二人の存在感は薄く、門限近くになって寮に帰ろうとしている人の波が、二人の少し上の道を通っていっても全く声はかけられなくなった。そして、トレーニング場には、ただ無言で髪を撫で、撫でられ続けている二人と、門限ぎりぎりまでトレーニングをしようという一組のトレーナーとウマ娘のペアしかいなくなった。
タキオンは、田上に撫でられ続けていると、段々とウトウトしてきた。特段、目を閉じていたわけではないが、初めの方に、田上に撫でられることにうっとりとして目を閉じると、今度は、眠気が襲ってきた。タキオンは、その眠気に身を委ねた方が、心地が良いんじゃないかという気がしてきた。――そうすれば、圭一君は私の事をお姫様抱っこで寮の方に連れて帰ってくれるだろう。
ただ、やっぱり、どこそこに寝そべって寝るというのに、タキオンは抵抗があったから、少しの間、瞼と眠気が格闘を繰り返していた。しかし、それも、やっぱり打ち破られるものであった。タキオンは、いつの間にか、田上の隣で浅い眠りに落ちてしまっていた。
田上は、タキオンが次第に寝ていくのを微笑みながら見つめていた。これだけを見ていると、ただの純粋な赤ん坊のようだ。思わず、抱っこして、頬にキスをしたくなる。しかし、その衝動はしっかりと抑えて、タキオンが完全に眠りにつくのを待った。
そして、眠りについたのを、耳元で囁くという悪戯をして確認すると、田上は、タキオンの髪を撫でるのを止めて、トレーニング場の方を見た。腕時計を確認すると、もうぴったり門限である。きっと、寮長のフジキセキが、今からタキオンとトレーニング場にいるウマ娘を探しに来ることだろう。田上は、一生懸命にトレーニングを重ねてきている二人組を見ていると、いつの日かの自分たちの事を思い出した。あの時は、まだ、こうなるなんてことは一欠片も思っていなかった。それなのに、今は、自分たちの未来の事でこんなに頭を悩ませてる。――幸せだなぁ。田上は、そう思うと、急にタキオンの方を向いて、その唇にそっとキスをした。
この事を明日タキオンに言うと、もしかしたら怒られるかもしれない。――私が眠っているときにしないでくれよぉ!……なんて。
田上は、そんな事を妄想しながら、口角を微かに上げた。
田上は、暫くトレーニング場の二人組みを眺めると、その人達が帰るのを待たずに、タキオンをお姫様抱っこして帰路についた。その途中で、門限を破って外に出ている人たちを探すフジキセキと出会った。田上は、ぐっすりと眠っているタキオンをフジキセキに見せると、「門限を破ってすみません」と頭を下げた。フジキセキは、笑いながら、でも、少し低めた声で「いくらトレーナーさんと言っても、女の子が夜に出歩くのは止めたほうが良いと思うよ」と言った。それから、すんなりと田上を開放して、タキオンを寮に連れて行くように言った。
田上は、その言葉にそのまま従って、タキオンを寮の前まで連れて行った。しかし、ここで問題が起こった。タキオンは、ここからは一人で行かなければならないのだ。今ここで安らかに眠っているタキオンを起こして、一人で行かせるのは、田上としても忍びなかったが、これをしないわけにはいかなかった。ここからは、タキオンだけの場所だからだ。なので、田上は、タキオンを少し揺さぶって起こした。それを数回され、名前も何回か呼ばれると、タキオンは「う~ん…」と唸り声を上げたが、目を開けようという気配はなく、それどころか、田上の首に腕を回してがっしりと抱き着いた。
そうされると、田上も少し嬉しくなったが、ここは自分を律して、タキオンに言った。
「タキオン、起きているんだったら、お前はもう寮に帰らないと」
その数秒後に「嫌だ」と返されると、田上は苦笑した。タキオンが、田上の首に抱きつく力は一層強くなった。人間の田上には、到底振りほどけそうもない。説得もこの調子では難しいかもしれない。――フジさんを待つしか無いか…?田上は、そう思いながら、タキオンに説得を試みようとしたが、やはり、上手くはいかなかった。だから、田上は、フジキセキが戻ってくるのを待った。
