ケロイド   作:石花漱一

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六、どうしても冬(前編)

六、どうしても冬

 

 竜之終の街の田上の父の家に来てから、三日目の朝を迎えた。今日は、三十一日だ。大晦日である。この家にいる人たちはどことなくそわそわしているように感じたが、タキオンだけはいつも通り田上から離れないで寄り添って過ごしていた。まるで親猫と子猫のようだ。田上が立てばタキオンも立つし、田上が座ればタキオンも座る。田上は、ほとほと参ったが、やっぱりこのタキオンの変化はどうすることもできなかった。

 そんな時だった。父の賢助が田上の方にこう話しかけた。

「圭一、買い物に行こう。車を出してくれ」

 父も車は運転できるが、田上に頼んだのは訳がある。それは、田上は車の免許を持っているのだが、持っているだけでは勿体ないのでいつか使う時のためにせめていつでも運転はできるようにしておこうと考えているからだ。そのために田上は、いつも帰省した時には父が運転するのではなく、自分が運転してその勘を維持しておこうと考えている。だが、今日のところは、少し問題があった。子猫のタキオンがいたのだ。

 勿論、タキオンは田上が買い物に行きそうな雰囲気を感じると不満そうな表情をしたが、発言したのが田上の父だったため何も言えなかった。田上は、そのタキオンの表情に気が付いていた。だからこう言った。

「一緒に来るか?」

 タキオンとしては家にいてほしかった。しかし、そんな融通も利かないだろう。そのことを察すると、タキオンは「行く」と一言言って、田上より先に立ち上がった。そして、父親の方に聞いた。

「今から行くんですか?」

「えーっと…、あと十分くらい待っててくれ。少し何やかやしてから行く」

「分かりました」

 そう言うとタキオンは、また田上の隣に座った。だが、今度は田上が立ち上がった。すると、タキオンも慌てて立ち上がろうとしたので言った。

「俺はトイレに行くんだよ。まさかトイレの前で待つわけじゃないだろ?待っててくれ」

 冷静にそう言うと、田上は引き戸を開けて、閉めて見えなくなった。タキオンは不満そうにその様子を眺めていたが、正面の炬燵の方に向き直ると幸助と目が合った。幸助は、好奇心と誠意がせめぎ合っているような顔を無表情の内に見せていて、タキオンを困惑させた。

 それから、タキオンと目を合わせたまま、少しが過ぎたが、短い時間のうちに好奇心の方が勝ってしまったようだ。タキオンに無遠慮な質問をした。

「…もし、もしもね。タキオンさんが、気分を害さないで聞いてくれるのなら、答えてほしいんだけど…。もしかして、タキオンさんは圭一の事が……好きだったり~……するのかな?」

 タキオンは怪訝そうに眉をひそめた。

「私が?…そんなことはない。トレーナー君は、トレーナー君だ。それ以外の何者でもない。…それに、今私は恋人を作りたいとは思わないんだ。あんまり良く分からないしね。…そして、もうそれ以上口を利くな。そんな戯言がここのところぐっと増えた。いい気分はしないな。...それから、君は学習したらどうなんだ?あんまり人にそんな口を利くんじゃないって」

 タキオンは、半ば怒って、半ば呆れて幸助にそう言った。幸助は、反省しているのか分からないニヤニヤ顔で「はーい、ごめんなさーい」と舌を出した。その顔が、タキオンの腹を余計に立たせたが、その直後に田上が戻って来るとどうでもよくなった。そして、幸助がタキオンに戯言を言ったことを報告した。

「トレーナー君、君の弟まるっきり反省なんてしてないよ」

「...?何があったんだ?」

 田上は、なんのことだか分からず聞き返した。

「この期に及んで、私が君のことを好きじゃないかと聞いてきたんだ」

 これを聞くと、田上は、自分の心臓が奇妙な音を立てて歪んだような気がした。答えは聞きたくなかったが、同時に全て分かっているようでもあった。

 田上は、少しの間目を泳がせてから言った。

「ど、どうなんだ?」

「どうなんだ?それを聞いてどうするんだい?...まぁ、別に大したことじゃないから言うけど、トレーナー君は、トレーナー君だよ。それ以上でもそれ以下でもない。...それなのに見りゃ分かることを君の弟は聞いてきたんだ。なんとか言っおくれよ」

