ケロイド   作:石花漱一

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二十六、天皇賞・春⑤

 トレーナー室の前に着くと、丁度、マテリアルがトイレに行くためにそこから出てきた所だった。マテリアルは、そこで「ああ!田上トレーナー来たんですね!」と言ったが、その前に、自分はトイレの方に用があるので、田上がトレーナー室の中に入るのを見届けると、そそくさと自分はトイレに向かった。

 田上は、力無くドアを開けて、ふらふらとした足取りでよろめきながら自分の机に向かうと、倒れ込むように自分の椅子に座った。それから、背もたれに自分の重心を預けると、虚ろな目で天井を見上げた。暫くそうしていたが、マテリアルが大分長いこと帰ってこなかったので、田上の視線は段々とタキオンがいつも座っていたパイプ椅子へと向けられた。

 当然、そこには田上に笑顔を向けてくれるはずのタキオンは居なかった。それで、田上は、未だに自分がタキオンを求めているのだと思うと、その未練を振り払うが如くに、自分の視線を無理矢理タキオンの椅子から外して、外の景色を眺めた。これと言って良いものではない、人々が行き交う町が田上の目には映った。それを見ていると、次第に田上は、昔の事を思い出した。まだ鹿児島に居た時の事である。

 あの頃は、特に大した悩みもなく、両親の庇護下に置かれて、自分の今の生活が順風満帆であるように感じた。時折、将来の事を思うと、中学生になることや高校生になること、大人になることがあまりにも大きな物のように思えて、不安になったりもしたが、それは、結局両親の庇護下での想像だった。だから、実際には、まだ自分には関係のない大した事のない物のように思えた。それが、小学生だった。小学生であるべき物を備えているかいないかに関わらず、小学生とはそのような物であると田上は感じた。そして、その小学生の心は、まだ自分の中にあった。両親の庇護を求めてさまよい歩いている自分の心が、窓の外に映し出された。懐かしい風景や無くしてしまった物の中に、両親の庇護を求める心があった。その心に、田上は今も囚われている。

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 夕焼けに懐かしさを見出すと共に、両親への思いを思い出し、堪らなくあの頃に帰りたくなる。帰れるものなら自分だって帰りたいが、生憎、帰るとしたら今の生身の肉体は捨て去って、魂だけの存在になるしか無いように感じられた。

――いつ死のう?

 そう思いながら、田上は昔の出来事を一つ一つ頭の中で思い浮かべていた。

 

 マテリアルがトイレから戻ってくると、「田上トレーナー」と呼びかけながら、普段座っているパイプ椅子に座った。

「田上トレーナー、こっちに来て話しませんか?」

 マテリアルは、そう言いながら自分の目の前の席を指した。田上は、その時まで窓の外を見ていたので、呼びかけられるとノロノロとしながら椅子を回転させて、マテリアルの方を向いた。田上は、自分の体に力を入れる気がなかったので、椅子を回転させる遠心力に頭をフラフラとさせていた。そして、目もマテリアルの方に向けると、ぼそぼそと「なんですか?」と聞いた。マテリアルは、そんな田上にあまり構う様子も見せずに、平然としながら「タキオンさんのことについて話しませんか?」と言った。田上は、その言葉を受けとると、暫く目を伏せて、この場をやり過ごす方法をぼんやりと考えていたが、一向にその方法が見つからなかったので、遂に口を開かざるを得なくなった。

「………したくありません…」

「私だってしたくありません。…ただ、タキオンさんの方は別れたくないと仰っておりましたよ?」

 田上は、これに答えかねて暫く黙ったままで居た。すると、またマテリアルが言った。

「あなた、私に女の世話までさせるおつもりですか?」

「………したくないなら結構です…」

「じゃあ、仕事はどうするんですか?タキオンさんはどうするんでしょうね?別れた男女が一所に居れるとお思いですか?」

「………タキオンは……、別れたら………やめると……」

「…残念ですね。向こうの方は別れたくないと言っていますが、あなたが別れたいのであれば、どうしようもありませんね」

 マテリアルは、目を細めて田上の事を見つめていたが、田上は、それから目を逸らして、マテリアルに返答を与えずに居た。

 それで、マテリアルも多少苛立ちを覚えながらも、田上を説得する姿勢は崩さないで言った。

「私も、あなたとタキオンさんが、契約を解除するのなら、このチームに居ても意味がありません。あなた方が、別れるのなら、私はこのチームを辞めます。タキオンさんには、一度この先一緒に走らないか聞いてみるつもりですが、まぁ、無理でしょう。タキオンさんは、あなたが好きで走りを続けていたのでしょうから、好きな田上トレーナーが居なくなれば、タキオンさんが走る必要もないはずです。これからは、普通の女子高生に戻るのでしょうね。…この学園には居るつもりなんでしょうかね?」

