中に入ったマテリアルは、部屋の奥を見て息を飲んだ。そこには、丸椅子に座ったタキオンが居り、後ろからは窓から入る日光が、タキオンの背中と部屋を照らしていた。薄暗闇にタキオンの無表情が、ぼんやりと見えた。そして、その後ろ髪は、半分がもう既に短く切られていて、半分は、まだ残ったままだった。
部屋に入ってきたマテリアルに、タキオンは目を留めたが、何も触れる事はせずに、デジタルに「続きをやってくれ」と言った。デジタルは、そそくさと歩くと、タキオンの背後に回って、チョキチョキとタキオンの後ろ髪を切り始めた。マテリアルもタキオンには何も言わなかった。もう半分まで切ってしまったのなら手遅れだ。そのまま切り終わるのを待つしかない。タキオンは、ただ無表情に目を瞑りながら、自分の散髪が終わるのを待っていた。マテリアルは、その様子を物音一つ立てず見つめていた。
それから、二十数分ほどした後、唐突に今までハサミの音くらいしかしていなかった室内に、デジタルの「できた!」という達成感の溢れる声が響いた。そう言った後に、マテリアルが居たことを思い出して、また恐々と彼女の方を見つめた。マテリアルは、タキオンの方を見てはいたが、その視界の情報を頭の中で処理はしておらず、焦点も定まってはいなかった。ただ、タキオンの顔をぼんやりと見つめながら、これから、タキオンと田上をどうやって、またくっつけようかと考えていた所だった。二人を別れさせるのが自分の本意でないことは確かだ。自分の近くに付き合っている男女が居るというのは癪に障るが、別れてほしいとまでは思わない。――いや、思うのだろうか?マテリアルの頭に別の考えが浮かんできた。時折、奪ってやろうか、と苛々しながら考えてしまう事が原因だった。――もし、その考えによって、リリーちゃんを盾にして、あんなに怒鳴りつけてしまったとしたら?そう思うと怖かったが、――少なくとも、二人の付き合い方に節操がない、というのが、マテリアルの心情だった。
タキオンは、随分とこざっぱりして、いつもの髪の毛に埋もれているような印象はなくなった。春を迎えた女の子、という印象を受けたが、それにしては表情はあまりに変化が見られなかった。むしろ、悲しげでもあった。デジタルに誘導されて、マテリアルの脇を通り、洗面台の方に向かうと、タキオンは自分の髪型を眺めた。それから、暫く何も言わなかったが、急にデジタルの方を向くと、無表情に言った。
「君の腕ならお金が取れるね。良い感じに整っている。彼も喜ぶかもしれない」
「彼」という言葉に、マテリアルのウマ耳はピクリと反応したが、その時は何も言わなかった。タキオンの後について、洗面台にもいかなかったので、タキオンを訝しそうに見つめることもしなかった。ただ、通路の壁に肩を寄り掛からせたまま、険しい顔を変えずに、また、タキオンが通り過ぎて行くのをじっと見ていた。
タキオンは、髪を切れたことで大分さっぱりしたようだった。少し表情に笑みを浮かべていたが、マテリアルを見ると、それも消えた。もしかしたら、微笑しているというのは、マテリアルの錯覚だったのかもしれない。
タキオンは、マテリアルの顔を見つめると言った。
「何か質問があるかな?」
ここで、マテリアルは、今まで詰めて息をふーっと吐いて、タキオンに言った。
「…まずは、…すみませんでした。いきなりぶったりして」
「…君の憤りも分からない事はない」
「……ただ、私は別れてほしいなんて思っていません。…いや、分かりません。…でも、別れてほしくないんです」
「自分の手を汚したくないからそんな事を言っているんじゃないかい?」
タキオンが、差しこむ陽の光に自分の足を遊ばせながらそう言った。
「……そうかもしれません…が、…なにも、髪を切る事はなかったと思います。田上トレーナーだって、あなたの事は嫌いじゃないはずです」