フジキセキは、五分後くらい経った時にやってきた。今まで、トレーニング場にいた二人組のトレーナーとウマ娘を引き連れていた。どうやら、寮の門限を破っていたのはその人達だけだったようだ。その二人組は、田上とタキオンを物珍しそうにジロジロ見つめながら、それぞれの寮の方へと歩いて行った。
その二人を見届けると、田上は色々と事情を話し、フジキセキにタキオンを説得してもらうように頼んだ。しかし、タキオンは、全くその言葉には応じず、ついには、「圭一君と同じ部屋で寝る」とまで言い出した。これには、フジキセキも多少驚いたような呆れたような顔をして、田上に向かって言った。
「どんな風に女の子を惑わしたらこんなになるんだい?」
「僕は、そんな事はしていません」
田上が少し眉を寄せてそう言うと、フジキセキも素直に謝ったが、タキオンの片付けはまだ済んではいなかった。だから、二人は、田上の首に抱き着いて離れようとしない、タキオンの栗毛の髪の毛を見ながら、どうしようかと首を捻った。
フジキセキが、「どうしたら寮に帰るのかな?」と聞いたが、タキオンは頑として受け付けようとはしなかった。それで、田上が、「どうするんだ?」と聞くと、タキオンは田上の腕の中で体を強張らせて言った。
「…君と同じ部屋に行きたい」
「…いつまで寝惚けているんだ?これは夢じゃないぞ?」
田上が、出来得る限りの優しい声を出した。
「…そんなの分かっているから」
「…じゃあ、お前の寮に帰らないといけないだろ?フジさんも見てるぞ?」
「…別に、フジ君が見てたって構わない。私には君しかいないんだから」
「…お前、それは、…前に殴ってしまった時に逆戻りだぞ。殴りたくはないんだろ?」
「……意地悪な事は言わないでくれ…」
「でも、俺もいつまでもこうしてるわけには行かないんだよ。夕食も食べたいし」
「…私は、食べる気力が起きない」
「…明日学校に行くのが怖いからか?」
「……そうかもしれない」
「じゃあ、尚更いつも通りの生活をしておいたほうが良いと思うけどな。明日も、朝起きたらモーニングコールをしてくれるんだろ?」
「…しないかもしれない」
「しない?…どうしよう。お前のモーニングコールがいつも楽しみだったのに」
「…嘘吐かないでくれよ」
「嘘じゃないよ。お前も好きな人からモーニングコールが来たら嬉しいだろ? なんなら、俺が明日、モーニングコールをしてあげようか?」
「…嫌。…明日も私がする」
「じゃあ、どうするんだ?寮に帰らないとモーニングコールはできないぞ?」
「……君が、授業に行かなくていいって言うのなら大人しく従うし、私を部屋まで運んでくれるのならそれも大人しく従う…」
タキオンがそう言うと、少し面倒臭く思いながらも、傍で話を聞いていたフジキセキを問うように見つめた。フジキセキは、少しの間考え込んだが、次に田上の顔を見ると、「いいよ」と許諾の返事をした。それでも、田上には躊躇いがあって、少しタキオンのことを見つめていると、「連れて行ってくれ」とタキオンが言ったから、田上は意を決して寮の中へと入った。
田上が、ウマ娘寮の中に入るのは、これが初めてではなかった。実は、以前にも一度か二度、こういう変な事があって、やむなくタキオンを運び入れる時があった。そのような経験はあっても、やっぱり、田上の緊張が和らぐということではなかった。特に、今の時間帯は廊下にたくさんのウマ娘がいて、その中には風呂上がりだろうという子もいた。その子が、団扇で自分の服の中に風を送っているのを、できるだけ見ないようにしながら、田上はタキオンの部屋に向かった。その子は、田上が通りかかると、この場に男の人が居ることにぎょっとして、慌てて、はしたない仕草をやめた。
幸い、田上の隣には顔の利くフジキセキがいたので、罪に問われるようなことはなかったが、それを視界の端に捉えるだけでも居心地が悪かった。だから、田上はできるだけ早歩きでその廊下をスタスタと走るように抜けて行った。
