田上は、一向に話し出そうとはせずに、空ばかりを見つめていた。タキオンは、別にそれでも構わなかったのだが、自分に全く構ってくれないとなると、それはそれで手を揉んでいる報いが見当たらずに寂しかった。だから、時折、田上の肩をツンツンとつついて、「どうだい?」と聞いてみたりした。それに田上が万全と答えることはなかったが、ただ微笑んで自分を見てくれるだけでもタキオンは嬉しかったから、何回かそういう事をした。田上も別に迷惑がることもなく、それに悲しげな微笑みを浮かべて見返した。
田上が決心するまでには、大分な苦労の時間を要した。田上も何回か話し出そうとしたのだが、目の前に嫌われたくないという思いが出てくると、そこでピタリと止まってしまった。それでもなんとか、――タキオンは自分を嫌わない、とそのよく見せる微笑みと共に思い出しながら、自分に言い聞かせると、田上は再びゆっくりと口を開いた。
「俺は、嫌われたくないよ…」
「ん?…ああ、そうだね。私もそうだよ。私も、君が私にとってただ一人の男だよ」
「…そう。…だから、…だからってわけでもないけど、…多分、タキオンは俺を嫌いにはならない…」
「うん」
「…だから、…しょうもないことかもしれないけど、…言う…」
「聞かせて…」
「……俺、…タキオンの事を操っているんじゃないかな、って」
「ふむ」
タキオンは、内心で――おやおや、と思いながらも、田上を動揺させないようにただ相槌だけを打った。その――おやおやと思った理由は、それが、自分の悩みと酷似していたからだった。
「…ただ、…さっきも言ったように、嫌いになってほしくないから。…俺にとって、ただ一人の人だから。…嫌いになってほしくない…」
そうして、田上の告白は終わったので、タキオンが口を開いた。
「君が、私の事を操っているって?」
「…そう」
「偶然かも知れないが、…丁度私もそんな事を言って君に慰められた記憶があるのだが」
そう言われて、田上は初めて気がついたような声で「ああ…」と言った。
「あったな、そんな事も」
「あったよ。 あの時、圭一君はなんて言ってくれたかな?」
「…覚えてない」
「まぁ、端的に言えば、それでも私を好きで居る、という事だね。…そして、昨日も――悪い女でも好きだ、と言ってくれた。まったく、君以上に良い男はいないね。私を愛してくれている事に特化しすぎている。…初めから、私の事を愛してくれていたんじゃないかと思うほど、君は私の事を大切に想ってくれている」
「初めは、ただお前が物凄い奴だと思って、俺も興奮しただけなんだけどな」
そう言った後に、田上は間を置いてこう言った。
「あの時は、お前と付き合うなんて欠片も考えてなかったよ…」
「私だってそうさ。あの時なんて、私は、使い勝手のいいモルモットが私の下に飛び込んできて、しめしめという状態だったんだ」
「言っても、できる限りの優しさは掛けてくれてたけどな」
「そりゃあ掛けるさ。あの時も、君に何処かに行かれたら困るんだから」
「いや、今のお前を見てると、それはちょっとおかしいな。…普通に優しいもん。普通に、冷酷な人はもっと冷酷だよ。だから、ちょっと発言は訂正してもらいたいね。別に、研究のためじゃなくても、お前は優しかった。…それとも、本当にそう思ってる?」
「…まぁ、別に、…どこが優しかったのか、君がどういう場面を思い浮かべているのかわからないが、普通に、君は人間だからね。気にかけてやらないといけないし…」
「なら、優しいってことだな」
田上は、ニコリとしながら言った。その顔を、微妙そうな表情で見つめながらタキオンは言った。
「いいよ、それで。…で、私の答えを言ってもいいかな?」
「答え?」
「私が君を操っていると発言したことについての答えさ。言ってもいいかい?」
「…いいよ」
田上の先程の笑みは少しだけ強張ってタキオンを見つめた。それに、安心させるような微笑みを返しながら、タキオンはこう言った。