「…私には分からないね。…彼の思考の詳細までは。…しかし、彼は、私に大人であってほしいと思っているらしい。そして、大人でない人間とは付き合えないと」
「あの人はそんな事は言っていません」
「いや、言っていた。……子供と大人の境目なんて曖昧なものだよ。子供みたいな大人なんて、圭一君の年代で言えば、それなりにたくさんいるだろう。二十代前半なんて、まだ子供みたいなものだ。…ただ、まぁ、私には常識を持ってもらいたかったんだと思うね。無理やりキスしたりしない様な常識を」
タキオンは、そう言うと、自分の机でできる限り息を潜めて、気配を消していたデジタルを自分の隣へと呼び寄せた。そして、唐突にその洋服を脱がせようとし始めた。デジタルは、慌てて、タキオンから跳び退って恐怖の目で彼女を見つめたが、タキオンは、ただ無表情にマテリアルに言った。
「こういうことが平気でできちゃ駄目なんだろう。…いや、ダメじゃないかもしれない。…圭一君は、私の事を大切にするって言ったのに…」
「大切にすることと甘やかすことは違います」
マテリアルはきっぱりと言った。
「……じゃあ、私に常識を持ってほしいんだ…。…私たちの関係そのものが常識外れだというのに…」
「だからって、常識を捨てて良い理由にはなりません」
「私は、常識にとらわれてはいけないとも思うよ」
「…じゃあ、人前で見苦しくあっても良いんですか?」
「私はそれでいい」
「田上トレーナーは?」
「…圭一君は、…嫌だろうね」
「…何がしたいんですか?」
「こちらの台詞だよ…。君たち、圭一君も数に入れよう。リリー君も数に入れよう。…寄ってたかって、私を苛めようとしてないかい?…常識から外れてたらそんなに罪かい?ちょっとくらいあの人とキスしていても、私の罪は重大かい?あの時だって、たかが三十秒四十秒だと思う。…それ以上だって問題ないだろう。それを見苦しいと君たちは言うが、どのくらい見苦しいんだい?裸で歩くのと同じくらい見苦しいかい?」
マテリアルは、何も返せずに、タキオンの顔を見つめ続けた。
「……圭一君だって、本当は私と付き合いたくないんだ。顔にそう書いてある。女子高生となんて付き合いたくないんだよ。なのに、なんで説得してしまったんだろう…」
「………田上トレーナーは、迷っているだけじゃないんですか…?」
「そうだろうね。常識と私に挟まれて動けなくなっている状態だ。一度距離を置いたほうが良いだろう。彼の為を思うならそれをするしかない」
「だから、髪を切ったんですか?」
「…別に。…そんな事もない。ただ、少し髪を切ればさっぱりすると思っただけだよ」
そう言ったタキオンの顔は、窓から差し込む光に少し明るくなっていた。
それから暫く、マテリアルはタキオンたちの部屋に滞在していた。デジタルは、少々目の前の二人に怯えてもいたが、マテリアルがいくつか質問をすると、それにたどたどしくもしっかりと返事をした。会話は、マテリアルとタキオンというよりも、マテリアルとデジタルで行われることの方が多かった。タキオンは終始無表情で、窓の外を眺めていた。マテリアルには、タキオンが田上の事を想って外を見ているのだろうと見当がついた。
デジタルとの会話に一段落が付くと、マテリアルは、タキオンに「こっちを向いてください」と言った。手には、スマホを持って、写真を撮ろうとしていた。タキオンは、すぐにマテリアルが何をしようとしているのか勘付いて、顔を手で覆った。マテリアルが、自分の髪を切った写真を撮って、田上に送ろうとしていると思ったのだ。そして、その予想は当たっていた。マテリアルは、タキオンが顔を覆った後に、パシャリと写真を撮っていて、それがブレて上手く撮れていなかったことを確認すると、彼女は唇を尖らせた。
「もう、タキオンさん動かないでくださいよ。田上トレーナーに写真を送ろうと思ったんですから」
