田上は、その言葉の通りにタキオンをお姫様のように抱いて、いつものあのベンチまで運んだ。途中、通行人にジロジロと見られると、タキオンは恥ずかしそうに顔を田上の方に背けて、外界からは見えないようにしたが、田上は、その様子を見て少し笑うと、毅然としてタキオンを抱き続けたまま、ベンチまで歩き続けた。
田上は、タキオンを抱いたままベンチに座ると、「どうする?」と自分を見つめてきているその顔に向かって言った。タキオンは、少し考え込んでいたが、どうやら、この格好では少し窮屈だと感じたらしく、「膝枕をしてくれ」とお淑やかに言って、田上の腕の中から下りた。
田上は、それから少しベンチの端の方に寄って、タキオンが寝転がりやすいようにすると、その頭を自分の膝に乗せてやった。タキオンは、嬉しそうに鼻息を出して笑っていたが、その時は、二人共何も話さずに過ごした。
暫く経って、満足の行くまで風景を眺めたり、お互いを触れ合ったりした後、田上が穏やかに言った。
「今日の授業は無理だったのか?」
途端に、今まで田上との触れ合いに和んでいたタキオンの顔が曇った。まるで、陽気なお日様が、急にせり出してきた雲に覆い隠されてしまったようだった。タキオンは、口をへの字に曲げて少しの間返答に迷った後、ゆっくりと頷いた。声は出さなかった。
「そうか…。…大変だったな。よしよし」
田上が、そう言ってタキオンの頭を撫でてやると、タキオンのへの字の口は、もっとへの字にひん曲がった。
「俺もそういう性質だからよく分かるよ。大変だっただろ?」
タキオンは、泣きそうになるのを堪えながら堪えながら、一生懸命声を絞り出そうとして、やっとの思いで「うん…」と言った。そう答えると、田上は、もっと力強くタキオンの頭を撫でた。タキオンは、暫く目を瞑って、田上の硬い指が、自分の髪の毛の間を潜って、頭皮を撫でてくれるのを感じていた。父親のような優しい手だった。この手を感じていると、幼少の時に戻ったような気がした。
そうして、どのくらいの時が経っただろうか?タキオンには、大変長い時間そうされたようでもあったが、不図、目を開けてみると、外の様子も田上の様子もあまり変わっておらず、朝の光が相変わらず今まで来た道を照らしていたし、木陰の中で微笑んでいる田上の顔が、相変わらずタキオンの事を見つめていた。田上の指もずっとタキオンの頭を撫でてくれていた。
そうされていると、タキオンの心も大分軽くなって、不意に手を上げると田上の顎を撫で、言った。
「君の事が好きだ…」
「そりゃ、どうも」
「…冗談じゃない。…君の事が好きなんだ」
「…それは、この一ヶ月間言われまくってるね」
「…言い過ぎると効果は薄まるかい…?」
「薄まら…ないとは思うけどね。…どうして?」
「…君が言われまくってるって言ったから…」
「言って伝わらないって事もないから、言える時は言っておいてもいいんじゃないか?」
「そうかもしれないね…。スキ」
「俺もだよ」
「私もスキ」
「俺も好き」
「私もスキ」
「俺も好き」
それから、二人は、気の済むまで長く「スキ」「好き」と言い続けたのだが、やがて、二人の気も収まると、静かに見つめ合うだけになった。そして、唐突にタキオンが半身を起こし、田上にしがみつくようにすると、その唇にキスをした。
田上も優しくそれを受け入れて、タキオンの事を想った。これも気の済むまで長く続いたが、やがて、タキオンの方から唇を離し、また、田上の膝に寝転がった。タキオンの目は微笑を浮かべていたが、その口は、あんまり笑っているようには見えなかった。その微妙な表情を田上は微笑みながら見つめ、労るように頭を撫でた。やがて、タキオンの顔は、昨日の土手の時のように、うっとりとし始めてきた。しかし、昨日のように寝てしまうことはなく、うっとりとはしつつもしっかりとその目は田上を見据え、話しかけてきた。
「私の事、嫌いになった?」
「こんな事してて嫌いなわけないだろ?」
「でも、君を裏切るような事をしたから…」
「俺は裏切られたつもりなんてないよ。タキオンの気持ちはよく分かる。俺も同じ気持ちになったことがある。でも、その時はタキオンに助けられた。だから、今度は俺が助ける番だ。ちゃんと支えてやるから安心しろ。道は幾つでもあるんだろ?」
「…その通りだよ…。 良い彼氏を持ったよ。こんなに面倒臭い彼女を一生懸命支えようとしてくれている…」
「こっちは面倒臭い彼氏だよ。お前に散々迷惑をかけたんだから」
「私は迷惑だなんて思っていない…。君の事が大好きだから…」
「じゃあ、俺もそれと同じ気持ちだよ。お前の事が大好きだから、お前の相手なんて屁でもない」
「…でも、私の事を子供だと言ったくせに…」
「ああ…、それはな?…何て言えばいいんだろう?……まぁ、感情が昂ぶる事もあるよな…」
「…そうだね。圭一君は、子供の私の事も大好きだからね…」
「そうだね。大好きだよ」
