裂くのは心苦しいですが、今のように人の気持ちも考えないで、互いの欲を発散させているのでは、こちらも面倒です。私だけなら、まだ我慢はできていますが、リリーちゃんは言葉にできないので駄目ですね」

「それは君の憶測なんじゃないのかい!」

 タキオンが少し大きな声で言ったが、マテリアルは怯みもせずに言い返した。

「じゃあ、タキオンさんがこのチームにリリーちゃんを溶け込めるようにしてください」

「…だって、…だって、その理論で言っても、私たちが別れたとして、リリー君が溶け込めるという事ではないじゃないか!」

 これを言うと、マテリアルは少し言葉に詰まったが、しっかりと反論した。

「…じゃあ、タキオンさんは、リリーちゃんが溶け込めていない要因に自分たちは関係ないというんですね?」

「ああ、向こうが勝手に溶け込めていないだけだろ」

「その要因の一端を担っていないと確実に言い切れますか?」

 それに、タキオンがまた反論しようとしたのだが、田上がそれを遮って言った。

「タキオン、一端を担っていないとは言い切れない。俺だって、目の前でいちゃいちゃされてたら嫌だ。こっちから変えよう」

「じゃ、じゃあ、…じゃあ!私たちは?私たちはどうなるんだい?」

「別れる事はしないけど、マテリアルさんの言う通り、節操は考えたほうが良い。少なくとも、俺は、あの土手でのキスはお前が強引過ぎたと考えてる」

 田上が厳しくそう言うと、タキオンは口を半開きのまま何も言えなくなった。そして、頭の中で状況の整理がついたのか、急に悲しそうな顔をすると、座っていた長机の椅子から田上の方に歩み寄り、田上の椅子の位置を動かすと、自分が座りやすいようにして、タキオンは、田上の正面から彼にもたれかかった。田上は、それを受け入れてあげたが、残念そうにこうも言った。

「こういうのがダメなんだと思うよ。思えば、リリーさんだって、まだ中学一年生だから、親元を離れて相当不安なんだと思う。…ここをリリーさんの安心できる場所の一つにしたっていいんじゃないか?」

「……人には合う合わないがあるから、どうせ、リリー君は私たちの事は好きにはならないよ。元々、あの子がこのチームの雰囲気から離れているんだよ」

「だからって、スカウトしたんだから、こっちには責任がある。トレーナーとして放っておく事はできないんだよ」

「……こんな事なら、あの時、君をもっと強く説得していればよかった…。他の子なんて、スカウトさせなければよかった…。…お金なら出すから、マテリアル君もリリー君も放り出して、私たちだけのチームを作ろう…」

「俺は、お前とお金で繋がっているなんて嫌だよ」

「私はそれでもいいから君が欲しい」

 タキオンは、そう言うと、頭を動かして、そこから一番近い位置にある田上の首の根元にそっとキスをした。田上は、自分の首に柔らかな感触が触れて、思わず身をピクリと動かしたが、冷静に諭すように言った。

「俺はそれでも良くない。お前が俺を買いたいっていうのなら、俺とお前は別れなくちゃならない」

「……別れないで…」

「そう思うのなら、俺を無茶苦茶にしようとするのはやめろ」

「……でも、折角君と一緒になることができたのに…。あんなに苦労して君を説得したのに…」

「じゃあ、お前は自分の私利私欲の為にやっていたのか?」

「…そうじゃないけど、…嫌いにならないで…」

「嫌いになんてならないから。…お前は逆に、結婚がないと安心できないんじゃないか?」

「……ん?」

「お前が前に話してくれたことだよ。確か、俺は、結婚しても安心できないって言われた。でも、お前は結婚しないと安心できないんじゃないか?」

「……君と居れれば安心できる」

「…まぁ、…お前は結婚するとかしないとかじゃないか」

「……君の事が好き」

「…それは、そうなんだろうけど、俺を操り人形にするのは嫌だったんじゃないか?同じことを今しようとしてるんじゃないか?」

「…意地悪な事言わないでくれ…」

「ただ、後悔するのはお前だろ?後悔した挙句、人や物に当たり散らすんだったら、こっちは命がいくつあったって足りない。お前はウマ娘なんだぞ」

「……ウマ娘じゃなかったら良かった…」

「そしたら、もう出会う事はなかったな。それで満足か?」

「…満足なわけがない…」

「じゃあ、ウマ娘で良かっただろ」

「……我儘言うなら……」

「なんだ?」

「……我儘言うなら、君と普通の出会い方をしたかった。都合のいい世界が良かった。…我儘なのはわかってる」

 タキオンはそう言うと、田上に持たれ掛けさせていた体を上げて、そっと田上の唇に自分の唇を重ねた。今まで二人の様子を眺めていたマテリアルは、それを見ると、またか…という表情で目を逸らして、二人に甘い一時を味わわせた。

