ベンチでいちゃいちゃと話をしている途中で、マテリアルから連絡が来たが、田上は適当にそれに返信をすると、午前中の間だけは、タキオンと二人でいちゃいちゃする事に決めた。リリックの問題も何度か持ち上がったが、その度に、「とりあえず、様子を見よう」という結論で終わった。リリックが本当に馴染めるのかどうかは分からなかったが、少なくとも、一つの障壁は取り除けるような気がした。それは、田上とタキオンがチーム内でいちゃいちゃし過ぎるという問題だ。それには、しっかりと話し合い、いちゃいちゃするのは、こういう二人きりの時だけにする事にした。その時以外は、手も繋がない。これは、タキオンも変な笑みを浮かべた。理性と感情が戦っているような笑みだ。しかし、結局は、自分の愛すべき彼氏兼旦那の為に、理性にその場を譲らねばなかった。タキオンは、仕方がなさそうな笑みを浮かべると、田上の頬を触り、剃られた髭の感触を楽しみながら「それでいいよ」と言った。
昼食時になると、二人は、手を繋がないでカフェテリアへと向かった。田上は、からかうようにタキオンの手に触れる事を何回かした。その度に、タキオンも嬉しさと優しさの入り混じった声で、「君も困った奴だなぁ」と言った。田上には、その声の調子が嬉しかった。
そして、トレーナー室の手前で、こちらも昼飯帰りのマテリアルと出会った。マテリアルは、田上たちを見ると、急にウキウキとしだして、少し鬱陶しいくらいだった。目に見えるくらいにウキウキしていたので、タキオンが、「なんでそんなに元気なんだい?」と聞いた。すると、マテリアルは、待ってましたとばかりに顔をニコーーッとさせて言った。
「トレーナー室に行ってから話します」
それから、タキオンと田上の周りを右にうろちょろ左にうろちょろしながら、これまでよりも体から溢れる元気を爆発させていた。タキオンと田上が、いちゃいちゃする事に対して、否定派であったマテリアルが「お二人共、手を繋いだらどうなんです?」とまで言っていた。タキオンは、田上と目を合わせると、呆れ顔でため息を吐き、お言葉に甘えて二人で手を繋いだ。
マテリアルは、トレーナー室に入ってもすぐには話さなかった。ニコニコニコニコとしながら、まず、椅子に座って、田上とタキオンにも椅子に座る事を促した。田上は、マテリアルの話を聞くつもりはなかったのだが、どうやら、マテリアルは、田上にも話を聞いてほしそうなのと、タキオンも「一人でマテリアル君の話は面倒だ」という目を田上に向けてきていたのとで、田上もタキオンの右隣の席に座って、マテリアルの話を聞いた。
マテリアルは、嬉々として話を始めた。
「タキオンさん、何だと思います?」
「何?私が知ってるわけないだろ?」
タキオンは、面倒臭そうな口調で答えた。
「じゃあ、田上トレーナーは、分かります?」
「俺も分かるわけないじゃないですか」
「いやー、お二人共、自分たちの事にかまけて外の事を見ていませんねぇ?もう、昨日、本当に、いや、私天才かもしれない、と思うことがあったんですよ。本当に、これは、凄い。マジですよマジ。いやー、マジですね。いや、ホントに。これ、何だと思います?」
「知らないよ」とタキオン。田上は、何も口は開かなかった。だから、マテリアルは、田上の方に目をつけて言った。
「田上トレーナーはどう思いますか?」
「え、いや、知りませんね」
「いやー、あなた方二人共、話し相手として物凄くつまらないですね。もっと、私の事に興味を持ったらどうです?」
マテリアルは、それをニコニコしながら言っていた。
「まぁ、もう、婚約しているあなた方の事は良いです。私です!私にも春が来ますよぉ!」
「春?」とタキオンが、半ば鼻で笑いながら言った。それに、気分を害した演技をマテリアルがした。
「春?じゃありませんよ。あー、タキオンさんがそんな事言うのなら、話すのやめちゃおうかなー」
「ああ、こっちも話を遮る手間が省けた。圭一君、私たちだけで話をしよう」
タキオンが、席を立ち上がりかけると、マテリアルが慌てて言った。
「冗談です。冗談です。分かりました!手っ取り早く言いますよ。 私、松浦さんと遊ぶ約束ができたんですよ」
「へー、松浦トレーナーとね」
タキオンは、大して興味がなかったので、何か言葉を問うように田上の方を見た。田上は、そのタキオンと目を合わせると、マテリアルの方を向いて言った。
「春、ですか?」
「んんぅ。気付きますね。…いや、話しすぎたかもしれません。…話しすぎたかもしれませんね」
