ケロイド   作:石花漱一

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二十六、天皇賞・春①

二十六、天皇賞・春

 

 四月の二十五日。天皇賞が、今週末となった木曜日。タキオンは、カフェから模擬レースをしないか?と持ちかけられたが、自身の心身の不調により、それは断った。カフェもあんまり期待はしていなかったようで、素直に引き下がるとこう言った。

「では、…私のレースを見に来ませんか?仕上がっているので、…菊花賞の惜敗の時よりも調子はいいですよ……」

 タキオンは、これに異は唱えなかった。別に、走る事にアスリートとしての興味が無いわけではないので、見るだけならタキオンもそれで良かった。田上もこの交渉の場所にいたので、それもそれで都合が良かった。リリックを模擬レースに出してみたいと思っていたので、一度、またGⅠのレースとは違う感覚で見るGⅠウマ娘のレースを、リリックに味あわせてみるのもいいかもしれなかった。ただ、ここまで、リリックに模擬レースの話はしてきていなかったので、それを説明して、するかしないかを決める必要があった。これは、リリックの判断を問うつもりなのではないが、田上としても、本当に問わなくていいのか心がまだ定まっていない調子であった。その心のままに、田上は、リリックをトレーナー室に呼び出して、こう聞いた。

「四月三十日、火曜日に模擬レースをしたいんだけどどう思う?」

 気分は、そこまで落ち込んではいなさそうなリリックが、少し不安になりながら「私がですか?」と聞き返した。

「そう。これは、タキオンもそうだったんだけど、やっぱり、初めてのレースは緊張しちゃうんじゃない?」

「…多分…」

「だから、やっぱり、慣れておいたほうがいいと思うんだけど、リリーさん的にはどう思う?」

「…しないといけないんですか?」

「ぶっつけ本番でレースに臨むよりかはいいと思うし、練習にもなると思うんだよ。…レースっていうものの感じが、…リリーさんにどれくらい掴めているのかはわからないんだけど、…リリーさんは、やっておいたほうがいいと思う?」

 ここで、リリックは、当然の如く迷った。目を下にやったり、横にやったり、手を見つめたりした挙げ句、田上の隣に居て話を聞いていたタキオンにちらりと目をやったので、それに反応したタキオンが口を挟んだ。

「リリー君がどうしたいのかでいいと思うよ。結局、やる事にはやると思う。レース前に一回模擬レースに出て、闘志を高めるというのは、私も毎回やっている。だから、君もやると思うけど、…圭一君、どうなんだい?」

「まぁ、それはやろうと思ってる。けど、リリーさんにとって初めてのレースだから、ちょっと心配なんだよね」

「…口ではこう言っているけど、圭一君が心配なのはそんな事じゃないようだよ。…君の口から言うかな?」

 タキオンが、チラリと田上の方を見て言ったが、それに反応する間も与えず、こう続けた。

「いや、私が言おう。 圭一君はね、君が、選抜レースで仕掛けなかった事を気にしているようなんだよ。今一度、問うてみよう。 君は、選抜レースで仕掛けなかった理由は何だい?あれが限界だったのかな?」

 少々圧のあるタキオンの物言いにリリックは、萎縮しそうになっているようだった。その事をよく思わないながらも、田上もそれが本心であったので、少し口を挟むと、今一度自分の本心をリリックに言ってみた。話の主導権の交代は、タキオンから田上へとスムーズに行われたようだ。タキオンが、少しの憎まれ役を買って出た事で、田上とリリックの話の交換も上手く行われた。

 リリックもその時の状況を上手く言葉に出来ないようだったが、出てきた情報を上手く噛み合わせてみれば、緊張しているようだということは明々白々のように思えた。ならば、田上としては、数をこなして場慣れをしておいたほうが多いように思えたが、タキオンは違う意見だった。タキオンが言うには、「数をこなすだけじゃ、駄目な事だってあるだろう」という事だった。しかし、そうは言っても、現状で何も見えてこない以上、分からないことに対して力技でする他無いように思えた。

 この二人の議論を踏まえた上で、最後に決断を任せたのはリリックだった。タキオンが、「本人に選ばせるべきだ」と主張したのに加え、田上もそちらの方に揺らいでいたので、最終的にそういう事になった。リリックは、どうにも二人の目を見ながら悩んでいるようだった。タキオンも、自分たち自身を判断材料にされると不味いと考えたので、リリックに「私たちの事は気にしなくていいよ」と告げた。田上も同様に告げたが、果たしてそれで効果があったのかは分からない。だが、最終的には、リリックは、模擬レースに出走することに決めた。

