ケロイド   作:石花漱一

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二十五、カラオケと春③

 田上が部屋から急ぎ気味で出てくると、タキオンは、ぼーっとしながら自分の足元を見つめていた。それに、田上が「行こうか」と言って、タキオンに手を繋ごうと自分の手を差し出したのだが、タキオンはそれをしかと認めたのにも関わらず、ただ田上の横に立って「行こう」と言っただけだった。田上は、少し残念に思ったが、手を下ろすとタキオンの隣を少し考え事をしながら歩いた。

 少し話す事もしたが、二人の距離はあまり縮まらなかった。手を繋ぐことがないと体の距離もあまり縮まらず、その二人の様子を、共有スペースのソファーに座っていた田中が、珍しそうに見送っていた。

 二人は、食堂に行ってもいつものように隣同士には座らなかったし、修さんから料理を受け取る時も、修さんの恋のアドバイスを二人で軽く受け流して、自分たちの席に行くだけだった。

 正面に座ると、二人はお互いの顔を見ずに、黙々と朝食を食べていたが、田上が不図顔を上げると、タキオンと目が合って、思わず笑みが零れた。二人ともそうだった。それで、二人はふふふと静かに笑った後、タキオンがお淑やかに口を開いた。

「…少し、……何て言えばいいのかな…。…君が恋人で良かった」

 田上は、何も答えなかったが、微かに口角を上げることで返事ができたと、少なくとも田上は思った。タキオンが、どうだったのかは知らないが、彼女も少し口角を上げると言った。

「……さっきは、手を繋がなくてごめんね」

「…いいよ」

「…ただ、…あの時は、手を繋いでしまうと、また君に甘えだしちゃうような気がして…」

「…甘えても…」と田上が言いかけると、タキオンがそれを遮った。

「良くないよ。…私を誘惑しないでくれ。…今日も、別に君の隣に座りたくないわけじゃなかった。…でも、本当に、座ってしまうと危ないんだ。…今、君と離れる訓練をしている所なんだよ」

 その訓練が、田上は自分と別れるための訓練だと思ってしまったので、思わず顔を曇らせてしまった。すると、――君の考えはお見通しだ、という風にタキオンが微笑して言った。

「別れるんじゃないよ?君と離れる訓練だよ。…私は今、自制をしてるのさ。…君に迷惑を掛けちゃいけないから」

「別に迷惑じゃ…」

「迷惑だろ?実際に、君は昨日私に、――もう少し大人だと思ってた、と言ったじゃないか。…別に言い争うつもりじゃないから、ムキにはならないでほしい。…そう言えば、まだ、直接圭一君の口から聞いてなかったんだけど、……どうだい?…その、…私の髪。写真で見るのと、実際に見るのとでは違うかもしれないけど、デジタル君が切ってくれたんだ」

 タキオンは、少しはにかみながらも、顔を右に向けて、田上に後ろの方の髪も見えやすいようにした。田上は、初め、その言葉を飲み込むことができておらず、ぼーっとしていたが、朝食の魚と一緒にその言葉を飲み込むと、慌てて言った。

「ああ、…綺麗。いや、可愛い。…どっちだろう…?」

 田上が、表現に迷っているのを見て、タキオンが微笑しながら言った。

「まぁ、肯定的なのかな?デジタル君、私の無茶振りだったけど、ちゃんと整えて切ってくれたよ」

 タキオンはそう言いながら、首を左右に振り、もっと田上に見えやすいようにした。

「前髪は切らなかったんだね…」

 田上は、それを言ってもいいものなのかどうか、迷いながらも言った。

「ああ、…その方が圭一君に受けるかな、と思って、デジタル君にはあんまり切らないでくれるように頼んでおいた。でも、調整はして貰ったから、大分、さっぱりしただろ?」

 そう聞くと、田上はまた言っても良いか迷う質問を思いついたが、今度は、少し自分の非を認めるような質問だったので、口に出すのを躊躇った。すると、また、タキオンが田上の心を読むがごとく言った。