そう言うと、照れ隠しのためか、田上はタキオンの頭を指先でカリカリと撫でた。その動きに、殊更にうっとりとしながら、タキオンは言った。
「私も大好き」
それから、二人は、また例の如く「スキ」「好き」と言い合ったのだが、さすがに、田上も次第に照れが出始めてきたのか、少しはにかみながらタキオンに言った。
「ずっと好きだね?」
「ずっと好きだよ?」
「…いや、そういう事じゃなくて、…終わらないね?って事」
「終わらせる必要があるかな?」
「いや、さすがに、飽きてこないか?」
「…君の方から、言える時は言っておけ、と言ったくせに…」
「まぁ、こんなにスキスキと言っても、好きなのは十分伝わってるよ。 それよりも、少し話をしようよ」
「何の?」
そう言いながら、タキオンは、不安そうに眉をひそめた。
「やっぱり、授業の事は、どうしても話し合わないといけないでしょ?…とりあえず、これまで通り、行かないといけない授業は出るんだろ?」
「…どうかな…。面倒臭い…」
「んー、そこは、頑張って欲しいところだね。ちゃんとタキオンのしたいことさせてあげるから、そこだけでも行ってくれないか?」
「どうかな…」
「まぁ、ね。厳しいところもあるかもしれないけど、行けそうか行けなさそうか。最悪、普段の授業には出なくて良い。そこは考慮におかなくて良い。お前が高校を卒業できさえすれば良いんだから。…どう?」
「…多分、行けそうかな…」
「じゃあ、良かった。行くときは、うんと可愛がってやるからな」
「うん…」
タキオンは、微かに嬉しそうに笑みを浮かべながら、しかし、落ち込んだ声で頷いた。
「じゃあ、…まぁ、どうしようか?…行かないのならば、少し状況が変わった訳を俺のお義母さんとお義父さんに話さないといけないからね…」
田上が「俺の」と言った時に、タキオンは微かに口角を上げたが、すぐにそれは下げられた。タキオンは、相変わらず、田上の事を不安そうな無表情で見つめていた。
「どう?この場で電話して訳を話してもいいと思うけど」
「この場で…?」
タキオンが、情けなく掠れた声で言葉を発した。それに、田上が少し笑いながら返した。
「この場で。お前も居たほうが良いだろ?」
「なんで…?」
「なんで?お前が居たほうが、状況を掴みやすいだろ?俺がどんな風にお義母さんと話したのか、知っておいてもいいだろ?」
「…知りたくない…」
そう行って首を微かに横に振ったタキオンの声には、恐怖が少量混じっていた。
「大丈夫。誰もお前を怒らないよ」
「母さんは怒るかもしれない」
「大丈夫。俺の前で怒ることはしないと思うし、怒らせる前に上手く取り繕うから。俺が、なんとかしますって言えば、お義母さんも怒れないだろ?」
「…私は、聞きたくない…」
「なんで?」
「…嫌だ。聞きたくない」
「…なんでだと思う?なんでタキオンは聞きたくないんだと思う?」
「…嫌だ」
「…聞かせてくれ。俺は、お前の事が知りたい」
田上にそう言われると、タキオンは嫌そうな顔をしながら彼の事を見つめた。そして、おもむろに起き上がると、立ち上がって体勢を変え、今度は、田上に正面から抱きつくようにして、その膝の上に座った。それから、一、二度彼の唇にキスをしたが、その後は、田上の体にもたれかかり脱力して、その首に頭を擦り付けながら言った。
「…いざこざは聞きたくないだろ?」
「ん?どういう事?」
「……私は、少し恐怖を抱いてるって事だよ」
「恐怖…。どんなものなんだろうね?…やっぱり、後ろめたいから?」
「……それもあるかもしれない」
「…なんで後ろめたいのか?って事は、分かったりする?」
「……君の期待を裏切ったからに決まってる…」
「あー、…期待…してたかな?俺、期待してた?いや、期待してたかなぁ?」
「…分からない…」
「んん、あんまりプレッシャーを与えたくもなかったけど、よくよく考えると…、期待してたような気がしなくもない。…期待していたかもしれないけど、…行ってくれた方が良かったのは事実だから…、…俺はどうすればよかったと思う?」
「…分からない…」
「……これは、議論してもしょうがないかな?…じゃあ、まぁ、タキオンが、俺を裏切った事に後ろめたさがあるとして、それが理由で、タキオンは俺とお義母さんの電話を聞きたくないわけだ」
タキオンは、これには何も答えなかったが、少し頭を動かして、タキオンの首に猫のように擦りつけた。
「…じゃあ、タキオンは、…なんだろう?俺が意地悪な事を言うと思っているのかな?…それとも、俺の意見を聞くのが怖かったり?…それとも、お母さん?」
「…分からない…」
「いや、…やっぱり、俺には少し分かるよ。お前って、俺の事が好きだから、嫌いになってほしくないんだ。だから、もし、俺がここでお前の評価を下げるような発言をしたとして、お前は、それを面と向かって聞きたくないんだ。嫌いになってほしくないわけだからね。 今の推理はどう思う?」
「…分からない」
