ケロイド   作:石花漱一

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二十五、カラオケと春⑪

 それから、昼食時までは、田上もマテリアルに寄る触ることを避けておいた。無駄な諍いは招きたくなく、もしかすると、真面目な話でさえも不和を増長させるのではないかと考えた田上は、レースやトレーニングの話もマテリアルに話さず、タキオンと共に考えた。勿論、後からマテリアルに相談するつもりではあったが、今は、それに適していない時機であろうと考えた。タキオンは、田上が自分に相談してくれる事が嬉しかったようで、小声で会話をしていたのにもかかわらず、時折、声が大きくなる時があった。そういう時は、田上が急に黙って、咎めるようにタキオンを見つめた。すると、タキオンはマテリアルの方をチラと見て、「仕方がないね」と言うように首をすくめると、小声でまた話を続けた。

 午前中の最後の方は、タキオンと一緒に天皇賞・春の結果を考察する事もした。一番人気は、マンハッタンカフェだ。田上もタキオンもカフェが一着になるのではないだろうかと予測した。確かに、他の子もレベルが高くはあるのだが、カフェはその中でも頭一つ抜けて、ステイヤーだった。そんな子にタキオンが勝ちを取ったのだから、田上は、改めて、タキオンが天皇賞・春に出ないのは惜しいと思った。しかし、その事を口にすると、タキオンは嫌そうな顔をしてこう言った。

「前にも言ったことがあるだろ?私は、長いのは嫌いなんだよ」

「なんでそこまでして嫌がるんだ?菊花賞は走っただろ?」

「菊花賞は走ったさ。まだ、そこまで長いレースにも飽きていなかった。…それに、私は、自分の足を治すのに死に物狂いだった。自分の足が治ったと確信するには、GⅠという最高の舞台であるあそこがふさわしい物のように思えた」

「…日本ダービーで負けたのは、怪我のせいじゃないよな?」

「怪我はしていない。しかし、自分の足が不安定ではあった。 日本ダービーは、単に、私達の方に勝ちが向いてこなかっただけさ。勝った向こうの方も強かった」

「…菊花賞で競えなかったのは惜しかったね。怪我で引退しちゃったから」

「そうだね。 でも、あの子が、菊花賞に出走するかどうかは怪しかったよ」

「なんで?」

「私と同じさ。あんまり長いレースは好みじゃないらしい。…でも、せっかくのクラシック三冠の最後の一つだから、走っていた可能性も大いにあるだろうね」

「…ごめんな…」

「…ん?…足の事かい?」

「…そう。気づいてやれなくて」

 田上が、少々落ち込みながらそう言うと、タキオンは苦笑した。

「別に、私は、君に気づいてほしくなかったんだよ。だから、私の足の事は、君に絶対に隠した。むしろ、私の演技が上手すぎたんだ。君が見抜けなくたって、君に責任があるわけでもない。…それに、…君はちゃんと私の研究に応じてくれたじゃないか。たまに、無茶を言った時もあったけど、その時もちゃんと対応してくれた。一度だって私を見捨てようとはしなかった。その事がどんなにありがたかったか分かるかい? 君だけだったんだよ。私と真面に話そうとしてくれる人は」

「…でも、…なぁ…。なんか、もう少しお前の力になってやれていれば…」

「十分なってたよ。君以上の人は居なかった。あれだけ私に尽くしてくれていれば、私も君に惚れるくらいにありがたがっていたという事だよ」

「…でも、…結局、お前を突き放そうとしたこともあったし…」

「それとこれとは別問題だったじゃないか。あの時までは、君が私を助けてくれた。だから、あの時は、私が助ける番だったんだ」

「…でも、…酷くないか?」

「なにが?」

「…男として…」

「男?君は十分魅力的だと思うけど」

「……酷いと思うけどね…。なんでタキオンが好きでいてくれるのかが分からない…」

「そりゃあ、君だからさ。君の事が好きだから、何をされたって別に構いはしない」

「…どうかなぁ。…なんでそんなに一途になれるんだ?」

「君だって一途じゃないか。今の所、私は君にとって面倒臭い女でしかないだろ?いつでも君が必要な」

「そりゃあ、男ってもんは、女の人に好かれると良い気になるもんだよ」

「でも、君だって私の事を面倒臭い女だと言ったじゃないか。面倒ならば、何故別れないんだい?」

「…お前を一人にはできないからだよ」

 田上の答えを聞くと、タキオンは少し眉を曇らせた。

「…好きじゃ、ないのかな?」

「好きだよ。…でも、お前を一人にしといたら、絶対にどこか別の変な道に迷い込んでしまう可能性もあるだろ?」

「…放っておけない女、というやつかい?」

「…そうかもね…」

 タキオンは、田上の返事に、今度は目線を下に落とした。田上の手を握っている自分の手が見える。それを見ると、また、タキオンは田上の目を見て、少し身を乗り出して言った。