 それにあたって、やっと、カフェの模擬レースを観戦しに行くという話題が出てきた。リリックもカフェの走りが見れるという事で、少しだけ興奮した面持ちになった。そのリリックの様子を見つめながら、タキオンが田上に声を低めて言った。

「本当にそれで良かったと思うかい?」

 タキオンは、まだ少し、リリックが模擬レースをする事を選んだことについて引きずっているようだった。ただ、田上は、事が自分の思ったように運んだので、あまりそのことについては考えていなかった。だから、単純に「いいと思うけど?」と答えると、タキオンが続けた。

「私は、あんまりそうは思わないね。結局、あまり上手くは行かない気がするよ」

「負けたとしても、俺は大丈夫だとは思っているけど…」

「私は、そうは思わない。…多分、彼女は、自分の意思でその道を選んでいない」

「…選んでいないって言われても、本人がそう言ったんだから、俺にはどうしようもないよ」

「そんな事は分かっている。だから、私は――それで良かったと思うかい?と君に聞いたんだ。君はどう思う?」

 再びタキオンにそう問いかけられると、田上は少し考え込んでから言った。

「やってみないと分からないね」

 すると、タキオンは、マテリアルと話していたリリックを今まで見つめていた目を逸らして、田上の方を見やった。そして、隣の田上の肩にコテンと自分の肩を乗っけると、また、目の前のリリックとマテリアルを見て言った。

「そう。やってみなくちゃ分からないよ。…あの時、君とキスをしてよかった…」

 

 話は結局、カフェの模擬レースを見て、火曜日に自分たちも模擬レースをするということでまとまった。特にこれということもなく、後は、それを待てばいいということではあったが、田上は、どうにも近づいてくるゴールデンウィークが気がかりで、タキオンと度々その事を話題にした。タキオンは、その度に「君なら大丈夫だよ。母さんも父さんも歓迎している雰囲気だっただろ?」と言ったが、どうにも田上の気は休まらなかった。むしろ、落ち着かなさは増していくばかりだった。そして、遂に、こんなことまで話題に上げた。

「…お土産って持っていったほうがいいんじゃないか?」

「どうしたんだい?急に」

「ゴールデンウィークだよ。さすがに、挨拶に行くのに手ぶらってのもおかしんじゃないか?」

「父さんも母さんも気にしないと思うよ」

「…いや、持っていった方がいいかもしれない。さすがに、無礼なんじゃないか?」

「父さんも母さんも気にしないよ」

 タキオンは、もう一度その言葉を繰り返したが、一向に田上の気は休まらない様子で、そわそわと手を開いたり閉じたりしている様子を見つめていた。タキオンは、このことに関して、特に緊張らしい緊張は抱いては居なかった。しかし、落ち着きのない様子の田上があまりにも憐れで、元気づけるためにこう言った。

「持っていきたいのなら持っていけばいいじゃないか。持っていって喜ばないってこともないと思うよ」

「…でも、…どうしよう。…何を持っていけばいいんだろう?…お菓子?」

「君がお菓子で良いというのなら、お菓子を持っていけば良いんじゃないか。お正月の時に、私が送った君のとこの和菓子は、好評だったよ」

「…じゃあ、それを持っていったほうが良いのかな?」

「知らないよ。持っていかなくても、あの人達は全然気にしないと思うよ」

「…えぇ…、どうしたら良いんだろう?」

「緊張しなくてもいいと思うけどね」

「無理だよ。…怖ぇ…」

「父さんも母さんも何も言わないよ。君も知っているだろ?話したことはあるんだから」

「知ってるには知ってるけど、…怖いもんは怖いだろ?」

「…分からない事もないけど、…所詮、私の父さんと母さんだからね。結婚に関して言えば、君であれば、赤子の手を捻るような物だよ」

「どうかな?大阪杯の時に、変な所を見せちゃったし」

「大丈夫だよ。そんな事をあの人たちは気にしないと思うね。私達がしっかりと話し合って、結婚も考えてるっていうのなら、万々歳だと思うよ」

「万々歳ねぇ…」と言いながら、田上は大きなため息を吐いた。

 結局、田上は、自分の地元の和菓子屋のオンラインショップでそれを買うことにした。数量や種類も気になったが、それもタキオンとなあなあに相談して、なあなあな具合で決めた。全くもって、田上の心は、タキオンの家に行くことについて、向かおうとはしていなかった。タキオンの声もあんまり耳に入るようではなかったが、一度、約束してしまった以上それを取り消すこともできなかった。