「その分からないってのも、やっぱり、面と向かって俺と対立したくない、もしくは、自分が人の期待を裏切るような人間だと認めたくないからだと思うんだよね。だから、明言を避けたがる。…どうしようかね…」
「……私の傍に居て…」
タキオンは、掠れた声でそう言った。その声が、田上には憐れに思えて、その背に手を回すと、ゆっくりと擦ってやった。タキオンは、泣きこそしなかったが、何かを堪えるように、ギュッと体を強張らせた。
「そう求めるだけじゃ、俺はお前の傍には居られないと思うぞ」
「……なんで?」
これまた、タキオンは、泣きそうな掠れた声で言った。
「だって、…こういう表現であっているのかは分からないけど、お前は、『俺がお前の傍に居る』という事を認められていないわけだ。俺も人の事を言えたもんじゃないけど、お前が、認識を変えられなきゃ、お前の中に居る『俺』は、お前の傍には居ないんじゃないか?」
「…どうすればいいと思う…?」
「そこが、俺にも難しい所だよね。どうすればいいっていう解決方法が提示してあげられない。…こうやって、触れ合っていてもお前は、常に俺がほしいわけだ。まだ、操り人形にしたい、って感覚は抜けきっていないんじゃないか?」
タキオンは、何も答えなかった。
「…まぁなぁ…。お前の事は好きなんだけどなぁ…」
「…私も好き…」
「…そう、『好き』なんだよ…。好きっていうのは、どんな物なんだろう?何の感情なんだろう?…何のためにその事を口にするんだろう?」
「圭一君の事が好き…」
「俺も好きだよ。…だけど、これを言い合う事に意味があると思うか?」
「…こうすることによって、私たちはお互いの気持ちを確かめ合うことができる」
「四六時中?…そんなもんなのかな?」
「…そんなもの…。言えば言うだけ伝わる…」
「…そんなもんなのかなぁ?…確かに、付き合って一ヶ月も経ってはいないけど、キスもたくさんしてるし、ハグは数え切れないし、好きもたくさん伝えあってる。…お互いに不安定な側面があるから、そういう行為は、確かに意味はあるかもしれないけど、…そんなもんなのかなぁ…?」
田上は、自分の肩に乗っているタキオンの頭に、自分の頭を擦りつけるようにして捻った。すると、タキオンは、擦りつけられた田上の頭にじゃれつくように、自分の頭をこすり返してこう言った。
「そんなもの。…お互いどうしようもないのだから、あれこれ考えたって意味はない…」
「そんなもんか?…そんなもんじゃないと思うけどね…。 お前のおとう…、俺のお義父さんでもお義母さんでもある、お前のお父さんとお母さんは、人前で好き好き言ってた?」
「…子供の前では言わないと思う。…今でも言うのかは知らない。…でも、昔は言ってたんじゃないかな…」
「昔…。どうだろうねぇ…。どうすればいいと思う?」
「…分からない」
「俺が電話をするのを聞いてみてもいいという気持ちになった?」
「……なぜ、それを私の前でしないといけないのかが分からない」
「それは、お前も話を聞いておいた方が良いと思うからだ。お前も俺が、どんな事を考えて、向こうもどんな事を考えて喋っているのか知っておいたほうが良いと思う。これは、あんまり譲りたくはないことなんだけど、異論があるなら言ってくれ」
「…言いたくない…」
「言いたくない?なんで?」
「…君の事が好きだから…」
「んん?…どういう理由かな?」
「…君が好きだという理由…」
「…それは、タキオンがあんまりしたくない事なんじゃないのか?」
田上は、タキオンの過去の発言を思い出して、そうたしなめた。
「……君がちゃんと訂正してくれるから言ってる」
「んん…、それならそれでも良いかもしれないけどねぇ…。いまいち…、やっぱり、…こう、穴から抜け出せないというか…、抜け出せないでいるのも心地が良いというか…、それで良くないという考えもあるんだけど、いまいち、今の『現状』というものが、抜け出さなくてもいいように感じる甘い蜜なんだよな…」
「それでも良いと思うよ…」とタキオンが甘く囁きかけた。
「それでも?…良くないからこうして悩んでいるんだろ?…永遠にこうする事はできないって、何回も確かめただろ?」
「確かめるまでもないよ…」
「なら、尚更だ。お前のお母さんに電話してみるよ?」
「君のお義母さん。あと、ダメだ」
「なんで?」
そう聞くと、少し緩んでいたタキオンの体が、また強張りを見せた。
「……どうしても…。…私の嫌がる事はしないで…」
「…それをしたら、お前は、俺の事を嫌いになるか?」
「…嫌いになる」
これは、真実の言葉なのかどうか怪しいところだったが、タキオンがそう言ったからには、その言葉を無下にはできなかった。だから、田上は、タキオンをなるだけ傷つけない口調で、「本当に?」と聞いた。すると、タキオンは、しっかりと頷いたので、田上はどうすればいいのか迷った。嫌いになられても困るが、この言葉が本当の事なのかどうかも怪しい…。