 田上は、当然の如く、キスをしてくるタキオンを撥ね退けもしないで受け入れたが、その表情は硬いままだった。和らげられるはずもない。タキオンのそのキスは、やはり田上を黙らせようとしてくるものだった。田上は、それに抵抗したかったが、目の前に居るのは自分の恋人だ。下手に撥ね退けて、関係を壊したくもない。田上は、微妙な縁に立たされつつも、このキスが終わったら、タキオンに注意してやろうと考えた。

 しかし、キスは長く、タキオンは絶対にやめようとはしなかった。田上が、説教しようとしている気配を感じているのかもしれない。時々、唇を離したりはするものの、すぐにまた田上を黙らせるようにキスをしてきた。これで、田上は次唇が離れた時に急いで、顔を背けてやろうと考えたのだが、そういう時に限ってタキオンは中々唇を離さなかった。

 そして、もうたくさんだとばかりに、マテリアルが、タキオンの向こう側で大声を出した。

「いつまでキスをするんですか!!タキオンさんだけじゃないですよ!!田上トレーナーもなんで拒もうとしないんですか!!」

 しかし、タキオンは、マテリアルの言葉を無視してキスを続けた。ただ、マテリアルの声がタキオンを緊張させたのか、少し田上を抱き締める力が強くなったような気がした。田上もこの後どうすればいいのか迷った。ここで、無理にでもタキオンを引き剥がそうとすれば、必ず追いすがってくるはずだ。そんなタキオンは見たくない。できれば、このままこうしていたい。だが、マテリアルはもうこんなことは嫌だった。今まで自分が座っていた椅子から立ち上がると、つかつかとタキオンたちの方に歩み寄って、その手に持っているクリップボードをタキオンの側頭部に思いきり叩きつけた。そして、田上の頭頂にこれもまた思いきり叩きつけた。二人は飛び上がって驚いて、タキオンは目に涙を滲ませてマテリアルを睨み、田上も涙が出そうになるほど戸惑いながら、マテリアルとタキオンを交互に見た。マテリアルは、タキオンと田上を思いきり睨みながら、眉を吊り上げて怒っていたが、タキオンが自分を睨んできているのを見ると、「何か文句がありますか!!」と叫んだ。田上はウマ娘同士の喧嘩程怖い物はないと知っていたから、タキオンが急に動き出さないように、その腰に手を添えていたが、それがマテリアルの癪に障ったようだ。唐突に田上の方に矛先を向けて言った。

「なんで、あなたまで私の事無視してキスしてたんですか!!」

 田上は、何かを言おうと口を開いたが、考えがまとまらず、何も口から出てこなかった。そして、マテリアルは、また矛先をタキオンに向けると、大声で言った。

「あなた、この意気地無しが何を話そうとしてたのか理解してますか!!」

 タキオンは何も答えなかった。すると、マテリアルのクリップボードを持っている手が、また、タキオンの顔をひっぱたきそうに、力を込めているのを田上が見たが、その手は決して動こうとはしなかった。代わりに、また田上の方を見ると言った。

「あなたならまだ話は通じますよね?……本当にタキオンさんを止めるつもりがおありですか?」

 田上も何も答えることができずに、ただぽかんとしてマテリアルを見上げているだけだった。しかし、マテリアルは、田上の方には辛抱強く言った。

「あなたが、人としてなっているかとかいないとかは、この際焦点ではありません。あなたが、本当にタキオンさんを止めるつもりがあるか?ということです。リリーさんがチームに馴染めるかどうかでもありません。まず、あんなに人が多くいる場所で、キスとか腕を組んで歩くとか、見苦しいとは思いませんか?」

 そこまで言われると、田上もようやく声が出せるようになった。

「…あ…あ、…俺は、……」

 そこでまたもや唐突に、タキオンが田上の口を自分の唇で塞いできた。とみるや、マテリアルのクリップボードが唸りを上げてタキオンの側頭部に迫り、そのまま、パンと大きな音を立てて、タキオンを叩いた。タキオンは痛みに唸り声をあげたが、田上とのキスをやめようとはしなかった。しかし、今度は田上がタキオンを払いのけた。ウマ娘の力でしがみ付かれているから難しいかとも思えたが、案外簡単にタキオンを自分から離れさせることができた。ただ、タキオンは、田上に拒絶されたことに、少し呆然としていた。