タキオンは、田上の首にしがみついたまま、表の方に顔を上げようとはしなかった。田上が、何度か「恥ずかしくないか?」とほんの少しだけ責めるように聞いたのだが、タキオンは何も答えずに、田上の首にしがみつき続けた。
タキオンの部屋まで着くと、田上はそこで「下ろそうか?」と聞いたのだが、タキオンは首を横に振った。これにより、田上もタキオンと共に中に入らなければなくなった。田上は、「これから、風呂とかご飯とかもあるんだろ?」とタキオンに聞いたが、それでも、タキオンは「ベッドに下ろしてほしい」と静かに答えた。田上もこれでは仕方がないので、同室のデジタルに了解を取って、タキオンを抱っこしたまま中へと入らせてもらった。
タキオンのベッドのシーツは、くしゃくしゃのまま放置されているような様子だったが、田上は、そこにタキオンを置く他なかったので、そのようにした。タキオンは、自分のベッドまでと言っても、最後まで、田上から離れたがらなかった。必死に田上の体に縋って、その両腕から零れ落ちまいとしていたが、田上がタキオンを下ろすか下ろさないかは、最早、田上に手にしか委ねられていなかった。だから、タキオンは足を少しジタバタさせながらも、ベッドの上に下ろされた。
そこで、タキオンも諦めがついたのか、田上の首を掴んでいる腕を少しだけ緩めると、その顔を見つめて言った。
「…明日もこうしてほしい…」
「いやぁ、明日もこうは難しいんじゃないかな?」
「なんで?…圭一君は、いつも私の我儘を聞いてくれていただろ?」
「残念だな。ちゃんと止めている時もあったよ」
「…覚えがない」
「その時は、タキオンが素直に受け止めてくれていたかもしれないね」
「…でも、今の私は素直じゃないよ」
「そんなはずはない。タキオンは、いつだって素直で可愛いんじゃないかな?」
「…ふふ。君もたらしだね。おだてたって君の言う通りにするかな?」
「すると思うね」
田上はそう言うと、ニヤリと笑って、唐突にタキオンの唇にキスをして立ち上がった。タキオンは、あまりに唐突な嬉しい出来事に一瞬油断をしてしまい、田上が自分の腕の中から逃れることを許してしまった。それで、タキオンが追い縋るように田上の手を掴むと、田上は、ベッドに横になっているタキオンと膝を折って目の位置を合わせてから言った。
「ちゃんとご飯も食べて、風呂…は、シャワーだけでも良いから、体を洗えよ。明日は、モーニングコールを頼むし、明日の事は明日考えよう。じゃあな」
田上はそう言うと、タキオンの手を半ば強引に引き剥がし、彼女に手を振ると、その部屋から出て行った。その後は、もう走るようにしてウマ娘寮から出ていき、自分の寮に戻ると、門限を破った事を怒られた。
タキオンは、その去っていく田上の背中に「行かないでくれ!」と叫んだのだが、暫く待っても結局彼が戻ってくる気配はなかった。だから、暫く、田上の事を怒って、ベッドに寝転がりながら拗ねていたのだが、デジタルに「トレーナーさんが言ったことをなされては…?」と進言されると、タキオンも渋々腹の減ったお腹を満たしに、また、体を清めに行った。
それで、帰ってきた時には、少し田上の怒りも静まりかけていたが、やっぱり、まだ怒っていたいという欲望があった。――もしかしたら、明日まで怒り続けていたら、圭一君ももっと私の事を想ってくれるかもしれない。そんな欲望だった。
田上も今日の用事を諸々済ませて、後は寝るだけ、という時間になると、タキオンが心配になった。強引に置いてきてしまっていたから、自分に怒ってしまって、不貞寝…なんてこともあるのじゃないかと思った。だから、田上は、とりあえず、タキオンにメッセージを送ってみた。
『ご飯食べた?』
すると、すぐに返事がきた。
『私を置いていったくせに馴れ馴れしい口を利くな』
田上は、これを軽いジャブで、タキオンは遊びたがっているのだろうと思ったから、こう返した。
