ケロイド   作:石花漱一

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二十五、カラオケと春④

 タキオンが歌う番になると、田上が手拍子をしてくれた。タキオンが選んだ曲は、聞いた事のあるラブソングだったが、適当に選んだというよりも、――これを聞いて圭一君が喜んでくれたらいいな、という思いがあった。その歌の内容は、二人の男女が、幾つもの迷いを乗り越えてついに結ばれる、という物だった。田上は、手拍子をしてはいたが、特に喜びとか、共感とか、そんな物は感じずに、ただ歌っているタキオンを見つめていた。その理由は勿論、タキオンが自分の恋人だったからだ。

 タキオンの歌が終わると、自分の歌が回ってきて、田上は少し慌てた。タキオンはニコニコしながらマイクを渡してきたが、田上はあんまり笑う気にはなれなかった。歌は嫌いではないが、皆で前で歌うのが好きなのかと問われれば、そうじゃないと答えるだろう。しかし、タキオンが折角喜んでマイクを渡してきたので、田上も歌わないわけにはいかなかった。ただ、タキオンに適当に選ばせた曲には、早口で歌う部分があった。別に、歌えないというわけではないのだが、早口=難しいという式が成り立ってる田上の頭では、その難しい曲を皆の前で歌うには緊張が少し伴った。

 結果は、概ね良く歌えたが、一度だけ噛んでしまった時があった。だが、他の八人の民衆はその事を大して気にしていなかったようで、ニヤニヤなんてしなかったし、歌い終わればちゃんを拍手をくれた。

 田上は、次に歌うリリックにマイクを手渡すと、自分の席に座って、ふ~~と長いため息を吐いた。マテリアルが、松浦の向こうの方で、田上を見て苦笑しているのが見えたが、田上は何も言わずに、次に始まる曲を待った。そうすると、マテリアルも前奏が聞こえ始めてきた曲に耳を澄ませた。

 その時に、唐突に田上の横にタキオンが身を寄せて、そのまま身を乗り出してくると、田上の頬にそっとキスをした。それから、田上の耳元で囁いた。

「浮ついてきた」

 そして、左手で田上の顔を自分のやりやすい方向に向けると、その唇にもキスをした。軽くキスをしただけだったので、田上はすぐに解放されたが、誰か今の二人を見た物が居ないか、少しの間探した。しかし、田上の隣の松浦は熱心にスマホを眺めてる。マテリアルは、飲み物を飲んでる。カフェも同じく。中等部も歌に夢中。そして、タキオンの隣の赤坂先生は、今はトイレに行っていた。タキオンはこの時を見計らったのだろう。

 田上が、またタキオンに視線を戻すと、タキオンは少し照れ臭そうにふふふと笑って、マイクの音量には負けないが、田上以外には聞こえない絶妙な声量で喋った。

「君といちゃつかないのは、相当我慢してるんだよ」

 田上は、そんな巧みに自分の声量を制御できないので、コクリと頷くだけにした。

「けど、…私の意志の弱さにもよるけど、…君といちゃつかないなんてことできないから、定期的に毒抜きをしなくちゃいけない」

「…それにしちゃ、早くないか?」

 田上は思わず声に出して言ったが、部屋の中の誰も反応しそうにはなかった。

「まだ、一日も経ってない」

「おや?君だって、残念そうなそぶりを見せていたじゃないか。君も私と触れ合えた方が良いんだろう?」

「…まぁ、……そうだろう。…ただ……、髪が…」と田上が言いかけた所で、赤坂先生がガチャリとドアを開けて入ってきた。そこで話は中断になったが、タキオンは、いよいよ田上の肩に頭をもたれ掛けさせた。田上は、嬉しがれば良いのか、はたまた、タキオンの意志の弱さを注意すれば良いのか、それとも、皆が居る場でいちゃついているのを恥ずかしがればいいのか、混乱した後に、そのまま放置しておくことに決めた。別に、こんな楽しい場所で、文句を言う奴も居ないだろうし、単純にタキオンが甘えてくるのが田上には嬉しかったからだ。

 

 それから、少し間が空いたが、またタキオンと田上が歌う番が来た。このカラオケで一番熱心に歌っていたのは、中等部の三人とマテリアルで、タキオンと田上が選んだ曲の順番が来るまでに、度々、その人たちが歌っていた。カフェは、田上と同じように、松浦に曲を選んでもらわないと歌わなかった。それ以外は、ずっとドリンクバーのコーヒーを飲んでいたり、カラオケのテレビに出る映像を眺めていたり、どこと言えない空中を見つめ、頷いたり、口を開いたりしていた。田上には、話している様子を少し見かけたが、大方トゥルースと何か話しているのだろうと見当をつけ、特に気にはしなかった。