「好きって言ってくれないか?」

「…好きだよ」

「違う。 好き、って」

「好き…」

「私も好き」

 そして、二人はお互いの目を見つめ合ったが、この妙な雰囲気に耐えられなくなった田上の方が先に目を逸らした。すると、またタキオンが言った。

「好きかい?」

「…好き」

 これを言う時に、田上が目を逸らして言ったのが、タキオンの気に食わなかったようだ。一度、ピタリと表情が固まると、次は、口角だけをニコリと上げ、目は笑わずに田上に言った。

「私を見て」

「…好き」

 これで、タキオンは満足が行ったようで、目もしっかりと笑わせると、「私も好きだよ」と言った。すると、今度は、田上が、顔を曇らせてタキオンに言った。

「…今の顔は怖かった」

「怖い?」

「タキオンの顔。目が笑ってなかった」

「…笑ってなかったかな?」

「笑ってなかった。別に、俺がお前を見てない時は、恥ずかしがって見てないときもあるんだから、そんなに怖い顔をして俺に言わなくたっていいだろ?」

 この言葉にタキオンはあまり釈然としていないようだった。しかし、あんまり口論する気もないタキオンは、田上の言葉に大人しく従うと、「分かったよ」ととりあえず形だけでも頷いた。

 これには、田上もあんまり釈然とはできなかったが、これといった議論に持ち込めるわけでもなかったので、釈然としないままその話は見送られていった。

 

 田上は、タキオンと共にカフェテリアに向かう時に、マテリアルに昼食は一緒にどうかと誘った。タキオンは、これにはあまりいい顔はしなかったが、何も言わなかった。しかし、タキオンが断るまでもなく、マテリアルは二人の昼食には同行しなかった。相変わらず機嫌の悪いマテリアルは、怒鳴りはしなくとも低く脅すような声で「嫌です」と返していた。これにもタキオンはあまりいい顔はしなかった。この顔は、先程とは違う理由で良くない顔だ。マテリアルが、田上に対してそんなに無礼な口を聞いたのが、タキオンの癇に障ったのだ。しかし、それも田上の横であまり諍いは起こしたくなかったので、タキオンは黙っておいた。当の田上は、無礼な態度に関してはあまり気にしていなかったが、この先を思うと、問題の多さに多少うんざりするような心持ちだった。

 そんな心持ちながらも、田上はタキオンと手を繋いでカフェテリアの方へと向かった。最早、あの約束事というものはタキオンにはどうでも良くなっていたし、田上にも拒む努力をさせなかった。――どうせ、万人が自分たちを見て苛ついてもいないだろう、という気持ちもあったが、どちらかというと、タキオンの事が好きで好きで堪らず、そんな女の子を自分から拒んで曇った顔をさせてしまうのは、男として田上にはどうにも忍びなかった。

 そんなわけで、大分イチャイチャしながらカフェテリアへと歩いた。タキオンは、あまり田上には密着しないまでも、傍目からでも恋人同士だと分かるような話し方、目つきで田上の隣を歩いていた。

 そして、当の場所へ着いたのだが、ここでタキオンには少々不味いことが起こった。友達のハナミとアルトにばったり出食わしてしまったのだ。勿論、タキオンが休んでいるような事を気にする二人ではないが、タキオンがここ最近は研究をしてないという事であるにも関わらず、連日休んでいるので、不意に湧いた疑問がハナミの口から出てきていた。

 タキオンは、自分の今の状態を隠したほうがいいのか、友達の二人には打ち明けたのほうがいいのか迷って、返答に窮してしまったが、ここで田上が助け舟を出してあげた。

「タキオンの体調がちょっと悪いらしくてね」

 今まで田上と楽しそうに会話をしていたのを見られた後に、田上がこういうあからさまな嘘を付くと、すぐに別の事情があるのではないかということが見破られそうではあった。しかし、田上からすると、見破られるくらいの嘘のほうが丁度いいような気がした。下手に上手な嘘を付いて、後に問題を引き伸ばすより、こういうあからさまな嘘で「問題がありつつもあなたたちがそれに触れるのはあまり良くない」という事を言葉の裏で伝えられたほうがいいだろうと思った。これは、相手の方もある程度察する事ができなければ上手くいかない場合もあるのだが、今回は、少なくともアルトの方は上手く察してくれたようだった。

