ケロイド   作:石花漱一

118 / 196
二十六、天皇賞・春④

 タキオンは、早足で歩いて行く田上の背が、夕暮れ時の影の中に消えていくまで見つめていた。その顔は、悲しみと混乱で表情の色を失っていた。

 あとから、マテリアルとリリックが、のんびりと(とは言わずとも、歩調は早い方ではなかった)タキオンの後ろの方からやってきた。タキオンは、二人がただ黙って通り過ぎてくれたらいいと願ったが、そう簡単に友情というものは通り過ぎてはくれず、黙して田上の去った方をじっと見つめているタキオンの視界にわざわざ入りながら、マテリアルが言った。

「田上トレーナーは?」

「…行った…」

「どこに?」

 ――聞かなくてもそれくらい察してくれ、とタキオンは心の中で苛つきながら「寮」と端的に答えた。リリックも心配そうな顔をしてタキオンを見つめてきていた。タキオンは、絶対にそちらの方に向かないようにしながら、マテリアルも見ないようにしないといけなかったので、甚だ難しかった。

「何か言われました?」とマテリアルがタキオンに同情の目を向けながら聞いてきた。すると、その目つきが殊にタキオンの苛立ちを誘って、タキオンは目を合わせないように努力していたことも忘れると、マテリアルを思い切り睨んで言った。

「圭一君が何か言うと思うかい?」

「ええ。…以前も言われたじゃないですか」

「…なら、なにかあるかい?無いのならさっさと行ってほしいのだが」

「ありますよ。…あの人、真っ当じゃないですよね」

「真っ当?」

「真っ当です。どうしようもない人ですよね?…あれは付き合うのに向いていませんよ」

「…君は、人を付き合うのに向いているかいないか判断してから付き合うのかい?」

「そんな事はありませんよ。…ただ、…どうしようもないですよね」

「どうしようもないからと言って、付き合えないというわけじゃない。……それに、…今回は、私の方がどうしようもない」

「なぜです?」

「君らに言う義理はない」

「ありますよ。なんてったって、あなた方が付き合うまで相談に乗っていたのは私達なんですからね」

「それでもこれは、私達二人だけの問題だ。圭一君が君らにいくらか話したかもしれないが、それでも、これは私達二人だけの問題であって、君らが介入した所で何の一助にもなりはしない」

「いやぁ?案外なるかもしれませんよ?」

「何を根拠…いや、答えなくていい。さっさと行きたまえ。邪魔だ」

「じゃあ、私達が行ったとして、タキオンさんはどうするんです?」

「私は、…気が済むまでここに居る」

「じゃあ、落ち込んでいるんじゃないですか。私が、田上トレーナーを呼びましょうか?」

「呼んだって来ない」

「いや、分かりません。電話します」

 そう言ったすぐ後に、マテリアルは懐からスマホを取り出して、田上に掛けた。だが、田上の方は、電話に出るや否やすぐに切ったので、一言も発さずに電話は終了した。マテリアルも、田上のあまりに乱暴なやり方に暫くキョトンとして、スマホを見つめていて、ようやく理解が至った後に「あー!」と叫んだ。

「あの野郎、私が掛けたからって雑に扱っていいと思ってる!許せない!これ、タキオンさんが掛けてたら絶対違った。タキオンさんだったら、こんな雑なやり方しなかった」

 そして、タキオンの方を見るとこう言った。

「タキオンさん、掛けましょう!絶対違います!田上トレーナーだったら、タキオンさんにはあんな雑なことしないので、タキオンさんのスマホから掛けてみましょう」

「…生憎だね、スマホは寮においてある。それに、掛けたって出ない」

「出ないんですよ!あー、腹が立ちますね! タキオンさんだったら出ないんですよ!なのに、私に対しては、なんですか?あの雑さ!」

「…それも特別じゃないか。圭一君だったら、私にそんな事はしてくれない」

「してもらわなくて結構ですよ!それに、してくれないんじゃなくて、タキオンさんを大切に思っているからこそ、してあげないんじゃないでしょうか?」

「…どうだろうね?…大切なのは分かるけど、大切に思われすぎているという感覚も否めないよ…」

「いいじゃないですか。大切に思われてこそ、女としての本望でしょう」

「…どうだろうね…。大切に思われすぎて避けられたんじゃ、元も子もないよ」

「…電話しましょう」

 マテリアルは唐突にそう切り出した。すると、タキオンはマテリアルの事を先程までとは行かないまでも、多少強く睨みながら言った。

「出ないんだよ?」

「出なくたっていいです。どうせ、向こうはその事が引っかかっているに決まっているんですから、こっちもそれに引っかかっていることをちゃんと伝えてあげましょう。それで、議論は明日です」