「私たちに松浦君の事が好きだとバレてしまった事かい?」
「あーー、…話すべきじゃなかったかもしれないね」
「そうだね。さすがに、はしゃぎすぎてしまったようだね。お陰で、こんなに美味しいネタを頂戴してくれるとは。君に何でもいう事を聞かせ放題じゃないか」
「あ!それはずるいですよ!私、タキオンさんが田上トレーナーの事好きなのは話しませんでしたからね?ちゃんと話しませんでしたからね!本当に言っちゃ駄目だし、それに、今もそんな…そんなに、…気になるっていう程度ですよ」
「まぁ、私も善良な一般市民であるから、受けた恩に仇で返すようなことはしないでおこう。…しかし、まぁ、私たちに話しすぎじゃないかい?君に、秘密という物はないのかな?」
「いや、…いや、…まぁ、あなた方なら、話しても大丈夫かな?とは思っていたんですが、…今考えてみると、さすがに、大の大人が恥ずかしすぎますかね…」
「ああ、それなら心配ない。私の隣に、女子高生と付き合って、しかも、人前で堂々とキスをしてくるバカが居る。それに比べたら、まだ君のは全く大したことじゃない」
「あれは、タキオンが、誘ったからだろ!?」
「あれは、私も本気じゃなかった。いつも通りの君であれば、当然断ると思っていた。そこで、勇気を出してしまったのが君だろ?」
タキオンにそう反論されると、田上も言う事がなくなり、それでも、少し不満そうにタキオンを眺めた。タキオンも少しの間、田上に「文句があるかい?」という目付きで見たが、やがて、おもむろにマテリアルの方を向いた。すると、マテリアルが言った。
「その理論だと、タキオンさんもバカじゃないですか?」
「ええ?」
「田上トレーナーも人前でキスをするようなバカですけど、あなたの方がもっとバカでしょう?田上トレーナー以上にやってるんですから」
「そうだね。それで、君にクリップボードで叩かれるくらいにはバカだ」
その言葉で、一瞬場にピリリと電流が走ったが、マテリアルが口を開いた。
「あれは、…怒ってるんですか?」
「…怒っているとも。私たち二人の邪魔をした」
そこで、マテリアルもこれ以上喧嘩はしたくなかったのか、田上の方に助けを求めるように、一度目をやって、逸らした。そして、マテリアルは口を開こうとはしなかったので、田上がタキオンに言った。
「でも、結果的にこうなった方が良かっただろ?」
「…いや、…いや。…君の言葉は正しいけどね。いまいち、私には、この人が、正論を盾にして、私を叩きたかっただけのように思えるね」
田上は、タキオンとマテリアルの二人を見比べた。タキオンは、怒っているようだった。マテリアルは、タキオンと睨み合うようなことはせずに、どこか、申し訳なさそうに目を逸らしていた。
「でも、考えてみてくれ。…お前は、本当に叩かないと聞かない奴だったし、俺も叩かれないと聞かない奴だった。マテリアルさんにしてみれば、もううんざりだったんだよ。ここで、何回キスしたと思ってる?」
「私たちが付き合ってからまだ一か月も経っていない。キスだって、まだ百回の内には入るだろう。我慢できるかできないかは別にして、私が思っているのは、マテリアル君は、本当に私たちに対して怒っていたのかな?という事だよ。無論、私がきっかけを招いたのは言うまでもない。それで、マテリアル君が、リリー君のため、という正論を盾にしてやって来た。でも、それが本当に善行なのかな?と私は思うんだよ。圭一君はどう思う?」
「ど、どう思うって、…なぁ…」
田上は、気遣わしげにマテリアルの方を見た。マテリアルは、今は、黙って白い長机の一点を見つめていた。
「そう。君が、マテリアル君に対して正直に言う事は求めていないよ。君にも立場がある。それは重々承知だ。前は、君の立場を考慮に入れて行動できていなかった私が怒られた。もう二度と同じ轍は踏まない。…とは言えだよ。もう少し私の気持ちも考えた言葉を向けてほしかったね、圭一君」
「ああ…、それは、ごめん…」
「まぁいい。過ぎた事だ。人間、ちょっぴりの間違いはある。しかし、間違いを放っておくと、後々面倒臭い事に発展する事もある。君だよ、マテリアル君。圭一君じゃなくて、今回は君だ。私は、どうしても君の事が許せないね」
タキオンがそう言っても、マテリアルは、机に目を向けたまま、微動だにしなかった。それで、マテリアルをどう対処しようか迷ったタキオンが、田上の方を見てきたから、田上が発言した。
