ケロイド   作:石花漱一

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二十五、カラオケと春⑧

 今日は、リリックは、ダンスレッスンの予定だったが、オリエンテーションだけなので、トレーニングも少しする事になっている。ただ、田上は、リリックの心情も考えて、そんなにきつく苦しいトレーニングは、今日はさせてあげない事にした。ここで、落ち込まれても困るからだ。

 田上は、先にタキオンのトレーニングの指導をしつつ、リリックが、オリエンテーションを終えてこちらに来るのを待った。マテリアルは、普段の時間より十分程遅れたが、来ることには来ていた。しかし、「突然、部屋から出て行ってすみません」と言った顔は、これから戦にでも向かうかのような険しい武士の表情とよく似ていた。ただ、どこか苦しそうでもあった。その時は、田上も「悩みがあったら言ってくださいね」と社交辞令のように言ったが、マテリアルにも自分にもその言葉が響いていない事は、本人たちが良く分かっていた。

 リリックは、いつまで経っても来なかった。マテリアルが来たに十分後くらいには、もう来てもいい時間だった。田上は、それでも――オリエンテーションが長引いているのかな…と楽観視していたのだが、それから、二十分経ってもやってこなかった。今まで険しい顔をしていたマテリアルも、思わず心配に顔を曇らせていた。だから、田上は、一旦マテリアルにタキオンの指導を任せると、ダンスレッスンのオリエンテーションがあったはずの体育館へと向かった。

 そこで、担当の講師に話を聞いてみて驚いた。リリックは、ダンスレッスンに出席していなかったらしい。どこにも髪の長い黒髪の子は見当たらなかったそうだ。すると、田上の頭の中に今朝の出来事が過った。リリックの心境にどのような変化があったのかは、詳細には分からないが、きっと、レースに対する心持ちが芳しくない方向に行ってしまったのだろう。

 これは、トレーナーとしてだけではなく、田上自身としても心配だった。だから、すぐにマテリアルの方に連絡すると、リリックを探してみることを伝えた。マテリアルからは、すぐに返信が来たが、その察せられる心情とは裏腹に、実に事務的で単調な調子ではあった。

 田上は、その後すぐに、リリックに「今日は、体調が悪かったのか?」と送ったが、当然、すぐに返信が返ってくることはなかった。それで、田上は、――どこを探そうか?と考えた。田上には、なんとなくリリックは寮の自分の部屋にいるのではないかと考えた。そうすると、少々厄介だ。そこに入るのには寮長の許可が要るが、今は放課後だ。寮長のフジキセキは、どこかでトレーニングをしているのかもしれない。

 その様々なことを、今すぐ実行させようと思うと、億劫で躊躇いの生まれるものだったので、田上は、とりあえず、状況を確認しやすい、『リリックの担任の先生を探す』という手段を取った。これであれば、今日リリックが来たのか来ていないのか、来ていたとすれば、普段と違う様子はなかったかが知れる。

 結果的に、先生を探すことは容易かったが、収穫はあまり得られなかった。少なくとも、授業に出ていたことは確認できた。しかし、今日の様子はというと、詳しいことは分からず、「最近、リリックさんは元気ないですよね~」という女の先生の一言が聞けただけだった。それだから、田上は仕方なく、今度はフジキセキの捜索に当たった。

 フジキセキを行く当てもなく探すよりも、タキオンに連絡を付けてもらう方が容易いように思えたが、タキオンだってスマホを見ながらトレーニングを行えない以上、向こうの方だって、田上の連絡には気付きにくいだろう。タキオンは、休憩時間に少し呼び出して連絡をさせてもらうことはできるが、向こうの方は、トレーニングすべき場所にスマホを持ってきているのかすら定かではない。けれども、田上は一本の綱を頼って、タキオンに連絡を取って貰うことにした。ここで、タキオンがリリックの部屋を尋ねるか、田上が直接リリックに電話を掛ければいいという案が出たが、田上は自分が直接話したかったし、電話を掛けても繋がらなかった。

