ケロイド   作:石花漱一

109 / 196
二十五、カラオケと春⑥

 それから、二人は、大分、夜の耽るまで愛を語った。君を愛してるだの、君が私の事を愛していないはずはないだのという声が聞こえてきて、デジタルは、ちゃんと寝付けるか心配だったが、案外しっかりと寝付く事はできた。むしろ、良い子守歌代わりだったと言えるだろう。田上とタキオンは、デジタルが寝た一時間後か二時間後くらいに電話をやめて、眠りに就くことにした。その二人の様子は、昨日喧嘩をしたのが嘘のようだった。

 そして、デジタルが寝る三時間前にリリックも眠りに就いていた。初めは、心地の良い睡眠だったが、その内に夢は不快な物へと変わっていった。カラオケで田上に怒っている夢だ。そして、マテリアルにも怒った。誰も彼にも怒った。どこそこに怒りをぶつける夢だったが、昨日と同じように夢は不意に終わって、白い世界が広がった。

 リリックは、夢が終わったことにはっと気が付くと、辺りを見回した。この状況になったなら、田上の想い人が現れると思ったのに、このだだっ広い白い世界の中には誰も居ない。その代わりに、リリックの頭の中に声が響いた。

――なんでもできる。

 母親のような優しい声だったが、リリックには、青葉だと分かった。なぜ姿を現さないのかは謎だが、この夢のような世界の中なら、なんでもアリなのだろう。リリックは早速世界を作った。芝生を広げ、川を作り、森を生やし、鳥たちのさえずりを鳴らした。そして、小学生の時に好きだったあの子を呼び出した。あの子は変わらずそこに立っていて、リリックに遊ぼうと呼び掛けた。リリックは当然それを断らない。一緒に手を繋ぐと芝生の上を歩き出し、森を探検し、沢でびしょ濡れになって遊んだ。そして、最後には、リリックにとって初めてのキスをした。

 夢の中ではある。夢の中ではあるのだが、それは、現実にも近い感覚で、リリックの胸を高鳴らせ、唇に優しく触れた。そして、少し長めのキスをした後に、唇を離して、目の前の男の子を見ていると、これは現実だという実感が湧いてきた。一緒に繋いでいる手も確かに感覚がある。目の前にいる男の子はしっかりと自分を見て、恋に落ちて、生きている!

 ——私、タキオンさんみたいになれるんだ!

 そう思った瞬間に、後ろの方から声がした。男の人の低い声のようでもあり、同時に、女の人の高く優しい声のようでもあった。

「眠りなさい」

 そして、後頭部を指で小突かれた途端に、リリックの意識は、深い闇の中に落ちていった。

 

 起きて現実に戻ってみると、深い喪失感に襲われた。夢を失っただけではない。夢に夢中になろうとしていた自分に対する嫌悪感も湧いて出た。少し震えながら涙を流した。声は、自分の被っているシーツを口に押し当てて、押し殺そうとした。鼻水も少量出たが、同室のオータムはまだ寝ているようだった。声を押し殺しても、鼻水を啜ってもあまり変わらないように思ったが、できるだけ、オータムに自分が泣いている事を知られたくなかった。

 起きた時間は、朝の六時の少し前だった。まだ、眠たくはあったが、このまま瞼を閉じて眠ろうと思っても、あの夢に対して自分はどう受け取ればいいのか分からなかったので、眠る事はできなかった。だから、涙が落ち着くのを待つと、最悪の気分のままこっそりとベッドを抜け出して、顔を洗うと、着替えて部屋から出て行った。

 田上は、積極的に朝のトレーニングは行わないが、他のトレーナーに担当されている子は、早朝からのトレーニングをする事がある。六時を少し過ぎた頃でも、ジャージを着て、寮の共有スペースをうろついている人が何人か居た。リリックは、その人たちの脇をすり抜けて、薄暗い外へと歩み出した。