「…スマホはここにはない」

「いいですよ。帰ってからでも掛けては?別に、掛けることについて私たちは必要ないでしょう?」

 マテリアルが、平然としてそう言うと、タキオンはなんだかイラッとしてこう聞いた。

「…君は、…私達を付き合わせたいのかい?それとも、別れさせたいのかい?」

「…私は、別れろなんてことは一言も言っていません。…ただ、……苛ついていたのかも…しれないと思います」

「…じゃあ、私は寮に帰る」

 そう言って、タキオンは一人で寮の道を辿ろうとしたが、その直後にマテリアルが「待ってください」と言って追いかけてきた。そして、その後に、リリックも追従してタキオンの左横に立った。

「別に、タキオンさん一人で帰る必要はないじゃないですか。リリーちゃんも居ますし」

 そこで初めてタキオンはリリックの顔を見た。リリックは、タキオンが目を合わせてくると、ペコリと無言の内に頭を下げた。タキオンは、その様子を半ば横目でじっと見つめると、こう言った。

「…リリー君は、…圭一君の事はどう思う?」

「田上トレーナーですか?」

 リリックは、少々不安そうにそう聞き返した。

「そう、田上トレーナーだ。…どう思う?」

「どう?…ですか…。……まぁ、普通だとは思いますけど…」

「どう普通なんだい?」

「どう普通??…あんまり、質問が良く分かりません」

「…圭一君に悪い印象は持っているかい?」

 それを聞くと、リリックは、――どう答えるのが正解だろう?と思って、タキオンの目を見つめた。赤い瞳は、夕暮れの中でゆらゆらと揺らめいていた。その目を見ていると、リリックはその目に半ば畏怖の念のようなものを抱いたが、返事をすることはできた。

「多分、持っていません」

 タキオンは、顎に手を当ててじっとリリックを睨めつけるように見つめてから、「そうかい…」と頷いた。表情は、暗さによって印象は変わっているかもしれないが、明らかに、肯定的な表情とはいえなかった。リリックの返答は、言ってしまえば嘘だった。誰もあの場で本当の事なんて言えるわけがないだろうし、田上が恋人に対してやっていることを見てみれば、悪い印象を持たないわけがない。そういう訳で、嘘を吐いたのだが、タキオンにはこれはよく働かなかったのかもしれない。――でも、他になんて答えればよかったんだ!リリックは、内心でタキオンに対して怒りながらも、その横についてタキオンと寮の部屋まで帰っていった。

 

 結局、タキオンは怒っているのかいないのかあまり良く分からなかった。マテリアルと別れてから、二人が自分たちの部屋の方まで別れるまでの少しの時間に、タキオンに一度質問をされた。特に、怒っているという調子ではなかったが、元気であるという調子でもなかったため、もしかしたら、タキオンは怒っているのを抑えているだけなのかもしれない。――入るチームを間違えたかな…。リリックは、そう思って多少落ち込んだが、田上が、自分に対して悪い人間ではなく、タキオンに対してだけ当たりが強いのだと考え直すと、――まぁいいや、という考えになった。――二人だけで適当にしてくれればいいや。

 リリックは、田上が中学時代に好きだった人にまだ未練があるということを教えられたのを忘れたわけではなかったが、最近は、あのような変な夢など見なくなったから、――気のせいかな、とも思い始めていた。実際に、田上を見てみれば、タキオンが、まぁ、悩みの種になるくらいには好いているということが分かる。だが、不図リリックはこう思った。

――未練があるからこそ、タキオンさんが悩みの種なのでは?