 だから、タキオンはフジキセキの方に連絡をつけてみたが、こちらの方も大して上手くいったとは言えなかった。やはり、フジキセキがトレーニング中なのか、スマホを持ってきていないのか、当然すぐには繋がらない。それで、いよいよタキオンが、寮に行って確認してこようか?と提案したが、タキオンには肝心のトレーニングがある。マテリアルが、探してきてもいいと言ったので、田上は悩んだ。マテリアルが探しに行くのであれば、田上には問題がなかった。少なくとも、タキオンのトレーニングを続けられ、リリックの様子は確認できる。でも、田上は、リリックとどうしても顔を合わせて話したかった。その理由の一つに、タキオンとの話し合いで関係性がまた一つ変化したからだ。田上は、今までは嫌だったかもしれないチームが、君のためにこんなに変わったよ、というものを見せてあげたかった。その為には、対面するのが一番いいように思う。しかし、リリックは田上と対面したがるだろうか?今まで、期待を裏切り続けてきた張本人と今の状況で会いたがるだろうか?男としても、ここで行ってしまっては圧がかかるかもしれない。だから、今は、同性であるマテリアルにリリックの行方を委ねることにした。マテリアルであれば、寮に入るのも、特に許可は必要なかった。

 マテリアルは、それを田上に頼まれた時、複雑そうな表情を浮かべたが、素直に「はい」と頷いて、駆け足で寮の方へと行った。あとに残された田上とタキオンは、思いがけず二人になった。それで、タキオンは期待している目をしていたし、田上もその様子が分かった。だから、少し笑みを浮かべると、「ここは二人だけの場所じゃないぞ」と言って、タキオンの頬を人差し指で触った。タキオンは、少し嬉しそうに恥ずかしそうにしながら、黙って頷き、トレーニングへと戻っていった。

 

 マテリアルは、二十分くらいした後に田上の下へと戻ってきた。リリックを隣に引き連れてはいなかったが、それは、すでに連絡しあっていたことだった。

 リリックは、寮の部屋には居たが、とてもトレーニングに出たい雰囲気ではないようだった。それで、田上が「電話をしたい」と掛け合ったのだが、マテリアルとリリックで話し合った末、例え、後で田上の方に話が伝わるとしても、マテリアルと二人だけで話したいそうだった。――それほどまでに信用されていないのか…、と田上は今までの自分の行いを恥じながらそう思った。しかし、そこで強引にしてもしょうがないように思えたので、田上は、「そのように」と頷いた。

 そして、帰ってきた時のマテリアルは、行った時と同じように、複雑そうな表情だった。

 田上は、タキオンのトレーニングを見ながらも、ソワソワとしながら、マテリアルに聞いた。

「リリーさんどうだった?」

「どうだった…?……あんまりよく分かりません…」

「どういうこと?あんまりよく分からないって」

「……どうも、夢で何かあったみたいで、…あんまり私にもよく分からないんですけど、…これ、言ってもいいんですかね?」

 田上は、悪意がもしかしたら、タキオンだけではなく、別の人に危害を及ぼす可能性もあるのじゃないかという考えを持って、少し不安になったが、「言ってみて…」と続きを催促した。

「…多分、リリーちゃんも田上トレーナーに伝わることを承知で言っているんだと思うので言いますけど、…まぁ、夢で小学生の頃に好きだった男の子とキスしたのが、原因だったそうです。…あ、これは、タキオンさんには言わないでほしいそうです。タキオンさんには言わないで、って言っていました。…まぁ、タキオンさんがそんな事で無闇矢鱈にからかうとは思いませんけど、言わないでって言っているんだから、言わないほうがいいんでしょうね」

 そう言うと、田上とマテリアルは、揃ってトレーニング場を走っているタキオンを遠くに見つめた。タキオンは、自分のノルマを達成するために一生懸命に走っていた。そのタキオンを見つめながら、他の上が口を開いた。