 空はどんよりと曇っていた。予報では、このまま雨は降らずに、昼頃には晴れるだけらしい。しかし、これだけ薄暗くて本当に雨が降らないのだろうか?とリリックは訝しんだ。それでも、雨が降ろうがどうしようがリリックには、どうでも良かったので、そのまま歩いていて、誰も居ない所を見つけた。そこは、いつも田上とタキオンがいちゃいちゃしているベンチだった。しかし、リリックはそれを知らずに近寄った。ベンチの近くには、曇り空に負けまいと新緑を茂らせた若い木が、上を目指して立っていた。その木を見ると、リリックはあんまり気に入らなく思ったが、落ち着ける場所が欲しいので、そこに座った。すると、また無性に涙が出てきて止まらなかった。

 暫く泣いていると、そこに追い立てるように雨がぽつりぽつりと降ってきた。しかし、勢いは、小雨と言うにも及ばなかった。本当に、ぽつり…ぽつり…と降っていて、時折、自分の肌に雨粒が触れてくるのが分かった。それ以上の勢いで降る事はなかった。終始、降っているのかいないのか分からない調子だった。それでも、リリックの心を濡らすには十分な量だった。泣きながら、ベンチにごろんと横たわると、それきり身動き一つしなかった。

 

 田上とタキオンは、次の日の朝にいつも通り起きると、いつも通り朝の食堂に集まった。タキオンが、初めに田上の部屋に行ったのだが、それは、昨日と同じように中に入るという事はしなかった。田上もそれに理解は示したが、それでも、寂しかったのか、唐突にタキオンの頭に手を伸ばすと、その髪の毛をわしゃわしゃと乱しながら、思い切り撫でた。タキオンは、んふぅと嬉しそうな声を上げてそれに応えた。それをすると、田上は、満足げに笑いながら、まだ整っていない準備をしに、部屋に戻った。

 それから、二人は食堂に向かった。田上が求めるように、チョンとタキオンの手に触れたが、タキオンはただ微笑をして、首を横に振っただけだった。田上はそうなる事は分かっていたので、特に何を言うという事もなかった。ただ、もっと甘えたいという想いを密かに抱いただけだった。

 朝食を食べていると、「タキオンはもう授業に出てもいいのでは?」という話題が持ち上がった。勿論、その話題を上げたのは、田上だ。田上だって、タキオンが素直に授業に出てくれれば嬉しいに越した事はない。そして、今は、丁度その時のように思う。タキオンは、田上にくっつき、甘える事を止めたのだ。それを止めたのであれば、タキオンが授業に出ない理由は無いように思えた。それを進言すると、タキオンは、少し驚いたような顔をして、次いで、「少し考えさせてくれ」と田上の進言を拒否した。田上も無理矢理は嫌だったので、それ以上は追い詰めようとはしなかったのだが、一旦考える程だとは思わなかったので、思わず聞いた。

「え、俺に甘えたいから授業に出たくなかったんじゃないのか?」

「君に甘えたい?…そうかもしれない。…そうかもしれないが、別に、今の私だって君に甘えたくないわけじゃない」

「じゃあ、どういう事?」

「あー、…あれだね。…君の事が好きって事だよ」

「ん?」

 田上は首を傾げたが、タキオンは続けてこう言った。

「とりあえず、今は無しだ。その話は。私が君の事が好きで何が悪い」

「…でも、理由が見当たらないから。…それって理由になるのか?」

「あれだよ。君が好きって事なんだよ」

 タキオンが面倒くさそうに言ったが、田上は尚も訝りながら言った。

「好きだからって理由と、授業に出ないのがいまいち結び付かないんだけど、…どういう事?」

「あー、…あんまり状況は変わっていないって事さ。遠目からでも君が見れる状況であってほしいというか…。そんな所だね」

「でも、今はどうなんだ?自制は効くだろ?そこまでの自制は効かないのか?」

「あー…、分かったよ…。授業には出るが、明日からだ。明日は出る。でも、今日は無理だ。…くっつきたいな…」

「でも、くっつかない事に決めたんだろ?」

「いや?自分の身を守るためだったら、私は、自分の身を守る方を優先するかもしれないよ?」

「授業でお前を傷つけるような奴はいないだろ。…それに、…俺はお前の保護者じゃないからな。お前の父親じゃない。お前の恋人だ。それを忘れてもらうと困る」

「…分かってるよ…。分かってるさ…。はぁ…、でも、君と居る時が一番居心地が良いんだよ…」

 タキオンは、田上の顔を見ながら悩ましげにそう言った。その顔を見ると、田上もタキオンの事を抱きしめたくなったが、自分もしっかりと自制を効かせないといけないと思うと、こう言った。