 田上は、タキオンの顔を申し訳なさそうに見て、次いで、マテリアルの顔を見上げ、そして、またタキオンの顔を見ると言った。

「俺の言いたい事が分かるか?」

「……私は、まだ子供だ…」

 タキオンが泣きそうな顔で言った。

「俺は大人だ」

「……大人が子供と付き合っちゃいけないかい?」

「…もう少し、大人だと思ってた…」

「……見る目がなかったね」

 タキオンの目からは、涙がぽろりぽろりと零れ落ちてきた。田上は、それに返す言葉が見つからず、ただタキオンの腰に当てていた手をそっと下ろすだけだった。タキオンは、その手が自分から離れるのを感じると、ゆっくりと田上の上から立ち上がった。田上は、それをわざわざ引き留めようとはしなかった。ただ、マテリアルの方はと言うと、今の状況に戸惑っていた。自分がこんな状況にしたのには間違いないのだが、こんな状況になってほしかったわけではない。ただ、タキオンがもう少し落ち着いてくれたら、と思って、こんなに怒鳴ったわけなのだが、どうにもこれは裏目に出た様だった。二人は、話し合うそぶりもなく、タキオンは立ち上がり、トレーナー室から出て行き、田上は、涙を流しながら、窓の外の景色を見つめていた。

 初めのうち、マテリアルは、戸惑いのあまり動くことができなかったが、はっと自分の意識を取り戻すと、よろよろと部屋から出て行き、タキオンの後を追った。

 

 タキオンは、自分の寮の部屋へと向かっていた。これ以上誰とも顔を突き合わせたくない。同室のデジタルは別だが、それ以外となると、田上やマテリアルでさえ会いたくない。今ここに両親が訪ねてきたって会いたくないだろう。今ここで会いたいのは、自分の愚痴を素直に聞いてくれるデジタルだけだった。

 しかし、タキオンが廊下をスタスタ歩いているうちに、後ろから足音が聞こえた。タキオンには、多分、マテリアルの足音だろう、と予想がついた。自分を追いかけてくるような、少し歩調の速い足音だった。だが、その足音は、タキオンに声をかけられるような十分な距離まで近づいてくると、急速に速度を落として、タキオンと同じ足並みになった。タキオンは、後ろを振り向いて、ついてくる人が誰なのかを知りたいという欲求に駆られたが、もし、ついてくる人がマテリアルだったとして、目を合わせても何を話せばいいのか分からなかったので、タキオンは決して後ろを振り返ろうとはしなかった。

 その足音は、ずっとタキオンの後ろをついてきていたが、結局、タキオンが寮に入っても話しかけてこようとはしなかった。だから、タキオンは寮に入って十分に距離を取れた時に、チラと寮の玄関から外を見てみた。すると、やはり、マテリアルがベンチに座って、ぼーっとしているのが見えた。

 マテリアルは、自分がなぜ、タキオンが寮に帰る前に声をかけられなかったのだろう…と悔いていたのだが、それも暫くすると、考えるのをやめてトレーナー室に戻った。しかし、そこには田上の姿はなかった。また、マテリアルは、やるせない後悔に襲われて、その場に立ち尽くした。そして、ある時、ため息を吐くと、自分がいつも座っているパイプ椅子に腰かけて、もう一度ため息を吐いた。

 それから、机に突っ伏して眠ってしまいたい気分に駆られたが、ここで眠ってしまってはどうしようもないので、息つく暇もなくまた立ち上がると、マテリアルは部屋から出て行った。

 

 マテリアルは、タキオンの部屋を訪ねようか、田上の部屋を訪ねようか迷ったが、タキオンの部屋は訪ねたことがないので分からないし、田上の部屋に行ったところで、男性である田上とどう対話をすればいいのか分からないので、結局、二人を訪ねることは諦めた。その代わりに、マテリアルは、またウマ娘寮の前のベンチに座ると、タキオンにスマホでこうメッセージを送った。

『田上トレーナーが泣いていました。あなた方を別れさせるのは私の本意ではありません。ただ、節操を持ってほしかっただけです』

 それだけ送ったが、返事がすぐに帰ってくるはずもなかった。だから、タキオンの返事を待つ間に、田上の方にもメッセージを送った。

『あなた方を別れさせるのは私の本意ではありません。リリーちゃんだってこんなことは望んでいないはずです。どうか、タキオンさんと話し合っていただけると幸いです』

 それを打ち終わると、マテリアルは、ベンチの上に横になって空を見上げた。青い春の日和が、マテリアルを見下ろしていたが、到底それを楽しめる気持ちにはなれずに、マテリアルは目を閉じた。

 