 しかし、これまた実際に見てみる限り、田上は、タキオンの事が本気でどうにかしたいと思っているからこそ、あの激情とも呼べる呟きを発したのかもしれない。その考えに至ってみると、余計に訳が分からなくなった。その考えもまた、――未練があるからこそ、タキオンさんが悩みの種なのでは?という考えに辿り着けるからだ。それでも、やっぱり、田上を見てみるとタキオンの事を本気で思っているようにみえる。リリックは、最終的に田上の昔の好きな人の言っている事はどうにも怪しい、と考えては居たが、同時に、脳裏の片隅に悪意が言っていたことを留めておいて、いざという時に引き出しを開けて、引っ張り出してみることにした。

 タキオンは、部屋に戻ると、早速田上に電話をかけようと思い立った。しかし、スマホを手に取ってみたはいいものの、中々、電話を掛けてみる勇気が出なかった。――悪いのは全て自分なのだ、と思うと、田上に電話をかけて話してみるというのは、申し訳が立たないような気がした。それでも、同室のデジタルに「何かありましたか?」と心配そうな顔で質問され、それに対して訳を話すと、どうしても電話をかけなければならないような気がした。また、デジタルがそれを応援してくれたので、掛けなければいけない状況になったと言うよりも、踏み出すべき一歩を照らしてくれたので、タキオンは電話を掛ける簡単な動作に対して心がいくらか軽くなった。

 それで、一度深呼吸をしてから、田上に電話をかけると自身の恋人が電話に出てくれることを願った。タキオンは、もう一度田上の声が聞きたかった。もしかしたら、謝って仲直りをしようと言ってきてくれるかもしれない、という淡い望みを抱いていた。

 田上は、中々出てこなかった。タキオンは、少しばかりの焦りを感じて、デジタルの方に目をやった。デジタルは、タキオンの事を心配そうに見つめながら、目が合うと、「出ませんねぇ…」と呟いた。タキオンは、尚も待ち続けた。先程、マテリアルには「出てくれない」とは言ったが、今のタキオンには、田上を待ち続ければ出てきてくれるんじゃないかという、淡い希望や確信に近いものが在った。それらの言葉は矛盾しているように感じられるが、タキオンにとっては、確かにその望みが淡いものであると思えたが、出て来ないと思って、こうして待っているような女でもなかった。

 そして、デジタルがそわそわとしだした頃になって、ようやく、電話が繋がった。しかし、「もしもし」と言う田上の低い声は聞こえてこなかった。ただ繋がりはしたものの、電話の向こうのノイズが微かにタキオンの耳に届いてくるだけだった。タキオンは、これを、田上が電話に出たもののタキオンがどう出てくるか分からないため、自分の次の行動を決めあぐねているもの、と解釈した。――圭一君は、自分の言葉を待っている。そう思うと、タキオンは恐る恐る電話の向こうに「圭一君…?」と呼びかけた。返事はなかった。ただの沈黙が、二人の間を分け隔てていた。

 タキオンは、それに飲み込まれまいともう一度電話の向こうに「圭一君…?」と呼びかけた。

「居るなら返事をしてくれないか?」

 しかし、電話の向こうから田上の声は聞こえてこなかった。タキオンには、段々と田上が何を考えているのかわからなくなり、怖くなってきた。ここで、田上との電話で何も得られずに切られてしまえば、この先にっちもさっちも行かなくなるような気がした。だから、半ば恐怖に押されながら、タキオンは考えた。今ここで田上に「好きだよ」と言った所で何の意味もない。それこそ、今、田上が一番望んでいる言葉であり、一番望んでいない言葉でもある。田上がタキオンを依存してきているものと疑ってきている以上、何のとりとめのない引き止めるための言葉では、田上はやはり失望してしまうだろう。――そんなのじゃないのに…。