「とりあえず、今日の所は授業に出なくてもいい。けど、明日は出るんだよな?」

 田上がそう問いかけると、タキオンは目を合わせないままに「はぁい」と力なく返事をし、朝食を箸で穿り返していた。そして、その後に田上をチラッと見ると言った。

「君が毎朝キスをしてくれないと、私の心が持たないかもしれないね…」

 この言葉に、田上は答えようか答えまいか迷ったが、結局こう言った。

「あのなぁ、俺は、お前のお母さんとお父さんに、――娘さんが自分のせいで授業に出なくなりました、って報告したくないんだよ」

「『君の』お義母さんとお義父さんでもあるし、それに、わざわざそんな事は言わないで、タキオンが学校に行かなくなりました、とだけ報告すればいいじゃないか」

「そんな簡単に行かないと俺は思う。絶対に、何か理由を聞いてくる。その時に、俺は理由を答える義務がある」

「私との関係は仕事だっていうのかい?」

 タキオンは、拗ねたような演技をしながら言った。当然、田上がどう答えるかは、タキオンには手に取るように分かっていた。

「お前とは、仕事上の関係もある。私的な関係もあるけど、仕事上の関係だって、俺とお前にはあるんだから、それに文句は言えない。お前も文句を言って、俺と契約破棄はしたくないだろ?」

「いや、したくなるかもしれないね」

 タキオンがそう言うと、田上の顔が少し不安で固まるのが見えたが、ほんの少しだった。それでも、タキオンはその顔を見れたのが、とても面白かった。

「お前、それは、仕事でも一緒に居られなくなるって事だぞ?それでいいのか?」

「まぁ、…それで良くないかもしれないね。…あと、私は別に行かないと言ってるわけじゃない。毎朝君とキスをしてから授業に出たいと言っただけだ。今までとそんなに変わりはない」

「その今までが、危ないんじゃないのか?…だから、俺は、お前が口だけで物を言ってるんじゃないかと危惧してるんだよ」

「それで何か問題があるかな?」

 こうタキオンは質問したが、田上の返答はしっかりと予期した物であった。

「問題はある。言葉の通りだ。口だけで言ったんだったら、後から、言う事が変わる可能性があるだろ」

「私は、君とキスをすれば行くと言ったんだよ?それ以下でもそれ以上でも何でもない」

「その…甘え方が、行かなかったときと酷似しているだろ?…そもそも、俺から距離を取ろうとしてただろ?それはどうなったんだ?」

「それは、君と離れる事に対して私の心が持たないからしょうがない。今でさえ、君に触れたくて触れたくてしょうがないのに、それを我慢できているのは、君が近くに居るという安心感があるからなんだ。ならば、それをキスで誤魔化すしかない。一種の延命措置だね。水の無い魚が陸でも生きられるように、君とキスをして命を長引かせる。そして、放課後、休み時間に君と居れる時間を楽しみにして、ぎりぎり授業を生きるんだ」

「それじゃあ、多分、また、マテリアルさんにクリップボードで叩かれるだけだぞ」

 丁度その時に、田上の後ろを人が通って行ったので、田上は、不意に冷静になって、自分たちが話しているのが食堂であることに気が付いた。あんまり大きな声を立てて話してはいなかったが、それでも、聞き耳を立てている人が居れば、今の二人の話をじっくりと聞いて反芻することができただろう。ただ、ここで、話を切るのも区切りが悪かった。タキオンとの話はまだ解決しようとはしていない。けれども、ここで話す事が、人に聞こえるのだと気が付くと、居心地が悪くなってくるのも、また、事実だった。だから、一度タキオンの目をしっかりと見ると言った。

「また、あのベンチで話そう。この話はもっと話し合いたい」

 タキオンは、「私は、話し合うには及ばないと思うけどね」と見つめてくる田上の目から、自分の目を逸らしつつ言っていた。田上は、その顔をまだじっと見つめていたが、やがて、目を逸らすと黙々と自分のご飯を食べ始めた。