 田上は、今度で歌うのは二度目だったが、タキオンは三度目だった。初めに田上が歌ったすぐ後に、タキオンはもう一つ曲を選んで歌っていたのだ。その時は、田上ももう一度歌うのは断ったが、次は、タキオンも有無を言わさない口調で「選んであげるよ」と言うと、田上の曲を勝手に選んであげようとした。ただ、田上もさっきのような歌を勝手に選ばれると、自分の心身が持たないので、タキオンが適当に選んだ中で、難しそうかつ不安が残りそうな物は全て却下した。そして、残った曲を、タキオンが歌った後に田上も歌った。

 すると、今まで熱心に自分のスマホを見つめていた松浦が、歌い終わった田上に話しかけてきた。持ってきたバックの中から数枚のイラスト付きの紙とスマホの画面を田上に見せてきた。

「田上さん、天皇賞・春の話覚えてます?」

「ああ」と田上が答えるために身動きしたので、タキオンも松浦が彼に話しかけてきたことに気が付いた。そして、自分も一緒になって松浦の紙を見つめると、松浦が、タキオンをニヤッと見て、「アグネスさんも何か言いたい事があったら言ってみてください」と言った。それから、うるさいマイクの下で何度も「あ?」とか「え?」とか聞き返しながら、天皇賞・春のカフェの作戦の話をして、その間に、マテリアルも話に参加してきた。カフェは、皆と一緒に話をしようとは思わないものの、話の内容はしっかりと耳を澄ませているようだった。

 ここで、あんまり楽しくないのが、リリックだった。自分が歌っているというのに、部屋の半分が同じ話に耳を傾けている。今まで手拍子で盛り上げてくれていたマテリアルも、今は、天皇賞・春の話に夢中になっていて、時折、歌の音と音の間をかいくぐりながら、彼女の高い声が聞こえてきた。そのマテリアルの代わりに、今度は、赤坂先生が手拍子をしてくれたが、リリックにとっては、縁も所縁もない人だ。そんな人に手拍子をされても、嬉しさはなく、どちらかと言うと、困るだけだった。

 結局の所、友達の手前最後まで歌いきったが、この場が本音を曝け出してもいい場所であれば、今すぐにマイクを投げ捨てて「つまらない」と叫び、部屋から出て行っている所だった。田上が、まだ中学の頃の好きな人に未練を持っているという事を、腹いせに後でこっそりタキオンに教えてあげようかな…、という意地悪な考えも頭の中に浮かんだが、そんな事で不和を生み出したくもないので、その考えは保留にしておいた。

 

 田上とタキオンとマテリアルと松浦が、天皇賞・春について粗方話し終わると、カラオケも終盤に入ってきた。赤坂先生は、こぞって歌うようなタイプではなかったが、歌う時はとても楽しそうに歌っていた。田上が、その赤坂先生をぼーっと適当に見つめていると、まだ勘違いをしているタキオンが、嫉妬をしてしまったようで、田上の手の甲を爪で軽く摘まんできた。赤坂先生から田上の目を逸らさせるには、十分な痛みだった。だから、田上がタキオンの方を見つめながら、小声で「何?」と聞いた。言ってから、今の声がカラオケの部屋の中で聞こえるような音量じゃなかった、と田上は思ったが、タキオンの聞こえのいい栗毛色のウマ耳は、しっかりとその声を捉えていて、田上にこう返事をした。

「彼女は私だよ」

 少し拗ねているようだったが、そこまで本気ではなさそうだったから、田上は軽く笑うと、自分の肩にもたれかかってきているタキオンの方に手を伸ばし、その前髪を少し指先で弄った。タキオンは、「邪魔だ」と言うように、田上の肩に少し強く頬を擦りつけたが、決して、本気ではなかったので、田上はそのまま前髪を触った。田上は、今日出会った時からタキオンの髪の毛の事が気になって仕方がなかった。特に、カラオケに来てからはタキオンの髪に触りたくて仕方がなかった。その理由は、昨日自分がタキオンに言ってしまった事が、タキオンにどれ程の影響を与えてしまったのか、測りたかったからなのだ。本人は、あんまり大した事はないと言うが、自分の言葉が影響を与えたのは確実だ。それは、外見だけでなく、内面の方まで確実に影響を与えているだろう。田上は、その内面を知りたいがために、無意識にタキオンの髪を触りたがっていた。

