ケロイド   作:石花漱一

12 / 89
六、どうしても冬(中編)

 そんなこんなしていると前の方から小学生らしき一団が現れた。田上は、こんな恥ずかしい姿を見られたらまずいと思って、タキオンを引き剥がそうと、または離れてくれと頼んだのだが、タキオンは「いいじゃないか、小学生なんだし」と言って離れようとしなかった。

 小学生は前からこれまでにないくらいくっついているカップルを見つけて、それに好奇の視線を送った。子供だから遠慮なんてするはずもなく、ひたすらに興味深げに田上たちを眺めていた。特にタキオンの方に視線を送っていた。

「あの人、アグネスタキオンだよね?」

「そうだよね?ウマ娘の」

 すれ違う時にそんな声が聞こえた。ひそひそ声のつもりのようだったが、確実に田上の耳に届く声ではあった。その小学生たちとすれ違った後、田上は言った。

「タキオン、お前やっぱりマスクとかサングラスとかして、顔を見せないようにした方がいいんじゃないのか?」

「マスク?サングラス?そんなもの顔につけていたら邪魔でしょうがないよ。それにね。君、何かを心配しているようだけど、私は芸能人じゃないんだ。CM女王じゃないし、月九のドラマの主演を務めたこともない。言わば、ただのスポーツ選手だ。サッカー選手なんかと知名度は変わらないよ」

「知名度は、サッカー選手よりあるだろ。視聴率もサッカーよりいいらしいし」

「そんな程度だよ。例えば、君の好きなバンド…えっと、大きな蛇だっけ?それよりも私の方が知名度は低い」

「それは当たり前だよ。俺が小学生の頃から活躍してた天才だぞ?天と地がひっくり返っても知名度においてお前は勝てない」

「おや、やけにその人たちの肩を持つね。いつもだったら、タキオンが凄いんだぞって自慢をするのに」

 タキオンは少し不満そうに言った。

「それは…、俺の好きなバンドだからな。…まぁ、言ったろ?『知名度』においてはお前は勝てないんだ。その他諸々の事だったら、お前が余裕で勝ってるさ」

「その言葉を聞いて安心したよ。なんだか、最近は君の知らないところばかり見るからね。特に運転とか。君の暴言聞いたよ?」

 そして、ニヤニヤしながらタキオンがからかおうとしてきたから、田上は慌てて話題を逸らした。

「そういえばさ。この道を右に曲がったら公園があるんだ。そこにいってベンチで一休みでもしないか?」

「まだ、そんなに歩いてないよ?」

「歩いたとか歩いてないとかそんな問題じゃなく、ただ単にそこで休みたいんだよ。あの公園に久々に訪れたいし」

 そう言って、田上は前を見た。タキオンには見えない何かを見るかのように、前方を見つめていた。

「……俺が引っ越す前の街にこの街は凄く似ているんだよ。それを言ったら、日本なんてどこもかしこも似たようなものかもしれないけどさ。ここはよく似ていて、特にあの公園なんか遊具こそ違えど、木が鬱蒼としているのは同じなんだ」

 タキオンは、少し田上が遠くに行った様な気がして、絡めている田上の腕を逃さないようにぐっと締めた。そして言った。

「今、君が住んでいるのはその街でもなく、この街でもなく、トレセン学園内にあるトレーナー寮の一階の狭い木造の部屋なんだからね。あんまり遠くに行っちゃだめだよ」

 タキオンは、唐突に涙が出そうになったが、最後の言葉が少し震え声になっただけで涙は落ちてこなかった。だが、タキオンは涙が落ちてきた方が都合がよかったかもしれない。田上は、タキオンの顔こそ見たもののその震えた声には気づかず、それどころか少し迷惑そうに眉を寄せて「分かってるよ」と言った。

「ほら、公園がある…けど今は冬だからな。鬱蒼とはしていないか。…まぁ、この感じも好きだけどね。タキオンはどうだ?」

「…私は嫌いだ」

 タキオンは、拗ねてそう言った。田上には、突然の出来事に思えたので、驚いた。そして聞いた。

「なんでそんなに機嫌が悪いんだ?俺、何かしたか?」

 タキオンは、鼻の皺を寄せて鼻を鳴らした。

「…女心が分からないようじゃまだまだだね。結婚も夢のまた夢だ」

 すると、今度は田上がむっとする番だった。

「結婚の話は違うだろ。俺に結婚する気がないだけでしようと思えば…」

「できるのかい?」

 タキオンが話に割り込んできた。

「君はいつでも女を手籠めにできると?私には、君にそんな器量があると思えないね。あー、……」

 ここでタキオンは悪口雑言を言おうと思ったのだが、それを考えているうちに口が閉じて冷静になった。悪口なんて言わない方がいいと思ったからだ。だが、時はすでに遅くて、田上は酷く傷ついたようだった。それは、あまり表に出そうとしなかったが、さっきのむっとした時より、さらに寄っている眉がそれを物語っていた。

 タキオンはそれを察すると何か優しい言葉をかけてあげようと思い、考えたが、上手くは出てこなかった。ただ、こんな言葉が出てきただけだった。

「あー、…あんまり君を傷つけようとは思わなかったんだけどね。……もし、君に結婚の準備ができて相手が欲しいってときは紹介してあげるよ。私の人脈を総動員して、君の好みを探してあげるから」

 タキオンはそう言って田上の顔を見たが、嫌そうな顔をされただけだった。

「結婚相手なんてタキオンに頼らずとも自分で探すよ。あんまりバカにすんな」

 そう言うと、田上は前だけを見て、公園の中に入っていった。

 