「………居るつもりはないって……言ってました…」

「へぇ、ある程度話はしたんですね。なら、尚更残念です。決心は固まってしまったのでしょうから。…タキオンさんが、普通の女子高生に戻るのならこの先どうなるのでしょうね?と言っても、高校三年生だから、他の高校に編入した所で…どうなるんでしょう?タキオンさんが、普通の男子高校生と恋愛するんでしょうか?普通の男子高校生と付き合えば、キスもするんでしょうね。残念ですね。こんなしょうもない男とさんざんキスをした後で、他の人とキスをするなんてね。あんだけキスをしてたんですから、嫌でも昔の男の事を思い出すでしょうね。初めの方は、泣くかもしれません。そんな時に傍に居てあげられないのが、残念でなりません。 田上トレーナーはどうするんですか?仕事は?」

 その質問をすると、マテリアルは十数秒の間、田上の返答を待っていたが、予想通り返事がないとなると、こう言った。

「仕事をするにしてもしないにしても、あなたのような人の所にリリーちゃんを置いているのは可哀想でなりません。リリーちゃんはせめて私の手で育ててあげます。指導も田上トレーナーが間接的に行っていたとは言え、直接やっていたのは私ですから、私が指導をしたほうがいいでしょう。急な環境の変化に戸惑うかも知れませんが、安心してください。私がしっかりと育ててあげます。…本当に、あなたの所では、男女の付き合いをせっせと繋げてあげることしか学べませんでしたね。しかも、それも碌に成功しませんでした。こうして、別れることになってしまったからね。……本当に別れるということでいいんですね!」

 マテリアルは、少し語気を強くしてそう聞いた。しかし、田上はそれでも目を伏せたまま何も答えなかったので、マテリアルは思い切り田上を睨みつけると「タキオンさんの言った通りですね!」と言った。それから、最後に「タキオンさんに田上トレーナーは、タキオンさんとよりを戻す意思はないと伝えますからね!」と念押しして聞いたが、田上はそれでも何も答えなかった。

 それで、マテリアルは最後にもう一睨み田上に付けると、ドアを乱暴に開け閉めして、トレーナー室から出ていった。

 田上の頭は、その時までも両親の庇護を求めてさまよい歩いていた。

 

 部屋を出たマテリアルは、タキオンの居る寮へと向かったが、決して、タキオンに田上の意思がないことを伝えに行くのではなく、ただ、現状を伝えに行くだけだった。なので、先程の言葉は、ただの田上に対する脅しのようなものだった。

 しかし、多少苛ついても居たので、乱暴にタキオンの部屋を開けて入るとこう言った。

「別れるってことでいいんですか!」

 その時、タキオンは寝た時の姿のままで、ベッドに寝転がって本を読んでいたので、マテリアルが大声を出して入ってくると、少し驚いて入り口の方を見た。それから、ずんずんと大股で部屋の中に入ってくるマテリアルを見ると、暗い声で「圭一君は?」と聞いた。

「別れたいそうですよ!あの人は!」

 タキオンは、マテリアルのその言葉を聞くと、その苛々しているような顔をじっと見据えた。すると、マテリアルは目を逸らして、少し落ち着きを取り戻してから言った。

「どうしようもない人です。なんであんな人を好きになったんですか?」

「……好きだからだよ」

「好きだから?…どうやってあんな人を好きになるんですか?どうしようもないですよ?」

「……どうしようもある」

 そう言いながら、タキオンはマテリアルから目を逸らして、自分が今まで読んでいた本を見つめた。特に、読むというつもりはなかったが、いつまでもマテリアルの顔を見ているわけには行かなかった。