 田上の心臓は、押し潰されて最後の抵抗をするかのように激しく波打った。頬も上気して、目も潤みそうだったが、なんとかこう言った。

「そりゃ、幸助が悪い。...うん」

 そう言って、幸助を見たが、返ってきたのは哀れみの眼差しだけだった。これで、田上は確信した。幸助が自分の気持ちを知っているということを。すると、沸々と怒りが湧いてきた。この怒りは幸助とは、全く無縁のものだったが、どこかにぶつけないと気がすまなかった。だから、幸助に憎しみ込めて言った。

「余計な!ことを!言うな!この木偶の坊!役立たずの浪費家!そんなんだからお前は大学生なんだよ!」

「俺、元から大学生だよ」

 幸助が心外そうに言った。タキオンは、田上の思ってもみなかった反応に驚いた。こんなに激昂するとは思わなかった。せいぜいちょっとした注意をするだけだと思っていた。それなのに、今目の前にいる自身のトレーナーはもはやタキオンのためでなく自分のために怒っているように見えた。タキオンは困惑して、掴んでいた田上の袖をそっと放した。

 ちょうどそこに賢助が「なんだなんだ?」と言って入ってきて事態は収まった。田上は父の顔を見ると急に頭から熱が引いて、ついでに顔からも血の気が引いた。そして、急いでタキオンの顔を見た。怯えていた。――こんなつもりじゃなかったのに。田上は、そう思ったが遅すぎた。タキオンはもう田上を見てはくれていなかった。あまりに怒りすぎた。

 田上は、何も言うことができずに父親を呆然と見つめた。父親もまた憐れんだ眼差しを持っていた。

「……本当に運転するのか?久々の運転をするから気が立っていたんじゃないのか?」

 父の言葉には真実も含まれているような気がしたが、それだけではないことが田上には分かった。ただ、その内容が分からなかった。しかし、田上は自分を奮い立たせると言った。

「…運転はするよ。…タキオンは、本当に行くのか?来なくても怒りはしないぞ」

 自分で言ってて空しくなったが、どうすることもできずにタキオンを見つめた。タキオンは怯えた幼児のように田上の顔をチラと見たが、何も言わずに田上の袖を握った。田上はそれを肯定の返事と受け取った。

「なら、行く準備をしろ。…もう行くんだろ?」

 最後に田上は父にそう聞いた。賢助は、頷いて「もう行くぞ」と言った。それから、幸助の方を向いて、「お前は行くのか?」と聞いた。

「俺はいいよ。留守番しとく」

 幸助はそう答えた。そうすると、田上とタキオンは立ち上がり、出かけようとした。タキオンは、出る前に「トイレ」と呟いて、田上の元を離れたがすぐに帰ってきた。そして、三人は駐車場に出た。

 

 田上が車の運転席に座ると、助手席に父が、田上の後ろの席にタキオンが座った。タキオンは、本来なら助手席に座りたかったのだが、賢助が乗ってしまった以上、田上の後ろに座る外なかった。だが、この席も案外悪くはなかった。田上のうなじを見つめ、タキオンは先程の激昂のことを考えた。

 何が彼をあんな怒りに導いたのか分からなかった。確かに、一昨日の幸助と喧嘩になりそうなものの怒りは分かった。――家に女を連れ込む。それはまるで節操のない人の様な言い回しだ。これにはタキオンも怒りが理解できる。しかし、今日のところはタキオンが変なことを言われたのだ。しかもそれ程侮辱的でもないだろう。言ってしまえば、よくあることだ。恋の話が好きな保健室に寄り集まっている人たちからも、そういうものをよく聞く。だから、タキオンは田上に言ったのだが、それが裏目に出たのはなぜだったのだろうか?あんまり真相も掴めそうになかったのでタキオンは窓の外を眺めた。