「頑張ってね」とタキオンに軽く言うと、少しタキオンの事をジロジロ見てるハナミを引っ張って、別の方へ歩いていってくれた。それで、タキオンもやっと見知った人の目から開放され、田上といちゃつくことができた。それでも、少しばかり「私が、あんまり表面上の問題はないと分かると、あの二人はどう思うのだろうか?」ということを口にした。それに、田上は、安心させるようでもありながらもはっきりとした確信を持って「あの二人なら特にタキオンの事は悪く思わないと思うよ」と伝えた。タキオンは、その言葉に納得したのかしていないのか分からない、微妙な表情を浮かべた。

 

 昼食が終わって、二人が少し元気な調子で話しながらトレーナー室に戻ると、マテリアルはやっぱり同じところにほとんど同じようにして、スマホを見つめながら座っていた。しかし、片方の手にはおにぎりが握られていたので、昼食を食べていたのは確認できた。

 そこで、田上は不意に――マテリアルさんは、機嫌を悪くしてから、おにぎりしか食べていなのでは?という変な考えが過った。それが本当なら冗談事ではないが、田上も怠くて夕食を抜かすという経験がある以上、マテリアルも怠くておにぎりしか食べないということがあるかもしれない。そうなれば、さすがに食生活は狂っていると言わざるを得ないであろう。しかし、ここで「おにぎりをよく食べますね」と言うのも妙であるような気がした。別に、夕食に普通のご飯を食べていないとも限らないのだ。食堂で一緒になることはあまりないが、それぞれ違う時間帯に食べている可能性もある。そうすれば、余計なお世話というものを焼いてしまうのは田上の方で、その後に、またギスギスとした空気になってしまうのが関の山だろう。

 田上は、そう思うとおにぎりを食べているマテリアルを無視して、自分の席に座った。タキオンもその横の椅子にニコニコとしながら腰掛けた。どうやら、満腹にもなって、田上とも居られてタキオンはご機嫌な様子だった。マテリアルとは対象的なタキオンだったが、田上にしてみれば、どちらもあんまり変わらない『問題』だった。どちらにしろ、チーム内に不和をもたらしそうなものだった。タキオンだって、今はこんなにニコニコしているが、いざトレーニングとなってみれば、豹変する可能性だって十分にあるだろう。そう考えれば、最早、あけすけに不機嫌な態度を取りつつも、真面目な話は取り次いでくれるマテリアルのほうが一番マシかも知れなかった。

 リリックもまだ、どうとは言えない様子である。昨日は最後の方に出て来てくれたから良かったものの、今日も必ず来るとは限らない。ダンスレッスンもちゃんとこれからできるのかどうか曖昧な所だ。タキオンと同じように、肝心な所で嫌と言い出す事も否めなくもない。

 そこまで考えた所で、田上は、はぁとため息を吐いてタキオンの顔を見た。タキオンは、田上に見つめられると、「どうしたの?」と言うように首を傾げた。田上は、それに何も答えなかったが、その優しい仕草に少し口角を上げると、タキオンの頭をよしよしと撫でた。タキオンは、なぜ自分が撫でられているのか分からなかったが、田上が自分の事を好きでいてくれるという事が十二分に伝わってくる行為だったので、嬉しそうに微笑みを浮かべた。

 それからは、放課後のトレーニングを待つのみという時間になったが、田上はここで――タキオンについて色々とマテリアルと話し合わなければならない、と考えた。これは、マテリアルに対してもいい効果があるように思えた。初めは、ただ思い立っただけなのだが、よくよく考えてみると、そのように思う。つまり、タキオンの問題は、確実に二人だけの問題とは言えないわけだ。マテリアルも伊達にチームでトレーナーの補佐をしているわけではない。タキオンがチームとしてここに居る以上、マテリアルも相談すべき相手なのだ。

 そういうわけで、田上は、タキオンと共にマテリアルの前に座ると、話をした。マテリアルは、初めは嫌そうな顔をしていたが、それが打ち明け話だと知ると、段々とその顔も不機嫌ではなく、物事を考える顔に和らいでいった。タキオンは、どうしても不機嫌そうだった。タキオンは、田上がこの話をしようとすると、初めは「嫌だ」と言った。タキオンとしては、この問題は、自分と田上の二人だけの問題にしたかった。恥ずかしいからという理由は、あまり大きな問題ではないが、タキオンはとにかく、二人を結びつける固有の物が、自分たちの間に在ってくれると嬉しかった。自分たちだけにしか分からない、他の人が介入する事のない、二人きりでいられる問題だ。タキオンにしてみれば、それは問題というよりも、二人をより強固に縛ってくれる優しい縄のようなものだった。そのようなものの中に、マテリアあるとかいうふざけた女を入れてはいけない。あの女が、介入したら自分たちだけの世界に他の不純なものが混じってしまう。