 

 それから、トレーニングの前にリリックとタキオンとマテリアルと一緒にカフェの模擬レースを見に行くまで何も起こらなかった。ただ、時間だけが順繰りと過ぎていっているようだったが、その時間が田上の心を少しだけ軽くさせた。少し冷静になってみれば、まだ、ゴールデンウィークまでは、一週間もあった。

 タキオンの父と母の家は、静岡にあるという事は、前にも話したことがある。ただ、本家の方は、東京にある。ここから、遠すぎるということもない場所に、タキオンの祖母と祖父が住んでいる家がある。タキオンは、小学生の頃までこの家で過ごしていたようだった。だから、タキオンに言わせてみれば、静岡の方の家は、故郷でも実家でもなんでも無いようだった。ただ、あそこの風景は嫌いではないと言う。静岡の方でも田舎のあの場所は、田上の父の家の周辺とよく似ているが、あそこよりも畑が多く広がっているらしい。立地で言えば、タキオンの父母の家より、田上の父の家の方が店の多い都会に近い。田上も、あの竜之終町は嫌いではなかったが、畑の多いところというものも中々魅力的だった。熊本に住んでいる田上家の祖父母の家の周辺が、田上の知っている光景で近いだろう。あそこも寂れた場所ではあるが、緑の近い場所であった。それくらいの田舎の方が、田上には馴染みがあった。その事をタキオンに言ってみると、タキオンも少し得意そうだった。「君の故郷にも行ってみたい」と言った。残念ながら、それは、今は少し難しそうだった。行けるとしても、宮崎に住んでいる母方の祖父母の家の方か、熊本の田上家の祖父母の家の方で、それより以南には、田上も行く用事がなかった。そうすると、タキオンはこう言った。

「用事がないなら作ればいいじゃないか」

「…作るって言ったてね…。もう、子供の時の町じゃないのを実感するだけなんだよ…」

「大人になった私と共に行けばいいだけじゃないか。なにも、君まで子供に戻る必要はないよ」

 タキオンの言葉に、田上は頷きこそしたが、その返事は「どうだかね…」の一言だった。

 そして、田上はまた一つため息を付きながら、窓の外の景色を眺めた。その田上を見て、タキオンは、膝の上にあった手をそっと握った。

 

 四人は、トレセン内に設置されてある簡易的なレース場に向かった。ここに四人で向かうのは初めてのことである。リリックは、緊張しているようだったが、怯えている様子はそこまでなかった。この所は、順調そうで夢の話もあれ以降なく、一時の体調の不調のように思えた。だが、たまに田上にも陰りが見える時があった。その時の法則性はよく分からないが、リリックが一人で居る時などによく見る、遠くの何かをじっと見ているような表情だった。まるで、今から飛び降りる人かのような思い詰めた表情は、田上を心配にさせた。だからとは言わないが、田上もリリックがダンスレッスンをさぼってしまった時以降は、積極的に会話をするように心がけた。まぁ、ざっと話してみたところで、分からない事も多々あったが、分からない事を分からないなりに普通に会話をしてみると、リリックは、それなりに話す事が嫌いな子ではないことが分かったし、田上の事が嫌いなようでもない事が分かった。ただ、その時に、ちょくちょく邪魔をしてくるのが、田上の愛すべき彼女であるタキオンだった。タキオンの方は、相変わらず、普段の授業に出ようという気配はなかった。このことについては、田上も今は考えることを諦めていた。勿論、絶対に諦めた訳では無いが、どうもこの状況を打開する策が思い浮かばなかった。

 そのタキオンは、田上に他の人の事を考えてほしくないようだった。機嫌がいい時には、田上がリリックについての相談事などを持ちかければ、ちゃんと考えてくれたが、機嫌が悪い時にはそれ相応に面倒な態度を取り、田上の身から離れなくなった。殊に、他の女と直接話すとなると、タキオンが黙っては居なかった。例えそれがマテリアルやリリックであろうとも、タキオンは敵視をする事を覚えた。それが、一層田上には面倒だったが、ここで自分の彼女を放っておくこともできずに、一生懸命にその世話をしてやった。