 その仕草をしたタキオンを同情するように見つめながら、マテリアルは再び言った。

「…こんがらがりましたね」

「…ああ」

「どうするつもりなんですか?」

「…どうする?」

「…あの人をどう処理するつもりですか?あれじゃあ、大阪杯の前の時とそんなに変わりませんよ?タキオンさんに当たっていた時の人のままです」

「…必ずしもそうじゃない…」

「必ずしもそうじゃない?…分かりません。…あれでも好きで居るつもりなんですか?」

「…圭一君は、…私の全てだ」

「…いい加減分かるべきです。あんな鬱人間、本当に精神科に入れておいたほうがいいです。どうしようもないんですよ?何回あなた達の周りを私が飛び回ったと思っているんですか?」

「…苦労をかけたね」

「ぜひ、これからも掛けないでいただきたいものです」

「……圭一君は?……明言したのかい?」

「何をですか?」

「…別れる事…」

「…明言はしていません。…でも、あんなの別れたほうが身の為ですよ。絶対に折れようとしないんですから。あんなの毎回毎回付き合わされると思ってみてください。きっとうんざりしますよ」

「…今している所だ」

「じゃあ、とっとと別れちゃってください。走りを続けたいんなら、私がなんとかします。私があなたのトレーナーになってもいいです。特に、言う事を聞かせる気はないので、走りたい時にご自由に走ってもらっても構いません」

 それに、タキオンは悩むような素振りを見せたが、結局、こう言った。

「私は、……圭一君以外と走るつもりはない。圭一君と別れるのなら、私の走りもそれまでだ…」

 その答えに、マテリアルは目を細めた。

「なら、どうするんですか?」

「…それを、今、…決めあぐねている…」

「このままだと、あの人、数日中に全てを投げ出してしまいそうな勢いですよ。今日も、私が呼び出したから、トレーナー室に来たような物です」

「…強情なんだろうね…」

 まるで他人事のようにタキオンが言ったから、マテリアルはむっとした。

「その強情が、タキオンさんに緩やかに運べばいいですが、タキオンさんでも無理なんでしょう?」

「…そうだね…。…私が、圭一君の心の深奥を分かってあげられたらいいのに、…圭一君は、中々見せてくれるような人じゃないからね…」

「私だって、他人にそんな風に自分の心情を見せびらかすような人じゃありませんよ」

「…いや、あれでも、最近は大分打ち明けてくれるようになった方だよ。…だとすると、今回は、圭一君の心の特に敏感な部分だったのかも知れないね…」

「じゃあ、あれはどうするつもりですか?別れるんですか?別れないんですか?決着は付けられるんですか?」

「…それが今難題なんだ。私も決着を付けられるものなら今すぐにでも付けたいが、どうにも一言で言い表すことのできないのが、圭一君の心なんだよ」

「そんな面倒な男と付き合って楽しいですか?」

「…大して面倒でもないが、こうなってくると、少々面倒でもあるね…」

「なんで面倒じゃないと言えるんですか?」

「んん?……まぁ、そりゃあ、好きな人だからだよ。…君も人を好きになってみれば分かるよ」

「…付き合ったことなんてタキオンさん以上にありますけどね」

 マテリアルは、少し高飛車な調子で答えた。

「…それは、どうにも私はおかしいと思っているけどね。…なぜ一人の男に決めなかったんだい?」

「…それは、今の話には関係ありません」

 マテリアルの方から言ったくせに、「関係ありません」と口を開かれると、タキオンも多少立ち止まってじっと見つめてみるような心地があったが、特に、それは表に出すことはしないで、マテリアルの望む通り、マテリアルに関する恋愛話はやめてあげた。それから、また自分の本の方に目を戻すと、タキオンは、はぁ…とため息を吐いて言った。

「どうにかしてくれ」

「そう言いたいのはこっちの方ですよ。タキオンさんがどうにもできないんなら、私にだってどうにもできませんよ」

「私にだって、どうにかできるような見当は備えていない。圭一君に全てを打ち明けてくれと言ったって、微妙な心持ちだけは本人にも語れない事がある。故に、私は大変なのさ」