「君にあんなことを言われたのがショックで髪を切ったんじゃないよ?…いや、ショックなのは間違いがないし、あれが少なからず影響したのは認めるけど、…それに、少しやけくそだったのも…。だけど、…まぁ、何て言ったらいいんだろうね?…髪を切り終わった時には、むしゃくしゃした気分よりかは、君がこれを見たらどう思うのかな?って気分の方が強かった。君は、私が相当へんてこりんな髪型にならない限りは、褒めてくれるのは知っていたけど、…まぁ、前に起こった事が起こった事だから、もしかしたら、口を噤んで褒めてくれないかもしれないとも考えた。…結局、君は催促しないと褒めてくれなかったけど」

「ごめん」と田上は思わず謝ったが、タキオンは口元に微笑を浮かべたまま言った。

「精進が足りないよ。女の子が髪を切ったら、一番初めに可愛いって褒めてあげなきゃいけないのに。…でも、催促して褒めてくれたんだから、及第点としよう」

 そのとき、机に置かれていたタキオンの左手が、少し動いて田上の方に伸びてこようとしていたのを、田上は見た。そして、途中ですっと引いて、そのまま、机の下まで隠れてしまったのも見た。それを見た後に、田上は、タキオンの方を見たが、タキオンは田上の事を見つめ返すだけだった。

 

 二人はまた黙ったまま朝食をとったが、食べ終わると、次にどこに行くか話し合った。田上は、一度「俺の部屋に…」と言いかけたが、最後まで言うのはやめた。どうにも、そういう雰囲気ではなさそうだった。だから、代わりに「あのベンチに行くか?」と言うと、タキオンの手にそっと触れて、手を繋がない事を思い出して、そっと離れた。

 あのベンチに行ったとしても、二人の距離が、そんなに近くになるわけではない。むしろ、いつもくっつきながらベンチに座っていた分だけ、くっついていない今日のベンチは、タキオンとの距離が途方もなく遠いように感じられた。二人は、そこで幾らか話しはしたが、あんまり会話が弾むことはなく、大部分を景色を見る事に費やした。と言っても、いつもタキオンと見ていた景色は、それほど変わることもなく、単調でつまらなかった。だから、田上は一度、ベンチに置かれているタキオンの手に、そっと自分の手を重ねたのだが、それが触ったか触ってないかのうちに、タキオンの手がぱっと田上の手を避けた。田上は、少し残念そうな面持ちでタキオンを見つめたが、彼女は、嬉しさを我慢した顔でこう言った。

「誘惑しないでくれ!本当に大変なんだ!君から迫られたら、私には断る術がない!」

 田上は、そう言われると、タキオンと近づくのは諦めて、実に退屈な午前中を過ごした。

 

 二人は、食堂で食事をとり、その間にマテリアルと松浦とも合流した。松浦は、この後のカラオケを大変に楽しみにしているようで、ニコニコしながら四人で昼食をとっていた。松浦が楽しみにしているのは、カラオケだけではなく、田上と話せるのも楽しみにしていて、むしろ、カラオケよりはこちらの方が楽しみなように田上には話してて感じられたが、田上はと言うと、あんまり楽しみではなかった。結局、自分の粗探しをされるだけではないだろうか、松浦との格差をみせつけられるだけではないだろうか、と考えていたが、その考えを察したタキオンが、松浦がマテリアルと会話を弾ませている間に、小声で言った。

「君は、…私が好きな人だから、…松浦トレーナーよりも断然できるいい男だと思うよ」

 タキオンが少し肩を寄せながらそう言うと、田上は照れくささに思わずニヤリと笑みを浮かべた。返事はしなかったが、タキオンにはそれでよかったようで、彼女も同じように田上に笑みを返した。

 それから、昼食が終わると、四人は校門の方に向かった。校門には、もうすでにリリックたちが立って待っていたが、カフェと赤坂先生はまだ来ていなかった。その二人を待つ間に、中等部組の三人と松浦は挨拶を済ませた。三人は、人の好さそうな松浦に結構安心して、すぐに打ち解けた様だった。松浦も話し上手聞き上手なので、中等部の話にも上手く立ち回って、色々と三人を喜ばして会話をすることができた様だった。

 その後に、カフェが遠くからゆっくりと来た。タキオンは、カフェが遠くに見えると、嬉々としてその姿を見つめていたが、手を振って呼んだりするようなことはしなかった。ただ、カフェがもっと近づいてくると、タキオンは隣に居る田上に声をかけ、カフェがもう来そうだという事を示した。