 その御蔭で、田上のここ数日は、体というよりも心が疲れていた。その上に、緊張すべきゴールデンウィークも近づいている。田上にはどうしたらいいのかさっぱり分からなかった。それでも、事の成り行きに任せて、体を一度一度動かすことはやめなかった。

 このレース場へ向かう時も、その対立のようなものが見て取れる。前の方には、タキオンと田上が二人でいて、その少し後に、マテリアルとリリックだった。別に、こういう構図がある事に、普段の状況であるならば、煩わしさを覚えることもなかったが、今は特に、田上がこの状況から抜け出したかった。この画一化された構図ではなく、タキオンが後ろの集団に溶け込んでくれさえすれば、その方が良かった。そう考えると、田上は、――このチームに一番馴染めていないのはタキオンでは?という考えが過ったが、その考えは上手くまとまらなかった。結局、チーム内で派閥らしきものが二分されている以上、どちらにしてもチームが完成しているとは言い難かった。それに、タキオンがチームに馴染んだ想像をしてしまうと、自分があんまり馴染めていない光景が出てきて寂しかった。タキオンが、隣から居なくなると、一緒に集団の方についていけないのが自分だった。できることなら、タキオンが隣から居なくならないでほしかったが、そうすると、タキオンが自分だけに縛り付けられるような気がする。それであれば、悪いのは田上だ。自分だ。自分がこの状況を作り出してしまっている。

 その考えも、一様に嫌な事だったから、田上は考えることを諦めた。

 

 学園内のレース場は、そこまで形式張った場所ではないので、そこらへんに居る出走する手筈のウマ娘が、観客席のトレーナーと話している事があった。カフェもその口で、田上たちが観客席についた時に、松浦とそのチームメイトと一緒に何かをポツポツと話していた。特に、自分から率先して話している様子ではなかったが、普通に受け答えをしているのを見ると、田上はそれを意外に思った。タキオンがどう思ったのかは知らなかったが、田上と共に席に着くと、じっとカフェの方を見つめていた。

 初めの内、カフェの一味で田上たちが来たことに気がついている人はいなさそうだった。しかし、不意にカフェがこちらに目をやると、二言三言チームメイトに何か断りを入れているのが見え、そのまま一人で歩いてこちらまでやってきた。そして、田上とタキオンの前の席に座ると、タキオンを見据えながら言った。