「私だって大変です。どうにかできそうにない男を、やっとトレーナー室に引っ張り出して、その上、訳を聞き出そうとしたんですからね」

「そりゃあ大変だ。圭一君の話を聞くなんて、私以外にそうそうできることじゃないよ」

「じゃあ、あなたが話を聞いてくださいよ」

 マテリアルは、度々出てくるタキオンの他人事のような口調に苛ついて、噛みつくように言った。

「それができたら苦労はしない。別れ話を出したのは私なんだ」

「タキオンさんが?…初耳ですね…」

「初耳だろう。言っていないもの」

「なんで?…そんな事を言ったんですか?…別れたくないんでしょう?」

「勿論そうさ。…ただ、ああでもしないと圭一君は話してくれないと思ったからね。私は、彼に何かを言ってほしかった。……だから、――別れるよ、と…まぁ、脅すと言うと物騒だが、そのような真似をした」

「…じゃあ、どうするんですか?」

「だから、今それを決めかねている所だ」

「田上トレーナーが可哀想だとは思わないんですか?」

「思うよ。でも、私だって可哀想だ。だから決めかねている」

「ならどうするんですか?放っておくつもりなんですか?あれで仕事をするつもりかも知れませんが、周りから見れば、痛々しくて憐れな男過ぎて見ていられませんよ?」

「…それは、…困ったね」

「だから、タキオンさんにもトレーナー室に来てほしいんです。田上トレーナーと仲直りと言うには変かもしれませんが、仲直りしましょうよ。と言うか、あなた方喧嘩し過ぎなんですよ!週に一回喧嘩をしないと気が済まないんですか?」

「喧嘩するにはこっちだって理由がある。君が理由やきっかけになったこともあった」

「そりゃあ、すみませんが、付き合いたての男女ならそれらしく仲良くしておけばいいでしょう?」

「そりゃあ、君から見れば私達は付き合いたてのように感じるが、心が触れ合い始めたのは、君と出会うよりもずっと前だ。その頃から私達は付き合っていたと言っても過言ではない」

「過言です。普通の男女であれば、もっと、バチバチの喧嘩なんてしません」

「こっちだってバチバチの喧嘩じゃないさ!私達二人共に悩みが在って、それ故にお互いを遠ざけようとしただけだよ!」

「なら、本当に面倒臭いカップルですね!滅茶苦茶面倒な二人じゃないですか!なんで、あなた方は付き合ったんですか!」

「そりゃあ。二人共お互いが好きだったからさ!」

「じゃあ、それなりに付き合っておきなさいよ!なんで、別れようとか言い出すんですか!」

「そりゃあ、君には分からないよ!私にも分からないよ!圭一君には圭一君なりの困った事情があるんだよ!」

「そんな事情吹き飛ばすくらいに好きになればいいでしょう!」

「それができれば苦労はしないね!」

 そこで二人は、息を荒げながらお互いの事を見つめ合った。すると、寮の部屋のドアが開いた音がして、二人は一気に冷静になって、揃って入り口の方を見た。入り口にはデジタルが立っていて、「すみません、忘れ物をしてしまったので~」とこしょこしょ小声で頭を下げながら、自分の机へと向かっていた。その態度から察するに、今までの言い争いは完全に聞かれていたようだ。それで、タキオンはデジタルの事をじっと目で追っていたのだが、忘れ物を取ってそのままドアの向こうに消えるかに見えたデジタルが、ひょっこりと顔を出すと言った。