 それがタキオンの考えだった。しかし、これを田上がどうにも強引に打ち破ったから、タキオンの機嫌は最悪だった。けれども、自分の好きな人だから怒るに怒れず、もっと不機嫌だった。だから、田上が、タキオンの事について話している間は、一言も話さず、牽制するようにマテリアルの方を睨みながら、他方で、束縛するように田上の腕に自分の腕を回し、抱きしめながら、時折、自分の頭を強く田上の肩に擦りつけた。

 田上は、タキオンがどれ程の機嫌なのか、時々様子を窺いながら、マテリアルと今の自分たちの状況を話した。大分、包み隠さず話してしまったので、田上だってあまりいい気分にはなれなかった。自分たちの恋愛事情など、簡単に他の人に話すようなものではないが、そこには、恋愛だけでなく他の感情による物事も含まれていたので、それを話さないわけにはいかなかった。これを包み隠さず話されただけでも、タキオンはいい気はしなかっただろう。その証拠に、田上が何か少しタキオンの心に触れたような発言をすると、その度々にどんどん強く田上の腕を抱きしめて、最後には万力込めて田上の腕を絞め殺さんとばかりにしていた。それで田上も怒るに怒れないが、自分の痛みをタキオンに訴えるような顔をすると、タキオンも仕方なく腕の力を緩めた。けれども、一応、そこで田上の打ち明け話は終わった。後は、最終的にこれらの問題をどうしようかと、マテリアルと話し合う場面だったが、ここで、タキオンが立ち上がると田上に言った。

「話は終わったね。私は、これ以上ここに居るのは御免だよ。 一緒に外に行こう?」

 そう言いながら、タキオンは多少強引にでも外に連れて行こうと、田上の手を引っ張っていた。田上は、それに少しの抵抗を見せ、マテリアルの方をチラと見た。マテリアルも浮かない顔でこちらを見てきていたが、すぐにその目は逸らされた。その顔を見ると、とりあえず、問題の様相が変わった事が田上には確認できたので、こういう状況も理解できるであろうマテリアルに遠慮はいらないと考え、彼女に「タキオンと一緒に行ってきます」と告げた。これは、マテリアルが理解できていなくとも、結果は変わっていなかった。少々強引に事を進めてしまったので、これの後始末をするのは、田上がしっかりとやらねばならなかった。

 そういうわけで、田上は、タキオンの頭を申し訳なく思って、撫で撫でしながら、いつものベンチの所へと向かった。

 

 タキオンは、ベンチに座ると、すぐに田上の膝枕に頭を乗せ、非難がましい目付きをしながら田上に言った。

「私と君の二人だけの問題にしてほしかった…」

「でも、二人だけの問題じゃないだろ?あれは、マテリアルさんにも話すべきだった」

「話したって何も変わらないよ。彼女だって、大体の事は知ってる」

「もっと包み隠さず行くべきだと思った。…お前の問題は、チームの問題でもあるからな」

「違う。私と君の問題だ」

「…なんで?」

「…私と君だけの問題でありたいからだ。なら、この問題は、私と君の問題でしか無い」

「…本当に?」

「本当だとも。これは、私と君の心の問題だ。私達二人の問題だ。お互いにしか分からない事がある」

「…そうかもしれないけど、…俺は、…マテリアルさんに分からなくとも話す事が重要だと思った」

「あんな人に?自分に後ろめたさがあるにも関わらず、叩いてくるような阿呆だよ?」

「その話は、今の主旨じゃない。マテリアルさんが、真に誠実かどうかよりも、マテリアルさんもしっかりと打ち解けさせる必要があった」

「…あんな人、打ち解けさせたって何にもならないじゃないか…」

「なるよ。お前もマテリアルさんもチームの一人である以上、ギスギスしたままだと碌にトレーニングもできない。お前だって集中できなくなるだけだ」

「私は、他の女が居ると言うだけで集中できないね」

「…そんなに嫉妬深いのか?」

「…ああ。…君、私がどんなに嫉妬深いか分かっていないね?」

 そう言いながら、タキオンは起き上がり、今度は、田上の膝の上に、正面から抱き合うようにして座った。

「私は、いざとなったら君を殺すよ?」

「…殺せないだろ?」

 田上も少々眉根を寄せながら、タキオンと目を合わせて言った。

「…いや、今なら殺せるかもしれない」

「…お前に俺は殺せない…」

「…いや、殺す。今、この首に手をかければ、君は成す術なく死ぬよ」

「無理だ。お前に俺は殺せない」

「怯えているのかい?」

「いや、分かってる。お前は、俺の事が好きだから」

「…好きだから殺すんだよ?」

「妄想を抱きすぎだ。お前に俺を殺せない」

 タキオンは、田上があまりにも芯を捉えて目を合わせてくるから、思わず目を逸らしてしまった。その後で、田上に負けはすまいと再び目を合わせると、その首に手をかけ、脅すように低く呟きながら言った。