 

 二人でベンチの方に行って途方に暮れたのが、リリックがそこに寝ていた事だった。田上たちも、初めは遠目から見て、ベンチに誰かが寝ているという事が分かっただけだった。田上は、これには、大分がっかりしたが、タキオンとはもっと話したかったので、別の場所を探すか、はたまた、トレーナー室でマテリアルと一緒に話すかをしようとした。そして、その立ち去りかけた時に、タキオンが「あれ、リリー君じゃないか?」と言ったのだ。田上もこんな朝っぱらからベンチで眠りこけているのが、自分の教え子だったらさすがにどうにかしてやらないといけないので、タキオンの言葉を半信半疑に受け取りつつ、ベンチの上で寝ているリリックの下に向かった。

 髪の長さはリリックそのものだったが、顔は、自分の手で隠されているので、確認できなかった。その様子を恐る恐る見ながら、田上は「別の人かもしれないよ?」と言った。しかし、タキオンは大いに確信があったようで、「いや、これはリリー君だね」と言うと、その肩を叩いて「リリー君?」と呼び掛けた。田上は、ここでタキオンと恋人ではない、誰か他人の振りでもしようかと、一瞬頭をよぎったが、ここでそれをしてもどうにもならないので行く末を見守った。

 タキオンの一番初めの呼び掛けは、弱かったのかピクリともしなかった。二回目でやっと起き上がった。確かにリリックだったので、田上は安心した。しかし、リリックはここがどこかは分かっていないようだった。金色の瞳も田上とタキオンの間を一生懸命に行き来して、目の前にいる二人が誰なのか理解しようとしていた。それには十数秒の時間がかかったが、ようやく目の前にいるのが自分の見知っている二人だと分かると、恐れと驚きが入り混じった顔で「私、寝てた…?」と誰に言うともなく呟いた。それに田上が、「おはよう、リリーさん」と言うと、また、リリックは現実を理解できていないという顔をして、次いで、急いで頭を頷くように振ると、「私、朝の準備をしてきます」と言い訳をするように言って、慌てて朝露に濡れた草に滑りそうになりながら、二人の下から走り去っていった。田上は、その背に「頑張ってね!」と呼び掛けたが、果たして、リリックの耳に届いたのかどうかは定かではなかった。

 田上は、その背を不思議そうに見送りながら、タキオンに言った。

「なんでこんなところで寝てたんだろう?」

「それは、私の知る由じゃないが、…あれは大分重症だね」

「重症?」

「私たちを見て、大分怯えていなかったかな?そうだとすれば、彼女の精神状態は悪化の一途をたどっているような気はするけどね」

「ああ…、そうかもね」と田上が、リリックの去っていった方を心配そうに見やると、タキオンが言った。

「とは言え、今、君が相手をすべきなのはこの私だ。さあ、私の隣に座りたまえ」

 タキオンは、自分の左隣を空けて、ベンチに先に腰を下ろしていた。その顔を見下ろしながら、田上は暫く考え込んでいたが、やがて、言った。

「お前、その態度は逆戻りしてるだけじゃないか?」

「逆戻り?」

「……フジさんを殴った時にだよ」

 田上がそう言うと、タキオンは顔をしかめて、目を逸らしたが、何も言おうとはしなかった。だから、また、田上の方が口を開いた。

「俺だって、お前から誘惑されたら、断る事はできないよ…。お前の事が好きだし、俺もお前に甘えたいから…。でも、お前だって、リリーさんの事を考えて、あんな態度にしてくれたんじゃないのか?」

 それから、暫く間が空いてから、タキオンが言った。

「あれはもうやめた。…私は、私が一番大切だ」

「でも、それと同じくらいに、リリーさんの事も、俺の事も、大切に思ってくれてるだろ?…少なくとも、俺はどうなんだ?お前は、俺の事を大切に思ってくれているだろ?俺の事を思ってくれたから、ちゃんと自制を持って、俺と接しようとしてくれたんじゃないのか?」