「あたし、タキオンさんの事応援してます!絶対に、後から不服なことが在っただなんて言わなでください!」

 そう言うと、デジタルは今言った自分の言葉に羞恥を感じたように、そそくさと部屋から出て行った。

 その後に、タキオンはまたマテリアルと目を合わせた。すると、マテリアルが言った。

「だそうですけど?」

 少々勝ち誇ったような顔だったのがムカついたが、タキオンはそれでも悩み深げな顔をしながら言った。

「私だって、今の状況を簡単に解決できる方法が見つけられたら苦労しないさ。見つけられないから苦労してるんだ」

「なら、見つける前に動いてはどうですか?」

「見つける前に?…どうかねぇ、上手くは行かないと思うよ」

「なぜ?」

「圭一君が喋りたがらないから」

「じゃあ、どうやったら喋るか考えましょうよ。…キスでもすれば喋るんじゃないですか?」

「キス?…無理矢理はあんまり好きじゃない」

「あんなに無理にキスをしていたのに?」

「あの時は圭一君の方も受け入れてくれていた。けど、今回がどうかは分からない。もしかしたら、キスをしたがらない可能性があると思う」

「ある可能性があるなら、ない可能性だってあるでしょう?行くしかありませんよ」

「…行くのは面倒だ」

「この期に及んで移動が面倒ですか?」

「違う。…ただ、…圭一君が来てくれるならいいけど、私から顔を合わせるとなると、どんな顔をすれば良いのか分からない」

「そりゃあ、笑ってあげれば女として百点満点ですよ」

「笑えればね。…圭一君の前に行って、果たして笑えるかが問題だ。…今は、顔を突き合わせたくない…」

「ならどうするんですか。このまま別れるんですか?」

「別れたくはない」

「なら、田上トレーナーの所に行かないとどうしようもありませんよ」

「行ってもどうしようもない」

「なら、この際無理にでもキスをしてみましょう」

「キスをしてまた変にこじれたらどうする?それに、私は拒否してくる圭一君に無理にキスなんてできないし、拒否してくる顔も見たくない」

「拒否してくるとは限らないじゃないですか」

「いいや、限りなくその状態に近いね。別れると言われて何も言えないくらいに強情な圭一君の事だから、一度別れようとした相手とキスする程柔じゃない」

「じゃあ、どうするんですか」

「それに今困っている所じゃないか!」

「私だって困ってますけど、動かないとどうしようもないじゃないですか!デジタルさんにも応援されていたでしょう?」

「そりゃあね、こっちだって応援されてちょちょいのちょいでGⅠを優勝できたら苦労はしないよ。それができないから今こうしているんじゃないか!」

「じゃあ、田上トレーナーはGⅠよりも難しいって言うんですか?」

「そうとも!私にとっちゃGⅠよりもずっと解決のし難い、飛んでもなく難しい問題だよ!」

「なら、競走を辞めてずっと傍に居るって言っておやんなさい!」

「だから!それができたら苦労しないってさっきから言ってるだろ!」

「じゃあ、別れていいんですかって私もさっきから言っているんですよ!」

「別れていい訳ないけど、今日一日くらいの猶予はあるだろ!それなら、もう少しくらい考えさせてくれたっていいじゃないか! まだ、昼も過ぎてない!」

「それなら考えれば良いでしょうが、田上トレーナーの気持ちも考えておやんなさい!あんなの可哀想でしょうがないでしょうが!」

「それなら君は私の気持ちだって考える必要がある!そんなに簡単に行かないんだよ!言っておくけど、君以上に圭一君の事については考えてるんだからな!」

「なら、良いですよ!私、一人で田上トレーナーを慰めておきますよ!」

 そう言って、マテリアルが憤慨しながら、部屋を出ていこうとすると、突然にタキオンが大声を上げた。

「ちょっと待った!!」

「…なんです?」

 マテリアルは、不機嫌そうに振り向きながら答えた。その顔を見ると、今のタキオンの大声はどこへやら、言葉の端を尻すぼみにさせて言った。

「君にだけに行かせる訳にはいかない…。話を聞けるのは私だけだし…」

 その態度を妙に思いながら、マテリアルはタキオンの事をじっと見つめたが、数秒後に、ははぁと思いついた。

「私の今の言葉で嫉妬しましたね?」

「…そんなんじゃないよ。…ただ、…理由を言うのはよしてやろう」

「良いですよ。まぁ、嫉妬してでも動き出したということを評価して上げましょう。 田上トレーナーの方は、嫉妬心を煽ってもどう仕様もなかったんですから」

 その言葉に、タキオンは少し興味をそそられて、慎重そうな面持ちでこう聞いた。

「どんな風に煽ったんだい?」

「どんな風に?そりゃあ、――別れたら、タキオンさんはどうなるんでしょうね?もしかしたら、他の男子高校生と付き合うかもしれませんね。キスもするかもしれませんね。そしたら、あなたの事を絶対に思い出すでしょうから、可哀想ですね。っていう具合にですよ」

「それで、圭一君はなんて言った?」

「なんて? そりゃあ、なんにも言いませんよ。もし、別れたら、タキオンさんは引退するとかなんとか、知っている情報しか吐かないで、自分の事については何も言いませんでした」