 車はまだ進んではいなかった。田上は、車を進めるのに相当の気合が必要だったようで、このために気が立っていたという理由もあながち間違いではなかったみたいだ。タキオンは再び田上の方に目をやった。こんなことを何回も繰り返しているのが聞こえた。

「よし。シートベルトよし。助手席よし。タキオンもよし。サイドミラーよし。バックミラーよし。後方よし。前方よし。それから…、財布よし。シートベルトよし…」

 父親は、こんな田上の毎回見てきたのか何も言わなかった。しかし、それでも中々進まなかったので、遂にはタキオンが口を挟んだ。

「…一万二万三万…、金額よし」

「もう、早く行きたまえよ」

 タキオンがそう言うと、田上は後ろを振り向いて嬉しそうに笑った。そして言った。

「もう行きます!…じゃあ、最後の確認」

 そう言って、最後に確認をしてから、本当に車は進みだした。実のところ自分の声を待っていたんじゃないかとタキオンは思った。あの田上の顔は相当に嬉しそうだったからだ。なんという気の変わりの早い男だろうと思ったが、そこが田上らしさでもあった。情緒が不安定という言い方もできるが、彼も彼で悩みを抱えているのだろう。彼は、「タキオンと一緒に考える事が役目だ」と言っていたが、その役目もまたタキオンの役目だろう。事実、母を想って泣いた彼を放っておくこともできなかったのだ。乗りかかった船を最後まで乗りこなしてやろうとタキオンは考えた。

 

 そうして車を乗り進めていくと、タキオン一行は少し遠目のところにあるスーパーセンターに着いた。田上の先程の怒りは完全に冷めているようだった。だから、タキオンは安心して田上の手を繋いで隣を歩いた。だが、運転の興奮は暫く冷めやらぬようだった。店の中に入ってからも声の音量の落とし方を忘れ、大声でタキオンに話しかけていた。これは、田上がタキオンと仲直りできてほっとしたのも原因の一つだった。嬉しかったのだ。…まぁ、だからと言って、運転もせずにここまで来ていたなら、これ程に大声になることにはならなかっただろう。

 賢助の方は、少しの疎外感を感じたが、娘がもう一人できたような気がしてほっこりしていた。そして、本当の娘になってくれたらなぁと思っていた。――本当の娘になってくれたら、俺たちは幸助の彼女も合わせると五人家族になるのか…。爺さん婆さんも合わせたら大所帯だな。そう考えて、心の中でニヤニヤしていた。子煩悩もここまで行くと迷惑なものだろう。まだ、結婚すると決まっていない人たちの分も数に入れているのだから。

 そうして、三人は衣服売り場を通り過ぎ、お菓子売り場も通り過ぎて、食料の調達へと出た。そして、野菜売り場まで来た時賢助が言った。

「年越しそばをいくつかと正月のためのご飯をたくさん買おう。爺ちゃん婆ちゃんが今年もくるからな」

「ああ、そうか。今年も爺ちゃん婆ちゃんが来るのか…。タキオン、俺たちの爺ちゃん婆ちゃんが毎年四人とも来るんだけど、お前は大丈夫か?」

 このころには、田上の声も落ち着いていた。

「私を何と思っているのかい?別にそのくらい大丈夫だよ」

「いや、結構家の中がごちゃごちゃするから大丈夫かな?と思って」

「問題ない。君が傍にいてくれるのならそれでいいよ」

 そう言われると、田上は頭を掻いた。

「お前も本当にどうしてそうなったんだ?そんなに人に依存する奴だったか?」

「私は…、トレーナー君の傍にいたいだけだよ。どうしてこうなったかと聞かれれば、それは環境が変わったからと前も言っただろ?」

「あんまりにも変わりすぎだよ。お前、元々寂しん坊だったりしたんじゃないのか?」

「ん~…、そうかもしれないね。それが理由ならば、君は許してくれるのかい?」

「いや、永遠に問い続けるよ。もし、学校に戻ってもずっとそうだったら。…さすがに学校ではいつものタキオンに戻るだろ?」

「…どうかな?…何とも言えないよ。私だってこのことを考えたりはしているんだけど、どうにも君の隣が落ち着くんだ。まるで、私が生まれた時から君の隣が私の場所だと定められているようにね」