すると、タキオンが手で顔を覆いながら、言った。
「まだダメだよ!」
「何でダメなんです?」
「まだ、圭一君に見せる準備が整っていない」
「え、じゃあ、整えてきてください」
マテリアルがそう言うと、タキオンは、少しだけ手を広げると目だけを出して、マテリアルを怪しそうに見つめた。そして、大丈夫そうだという事を確認すると、タキオンは、鏡を見に洗面台の方にそそくさと歩いて行った。その様子を見た後に、マテリアルとデジタルの目が合ったので、マテリアルがにやっと笑いかけた。デジタルもそれに反応して、少し口元に微笑を浮かべた。
タキオンは戻ってきたが、その様相はあまり変わっていなかった。恐らく、前髪を整えてきたのだろうと思われるが、その変化は微々たるものだった。
マテリアルは、タキオンがベッドに座って、自分の方を見つめてきたので、スマホを掲げるとまたタキオンが顔を塞いで言った。
「ちょっと待ってくれ。これじゃ、証明写真みたいで嫌だ。…もっと、自然な感じで映してくれ」
「自然な感じって何ですか?」
マテリアルが、呆れて笑いながら言った。
「もっと、……私の横顔とか…」
「乙女ですね、思ったより」
「圭一君に悪い顔はあんまり見せたくない」
「でも、横顔だけだと、あんまり分かりませんよ。もっと、どうなったのか詳しく…」
「それだと媚びてるみたいで何だか嫌だ。…私が、外を見ているのを撮ってくれ。一枚だけ。顔はあまり見えなくていい。髪を切ったのさえ分かれば」
「でも、どんな写真を撮りたいか注文を付けてる時点で、媚びようとしてるんじゃないですか?」
「うるさい!とにかく、証明写真みたいに真正面から取るのは嫌だ。…まだ、陽が高いうちに撮ってくれ」
太陽は、もうそろそろ西側に沈もうかな、としている所で、この部屋も随分と薄暗くなっていた。マテリアルは、タキオンの注文通り、外を見ている彼女の横顔を斜め後ろから撮った。薄暗さが、彼女の悲しげな横顔をさらに悲しげにさせていたが、これはこれで感傷的な気分に浸れそうな一枚だったと言えるだろう。タキオンは少し「頬がこけて見えないかい?」と心配していたが、マテリアルが「大丈夫ですよ」と言うと、田上にその写真を送るのを許してくれた。そして、マテリアルは、その写真に加えてメッセージも一つ送った。
『タキオンさんが髪を切ったそうです。褒めてあげてたら、喜ぶと思います』
当然、返事がすぐに来るわけでもないから、マテリアルとデジタルが会話をし、タキオンが田上想いに耽って外を眺めていた。すると、唐突にタキオンのスマホがピロンとなって、その途端にタキオンが素晴らしい反応速度で、自分のスマホを取った。スマホには、田上から『綺麗だった』と一言メッセージが来ていた。タキオンは、その言葉を素直に喜んでも良いのかどうなのか分からなかったが、とりあえず、顔の笑みは抑えきれずに、少しニヤリとした。その顔を見て、ニヤニヤしながらマテリアルが聞いた。
「どうです?田上トレーナーからだったんですか?」
「…そう…」
タキオンが、嬉しさを抑えきれないという表情で、できるだけ声を落ち着けて言った。
「褒められました?…仲直りしました?」
「褒められたよ。女を喜ばすには最上の言葉だね」
「なんです?…綺麗とか?可愛いとか?」
「…言わない」
マテリアルに簡単に言い当てられてしまった事に、ほんの少しだけタキオンはがっかりしてそう言った。それから、不図、タキオンは思いついた事を言った。
「圭一君は泣いていたのかい?」
「え?……ああ、…まぁ、私がトレーナー室を出て行く時には泣いていました」
「……はぁ…、やるせないね……」
タキオンは、一言そう呟くと、また元の悲しげな無表情に戻ってしまった。マテリアルは、ここらが潮時だと思ったので、「それでは、私は帰ります」と唐突に言うと、部屋から出て行った。昼から何も食べていなかった。だから、マテリアルは、そのままカフェテリアの方に向かうと、満腹になるまで色々食べた。