「許せない、…っていうのは、どのくらい?」
「うーん…、まぁ、二言三言言って放って置くわけにはいかないくらいだね。…マテリアル君、聞いているかは知らないが、君は、今さっきも私たちを容認する発言もしたね。君は、どうも感情に振り回されやすい性格なんじゃないのかな?」
マテリアルは、何も答えなかったので、代わりに田上がまた言った。
「感情に振り回されると……、そんなに悪いか?」
「悪いじゃないか。現に、君は、私が好きであるにも関わらず、私から遠ざかろうとした。それは、偏に、私の事が怖かったから、じゃないのかな?」
「まぁ、…そうだね」
「だろう?まぁ、感情という物は、人間に備わってはいるものの、その時々によって色々と変わったりするものだ。思想や価値観によって、規則性があったりはするが、その度に、こちらもクリップボードで叩かれてたら、いつか金具の方でも殴られる可能性はあるだろ?そうならないために、私は、その規則性をマテリアル君から聞き出す必要があるんだ」
「じゃあ、…あれだね?…タキオンは、…今後もマテリアルさんが、…クリップボードで殴ってくると思っているわけだ」
「全く同じ状況でそうなるとは限らないが、マテリアル君が、何を考えて私たちを殴ったかを知らないといけないんだ」
「じゃあ、…そうだね。…どうする?」
田上は、少しタキオンに恐れを抱きながらそう聞いた。田上も二人の喧嘩が勃発してしまうのは、少し怖かった。その田上の心情を察したのか、今まで、険悪な顔でマテリアルを見ていたタキオンが、少し目と口を緩めて言った。
「大丈夫。喧嘩をするつもりはない。あくまでも、私は、マテリアル君から話を聞きたかっただけだ」
「…じゃあ、…タキオンは、本当にマテリアルさんが、…嘘?を吐いていると思っているのか?」
「嘘と言う程大きな物でもないが、矛盾は感じるだろ? さっきだ。さっき、彼女は、私たちに――手を繋いだらどうなんです?と言っただろ?私には、これが奇妙に思うんだ。マテリアル君は、そんなに意見がコロコロ変わるほど軽い女かな?」
「…違う、かもしれないね」
「そうかもしれない。それが、私には引っ掛かるんだよね。どうも、彼女は、自分の男女関係、色恋にコンプレックスを持っているんじゃないかと推測している。君は知っているかな?…あーー、マテリアル君、これは言ってもいいのかな?以前に聞いた君の恋愛遍歴。何も答えないのならイエスとみなすけど」
すると、相変わらず、机の一点を見つめていたマテリアルが、重々しく口を開いた。
「駄目です……」
それを聞くと、タキオンが仕方なさそうに田上の方を向いて言った。
「駄目、だそうだ。彼女にも恩があるからね。無闇矢鱈に彼女の嫌がる事を言うわけにもいかないよ。…でも、見てごらん。この話題が出た時からの彼女の変容を。自分の事を正しいと信じて疑わない者ならあんな顔はしない。それが、今は、普段の陽気さは、物の見事に吹き飛んでいってしまったよ」
田上は、マテリアルの顔をじっと眺めた。確かに、落ち込もうとする自分の心を気丈に振舞おうとしているように見える。瞬きの回数も普段よりも幾分か多いように感じる。田上も、――これを打ち破るのは難しそうだ、と昔の自分の心境と照らし合わせながら、そう思った。タキオンは、暫く、マテリアルを見つめている田上を見つめていたが、やがて、何とも言えないつまらなさそうな表情をしながら言った。
「なんで、私がマテリアル君に君が好きだという事を言ったと思う?」
「え、なんで?…知らない」
「予想で良いから答えてみてくれ。今は君と話したいんだ」
タキオンは、急に甘えるような声色で田上に話しかけてきたので、田上は少し戸惑ったが、次のように予想した。
「ええ?タキオンだろ?…タキオンなら、普通に恋バナしたりするか?するのか?」
「失礼だな。華の女子高生だぞ?普通に友達と恋バナくらいはしたりするさ」
タキオンは、そう言ってわざとらしく、可愛く見せようとほっぺに指をあざとく当てた。田上は、それを鼻でフンと笑いながら言った。
「そんなキャラじゃないだろ」
「ああ、傷付いたなぁ!そんなキャラかもしれないのに!」
タキオンは声高にそう言ったが、田上はあんまり気にもせずに「はいはい、そんなキャラかもしれませんでしたね」と言って、事を収めようとした。すると、タキオンは、今すぐ田上に飛びついてじゃれつきたくてたまらない、という顔をしたが、一度目を逸らすと、少し心を落ち着かせて言った。