 あんまりにも臭いセリフだったが、タキオンにそのつもりはなく、ただ、可笑しそうに田上を見上げていた。田上もそのことは承知していたが、それでも心が揺らがないことはなかった。――もしかしたら…。その想いが心に触れる度、田上はその手を振り払って自分に言い聞かす。ダメだダメだ、と。

 

 それから、一行は年越しそばのカップ麺を四つ買い、その他諸々の食料を買い込んだ。賢助は、正月料理を振舞う気はなかったが、飯はたくさんあった方がいいので美味そうなものをたくさん買い込んだ。ウマ娘のタキオンもいたから猶更そうだった。

 そして、買うときには息子が持っていたクーポンが役に立った。――随分とお得な買い物ができたものだ。賢助は、レシートをまた見るともなく見ながらそう思った。案外、このことが嬉しかったので、その行動は家に帰ってからも度々続いた。

 タキオンたちは、荷物を持たされた。いや、タキオンは自分から持ったと言った方が正しいだろう。そのレジ袋を両手に持ってから、田上と手が繋げないことに気が付いたが、田上がタキオンの方を見もしようとしなかったから諦めた。どっちみち田上の両手も塞がっていたので、タキオンが片手だけにレジ袋を持っていたとしても手を繋ぐことは叶わなかっただろう。

 そうしてまた車の前まで戻っていった。

 

 車の前まで戻っていくと、隣の車の所に人がいた。母親と息子の二人のようだ。息子の方は、まだ背が低く幼い感じが残っていて、母親の周りをうろちょろしていた。ちょうどその時にタキオンたちはやってきた。

 タキオンたちが近づいてくると、まず先に母親の方が気が付いたようだ。車と車の間隔が狭かったので、うろちょろしている子供を叱って、車の中に入れようとした。しかし、子供が車の中に入ろうとしたとき、タキオンの事に気が付いて叫んだ。

「あー!!ママ、この人知ってる!タキオンだよ、タキオン!アグネスタキオンだ!本物なの?」

 タキオンはその子供の言葉には答えないで、ジロリと睨んだだけだった。すると、母親が子供を抑えにやってきた。

「あー、すいません。うちの子が。こら、あんまり失礼なこと言うんじゃありません。…本当にすいません。うちの子、レースが好きだから、ウマ娘を見つけたらこういう絡み方をしてしまうんです」

 母親の方が、ぺこぺこと頭を下げていたので、タキオンも問題ないですよという風に頭を下げた。

「でも、本当にアグネスタキオンだよ。皐月賞と菊花賞を勝ったアグネスタキオンだよ」

 息子の方は、今度こそ真実なのに母親が信じてくれないから、一生懸命に繰り返した。

「この顔見たことあるよ。髪の毛の色も同じだよ」

「こら」とまた母親に叱られていた。

 その様子を田上たちも隣から見ていたが、タキオンが何も言わずにそこを立ち去ったので後に続いた。だが、タキオンは車のどこに荷物を詰めていいか分からなかったので、やっぱり賢助と田上を待って振り向いた。

 田上は、振り向いたタキオンに小声で言った。

「いいのか?あの子お前のファンみたいだったぞ」

 そう言うと、タキオンはむすっとした顔をした。

「…私は無礼な子供は嫌いなんだ。特にああいう、うるさい餓鬼は嫌いだね」

 タキオンの言葉遣いが荒くなったので田上は苦笑した。

「あんまり怒ってやるなよ。お前も昔はあんなんだったんじゃないのか?」

「いいや、私はもう少し静かだったよ。少なくとも知らない人に向かって、あ!あぐねすたきおんだー!とは言ったりしないね」

 タキオンは、さっきの子供をバカにしながらその物真似をした。そして、乱暴にレジ袋を車の後ろの方に詰めてから、慌ててそれを取り繕うように少しレジ袋を整えた。幸いなことに、卵などの危険なものは入っていなかったから惨事は起きずに済んだ。田上もその後にレジ袋を入れると、車の後ろの大きなドアを閉めた。