田上も昼から何も食べていなかった。自分の部屋に帰ってからずーっとゲームばかりをしていて、空腹の事などむしろ忘れていた。マテリアルからタキオンの写真が送られてくると、躊躇ってしばらく放置したが、結局は耐え切れずにその写真を見た。タキオンの髪は見事に、綺麗さっぱり整えられていた。多分、器用なデジタル君がやったのだろう、と田野恵右は思ったが、そんな事はどうでも良かった。田上の今の気分とタキオンの写真の顔は、全く同じだった。
そして、マテリアルから褒めろと送られてきても居たので、田上は素直に思った事を適当に送った。タキオンがこのメッセージを見て、喜んでくれるかどうかは分からなかった。今の田上の気分は、喜びという物を忘れさせていたから、タキオンの気持ちでさえ想像できなかったのだ。
その気分のついでに、田上は夕食も抜かすことにした。
唐突な話ではあるが、その夜寝ている時にまたもや『悪意』が動き出した。今度は、田上の所ではない。タキオンの所でもない。リリックの夢の中へと入って行った。
リリックの夢は、ずっと人から責められている夢だった。母親を筆頭に、田上、タキオン、マテリアル、イツモ、オータム、クラスで見知っている人、小学校の頃に友達だった子。皆が皆、揃って「お前なんか居ない方がいい」と叫ぶ。リリックの周りには誰も味方が居ない。父親は、もう幼稚園に通っている頃に離婚していて、その顔も定かではない。誰も居ない。誰も居ない。だから、リリックは、自分の身を守るために、近くの手頃な机の下に隠れた。しかし、田上が見つけてくる。また、その手をかいくぐって逃げたが、今度はタキオンが見つけてくる。もうどうしようない。
そんな所で、悪意は、田上が中学の頃に好きだった青葉の姿をしながら、リリックの夢に颯爽と現れた。指を一つパチンと鳴らして、辺り一面を白い世界にして、蹲って怯えているリリックに向かって言った。
「リリーさん、もう大丈夫だよ」
嫌な響きを持つ猫撫で声だったが、リリックはそれには気付かず、ただ辺り一面の異様に白い風景に戸惑いながら面を上げた。
「夢…?」
リリックはそう言ったが、悪意はこう返した。
「夢じゃない。一種の精神世界のような物だよ。ここは今真っ新な君の精神だ。今ならなんだってできる」
「本当…?」
「本当だよ」
「…あなたは誰ですか?」
「敬語は使わなくていいよ。私は青葉。田上青葉」
「田上?」
「私は、田上圭一、君のトレーナーの精神世界から来たんだ。私は、元々、君のトレーナーの好きな人だったんだよ?」
「好きな人?」
リリックが、喜んで聞けばいいのか、それとも、恋はもううんざりだと思えばいいのか分からない、複雑そうな表情で聞いた。
「そう、私、君のトレーナーが中学の頃に好きだった人。あんまり言ったら駄目だからね。あの人気難しいだろ?」
「そうですね。…でも、苗字が同じなのはたまたま?」
「私が勝手にそうしてるだけ」
「本物の青葉っていう人もちゃんといるんだよね?」
「居るよ。どうしてるのかは知らない。私は圭一の中の願望の私であって、その人自身ではないから」
「…願望…って事は、その…苗字も田上トレーナーの願望なの?」
「お、察しが良いねぇ。その通りだよ。これも圭一の願望」
「自分の好きな人に自分の苗字をつけて楽しんでたの?…タキオンさんはどうなの?」
「タキオンさん?」
悪意は、わざとらしく眉を上げ、首を傾げて聞き返したが、リリックは、それには鈍感だった。
「タキオンさんの事は知らないの?」
「ごめん。私は、圭一の中学の時の私でしかないから、今には疎いんだ」
「そうなの…。田上トレーナーは、今、タキオンさんと付き合ってる」