「私は、それでも君を愛そう。例え、どんな事があっても。元より、私は君の事が好きだ」
「……でもなぁ…」
田上は、情けない顔と声を上げて、言った。
「お前が、…もしも、――操られてる。自分は違う人の事が好きだった。とか… それだけじゃなくて、俺の事を恨んだらどうする?」
「私は、君以外の人を好きにはならないよ」
「それが、洗脳だったら?」
「君は、まるっきり私と同じ事を言っていると言うね。私も君に洗脳されているつもりはないね。私は、私の意思で君の事が好きだよ」
「……どうなんだろう…。…結婚して、俺の何もかもが分かった時に、お前に恨まれたら、俺はやっていける自信がないよ」
「何をやるんだい?結婚生活?」
「違うよ。恨まれた時には、お前はもう離婚するだろ」
「私はしないよ」
「したとしたら。…俺は、もう駄目だろうなぁ…」
「…そんな妄想して楽しいかい?」
タキオンがそう言ってきたので、田上はタキオンの目をしかと見て、少し眉を寄せると言った。
「楽しいわけはないよ。でも」
「なら、私は、そんな妄想はおすすめはしないね。全く以て根拠のない妄想だ。君は、私の事を操っていると言ったが、その事に対する根拠はあるのかい?」
「……お前が、俺の事を好きすぎる…」
「好きすぎる?…思ってもみない答えが来たね。…別に、愛のある男女なら、これが普通の事じゃないのかな?…それに、言ってしまえば、君だって私の事が好きすぎる。――悪い女でも好きだから、なんて、大抵ののほほんと生きている男じゃ言えないよ?それじゃあ、私は君の事を操っているという事じゃないか」
「それはない。だって、好きだから」
「私だって好きだよ」
「…なら、愛ってなんだよ」
「愛?随分と飛躍したね。どういう事だい?」
「…好きと…愛ってなんか違う?」
「…違わないんじゃないか?私にも分からないけど」
「違うとしたらどう思う?愛って何?」
「…人を想う心?」
「それ以外の言葉で言うとしたら?…お前は、大阪杯の時に――愛とは全部だ、みたいな事を言っていたけど」
「あぁ…、あれだね?…あれはね…、私も、…あの時は、…なんと言えばいいのかな?……答えを探すのに、必死だったというか、あの時は、本当の事だと思ったんだよ。…今でも、そんなに的外れではないと思うけど。…それでも、私は、その時、愛をもっと高尚なものだと考えていた。今でも、そんなに悪いものだとは思っていない。…ただ、なんて言えばいいんだろうね?……答えを探したかったのかなぁ?」
「俺には分からん」
「私にも分からないよ。…愛…ねぇ」
そう言ってから、タキオンはため息を吐くと、それが合図だったかのようによいしょと半身を起こし、田上に言った。
「君ももう起きよう?大体の事は話しきっただろ?」
すると、田上は、少し間を開けてからこう言い返した。
「…いや、まだ、謎が解けてない」
「…愛、かい?」
「そう。…他人を好き、愛している、と言う時に使われる愛って、一体何だと思う?」
その言葉を聞きながら、タキオンはまた田上の横に寝そべって言った。
「人を想う心でいいと思うけどね」
「……もっと、…もっとないのか?…もっと、…こう、…分かりやすいものは…」
「そんなの私にも分からないよ」
「…こう、…――好きとか――愛してる、って言う言葉の裏に、それらを決定づける物が、…ほしくはないか?」
「そりゃあね、私も君の傍に居る以上、分からないこともないが、…――求めてるだけじゃ手に入らない、とも君は言っただろ?そういう事なんじゃないか?」
「そういう事…かなぁ?」
「そういう事じゃないか? つまり、君が言いたいのは、愛の裏に自分の観念に従った正しき事がほしいんだ。それが、自分を安心させるために働いてほしいんだ。そういう事だろ?私の愛は、君にとって本物だった。そう言わせてほしいんだろ?君には、本物はわからないけれども、その『観念』ならば、本物の愛が分かる。本物の愛さえ分かれば、私が君を愛しているということが分かる。良かった。それで一件落着だ、となりたいんだろ?」