結局、田上は、タキオンがその言葉に対してそれほどの重みをかけていないことに賭けて、こう言った。
「じゃあ、嫌いになってもいいから、俺がお前のお母さんに電話するって言ったら?」
「君のお義母さん。……それに、圭一君は、そんな事はしない」
「いや、……するかもしれないよ?そうなったらどうする?」
「嫌いになる…」
「本当に?」
「…ほんとう…」
「じゃあ、いまから、電話をかけるからな?嫌いになるんだな?」
「…嫌いになる」
「やるよ?やるからね?」
「…ダメ…」
「…嫌いになるんじゃないのか?」
「…なるわけないだろ…」
そういったタキオンの声は、少し不機嫌さを帯びていた。
「じゃあ、嫌いにならないって事でいいのか?」
「…もう嫌い。…後悔しても遅い…」
「じゃあ、お前も俺の上から降りたほうがいいんじゃないか?」
「…それはしない…。別の問題だ…」
「嫌いになっても、俺と一緒に居るって事は別の問題?嫌いなのに傍に居るって事?」
「…つべこべ言うな。…私のモルモット君なんだぞ」
「残念ながら、一月を最後になんにもモルモット君らしいことはしてないね」
「…君が好き」
「…お前、それで誤魔化そうとするなよ。…俺も好きだけど」
「…なら、ハッピーエンドだね。私と圭一君は、ずっとずっと死ぬまで一緒に暮らしましたとさ…。ちゃんちゃん…」
「それには、まだまだ長い時間がかかるよ。まだ、付き合って一ヶ月も経ってないんだから、これの…何倍?百倍?」
「あと六十年君と生きるとして、十二かける六十だから七百二十倍…」
「そうか…。若干の年の差もあるから、お前を残して俺が先に死んじゃう可能性もあるのか…」
「…嫌だ。死なないで…」
タキオンは、田上の体をギュッと抱きしめて、悲しそうに言った。
「俺もそんなお前を残したまま死にたくないけど、…――あとは頼んだ、って言って死ねるくらいにはなりたいね」
「頼まれたくない」
「でも、その頃には、ひ孫の顔も見れてる可能性はあるんだぞ?…ひ孫?」
田上は、自分の言った言葉に可笑しさを感じて、思わずその言葉を繰り返しながら笑ってしまった。
「俺たちが、じいさんばあさんになった時、どうなってるんだろうな?どのくらい変わってると思う?」
「……今のまま変わりたくない…」
「ふふふ。お前も強情だな。…そのくらいのほうが、可愛げがあっていいと思うよ」
「良くないくせに…」
「可愛げはあるよ。可愛げは」
「それ以外はないんだろ?」
「あるよ。ちゃんとした人間だよ?お前は」
「…そんな事ない…」
「授業に行かなかったから?…俺には、…まぁ、些細な事に思えるね。特に、その人がどういう人か判断する時には。俺は、お前がちゃんとした人間だと分かっているけどね」
「…授業に出なかったのに」
「授業は、…まぁ、人ってそういう時はあるだろ?…お前も言ってたよ。俺の事を――不完全な完璧人間だ、って。お前こそそうだろ?お前だって、俺と同じくらい優しい事は知ってるよ」
「私は、君にだけ優しいだけだ」
「いや、どうかな?リリーさんやマテリアルさんにだって意地悪って事はないだろ?それどころか、そこら辺の人よりも二人の事はちゃんと考えてるし、スカーレットさんにだってお前は十分に優しいだろ?後輩思いのいい先輩だよ」
「…君が好き」
「…それはなぁ…、嬉しいんだけど、…嬉しいんだけどな?話が通じないよ。…顔を見て話そう?そっちの方が話しやすい」
そう言って、田上が自分にもたれ掛かっているタキオンを引き離そうとすると、タキオンは、それに対抗するように田上の体を抱きしめた。田上は、少しの嬉しさを我慢するために目を瞑ると、声色をなるだけ傷つけないように少し厳しくして言った。
「タキオン。…ちゃんと顔見て話そう。そうされると、顔を見ることができない」
「君が好き…」
「誤魔化されない。俺は、お前の顔が見たい。顔を見たら、また、表情で伝わることもあるだろ?」
「嫌。…好きだよ」
「本当に。タキオン、話す事くらいはしてくれ。…話せないんだったら、俺もお前の事を嫌いになるかもしれない」
「…嫌いにならないで…」
タキオンは、少し泣きそうな声で言った。それに、田上は少し胸がいたんだが、声色変えなかった。
「嫌いになってほしくないなら、俺の顔を見てくれ。見るだけならできるだろ?」
「…嫌だ…」
「なんで?」
「……私の顔、酷いから…」
「酷い?」
「……泣きそう…」
それを聞くと、田上は思わず少し笑ってしまい、誤魔化すために軽く咳をした。
「別に泣いててもいいよ。泣いてる顔を見せないよりかは、見せて目を合わせてくれた方が、何倍もいい」
「…でも、…君に見せていいほど良い顔じゃない…」
「良い顔?俺は、タキオンの顔はずっと良い顔だと思っているけど。 前に、泣いてる顔も見たことがあるけど?」
「それでも、…少し抵抗がある…」
そうすると、田上もうーんと唸って、タキオンが顔を見せてくれる方法を考えた。