「今ならできる」

「できない。後悔するのはお前だ。お前が一番それを分かってる」

 タキオンの顔は、一瞬泣きそうに歪んだ。しかし、次の瞬間には、それをぐっと噛み殺して言った。

「やる。やってみせようか?」

「やれよ。どうせ、お前には勝てないよ」

 その言葉を聞くと、タキオンは、歯を食いしばって今にも田上を絞め殺そうという顔をした。しかし、それは同時に、田上を殺したくないと必死に堪えている顔でもあった。その二つのせめぎ合いが、数秒の間続いた。タキオンの手は、田上の首の周りでピクピクと痙攣を繰り返していた。

 だが、その手はやがて、解かれ、タキオンの顔を見えないように覆った。

「私って悪い女だ…」

 タキオンは、涙を流しながら言った。田上は、ここでタキオンが逃げ出してしまわないとも限らないので、しっかりと腕の中に抱くとこう返した。

「そういう時もあるよ」

「…好きな人を殺そうという時かい?」

 タキオンは、鼻をすすりながら言い返した。

「違うよ。ぐちゃぐちゃになる時だよ。難しいんだよ、人の心は」

「…こんなになるなら、生まれてきたくなかった…!」

「そんな事言うなよ。それだと、俺は、お前と出会えなかった」

「全部意味がない…!わっ、私はっ、…君を愛せない…!」

「そんな事言うなよ…」

 タキオンの涙につられて、田上も泣きそうになりながら言った。

「俺は、お前の事好きだよ」

「こんな悪い女のどこを好きになる?そ、そそのかされてるんだよっ、き、君は…!」

「嫌いじゃないよ。好きだよ。…どんなに悪い女でも、俺は、お前の事が好きなんだよ」

「じゃ、じゃあっ、君は、…バカだ!とんでもないバカだ!私は、君のためにしてやれることなんてなんにもない…!」

 この後は、タキオンも堪えきれずにワーワーと泣き出して、田上の首にしがみついた。泣いているので、話しどころではなくなった。だから、田上は、自分も涙を流しながら、一生懸命その背を撫で擦ってやった。田上にも、タキオンの気持ちが痛いほどに分かった。どうしようもないのだ。自分の感情が行き場を失って、あらぬ方向へ歩き出してゆくのを、止める方法が分からないのだ。止められる事なら止めている。だから、今、後悔のあまり身を引き裂かれんばかりに泣いているのだ。

 田上は、タキオンの背を一生懸命に撫でながら、「大丈夫だから」「大丈夫、お前の気持ちもよく分かる」とひらすらに繰り返していた。

 

 タキオンは、余程のショックに陥ったのか、大分長い事大声で泣いた後もシクシクと涙を流しながら、田上に自分の行いを責めるあれこれを並べ立てていた。「君に私は向いてない」だの「こんなに面倒臭い女の傍に居るなんて間違っている」だのと田上に言い尽くしたが、田上は、ちゃんと安心させるように背を撫で続けながら、自分の好意をタキオンに伝えていた。時折、タキオンが田上の腕の中から逃げ出そうとした時があったが、田上は、それをしっかりと抱きしめて、タキオンを絶対に逃さないようにした。タキオンも田上の本気の抵抗にあうと、いくらか田上の思いが本気であるという事が身に染みてきたようで、次第に呼吸を整えながら、それでも、涙を流し続けた。

 タキオンが、ようやく落ち着いてきた時、トレーニングの時間は、とっくの昔に始まっていた。田上は、タキオンに断りを入れつつも、マテリアルとリリックに連絡をして、今回のトレーニングには遅れるか来られないことを伝えた。しっかりと事情も話した。タキオンが、あれこうこうで、と。その間もタキオンは泣き続けていたが、その時ばかりは、タキオンだけに集中するわけにはいかなかった。タキオンは、田上がその連絡を入れていることに気づいていたのかどうかは定かではなかった。田上の声が聞こえていることすら定かではない状況で、田上が、一応断りを入れるだけ入れて連絡をしたので、タキオンが気づいているのかは怪しかった。もし気がついているとすれば、もう一悶着ばかりあったかもしれないが、実際の所がどうなのかは分からない。とりあえず、田上は、連絡を入れる他なかった。