田上は、今語られたタキオンの言葉を時間を使って理解しようとしたために、タキオンに何も返事を寄越さなかった。タキオンも、その田上の様子が分かっていたので、とやかく言うことはせずに好きな人の顔をじっと見つめた。
やがて、田上がおもむろに口を開いた。
「…一件落着…になれたらいいんだけどねぇ…。…なれると思う?」
「私は知らないよ。だって君の事が心底好きなんだもの。ずっと傍に居続けるしか無いから、私に愛がどうとかは関係がない」
「…でも、お前だって、不安になって俺を束縛する時があるだろ?」
「そりゃあ、…ね。あるさ。私だって人だもの。君が他の女に取られやしないかと心配になる。今だって、少し心配だよ。マテリアル君に君を取られたりしたら堪ったもんじゃない。今までの私達の時間が水の泡だよ」
「……水の…泡になると、タキオンにとっては損なのか?」
「損?そうじゃないよ。勘違いされると困る。ただ、私は、君との時間を大切にしてるだけなんだよ」
「……でも、今の言い方は、損得勘定で測られていたように感じたなぁ…」
「そりゃあ、…そりゃあね。…そりゃあ、…君との時間は好きだよ。…今の私の発言が、君に何を及ぼしたのかも、何となく分かる。…でも、君が好きなのは本当だよ。私は、決して君と居るから得だと考えているわけじゃない。…勿論、私は君と居る時間は好きだ。大好きだ。けど、それで、…君が私に尽くしてくれるとか、君が居れば楽をできるとかは考えていない。純粋に君との時間が好きなんだ。今こうして君の話を聞いている時間が好きだ。君とキスをしている時間も好き。君と居るのが好きなんだ。本当に、……以前は、君の彼女にしてほしかったから、色々と好きになってくれるように頑張った…。辛さも味わった。それなりに苦労した。…だから、それも少しある。…君の傍に居続けるのは苦労したから、だから、水の泡になってしまうとその苦労すらも報われない物となってしまう…。…君に嫌われない事を願って言うのなら、あの時、どうしても私は、君の傍に居たかったんだよ…。君に好きになってほしかった…。それが今では成就した。悪い女でも好きでいてくれると言った。…私は、…弁明するつもりはないけど、……君に嫌いにならないでほしい…」
タキオンの最後の声は、掠れて聞き取りづらかった。タキオンの苦しみが、充分に田上に伝わった。しかし、田上は、今はタキオンの顔を見ることはできずに、ただの虚空を見つめて、今のタキオンの言葉に正しさを見出そうとしていた。感じるだけならば、今のタキオンを大切に大切に優しく守っていてあげたかったが、頭で考えてみると、タキオンは、損得勘定で自分の傍に居る女に見えて仕方がなかった。ただ、結局、田上は、タキオンの事が大切だった。頭で考えてみる以上にタキオンの事が大切で仕方がなかった。しかし、そこに頭の中で考えることが割り込んでくるから、そうそう上手くいかなかったのだ。
結局、田上は、タキオンの言葉に「分かるよ…」とだけ返した。タキオンもそれ以上何も言わなかったが、縋るように田上の首に抱き着いて、離れなかった。人の目が気になったが、田上には抵抗する気力もなく、ただタキオンにしがみつかれていただけだった。その事に、少しの喜びを感じると、田上は自分自身に嫌気が差した。
田上は、タキオンが落ち着くのを待ってから、トレーニングをしているマテリアルとリリックの所に戻った。丁度、もうそろそろトレーニングは終了で、リリックとマテリアルが最後のまとめのために話している所だった。二人共、タキオンと田上の心の大体の成り行きは知っていた。だから、二人が浮かない顔でまた戻ってきても、大して驚きはしなかった。ただ、心配そうな顔をしてマテリアルは言った。