そして、一つ思いつくと言った。
「じゃあ、キスをしてみよう。いいよ、キス。 キス、好きだろ?」
タキオンは、考えるために暫く間を開けたが、やがて、こう言った。
「嫌いじゃない。…けど、…けど…」
「恥ずかしい?」
田上が、助け舟を出すと、タキオンはコクコクと頷いた。
「じゃあ、その二つを天秤にかけてみよう。恥ずかしいとキスを。 俺からキスをしてほしいって言うのも珍しいよ?あー、タキオンにキスをしてほしいなー」
田上が、わざとらしくそう要求すると、タキオンも少しいい気になって、口の端をニヤリと上げた。けれども、まだ足りないらしく、次には、「もっと言って」と呟くように言った。だから、その言葉に応えるために、田上はもっと「してほしいなぁ」と要求した。すると、己の満足に至ったタキオンが、ゆっくりと田上の顔の前に自分の顔を持ってくると、その唇を重ね合わせた。あまりに事が上手く運んだので、田上も多少ニヤニヤしながら、タキオンと唇を重ねた。
そして、唇を離したときには、田上は見つめ合ってやろうと思っていたのだが、タキオンは、すぐに元の位置に戻ってしまった。これでは、キスをした意味がないので、田上は驚きを含んだ声でタキオンに言った。
「おい、タキオン。お前っ、顔見て話してくれるんじゃなかったのか?」
こういう事を言われるのは、タキオンの思惑通りだったようで、タキオンは、田上の首に愛おしそうに抱き着きながら、言った。
「私は、君がキスをしてほしいと言ったから、君にキスをしてあげたまでだ。…むしろ、感謝してほしいくらいだね。君の望みを叶えてあげたんだから」
「それはありがたいけど、ちょっと狡いなぁ。俺と話してほしかったのになぁ。今度は、顔を見て話してくれないかなぁ。タキオンの可愛い顔をもっとじっくり眺めたいけどなぁ」
「…それは、…もっとキスをしてくれるんだったらいいよ」
「もっと?いいよ、しても」
それから二人は、些か長く感じられるまでの時間をキスしたり、しなかったりして過ごした。そして、田上がもう話を切り出していい頃だろう、と見計らって口を開くと、それとほとんど同時に、タキオンが田上の肩に頭を置く体勢に戻った。田上は、それだけで諦めるわけにはいかないから、なんとかかんとかタキオンと見つめ合って話せるように、彼女を口説き始めた。
二人が朝に会った時から、大分長い時間が過ぎ、陽は徐々に正午の位置へと昇ろうとしていた。
タキオンが、自分の顔を見てれるようになるまで説得すると、田上は、早速、「電話してもいいかな?」と本題を切り出した。すると、タキオンは少し元気を取り戻した声でこう返した。
「本当に、君と会話するとなると、こうなるから嫌なんだ!」
しかし、そうは言ったものの、タキオンはまた田上の肩に自分の頭を預けようとはしなかった。ただ、恨めしそうに田上の顔を眺めていた。田上もその顔で見つめられると、申し訳無さそうな顔をしたが、こう言った。
「でも、俺は話したかったし、…お前も話してくれるんだろ?」
「話すよ!君がどうしてもって言ったからね。でも、嫌だもん!君と顔を合わせてまでこんな話はしたくない」
「じゃあ、どんな話がしたい?」
「…もっと、君と仲良くできる話だ!」
「どんな?」
「…結婚生活の話とか…次のデートの話とか…」
「次のデートは、タキオンのお父さんお母さんの家に帰るって事でいいかな?」
「それはっ…、よくない。どうせ、君は私の事を責めたいんだから、電話電話だと言ってるんだ!」
「誰が好き好んで彼女の事を責めたいと思う?俺は責めたいんじゃなくて、状況を知ってほしいだけだ」
「なら、私に後で話せばいいだろ!」
こうも立て続けに、タキオンに責められると田上も少し頭に熱が昇ってきて、反射的にこう言い返した。
「分かった。なら、今から別の所に行ってくれ。今から電話するから。もう今は居れない」
そうして、タキオンの顔を見ると、田上もこんなに軽くその言葉を言ってしまったのを後悔した。タキオンの顔は、田上の厳しい口調に、不安で歪んでいた。
「そんな…」
タキオンは、田上を縋るような目つきで見た。それで、田上もタキオンを責めたいわけではない事を伝えようと、少し物柔らかな口調にして付け加えた。
「居たいなら傍にいてもいいよ。傍にいるか居ないか。せめて、俺の電話が終わるまでは、離れなくちゃいけないんじゃないか?」
「…今から?」
「ぐだぐだ先延ばしにしたってしょうがないから、今からやろうと思う」
「…母さんにかけるの?」
「そうしようと思う」
「…出ない可能性はあると思う?」
「…ないんじゃないか?確か、専業主婦だっただろ?」
「…そう。…じゃあやってくれ」
タキオンがそう言って立ち上がったので、田上は、タキオンが別の所に行くのかと思ったが、その行動は、田上の膝を枕にして寝転がるためにやったものだった。