 タキオンは、田上に対してやりきれない思いを抱えながらも、必死に頭を回して、こう言った。

「…私、……私が、…依存していたとして、……それを君は念頭に入れてなかったのかい?」

 田上は何も答えない。だから、タキオンは言葉を続けた。

「私、…私、…君が私の事を嫌いだって言うんなら、そうすればいいよ。私だって鬼じゃないから、君が私の事嫌いだって言うんなら、私はもう君とは道を別つ。もう、君のことなんて金輪際見たくない。君がそれでいいって言うんなら。……私は、……私は、……君に依存したっていいよ。君が好きだよ。君はそれでも傍に居てくれるって言った。悪い女でも傍に居てくれるって。…それで君の気が変わったって言うんならいいよ。私は、君を一生恨んで過ごすから。…君だって、私に依存しているくせに、依存したくないって言うからあんなことを言うんだ。…君がこのまま何も言わないっていうんなら、私は別れる。この学園も辞める。選手ももういい。絶対に、このまま君と一緒に選手を続けることはできないし。好きだった人が居る学園にさえ居たくない」

 タキオンは、自分自身で後で悔やむと知りつつも、その言葉たちが出てくるのを止められずにいた。

「君はどうなんだい?だんまりを決め込むつもりかい?……別に、君が言葉を発するのが下手くそだということは分かっているけどね。……できることなら、これからも私と一緒に居るって意思表明をして欲しい…」

 それでも、田上の言葉は聞こえてこなかった。一度、田上が何かを話そうと呻くような声が聞こえてきたが、それは、田上自身の咳によって掻き消されたように感じた。タキオンは、じりじりと焦りと不安を抱きながら、田上が返事をするのを待った。しかし、田上は何も言わない。

 とうとう、タキオンはこう言った。

「それじゃあ、君は別れるって事でいいんだね!!」

 田上は何も言わない。タキオンも、あと十数秒待った。しかし、それでも何も言わなかったので、タキオンは遂に激して「バカ!!!」と叫ぶと、電話を思い切り床に叩きつけた。画面には、大きなひび割れが入り、床には傷ができた。デジタルは、「ひゃあ」と声を上げると、驚いて椅子から転げ落ちた。

 タキオンは、暫く怒りに震えながら、床に叩きつけられたスマホを見ていた。まだ、田上との電話は繋がっていたが、少し経つと、それも切られた。それの最後の方に、微かに低くすすり泣いているような声が聞こえたが、タキオンにはそれが聞こえたのか聞こえてないのかあまり良くわからなかった。今はただ、どうしようもない怒りが脳内の全てを占めていた。

 暫くすると、床に転がり落ちてから椅子に戻ったデジタルが、タキオンに恐る恐る言った。

「ほ、本当に別れるんでしょうか?」

 タキオンはこれに怒鳴って返したいのか泣いて返したいのか分からないままに、デジタルの事を見つめ返した。デジタルもタキオンの事を心配そうに見つめていた。その目を見てると、段々とタキオンも落ち着いてきて、最後にはがっくりと項垂れて、スマホを拾い上げると力無くベッドに座り込んだ。タキオンは、その時までデジタルに何の返事も寄越さなかったが、はぁー…と大きなため息を吐くとデジタルに言った。

「別れたくないよ」

「……分かります」

「分かる?…君は誰かと付き合ったことがあるのかい?」

「いえ、勿論無いですが!……ただ、…共感はできるという次第でありまして…」

「…いや、今のは八つ当たりだった。…悪かった…」

「いえいえ、タキオンさんの心境を考えたら八つ当たりされることも、どうしようもないことだと存じております」

「…ありがとう。…圭一君は優しい男だと思うかい?」

「えっ、ああ、勿論、タキオンさんが優しいと言うからには優しい方なんでしょう?」

「…君はどう思う?デジタル君は。今の何も答えようとしなかった圭一君を見て、デジタル君はどう思う?」

「あたしですか??……今のは、…確かに簡単に優しいと言えるような態度ではありませんでしたが、あたしも田上トレーナーの優しさは何度か拝見させて頂いたことがありますので、十二分にお優しい方だと存じております」

「…このまま別れるということになっても、君はその態度を貫くのかい?」

「…それは、……このまま別れるという事になるのであって、タキオンさんがそれを嫌であるならば、あたしは全力でお二人の仲を取り持ってみせます。お二人共にとって、得にならないような形で終わるのであれば、それは、あたしとしても見過ごせないものでありますので、絶対にどうにかなるように努力をしてみせます。タキオンさんに、簡単に泣き寝入りなんてさせません!」