「気が済むまで話したんですか?」
それに、タキオンが答えた。
「いや、……普通だよ」
「…普通ではないんじゃないですか?」
「…今、この場で何かを言うほど異常でもないってことさ。…特に、問題と言うほど問題でもない」
「じゃあ、なんでお二人はそんなに顔が沈んでいるんですか?田上トレーナー」
「え、俺ですか?」
「そうですよ。タキオンさんに喋るのを任せすぎてますよ。あなたの方が年上なんでしょう?」
すると、タキオンが口を挟んできた。
「年上でもなんでも関係ないだろ!圭一君と私は対等な関係で、彼の方が喋るのが苦手だから私が話してるだけなんだ」
「いや、私には関係ありますね。田上トレーナーの方が話が苦手だからと言って、話せないわけじゃなく、私は確実に田上トレーナーの見知った人です。その人が、私に何も話さないで、年下の彼女に全てを代弁させようとすれば、疑問に思うのは当然のことでしょう?」
それで、タキオンも反論するすべがなくなったのか、一度黙ると、マテリアルを睨みつけながら言った。
「君は、私達の事が嫌いなようだからね。…あんまり信じられないよ…」
それに多少腹立ちを覚えて、マテリアルもタキオンの顔を睨み返しながら、それでも、少しの後ろめたさを感じつつマテリアルは言った。
「これは、嫌いとか、そういうものとは関係ありません。ただ、疑問なんです。田上トレーナーは、普段であれば、私と適当に話しますよ?でも、こういう時に限って、タキオンさんがしゃしゃり出てくるじゃないですか。たまには、田上トレーナーに話させてはいかがですか?」
「なら、それでいいよ。圭一君が答えれば良いんだろ」
タキオンは、憤慨を隠しきれないままに田上を見て、視線で、できそうかどうかを聞いてきた。田上は、何も思わないままにタキオンの赤い瞳を見つめ返すと、ふっと目を逸らしてマテリアルに言った。
「俺は、…タキオンの彼氏ということで、…話はまとまりました…。何があっても、普通の彼氏です…」
そこで、タキオンは「普通」という言葉に引っかかって田上の顔をじっと見つめた。田上は、タキオンの顔を見ようとはしなかった。ただ、疲れに沈んだ顔で、マテリアルの返答を待ち続けていた。
マテリアルも、タキオンと同じような顔で田上の顔を見つめていたが、こちらは、言葉に引っかかったというよりも、言葉を真実の物なのかどうか吟味していたようだった。そして、その判断が完了した時に、マテリアルは口を開いた。
「あなた方がそれでいいって言うんなら、私もそれ以上の口出しはしませんけどね。…特に、面前でいちゃつかない限り…」
すると、タキオンがまた横から口を挟んできた。
「私は、それで…」
そこで言葉が途切れたが、これはマテリアルに向けた言葉ではなく、田上に向けた言葉だった。だから、田上もタキオンの方を見ていた。タキオンの言葉が途切れた理由は、タキオン自身にとっても明確だった。それは、土手に居た時に発した自分の言葉のせいだった。タキオンの言葉が、落ち着きかけた田上をこんな風にしてしまったのだ。その自分が、今、田上に対して異議を唱えたとしたらどうだろう?「私はそれで納得はいっていない」これを言ったとしてどうなるだろう?納得できていない原因を作ったのは自分ではないか。自分が、田上との関係に波紋を作るような言葉を言ったのではないか。どうしてそれを自分が言えよう。
それらの考えが、タキオンの頭の中でこんがらがって、もつれ合って、言葉を発する脳みそを縛り付けた。タキオンが話さないで数秒経つと、田上にもタキオンがなぜ話せないのか察しがついた。だが、田上はタキオンの顔を見つめたまま、なんと声をかければいいのか考えあぐねた。あんまりタキオンの心境に対する適当な言葉を、田上は持ち合わせていないように感じられた。マテリアルは、田上とタキオンが急に見つめ合ったまま固まってしまった状況を、怪訝そうな顔をして見つめた。こちらは、何が起きているのか具体的に掴めていないため、口を出そうにも二人の固まった雰囲気をぶち壊すほどの勇気のある言葉を考えつけなかった。