 タキオンの前髪を触っているうちに、田上はもっとタキオン髪やその肌を触りたくなり、体を傾けながら腕を伸ばして、田上の肩に幸せそうにすり寄っている右頬ではなく、空いている左の方の頬と、その頬に掛かっている髪の毛をくすぐるようにして触った。髪の毛が目に入る事の無いように目を瞑っていたタキオンは、そのまま幸せそうに口角を上げて、田上が触ってくるのを受け入れた。

 しかし、ここは、カラオケである。決して、薄暗くて、見えづらいような場所ではない。ただ、絶えず、人が大声で歌っているだけの場所であるので、特別な理由がない限り、長くいちゃついていると必ず他の人の目に留まるだろう。田上たちは、二人でイチャイチャしていると、赤坂先生の目に留まったし、その前に、マテリアルの目にも留まっていた。マテリアルは、席が離れているので、わざわざ他の人の気を引いてまで、田上たちを注意しようとは思わなかったが、赤坂先生は、田上たちをからかおうと思って、ニヤリと笑った。

 赤坂先生は、タキオンに夢中になっている田上の頭を、腕を伸ばしてコンと小突いた。

「おい、いちゃいちゃしてるな。タキオンの事大好きか?」

 そう声をかけられると、田上は飛び上がって驚いて、タキオンは幸せな一時を邪魔されて、赤坂先生をジロリと睨んだ。田上は、まだ隠し通せると思ったのか、赤坂先生から直ぐに目を逸らして、タキオンといちゃつくのもやめたが、赤坂先生は、また田上に向かって言った。

「タキオンの事どんくらい好き?」

 田上は、一度無視をしようと思ったが、赤坂先生が自分を見つめてきているのを横目で感じ取ったので、仕方なく赤坂先生の方を向くと、首を横に振った。別に、これは「好きではない」という意味ではなく、「話したくない」という意味の首振りだったが、ただの無言の首振りでは勘違いが起こりやすかった。赤坂先生が、本当はそうではないと分かっていながらも、驚いたふりをして「お前、タキオンの事が好きじゃないの?」と聞いた。すると、今まで田上の肩に擦り寄っていたタキオンが顔を上げて、「本当?」という目で田上を見てきた。これには、首を縦に振っても横に振っても誤解を与えてしまう可能性がある。だから、田上は仕方なく口を開いて、「違う。好きだよ」と答えた。果たして、マイクの音でかき消されはしなかったのか、と田上は心配になったが、タキオンの耳にはしっかりと届いていたようで、「私も好きだよ」と嬉しそうに言うと、また田上の肩に頬擦りを繰り返した。赤坂は、そんな二人を見て苦笑すると、また歌っている人の方に集中を戻した。

 ただ、二人は尚もいちゃついていた。田上も先程大胆ではなくなったが、擦り寄ってくるタキオンを愛おしげに撫でながら、そのおでこを人差し指でくすぐっていた。タキオンも幸せそうに目を瞑って笑っていた。しかし、やっぱり幸せそうでない人が、ここに居た。リリックの事だ。リリックは、歌の途中の不図した瞬間に二人がイチャイチャしているのを見つけると、その時からずっと二人の事を凝視していた。二人の友達はまだ歌に夢中になっているので、リリックがそんな様子であることに気がついてはいない。

 リリックは、――どうしてあんな顔ができるのだろう?と田上に対して思った。確実に中学の頃の好きな人に未練があるはずなのに、今、タキオンといちゃいちゃしている田上の顔は、恋人に対するソレだった。――嘘を吐いているんだろうか?リリックはそう考えた。もし、中学の頃の好きな人に未練があるのが本当とするのならば、田上は今、こんなにデレデレの顔で平気で嘘を吐いている事になる。――大人ってこんなものなんだろうか?自分の未練を心の底に押し隠して、それでも、生きていくものなんだろうか?田上が、本当にタキオンの事が好きで、あの青葉にも未練があるとすると、そのような考えにも至る。それは、確実に矛盾のようでもあるが、大人ならばそれを押し隠せるかもしれない。特に、田上トレーナーは、あんまり自分を大っぴらに打ち明けたりしないような人だ。タキオンさんの前でしか、あんな顔は見せない。