「分かったよ。そんなキャラじゃないから、もっと私の事を考えてくれ」
「んん」と田上は唸るように返事をしてから、手を伸ばしてタキオンの髪を触ると、また、考え始めた。
「じゃあ、普通に恋バナでマテリアルさんに話したって事じゃないわけだね?」
「ああ。…ここまで来れば分かるかな?」
「ええ…?…恋バナじゃない。だとすると、なぜ、タキオンはマテリアルさんに話したかって事だな…」
ここで、田上は、心配そうにマテリアルの方を見やったが、マテリアルに特に変わった動きはなかった。
「タキオンは、……う~ん…」
「ふふふ、難航しているようだね。ヒントをあげようか?」
「いや、…ちょっと待ってな…。…タキオンが、なぜ、マテリアルさんに話したか…。自分の相談相手になってほしかったから。恋愛相談!」
田上は、結構自信満々になって答えていたのだが、タキオンの返答は「ぶっぶー」だった。
「遠からずではあるが、結果的にそうなった。私が話した理由ではないんだよねぇ」
「ええ…?…ヒントは?」
「おや?もう音を上げるのかい?」
「いやぁ、分からんからな」
「…じゃあ、ヒントをあげさせてもらうと、重要なのは、いつ、私が話したのか?だと思うね」
「……いつだ?」
「それは答えられないね」
「……いつだろう?…タキオンが、俺を好きになった時期…。一月頃って言ってなかったか?」
「そうだね。それより前から決まっていたことかもしれないが、明確に君の事を好きだと思い始めたのは、一月の末辺りだよ」
「そこ…は、丁度、マテリアルさんと出会った時期だな…」
田上は、探るようにタキオンを見つめたが、タキオンは、口元に微かな笑みを浮かべたまま、表情は変えなかった。
「すると、…時期は被る。出会いと自覚が、すると、…どうなる?…タキオンの事だから、…新入りには、牽制をつけておきたいんじゃないか?」
田上が、言葉の節を曖昧にして言いながら、タキオンの方をじっと見つめた。タキオンも、田上が答えに触っているのを自覚している事に気が付いたので、言った。
「それが答えで良いのかな?」
「…これだ。これ以外にないだろ」
「んーー、……正解だ」
これを言うと、田上は大して大きなリアクションは取らなかったが、得意そうに少し眉を上げた。途端に、タキオンは、その顔が堪らなく愛おしく見えて、マテリアルが見ていないのを確認すると、少し唇を重ねた。勿論、ほんの一瞬ではあったが、約束事を破ってそれをすると、言い知れぬ背徳感が二人を襲って、クスクス笑わせた。田上も、恐らく、マテリアルは目の前で起こっている事に、気が付いているのではないかという気はしたが、それでも、タキオンを目の前にすると、クスクス笑いが止まらなかった。
ようやく二人の笑いが収まると、田上は、微かに口元に笑みを浮かべながら、タキオンを見つめ、首を横に振った。すると、タキオンも首を横に振り返した。今の二人は、パイプ椅子を向かい合わせて、手を繋がないという約束事も忘れて、指先を触れ合わせていた。お互いがお互いに夢中になっていて、マテリアルの事などすっかり忘れ果てていた。そこに、自分を除け者にして、いちゃいちゃしている田上とタキオンに沸々と怒りが湧いてきたマテリアルが言った。
「……これだから、リリーさんが馴染めないんじゃないですか?」
その声に籠った怒りに気が付いた途端に、二人は冷静になって、今まで触れ合っていた指先も離して、パイプ椅子の向きも変え、「すまない」「すみません」とそれぞれ謝った。それから、お互いの顔を見合わせ、気持ちを確かめ合うように頷いた。その仕草すらもマテリアルには鬱陶しかったが、もう、今もう一度口を開く気力はなかったので、そのまま黙っていた。すると、タキオンがマテリアルに向かって言ってきた。
「君は、本当にリリー君に馴染んでほしいのかな?」
マテリアルは何も答えなかった。ただ、答えるのがとても億劫だった。今まで、田上とタキオンが話し合っていたことも分かる。タキオンが、自分と話し合いたがっている事も分かる。自分の中に、変な物が居る事も分かる。でも、あの怒りに自分の非があったとは思えない。二人共、自分たちの欲望に任せて、仕事を放って置こうとしたのは事実だ。何が悪くて自分が責めらなければいけないのだろうか?あそこで、タキオンと田上を叩かなければ、何も打開はなかった。確かに、やりすぎた気持ちはあるが、たかがやり過ぎただけだろう。なぜ、そんなに責められなければならない?