「キスでそうなったんですか?」

「…多分。まぁ、あんまり良く分からなかったんですけどね。なんか、目が覚めて後悔したとか嫌だったとかで…。どうなんでしょう?」

「えぇ?…分かりませんねぇ…。………なんでしょうね?…じゃあ、俺たちの事は関係なかったって事ですか?」

「…それは、私は無いとは言い切れないと思います。実際に、馴染めてはいないので。…だから、…どうすればいいんでしょう?」

「どう……。タキオンに相談できればいいんだけどなぁ…」

 田上が、そうぼやくと、マテリアルの表情が一瞬固くなったように思った。そうすると、唐突にタキオンの声が聞こえて、田上は振り返った。今は、すっかりタキオンのトレーニングの事を忘れていた。

「おい!圭一君!君、ちゃんと私のトレーニングを見てないだろ?休憩の合図を出す気配がないじゃないか!」

「ああっ、ごめん!忘れてた!」

「これが、彼女で良かったね。他の人だったら、放っておかれて、他の女と話している事に大激怒するところだったよ」

「ホントにごめんって」と田上は、タキオンの変な怒り方に苦笑しながら言った。

「なんだい?その態度は。まるで反省する気がないじゃないか。今日のトレーニングはどうなんだい?休憩かい?それとも終わり?もう十分に走ったような気はするけど」

「じゃあ、終わりで行こう」

 田上がそう言うと、タキオンは話を変えた。

「リリー君はどうだったんだい?部屋に居たのかい?」

「居た…そうなんだけど、どうも、おかしいみたいで…」

 そう言いながら田上がマテリアルの方を向いた。マテリアルは、タキオンに見つめられると、すぐにタキオンから目をそらして、頑なにタキオンでも田上でもない遠くの人混みを見つめていた。

 タキオンは、それが何故そうなったのかが容易に想像できたので、少し苦笑しながら田上に言った。

「何がおかしいんだい?」

「…夢から覚めてガックリきたそうで…」

 すると、マテリアルが「田上トレーナー?」と怪訝な顔をして聞いてきたので、田上はこう答えた。

「夢の内容は言わなければいいと思ったけど…」

「そうかもしれませんね…」

「夢の内容?」とタキオンが田上に聞いた。

「リリーさんの夢の内容は、タキオンには話したら駄目だそうだ。…全く分からん。なんで、俺には良くて、タキオンには駄目なのか」

「…私の方が信用されていないって事なのかな?…まぁ、当然と言えば当然だろう。私は、まだ学生という身分なわけだし、つい先日まで、一生懸命君に甘えていたのは、私だものね。…まぁ、そうなのであれば気にはしないよ。私には、この話には介入してほしくないという意思の現れだろうからね。圭一君がなんとかすればいいだけだろ?」

「そのなんとかが、今、難しそうではあるんだけどね…。…多分、俺たちがずっといちゃいちゃしていた事は、少なくとも、今回、リリーさんがサボったことには関係がなさそうなんだよ」

「ほう…。じゃあ、私たちは、また、いちゃいちゃしていいという事かな?」

「違うだろ。二人共自制を効かせるって話じゃなかったのか?」

「ああ、そうだったね。 あーあ、君といちゃいちゃできないのか」

「そういうことでもないだろ?」

 田上は、タキオンに優しく言い聞かせた。そうすると、タキオンの方もため息を吐くと言った。

「いいよ。分かってるから。二人きりの時なんて、案外、思っているより多いから。分かっているもの」

「…そうだな。…どうします?マテリアルさん。リリーさんは、…俺と話してくれそうですか?」

「…分かりません。…どうすればいいんでしょうね?」

 マテリアルがそう問い返すと、二人共う~んと唸って、考え込んだ。全く以て、会いたくないと言われたら、田上も成す術がなくなる。それに、原因もいまいちピンとこない。――果たして、どうすればいいのだろうか…?