 デジタルの意気込みを聞くと、タキオンは多少の元気が出たのか、はははと力無く笑った。

「君はそういう奴だね。…頼もしいよ」

 そう言ってから、少しの間沈黙が続いたが、またタキオンが口を開いた。

「圭一君、私の事をどう思っていると思う?」

「おそらくですが、何も言わないにも関わらず電話に出たと言うからには、多分、タキオンさんに対しての葛藤があるのでしょうね」

「…葛藤はある。…私に対してかは分からないが…。…圭一君は、形のある愛がほしいらしい」

「形のある愛?」

 デジタルは、あまり良くわからずにオウム返しにそう聞いた。

「そう、実際に目に見えるか聞こえるか、確かに感じられるものとして、圭一君は愛がほしいらしい。私が、圭一君に依存していることなんて、最初から知っているくせに、依存されるのを今になって嫌がるんだ。…つまり、私の好きという言葉は聞き馴染みすぎて飽きてしまったんだろう。…飽きるという表現も変かもしれないが、とにかくそういう事だ」

「はぁ」

 デジタルは相変わらずあんまり理解できているようではなかったが、とりあえず、相づちだけはしておいた。

「…好きなのに…、圭一君の事…」

 そして、また少しの沈黙が続いた。タキオンはうつむき、デジタルは、それを心配そうに見続けるという構図が続いた。

 それから、また不意にタキオンが言った。

「君は、恋などはしたことがあるかい?」

「まぁ、…はい。小学生の時分にそのようなものの経験はあります」

「どうだった?交際までこぎつけられたかい?」

 タキオンがそう聞くと、デジタルは苦笑した。

「まぁ、小学生の時ですから、交際というのもあまり良く分かりませんし、恋というのもどう取り扱うべきか分かっていませんでしたから、交際というものはそこまで本気になって取り扱ってはいませんでしたね」

「なら、今の君は、恋というものをどう取り扱うべきか心得ているのかい?」

「ああ、いえ、そういうつもりで言ったんじゃありません。あたしだって、まだ高等部に上がったばかりですから、…それに、ここは女子校ですので、…あたしって結婚するんでしょうかね?」