「天皇賞に出ればよかったのに……」

「…まだそれを言っているのかい? 私は疲れるんだよ。君のように、スタミナのお化けじゃないんだ」

「そのスタミナのお化けに、菊花賞の時は勝ったじゃないですか…。言い訳はしませんよ。…私は、あの時、最高のコンディションであなたに挑みました」

「レースはコンディションだけで決まるものじゃない。運も絡むものだ」

「では、尚更あなたに勝ちたいですね。運など言い訳にさせないくらいに」

「実際に運だった。あのレースは、どちらか片方に誰かの体が傾いたくらいで決まるようなものだった。現に、私と君の差は、アタマ差だったじゃないか」

「ええ、だから悔しいんです。なぜ、天皇賞を走らなかったんです?」

「だから、何度も言っているじゃないか。疲れるんだよ、長距離は」

「言い訳ではないんですか?」

「言い訳じゃないよ。第一、私がなぜ言い訳をする必要があるんだい?」

「今度こそ、私に負けるのが怖いんじゃないですか?」

 この言葉に、タキオンは一瞬顔をしかめたが、首を横に振るとこう言った。

「別に、怖いわけじゃない。疲れるんだ。それに、もう、出走登録はできないんだから、そんなにうじうじと言い続けないでくれ」

「……でも…」とカフェが、タキオンを見据えながら言うと、タキオンも声を荒らげて言った。

「何度言わせれば分かるんだい!君の立つ場所と私の立つ場所は違うんだ!本来であれば、もう、関わり合いも無いような仲だ!軽々しく私に話しかけないでくれ!」

 この言葉に、カフェは特に怒ったような素振りは見せなかったが、気に入らなさそうにタキオンをじっと見つめると、そのまま田上に一礼だけして、何も言わずに去って行った。

 田上は、その後姿を見つめながら、十分に話が聞こえないような距離まで行ったと見ると、こう口を開いた。

「…怖いのか?」

「君まで言うのかい?いい加減にしないと、君にだって怒るよ」

「……負けるのはどうだ?」

「…知らない。……日本ダービーの時の私の様子はどうだった?」

「…日本ダービーよりも、大阪杯の時の方が、お前の様子は心配だ」

「それなら君の方が心配だった。…いいかい?私は、宝塚記念を走るんだから、あんまり構わないでくれ。トレーニングをしてたらそれでいいだろ?」

「…どうだろう?……また、…阪神か…」

「阪神だよ。文句があるかな?」

 タキオンは、少し突っかかり気味に聞いた。その様子に、田上はあまり頓着は見せずに、ただ、遠くの長い黒髪を見つめながら言った。

「文句は、……あんまりないな…」

 田上の上の空ぶりにタキオンも嫌気が差したようで、その後は何も言わなかった。ただ、少し憤慨しているらしかったものの、寂しくなると、田上の肩にそっと寄り添ってきた。

 田上は、それに胸が少し痛んだ。

 

 カフェが、模擬レースで走り出すと、観客席から歓声が上がった。どこからか、模擬レースをGⅠウマ娘が走るという情報を聞きつけたトレーナーたちがその声を上げたのだ。それに、多少の苛つきを覚えながら、田上はカフェの模擬レースを見た。

 レースは、たった四人立てのレースだった。タキオンの時の模擬レースでもほとんど同じようなものだったし、長距離は、他の距離区分に比べても人口が少なくなるので、当然の事ではあった。

 さすが、GⅠウマ娘と言うべきか、他のウマ娘を物ともせずに一着で走り抜けた。仕掛けるタイミングも抜群で、こういうレベルの差がある中で比べるのは難しかったが、それでも、田上にはその走りが完成されたもののように思えた。リリックに今の凄さを説いてやりたかったし、タキオンは自分と同じような感性を持って、今の走りを見つめていると思った。言ってみれば、今にも走って確かめたくなるような走りだ。

 ――もしかしたら、タキオンも天皇賞・春を走らなかったことを後悔しているかも!と思って、隣で拍手をしているタキオンを見た。それなりに満足そうな顔であったが、後悔しているのかどうかは、傍目からでは確認できなかった。だから、田上は少し興奮した面持ちでこう聞いた。

「どうだった?後悔したんじゃないか?」

「後悔?なんの?」

「天皇賞、出走しなかったの」

 田上がそう言うと、タキオンは少し顔をしかめながら、芝の上にいるカフェを遠く見つめた。

「後悔はないよ。…今の私は、走るだけで精一杯だ…」

 その言葉を聞くと、田上も自分だけはしゃいでしまったことに申し訳なくなって、目線を落とした。ただ、その後にタキオンはこう言った。

「まぁ、良い走りだったね。申し分ない、非の付け所のない最高の走りだった」

「だろ?…良い走りだった…」

 その時に、田上が若干言い淀んだので、タキオンも田上の方を見た。そして、先程の自分の言動を恥じている事を察すると、微笑しながら言った。

「別に、そんなに気にしていないよ。君が、隣に居てくれるだけで私はそれで良いんだから」

 この言葉を聞くと、田上の顔はもっと悩み深くなって、タキオンの顔を見にくそうに見つめながら言い返した。

「本当にそれでいいと思うか?」

「ん?」

「…いや、なんでもない」

 田上はそれで話を終わらせようとしたが、こんなに気になる質問をされて、黙っているような女ではなかった。少し田上に詰め寄りながら聞いた。

「なんでもない?ウソツキ。君の事は知っているんだからね?こういう時に曖昧な表現で言うのは、何かがあるって証拠だ。言えよ、君の彼女だよ?」

「…彼女にだって言えないことはある」

「ふむ。いずれ裸も見せ合うような彼女に言えないことかい?」

「……言えない事もある。…何も、自分の恥ずかしい所は裸だけじゃない」

「では、どんな所かな?」

 タキオンは、目をそらそうとする田上の視界に一生懸命に入ろうと、身を引き伸ばしながらそう聞いた。

「…それが言えたら苦労はしない」

「じゃあ、私が当ててあげよう。これまで散々話し合ってきたんだ。君のほくろの数以外の大概の事は分かっているよ。 後ろめたいんだろ?なにか、私に後ろめたいことを考えついたんだろ?相談してくれよ。私は、君の彼女だよ?」