 カフェは、もう話せるような位置まで来ると、タキオンを怪訝な顔で見つめたが、何も言おうとはしなかった。だから、わざわざタキオンの方から言った。

「やあ、カフェ。何か変わったことがあるんじゃないかい?」

「……私にはありません…」

「違うよ。私の方だよ。何処か大きく変わったところがあるんじゃないか?」

「……なぜ、そんなに髪を切ったんです?」

「んん、まぁ、この人と少し言い合いをしたのさ。彼が、もっと大人っぽい方が好みだったなんて言うから」

 「この人」と言いながら、タキオンは田上の事を指していた。田上は、タキオンの話が事実と相違するという事に気が付いていたが、敢えて正すという事もしなかった。正したって、もっと話がややこしくなりそうなだけだったからだ。

 カフェは、「大人っぽい?」と呟きながら、タキオンの顔を見つめていたが、暫くすると田上の方に目を移した。田上は、頷きも首を横に振りもしないで、ただカフェの顔を見つめていた。金色の瞳が、日光を反射して、「本当の事ですか?」と聞いてきていたが、わざわざ答えることはしたくなかった。だが、またタキオンが口を開いた。

「失恋じゃないからね。むしろ、これは圭一君の好みだった。大人っぽいだなんて言いながらも、別に髪を切っても良かったようだよ」

「……何で言い争いをしたんですか?」

 カフェが低い声でそう聞くと、タキオンは一瞬固まって、それから、田上の方をチラリと見た。「何て答えようか?」と田上に聞いてきているようだったが、田上も何て返す事はできない。黙ったまま、タキオンを見つめ返していると、彼女は口を開いた。

「あー、それはだね…。圭一君の好みで喧嘩したんだよ」

「もう仲直りしたんですか?」

「そりゃあ、…圭一君だって私だって、お互いの事が嫌いじゃないのに仲違いをする理由がない」

「そうですか…。あんまり、カラオケ中にいちゃつかないでくださいね。あそこは、あなたたち二人の場所ではないので」

「それは…!いちゃつかないさ。いちゃつく事はない」

「本当ですか…?」

 カフェが、怪しみながら聞いた。

「本当だ。断言しよう。彼から私に何かしない限り、私は彼には触れないと決めてる」

「…なぜ?」

「なぜ?…私が、これと決めたことに対して、なぜと聞く必要があるかい?」

「…いいえ。…ただ、先程の喧嘩と繋がりがあるように思って…。あまりにも急な事ですから…」

「あー、……勘はいい。しかし、勘が良いだけだね。私たちの事に君が顔を突っ込むべきじゃない」

「元はと言えば、あなたから言ってきたんじゃないですか…」とカフェは、小声で文句を垂れながら、集まっている他の人たちを見回した。松浦とカフェの目が合うと、彼の方が、片手を上げて挨拶をし、カフェは、少し頭を下げてそれに返した。そして、カフェがここに居る全ての人を見ると、首を傾げながら、タキオンと田上に「これで全部ですか?」と聞いた。

「いや、あと…、赤坂君が来てないけど…、あ、来たね。あっちの方に見えるよ」

 そう言って、タキオンは校門付近から見える三女神像の噴水の億の方を指差した。そこには、いつもの白衣の赤坂先生ではなく、しっかりとお洒落をした赤坂先生がいた。田上は、その姿を見るのが初めてだったので、近づいてくる赤坂先生をまじまじと見つめながら、――赤坂先生もお洒落をするんだなぁ、と思った。その田上を見て、何を勘違いしたのか、タキオンが彼の脇腹を小突いて言った。

「君には彼女が居るんだよ」

 唐突に言われた言葉だったので、田上は初め理解できずにタキオンの方を見つめていたが、次に、あっと理解すると田上にコクコクと頷いてみせ、赤坂先生を見つめるのはやめた。

 

 中等部三人、高等部二人、大人四人、計九人が集まると、田上は、皆をそれぞれまとめて、カラオケまで連れて行くことにした。皆にも一応場所などは連絡したが、結局、詳しく分かるのは田上なので、田上とタキオンとカフェが先頭、その後に、松浦とマテリアルと赤坂、そして、イツモ・オータム・リリックの順番で、道を歩いて、カラオケまで目指した。カフェが田上と同じ列を歩いていた理由は、成り行きに任せていたからだったのと、松浦とそれ程喋ることもなく、また、松浦が女性二人と楽しく会話していたからだった。松浦は、別にカフェの想い人ではないので、タキオンのようにトレーナーが他の女性と喋っているだけで嫉妬する事はなかった。それなりに、距離を保ってトレーナーと担当をやっているのだ。