 それから、運転席に乗り込もうとしたが、その前にタキオンが独り言だが主張するように言った。

「あーあ、今ので気分が優れなくなったよ。誰かを隣にして帰りたいなぁ」

 田上は、自分の運転でそれどころではなかったので、「うるさい!」と一喝すると気合を入れ直して、運転席に座った。

 

 その後は比較的穏やかに運転ができたというだろう。しかし、一回だけ田上がヒヤッとする場面があった。それは、スマホを見ながら自転車を運転していた十代後半、二十代前半くらいの男の人が、もうとっくの昔に赤信号になっているというのにぎりぎりまで気付かずに横断歩道まで入ってこようとしたからだ。

「あの糞バカ!!」

 スマホの人が止まったのを確認すると、田上はそう叫んで車を走らせた。その後暫くは、ぶつくさ文句を言ってはいたが、帰るころには落ち着いていて、しっかりと駐車場に駐車ができるとすぐに外に出て行って大きく伸びをした。そして言った。

「うっわ、寒い」

 タキオンはそれを後ろから見ていたが、自身のトレーナーの意外な一面が見れて、驚きと共に興味も湧いて出た。それだから、田上の後ろに近づいて手を取ると言った。

「君はなんで運転をするんだい?」

「ん?それは、勘を鈍らせないためだよ」

「何のために?」

「何のために?う~ん、まぁ、結婚したら車が必要になるだろ?」

「東京に住んでいるなら必要ないじゃないか」

「そうか…。そうだよなぁ。…まだ結婚する予定もないからなぁ…」

 そう言った田上の頭には、タキオンの顔がよぎったが、よぎっただけですぐに通り過ぎて行った。そして呟いた。

「うーん、…結婚ねぇ。夢みたいなもんだよ」

 田上は、車の後ろまで歩いていくと、タキオンの手をほどき自分が持つレジ袋を持った。だが、タキオンは自分の分を持とうとはしなかった。

「トレーナー君が持って行っておくれよ」

 そう言って、田上と手を繋ぎたいほうのレジ袋を奪い取ると手を繋いだ。

「私はこうしていたいんだ。……」

 そう言って、タキオンは田上の顔を見て何か言おうとしたが、何も言わなかった。ただ少しだけ強く手を握り直した。タキオンは今もなお子供と大人の境界線を彷徨っている。田上が父親代わりなのかなんなのか分からない。しかし、その気持ちが今のタキオンにケチなんてつけようがないくらいに今が楽しい。タキオンは、何往復かして二人でレジ袋を運ぶとトレーナーに言った。

「散歩をしようじゃないか。運動靴を忘れてしまったし」

 田上は、嫌そうな顔をした。

「外は寒いぞ。一人で行って来いよ」

「なら、君は私が帰るのを外で待っててくれ」

「よし、そうしよう。階段に座って待っておくよ」

 田上がそう言うと、タキオンは慌てて言った。

「冗談だよ、冗談。一緒に行こうじゃないか。我儘言わないで」

 それを聞くと田上は怒った。

「俺じゃないだろ!我儘言ってるのは」

 すると、タキオンも怒り返した。

「そうさ!私さ!君がいいんだよ。君じゃなきゃ嫌なんだよ。ついてきてくれよ。君がいないと私はもう家出する!」

「ここはお前の家じゃないだろ!……はぁ」

 ここで田上は疲れたようにため息をつくとこう言った。

「一回家で休憩しよう。話はそれからだ。まだ時間はあるんだから、俺を休憩させてくれ。見ただろ?運転している俺を。しっかりと見たんだったら分かってるはずだ。俺がどんなに疲れているかってことを…。な?」

 タキオンは、一瞬不満そうな顔を見せたが、田上の話を完全に理解するとこう言った。

「じゃあ、休憩したら一緒に散歩に行こう」

「いや、話は後からだ」

 そう言うと、田上はタキオンが言葉を発する前に、引き戸を開けて炬燵のある部屋に入っていった。扉の向こうから、「大変そうだな」という声と、それを肯定する返事が聞こえてきた。二つの声は似通っていて分からなかったが、恐らく「大変そうだな」と言ったのが幸助の方だろう。返事をした声の方が疲れた声の様な気がしたからだ。しかし、判別は難しかった。タキオンは、二つの声の事を一生懸命考えていたが、やがて――どうでもいいやと思うと、家に入り、ヒールのある靴を脱いで引き戸を開けた。