それから、暫く見つめ合った後に、田上は一瞬目を逸らしてから言った。
「………それで?」
「…ああ…、それで…良いとは…思ってない…よ…」
「…そう…」
田上は、できる限りタキオンに何か安心させられるような言葉をかけてあげたかったが、生憎、そんな簡単に女の子を安心させられるほど器用な男ではなく、タキオンの返事をただ曖昧な思考の中で聞いているだけだった。
タキオンも自分の不器用さと思考の浅はかさにやりきれない思いを抱えていたが、その思いを口にすることは遂に諦めて、ただ田上の隣に立つことだけに決めた。マテリアルは、その二人の様子を尚も怪訝そうな顔をして見つめていたが、ようやく、タキオンの言葉で状況が掴めると、こう言った。
「それで良いと思っていないなら、まだ話せばいいじゃないですか」
「…生憎、一日は二十四時間で、私たちは同棲していないからね。時間は有限なんだよ。覚えておきたまえ、マテリアル君」
タキオンは、先程自分の思いを田上に伝えられなかった腹いせか、マテリアルに少し意地悪くそう言った。ただ、マテリアルは、タキオンの言葉でそんなに気を悪くせずに、こう言い返した。
「時間は有限でも、門限まではまだあるじゃないですか。なんで、二人で話さないんです?」
これは、田上にも風向きの良くない質問だった。そして、実際にマテリアルも田上に対して顔を向けていたので、尚更風向きは良くなかった。これは、田上に答えろと暗に示している。それ故、田上は答えなければならなかった。ただ、田上がそれに答えるのは、中々に曖昧かつ、他人には理解のしにくいことであったので、果たして、どう答えればいいか少しの間悩んだ。しかし、あんまり悩んでも仕方がないので、結局はこう言った。
「今のまま二人で話しても、堂々巡りになるのは分かっています。だから、…そうなんです?」
「そうなんです?何がそうなんですか?話さなくていい理由にはなっていなのではないですか?」
「…なっているんじゃないですか?」
田上は、マテリアルの言葉の意味が分からないままに、ぶっきらぼうにそう返した。すると、マテリアルも田上のぶっきらぼうに仕返すように、こんな意地悪なことを言った。
「なら、あなた方二人は、お互いの事が嫌いになったということでいいんですか?」
「「嫌いじゃない」」
二人は、ほとんど同時に口を揃えて言った。タキオンは、少々噛みつき気味にマテリアルに言っていたが、田上は、少しうんざりしたような口調でそう言っていた。そして、思いがけず恋人同士の二人が声を合わせたことで、場が多少和やかになった。田上もタキオンも思わず目を合わせて、微笑みかけそうになったが、二人共そんな素振りは見せずにまたマテリアルを見た。マテリアルは、目の前に居る恋人たちの息の合った様子に、ニヤニヤとした笑みを浮かべていた。すると、田上もタキオンも揃って同じような迷惑そうな顔で、マテリアルを睨んだ。それで、マテリアルは、またまたニヤニヤして、鼻から笑うように息を出すと言った。
「嫌いじゃないのなら、別に話したってかまわないのでは?」
それを聞くと、田上とタキオンは顔を見合わせた。言われてみれば、別にそうでもないが、今話そうと思ったって上手く話せるような気がしない。それが、二人の心境だった。ただ、嫌いではないと言った今、やはり、お互いの事が嫌いではなかったため、もう少し一緒に居たいという心も芽生えた。でも、その心が決定的に二人に働くのかと言えば、別にそうではなかった。ただ、二人は、お互いの心の真理を読もうと目を見つめ合っていた。