マテリアルの心に打ちに渦巻いているのはこんな気持ちだった。けれども、そんな気持ちを二人に向けるわけにもいかずに、ただ、机の一点を見つめるだけでそれをごまかそうとしていた。
タキオンは、そんなマテリアルを憐れむように見ていたが、不図、田上の方を見ると、難しそうな顔をして言った。
「君を…目の前にすると、甘えたくてしょうがなくなるな。一個席を移動しよう」
そう言うと、タキオンは立ち上がって、田上から一席だけ遠ざかった。田上もその気持ちは重々承知だったので、呼び止めようとはしなかったが、自分とタキオンの間に一席があると思うと、少し悲しかった。
二人は、少しの間、見つめ合っていたが、やがて、タキオンの方が一度目を逸らしてから言った。
「どうすればいいと思う?」
「どう?」
「…これから。中々、面倒な状況ではあるよ。…時が洗い流すのを待てばいいのかな?」
「…分からない」
「……じゃあ、質問を変えよう。…このままやっていけると思うかい?このチームのトレーナーとして。責任ある立場だよ?チームを率いるとは、そういう事だよ?…考えてくれ。君は、このチームのリーダーだ」
田上は、この言葉を聞くと、考えてみようとはしたが、どうにも、頭の中に打開策は浮かび上がらなさそうだった。薄く靄がかかったような頭の濁りに襲われて、考える事考える事、どれも中途半端に終わっていって、考えはまとまらなかった。チームのリーダーという事は言葉として、自分の頭の中で認識していたが、いざこうしてタキオンに問いかけられてみると、どうも、自分にはその素質が無いように思う。チームを作ってみたはいいものの、それぞれ、皆問題もなく、タキオンのように足が速かったり、時には遅かったり、それを、適当にやって、トレーナーとしての務めは果たされると思ったが、こうしてみると、問題に真剣に向き合うというのは、想像以上に難しそうだった。
田上が、暫く口を開かずに、靄の掛かった頭でずっと同じことを考えていると、タキオンが言った。
「君は、…私に、宝塚記念を――恋人として走ってくれ、と言ったね?」
田上は、その声で顔だけタキオンの方に向けると、ゆっくりと頷いた。
「それは、…何と言うか、トレーナーとしてあるまじきことなんじゃないかと思うんだよね。…勿論、私には、もう、君の恋人としてじゃないと走る気力なんて起きない。だから、私にそう言ったのは、間違いではないと思う。少なくとも、私に対しては、だ。だが、ここは、一夫多妻制の文化が根づいていない無い国だから、幾ら君でも誰彼に対して、構わず――俺の恋人として…、と言う事はできないだろう。私も、それは許したくないね。それをされた日には、君とじっくりと話し合わなければいけないことになる。今話している以上にじっくりとね。…だから、本来は、君は私に――恋人として、と言うべきじゃなかった。いや、君も変な立場に立たされているのは分かっているけどね。自分の恋人が、宝塚記念を走りたいとごねているのが心配であるのは分かるし、私もその様に答えるしかないと思う。だけど、さっき言ったように、誰彼構わず恋人にするわけにはいかないからね。マテリアル君だってそんなのは御免だろう。私たちには、ちゃんとした解決が必要なんだ。トレーナー君は、そうあるべきだと思うんだよね」
タキオンが、不意に昔の呼び方をしてきたので、田上はドキリとしてしまったが、あんまり表に出さないように取り繕うと言った。
「ちゃんとした解決って言っても、……難しくないか?…なぁ?…俺、あんまりリーダーシップみたいなのは無いし」
「いや、私は、多分、君は人を束ねる人として十分な素質があると思うよ。何しろ、この私に言う事を聞かせているんだから」
「それは、今は、付き合ってるからだろ?」
「今だけじゃないよ。付き合っていない時、昔もちゃんと私に教えてくれていたじゃないか」
「…そうかぁ?」
田上が、怪訝そうな顔をすると、タキオンは笑って言った。