「…相談できたら苦労はしてない」

「なら、その苦労ってなんだい?」

「それが言えたら苦労はしてない」

「してないはずだよ。言えるもの。結局、私に言ってしまうんだから、早いほうが良いんじゃないかな?」

 そこまで言うと、タキオンも田上の膝に乗っかり、田上の首もタキオンから目をそらせない限界の所まで来た。だから、田上は、もうやけくそになって、タキオンの目を見ると言った。

「言ってもどうしようもない!俺だってあんまりまとまりがついてないから!…あんまり公衆の面前でいちゃいちゃするのも良くないぞ…」

 田上が少々強めの語気でそう言うと、タキオンも田上の顔を恨めしげに睨みながらもその言う事に従って、田上の膝から降りて自分の席に座った。そして、また、芝の方を見ると、カフェがこちらを見てきているようだったので、そちらからも慌てて目線を逸らすと言った。

「私は、君の彼女だからね。守られるだけの存在じゃないんだ。れっきとした君と対等な人間の内の一人だ。そんなに軽々しく怒鳴られると、こっちもそれ相応の策を取らざるをえないよ」

 それに、田上は後ろめたさを抱えながらも「怒鳴ってはいない」と反論をした。タキオンだって、それは誇張した表現だと分かっていたから、また反論はできずに、暫く遠くのカフェを見つめていた。カフェは、チームメイトとトレーナーに囲まれていた。

 

 田上とその一行は、なあなあにレース場から帰って、十五分後にトレーニングをする事にした。特に、そこまでの時間を模擬レースに取る予定はなかったので、初めから、今日はトレーニングをする予定であった。

 結局、カフェのレースについて、リリックに田上が何かを話すということはしなかった。ただ、リリックに「どうだった?」と聞いてみて、「凄かった」という感想をもらっただけだった。あんまりあの走りについて色々と語ろうとすると、嫌味っぽく聞こえるのでは?と田上は考えた。特に、そのような意味はあるつもりはないのだが、リリックが思うように走れない以上、その反対を行く良い出来事について、本人の目の前にわざわざ出すような無粋な真似はせずとも良いように思えた。

 タキオンは、トレーニング前という段になって、例の如く嫌がり始めた。ここ最近は、授業に出ていないという後ろめたさからか、素直にトレーニングに取り組んでいたのだが、今日は違ったようだ。理由は話してくれなかったが、とにかく、タキオンは嫌だと言った。その後で、もう少し田上が話してみると、「君が相談してくれないから」という取ってつけたような理由を引っ張り出してきた。田上もこれはにわかには信じがたかったから、更にもう少し話してみれば、タキオンは「理由なんてものは何でも良い」と言った。