しかし、ただ単に見つめ合っているわけにも行かないので、どちらかが何かを話さねばならなかった。田上は、なんと言えばいいのか困った。その理由は、前述の通りで、一緒に居たいわけではないのだが、一緒に居たくないと言えば、それは自分の心に嘘をついていることになる。その訳で、田上は、葛藤により発する言葉を迷っていた。タキオンも似たようなものだったが、こちらは、どちらかと言えば田上に何かを言ってほしいと思っていた。なにか言ってほしいと思って、田上のことを見つめていた。だから、あんまり言葉を発する気はなかった。
それで、二人共何も言葉を発さないままに、時間だけが過ぎていこうとした。マテリアルも、一向に二人が話し出す気配がないので、自分が話そうかと思っていた。しかし、そういう時になって、田上が口を開いた。
「…どうする?」
「…私は、……別に、君がいいって言うんなら…まだ一緒に居たい」
「…別に、いいけど……何もできないよ?」
「できなくてもいい…。…トレーニングは終わったんだし、君の身が自由っていうんなら、…一緒に居たい」
そして、また、田上は返答に迷いを抱いて、チラリとマテリアルに目をやって、また逸らした。それから、リリックの方に目をやると、こちらも田上を見ていて目が合った。すると、心の迷いはまた大きくなろうとした。教えるべきリリックを見捨てて、自分だけ恋人と楽しめる場所に居ようなど、なんと愚かしいことだろうか。その思いが田上の心の中で大きくなろうとしていた。
すると、唐突にリリックが口を開いた。
「一緒に居れば良いんじゃないですか?」
「お、そうですよ。一緒に居ればいいじゃないですか」とマテリアルが、合いの手を打った。そして、またリリックが言った。
「別に、気にすることはないと思いますけど」
田上は、その気にする事の張本人を目の前に見つめながら、その言葉の返答に再び迷いを抱いた。その返答は、田上の頭で曖昧に括られていて、言葉に成ろうとはしていなかった。脳裏に薄ぼんやりと浮かんだ未成熟な言葉に、考えを引っ張られて、その考えすら未成熟に成ろうとしていた。すると、今度はタキオンが田上に言った。
「一緒に居てほしい…」
田上は、誰が生み出したのか知らない葛藤の間に置かれた。強いて言えば自分だろうが、自分にしてはあまりに大きい物のように感じた。その大きさに戸惑い、タキオンやリリックの瞳の色に戸惑いながら、田上は迷いを抱くことしかできずに途方に暮れた。何を言っても、進んだ先が奈落に落ちていくような気がする。奈落に落ちていくくらいなら、立ち止まった方がマシではないだろうか?その考えも田上の脳裏に薄ぼんやりと在ったが、その考えが浮かぶ度にタキオンの顔の中にある赤い瞳が、自分自身に問いかけてくる。――どうしたいのか?と。
田上は、苦しみの折に誰かに自分の行く先を決めてもらいたいと切に願っていたが、タキオンの言葉以降は、誰も何も話そうとしなかった。たまに、マテリアルがリリックの顔を見つめたが、二人は視線で何かを伝え合うだけで、一言さえも漏らそうとはしていなかった。この場にいる田上以外の皆が、田上の決断を待っていた。しかし、田上は天命を待つあまりに、自分の考えが失われ、段々と脳内はざわめきの最中に居るような混乱に陥ろうとした。
誰も何も言わなかった。掬いの手は、上空から伸びてこなかった。皆が一心に田上の事を見つめていた。田上は、そんなに自分の事を見つめないでほしいと思った。自分の羞恥は見る見る内に影を増した。こんな情けない男など、この世に居ないほうが良いだろうとさえ思った。それでも、誰も何も言わなかった。そして、混乱の末、遂に田上は言葉を発さざるを得なかった。今、何も言わなかった時間がどれくらいの時間だったのか分からない。五分だったかもしれないし、三十秒だったかもしれない。そんな混乱した頭の中でこう言った。
「……俺は、…無理かもしれない…」
「無理?」