 そう思っているうちに、タキオンは、田上の方に来て、そっと肩を寄せた。二人きりでなくとも、少しだけでもいちゃつきたいようだ。田上もその事に気がついたが、肩を寄せるくらいであればなんともないので、放っておいた。マテリアルは、リリックの処遇に悩みながらも、肩を寄せあっている二人の事を時折、嫌そうにチラリと盗み見ていた。

 

 結局、あまり良い考えは浮かばなかったが、ここは強引にでも田上と話してもらわないと困る。だから、マテリアルがまたリリックの寮を訪ねて、田上との電話をするのを必死に説得しようとした。その甲斐あってか、田上はリリックとマテリアルの電話を通して話をする事ができた。

 リリックは、か細い声で「もしもし?」と電話に出てきた。

「はい、田上です。リリーさん?」

「…はい」

「…初めに、俺から謝りたいことがあるんだけど、良いかな?」

「…はい」

「あの、…俺とタキオンが付き合ってることは知ってるでしょ?……あれが、ちょっとリリーさんには鬱陶しかったんじゃないかなーと思ったんだよ。その思ったってのは、マテリアルさんに注意されたからなんだけど、どう?」

「…分かりません」

「まぁ、分からない事もあるかもしれないな。…でね。俺もタキオンと話し合ったんだよ。そりゃあ、あの、…付き合ってるのにいきなり別れるってのはできないからね。できないけど、せめて、人前でそんなに…見てて嫌になるような、鬱陶しくなるようないちゃいちゃする行動はやめよう、って話になったんだよ。ね。だから、リリーさんにも謝りたくて。もしかしたら、俺たちの行動が、ものすごく邪魔だったんじゃないかなーと思って。あの、…トレーニング中にそんな事をやってた時もあったから、これは本当に駄目だと思う。本当にごめんなさい。これから、そういう事は、ちゃんとタキオンの方にも注意するし、俺もしないし、タキオンも自制をするって言った。それでも、やってる時があったら本当に、容赦なくマテリアルさんに言いつけていいから。リリーさんが言いにくくないのであれば、俺たちの方に言ってもいいけど、言いにくかったらマテリアルさんの方に言ってもいいからね。マテリアルさんだったら、ちゃんと俺たちに物申すことができるから。…本当にごめんなさい。…あの、それで、怒って、嫌で、トレーニングに来たくないっていうのであれば、それはもう一先ず収まりました。終わりました。…でも、マテリアルさんの話を聞いた限りでは、それとは、少し違うようだったとは思うんだけど、…ちょっと待ってね。タキオンが近くにいるから、帰らせる。聞かれたくないようだからね」

 そう言うと、田上は、タキオンの方を向いて言った。

「おい、タキオン。ここからは企業秘密だ。大人しく夕食を食べに行きなさい」

「えー、一緒に食べるって約束だったじゃないか!」

「予定が変わった。リリーさんの聞かれたくないことだから」

「いいよ!私、少し離れたところで待っておくから。聞かなきゃ良いんだろ!聞かなきゃ!」

 タキオンは、そう言うと、少しツンと顎を上げながら、田上から離れた土手のところに座った。その様子を見ると、田上は、また電話の方に向って言った。

「タキオンを追い払ったから言うけど、その…夢ってのはどういう事?」

「…」

 リリックが、何も答えないので、田上は暫く待っていたが、やっぱり何も答えなかった。だから、田上はこう質問をした。

「夢を見て、がっかりしたって聞いたけど、…今はどう?」

 これにも、リリックは何も答えなかった。それで、田上もこれは話の方向性を変えたほうが良いと思って、何を話したら良いのか考えた。リリックと合うような話題を頭の中で探してみたが、これと言ってぴったり来るものは見つからなかった。それに、そもそも、田上とリリックはあまり会話をしていなかった。今までは、田上がタキオンに付きっきりだったし、会話をしたとしても、それは、トレーニングに関する事務的なものだった。この考えに行き着くと、田上も――しまったなぁ、という後悔を持った。考えれば考える程、田上とリリックは、コミュニケーションを取っていなかった。何回も同じ部屋に居たというのに、話すことは殆どなかった。それは、偏にタキオンのせいでもあったが、田上自身も女子中学生と話すという事を避け気味でもあったためである。勿論、タキオンが居なければ、もう少しマシにリリックともコミュニケーションを取っていただろうが、田上本人として、タキオンでもない女子中学生に真面に向き合う気にはなれなかった。