 田上は嫌な奴か、それとも、ただの大人で、大人になればそれが普通なのか、リリックには判じかねていた。

 

 六時頃になり、カラオケがもうそろそろ終わるという頃になって、タキオンは、田上と一緒に歌っていなかった事を思い出した。少しいちゃいちゃし過ぎていたようで、終わる頃になるまで、すっかりその事を忘れていたのだ。だから、タキオンは慌てて田上を説得しなければならなかった。デュエットの話を持ちかけると、田上は当然嫌な顔をしたが、そんな事で怖気づくようなタキオンではない。必死に自分の想いをプレゼンして、田上と歌いたいと伝えると、田上も渋々ながら頷いた。と言っても、別に、必死にプレゼンする必要もなかっただろう。田上であれば、タキオンが「頼むよ~」と甘えてくれば、「仕方がないなぁ…」と言う優しい男だ。しかし、タキオンの想いが田上に伝わったのは、普通に甘えるよりも田上をしっかりと納得させたように思う。

 田上とタキオンは、リリックが歌う後に歌うことになる。予約の時間を鑑みれば、田上たちが歌った後は二三曲しか歌えないだろう。つまり、田上とタキオンはこれで歌うのは最後という事になる。これがどうと言う事はないが、田上は、朝の曖昧な雰囲気とは違って、タキオンといちゃいちゃできたのが嬉しいように思った。

 田上とタキオンは、『大きな蛇』というバンドと、どこかの歌手がコラボした『I sing』という歌を歌った。これは、自分が何の為に歌うのか?というのを問うような歌詞だったのだが、その内容は、タキオン好みの、恋人同士がいちゃいちゃした曲だった。厳密に言えば、それだけではないのだが、この曲に出てくる男女の間柄は、限りなく親密と言えるだろう。それをデュエットで歌えるのだから、タキオンは嬉しくて仕方がなかった。田上も結構ノリノリで歌ってくれたし、最後にはタキオンと手を繋いでくれたので、この選曲は、大成功だった。

 最後には、歌うことに夢中になっていた田上も、皆から笑顔で見つめられている事に気が付いて、慌ててタキオンの手を放そうとした。しかし、それは、タキオンがぎゅっと田上の手を握り締めていたので、できなかった。皆から拍手されると、タキオンは嬉しそうにしながら一礼した。すると、松浦が茶化すようにピーーと指笛を吹き、何だか、結婚式のようになった。と言っても、本当の結婚式ではないので、田上は居心地が悪いだけだった。田上は、タキオンを促しながら、自分も座席に座った。

 席に座ると、たくさんの目が自分たちの方に向いていた。今は、リリックが歌おうとしているのに、まだ皆がこちらを見てきている。田上は、ここで何と言葉を言えばいいのか分からなかった。「あっちを見ろ」だろうか?それとも、「タキオンと共に幸せに暮らそうと思います」だろうか?どっちでもないように、田上には思えたから、それらの視線を無視するしかなかった。すると、次第に視線はまた歌っている人の方に戻っていったが、赤坂先生だけはタキオンと田上に向かって言った。

「お前ら恋人やってんだなぁ」

「…煩わしいですけどね」

 田上が言葉足らずに、簡潔に言うと、タキオンが少し怒ったように「煩わしい?」と聞いてきた。

「違うよ。皆の目が注がれるのが煩わしいって事」

 そう言うと、タキオンは納得したようだったが、デュエットする前のように甘えては来なくなった。ようやく、浮ついた気持ちが消えたのだろう。タキオンは、時折、悲しそうに田上の事を見てきていた。

 

 最後のトリは、赤坂先生が飾った。有名なアニメの曲だが、女性の中でも特に高い声で歌う曲で、難易度の高い曲として知られている。それを、赤坂先生は、原曲の高さのままで上手に歌いきった。歌いきった後の赤坂先生は少し得意気で、田上はこれもぼーっとしながら、――すげぇ…、と考えて、その顔を見つめていた。すると、また、タキオンが今度は少し怒ったような口調で、「彼女は私なんだからね」と強めに言った。田上は、当然、自分が賞賛の心によって赤坂先生を見つめていたのを自覚していたので、なんで、タキオンが唐突にそんな事を言うのか分からなかった。しかし、ここで正面切って「なんで?」と聞いても、この場では時間もない上に人目があるので、田上は、ただ訳も分からずにコクコクと頷くだけだった。田上としては、タキオンが彼女であることは当たり前である。