そして、田上の膝の上に落ち着くと、後はそれきり何も喋らなくなった。だから、田上もスマホをポケットから取り出すと、いよいよタキオンのお母さんに電話をかけることにした。
「もしもし」と繋がった電話の向こうに、田上が問いかけると、向こうから少し嬉しそうなタキオンの母の声が聞こえてきた。
「はい、朝日川です。(アグネスタキオン一家の名字。ウマ娘には、冠名の他にも名字がちゃんとついている。冠名も正式な名前ではあるが、ウマ娘の場合は、名字+冠名+名前が正式な名前となる。例、朝日川アグネスタキオン。 また、冠名が、子供に受け継がれるか受け継がれないかは親次第である。そのため、家族でも冠名はバラバラなことがある。)もしかして、ゴールデンウィークの事でしょうか?娘から、田上トレーナーと一緒に帰省してくるということをお聞きしていますが…」
「ああ、今回は、それとはまた別の事でして」
「報告なんかがあるって聞いてましたが、ひょっとしてアレなんでしょうか?」
タキオンの母が、期待を込めた声でそう聞いてきた。しかし、田上はそれに苦笑しながら答えた。
「アレかどうかは、また、ゴールデンウィークの時にお話ししようと思います、タキオンとしっかりと話し合いましたので、良い結果になれば嬉しいとは思っているんですが、今回のお電話はまた別件のことでして…」
「別件ですか?」
「あの、…タキオンさんがあんまり授業に出てはいないというのは、ご存知の事かと思われますが…」
「ええ、まぁ、ちゃんと留年しないでやってるんならそれでいいんじゃない?ということでしたと思いますけど…」
「それの事なんですけども、…少し状況が変わりまして、前は、他にやるべきことがあったから授業に出ていなかったタキオンだったんですが、最近は、研究といった類の物はやめてしまっていたので、普通に授業に出ていたんですよ」
「へぇ!いつからですか?」
「一月からですかね。そこから最近までは、普通に授業に出ていたんですが、少し状況が変わりまして、タキオンが、――行きたくない、と駄々をこねるようになってしまったんですよ」
田上の膝の上で、タキオンが居心地が悪そうにもぞもぞするのがわかったが、田上は、それを気にしないで続けた。
「それで、…まぁ、あの、他に何もすることなしに、ただ駄々をこねるようになってしまったので、それをお伝えしたかった次第です。…これは、自分とタキオンの二人だけの問題ではないように感じましたので、一応報告しておきました」
「はい、了解です」とタキオンの母が返した。
「これまで通り、娘さんは支えていく予定ですので、あんまり心配してあれこれタキオンに言うのもご勘弁願えればと思います。本人も嫌がるんじゃないかと思いますので…」
「はい、…はい、了解です。…じゃあ、もしかして、タキオンが近くにいたりしますか?」
「ああ、…はい、居ます」
「じゃあ、授業をサボって二人きりという事ですか?」
タキオンの母は、電話越しでも分かるからかうような口調で聞いてきた。
「ええ、そういう事です。伝えたいことは以上です。…ゴールデンウィークは、また、タキオンと一緒にそちらの方に伺いますので、……あの、ご迷惑だったりしないでしょうか?」
「いえいえ全然!」とタキオンの母は、素晴らしく嬉しそうな高音で答えた。
「タキオンと一緒に報告してくださることが何なのか、本当に楽しみです!…大阪杯の時に、…タキオンとの…アレな関係に悩んでおりましたが、報告したいことって…そのことでしょうか?」
タキオンの母は、待ちきれない様子だった。田上は、これに対してどう答えればいいのか迷ったので、自分の膝の上に頭を置いているタキオンに一瞬目を移したが、タキオンは、田上の方は向いていなかった。しかし、ウマ耳はしっかりと田上と母の会話に耳を澄ませていた。
「…まぁ、それは、タキオンと一緒に帰った時に報告できたらなぁ、と思います。そんなに、大それたことでもないですが、一応の現状も合わせて、その…、タキオンのご両親の家に訪れることができたらなぁ、と…」
「はいはい、いつでもどうぞ。別に、ゴールデンウィークじゃなくても、いつでもいいですよ!タキオンから連絡があった時は、そうちゃん(タキオンの父の名前。朝日川宗太郎(あさひかわそうたろう)の方も喜んでいましたので、こちらの方も本当に楽しみにしています。…じゃあ、…以上でしょうか?」
「以上です。娘さんの事は、これからも全力で支えさせていただきますので、ご安心いただければありがたいです」
「はい、田上さんであれば、タキオンも全然大丈夫だと思います。あの子を支えてくれてありがとうございます」
「…じゃあ、これで…」
「はい、ありがとうございました」
その言葉を聞くと、田上は電話を切って、ふーとため息を付いた。何か妙なことでも言われやしないかと思って、田上は緊張していたのだが、概ねそれ相応な会話ができて安心した。ゴールデンウィークの事をあんなに深く切り込まれるとは思っていなかったが、それについても、自分の対応は間違っていなかったと思う。