 ただ、カフェが、先頭に来たところでそれ程する事もない。初めは、タキオンが話しかけてきたから、その話に付き合って先頭にいたが、今はもうタキオンは田上と話すか、黙るかの二択になっていそうだったので、本当にあまりする事はなかった。一度、リリックとカフェが似ているという話題が上がった。松浦が、先頭にいるカフェを引っ張ってきて、最後尾のリリックとカフェを見比べた。金色の瞳と長い黒髪が似ていたが、それ以外は、あんまり似ていなかった。表情の取り方も、リリックの方が明るかった。それで、松浦が飽きるまでカフェとリリックを見比べた後、カフェを解放すると、カフェはどこへ行く当てもなかったので、また、先頭のタキオンの隣に戻った。タキオンの隣と言っても、その距離は、田上とタキオン程近くはなかった。今少し離れようとしている田上とタキオンの心の距離よりも、カフェとタキオンの心の距離の方が遠いのは当然だった。

 タキオンは、カフェが松浦から解放されて戻ってくると言った。

「君とリリー君はあんまり似てなかったね」

「…ええ、…あの程度で似ていると言われると…」

「まぁ、君の特徴的な黄色、または、金色の目は、大分似ていた」

「だからって、私ではありません」

 カフェは少し怒っているようだった。

「まぁ、君じゃないさ。誰も、リリー君の事を君だと思って話してはないだろう?」

「…面倒でしたね」

「…そうだね」

 そう言うと、タキオンは特に話す事がなかったのか、カフェから目を離して、田上の方を向いた。それから、つい、いつもの癖で田上と手を繋ごうとしたのだが、田上に触れないという事を思い出して、慌てて手を引っ込めた。

 カフェは、その素振りを見ながらも先程見たリリックについて思い返していた。カフェには、他には見えないものが見える。幽霊や思念体などだ。鮮明に見えるものもあれば、朧げにしか見えないものもある。今回は、朧げな物だった。リリックの手や足に黒い靄のような物が纏わりついているのが見えた。今までは、特に目をつけていなかったので気が付かなかったが、確かに、あの子の手や足の周りには靄があった。ただ、鮮明でないので、カフェには何なのか分からなかった。物には必ず形がある。あの靄にも確かな形があるはずだった。だから、カフェは、周りをふよふよと浮いている自分にしか見えない思念体?、もしくは幽霊であるトゥルースにこっそりと声をかけた。

「トゥルース…」

「なに?」とカフェと似た黒髪のトゥルースは答えた。

「あの、私と似ているって言われているあの子、……あの子の手足に何か見えませんでしたか?」

「手足?」

 そう言うと、トゥルースは、空中をふわふわ浮いて最後尾にいるリリックの所まで行った。リリックは当然気が付いてはおらず、トゥルースが目の前を塞いでいようと何の関心もなしに、友達の話に耳を傾けていた。カフェは、トゥルースを途中まで目で追ったが、見えない何かを見ている事で質問されても面倒なだけなので、トゥルースが視界の端から消えれば、それ以上追うのはやめて、持ってくる答えを待つだけだった。

 トゥルースは、いろんな角度からリリックの手足を観察した後、特に足の方を観察し、カフェの方に戻ってきた。そして、また暫くふよふよ浮きながら、寝転がって空を向いて何か考え事をしていた。その様をカフェはじっと見つめていたが、何かを問いただすという事はせずに、トゥルースが話し出すのを待った。彼女は、他人に聞かれるよりも自分から話しだす方が、話しやすい人だった。

「……多分、女性の手だったと思う」とトゥルースはゆっくりと言った。

「女性の手?」

「そう…。女性の手が、いくつもいくつも付いていて、追いすがるみたいについてくるのもあった」

「危険そうですか?」

「…あんまり危険そうでもないけどね。しかも、今は大分朧げだよ」

「……タイミングがあるんでしょうか?」

「あるかもね。濃くなるタイミングが。…でも、…どうだろう?人には往々にしてそういう事があるからね」

 そう言いながら、トゥルースは、松浦とマテリアルと赤坂を順々に見やり、次いで目を移すと、田上とその隣のタキオンが、少し嬉しそうに話しているのを見た。

「あの二人、どうにかならないのかね?」

「どの二人です?」

「…あの二人、タキオンさんとトレーナー君だよ。どうにももどかしいね」

「私たちがあんまり口を出すと、仇になりますよ…」

「いや、ちょっとした拍子にくっつけてみたい」

 トゥルースは、そう言うと、またふわふわとタキオンたちの方に流れていくと、タイミングを見計らって、タキオンの足をエイと小突いた。カフェは、その様子を見ながら苦笑して、目を逸らした。