「君?できそうな器は備えていると思うね」

「ああ、はい。不躾な質問に答えていただいて恐縮です。ありがとうございます」

 デジタルがそう感謝の言葉を告げると、その後に沈黙が続いた。ただ、この沈黙は先程よりかは比較的短く終わった。

「…君は、幸せになって欲しいもんだね」

「私だって、タキオンさんに幸せになってもらいたいです!」

「ああ、…ありがとう。…幸せになれるもんならなってみたいものだね」

「…今はどうですか?幸せですか?」

「今?…今は、…圭一君の事で頭が一杯だね」

「…トレーナーさんが、タキオンさんの事を本気で振ったとしたら、タキオンさんは不幸せになりますか?」

「そりゃあ、…当分の間は不幸せだね。…大分長い事不幸せになると思うね。…嫌だなぁ」

「……私が、トレーナーさんに何か…言ってみましょうか?」

「言ってみる?…まだ、私も向こうも頭が冷えてないからね。…頭が冷えてからは、なにかあるかもしれないから、…まだ時期尚早だね…」

「…すみません、出過ぎた真似を…」

「いや、謝る必要はない。これまで、君に大分迷惑をかけたからね。…今回も迷惑をかけるかもしれないよ…」

「いえいえ、お気遣いなく。こちらと致しましては、好きでタキオンさんのお手伝いをしているだけで、なんにも迷惑だなんて思ったことはないです」

「…君も、…中々良いやつだね。…きっと良い旦那さんが見つかるよ」

 タキオンがそう言うと、デジタルは嬉しそうな照れ笑いをしながら「そうでしょうか…」と曖昧に返事をした。

 それから、タキオンは大きなため息を吐くと言った。

「はぁ、やるせないね。……電話の最後に、圭一君の泣いている声が聞こえなかったかい?」

「あー、…はい。…聞こえましたね。…多分、泣いていました」

「…泣くぐらいだったら、好きでもなんでも言ってくれればいいのに…」

 それに、デジタルは当然何も返す言葉が見つからなかったので、ただ黙ってタキオンを見つめた。すると、タキオンは首を振りながらまた言った。

「…圭一君は、……私の事は嫌いじゃないよね…?」

「…あたしは、存じ上げません…」

「はぁ…、そうだよね…。…悪かった。夕食もまだなのに。…君は、夕食は取ったかい?」

「いえ、まだです」

「うん、なら一緒に食堂の方に行こう。…君は良いやつだよ。…幸せになるべき人だ」

 タキオンが、デジタルの顔を見ながら静かにそう言った。すると、デジタルも少しむっとしながら言い返した。

「いえいえ、タキオンさんだって幸せになるべき人です!あたしは、自分よりもずっとタキオンさんに幸せになって欲しいです!」

「なら、圭一君はどうだい?私と同じくらいに幸せになってほしいと言えるかい?」

 デジタルは、その質問に少し迷った後、しっかりとタキオンの目を見据えて言った。

「あたしは、……欲を言うなら、…タキオンさんとトレーナーさん二人で幸せになって欲しいです!タキオンさんとトレーナーさんが、二人で結婚式場に立っている写真を見てみたいです!」

 その返答に、タキオンは視線はデジタルにじっと注いだまま、口角を上げてふふふと笑った。

「君は、私達二人の結婚式まで妄想しているのかい?」

「…ええ!だから、あたしは、お二方共に幸せになって欲しいです!あたしは、タキオンさんの今の幸せを応援します!…だから、もしよければ、…十年後や二十年後もお友達でいさせていただければ嬉しいです…」

 デジタルの言葉の最後の方は、自分の出過ぎた言動に萎縮して、小さくなっていたが、熱意は、タキオンにもそれなり伝わった。それで、タキオンは苦笑か、それとも、嬉しさから出た笑いかを口から漏らしながら、デジタルに向かって言った。

「いいだろう。あんまり遠くに行ってしまうと、交際に少々困るが、圭一君と私、二人の生活があるとするのならば、友達の君に見せてやっても良い」

「はいっ!ありがとうございます!全力でお供させていただきます!」

 デジタルが嬉しそうに叫んで答えると、タキオンは満足げに笑って頷いた。それから、「さぁ、行こう」と言うと、ドアを開け、デジタルをお供に食堂の方へと歩いて行った。

 

 田上は、タキオンに「バカ!!!」と叫ばれた後、電話を切ると、もう自分が自分でいるのが嫌になってずっとしくしくと泣いていた。時折、涙が枯れてくると、暗い部屋でパソコンの画面を見つめて、ネット上の記事をただ漠然と眺めていたが、その時に聴いていた『大きな蛇』の曲が共感してしまう所に差し掛かると、再び涙を流して自分を心の中で責め続けた。

 暫くそうしていると、もう出るものも出なくなった。ゲームなどもしたが、オンラインで友達と繋がってしまうと、「ボイスチャットをしよう」という誘いを断って、一人で黙々とゲームを続けた。実の所、田上は、オンラインで友達の存在を感じることすら嫌で仕方がなかったのだが、ここで、ゲームの場から抜け出してしまうと、友達から後日なにか言われるかもしれないと思ったので、嫌々ながらも続けていた。

 そして、それも終わると、田上はベッドの上に寝転がった。まだ目は冴えているような気がしたが、同時に、疲れで早く眠りにつきたいという思いもあった。その時の田上の脳裏に浮かんでくるのは、絶対にタキオンの顔だった。田上は、それに抵抗しようと、ゲームの今後の予定や、トレーニングについてマテリアルと何を話すか、リリックとどういう交流をすればいいかを考えたが、最終的に、やはりタキオンの事に行き着くしか方法がなかった。田上は、タキオンのあの怒り方から鑑みるに、自分は振られてしまったのだろうなぁ、と思った。甲斐性無しが今度こそ露呈してしまったし、タキオンも碌でもない男の傍に居るのも、今度こそ本当に嫌になってしまったのだろうから、振られたに間違いないだろうなぁ。