タキオンは、田上の電話が終わると、田上の膝の上でゴロンと仰向けになって、彼の顔を見ながら聞いた。
「どうだった?」
「どう?…普通だったよ。聞いてただろ?」
「聞いてた」
「じゃあ、お義母さんが、まぁ、ゴールデンウィークのことも期待してたし、お前の事も俺が傍にいるのであれば、そんなに心配もしてないってことがわかっただろ?」
「私の母さんはそんなものだ…」
「…じゃあ、尚更、ちゃんと話を聞けてよかったな」
「なんで?」
「そんなもんだで済ませるよりかは、雰囲気がちゃんと知れてよかっただろ?お前、さっきは、お義母さんが怒るかもしれないって言ってたのに」
「…そんなもんだよ」
タキオンが、田上から目を逸らして、木の葉の向こうの青空を眺めやると、田上もその髪を撫でてやった。タキオンは、そうされながら暫く、うっとりと青空を眺めていたが、やがて、田の上の方にゆっくりと目をやると言った。
「君が好き…」
「俺も好きだよ」
「…芸がないかな?」
「なんの?」
「君のこと好き好き言って」
「それに芸が必要か?」
「…時には、必要かもしれない…」
「そうかもね」
田上は、そう言って、タキオンの前髪の隙間から、そのおでこをくすぐるように触っていた。そうすると、今まで浮かない顔だったタキオンの顔に、笑みがほんの少し現れてきたが、それ以上のちゃんとした笑みにはならずに、ぼんやりと田上を見つめるだけだった。
それから、二人は暫くの間、無言で見つめ合っていただけだったが、やがて、タキオンが起き上がると言った。
「憂鬱だね」
「なんで?」
「このまま家に帰ると思うと」
「…なんで?」
「…だって、…家に帰っても元気でいれる気がしないよ」
「…確かに、今は、ちょっと笑顔が足りないな。俺、もっとタキオンの笑顔が見たいよ」
そうすると、タキオンは、田上との距離を少し近づけて、肩を寄せた。それから、少しだけにやりと口角を上げて言った。
「…女ったらしだね、君は。よくもまぁ、そんな恥ずかしいことが言えるよ」
「でも、タキオンの笑顔は見たいよ。…なにすれば笑顔になれると思う?」
「分からない…。…君と居れば笑顔になれるかも…」
「…じゃあ、…何か頑張んないとな。タキオンを笑顔にできるなにか」
「いいよ、傍に居てくれるだけで」
「良くないよ。タキオンの満面の笑みが見たいんだから、ここにこうして傍に居るだけだとそうはならないだろ?」
「なるかもしれないよ?」
タキオンが、力無く笑おうとしながらそう言った。
「いや、ならないかもしれない。…俺も仕事があるから立とう!学生の内に、恋人と一緒に仕事できるやつなんてそうそういないよ?タキオンも行こう!」
田上は、そう言って立ち上がり、ベンチに座っているタキオンに手を伸ばした。しかし、タキオンはその手を取ると、再びベンチに座るのを促すように手を引っ張った。その顔は、嫌そうに眉を寄せていたので、田上は苦笑しながら、次のような提案をした。
「どうする?お姫様抱っこをして連れて行ってやってもいいよ」
それにタキオンは、考え込むような、それとも、何も考えていないようなぼんやりとした表情をした。そして、数秒経ってから聞いた。
「どうしても行かなきゃダメ?」
「ダメだね。こっちも生活がかかってるんだから。…お前、トレーニングはどうするんだ?」
不意に思い出した田上が、その事を口にすると、タキオンは、少し嫌そうな顔をして、田上から目を逸らした。それから、数秒考え込むとこう言った。
「…君が、私の事を気にかけてくれるっていうんだったら、私も参加してやってもいいよ」
「ええ?…それは、ちょっと難しいよ。リリーさんも居るんだから」
「なら、しない」
「えー、それはちょっと大変だよ。タキオンも手伝ってほしいくらいには大変なんだけど」
「そんな子供の一人くらいマテリアル君に任せたまえ。あの人には、子供の世話くらいがお似合いだよ」
「タキオンにも子供の世話はお似合いだと思うけど?」
田上がそう言うと、タキオンは、顔に少し笑みを浮かべたまま、彼の顔を見つめた。そして、唐突に立ち上がって、田上の両手を握ると言った。
「君も人を乗せるのが上手いね。君がそう言うのならしょうがない。君たちと一緒にリリー君の事を世話してあげよう。光栄に思いたまえ。GⅠウマ娘が直々に指導してやるのだから」
「ええ?俺は、トレーニングを」
「いいから、私が行くと言ったんだ。君は、お姫様抱っこをするのかい?しないのかい?」
「してあげよう」
田上は、微笑みながらそう言い返した。そして、お姫様抱っこをしようとしている過程で、タキオンの顔を見たのだが、その顔は、嬉しそうな笑みに変わっていた。田上は、敢えてそれを指摘するということをしなかった。それを指摘して、タキオンが照れか何かで笑みを消してしまうと、せっかくの晴れ間がとてももったいないからだ。これからも、何かタキオンが困ることがあるかもしれないが、せめて、今だけはこの表情でいさせてあげたかった。田上は、満足そうに自分の腕の中に収まっているタキオンを見つめながら、トレーナー室へと歩いていった。