「そうだよ。少なくとも、だよ?私に対して、君は親身になって接してくれた。その親身さは、取り柄だと思うけどね」
「いや、…それは、…タキオンだったからっていうのもあると思うけどね」
「どういう事だい?」とタキオンは不思議そうに、でも、少し嬉しそうに聞いた。「私だから、君は親身になってくれたのかい?」
「…んーー、説明するのが面倒だけど、…相性が良かった?みたいな感じかな。そもそも、お前の距離が俺に近かっただろ?」
「初めの頃は、私も、そんなに近くはなかったと思うけどね」
「いやぁ、大概だと思うぞ?」
「でも、他の人に、そんなに距離が近かったとは思わないけどね」
「いやぁ?…松浦さんに抱き締めてって言った時もあったし、霧島にも、薬を飲めってぐいぐい言っただろ?」
田上が、そう言うと共に、少し顔をしかめたのを、タキオンは目ざとく見つけて、少し苦笑した。
「ああ、そんな事もあったね。…すると、彼氏の君は大変だね。嫉妬してしまったりしなかったのかな?」
「あーー…、そうかもね」
「んん?どうなのかな?」
曖昧な言葉で済ませようとした田上を逃すまいと、タキオンは、一歩詰め寄った質問をした。これには、田上も答えるのに難儀したが、迷った挙句に結局、「嫉妬するね…」とタキオンから目を逸らしながら答えた。タキオンは、その顔を見て、ふふふと笑った。
「そうだね。最近はしてなかったと思うが、これからも、そういう事が無いように努めていこう。何しろ、付き合ってもない時に、私に対して――行かないで、というような人だからね、圭一君は。そりゃあ、嫉妬してしまうよ」
「お前、…それはお前も同じだろ?俺だけじゃないよ。お前だって俺が、他の女の人に――抱き締めて、って言ったら、嫉妬するだろ?」
「嫉妬するさ。だって、君は私のだもの。私の物が他の人に奪われようとするのをじっと見ているのは、さすがに、私の心が許さないね。…という事は、君も同じように思っているって事だと仮定すると、…君は、私の事を自分の物だと思っているわけだ。…ふふん。君がその表情の奥で、私に対して独占欲を働かせているものだと思うと、大いにそそるね」
タキオンの変な言葉に、田上は怪訝な顔をしながら「何がそそるんだよ」と半ばツッコむように聞くと、タキオンは、得意そうにも見える笑みを浮かべて言った。
「お互いに思い合っているという事にさ。いや、君も私と同じように独占欲があるのならば、それはとても面白いし、もっともっと親近感が湧くと思ってね。…今、親近感がないというわけではないけどね?…君が、私と同じ気持ちを抱いているというのなら、少し面白いじゃないか。それこそ、キャラじゃないからね。俗に言う、ギャップ萌えという奴かな?」
「何でもいいけど、…ね」
田上が、言葉の後に、不自然な間をつけて「ね」と言うと、タキオンも少し冷静になってこう言った。
「ああ、話が大分逸れた。何だったかな?…えーっと、…そう、君は親身になってくれる。リーダーとしては良い素質を持っていると思うけどね」
「でも、…誰に対しても親身になれるわけじゃないって言ったろ?タキオンだけだって」
「ああ、そうだったね。…じゃあ、どうしようなねぇ?…タキオンだけ、という響きは嬉しいが、……それでも、やっぱり私は、君がその素質を持っていると思う。冷静に頭を働かせて対話をしようとしてくれる。それが重要だ」
「…でもな、……幻滅させるかもしれないけど、多分、俺は、お前が思う程かっこよくて完璧な人間じゃないぞ?」
「それは、謙遜し過ぎだし、私だって、君が完璧だとは思ってないさ。昨日の夜の電話でも言ったろ?――不完全な完璧人間だって。 私は、君に完全を求めているわけでもないし、そんなに、恋に盲目になってるわけでもない」
「どうかな」と田上が、怪しむような声を出したが、それを無視してタキオンは続けた。