「へぇ!…でも、それだとおかしいな。私は、過去ではあるけど、今の願望なんだ。圭一に彼女がいるなら、私は少し寂しいけど、…彼女が居ながらも、私の事は忘れられてないって事なんじゃないか?」
「へ~~!田上トレーナーが?」
リリックは大いに関心を寄せて、悪意に聞いた。悪意は、平然と嘘と真実を交錯させ続けた。
「多分、私が予想するに、そうだと思う。…まだ、私の事が好きなんじゃないかな?ただ、もう会う事はできないから、それが未練として残り続けた…。多分そう」
「へ~、田上トレーナーって案外女々しいんだ。……その好きな人が、何しに来たの?ここは?あんまり良く分からないけど、結局何?私は寝てるんだよね?」
「うーんと…、質問を一つに絞ってくれる?」
「じゃあ、…ここって?結局何?このまま起きれないなんて事はないよね?」
「それはない。自然に深い眠りに移行するとき、君も自然と眠るようになる。それが遅いか早いかは、君の心と体次第って事」
「へぇ、…じゃあ、えー、…青葉さんは…」
「青葉って呼んで?でなけりゃ、あおちゃん」
「…あおちゃんは、なんでここに来たの?…っていうか、私、こういうの初めてなんだけど、よくある事なの?」
「うーん、…よくある事ではないけど、たまにある事だよ。田上トレーナーもこういう、…何て言ったらいいのかな、…夢がひょいと別の所に迷い込んだような世界に行くと、真っ先に私を呼び出して、相談をしてくる」
「へー、じゃあ、タキオンさんは二の次って事?」
「二の次でもないだろうね。私にしか相談しないから」
「でも、現実の方だと、タキオンさんもいい相談役になっていそうだと、私は思っているけどね。気持ち悪いけど」
「…へぇ、気持ち悪い?なんで気持ち悪いの?」
悪意にそう聞かれると、リリックは少し躊躇った後に、洗いざらい言った。
「だって、あの二人、本当に場所を選ばないでキスしまくるんだもん!気持ち悪いったらありゃしない。それに、ずっといちゃいちゃしてて、しまいには私のトレーニングはマテリアルさんに押し付ける。職務放棄も良い所だよ!あんなに簡単で楽しい仕事はないんだろうね!恋人といちゃいちゃして務まる仕事なんて、無いほうが良いに決まってる!元々、私もこの学園には来たくなかった!」
リリックは、そこまで言うと、急に言葉を終わらせて黙りこくった。まるで、今自分が言ってしまった言葉に怯えているようだった。悪意は、その様子に心躍らせたが、表面的には心配そうにして聞いた。
「来たくなかったの?」
「……まぁ、走るのは嫌いじゃないけど、レースはそんなに好きじゃない。緊張するから。…お母さんが、ウマ娘だったら走りなさいって言うの。…別に、私も走るのは嫌いじゃないからね。…ただ、言ってしまえば、…ウマ娘だからってレースに勝てるかと言われれば、周りもウマ娘なんだからしょうがないよ。…別に、私もこの学園に来たくなかったのかと聞かれれば、絶対にそうじゃないとも言えないんだけど、…いざ来てみるとね…」
リリックの声は、段々と小さくなっていって、最後の方は聞き取るのが難しかった。しかし、悪意は、その声をしっかりと聞き取ると言った。
「うんうん。分かる。…一人ぼっちなんだよね。圭一も気が利かないだろうしね。そのタキオンとかいう女にかまけて」
「でも、タキオンさんもそんなに悪い人じゃなさそうなんだけどね」
「悪いよ!…圭一も悪いね。私が好きだって事を隠しながら、その女と付き合っているんだから。そんな事を考えながら付き合っているんだから、あんまり上手くいっていないんじゃない?」
「あ、そうかもしれない!タキオンさん、ここの所不調だし!…そうか。タキオンさんが、あんなになったのも田上トレーナーのせいか…」
「一概に圭一を責める事はできないけど、多分そうだろうね。…私も圭一の事が好きなのに…」
「…あおちゃんも田上トレーナーの事が好きだったの?」