「…他の男と私がキスをするって?」

 タキオンは、半ば呆れ気味な調子でそう聞いたが、マテリアルは、平然として答えた。

「この先タキオンさんが生きていくのなら、田上トレーナーと別れた場合はそうなるでしょう?それとも、別れたら、生涯独身を心に決めて、悟りでも開くおつもりですか?」

 すると、タキオンはマテリアルから目を逸らして、「事によると、そうなりたくなる場合もあるかもしれないね」と言った。その表情が、マテリアルにはなんだか哀れに見えて、次の言葉は少し優しく同情するようになった。

「なら、そうならないためにも、田上トレーナーの所に行きましょう。 別に、タキオンさんが他の男とキスをしなくても、田上トレーナーが新しい人を見つけて、その人とキスをする可能性だってあるわけですからね」

「そんなのは御免だよ」と言いながら、タキオンは自分の着替えが入っている棚の引出しを、半ば乱暴に開けた。

 

 トレーナー室の前まで来ると、案の定、タキオンが尻込みを始めた。

「やっぱり、圭一君が私に対して怒ってるに決まってる」といつものタキオンらしくない弱気な調子でそう言った。だから、マテリアルは、少し語気を強くすると、言った。

「タキオンさんがやらなくて誰がやるんです!あなたの愛すべき彼氏でしょう!」

「私だって愛せることなら愛してやりたいが、つい昨日にそれを拒否されたばっかりだからねぇ」

「じゃあ、他の女の人が、田上トレーナーを取っちゃってもいいわけですね?」

「そんなわけじゃないさ。…そうじゃないが、とりあえず、君だけでも中に入ってくれ!きっと、圭一君は私に対して怒っていると思うから、このまま顔を会わせるのはやりにくい。だから、君が初めにちょっと探りを入れておいてくれ!」

 そう言ってタキオンがマテリアルの背を急かすように押すと、マテリアルは苦笑しながら「片思い高校生の青春ですか?」とからかうように言った。マテリアルが言ったのは、昔、自分が青春時代に見た、友達が気になる男子に恥ずかしさで直接近づけずに、また別の友達を使ってコミュニケーションを図ろうとしている様の事だった。とは言え、そんな一言にまとめられると、タキオンもあんまり分からなかったが、「青春」という一言だけで雰囲気だけはなんとなく感じ取られた。それで、実際に、自分も青春をやっているように感じられたが、青春と言うにしてはあまりにも苦労の多い恋愛だった。

 マテリアルが、トレーナー室に入ると、タキオンはその部屋のドアの横の壁に寄りかかって、音だけで中の様子を探った。硬い壁ではあったが、聞こえの良いウマ耳でなんとなく会話する声だけは聞き取れた。

 マテリアルは、部屋に入ると、自分の椅子に座ってぼんやりと外の景色を見ている田上の後ろ姿が見えた。力無く肩に支えられているその頭は、マテリアルが部屋に入ってきても何の反応も示さなかった。だから、マテリアルは「田上トレーナー」と静かに呼びかけながら、自分は田上の顔が見えやすい位置まで移動した。

 部屋に入ってきた時には気が付かなかったが、田上の顔が見える位置まで移動すると、その机の上に普段はあまり置かれていないカッターが置かれているのが見えた。すると、マテリアルは、田上の心情とカッターの使われ方を思い浮かべて、――リストカットをしようとした?と考えた。それで、慌ててマテリアルは田上の手首を見つめたが、マテリアルの見える位置には、手首をカッターで切りつけたような血の跡は見えなかった。

 そして、マテリアルはより一層田上の事を哀れに思いながら、次のように言った。

「タキオンさんが部屋の前まで来ましたよ…。あなたが、怒っているんじゃないかと心配してます。…そして、もう一度聞きましたが、向こうに別れる意思はないそうです。タキオンさんの方から言い出したそうですが、まぁ、こじれてしまったんじゃしょうがありません。…そんな顔じゃ、仕事はできないですよ」

 田上は、瞳すら一ミリたりとも動かさずに、果たして、マテリアルの言葉に耳を傾けているかいないのか、もしかしたら、死んでいるんじゃないのか、と考える程に何もしようとはしていなかった。死んでいないことは、胸が息を吸って吐くために動いているのを確認したし、瞬きもたまにしているのを確認したから、大丈夫だと断定できるが、マテリアルの話を聞いていたのかは、全く以て分からなかった。だから、マテリアルは、ちょっと眉根を寄せると、声を大きくして言った。