 暖かい空気がタキオンを出迎えた。

 

 それから、田上は午後三時半から四時まで休憩して、いよいよタキオンが騒ぎだしてから家を出た。先程運動靴を忘れたとタキオンが言ったのを聞いただろうか?あれが発覚したのは昨日のことだった。昨日の午後に自分のキャリーケースの中を見ていたタキオンが、突然静かになって、固まったのだ。タキオンは、「すぐに戻る」と言って、炬燵にいる田上の傍から離れたので、その様子をしっかりと見ていた。タキオンは一度固まった後、もう一度、キャリーケースの中身を漁っていたが、さらに再び固まった。

 そして、そっと田上の方を振り向くと目が合ったので、申し訳ないような可笑しいような顔をしながらタキオンは言った。

「トレーナー君、ジャージ類を持ってきたはいいが、肝心の運動靴を忘れてきたみたいだ」

 田上は、驚いてこう返した。

「お前…!なんでよりによってヒールのある靴を履いてくるんだよ…」

「あれでも走れないことはないさ。実際、駅まで走ってきたのは覚えているかい?」

「あれは軽くだろ?」

「このランニングも軽くと言っていたじゃないか」

 そう切り返されると田上は頭を抱えて、一生懸命考えながら言った。

「あれは!…走る用の靴じゃないだろ。そんなに高いヒールじゃないと言っても足が変になる。……本当に靴なんて一つでいいのに」

「あら、トレーナー君。私だって女性だよ。いろんな靴を持っているものさ」

「服のサイズは考えないで買うのにか?」

「おや!そこを突かれると弱い。…それとこれとは別だよ。服は、一旦買ってそれから試着だよ。着れない服であれば、デジタル君か、誰かに譲り渡す」

「さすが富豪のやることは違うね。…もう…とりあえずは散歩でもなんでもしたら?靴がないんだったら仕方がない。足を痛めないことの方が優先だ」

 そう言って田上はタキオンを許した。

 そして、今に至った訳だ。やはりタキオンは田上から離れたくないらしい。自分から散歩に行くと言っておきながら、田上はついてきてほしいというのだ。これでは、もしランニングできてたとしても、田上から半径一メートルでも離れたらすぐに戻ってきたのじゃないだろうか?

 今日の天気は生憎の曇りだったから、薄暗い住宅街を二人は歩いた。昨日のお婆ちゃんがいた方向とは正反対の方向だ。それは、お婆ちゃんをタキオンが嫌がったのもあるし、田上としてもこちらの方が歩きなれた道だったからだ。昨日よりも少し寒かった。風などは吹かなかったが、それがより空気の冷たさを感じさせたようになり、深々と冷え込む午後四時となった。雲がなければ日が沈むのが見えるころだっただろう。紅い夕焼けとなって空を照らしたかもしれないが、今となっては無意味だった。

 しかし、そんな中でもタキオンは田上に甘えながら歩き、熱々のカップルでもしない距離で歩いて田上を困らせた。タキオンはウマ娘で体温が高いから真冬でも比較的軽装だ。灰色のパーカーに黒色のジーパンを穿いていた。これは、サイズがぴったりあったものをタキオンは選んできた。タキオンは、普段適当に一人で出かけるなら、サイズの合わない服でも着ていくが、田上などと出かけるときは別だった。特段、おしゃれが嫌いなわけではないのだ。ただ、肝心なところで少し面倒臭がってしまうというだけで。

 田上の服装もあんまりタキオンと変わらなかった。黒色のパーカーに黒いズボンというもので、寒いことには寒いのだろうがこちらはタキオンのよりずっと生地が厚くてふわふわだった。このふわふわに頬を擦りつけるのも好きだったので、タキオンはこれまでにない程密着していた。

「トレーナー君いい服買ってるねぇ」

 そう言って頬を擦りつけていた。


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