トレーナー室に行くと、マテリアルがすでにそこに居た。相変わらず、昨日の事を引きずっているのか、田上たちが来ても挨拶一つしなかった。田上には、それが、自分がタキオンを抱えているせいだとも思ったから、少し申し訳なく思って、タキオンに「下りようか」と静かに言った。タキオンも場の雰囲気をなんとなく察することができたのか、素直に「うん」と頷いて、田上の腕から下りてくれた。しかし、田上の傍からはなるだけ離れたくなかったのか、長机のパイプ椅子を引っ張ってくると、田上のデスクの横に腰を落ち着けた。
二人きりの時以外は、いちゃいちゃしないという約束事は、もう気にしていなかった。田上も、どうにもここでその話題を出してしまうと、タキオンが、嫌な思いをしてしまうだろうと考えた。その時に、タキオンが不安そうに眉を寄せてしまうのを見ると、田上も忍びない気持ちになる。その為もあり、田上はタキオンとあんまり触れ合わないようにしながらも、何の注意もしなかった。タキオンも、雰囲気は察してくれているのか、必要以上にベタベタしようとはしなかった。ただ、田上が見てる資料を一緒に見つめ、時折、口を出して田上に囁きかけるだけだった。
マテリアルも、いちゃついていないとは言えない二人に対して、何も言わなかった。終始スマホばかりを見つめていたが、田上が言ったトレーニングやレースのことについては、しっかりと受け答えをした。しかし、その言葉にいつものような親しさはなかった。軽口の一つもないまま話は終わるので、会話はあまり弾まなかった。田上は、この状況はどうにも不味いと考えては居たのだが、本当に四方八方問題だらけで、動こうにも満足に指先一つも動かせない状況だった。
それでも、なんとか足掻いてみようと、田上は、隣りにいるタキオンが少し強めに手を握ってくるのも無視して、マテリアルにこう話しかけた。
「松浦さんとはいつ遊びに行くんですか?…知っておかないとその日のトレーニングをどうするのか決められないので…」
マテリアルは、初め反応をしようとはせずにじっと座ってスマホを眺めていた。しかし、田上がもう一度「マテリアルさん?」と呼びかけると、不機嫌な中学生のように眉を寄せながら田上の事をじろりと睨んだ。タキオンは、まだ、田上の気を引こうと、その手をつねったり引っ張ったりして遊んでいた。田上は、それを無視しながらマテリアルの事を見つめ続けた。それで、マテリアルは一瞬言葉に詰まったようだったが、こう言った。
「二十九日に遊びに行く予定です…」
「四月のですか?」
「四月の二十九日です…」
「そうですか。ありがとうございます」と話したまではいいが、田上はこの後の話の続け方を知らなかった。元来、人とのコミュニケーションにはそれ程の自信がない男である。タキオンであれば、不思議と上手に言葉は出てくるのだが、それ以外の人は、あまり芳しくなかった。それにより、マテリアルとの会話は、一旦の終りを迎えたかのように思えたが、コミュニケーションに自信のない男は、不自然なタイミングで、今まで普通に会話をしていたかのように聞いた。
「松浦さんはどうですか?…楽しみそうですか?」
それだから、マテリアルも初めの言葉を聞き逃して、思わず、「え?」と普通に聞き返した。それから、また、元の不機嫌そうな調子に戻った。
「松浦さん、どうですか?松浦さんの方は、楽しみそうですか?」
「松浦さん?…どうでしょう?分かりません…」
「へぇ…」
ここでまた、田上は終わりそうになった会話を繋げてやろうと、必死に頭を働かせた。そして、また、妙なタイミングで言った。
「…どんな風に決まったんです?…松浦さんの方に気はありそうですか?」
この質問は不味かったかもしれない。明らかに、マテリアルの目は先程よりも吊り上がり、眉は寄った。そして、不機嫌極まりない、低くイライラとした調子で言った。
「そんな事は私には分かりません。あんまりその事について質問しないでください」
それを聞くと、田上も大人しく「すみません…」と言って引き下がった。これ以上無理に質問をしようとすると、さすがに言い争いになりそうだった。だから、田上の注意は、自然とマテリアルから逸れ、田上の手のマッサージをしているタキオンの方に向かった。それで、タキオンの目的も果たされたようだ。自分の方を向いてくれた田上に、嬉しそうに目を合わせながら、声は出さずに口だけを動かして、「残念だったね」と言った。そして、田上の頬を優しく突いた。田上には、あまりタキオンの唇の動きを読み取れなかった。けれども、何が言いたいのかは、曖昧な雰囲気の中でなんとなく感じ取れたので、田上はとりあえず、それにしかめっ面をして返した。それが、果たして、その場に適切な表情であるのかは分からなかった。