 足を強めに小突かれたタキオンは途端にフラッと体勢を崩して、田上の方によろめいた。そして、彼の肩に抱き着くようにして、自分の体を支えた。田上も自分の手を添えて、驚きつつもタキオンの体を支えようとしたが、よろめいただけなので、すぐにタキオンは田上の体に触ってしまっている事に気が付いて、ぱっと離れた。田上は、少し目を落として残念そうな顔をしたが、タキオンは思いがけず田上に触れられた嬉しさと躓いてしまった恥ずかしさによって、変ににやけた顔になっていた。トゥルースは、それを大爆笑して見ていた。タキオンは、当然その声が聞こえていないので、ただ田上に「ごめん」と謝っていた。田上は、「いいよ」と答え、二人の間には微妙な沈黙が流れた。それを見ると、また、トゥルースは大爆笑し、カフェの目の高さ辺りに戻ると言った。

「あいつら最高だな。マンガみたいなことしてるぜ」

「…趣味が悪いですね…」

 カフェがそう言いながら、タキオンを見やると、タキオンは怪訝な顔をしてカフェを見ていた。そして、頻りに自分の足元を確認したので、もしかしたら、タキオンは自分の足を引っかけたのがなんだったのか勘付いたのかもしれない。それを問いただされても面倒なので、カフェは視線を別の方向にやり、それから、カラオケに着くまでトゥルースともタキオンとも話さなかった。

 

 カラオケ店に着くと、リリックの気分は悪いと言えばいいのか、良いと言えばいいのか分からない心地になった。しかし、興奮している事には間違いなくて、田上が店員と話をしている時に友達から自分に話を振られると、リリックは落ち着かない早口でそれに答えた。そして、イツモから「早口になってるよ」と少し笑われてから、自分の興奮に気が付いた。その後に、深呼吸を一二度してみたが、果たして、興奮が収まったかどうかは分からなかった。

 一行は、店員に部屋の番号を伝えられると、田上の後について、そのままぞろぞろと建物の二階の方に向かった。ちなみに、今日の分のお金は、もう田上が全員から回収していた。

 皆で歩きながら話している時は、赤坂先生は松浦とマテリアルと三人で話していたが、部屋に向かっている途中で立ち位置を変更して、タキオンと田上の間に「よう」と割って入った。タキオンは、先程田上が赤坂先生に見惚れていたと勘違いしたままだったので、少々不愉快そうだった。

「タキオン髪切ったの?」

「んん?…まぁね」

「春だからねー。いい天気だよ。私ももうそろそろ髪の毛切ろうかな。…どう?田上は、髪切ったタキオンはどんな感じ?彼氏として。可愛い?」

「まぁ、…可愛くない事はないよ」

 田上はいつもの通り、明言を避けたが、タキオンには十分に自分を褒めてくれているのだと分かっているので、赤坂先生の隣でニヤリと笑った。すると、その顔を丁度見ていた赤坂先生が、こちらもニヤリと笑って言った。

「お、嬉しいねぇ、タキオン。乙女だねぇ。研究研究と言ってた頃が懐かしいよ。私の所にも全然来ないし、もう田上に夢中なんだろうね?」

「…君には関係ないだろ」

「お!恋人ができたら私は用済み!?…いや、まさか、タキオンちゃんは、私が間に割り込んだのが悔しくて堪らないのか?」

「…邪魔だね」

「おお、それはごめん。折角のデートだからね」

 そう赤坂先生が言うと、タキオンはムッと顔しかめて「デートじゃない」と呟くように言った。その声は脅すような響きを含んでいたが、赤坂先生はそれには全然構わず、タキオンと場所を交代して、タキオンの隣を田上にしてあげると言った。