「君の傍に居れれば」

 そう言ったタキオンの目は、恨めしそうに田上を見据えていた。その目を見返すと、田上も段々と心苦しくなって、遂に目を逸らすとこう言った。

「トレーニングしないならいいよ。帰れ」

「帰れ?今、私が言った言葉を聞かなかったのかな?――君の傍に入れれば、と言ったんだよ?君と一分一秒でも傍に入れれば、私はそれで良いんだ」

「俺はそれで良くない。する気がないんだったら帰れ」

「それが、一流のトレーナーの言う事かい?」

「ああ、一流でもなんでも怒る時は怒る」

「君は、私に対してそんなに怒ることはしなかった。以前ならそうだった」

「なら、今は違う。トレーニングをするつもりがないんだったら帰れ」

「後ろめたいんだろ」

 タキオンが怒ったような声でそう言ったのが、妙に田上の心に引っかかった。田上の声は一瞬詰まったが、その後に、怒りをぎりぎりまで抑えた顔で言った。

「後ろめたさなんかない。するつもりがないんだったら帰れ」

「さっきからそれの一点張りだ。後ろめたいんだろ!後ろめたいから私にそれしか言えないんだ!私の事が好きなくせに!」

 これに、反射的に田上は「好きじゃない!」と言い返そうとしたが、既の所で思いとどまって、次の言葉を迷った末にこう言った。

「帰れ…」

「私は帰らないよ。トレーニングをしなくても君は一緒に居たもの。それに、君に私を帰らせる権限はない!恋人と一緒に居て悪いことがあるかい?」

 この時、マテリアルとリリックが視界に割り込んできて、話は一時中断した。田上も、トレーナーとしてリリックの指導に当たらなければならなくなったが、二人の心情をある程度把握しているマテリアルとリリックは、田上が、指導にあたろうとするのを止めて、タキオンと話をするようにと言った。こう言われてスムーズに話ができるような田上ではなかったが、二人に気を遣われたからには、タキオンと話し合う他なかった。特に、今回は、タキオンではなく自分に非があるような気がして、田上は中々話すのが億劫だった。それに、自分の後ろめたさを隠したいと思っている以上、話すことはほとんど何もなさそうだったが、田上はとりあえず、トレーニングのあれやこれやをマテリアルとリリックに伝えると、タキオンに手を引かれて、仕方なく土手の方に座りに行った。

 

 土手に座っても、タキオンは田上に何も話させようとはしなかった。ただ、無言の内に身振り手振りで寝転がるように指示すると、タキオンもその横に寝転がって、田上にピタリと張り付いた。機嫌は悪そうだったし、その原因は田上のようであったが、それでも、やることは変わらないようだった。田上を放さないように、その腕をガッチリと掴みながら、頭部を頻りに田上に擦りつけていた。その内、もっと田上の体に張り付きたくなったのか、また、無言で田上に指示をすると、その腕を今度は枕にし、田上の体を自分の方に向けさせて、包み込むようにさせた。そこで、田上も羞恥の心が芽生えて、「さすがに…」と言ったが、やっぱり、タキオンは無言で首を振ると、その体勢を続けさせた。

 この体勢になると、田上にもタキオンがより強く感じられるようになった。髪の毛から匂いはするし、ウマ耳は頬をくすぐってくるし、体の前面はタキオンの体と密着している。これを公衆の面前でやるのだから、田上は恥ずかしかった。その心持ちは、同じような状況下でタキオンと長くキスをした時よりも恥ずかしいような気がしたが、これは、その時の状況より体の自由が効くし、記憶の中で思い出すことではなく、実際に眼の前に起こっている事だからかもしれない。

 タキオンは、暫くそうして、田上に包み込まれたままに匂いを感じたり、胸を服の上から突いてみたり、顔を上げて田上と目を合わせてみたりした。目を合わせている時にも何も言うことはしなかった。ただ、田上と見つめ合っているだけだったが、田上が目を逸らした時には、わざわざ動かしにくい場所にある手を動かして、田上の顔を自分の方に向くように仕向けた。それで、田上は、タキオンが見つめたがっている時には絶対的に見つめ合わされるようになった。田上は、自身の性質から目を合わせることに耐えきれなくなることが何度となくあったが、その度に田上の顔は、タキオンに無理矢理向けられた。別に、乱暴なようではなく、出来得る限り優しく田上の頬を掴んでいたが、やはり、その掴み方には「ずっと私だけを見て」と言うような少しの束縛が含まれていた。その束縛を感じると、また、田上は目を逸らし、タキオンに無理に顔を動かされた。最早、田上は、三十秒として恋人と見つめ合うのも無理かと思われた時、タキオンは口を開いた。

「私の事が好きだろ…?」

「…嫌いじゃないよ」

「…じゃあ、もっと私と見つめ合おうよ」

「…無理」

「無理じゃないよ。私は君に何も害意はないんだよ?ただの恋人として見つめ合おうよ」

「……ここは、見つめ合うような場所じゃない」

 すると、タキオンは「そうだね…」と静かに言って、暫く黙り込んだ。そして、また田上と目を合わせると、こう言った。

「後ろめたいんだろ?」

 田上は目を逸らしたまま、何も答えなかった。だから、タキオンは、またわざわざ田上の頬を掴んで自分の方に向かせると言った。

「私の事が好きなんだろ?」

「…嫌いじゃない…」

「後ろめたいことがあるなら言ってくれ。恋人じゃないか、私達」

 田上は、今度は、目だけを動かして別の方を見た。到底、今の状況でタキオンと目を合わせる気にはなれなかった。しかし、タキオンが縋るように「圭一君…」と言うと、また、田上はタキオンを見た。ただ、その後すぐに目を逸らした。