「………それを言われると、私も弱い…」

 タキオンは、田上から目を逸らしながら、蚊の鳴くような小さな声でそう言った。それで、田上も仕方がなさそうに笑ったが、タキオンの横に腰を下ろすと、優しく言った。

「なら、大丈夫そうだな。俺の杞憂だったかもしれない。…ごめんな」

「許さない…。少し、甘えさせてくれ」

 タキオンはそう言うと、田上の返事も聞かないうちに、田上の膝の上に自分の頭を横たえた。田上は、それを整えてあげながら、優しく「いいよ」と言うと、嬉しそうにタキオンの頭を撫でた。とは言え、先程のリリックの様子も見逃せない物であったから、タキオンにこう聞いた。

「なんで、リリーさんは、ここに寝てたんだと思う?」

「…私は知らないよ。別に、私が、ここで寝ろって命令したわけじゃないんだから」

「じゃあ、予想でもいいから何か聞かせてくれないか?」

「予想かい?面倒臭い事を聞くね、君は」

「そりゃあ、仕事の相談くらい家族にしても問題ないだろ?」

「んん、嬉しい事を言うね。家族?私を乗せようとしているね?」

 そうは言っても、タキオンは嬉しそうに田上の膝に頬を擦りつけていた。

「別に、お前は家族なんだから、本当に家族だと思ってるから、俺の相談に乗ってみてよ」

「分かった。じゃあ、お言葉に甘えて、乗せられてあげよう。家族、ね。ふふふ…」

 タキオンは、田上の膝の上でニコニコとしていた。

「とは言え、私もリリー君があそこでなんで寝ていたのかは分からないが……、例えば、…単純に考えてみれば、朝早くに起きてしまったが寝付けない。だから、外に出る。そして、私たちのように人の少ない場所を探す。すると、このベンチに行き着く。そして、このベンチに寝転がってみると案外眠い。ああ、眠い。そのまま寝てみよう。…みたいな感じじゃないのかな?」

「それで、起きた時に、初めて、自分が寝てしまった事に気が付いて、慌てて、授業に出る支度をしたって事か?」

「そうだろうと思う。単純に考えればね?」

「でも、それにしても、あんなに慌てていく必要があったか?…俺ってそんなに信用されていないのか?」

「そう。現状を見れば、そういう考えに至る。…確かに、あの慌て方は私たちを怖がっていたね」

「俺…そんなに……信用ない事…したかもしれないなぁ」

 田上は、タキオンといちゃついていたことを思い出して、少し顔をしかめた。タキオンもそれが、声色から理解できたのか、少し笑っている口調で言った。

「まぁ、私たちのこれまでの行いがね?少々不味い節はあっただろうね。 もう、取り返せないものだと思うかい?」

「取り返せない?…いや、どうだろう?難しい。…そもそも、俺たちがそれほど嫌われていたかも分からないし…」

「でも、馴染めていないのはほぼ確実だろ?」

「そりゃあ、…確実だ。…でも、取り返しがつかない程か?」

「それは分からないね。…でも、取り返しがつかないって事が人間関係であるかな?そりゃあ、倫理観に基づいて、関係している人間に恐怖を与えるようならば、取り返しのつかない可能性もあるかもしれない。ただ、感情論だけで言えば、落ち着いてしまった時にまた関係を取り戻せる事もあるだろう?実際に、私と君はそんな感じじゃなかったかな?」

「そんな感じかもな」と田上は口元に笑みを浮かべ、タキオンの人の耳があるはずの場所を少し撫でていた。当然、そこに人の耳はなく、栗毛色の髪に隠された肌だけがあった。音を聞き取る器官であるウマ耳は、タキオンの頭部の上の方で、田上に撫でられて嬉しそうにぴょこんと動かしていた。