「いやー、こうして見ると、二人は…お似合い?…いや、何とも言い難いね。奇妙?…面白いかもしれない。面白いけど、お前らが二人揃って幸せだったならいいねぇ」

 そして、赤坂先生は、唐突に矛先を変え、田上の向こうの方で狭そうに壁際を歩いているカフェに声をかけた。

「カフェさん、まだ挨拶をしてなかったね。こんにちは」

 カフェは、軽く頭を下げた。

「カフェさんは、保健室にあんまり来ないから知らないかもしれないけど、いつも保健室に居る赤坂香織です。たまには、遊びに来てね。暇ならいつでも来ていいから」

 カフェは、また、頭を下げるだけで何も言葉を発しなかった。それで、赤坂先生は、カフェがあまり話すタイプでないと勘付いたらしく、にこりと笑うと、田上の方に話しかけた。

「カフェさんとは、松浦さん経由で知り合ったの?」

「…いや、…タキオンが中学の時からあの部屋を使ってたよね?」

 田上はタキオンに問いかけたが、その前に赤坂が「あの部屋?」と口を挟んだ。

「あの、タキオンの研究室です」

 そう言ったところで、田上が自分たちのカラオケする部屋を見つけたので、話は一旦中の方に持ち越された。

 

 中に入ると、一同は座る順番で悩んだが、田上がまず初めにコの字になっている長い座席の右角に座ると、その隣に赤坂先生が座ろうとしてタキオンが怒った。「冗談だよ」と赤坂先生が、少々本気で怒っているタキオンに笑いかけながら、その一つ横にずれた。そこで、コの字の縦の線の方は埋まってしまったので、次に入ってきた松浦とマテリアルとカフェは、中央にあるテーブルを迂回して、順々に田上の隣の方に座って行き、コの字の上の線の方が埋まった。カラオケの入り口は、コの字の右下の方からだったので、最後にリリックとイツモとオータムがコの字の下の線の座席に座ると、全員が収まるようになった。中等部の三人は早速歌ってやろうと、部屋に備え付けてあるタブレットをいじくって、自分たちの好きな歌を探したが、大人たちの方はまだ少し話をしていた。

「で、研究室?タキオンの?」と赤坂先生が話を続けるために、タキオンをまたいで田上に話しかけてきた。

「ああ、タキオンの隣のカーテンで仕切られてる所」

 そこで、田上はカフェの方をチラリと見た。カフェは、自分の話が行われている事に気が付いてはいたが、話に入ってきたそうな雰囲気ではなかったので、田上は話しを続けた。

「あの、カーテンの奥の所が、カフェさんの部屋です」

「へー、あんまり行った事がなかったんだけど、確かに、あそこはカーテンで遮られてる。…じゃあ、って言うか、そうだ。私とタキオンもそうだし、タキオンとカフェさんもそうだけど、タキオンが中等部の頃から知り合ってんだから、田上より付き合ってる年月が長いわけだ。ああ…、あんなに小さくて可愛かったタキオンが、今やトレーナーと付き合うような年になるなんてなぁ…」

 変に感傷に浸っている赤坂先生に、タキオンが苦笑しながら「何様のつもりだい?」と言うと、横から松浦が口を挟んできた。

「え、すいませんすいません。本当に僕の聞き間違いで、誤解だったんなら許してほしいんですけど、アグネスさんと田上さんが付き合ってるって本当ですか?噂は聞いた事があるんですけど」

 田上は一瞬迷ったようにタキオンを見たが、彼女とは目が合わなかったので、田上が答えた。

「付き合ってます。だけど、あんまり広めないでほしいです。あんまり世間的には褒められたものじゃないので」

 松浦は物分かりの良い人なので、うんうんと頷くと怪訝そうな顔をして小声で言った。

「え、知っている人は?」

「それは、この部屋に居る人とか、まぁ、身内などですね。噂になってるから、もうしょうがないとは思いますが」

「へ~、そんな事があるんですね」

 松浦が感心したように言うと、直後に曲が始まった。中等部の子が、もう曲を一つ入れた様だった。手始めに皆の聞き馴染みのあるやつからいったらしい。有名アニメのオープニング曲だった。田上もサビであれば、リズムくらいは思い出せるが、それ以外は分からなかった。だから、下の階にあるドリンクバーから飲み物を取ってこようよ思うと、タキオンと赤坂先生と松浦も立って、皆の飲み物を取ってこようという話になった。間奏の合間に、歌っているイツモとリリックから欲しい飲み物を聞いてくると、四人は廊下の方に出た。