『分かりました。すみません』
その返信の後に、すぐに電話がいきなりかかってきた。タキオンからだったので、ここで電話をするのも吝かではなかった田上は、普段より少し快活な調子で電話に出た。
「もしもし?」
「圭一君。君には言っておきたい事がたんとあるが、一先ず、ベッドには入っているかな?」
「ベッド?入ってないけど」
「では、入りたまえ。これは、彼女からの命令だ。今から、寝るまで電話をするから、君も一緒に寝てもらわないと困る」
「ええ、これから、少しゲームをしようと思ってたのに?」
「駄目だ。 尤も、君が置いて捨てていった彼女の事が大事でないというのならば、そのようにすれば良い。私は構わないさ」
「嘘つけ。構うくせに」
「うるさい。これ以上四の五の言うと、今から君の部屋に乗り込みに行くぞ。鍵をかけたって無駄だからね。部屋の前で大声で泣き叫んでやる」
「分かった。じゃあ、寝る前に歯磨きとかトイレとかしてくるから、一旦電話を切るぞ?」
「待った。そのままにしたまえ。一緒に生活をするというのも…いいんじゃないか?」
「いいのか?」
「…いいとも。四の五の言うな。これは、私を置いていった圭一君への罰だぞ。…本当に、…本当に、これ以上四の五の言うと、本当に泣いちゃうからね」
「分かったよ」
どうやら、タキオンの声が、本当に泣きそうな気配を帯びてきたので、そこまでして抵抗する必要もない田上は、「歯磨きしてくる」と言って、電話口から離れた。その際に、タキオンが、「電話しながら歯磨きしよう?」と言ってきたので、田上は、洗面台から歯磨きブラシを取ってくると、ベッドの端に座りながら、シャカシャカと歯を磨いた。
タキオンは、田上より先に歯を磨いていたので、上手く返事の受け答えができない田上に対して、ほとんど一人で語りかけていた。ただ、ここで、田上と一緒に歯磨きをできなかったのが、タキオンにとっては、少し痛手だったようだ。タキオン曰く、「圭一君と二人で歯磨きをしていれば、同棲しているみたいだった」らしい。田上もこれには思わず笑ってしまったが、その後にも、タキオンは一人で次々と「田上と同棲したらあれしたいこれしたい」を生み出していった。そして、話の最後には、ため息を吐いてこう言った。
「圭一君ともっと早く一緒に住めたらねぇ…」
田上はこれに答えようとしたのだが、生憎、口から涎が大量に飛び出てきてしまって、それを拭かなければならなくなった。だから、暫くの沈黙が流れた。タキオンは、物思いにふけってしまったのか、何も話さない。田上は、早く「俺もそうだよ」と同意したかったのだが、これまた、涎の後始末に手間取ってしまい、その時機を逃してしまったかのように思われた。田上は、口を開くに開けず、――この沈黙は何なのだろう?と思っていると、タキオンが田上に言った。
「もう歯磨きは終わったのかな?」
どうやら、田上の歯磨きの音が聞こえなかったから、タキオンはそう思ったらしい。
「いや、まだ。でも、もうすぐ、終わるからちょっと席を立つね」
「ああ」
タキオンの少し気落ちしたような声が聞こえた。田上は、タキオンが、なぜ急に落ち込んでしまったのか不思議に思いながらも、とりあえず、口に溜まった涎を出して、口内を水で漱いだ。
田上が洗面台から戻ってくると、タキオンが電話の向こうから「圭一く~ん、圭一く~ん」と連呼しているのが聞こえた。田上は、タキオンが甘えたがっているのだろうと思って、「はいはい」と柔らかく返事をしながら、またスマホを持って、ベッドに寝転んだ。歯磨きを終わらせるついでに、トイレも済ませてきたので、もう寝る準備は万端だ。部屋の電気も消したので、もう起き上がる必要もない。このままタキオンと一緒に寝ようという段階に入った。そこで、タキオンもこう聞いてきた。
「もう準備は終わったの?」
「準備?」
「寝る準備だよ。終わった?」
「終わったよ。もう電気も消した。お前の方はどうだ?もう、ちゃんと寝れるのか?」