 そして、一行は、諸々の手続きを済ませ、お金を払ってカラオケ店から出た。陽は、丁度沈もうとしている頃で、歩いてトレセンに帰っているうちに、辺りは夜の闇の中に浮かぶ光の町となった。ただ、それは、その通りだけでトレセン学園近くになると、明かりのほとんどは、街灯となった。夜の独特な雰囲気が一行を包んだ。街灯の下、夜闇の中に居ると、まるでこの世に自分たちしかいないかのような錯覚に陥る。たまに車が通るが、それ以外は自分たちの話し声が、この世界を構成する主な要素の一つだった。

 帰りは、松浦とカフェが先頭だった。その後に中等部、そして、赤坂先生とマテリアル、その後ろ、最後尾に田上とタキオンだった。もうタキオンは甘えてこようとはせず、田上と少し離れて歩いていた。随分と残念そうな面持ちだったが、それは、田上も同じだった。タキオンが甘えてきてくれた方が嬉しいに決まっている。タキオンだって、甘えたほうが楽しいだろう。少なくとも、楽しくない事はない。

 田上とタキオンは、頻繁に目を見かわしたが、その都度何か二言三言時喋るだけで一向に距離を縮めようとはしない。そんな時になって、また、トゥルースが二人にちょっかいを掛けに来た。再び、タキオンの足を引っかけようというのだ。当然、その様子が見えないタキオンは普通に田上の横を歩いている。そしてある時、「ひゃっ」と女の子らしい悲鳴を上げると、よろめきながら田上の腕にがっしりとしがみ付いた。その声に反応して、赤坂先生とマテリアルがタキオンたちの方を振り向いた。そして、二人揃ってにんまりと笑みを浮かべた。躓いた様子は見てとれるが、同時に、あの恋人達がまたいちゃいちゃしているのも見てとれたからだ。

 タキオンは、初めの一瞬は驚いた顔をしていたが、次に自分が田上の腕にしがみ付いていると分かると、嬉しそうに目を見開いた。田上も微笑を浮かべて、タキオンの事を見つめていた。

「今日で二回目だな」

 田上が優しい声でタキオンにそう語りかけたが、この言葉は、次の赤坂先生の言葉によってかき消された。

「おう、偶然躓いて、いちゃいちゃできるなんてな。どんだけお前らは恋人やってんだよ。すげぇな」

 途端に、タキオンは田上の体からパッと離れた。田上は、この時ほど赤坂先生を恨みがましい目で見た事はなかったが、赤坂先生は、言いたい事を言うともう前を向いていたし、マテリアルは、田上の顔を見ると、クスクス笑ってからまた赤坂先生に話しかけていた。それから、暫く赤坂先生とマテリアルは、わざとらしく田上とタキオンを振り返ってニヤニヤしていたが、二人が何も反応しないとなると、別の話題に移り変わったらしく、振り向いてくることはなくなった。

 すると、タキオンが、また「あっ」と小さく声を上げて、田上の腕にしがみ付いてきた。しかし、そのしがみ付き方は、本気で自分の体を支えようとしているものではないように田上には感じた。「あっ」と声を上げるのも、どうにも本気ではないようだったし、しがみ付いた後も、先程とは違って田上を見上げようとはせず、ただ、恥ずかしそうに地面に目を向けていた。その表情で、田上は察した。

「お前、今のはわざとだな?」

 その言葉で、タキオンの恥ずかしそうな顔が、耐え切れなくなって口元にニヤリと笑みを浮かべた。そのニヤリがどんどん大きくなってくると、タキオンも口を開いた。

「そう。演技。……別に、演技だっていいだろ?いや、いいんだ。それで。君も私もお互いの事が好きなんだから、それで文句はないはずだ」

「じゃあ、甘えたくなったって事か?」

「うーー…んと、…まぁ、浮ついてきた、というかなんというか」

 タキオンの顔は、嬉しさに笑みが零れそうになるのを必死で抑えていたが、あんまり抑えきれてもおらず、傍目から見ても――この子は、恋人と手を繋ぐことができて嬉しいんだろうな、という事を察することができた。