 マテリアルは、寝ている間に奇妙な夢を見た。人の顔があっちへふらふらこっちへふらふらするような覚束ない夢だったが、ただ一つ、鮮明に記憶できたのは、どこかへ行かなければ!という強い想いだった。

 起き上がると、陽はまだ高く昇っていたが、時計を確認すれば、もう四時になっている事が確認できた。辺りを見渡すと、午後のトレーニングに向かうウマ娘がちらほら見える。慌てて、マテリアルは立ち上がった。すると、急に立ち上がった拍子に眩暈がして、また、ベンチの方に座り直した。ただ、行かなければ!という強い想いがまだ残っていたから、マテリアルはそこにじっとしている事なんてせずに、すぐに立ち上がると、ウマ娘寮の中に入って行った。

 通常、トレーナーであっても女性であれば、ウマ娘寮に入ることは許されている。と言っても、ウマ娘寮の方にこぞって女性のトレーナーが入る事はない。大概は、外の方で連絡を済ませることができる。だから、ウマ娘寮に乗り込んできたマテリアルは、周囲の生徒たちから奇異の目で見つめられた。だが、そんな事を気にしている場合ではない。とにかく、タキオンの部屋を訪ねたいので、そこら辺のウマ娘を捕まえては、「タキオンさんの部屋はどこですか!」と強く聞いた。ただ、GⅠウマ娘であっても、一個人でもあるタキオンの部屋を知っている人はそんなに居らず、六人目くらいに聞いた子が、「私、部屋が近くだから知ってる」と答えた。マテリアルは、すぐに案内してもらうと、タキオンの部屋の戸を叩いた。返事はないが、部屋の中で微かに物音がするような気はする。もう一度、戸を叩いた。今度は、何も聞こえないような気がする。そして、また戸を叩いた。次には、微かに話し声が聞こえた。と思うや否や、戸が半分ほど開いて、そこからピンク色の髪の毛のウマ娘が顔を覗かせた。マテリアルは、その子に覚えがなかったから少し焦った。全然、別の人の部屋の戸を叩いていたのかと思ったが、案内してくれた子が、その子に向かってこう言った。

「この方、アグネスタキオンさんのトレーナーの補佐らしいんですけど、なんか、アグネスさんに会いたがっているらしいです」

「あたしもアグネスですけど…」とピンク髪の少女が答えた。

「タキオンさんの方です」

「あ、了解しました~。少し待っていてください~」

 ピンク髪の少女は、そう言って、一旦とを閉じて部屋の方に引っ込んでいった。そして、三十秒ほどして、デジタルはまた出てきた。

「あの~、タキオンさんは、あんまり人には会いたくないそうで、それに、今大変にお取込み中でして、…あの~、…どうにか心苦しい次第ではありますが…」

「タキオンさんのそれは、言い訳です。私、説得したくてここに来たので、入れてもらえませんか?」

「ですが、本当に今お取込み中でして、…説得は私も試みようとはしたのですが、もう聞きませんでして、本当にお取込み中なんです」

「…何してるんですか?」

「……その~…」とピンク髪の少女は迷ったような声を出しながら、ドアの隙間から自分の手を見せた。その手には、ハサミが握られていて、そのハサミには栗毛が何本か引っ掛かっていた。その途端に、マテリアルにはお取込み中がなんなのか察しがついて、目を丸くした。

「失恋ですか!」

 思わずそう聞くと、ピンク髪の少女は困ったように頷いた。それで、マテリアルは慌てて言った。

「まだ、やり直せるチャンスはありますよ!っていうか、ただの痴話喧嘩ですよ!あんなの!本気になる必要ないじゃないですか!私が悪かったです!タキオンさん!」

 マテリアルは、部屋の向こうのタキオンに呼び掛けたのだが、返事はなかった。代わりに、ピンク髪の少女が申し訳なさそうに愛想笑いをすると、「それじゃあ」と言って、ドアを閉めようとした。しかし、それでマテリアルが引き下がれる訳がなかった。ピンク髪の少女が、閉めようとしたドアの隙間に足を挟み込むと、そこから部屋の方に向かって叫んだ。

「こんなのってないじゃないですか!!なんで、あなた方が別れないといけないんです!!付き合って一か月も経っていませんよ!!」

 返事はない。しかし、ピンク髪の少女が、マテリアルを抑えきれずにいると、部屋の奥からタキオンが「デジタル君、マテリアル君を入れてあげて良いよ」と言う声が聞こえた。デジタルと呼ばれた少女は、それで、マテリアルの方を恐々と見上げながら、マテリアルを中に入れ、扉を閉じた。

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