「圭一君…、君がそう抱え込んでいるだけじゃ、私は心配だよ」

「……お前だって抱え込んでる…」

「私だってそうだよ。でも、君だってそうじゃないか。…私は、…君の恋人だけど…、信用されてないってことでいいのかな?」

「……そうかもね…」

「そうじゃないだろ?君が一番信用してるのは私じゃないか。…お願い、こっちを向いて、圭一君…」

 そう言われるほどに田上の目は、タキオンの方を向く気が失せた。タキオンは、一生懸命田上の頬を求めるように触っているが、田上には、どうせタキオンの方を向いた所で、すぐに自分の目が逸らされてしまうのが分かっていた。けれども、どうしてもタキオンがしつこいので、田上は渋々一瞬だけタキオンに目をやった。タキオンは、それだけで良かったのかどうかは分からないが、一先ず、こう口を開いた。

「私の事が好きだろ?…好きと言って、…ねぇ」

「……好き…」

「本当に私の事が好きなのかい?そんなにぶっきらぼうな言い方はないだろ?」

「…じゃあ、違うかもね」

「違う?…そんな事もないだろ?」

 そんなこともないはずなのに、タキオンは少し不安そうな声色を出した。その声色に、田上は胸を痛ませながらも、どうしようもない苦しみに襲われた。田上だって、タキオンの事が好きなのだけれど、今の自分の胸の内を明かしてしまえば、タキオンが自分の下から去って行ってほしいと考えているように思われる。田上には、今の自分の胸中を明かして、タキオンが自分の下から去らない確信がなかった。確信がないが故に、後ろめたさによるどうしようもない葛藤に苛まれた。軽々しく相談できるならそうしたい。しかし、その軽々しさが自分の恐れている方向に向かわれると田上も困るから、相談できずにいた。例え、タキオンが口では「君の傍に居る」と約束しても、この話を聞いてから心変わりをされてしまっては元も子もない。

 結局、田上は、昔と変わらないままに人を信用できずにいた。

 

 タキオンは、それからも田上に縋るように質問を繰り返していたが、田上は機嫌の悪いふりをして、それに上手く答えずにいた。タキオンは、田上が考えていることを当てようとしていたが、今回ばかりは、田上が質問をのらりくらりと避けたのに加え、何の脈絡もない悩みだったから、タキオンは決定打を得れずにいた。のらりくらりの中で避けきれずにいた質問でタキオンは、近しい答えを得れたのかと言えば、別にそうではなかったが、遠くと言うほど遠くでもなかった。ただ、田上の日頃の悩みのようなものだった。

 タキオンは、田上が質問に答えれずにいればいるほど、不安な面持ちになっていくようだった。田上には、それが心の中で少し嬉しくあったが、同時に、自分の心の醜さも感じ取った。醜悪な自分の心に逆らえずにいる自分を、これまた醜悪な気持ちで恨んだ。自分が答えずにいればいるほど、タキオンが自分から離れなくなることに喜びを覚えたが、所詮、浅はかな一時の感情によって得られる喜びだった。田上は、自分の中の喜びを覚えると、後悔しようにもしきれずにいた。

 遂に田上は立ち上がってタキオンを振りほどいた。しかし、その振りほどき方は甘く、決してタキオンを傷つけようとはしなかった。田上は、自分を傍目から見ているような感覚で、その心の汚さを見つめた。心底、泥の塊のようなものだった。汚臭から田上はその泥を遠ざけたがったが、それは自分にベッタリと張り付いていたし、その泥の中に含まれた暖かさが心地よくもあった。

 田上は、自分の心の奇妙な薄汚さに戸惑いを覚えながら、腕に取り付いてくるタキオンを受け入れた。この時にまた、田上は自分の事を――心の汚いやつだ、と責めた。自分の心の内など、話そうと思えば容易に話せる。しかし、話せないでいるのは、自分の心の醜さ故、せっかく傍に居てくれると誓ったタキオンを手放したくないが故だった。この言葉は実に矛盾しているようではあったが、田上は別にそれを矛盾だとは思っていなかった。田上の心の奥底には、――口ではなんとでも言える、という考えがあった。これでは、人を信用できるはずもなかった。なぜって、五感で感じられる事に全ての信用を置いているのであって、人を信用するということに信用は置いていなかったからだ。

 田上は、未だにここから抜け出せずにいたし、タキオンだって、あながち田上と全然違った境遇だとも言えないだろう。そんな二人が、この先愛し合うにはどうしたら良いのだろうか?その答えは、この場で出てくるはずもなかった。

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