「私も好きだった」
「…でも、それって田上トレーナーの願望なんじゃないの?」
「…あ、確かにそうかも…。よく気付いたね。…まぁ、結局の所、私は圭一の願望が作り上げた形の無い存在でしかないんだけどね。全部圭一の妄想だよ。つまり、こんな人は存在しないって事だ」
「……その人が、なんでここに居るの?」
「…ん?どういう事?」
「いまいち、あんまり良く分からないんだよね。こんなの聞いた事もないし、見た事もない」
「まぁ、大人になっても未知の世界はあるからね。未知の世界を受け入れるか受け入れないかは君次第だけど、…ちょっと待ってね。時間はあんまり残されてないみたい」
悪意は、白い世界を見渡して心配そうな顔をしていたが、リリックが同じように見渡してみても、ここに時間という概念が存在するのかすらも怪しかった。
「まぁ、いいや。この世界の作り方を教えてあげる。まず、自分の欲しい物を強く念じる。そして、魔法みたいに指を振るでもいいし、何か鳴らすでもいい。すると、それがここに現れる」
「ええ?」
リリックが、眉をひそめた。
「まぁ、少し実演してみよう。私は、概念そのものだから、この世界に物を生み出すのも簡単にできる。例えば…、ほら」
リリックの前に、柔らかくて高級そうなソファーが一つ現れた。そして、もう一つ悪意が「それ」と言うと、悪意の足元から芝生が段々と広がり、空には青空があり、川のせせらぎの音や鳥の鳴き声が聞こえるようになった。リリックは、今目の前で起こった出来事に目を丸くしながら、「凄い…」と呟いた。
「勿論、リリーさんにもできる。やってみてごらん?」
「私にできるかなぁ…」
リリックは、不安そうに言いながらも、目を瞑って何か欲しい物を念じてみた。一番最初に、田上の顔が出てきたから、リリックは、田上の顔を熱心に思い浮かべた。そして、恐る恐る地面に向けて指を振ってみた。すると、そこに田上が現れて、リリックに言った。
「トレーニングはしたか?」
途端に、リリックは嫌な気持ちになって、「田上トレーナーじゃない方が良かった」と言った。すると、田上はふっと消えてまた元の何もない場所に代わった。
「うん、上手い上手い。圭一もそんな風にして私を作り上げた」
「へ~、…凄いね。じゃあ、これもできるのかな?」
リリックは、また地面に指を振った。すると、今度は小学生くらいの男の子が現れた。
「誰?」と悪意は聞いた。
「私が、小学校の頃に好きだった人。…結局、告白せず仕舞いだったけど、この子も私と同じように中学生になったんだろうなぁ…」
「んん…」
悪意は、リリックの隣でニヤリと笑みを浮かべた。リリックは、それには気付かずに夢中になって、男の子を見ていた。男の子は、「久しぶり!」とリリックに笑いかけると、幾つか話をしていた。リリックもいつしか、それが自分の作り出した幻想であることを忘れて、話す事に夢中になっていた。悪意は、それを遠くから見つめていたが、ある時、ゆっくりと瞬きをすると、指をパチンと鳴らしながらリリックの方に近づいていった。
悪意が、指を鳴らすと、世界はまた真っ白になり、リリックの友達は消えた。
「リリーさん、あんまり夢に耽るのは良くないね」
戸惑いながらキョロキョロ辺りを見渡しているリリックの背中に、悪意はそう言った。リリックは、悪意が後ろから近づいてきているのを見つけると、がっかりした顔をして「夢だったか…」と独り言を言った。
「あんまり夢に耽るのも良くないけど、ここは、悩みを晴らす場所でもあるからね。不安になったらいつもでもここにおいで。気晴らしの仕方を教えてあげよう」
「…分かった」
リリックは、不思議と眠くなり始めていた。もう瞼を上げているのもつらい。しかし、起きよう起きようとしているうちに、悪意がリリックに膝枕をして、子守歌をし始めた。リリックは、いよいよ眠りに落ちようとしていたが、眠る時の歌声は、田上のように低く心地の良い男性の歌声だった。