 それに対する後悔もあったが、同時に、――女子中学生と何を話せば良いんだ?というある種の憤り的な物もあった。タキオンと話すのであれば簡単だった。タキオンと出会った時は、高一のときだったが、その時には、もうすでにタキオンもタキオンらしくあって、研究に明け暮れていても、真面に話すことはできていた。しかし、リリックの方は、どうも初めの方から、向こうから避けられている気がしてならない。避けられているというのは言いすぎかもしれないが、それでも、田上もリリックも、自分から積極的に関わっていくタイプではないから、会話なんて発生のしようがなかった。

 そうなれば、ここから田上がリリックに積極的に関わっていくしかなかった。と言っても、今は、そんなに悠長に言ってもいられない場面である。田上は、電話の向こうの静音を聞きながら、――どうしたものか、とこちらも悩みに入ろうとした。その時に、唐突に電話口からマテリアルの声がした。

「田上トレーナーは、リリーちゃんの事をどうお思いですか?」

「え、…ああ、一緒に走りたいと思っている、よ?」

「そのようです。リリーちゃんは、田上トレーナーの事はどう思ってる?率直な意見でいいですよ?田上トレーナーも悪口を言われたくらいで怒るような人じゃないので」

 マテリアルがそう言うと、少し沈黙が流れた後に、リリックが口を開いた。

「…タキオンさんとずっといちゃいちゃしていて、本当にウザい人…」

 これを聞くと、田上も思わず笑ってしまって、その後に誤魔化すように「ごめんごめん」と言った。

「いや、本当にごめんじゃ済まないと思うけど、…やっぱり、そうだったんだな、と思って。…本当にごめんなさい。また、次に会った時に、ちゃんと頭を下げます。 リリーさんは、次のトレーニングには出れそうですか?できなさそうだったら、また、スケジュールを調整するけどどんな感じですか?」

 リリックは、少し考える間を空けた後に言った。

「怒られますか?」

「あー、俺は怒るつもりはないし、俺の非も大きいから。…だけど、ダンスレッスンの先生はどうだろうねぇ。金曜に、もう一度ダンスレッスンがあるけど、その前に俺と一緒に謝りに行こうか。多分、大して怒らないような先生だと思うよ。あんまり横柄な態度を取れば別だとは思うけど」

「…田上トレーナーは怒らないんですか?」

「俺?俺は怒らないよ?悪いの俺だから。むしろ、謝らないといけないだろうと思っているけど」

「…分かりました」

「…じゃあ、…どうかな?トレーニングをどうするかはあんまり聞いてないけど」

「…今から、少し走りに行ってもいいですか?」

「え?ああ、いいよ。うん。走れそうなんだね?」

「はい。…じゃあ、電話…切ります」

 すると、電話が切れる前に、その電話の持ち主であるマテリアルが出てきて言った。

「私は、もう先に帰ります。今日もお疲れ様でした」

「はい、お疲れ様でした」

 田上がそう言うと、電話はぷつりと切れた。

 

 田上の電話が終わった様子を感じ取ると、すぐに土手に座ってまだトレーニングを続けている民衆を眺めていたタキオンが近寄ってきた。

「もう、私と一緒に夕食の時間かな?」

「いや、リリーさんが走りたいらしい。だから、今日は、夕食は一緒には取れないかな」

「ええー!仕事と私どっちが大事なんだい!?この台詞を私に言わせても良いのかなぁ!?」

「それはお前が一番分かっているだろ!?仕事とお前、どっちが重要か?だなんて」

 田上が、上手く切り返すと、タキオンも言う言葉がなくなってしまった。田上の言う通り、そんな事はタキオンが一番良く分かっていた。だから、最終的に悔しそうな嬉しそうな複雑な笑みを浮かべると、田上の事を見つめながら言った。