「だから、同じことを繰り返すようだが、考えてもみてごらんよ。私だよ?私を君はスカウトしたんだよ?私と共に、クラシック三冠の内、二冠を取ったんだよ?君のお陰だよ?君が居なければ、私は、そんな大それたことは成し得なかった」
「……でもな、幾ら親身になれるって言っても、限度があるんだよ。…な?」
田上が、マテリアルの方をチラッと見て、――察してくれ、とでも言うようにタキオンの方に目を向けた。タキオンは、その意味が分かりそうではあったが、声に出さない意味が無いように思えたのでこう言った。
「マテリアル君には親身になれないって事かい?」
これを聞くと、田上は一瞬眉を寄せた。
「別に、親身になれないって訳じゃないんだけどな。……言うのが難しいな」
田上が、どうにもマテリアルの事が気掛かりで、言葉を言えないようにそわそわしていたので、タキオンも彼女の方を見た。マテリアルは、相変わらず、身動き一つしていなかった。しかし、二人の動きが変わって、自分を見つめているのに気が付いたのか、マテリアルは、急に立ち上がると、そのまま自分のバッグを持って、トレーナー室から出て行ってしまった。あまりにも突然の動きだったので、二人が呼び止める間もなく、あっという間にマテリアルは部屋から出て行った。
その後、呆然と二人は目を見かわした後、タキオンが言った。
「行っちゃったよ。…怒って出て行ったのかな?」
「…分からない」と言いつつ、田上は、自分の言葉がマテリアルを怒らせたのじゃないかと戦々恐々としていた。しかし、タキオンは楽観的だった。
「まぁ、私たちに気を遣ってくれたのだろう。怒るようなことは何も言っていなかったと思うし。…マテリアル君に親身になれない、は、怒らせてしまったかな?」
「分からん…」
「多分、そんなに怒らせるような事じゃないと思うんだけどね。…まぁ、後で君が連絡を取ってみてくれ」
「俺が?」
「そうだよ。君以外誰がいるって言うんだい?君は、このチームのリーダーじゃないか。その補佐が何も言わずに出て行くって言うのなら、連絡を取るべきなのは君だろ?それに、もっと言えば、相談役になるのも君だ。トレーナーは、相談役としての役割も大きいだろ?本格化を迎えれば、選手の精神は少し揺らぐんだから」
「ああ…」
「何を迷っているんだい?圭一君は、私の夫だろ?しゃんとしたまえ!だらしがないぞ!トレーナーとしてやるべきことをやるんだ!それは、圭一君がトレーナーになるって決めた時から、決まっていた事だろ?」
「ああ…、分かってる…」
「……何か、まだ言いたい事でもあるのかな?」
「……いや、いい。…分かってる。俺がしないといけない…」
「まぁ、マテリアル君が、君の事を舐め腐っているから忘れているかもしれないが、このチームの統率者は圭一君だからね。君が、ここを束ねるってくらいの気概を見せないといけないね。勿論、君だって人間だから、失敗することはあるだろうけど、そういう時は、気概を見せてくれた君に報いようと、助けてくれる人が必ず居るよ。私もそうだし、マテリアル君だって、何も君の事を嫌っちゃいないんだから」
「…そうだね。…俺が、やらなきゃね…」
その田上の様子が、タキオンには今一つのように感じられたから、何を言おうか迷ったが、結局、席をまた田上の隣に戻すことにした。そして、隣に戻り、暫く見つめ合うと、タキオンが口を開いた。
「良い奴だよ、…君は。本当に…ね」
田上は、その言葉をしっかりと聞いてはいたのだが、果たして、それにどのように答えればいいのか分からなかったから、黙ってタキオンの顔を見つめていた。すると、タキオンは、席をもっと田上の方に寄せると、言った。
「ここは、もう二人きりの場所だよ?」
この言葉は、田上にも十分にどう答えればいいのか理解できたので、「ああ」と少し笑って頷くと、タキオンの頭を撫でた。
それからは、暫く、二人で自分たちだけの時間を楽しんでいたが、今日も放課後にトレーニングがあった。