「でも、信頼はないよなぁ…」

 そう田上が呟くと、タキオンが体の向きを変えて、田上の顔を下から見上げながら言った。

「私だったら信頼されている可能性があるとは思わないかい?」

「お前?なんで?」

「ほら、彼女、私に憧れているようだし」

「ああ、憧れてるよな…。聞き出せると思うか?」

「いや、私はそうは思わないね」

 ——タキオンが言い出した事なのに、と田上は苦笑しながら言った。

「なんで?」

「まぁ、憧れてると言っても、信頼はされていないかもしれないからね」

「お前が言ったんだろ?」

「ああ、私が言った事だが、憧れは抱かれても信頼されている気はしないね」

「まぁ、お前も一味の幹部だからな。お前だって、俺といちゃいちゃしようとしてたんだから、それが原因とするのならば、信頼されるはずもない」

「君が心配していると言った時は、嬉しそうな顔はしてたんだけどね。…多分、彼女、不器用そうだから、そんな簡単に演技はできなさそうに見えるんだけどね」

「うぅん…。タキオンの言ってることが本当だったとして、俺は何をすべきだ?…信頼を勝ち取って、相談をされるべき。それだ。…そうする事と、チームに馴染ませることは必ずしも目的は一致していないが、馴染んでくれればその信頼を勝ち取りやすいし、その過程で、俺がリリーさんの考えてるって事が分かれば、もっと信頼してくれる可能性がある。でも、大分遠回りじゃないか?」

「リリー君の事を考えるのもいいが、私の事を考えるのも、やめちゃいやだよ?」

 タキオンはそう言って、急に甘えてきだした。田上も悪い気はしなかったので、タキオンが田上の顔に伸ばしてきた手を愛おしそうに握ると、その目を見つめて優しく言った。

「お前の事も考えるよ」

「本当に?一生考えてくれるかい?」

「一生だよ。一生傍に居るから」

「ふふふ。君もたらしだね。前はそんなこと言えなかったのに。私の事を想ってくれてる」

「嬉しいか?」

「嬉しくないわけないじゃないか。こんなに私を想ってくれている人と、晴れて恋人になれたんだぞ?それも、一生傍に居てくれるって言うんだ。夫に迎える人として、圭一君以上に良い人は居ないよ」

「それは、まだ、時期尚早だったりするんじゃないか?同棲してから人が変わるって話があるだろ?」

「ああ、そんなのもう私たちの間では意味をなさないさ。だって、私は君の心の奥底まで知っているんだから。歯磨きの仕方が汚かったりしても、…部屋が整理されていなかったとしても、そんなこと気にならないくらいに君の事が好きなんだから。それに、君は、頭の悪い人間じゃないから、ちゃんと話を聞いてくれるもの。そういう君だからこそ好きなんだ。同棲とか結婚とかした後に、豹変するような男とは結婚しないよ」

「そう言ってくれると嬉しいね」

 田上は、普段の渋い顔に、嬉しそうな笑みを浮かべた。

「君と…こう、…愛を囁き合ってると、本当に私たち恋人なんだなって気がするよ」

「…俺を、本当に生涯の結婚相手に決めてもいいのかな?まだ、考える余地とかあったりしないか?」

「もっと別のいい男かい?それはもう探し始めたらきりがないし、私は君がいいんだ。今更、私の手から君を逃がしたりなんてしないよ。ずっと、私と一緒に居てくれると言ったんだから、死出の旅もその後もずっと一緒に居てもらわなくちゃ」

「一生から死後まで増えたな」

「…私は、来世かはたまたあの世でも君と一緒に居てほしいと思っているよ」

「俺もそう思う。……でも、どうなるんだろうな?……」

 そう言って、田上がタキオンではない空中の一点を見つめ始めたので、タキオンが聞いた。

「どうなるんだろうな、って死後の事かい?」

「……そう。……死んだらどうなるんだろうな?」

「……難しい話だね…。…少なくとも、状態が変わることは間違いない。『生きる』が『死ぬ』に変わるんだ。その時点で見る世界は変わる。…意識があるのならば…、の話だけど。 けど、これには、宗教の話も関わって来るね。宗教ごとに死の価値観は違う。仏教であっても、宗派によっては、異なったりもするだろう。…死は、本来、人間が感じれる物からかけ離れているが、人間が絶対に行き着く先として、死は、人間の恐れと興味を引いている。だから、文明が生まれてからこの方、私たち人類は、死について一生懸命に考えてきた。と言っても、死からの生還者がいるわけではない。死の世界を確実に見たと言い切れる人は居ない。臨死体験という物があるかもしれないが、それが、本当に実際に『死』という物に触れたのかは本人にしか分からないね。もしかしたら、死んで、次に目覚めた時には、別の人に生まれ変わっているのかもしれない。…とにかく、死は、人類が何百何千年と考えてきたものの、答えは出せていないんだよ。……そこで、彼女の存在は奇妙だね?」