「でも、私をそんなに無下に扱ってもらわれると困るからね。圭一君の妻なんだから、その事を忘れないで、たまには妻の事を思ってあげるとか、したほうが良いと思うけどね」

「そうだな。お前が、明日から授業に出るってなると、いよいよ、二人きりの時間が少なくなるな。…学生恋愛にしてみれば、そんな感じで妥当だろうけど…」

「私たちは、そんなものじゃ収まりきらないよ。それに、私は、明日から授業に出ると言っていない」

「…でも、ちゃんと自制をするつもりなんじゃないのか?」

「明言はしていない。私には、考える時間が必要だ」

「…でも、お前は」

「ちょっと待ってくれ!私の心は、二言三言で変わるわけじゃないし、明言はしていないんだ。私には、もう少し考える時間が必要なんだ」

「でも、俺の事も想っているんだろ?」

「それはそうだが、今は状況が違う。考えてみれば、あの時想像した以上に、君との時間が少なくなることに気がついた。もう少し考えないといけない」

「…でも、」

「これ以上私を追い詰めないでくれ!!…いや、あんまり大声を出すつもりはなかったんだけど、…辛いんだ。…私の気持ちも分かってくれ」

「…分かった、けど、……発言していいかな?」

「…許可する」

「俺は、お前の恋人として、お前がこの状況を見逃すというのはいただけないね」

「…この状況とは?」

「お前が決断しようとしたタイミングだよ」

「それは違う。あれは、ただの圭一君の勘違いだ。決断しようも何も、私は、ただ君の感情に少しあてられたに過ぎない」

「じゃあ、明日行かなかったとして、これから先はどうするんだ?恋人として、それは話してもらわないといけない」

「…考える時間が必要だ、それについては…」

「じゃあ、いつまで考えるつもりなんだ?」

 そう言われると、タキオンは少し恨めしそうに田上を睨んだ。

「……決めなきゃいけないかな?」

「まぁ、お前が決められるなら決めないといけないだろうな。…俺も、あんまりお前の父さんと母さんに話を持っていきたくはないんだけどな」

「君の義父さんと義母さんだ。…でも、…決めたくはないなぁ…」

「決めなきゃいけない時は必ず来るだろ?お前も分かっているはずだろ?あんなに俺に話をしてくれたじゃないか」

「人に話すのは簡単さ。自分の感情などそんなに気にしなくて良い。それに、私は、君と一緒に居たかったし、君が心身共に健康になってくれれば嬉しかった。だから、一緒に過ごそうと言ったまでだよ。それが、悪い女っていうのなら、今すぐ振ってもらっても構わない」

「俺は構う。これも、お前が一番分かっているだろ?いつまでその事を引きずっているんだよ」

「きっと、死ぬまで一生引きずるね。君に対する後悔だもの。私は、君に好きになってもらいたくてしょうがなかった」

「元々好きだった」

「知ってるよ。だけど、これは私の心の問題だ」

「なら、俺の心の問題でもある。お前が悩むんなら、俺も悩む」

「…それだから、私も君に甘えたくなるんだ…」

 タキオンは、それを少し嬉しいような笑みを浮かべながらも、同時に、非難がましい目で田上を見た。

「でも、朝は、行きそうな雰囲気は持ってただろ?キスすれば行ってくれそうか?」

「…君の態度によるね」

「どんな態度を取れば良い?」

「……分からない」

「…でも、二人きりじゃないと、そういうイチャイチャはしないと決めたからなぁ…」

「…でも、同棲していない限り、二人きりになるのは難しいよ?」

 タキオンは、少し元気のない声でそう言った。

「そうだよ。それが問題だよ。これから、忙しくなってくれば、あのベンチで二人きりで過ごすのも難しいだろうからね」

「…やっぱり、君は、私の専属として雇っておくべきだった」

 タキオンは、相変わらず、田上を非難がましい目で見つめながらそう言った。しかし、田上は、不図、何気なく目を逸らした時に、遠くからやってくるリリックを見つけた。だから、一気に興味はそちらの方に持っていかれ、まだ、自分たちを見つけていないリリックの方に向かって、「お~い」と言いながら手を振った。タキオンは、自分の話を無視されたことに、不機嫌になっていたが、リリックが近づいてくると田上に当て付けるように、ツンと顎を上げながら、また元居た場所へと戻っていった。田上は、その様子をしっかりと見ていたが、特になんとも思わなかったようだ。リリックのことを平気で迎い入れ、様子を何個か聞くと、走りたいリリックをそのまま送り出してやった。そして、満足そうに腕を組むと、リリックを遠くに眺めやった。タキオンのことなんて、全く気にしてもいなかった。