「お前の意志も弱いな」

「んん?…だって、君が私の事を好きなのも悪い。相思相愛だったら我慢できないじゃないか」

「朝の宣言はどうしたんだ?」

「今は保留だよ。毒抜き。私の想いは誰にも止められない」

「そりゃあ、…俺も嬉しい」

「私も嬉しい。じゃあ、これで決定かな?二人とも嬉しいという事で、この状況に異論はなし」

「俺もなし」

 田上が、嬉しそうに頷いて、殊更に強く愛おしそうにタキオンの手を握った。すると、タキオンは、その赤い瞳をハッと見開いて言った。

「違うよ。私は異議ありだ。ダメだダメだ」

「ええ…?なんで急に?」

「私が決意したことを思い出した。君と手を繋いだら駄目だ。言語道断」

「じゃあ、手を放せば?」

 そう言いながらもまだ手を繋いできているタキオンに向かって、田上が微笑みながらそう言った。

「いや、…ダメかい?」

 タキオンは、躊躇いながら言った。

「ダメだろ?言語道断じゃないのか?」

 田上がそう言うと、タキオンは暫く自分たちの手を見つめた後、その手を放そうとした。しかし、田上はそれを十分に予期していたので、タキオンの手をがっちりと握って放さなかった。それで、してやったり顔で少しニヤリと笑うと、タキオンは反対に、困った犬のような顔をして田上を見つめた。

「…君がそんなことしたら困るじゃないか…」

「俺は困らない」

「…ああ…。…手を放して?」

 タキオンは情けない顔をしながら言った。それを見ると、田上も良心が疼いたが、それ以上に、もっとからかってやりたいという気持ちが芽生えて、首を横に振った。

「えぇ…?」

 タキオンは残念そうな声を上げた。そして、田上の心情をその表情から察すると、それ以上の抵抗は、今の所諦めたようで、地面に目を向けたまま田上と手を繋いでいる事を享受していた。

 タキオンは、それきり田上が話しかけても話そうしなかったので、田上は少しつまらなくなってきた。タキオンも、手を繋いでいるとは言え、田上に少し腹を立てているようで、甘えてくれようとはしない。甘えてくれないのであれば、手を繋いでもあんまり意味がない。それでも、田上はタキオンと何かしたかったから、タキオンに「ちょっと止まって」と声をかけると、自分も立ち止まった。

 タキオンは、田上と手を繋いでいる事に異論はないようだった。その気になれば、今、この瞬間は握りしめてはいないので、さっと手を引くことができた。しかし、タキオンはそうせずに田上の横で立ち止まると、「何の用だい?」と少し機嫌の悪い声で聞いた。

「タキオン、端の、電柱の方によって」と田上が、今から自分のしようとしている事に、少し口角を上げながら言った。

「なんで?」

「…いいから」

 田上が、少し強引にそう言うと、タキオンもしかなく電柱の影に入った。そして、向き合った田上の顔を見ると、タキオンも田上のしたい事が分かった。

「抱き締めて良いだろ?」

 田上は、期待を込めてタキオンの顔を見つめたが、タキオンの答えはこうだった。

「……嫌だ。…君も浮ついてきたね?」

「浮ついてるかもしれないけど、お前も嫌じゃないんだからいいだろ?」

「…良くない事はないけど…」

 タキオンがそう言うや否や、田上はタキオンの事を抱きしめた。タキオンは、少し驚いて、小さな声で「あっ」と声を上げたが、次には、複雑そうに目を瞑って、眉を寄せ、田上に抱き締められている事を受け入れた。

 他の人たちは、最後尾のタキオンと田上が、二人でこっそり抱き合ってる事には気が付かずに、歩を進めていたが、田上たちは気にしなかった。少なくとも、田上は気にしなかった。元々、あの集団から離れたくて、タキオンを電柱の陰に誘ったのだ。田上は、暫く、タキオンの事をぎゅーっと抱き締めた後に言った。

「これでいいだろ?」

「…浮ついてるね」

「お前も浮つかないか?」

「…浮つくよ。浮つくからやめてほしいんだ」

「じゃあ、抵抗したらいい」

「抵抗したら君が残念な顔になるだろ?そりゃ、…私だって恋人といちゃつかないのが、残念じゃないわけじゃないんだけど、マテリアル君だって、君だって、常識を持てというじゃないか」