「田上トレーナー!聞こえてます?」

 これで、田上の首が微かに揺れたのか揺れていないのか、全く微妙な具合にマテリアルには見えたので、絶妙に苛々さを引き立てる仕草に彼女はリタイアを宣言してしまった。

 

 マテリアルが、廊下に戻るとタキオンにこう言った。

「あの本当にどうしようもないやつ!本当に、叩きたくなる所だったから、やめました。どうせタキオンさんが来ても、碌な反応は返しませんよ。感情が無いんですから、もう無理です」

「…そりゃあ、君の時には感情がなくてもしょうがないが、確実に、私の顔を見れば感情は戻るだろうね」

 タキオンは、あまり乗り気ではない調子でそう答えた。

「まぁ、タキオンさんの顔を見れば、確実に動揺はするでしょう。…あと、これは定かかは分かりませんが、机の上に普段置かれていないカッターが在ったので、リストカットをしようとしてたんじゃないでしょうか?」

「リストカット?本当に?」

「いや、私もそう思って、手首を確認はしましたが、血がついてはいなかったので、カッター出してみたはいいものの、切る勇気がなかったんじゃないでしょうか?」

「…物騒だねぇ」

「タキオンさんが行かないことにはどうしようもないですよ。…私は、部屋の外にいたほうが良いですか?それとも、中で一緒に話を聞いてても良いんですか?」

「…君が聞きたいならそうしたまえ。…その代わり、キスはするかもしれないが」

「戦略的キスですか?」

 マテリアルが、不躾にもそう聞くと、タキオンは嫌そうな顔をして「違う」と言った。

「語弊が過ぎる。男女の営みだと思ってくれ。それが見たくないなら、君はここか好きな場所に居たまえ」

「…まぁ、私だけ成り行きを知らないってのも癪なので、話だけは聞いておきましょう」

 マテリアルがそう言うと、タキオンは、トレーナー室のドアを開けて、慎重に中の方へと入っていった。

 

 田上は、相変わらず、窓の外を見ていた。マテリアルは、部屋に入ると、タキオンには何も言わずに自分がいつも座っているパイプ椅子に腰掛けて、スマホをいじりだした。どうやら、見ることはしないで、耳だけ傾けるようだった。ただ、ここまで来ると、タキオンは田上にどのように話しかければ良いのか、皆目見当がつかなかった。

 昨日怒鳴りつけて、スマホを全力で床に叩きつけた自分が、どのような顔をして田上と相見えれば良いのだろうか?その考えがタキオンの心の中に浮かび上がると、どうにも次の一歩が踏み出せずにいた。

 マテリアルは、自分のスマホを見つめていて、助け舟を出してくれそうな雰囲気ではなかった。全て、自分の手でやれということなのだろう。その非情さにタキオンは、少量の腹立ちを覚えると、腹の底に不思議な活力が湧いて、次の一歩をノロノロと踏み出すことができた。しかし、未だに、田上にどう声をかければ良いのか分からなかったし、田上の表情に自分の表情をどう返してみれば良いのかも分からなかった。それで、二歩目、田上の顔を見るという所まで中々踏み出せないでいた。

 タキオンは、ピクリとも動かない田上の後頭部を見て、憐れさを感じた。この後頭部の中に、今、どれ程の感情が渦巻いているのだろうか?それは、タキオン自身から距離を取りたくなる程に、重苦しい感情なのだろうか?

――助けてあげたい。

 タキオンはそう切に願ったが、この微動だにしない後頭部の前には、自分は無力であるように感じられた。その為に、タキオンは中々前に足を踏み出せない。――圭一君の方から振り向いてくれればいいのに…。そのような考えも在ったが、今、自分が動けないでいる状況ではその考えは、無理難題に等しいように感じられた。

 それで、タキオンは、一つ勇気を振り絞ってみると、「圭一君…」と声を掛けてみた。果たして、自分の口からその言葉が出てきたのかどうか、怪しい所では在ったが、とにかくタキオンは自分の口からそれを発したように思った。ただ、それでも、田上は微動だにしなかった。それで、タキオンも成す術をなくして立ちすくんでいると、マテリアルがスマホを見つめながら、急に言葉を発した。