 ぼんやりとそう思っていた田上の感情は、なんだかよくわからないものだった。自分の荷が下りてほっとしたような感覚かと思えば、ずっしりと重い荷物がまた更に乗っかってきたようなものだった。今までも、大変に重かった荷が、更に重たくなったのだ。それでいて、心の表面では、荷が軽くなったと思っているから、田上は指先の一つも動かせないでいた。今聞こえるのは、自分の息遣いと心臓の音だけだ。それ以外は、衣擦れの音一つしない。

 田上は、ぼーっとした頭で、ずっとずっとタキオンに――ごめん、と謝り続けていた。そして、この部屋の暗さのように真っ暗な人生が目の前に広がっているのが見え、――いつ死のう?と思った。今の田上には、冷静に物を考えるなど無理に等しかった。疲れと悲哀で頭の働きは、普段よりも数倍劣っていた。これでは、冷静な判断ができるはずがないが、今日寝て、明日起きた所で、疲れは取れても悲哀は抜け切らないだろう。

 田上は、いつしか夢の間にさまよい歩くことになっていた。

 

 田上が夢に入ると、悪意が現れてその様子を見ていた。田上の夢は、タキオンへの思いが複雑に絡み合ったものだった。縺れに縺れてしまった糸は、どこからどう解けば良いのか分からない。糸の端さえも見つからない。そういった具合の夢だった。

 田上は、それを一生懸命に解こうとしていたが、生憎の所、苦戦ばかりしていてどうにも無理なようであった。

 悪意は、それを無表情のまま、じっと見つめていた。その虚ろな黒い目には、一生懸命に糸を解こうとしている田上が映っていた。悪意は、それを見つめながら――可哀想な奴だ、と同情を見せた。いくら悪意というものであっても、同情くらいはできた。縺れ合ったものに対して挑むのを見るのは、いつ見ても憐れだ。悪意は、色んな人の感情や思いを読むことができるが、殊に、この男は憐れなもののように感じた。だから、近づいたと言っても良いかもしれない。ただ、悪意自身にこの男を救う術があるようには思っていなかった。ただ、自分と同じような道を辿っていくことを予想し、それに対して、――憐れだ、と感じた。

 その内に、不図思い立つと、悪意は指を鳴らし田上の夢を白一色に変えた。田上は、それを悪意の仕業だとすぐに気がついて、「出てこい!」と声を上げた。しかし、悪意は、その様子を眺めるだけに留めた。すると、田上は、暫くした後に真っ白な世界にタキオンだけを呼び出すと、その膝を枕にして寝転がった。ただ寝転がっただけではない。その上で、寝る前と同じように、またしくしくと泣き出していた。

 悪意は、寝る前に田上が泣いていたことは知らなかったが、田上を見ている内に、段々とそれは察せられた。田上は、ひらすらに自分を責める言葉とタキオンに謝る言葉を吐いていた。作り出されたタキオンは、それに「大丈夫だよ」とか「上手くいくよ」と答えていたが、それはどこか機械的だった。むしろ、それ以外の言葉は発していなかったのだ。

 そうして、田上がタキオンに謝っている内に、意識は深い眠りの方へと入っていった。それにより、悪意も夢から追い出された。悪意は、不平なままに頬をポリポリと掻いたが、やがて、「よく分からんな」と呟くと、自分も眠りのようなものに就いた。

 

 朝になると、田上は慌てて起きて周囲を見渡した。そして、自分がただの自分の部屋に居ることを知ると、力無くまた寝転がった。今日は、タキオンからのモーニングコールはなかった。――嫌われたなぁ…。寝惚けた頭で、天井を見つめながらぼんやりとそう思った。もう何もやる気が出なかったが、今日は、リリックに付き添ってダンスレッスンに行かなければならなかった。別に、もう中学一年生だから、自分が付き添うまでも無いとは思うのだが、この前の最初のダンスレッスンをサボった手前、リリックも不安だろうと思うと起き上がらざるを得なかった。そして、次に、タキオンの顔が再び脳裏に浮かんできた。すると、田上にとって、タキオンに嫌われたのはもう確定事項のようであったから、心にがっくりと落ち込むものが在って、リリックのことは忘れて、再びベッドにうつ伏せに寝た。