 

 赤坂と松浦が、田上とタキオンの前を歩いていた。前の二人の話は結構盛り上がっていたので、田上とタキオンは、少し離れて歩き、自分たちの世界を楽しんだ。タキオンは、少し緊張した面持ちで、田上と手を繋ぎ、肩を寄せた。そして、もう少し近くに寄ると、田上の肩に頬擦りをし始めた。田上もこうしてタキオンと居れることが嬉しくて、思わず顔に笑みが零れてしまった。前の二人とは、距離がどんどん離れていったし、田上たちも追いつこうとは思わなかったので、ノロノロと歩いていた。できるだけ、この時間が長く続けばいいと思った。

 しかし、不意に自分たちの後ろの廊下でばたんと扉の開く音がすると、タキオンは慌てて田上から離れた。そして、後ろを確認すると、「なんだ…」と呟いた。だが、その後は、田上には触れてこようとしなかった。田上は、今、タキオンを抱き締めてキスをしてしまいたい衝動に駆られたが、必死で抑えて、でも、少し隣のタキオンをチラリと見た。タキオンは、残念そうに目を伏せながら、手で首を触り、田上の隣を歩いていた。そして、田上が自分を見てきているのに気が付くと、彼の方に目をやった。少しの間、二人は、なにかお互いが仕掛けてきてほしいと望みながら、見つめ合っていた。しかし、何もなさそうだと分かると、タキオンが小さな声で言った。

「ごめん……。少し、浮ついていた…」

 田上は、切ったばかりのタキオンの髪に触れたくなったが、この衝動もぐっと押し止めた。

 

 赤坂先生と松浦は、後から来る二人を少しニヤニヤしながら待っていたが、田上はその二人の視線をタキオンと同じように無視して、自分たちの分と部屋にいる人たちの分の飲み物を注いだ。そして、またタキオンと目を合わせると、その飲み物を持って、二階の方へ戻っていった。

 部屋に戻ると、曲はもう終わるところで、田上が座れば次の曲が始まった。その後にタキオンが座ってきたのだが、先程座った時よりも距離は近いし、もっと強くくっついてきているような気がした。

 次に歌ったのは、また中等部のオータムの方だった。あまり激しくないが、明るい曲を歌っていた。その後に、マテリアルが歌った。その頃には、タキオンから「君も歌いな」と言われて、田上に曲を選ぶタブレットが手渡された。そのタブレットをぼんやりと見つめながら、田上が考え事をしていると、見かねたタキオンが隣からずいと出てきて言った。

「君の歌いたいのあるかい?」

「え?…ああ、ない」

 田上が簡潔に答えると、タキオンは田上の目を見て少し笑った。

「無いなら私が探してあげる。貸して。君の好きな曲を入れればいいだろ?」

「入れなくてもいいけど」

「うるさい」

 タキオンは、優しくそう言いながら、もう田上の歌う曲を探していた。勿論、田上が贔屓にしているバンドの『大きな蛇』の楽曲の中から探した。そうでないと、田上もあんまり歌う気にはなれないだろう。タキオンは、その楽曲の中にデュエットの物があると知っていて、これを今回のカラオケの中で歌いたいと思っていた。田上が聴いているのをタキオンも聴いた事があるので、彼が歌えるであろうことは分かっていた。だから、カラオケが計画されてからは、タキオンもこれを歌えるようになろうと、寮の部屋に居る時などに小声で練習したし、何回も聴いた。準備は万端だ。しかし、初っ端からやっても田上の気が乗らないであろうことはタキオンも知っていたので、とりあえずは、『無人島』という曲を田上の為に選んであげた。

 他の皆も色々と歌いつつ、スイーツなども注文した。タキオンは、自分の番が来るまでの間に、美味しそうにパクパクとパフェを食べていて、田上にも二三口「あ~ん」としてあげた。それで、田上がもぐもぐしながら何の気なしに松浦の方を見ると、目が合った。お互い気まずい状況で目が合ってしまったので、松浦は苦笑し、「ごめんなさい」と言うように頭を下げて、田上の方も「ごめんなさい」と言うように頭を下げたが、その顔は耳まで赤くなるほど真っ赤だった。タキオンは、その二人の様子を見て、クスクス笑っていた。

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