「…田上トレーナー、…あなたが傷つけた女の子ですよ。振り向いてやらないんです?」

 その言葉は、厳しく田上を問い詰めるようであったが、それでも、田上は振り返ろうとはしなかった。タキオンは、立ちすくんだまま、次に何が起こるのかを待った。すると、数秒後にマテリアルが、大きなため息を吐いてスマホを置くと、椅子から立ち上がった。そして、スタスタと田上の方に歩いていくと、いきなり、田上のおでこに中指でデコピンをした。中々力を込めてやったので、これは田上も反応せざるを得なく、苛立ちを込めてマテリアルの方を睨んだ。それに、マテリアルの方も睨み返しながら言った。

「あなたが、いつまでも寝ているようですから、目覚まし代わりに一発かましてやりました。悪く思わないでください」

「……寝てません…」

「あらそうですか!じゃあ、彼女の呼ぶ声は無視したという事ですね?」

 マテリアルがそう言うと、途端に田上は目を伏せて、何も話さなくなった。それで、マテリアルもこうなっては太刀打ちができないので、勇気を出すようにタキオンに目で訴えた。タキオンは、その目を受けると、田上の後頭部をじっと見たが、次に深呼吸を入れると一歩を踏み出して、田上の前に立ち、その顔を見、「圭一君…」と呼びかけた。

 田上は、頑なにタキオンの方を見ようとしなかった。それで、タキオンも困ってしまったが、マテリアルの方を見ると、目が「臆するな」と訴えていたので、仕方なくしゃがみ込むと田上の視界に入るようにして言った。

「圭一君…。…私、…私、…私じゃ駄目かい?」

 田上は、できる限り反応を抑えようと努力していたが、タキオンの声が聞こえると、少しだけ顔に生気が戻ってきたような気がした。それでも、その生気は戻るにつれて、マイナスの方に働こうとし始めた。今までゼロだった数字が、田上の意識が戻ったことに寄って、マイナスに寄っていこうとしているようなものだ。これで、田上の意識が戻らなかったら、プラスの方に転じたかと言えば、そうではないが、田上の意識が戻る事とは、それ即ちマイナスの考えが蘇ってしまうということでもあった。

 田上の頭には、再び自分を責める言葉が流れ始めたが、傍目からではそうそうそんな様子など分かるものではなかった。タキオンは、田上の心情を察しようとできるだけ努めてはいたが、田上の顔に生気が少しだけ戻ったのでさえ、本人にしか分からない微々たる変化だった。

 田上は、これからどうしようと思った。どうやって跳ね除ければ、タキオンは本当に自分の下から去っていくか。どうやって跳ね除ければ、自分が心底からタキオンに嫌われるか。その方法をずっと考えていたが、タキオンがもう一度「圭一君…」と呼びかけて、だらりと垂れ下がった田上の手をそっと握ると、田上が自身に抵抗する間もなく、自分の目がタキオンの方に向かって行ってしまった。

 田上は、タキオンの悲しそうな顔を見つめながらも、その中に自分に対する嫌悪感を見出した。これは、決して被害妄想でもなく、タキオンが本当に思っていることを読み取ったわけでもなく、タキオンにこんな悲しそうな顔をさせている自分に対しての嫌悪感が、タキオンの顔に見えたのだ。そして、田上は、自分が心底嫌いになって、タキオンから目を逸らした。タキオンは、それでも、田上になんとか視線を合わせてもらいたくて、田上の視界の中に入ろうとしたが、田上は、絶対にタキオンを見ようとはしなかった。

 「圭一君」「圭一君」とタキオンの心底から心配そうな声が聞こえてくるが、田上は自分の事で頭が一杯一杯だった。そんな時に、またマテリアルから頭を小突かれた。しかし、今度は、田上も反応しようとはしなかった。今、目の前にあるものを見てしまえば、同時に、タキオンも見てしまうことになる。タキオンの目を真正面から見つめてしまう事に、田上は耐えられる気がしなかった。後悔と嫌悪感で潰れかけた自分の胸が、さらに潰されてしまうのではないかと恐れた。ここまでくれば、田上の胸は、もう潰されて無くなったも同然だったが、それでも、田上はこれ以上の苦しみをタキオンから見出したくはなかった。

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