 タキオンは、少し疲れたようなボーっとした顔で、力を抜いたまま、今まで田上にしがみついていた体を離した。田上も、タキオンが逃げる気配は無いので、そのようにさせてあげた。すると、タキオンは、田上の首に手を回し、その首に掛けてあった銀色の鎖をスルスルと引っ張り上げた。服の中に隠れていたアクセサリーは、引っ張り上げられ、タキオンの手の上に露出した。その鎖の先についている青いてんとう虫が、二人の間でキラキラと光っていた。その後に、タキオンは、自分のアクセサリーを取り出した。金色の鎖の先についている月のようなてんとう虫が、青いてんとう虫と同じようにキラキラと輝いていた。

 今は、まだ春だった。夕暮れ時の影ように沈んだ二人の心には似合わず、陽の光はまだ頭上で燦燦と降り注いでいた。その木陰の下で、ただ二人、静かに対になっているネックレスを見つめていた。やがて、タキオンが、無言の内にアクセサリーをそれぞれ元の場所に戻すと、迷うようにチラと田上の目を見つめた。その目が合うと、田上は、タキオンが逃げ出してしまうのではないかと考えたので、その服をぎゅっと握った。実際、タキオンも逃げ出そうかどうか迷っていた所だった。しかし、ここで、タキオンが本気で逃げてしまえば、田上が追いつくのは難しい。タキオンは、田上にどこまでもどこまでも追いかけてきてほしかった。田上から完全に逃げ去りたいという気持ちもしっかりとあるのだが、そうした気持ちも混在していた。

 田上が逃さないように自分の服をギュッと掴む感覚を感じると、タキオンは、口を開いて何かを言おうとした。それは、感謝の言葉だったかもしれないし、もっと自分を責めるための言葉だったかもしれない。しかし、タキオンには、どちらにしてもここで声を出す勇気はなかった。頭の中に何の言葉も浮かんでこなかった上に、自分の目を見つめてくる田上の目が、涙で少し光っていたのがタキオンに何も話させなかった。そして、後悔の念に襲われた。今、何も言えなかった後悔でもあるし、先程、田上に色々と言ってしまった後悔でもある。その後悔を心の中でどう処理をしようかと手を拱いている間に、田上が掠れた声で言った。

「好きだよ…」

 途端に、言い表すことのできない後悔が、ワッと心の中で強まり、タキオンの体を衝動的な心が襲おうとしてきた。タキオンは、それを田上の服を必死にぎゅっと握りながら堪えると、やっとの思いで田上に言った。

「…あ、…愛せそうにないよ…、君の事…」

 この言葉が頭の中で反芻されていくたびに、タキオンは再び涙を流しそうになり始めた。そのタキオンをじっと見つめながら、田上はもう一度口を開いた。

「悪い女であっても、俺は、絶対にお前を見捨てない。…お前だって、俺を見捨てようとはしなかったから」

「…あれは、……私の悪い部分だよ…。…私の…物になって…」

 これ以上の言葉はタキオンの口から出てこなかった。喉に空気の塊が詰まったかのように、ピタリと声がやんでしまった。その言葉の続きを、田上は少し待ってあげたが、なにもないと分かると言った。

「それだけじゃなかった。これは分かってる。お前は、本心から俺を助けたいと思っていた。 決して、お前が俺を自分の物にしたかったからじゃない。それだけだったら、俺はもうここには居ない。お前の言葉は、俺には届いていなかった。お前が、本心から俺を助けようとしてくれたからこそ、俺は、お前の言葉を聞けたんだ。俺だって本心だ。お前が好きだ。絶対に離さない。お前に俺の言葉が届かないんだったら、届くまで伝える。絶対に、俺は、お前の事が好きだ。嘘なんかじゃなくて、絶対だ。絶対に好き」

 そう言い切った後で、田上に少し照れが残ってしまい「気持ち悪いかな?」と目を逸らした。その様子が、タキオンには少しおかしくて、若干口角を上げると、田上に言った。

「私は、君を幸せにはできないよ…」

「…?どういう事?」

「…分からない。……私は、……もう、酷いって事…」

「…まぁ、耳元であれだけ泣かれたら、酷いかもしれないな」

 田上が、冗談めかして優しく言うと、タキオンは先程よりももう少し口角を上げて田上を見た。そして、一瞬目を逸らしてから、また田上を見ると言った。

「人間の女の人だったら、…耳元で囁くということがしやすいね…」

「そうだね」

「……私も人間だったら良かった。人間だったら、…もっと…簡単に…君に抱きしめてもらえるのに…」

「今も簡単だよ?」

 軽々しく呟かれたその言葉に、タキオンは人間の力とウマ娘の力の差異を感じ、少しだけ悲しくなりながら「そうだね…」と頷いた。

「…今日は、…疲れた…」

「トレーニングはどうする?いや、休もう。さすがに、ここでお前に指導することはできない。お前の体力が消耗されていくだけだ。今日は休まないといけない。今日は、もうあんまり考え事もダメだ。疲れるだけだぞ」