――振り向いてくれたらいいのに…、とタキオンは、少し泣きそうになりながら思った。

――恋人と今まで話してたのに、それを無視して別の女にかまけるなんて男の風上にも置けない。

 そう思うと、タキオンは、――もう圭一君の事は置いて帰ってやろう、と考えた。しかし、腕や足に力が入らず、体育座りのまま立ち上がる事ができなかった。やっぱり、まだ、心の何処かで田上が振り向いて、すぐに自分に気が付く事を期待していた。だが、この期待は、虚しく裏切られた。

 結局、田上はリリックが思う存分走って、満足して帰ってからタキオンの下にやってきた。タキオンは、その頃には、俯いて外は見ようとはせずに、――圭一君もリリー君も皆嫌いだ、という気持ちになっていた。そういう時に、田上がニコニコしながらやってきたので、タキオンは話しかけられても絶対に顔を上げないという決心をした。その甲斐あってか、田上もタキオンの機嫌を悪くさせてしまった事に、今頃気がついたようだ。悲しそうな声で「ごめん」と言ってきたが、タキオンはそんな言葉くらいで田上を許す気にはなれなかった。こともあろうか、大事な彼女を無視して、他の女と喋っていたのだ。タキオンは絶対に許したくなかった。

 それでも、田上に何回も謝られると、段々と――顔を上げて許してやってもいいかな、という気持ちになった。そして、ついに、田上が「何かしてほしい事をしてあげるから」と言うと、タキオンは顔を少しだけあげて、田上の顔は見ないで言った。

「…じゃあ、リリー君には、もう、金輪際関わらないでほしい」

「金輪際?…難しいと思うね…」

「じゃあ、もう、私は君の事嫌い…」

「ええ…。…どうしよう…。…どうすれば、許してくれる?」

「…君が、私をどのように扱うかだね…」

「ああ、…でも、お前の望みどおりにはいかないからなぁ…」

「…私はそんな事しろとは言ってない」

 タキオンが、少し怒りながらそう言うと、田上も「ああ、ごめん…」と言ったきり、考えこんでしまった。暫くは、タキオンの頭の中には煮え湯が滾ってしょうがなかったが、こう、田上が相手をしてくれないとなると、少し寂しくなってきた。だから、次第に冷めてきた頭を動かすと、おずおずと田上の方に寄って、その座っている腰の横に寝転んだ。その時には、一切田上の顔を見ようとはしなかったが、田上が、タキオンの様子に気がついてそっと頭を撫でると、タキオンは顔を上げて、田上の方を見た。田上もタキオンの方を見ていたから、二人は、暫く黙って見つめ合った。田上は、少しタキオンの方に微笑みかけていた。彼女の頭を撫でられることが嬉しいようだ。タキオンは、それにしかめっ面で返そうと思って、暫くその顔でいることを努力しようとした。しかし、タキオンも次第に田上に頭を撫でられることが嬉しくて堪らなくなり、頬は緩んで、笑みが零れ出してきた。そして、田上に対する怒りも大分収まりを見せると、言った。

「私は、君とずっとこうしていたい…」

「…俺もだよ」

「…なら、それでいいね。私達の利害は一致している…」

「いや、そんな事はないだろ?」

 田上が、そう言いながらタキオンの目を真っ直ぐに見つめると、タキオンは、目を逸らした。

「…でも、…でも、私は君と一緒に居たいのに…」

「そりゃあ、俺だって居たいけどな…。何と言うか…、ねぇ…。…こう、…難しいなぁ。……恋人ってそんなもんじゃないだろ?いつまでも遊び呆けているのが恋人じゃないだろ?」

「…そんな事は分かっているさ…。…分かっているとも…。…でも、やっぱり君とが良いじゃないか。理性で考えろと言ったって、その前に、人間には感情があるんだから、当て擦りの正論を言われたって、私には何にも響かないんだよ」