目を覚ますと、リリックは朝を迎えていた。眠った時の出来事が本当に夢でなかったのかは分からなかったが、あんな感覚は今まで味わった事がないし、夢にしては鮮明に思い出すことができた。特に、小学校の頃に好きだったあの人と再会できたのはリリックにとって喜ばしい事だった。そして、唐突に今日がカラオケの日だという事を思い出すと、リリックの気持ちは沈んだ。しかし、すぐにまた浮上した。それくらいに、好きだった人と会えたのはリリックにとって喜ばしい事だったので、カラオケくらいでは気持ちを下げる事はできなさそうだった。
とは言え、リリックの気分の浮き沈みは、その時々で、カラオケに恐怖を抱いて表情が固まる時もあれば、次には、好きな人に会えた事を思い出して喜ぶときもあった。友達は、リリックの気分にはあんまり頓着が無いようだったが、今日は、少しニコニコしている時があるな、と感じることができた。
リリックとオータムとイツモは、カフェテリアで朝食を取った。カラオケは、昼からではあったが、三人は今日は一緒に行動した。最近は、リリックが逸れ気味だったが、今日は一緒だった。ただ、三人がトレーニング場の所の土手でのんびりとしていると、クラスのリリックがあまり話した事の無い人がやって来たので、その時は、リリックも他の人たちから距離を置いた。
そして、昼頃になると、また三人で昼食をとって、約束の時間に校門の前に向かった。
田上とタキオンに話を戻すと、目覚ましをかけ忘れていた田上は、普通にタキオンのモーニングコールによって起こされた。田上も昨日の出来事など忘れて、思わず普通に電話に出てしまった。そして、タキオンの声を聞いた後に、――しまった、と思った。タキオンの声は、いつもよりも悲しげだった。
「おはよう…」
本当になぜ電話をかけてきたのか分からないくらい悲しげだったが、電話に出たからには田上も「おはよう…」と同じように悲しげに答えた。それから、少し沈黙が続いたが、タキオンが口を開いた。
「私、あんまり君に触れないようにする…。…でも、付き合っている事にはしてくれないか?」
田上は、喉の奥から絞り出すような声で、「いいよ」と答えた。
「……それは良かった。……じゃあね」
普段であれば、もう少し長く話してから電話を切っていたタキオンだったが、今日は違ったようだ。ほんの少し話しただけだったのに、もう電話を切ってしまった。田上は、ベッドの上に寝転がりながら、寝ぼけているからなのか、暫く自分の耳にスマホを当てていた。
あんまりいい気分ではなかったので、田上はノロノロと朝の支度をした。どうせ、タキオンも田上と朝食を食べたいとは思わないだろうし…、という思いもあった。しかし、田上がシャツを半端に着たままベッドの上で寝転がっていると、唐突に部屋の扉がコンコンと鳴った。田上は、まさかと思って扉を開けてみると、そこには、実物の髪を切ったタキオンが居た。田上は一瞬ドキリと心臓を高鳴らせたが、あまり陰気そうな声色は変えないで言った。
「ああ…、朝食食べるの?」
「ああ、…君さえよければ」
「いいよ…。…中入る?」
「…いや、…いい。私はここで待たせてもらう」
「ああ、そう…」
そう言いながらも、田上は扉を閉めずにタキオンの顔を見つめていた。なんだか、話が頭に入ってこないふわふわとした心地だったが、タキオンがまた田上を問うように見つめると、田上は「すぐに準備する」と覇気のない声で言って、急いで扉を閉めた。
田上は、部屋に一人残った後も、タキオンが、自分の部屋に入るのを断ったのが信じられずに、暫くぼーっとしていた。まだ、ふわふわしている心地も消えていないが、その後に、不意にタキオンが髪を切った姿を思い出すと、慌てて着替え始めた。