「そうだね…。ありがとう…」

 そう言うと、タキオンは、田上の体を抱きしめながら、その肩にもたれかかった。眠気に瞼が重くなってきた。まだ、起きて田上と話を交わしたかったのだが、タキオンの意識は、田上の鼻歌と共に眠りの底に落ちていった。

 

 タキオンは、田上とキスをしている夢を見た。二人の間には、子供ができている。これぞ、幸せの絶頂だった。二人で自分たちの子供を愛でながら、タキオンは田上を抱きしめた。笑い合った。キスをした。寝転んだ。空を見た。愛の言葉を囁いた。愛の言葉を囁く彼の声を聞いた。そして、またキスをした。寝転んだ。空を見た。抱き締め合った。そして、またキスを。いつまでもいつまでも、終わらない夢のような空間で、ひたすらに愛してくれる彼と愛という愛を囁き合って、夜を明かした。

 タキオンが、朝に起きると、当然の如くその夢は終わってしまったが、まだ、幸福の名残のようなものが感覚として思い出すことができた。タキオンは、その夢の事を覚えていたので、田上のモーニングコールと共に「私、君との子供が欲しい」と告げた。同室のデジタルは、今までになく驚いた声で「ほあ゛あ゛ぁ!!」と言っていたし、田上もまだ覚醒しきっていない、感情の残った声で「ああ!?」と少し怒ったような口調になって言った。

 田上の口調が怒っていると言うだけで、本心は、一ミリも怒っていないであろう事をタキオンは知っていたので、周囲で巻き起こった悲鳴には構わずに続けて言った。

「私、君と子供を作る夢を見た。…君の仕事もあるだろうから、今すぐだとは言わないけど、そんなに遠くない未来に作りたいって事を覚えておいてほしい」

「…君の仕事…って言われても、一番大事なのは、…お前の選手生命なんだけどな…」

「ああ…、それがあったね…」

 この言葉に、タキオンは思いの外落ち込んだ。これは、自分の目の前に立ちはだかる一番の難所をすっぽりと抜け忘れていたからだ。しかも、それは自分で選んだ難所であった。タキオンは、自分で宝塚記念を走るという事を決断したことを今更になって後悔した。

 田上もタキオンが思ったよりも落ち込んでしまったので、少し驚いた。それで、何か慰めの言葉を掛けてやろうとしたのだが、結果として、本格的に結婚と子供を望むのならタキオンが引退をすることが必要不可欠であり、今それを決断できないタキオンには、落ち込むより他に道はなかった。走ることについて、タキオンは好意的な感情を持ち合わせていたが、選手として走ることについては、どうにも要領を得ない焦りとも呼べるかもしれない感情が後に付いていた。焦りと呼ぶほどに焦っているのかは、タキオンには分からなかった。しかし、今ここで、田上との子供を儲ける事と選手人生を天秤にかけてみると、遥かに、田上との子供の方が大きく見えるにもかかわらず、傾くのは選手人生だった。むしろ、選手人生の方は、軽く見えてしまうが、これの方がタキオンの心の多くを占めていた。何故とは言えないが、選手としてのタキオンは、タキオンにとってそれ程、虜になるものだった。

 タキオンは、落ち込みつつも適当に服を着替えると、昨日のようにあまり頼りがいのあるとは言えない足取りで、田上の寮へと行った。田上は、今日も寮の外に来てタキオンを出迎えてくれた。タキオンは、その顔を見ると、自虐的な笑みを浮かべながら「子供は得られないものだね」と呟くように言った。田上は、優しげな笑みを浮かべてこう言い返した。

「まだ、女子高生だからな…」

「…女子高生でも赤ん坊くらい授かっていいんじゃないか?」

「滅多な事は口にするもんじゃないよ。まだ、先があるんだから」

「疲れたよ…」

「俺も疲れた…。昨日は、大変だったからな…」

「…よく、君は、生きていこうと思うね…」

「タキオンが居るから…。俺が居るだけじゃ不満か?」

「…どうだろう?…不満かもしれない。…もっと、…君と…夢みたいな場所でいちゃいちゃしたい」

「理想郷?」

「そう。理想郷…。…そんなのがほしいよ…」

「求めてるだけじゃ手に入んないよ」

「…分かってるさ。 今は説教みたいなことは言わないで…」

「いいよ。…でも、どうすりゃいいんだろう?」

「んん?」

「話し合わないで今の状況を打開するのって、どうすればいいんだと思う?」

「分からない。…今はよそう?もう、昨日の疲れが全然抜けきらないよ」

「トレーニングはどう?今日は、ダンスレッスンもある予定だけど…」

「確か、オリエンテーションだったと思うけど…」と田上が言いつつ、その手を取って二人は、食堂のあるトレーナー寮の方ではなく、いつものベンチの方へ向かって行った。タキオンは、田上に手を引かれながら「憂鬱だ…」と呟いた。