「…そりゃ、その気持ちは分かるんだけどね…。どうにも、それだけじゃ収まりきらないから大変なんだよな」

「そうとも。よく分かっているね。それでこそ私の圭一君だ。…だから、私はこのままでいいだろ?」

「そういう事でもないだろ?」

 田上は、タキオンの頬をぷにっと突いた。

「このままでよくないのもお前は分かっているはずだ。…結婚した時の生活を想像させてきたのは誰だ?」

「…ああ、それだね…。君との結婚生活も実に望ましいものではあるが、今の私には、こうして二人でのんびりとしている状況の方が理想的に見えるよ。…理想郷だね」

「理想郷?」

「君と私が、何の迷いも持たずに、ただこうしてのんびりと話している時間のことさ」

「お前、それは違うだろ?悩みがあるから、今こうして話しているんだろ?明日の授業をどうするか…、それが問題なんだろ?」

「それだけじゃないさ。これは君の問題でもある。私達の二人きりの時間はどうなるのかな?今のように頻繁に取れないわけだよ」

「いや、十分頻繁じゃないか?お前さえ良ければ、トレーニングが終わった後はこうして門限まで一緒に過ごしてあげるけど」

「…それじゃあ、二人きりの時だけいちゃいちゃするという約束はどうなった?ここは、明らかに二人きりとは言えないだろ?」

「ああ、そうか…。でも、髪を撫でるとか、ただ話すだけであれば他の人も許してくれるんじゃないか?キスは、そりゃあ、軽率にするのは好ましからざることだけどな」

「それだけで私が満足できると思うかい?」

 タキオンは、田上の体にもう少し近づいて、寄り添いながら言った。

「満足は、…してもらわないと困る。…もし、…もしも、だよ?タキオンが明日から授業に出ることを決断したとして、その条件の中に『朝にキスをする』ということが入っていたとしよう。…その場合、どうする?どうキスをする?俺の部屋で?」

「…いや、君の部屋には入らないことに決めた。…あんまり長期に渡って君の部屋へ通い続けるのは、少しリスキーだと思う。…私は、あのベンチの場所が最適だと思うけどね。君とあの場所で、ギリギリまで過ごす。…別に、行くと決めてはいないが」

「…でも、まぁ、一先ずの想像はついたな。一緒にあのベンチで朝を過ごす。朝食を食べ終わったらだろ?」

「うん…」

「ただ、今日みたいに、あそこに人が居たら少し面倒だな…」

「…居ないよ。いつも居ないから。朝に行く人なんて、いつも以上に居ないと思う」

「それならラッキーかもしれないけど、もし、なんらかの理由であそこで過ごせなかったとしたらどうする?例えば、冬だけで言えば、朝は流石に寒すぎて俺はじっとしていられないし、雪なんて降ったらもっとじっとしてられない。そういう時はどうする?」

「…トレーナー室で過ごすしか無い…」

「その手もあるな。別に、ベンチじゃなくて、トレーナー室で過ごすっていうのもありだと思うよ。マテリアルさんもそんなに早くは来ないと思うし」

「…でも、私は、あのベンチが好き」

「俺も。…じゃあ、まぁ、一通り朝のシュミレーションができた所で聞くけど、授業はどうする?」

「出ない」

「ははは。まぁ、そんなに意固地にならないでほしいんだけどね。…どうしようかな。…もう少しこうしておくか」

 田上は、その言葉の通りに、ただタキオンを見つめながら、その髪を撫でる時間を作った。タキオンは、初めの内は、田上から目を逸らしていたが、少しすると、おずおずと目を田上と合わせた。田上は、その不安そうな目に優しく笑いかけた。すると、その目は、また違う方へと逸らされ、田上を見なくなった。それでも、田上は、タキオンの髪を撫で続けた。

 陽は、もう落ちて、辺りは暗くなっていた。トレーニング場に備え付けてある大きなライトが、その場を照らそうとしている。トレーニングをしている子は、まだたくさんいたが、タキオンたちはその中には居なかった。ただ、ライトの端の薄ぼんやりとした暗がりの方で、一生懸命にお互いの存在を感じていただけだった。田上は、髪を撫でることによって。タキオンは、髪を撫でられることによって。

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