 田上には、その『彼女』が誰なのか理解できた。田上も、丁度今、その人の事を考えていたからだ。

「彼女って、カフェさんの事?」と田上が聞くと、タキオンは、少し眉を上げて驚いた仕草をした。

「おや、良く分かったね。これが、夫婦による以心伝心かな?人知を超えた絆だね?…まぁ、カフェが奇妙だ。よく空中を見つめながら呟いている。私も初め彼女と出会って、彼女が空中に向かって話しかけている時は、芳しくない精神病者が傍に居るもんだと思ったが、よくよく、彼女の隣の部屋で過ごしてみると、これが、物が動くんだよね。勝手に。勿論、普段はなりを潜めているのかは知らないが、彼女の周りでは、物を勝手に動かそうとしない。しかし、…君も見ただろ?普通に字を書いているよ。それでいて、秘密主義者だ。カフェにでさえ、名前は明かしていないらしい。…つまり、あの物事は、私たちにも観測できる事象であったという事だ。どこか別の世界から手を伸ばして、人間の世界の物を掴んでいる。もしくは、人間には通常観測できない世界から、…。匂いや音それらの中にも、人間の観測できない領域がある。勿論、光もだ。…それらの中から、私たちが観測できる物に干渉して、あのように連絡を取っている可能性もある。全ては、可能性であり、仮説だ。この中のどれとも違う可能性がある。なぜなら、あんなノートが空中に浮くような事象は、どこにでも起きうる事じゃないからね。それがもし死後の世界って言うのであれば、私たちは、死んだ…もう私のお義母さんでもあるね」

 ここで、田上が「まだ、結婚してないからお母さんじゃないよ」と口を挟んだが、タキオンは首を横に振って、「私のお義母さん」と言うと、話を続けた。

「だから、死んでしまった私のお義母さんが、私たちの見えない領域から、私たちに干渉してくる可能性があるという事だ。あれが、死後の世界とするのならば。しかし、違うのだろう。残念な事ではあるが、…あんまり言うのもあれかな?」

 タキオンが、少し田上の心情を心配に思って、不安そうな声を出すと、田上は優しくふふふと笑って、タキオンの残りの言葉を続けた。

「残念な事ではあるが、母さんは、今、いきなりタキオンのほっぺを触ったりしないって事だね?」

「そういう事だ」とタキオンは、田上にほっぺを触られながら答えた。

「そして、初めの話に戻るが、――死んだらどうなるか? 死ぬ事について、そんなに不安視しなくてもいいんじゃないか?どうせ、死ぬ事は変わらないんだし、楽観的に考えていた方が、死ぬ事に対してあんまり恐れもなくなると思うよ?」

「……でも、…こんな感覚ないか?…こう、…生きながらにして死んでゆく、というか、死に向かって進んでいっている、って。それを考えると、…怖くならないか?」

「ふぅん…。…まぁ、確かに、その考え方は理解できる。人の寿命が百年と決まっていたとして、生まれた時には、もう、寿命はあと百年しかない。成人すれば、あと八十年。五十を過ぎれば折り返し地点。あとは、もう死んでいくだけ。…そんな感じだろ?」

「そう。…お前は、俺の事が良く分かってるな」

「当たり前だろ?君と一緒になりたいがために、どれ程の話し合いを重ねたと思っている?君自身が一番分かるだろ?」

「…分かる。お前の事が好きだから」

 田上は、そう言うと、満足そうな微笑みを浮かべて、タキオンの髪の毛の間からそのおでこをそっと撫でた。タキオンは、田上の硬い指を感じると、その愛おしさに思わず笑みをこぼした。

 二人の午前中は、春の陽光に包まれ、あどけなく過ぎていった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。