 

 ベンチに着くまでにその事について少し話をしたが、結局、タキオンはダンスレッスンには出席することにした。オリエンテーションであるかどうかは定かではなかったが、タキオンのこれまでの経験則で言うと、GⅠのレースのダンスレッスンであれば、大概の子が慣れているためオリエンテーションはそこそこで、初めから練習を重ねるそうだ。

 タキオンは、昨日から残る疲れに加え、ダンスレッスンのせいで憂鬱の度合いは真骨頂に達しており、「圭一君が居なかったら、私は泣いているか死んでいる」と頻りに繰り返していた。田上は、その言葉に優しく返事をしながら、膝枕に乗っかっているタキオンの頭を優しく撫でた。

 午前の内は、田上もタキオンが言ったようにあんまり難しい話はしてやらないで、のんびり過ごしてやろうと考えたが、そこで浮かない表情のマテリアルが道の向こうからやってきた。どうやら、田上たちの様子を見に来たようで、二人がのんびりとしている様子だと知ると、浮かない顔をもっと沈ませて「そうですか…」と言った。そこで、マテリアルが迷うようなそぶりを見せたので、見かねた田上が「なにか…悩みでも?」と聞くと、彼女は「はい…」と頷いた。

 タキオンは、田上がマテリアルを引き止めたことについて少し不満そうだったが、何も言おうとはしなかった。ただ、二人で占領していたベンチにマテリアルが座るということになっても、タキオンは大人しく田上の言うことを聞いて、田上の膝の上に抱き合いながら座った。二人の心情もいくらか想像の容易くなったマテリアルは、それに疑念の目も投げかけずに、ただ俯いていた。もしかしたら、自分の事で頭がいっぱいだったからかもしれないが。

 三人は、暫く何も話さなかった。田上はどう話を切り出せばいいのか分からなかったし、タキオンは元々話すつもりはなかったし、マテリアルも自分の悩みを話すと言えば、恥であることだから中々に言い出すことはできなかった。けれども、自分から相談をもちかけているのだからと思うと、一瞬だけ自分の心を奮い立たせて言った。

「…わ、私って、…どう思いますか?」

「どう?…普通の人だと思いますけど」

「…そういう事ではなくて…、…じゃあ、女としてどうですか?良さそうですか?」

 この質問に田上は少したじろいだし、タキオンもピクリと手を動かして反応を示したが、他意はなさそうだと分かるとこう言った。

「別に、普通に悪くない顔だとは思いますよ」

「じゃあ、性格はどうですか?人と付き合えそうな性格をしてますか?」

「…それは、…付き合えないって事はないんじゃないですか?」

 実際に、田上としても人と付き合える性格というものが、上手く想像できなかったため、曖昧な言葉で濁した。しかし、マテリアルが、その言葉で満足できるかと言えば、そうではなかった。暗いため息を吐くと、少し間を空けてから、口を開いた。

「あんまり良い性格はしてなさそうじゃないですか?」

「…どうでしょうね」

 田上も、マテリアルが普通の範疇から超えた異常な性格をしているとは思わなかったものの、それなりに、普通に面倒臭い性格だとは思っていたので、これも曖昧に返した。ただ、その曖昧さの意図は、マテリアルにもなんとなく伝わった。人情として、元気づけてあげたいならば、ここはお世辞にでも褒め言葉を言っておいたほうが、相手の方も変に察することもなかったのだろうが、田上は、ここで曖昧に言ってしまったので、二人の空気は口を開き難いものへと変わってしまった。

 そして、沈黙が続くかに思えたが、ここでタキオンが、田上だけに聞こえるように耳元でこう囁いた。

「あんまりマテリアル君と仲良くならないで…」

 ただ、この言葉は、そのとき吹いた風に乗って、マテリアルの耳にも届いた。マテリアルは、「分かってるよ」と小声で返して、タキオンの後頭部を撫でている田上の声を聞きながら、苦しみに似た苛立ちを覚えた。

 

 その後は、あまり悩みも解決せずにマテリアルの方から立ち去った。声を出そうにも出なかったので、立ち上がると一礼をして、そのまま立ち去った。

 その際に、田上がこう言った。

「春ですね」

 心地のいい風が、芝生の草を撫で、マテリアルの服の中を通りながら、どこかへと走り抜けていった。その風を感じると、少し心は軽くなったが、ただ、もう一度一礼をして、その場を立ち去っていった。

 背後で、恋人たちの話し声が聞こえた。

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