田上が、言葉を続けようとしなかったので、タキオンがその続きを促すようにオウム返しに聞いた。
「……人の彼氏なんて無理かもしれない…」
「…無理じゃないと思うけど…」
「…こんなに彼女を困らせてる男が、人の彼氏で居ていいと思うか?」
「私だって、君をたくさん困らせた。……君に無理にキスをしたせいで、マテリアル君に叩かれた事もあった…」
「……そう…」
田上は相槌を打ったまま、何も話そうとはしなかったので、タキオンが再び言った。
「私は、君を…最高の彼氏だと思うよ…」
「…そう…」
「…悪い女でも好きでいてくれるって言っただろ?」
「……そうかもね…」
「…私は、君の事が好きだよ。…圭一君は?」
「……嫌いじゃない…」
「なら、両思いとして、このまま付き合い続けることが、圭一君の彼氏として成すべきことじゃないのかな?」
「……人として駄目なのに?」
「駄目な事はないよ。不完全な完璧人間って言ったことがあるだろ?私は、不完全である完璧な君でいいんだよ」
「でも、…不完全だと今までのお前の苦労が水の泡になるかもしれないんだぞ」
田上は、自分自身で嫌な事を言っていると分かりつつも、そう言わずにはいられなかった。
「…その発言は、…取り消すことはできないけど、今は、…それを忘れてほしい。…ただ、…ただ、君と一緒に居たいだけなんだ…」
「その不完全さでお前と一緒に居られなくなったら、お前はどうするんだ?」
「私?…私は、…どうもしないよ。…そんな変な未来の事を考えるより、今私達にできることを考えたほうが良いじゃないか」
「…お前は、……はぁ、…もう疲れた。…帰る」
田上は、急に溢れ出た身の内の疲れに委ねて、タキオンにそう告げた。タキオンは、田上のその唐突な言葉に眉を寄せた。
「…帰るの?」
田上を引き止めるようにそう言った。しかし、田上は自分の荷物をまとめると、頷きだけ返して、そのまま立ち去ろうとした。マテリアルもリリックも、田上のあまりの唐突な行動に驚いて、何も言えずにいた。タキオンは、引き止めかねていた。田上の強情さは知っている。ここで、何を言った所で、少なくとも今日の所は一緒に居てくれそうにない。しかし、タキオンはまだ田上と少し話をしたかった。だから、そう思い立つと、田上の後を追いかけて言った。
「一緒に居てくれないのかい?」
「…ああ」
田上は、タキオンを全く見ないように地面を見つめながら、低い声でそう返事をした。
「…一緒に居てほしい」
「…できない」
「なぜだい?」
「…俺が駄目だから」
「私も駄目だよ。でも、君は傍に居るって言ってくれた。だから、私も君の傍に居る」
「なら、尚更駄目だ」
「なんで?」
「俺が駄目だから」
「駄目でもいいよ。私は、君の傍に居られるだけで幸せなんだ」
タキオンがそう言うと、田上は道の上で立ち止まり、タキオンの顔を睨むように見つめた。タキオンもその目に少し怯えながら見つめ返した。それから、田上は、一瞬目をそらした後に、タキオンをまた見つめて言った。
「俺の傍に居られるだけで幸せ?」
「…そう」
「……それって、…ただの依存なんじゃないのか?」
「依存じゃないよ…」
「ならなんだ?…俺に守られるから安心してるだけじゃないのか?俺は、お前の父さんじゃないからな。お前にただ従属的に仕える体の良いロボットじゃないんだからな。…お前が俺に何を感じてるのか知らないけど、俺はただの人間だ。お前に無限に愛を与えるだけの装置じゃない」
「……それでも…」
タキオンは何かを言い返そうとしたが、何も言葉が出てこずに、ただ口を不安そうに開けて田上を見つめるだけになった。田上も、今これを言ってしまったことに深い自己嫌悪を抱いていた。それ故に、タキオンから目を離せずに居たが、早く自分の部屋に帰りたいと思うと、「ごめん」とタキオンに言って、そのまま自分の寮の方へ歩いていった。田上は、――絶対に夕飯は食わない、と思って、寮の部屋に帰った。