 それを何度か繰り返した。やる気を奮い立たせようと、別の事を考えては、次にタキオンの事を考えて、ベッドの上に落ち込む。タキオンの事を考える度に、どうしようもなく体の力が抜けた。

 それでもなんとかかんとか自分を無理矢理に動かして、上着をだらしない状態にしつつも、着替えるところまでは成功した。その後に、やっぱり、また床の上に寝転がって天井を見た。すると、スマホがピロンと鳴った。一瞬、田上は、タキオンから連絡が来たのかと思って、心臓をドキリとさせたが、すぐに――多分違う…と思うと、そのまま天井を見つめて過ごした。すると、再びピロンピロンピロンとスマホが三度鳴った。この鳴り方は、マテリアルのような気がする。マテリアルは、時々、こういうメッセージの送り方をした。タキオンとなるとスマホに手が伸ばすのが恐ろしかったが、マテリアルとなると、これはこれで、スマホに手を伸ばすのが面倒なように感じた。それでも、もう一度ピロンピロンピロンとスマホが三度鳴ると、田上はできる限り体を最小限の動きに留めながら、スマホに手を伸ばした。ベッドにあったスマホだったが、床に寝転がりながら取ったので、それなりに苦労をした。それで、田上は、一つ一つの動作の度にため息を吐きながら、ようやくの思いでスマホを手に取った。

 暫くは、スマホを手にとってもその画面を見る気にはなれなかったが、頭の中から考えるということを消し去ると、ボーッとしながらスマホの画面を見つめた。スマホの画面には、通知が何個か在って、その通知からメッセージの内容を読み取れるものがあったが、全部が全部読み取れるわけではなかった。マテリアルがたくさんのメッセージを送っていたので、一番初めの方に送られてきたメッセージは、もう見えなくなっていた。それで、田上は、そのメッセージを見るために、アプリを開くかどうか迷った。開いてしまえば、既読という文字がついて、向こうの方に自分がそのメッセージを見たのがバレてしまう。田上は、あまり返事をしたくなかったし、返事をするとしても、メッセージの内容を見てから決めたかったので、今一それは頂けなかった。

 それでも、マテリアルは仕事仲間でもあるから、内容は仕事のことであるだろう。それに、マテリアルも、自分が既読無視した事で文句を言ってきたとしても、大したことのない文句しか垂れないだろうと思うと、田上は、考えの足りない頭でぼんやりとしながらLANEのメッセージの中身を見た。

 そのメッセージの中身は、ざっと話すと『タキオンさんとはどうでした?』『タキオンさんも来ていないので、せめて、田上トレーナーだけでも来てください』との事だった。田上は、これを見たことを後悔したし、マテリアルの方も、田上に後悔して既読無視をする隙を与えないように見張っていたようで、田上が、そのメッセージを見た瞬間に『おはようございます』とまた連絡が来た。その後に、『今のメッセージは深く考えなくてもいいので、とりあえず、おはようございます、とだけ返信してもらえますか?』と来たので、田上も仕方なく『おはようございます』とだけ返した。

 すると、また、向こうからこう返ってきた。

『タキオンさんと仲直りできてないのは伺っております。けど、あなたには、リリックさんもおりますので、仕事はしないとしょうがないですよ』

 それに、田上はぼーっとしながらこう返した。

『する気が起きないです…』

『なら、タキオンさんを呼んで、あなたに声を掛けさせましょうか?』

『やめてください』

『なら、せめて、一人で起きて、トレーナー室まで来てください。私は、田上トレーナーのおむつの世話までするのは嫌ですよ』

 そのメッセージを見ると、田上は、もう返信する気が失せて、スマホを床の上にコトリと落とした。また、全身から力が抜けていくような気がしたが、せめて、トレーナー室まで行けば、あとはマテリアルがなんとかしてくれると思うと、重たく苦しい体を動かして、やっとの事で部屋から抜け出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。