「勿論だよ。君と寝るためにこうして電話をかけたんだから。デジタル君にも、もうお休みを言ったし」
「それなら良かった。…じゃあ、寝るか?」
「嫌だよ。お話をもっとしよう?」
タキオンが、いつにも増して甘えた調子なので、田上は苦笑いしながら聞いた。
「お前、最初は怒ってたんじゃなかったのか?」
「怒ってた?…ああ、そうだが、…明日の朝に繰り越すことに決めた。今は君と一緒に寝るしかない」
「……明日の授業はどうする?」
「…それは、今ここですべき話題ではない。――明日の事は明日考えよう、と言ったのは君だろ?君からその話題を吹っ掛けるなよ」
「ああ、ごめん…。でも…」
「でも…は、無しで頼む。もっと良い話をしよう?君と私が同棲したら…とか」
それから、更にタキオンは同棲の妄想を繰り広げて、田上もそれに乗っかり、何個か言ってみたが、どうにも明日の授業の事が気になって仕方がなく、所々に、意味ありげな沈黙を置いてしまった。それが、タキオンに伝わったのかどうかは分からないが、田上が、気もそぞろになっていると、遂にこう言った。
「圭一君と話しててもつまらない。…電話だから、つまらないんだろうね。もっとお互いを触れ合えるような所に居れば…。…私、今から、君の部屋に行こうかな?」
「…やめてくれ。それに、寮の鍵も掛けてあるから入れないぞ」
「内側からなら開けられるだろ?」
「俺は協力しない」
「なら、いいさ。私が、君の寮の前で泣き叫べばいいだけだから」
「お前…、それは、フジさんの時とあまり変わらないだろ?」
「……あんまり変わらないさ。…私は、あの時から少しも学んでいないもの」
「……それは、……残念だな…」
田上は、他の言葉が見つからず、そう言うしかなかった。すると、タキオンの方も「ああ、残念だよ…」と気落ちした声で返してきたので、場は、何をすることもできないような暗さを帯びた。田上は、そこで何か言うべき言葉を探したが、結局、あんまり頭が働かず、何も言うことはできなかった。
それから、二、三分の間、二人は何も喋らず、何の物音も立てずに過ごしたが、遂に、タキオンが耐えきれなくなったのか、囁くように言った。
「圭一君…、…圭一君…、起きてる?」
「起きてるよ」
田上も少し小声でそう言った。すると、タキオンも田上と同じくらいに声を高めて言った。
「ああ、良かった。もう寝てるのかと思った」
「…もうすぐ寝るかも…」
その後に、田上は欠伸をした。
「ああっ、やだっ。私が寝るまで寝ないでくれ」
「…お前、それ、さすがに面倒臭い彼女すぎるぞ」
「そんな事承知の上で私と付き合ったんだろ?今更、逃げたいと言っても、君にも責任はあるからね?私の事を一生愛する責任が」
「逃げるなんて思わないよ…。でも、…でもなぁ」
「…なんだい?」
「…でも、なんだよ。でもなぁ…」
「頭が回らなくなってきたのかい?」
「それもあるかもしれない。…でもなぁ」
「なんだよ。早く言いたまえよ」
「…でもなぁ…。でも、…」
「なんにも言うことはないのかな?」
「あるよ」
「じゃあ、言いたまえ」
「…でもなぁ…」
「なんだよ。そんな事言うんだったら、もっと私と話をしようよ」
「でもなぁ…」
「あんまりそんな事言うと、明日の朝に圭一君に話しかけてやらないからね?」
「……ちょっと、そこから言葉が出てこないんだよ。タキオンが、続きを言ってみて」
「ええ?面倒だね。…でも……、私を愛したくない?」
タキオンが、少し不安そうな声になって聞いた。
「違う。そんな事じゃないんだよ。もっと、もっと言葉にならないような、人の心の機微のような…そんな…物」
「圭一君の機微?……圭一君も色々あるからね。…私だけに構っていられないものだからね…」
「そうだよ。それかもしれない」
「え?」
「…お前だけに構ってもいられないからなぁ…」
「…それは、…少し、圭一君の口から言われると、多少ムカつくね」
「…俺だって、お前を怒らせたくなかったから、口にできなかった」
「…なら、圭一君を自由に喋らせるにはどうしたら良い?」