 田上は、何も答えずに、少しだけタキオンを抱きしめる力を強くした。

「…君、昨日あんなこと言ったばかりだっていうのに、そんなに私の事が好きかい?」

「……嫌いなわけない」

「だったら、私の考えも分かってくれよ。君がいちゃつくなって言うから、できるだけいちゃつかないでおこうとしているんだ」

「俺はいちゃつきたい」

 田上は、タキオンを抱きしめながら、低い声で囁くように言った。

「じゃあ、君だって私と同じ子供だ。昨日、私にあんなことを言える資格はなかった。…私は、傷付いたよ」

「……お前と別れたくない……」

「…んん、…私の前でこんなに本音を言うようになる子は、放っておけないよ」

「だから」

「ダメだ。もう、私は決めたんだ。君とこのままいちゃいちゃしていても身を滅ぼすことは分かってる。…君の事は好きだけど、…好きなまま、君と居るだけ。私の恋人として」

「それで、お前が甘えたくなったら、勝手に甘えてくるのか?」

 田上は、怒りと悲哀が入り混じった声でそう言った。

「それは、…そうなるかもしれないけど、…このまま君が、私に甘えてどうしようもなくなっても、あんまり意味がないだろ?…リリー君の為にも、あの子に居場所を作ってあげないといけないのは君だろ?前に、私を押さえつけないでリリー君を馴染ませるやり方を探していこうと言ったけど、結局、私だったんだろ?君は私の事が邪魔だったんだ」

「そんな事はない…」

 田上は、突然のタキオンの強い言葉に戸惑いながら、抱き締めるのをやめ、その目を見つめた。赤い瞳は、田上をじっと見据えていた。しかし、次の瞬間には、横に逸らされた。

「……それは分かってる…。…ごめん。蒸し返そうとして…」

「いいよ…」

「…でも、…でも、君が私を弄ぶような態度を取られると困る。私がなんで髪を切ったか分かるかい?初めはむしゃくしゃしたからだったけど、君がこれで満足してくれたんだったら私はこれに納得した。今もむしゃくしゃしたままだったら、この髪型でいるのを後悔してただろう。でも、君が褒めてくれたから私はそれでいいんだ。私は、髪を切って、君と居る事を納得したんだよ。これでも君が良いと言うのなら、…言わないのはあんまり想像できなかったけどね。けど、恋人がこれを――綺麗、可愛いと言ってくれたんだ。分かるかい?君がだよ?…話にまとまりがつかないな…」

 タキオンは、悩まし気に最後にそう付け加えた。

「…でも、…俺は…」

「ちょっと待った。最後にもう一つ。…髪を切ったのは私の覚悟の表れだ。むしゃくしゃしたからと言って、簡単に髪を切るような私じゃない。君が、私を子供だと言ったのは、私に髪を切る覚悟をさせる程強い言葉だったんだ。…じゃあ、君の言い分を言いたまえ」

「…俺だって、言い過ぎたのは分かってる。……分かった。もうしない。悪かった。何もしない。それがお前のためだ。俺のためだ。そういう事だろ?仕事が最優先だ」

 田上は、自暴自棄になって、タキオンを睨みながらそう言った。ただ、この解釈は、タキオンの本意ではない。言葉を乱雑に並べた直ぐ後に、スタスタと立ち去ろうとする田上を追いかけながら言った。

「そういう事じゃないんだよ、私が言いたいのは」

「そういう事だろ」

 田上が押さえつけるように言ったが、タキオンはそれくらいで黙りはしなかった。

「違うよ。ただ、君が、私の覚悟も尊重しないで、自分の為に私を使おうとしているのは許せないんだ。昨日言った言葉を思い出してくれ。あの時、君は私より大人だっただろう?」

「違う。俺は、お前を振り払わなかった」

「…ああっ!なんで怒るんだい?違うんだよ。君と喧嘩したいわけじゃない」

「俺は、喧嘩したい」

「そんなこと言わないでくれ。私たち恋人だよ?喧嘩したって何にもならないじゃないか。それに、喧嘩した時に、一番後悔するの圭一君だよ?」

 タキオンがそう言うと、田上は一度立ち止まった。そして、タキオンの顔を無言でじっと見つめた。タキオンには、田上が何か言おうとしているのが分かって、口を閉じて、その瞬間を待っていたのだが、結局、田上は話す事を諦めて、また、タキオンを置いて先に進もうとした。だから、タキオンはその後を追いかけて言った。