「そのままでいいよ。タキオンが代わりに言ってくれたし」
「えぇ…。それで良いのかな?」
「まぁ、そんなもんじゃない?…眠い」
「えー、まだ寝ないで」
そう言ったタキオンの声には、多少のあざとさが含まれていた。そのあざとさに、田上は少しいい気になって「寝ないよ」と欠伸をしながら言った。しかし、その五分…十分後には、田上の方が先に眠り込んでしまった。タキオンも段々と瞼がトロンとしてきていた頃だったので、ハッと目覚めて田上に呼びかけた頃には、田上はもう寝息を立てて眠ってしまっていた。スマホのマイクの近くに口元が来ていたからなのか、田上の寝息が鮮明に聞こえたので、タキオンは、暫くそれを聞きながらうっとりとしていた。――同棲すると圭一君の寝息が毎日聞こえるようになるんだろうなぁ。
そして、田上の寝息を聞きながら、その風景を妄想した。二人同じベッドの上で、田上に包まれて、その寝息を聞きながら、タキオンも一緒に眠る。
本当に眠りそうになってから、タキオンは、慌てて電話口に「おやすみ」と声をかけると、電話を切った。
朝起きると、タキオンは少し良い気持ちになって、昨日の夜の事を思い出したが、次に、今日田上と話したら何が起こるのかを思い出して、憂鬱にもなった。ここ最近は、楽しみなものだった田上へのモーニングコールが、今日は、少し億劫に感じられた。だから、目覚ましの音で目覚めても、暫くは、自分の枕に顔を埋めて、スマホを取り出そうとは思わなかった。それでも、タキオンは、田上との会話が避けられないものだということは確信していたので、ええいままよ!と思うと、スマホを手に取って、一気に田上の電話の画面まで進めた。そして、田上に電話をかけると、また枕に突っ伏して田上が出てくるのをドキドキしながら待った。
田上は、一分程した後に電話に出てきた。眠そうな声で「もしも~し」と言ってきたので、タキオンも「もしもし…」と返した。すると、数秒の沈黙があって、田上が「今日はどうする?」と優しく聞いてきた。
そのタキオンを労るような田上の声を聴くと、タキオンももうどうしようも無くなって、目頭が熱くなり、涙を流し始めた。暫く、田上が返答を待っていたが、やがて、タキオンの返答がなさそうだと分かると、こう言った。
「今日は、授業に出ないでいいのか?」
タキオンには、その言葉が、ありがたくもあり、苦しくもあった。ここで、その言葉に肯定してしまえば、自分の中の何かが崩れていってしまうような気がして、弾けて潰れていってしまうような気がして、頷くのに途方もない苦しさを伴った。しかし、ただ、逃げたいという欲望が、タキオンをその苦しみの中へと突き動かした。タキオンに成す術はなかった。抵抗のしようはなかった。ただ、田上の「一緒に朝ごはんを食べような」という言葉にも頷くだけだった。
後の事は、ほとんどデジタルに促されてやったような気がする。一度頷いてしまえば、後は気が抜けたようだった。やる事成す事全てが虚しい。田上の所に朝食を取りに行くのですら、どうしようもなく空虚だった。それをデジタルが言うがままに動き、一縷の、ほんの僅かな望みである――圭一君に会える、という思いを胸元に手繰り寄せて、タキオンは外に出た。ここから、トレーナー寮まで行くと思うと、とんでもなく果てしのない道のように思えたが、幸い、田上が道の向こうから歩いてくるのが見えて、タキオンは安心したようにふーとため息を吐いて、田上が歩いてくるのを待った。
タキオンが力無く突っ立っていると、その様子に苦笑しながら田上が言った。
「朝食の前にベンチでゆっくりするのもいいかな、って思ってるんだけど、どうする?」
「君に任せるよ…」とタキオンは言うと、突然に気絶したかのように田上の胸にもたれ掛かった。田上は、一瞬だけ驚いた表情を見せたが、次に、優しそうな表情を見せると、「お姫様抱っこをしてあげようか?」と聞いた。タキオンは、それに無言で、ただ、コクリと頷いただけだった。