「き、君は、私にキスでも何でもさせたいんだろ!」

「…は?」

「引き留めてほしいんだろ?だから、したくもない喧嘩をしたいと言ったんだ」

「…それでどうなる?キスをしてくれるのか?」

「それはしない!強引なキスは君が嫌ったはずだ」

「嫌いじゃない」

 田上がそう言うと、タキオンは一瞬笑みを零しそうになったが、それを抑えるためにわざと眉を寄せると言った。

「そんなに私に甘えたがるのはいいけど、君はそれが嫌だったんだろ?」

「嫌じゃない。……そんな男だよ」

「…どんな男だい?」

「…言いたくない…」

「笑わないから言ってごらんよ。そもそも、強引なキスを嫌いじゃないと言っている時点で、少々おかしいよ?」

 ここで、タキオンは少し笑みを零したが、田上は少し眉を寄せた目付きの厳しい表情のままだった。

「お前にだって言いたくない」

「なぜだい?私たち恋人じゃないか。隠し事は無しだよ。君の気持ちの洗いざらいを私に打ち明けてくれ」

「言いたくないものは言いたくない」

 田上はそう言うと、今まで早歩きだったものをもっと足を速めた。しかし、それでウマ娘を撒けるわけではない。例え、田上がこの場で全力疾走を始めたって、タキオンは余裕でついてこれるだろう。何しろ、タキオンは、ウマ娘の中でもトップのアスリートなのだから。

 タキオンは、田上の横を普通に歩きながら、彼に話しかけた。

「言いたくないものは言いたくないといっても、君が早歩きで逃げようと思っても、私は君を引き留めるためにキスなんてしないし、抱き締めたりもしないからね」

「じゃあ、躓いて転んでみれば?」

「圭一君は、私の事が好きすぎるね。いや、甘えすぎた私にも責任の一端はあるかもしれない」

「その様に思う」

「ん?…まぁ、そうかもしれないけど、だからって、君が私を自由に抱き締めようとして良い理由にはならないからね」

「そうだね。そうしたら、恋人の頭を殴ってしまうかもしれないからね」

 田上は刺々しく言った。

「それを突かれると弱いよ。私もちゃんと反省してるよ」

「マテリアルさんに殴られてようやく反省したのか?」

「違う。君に、――もう少し大人だと思ってた、と言われて反省したんだよ。圭一君の言葉が私に影響を与えたんだ」

「じゃあ、俺にも影響を与えてくださいますか?」

「だから、…そういう事じゃないんだよ」

「そういう事だろ?」

 田上はそう言うと、トレセン学園の正門に着いたので、タキオンの先を行って、右に曲がった。すると、前の方から話し声がし、次いで、田上たちを置いて先に行っていた一行の姿が見えた。どうやら、いつの間にかいなくなっていた田上たちを待っていたようだ。その姿を見ると、田上は――こんなに早く歩かなければよかった、と心の底の方で思った。表面の方には、じんわりとした後悔と焦りが生まれただけだった。タキオンも、トレセン学園について、待ち構えている人が居ると、――こんなに二人きりで話したい状況で…、と少し赤坂先生たちを鬱陶しく思った。

 赤坂先生は、そんな田上たちの気持ちなんて気付きもしないで、明るく陽気にニヤニヤしながら話しかけた。

「ようよう、二人共。お盛んですな。このまま、朝まで戻らなかったら、さすがに通報するしかないかなと思っていた所なんだよ」

「私は女子高生だぞ。そのくらいの分別はついてる」

「いやぁ、付き合ってる人たちがね、夜の街に勝手に溶け込まれるとね、つい、こっちもはしゃいじゃうんだよ」

「私は女子高生だし、圭一君だってその事は弁えてる。二人だけの問題なんだから、色々と口出ししないでくれ」

 タキオンが邪険にそう言うと、赤坂先生も妙に彼女の機嫌が悪い事を察したらしく、その事についてはもう何も言わなかった。中等部の三人とカフェは、もう先に帰っていたが、マテリアルと松浦と赤坂先生の三人はまだ残っていた。だから、田上たちも帰ってきたところで皆もお話をやめて、締めの挨拶をした。それから、皆はそれぞれの寮に帰ろうという事になったのだが、ここで、タキオンが田上を呼び止めて、「さっきの話の続きをしよう」と言った。松浦や赤坂先生は、「もうすぐ門限だよ」と二人に注意したが、田上が「少し話すだけです」と言うと、素直に引き下がって帰っていった。マテリアルは何も言わなかったが、――どうせ、また喧嘩か、昨日の事を引きずってるかしたんだろうな、と思いながら、その場を後にした。

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