 あんまりタキオン相手に機嫌を悪くしたくないのは、田上の常だったが、それでも抑えられないときは例え思春期の女の子相手でも機嫌を悪くしてしまう。そんな自分が田上は、どうしようもなく嫌いだった。自分を好きだなんて思ったことは一度もない。いつも暗くて、ゲームしてばかりで、人の幸せを妬んで。そんな人を好きになれる人間があろうか?タキオンは今のところは懐いてくれているみたいだが、これもいつまで続くかは分からない。いつか正面からぶつかって弾け飛んでしまうんじゃないかと恐ろしかった。

 タキオンは、田上の横についてベンチに座った。公園には、もう暗くなってきているというのに、小さいウマ娘の子と同じくらいの年の男の子が砂場で遊んでいた。ベンチは、公園を正面から入って一番奥の所に座った。ちょうど葉のない木が左右に二本生えている場所だ。そこからだと公園が一望できた。その場所に来る前の滑り台近くのベンチに田上は座ろうと思っていたのだけど、それはやめておいた。理由は、公園の道に沿ってベンチに座ると、すぐ後ろの方から子供たちの話し声がするからだった。

 小さい子供だったのに、その親の姿はどこにも見えなかった。見たところ、まだ小学校に入る前と言ったところだろう。家がこの公園から近いからかは知らないが、暗くなっても小さい子を放置するのは危ないだろう。万一、帰るときに車に引かれでもしたら大変だ。田上は、その子達を心配そうに見つめていた。

 タキオンと田上は、座ると共に自動的に離れた。田上は、あまりそのことに気付きはしなかったが、さっきまであった温もりが感じられなくなったことはなんとなく気が付いた。だが、それに注意を置くでもなく、田上は子供たちを見つめていた。

 それから、少ししてから突然タキオンが言った。

「人って難しいよね」

「え?」

 田上が、タキオンの方を見ると、タキオンはうつむいて体を半分ベンチに預けて自分の手を見つめながら真剣な顔をしていた。

「人の心ってやつさ。…どこにトラップがあるか分かったものじゃない。自分だって分からないだろう。私にも、分からないことが分かる。今、悩んでいる最中だからね。そして、君もだ」

 タキオンは体勢を変えないで不安そうにチラと田上を見た。

「機嫌が悪くなったら怒鳴っていいから、これだけは言わせてほしいんだ。……あんまり君も私に説教できないくらい強い悩みを持っているだろ?」

 そう言って、今度は強く田上を見た。田上は、あまり答えたくはなかったから、曖昧に首を縦に振った。すると、タキオンがもっと強く言った。

「声に出して言ってくれ。君は問題を持っているか、そうじゃないか」

「……そうと言えば、そう。そうじゃないと言えばそうじゃない」

 やはり田上には正確な答えは出せなかった。タキオンもこのことは予期していたようだ。ふーとため息をつくと、体勢を変えてベンチに背をもたれて田上と目線が合うようにした。それでも、タキオンの方がいくらか小さかった。

「君、見てごらんよ。あの子達を。さっきから心配そうに見ていたけど、君はどうするのかい?」

「……そりゃあ、親が迎えに来るまでここで待っとくよ」

「永遠に来なかったら?」

「その時は、俺があの子たちを家まで送り届ける」

「よし、じゃあそうしよう。もう暗い時間だ。私たちも家に帰っていいだろう」

「…まだ、歩いてもいいんだぞ?」

「おや!珍しく私を素直に甘やかすね。だが、今日のところはこれでいい。私たちだっていつかは帰らないといけないんだ。それが早まったって何の損もあるまい」

 まるでさっきまでのタキオンらしからぬ物言いだった。だが、そう言って立ったタキオンは田上が立つとすぐにその腕に引っ付いた。そして、二人は公園の明かりがぼんやりとついている砂場で遊んでいる子供たちのところに向かった。

 

 田上は、この光景を見たことがあるような気がした。ぼんやりとした明かりが照らす中、親が帰りを待っていることも知らずに友達と延々と遊び続けていた光景を。だが、その光景は、一歩歩くごとに薄れて消えていった。そして、子供たちに声をかけるころには、どうでもいい思い出の一つとなっていた。

「おい、そこの」

 そう呼びかけると男の子が顔を上げた。顔まで泥で汚れていて、洗うのが大変そうだった。

「何?誰?」

 男の子はそう答えた。

「何?……俺たちは、トレーナーとウマ娘だ」

 田上がそう言うと、タキオンが「私がウマ娘だよ」と言った。

「え、トレーナーとウマ娘?本当に?もし本当だったら嬉しいなぁ~。僕たち、二人でにっぽんダービー勝つって約束してるから」

 男の子は、にこやかにそう言った。だが、ウマ娘の方はと言うと、警戒心が剥き出しだった。

「嘘だよ。こんなところにウマ娘がいるはずないもん。田舎はウマ娘が少ないって母ちゃんが言ってたから、こんな簡単に現れるわけないんだよ。しかもトレーナーとセットで。…絶対嘘だよ」 

「えぇ、嘘なのぉ?」

 男の子が残念そうに田上の方たちを見た。すると、タキオンが言った。

「いや、実はね。嘘じゃないんだよ。ほら、私の顔が見えるかい?アグネスタキオンだよ」

 タキオンが、そう言うと男の子は目を輝かせて、ウマ娘の方は疑い深い目で見てきた。そして、言った。

「まやかしだよ。たった君、私たちまやかしにかけられてるよ」

「えぇ、まやかしって何ぃ?マリちゃん」

「魔法だよ、魔法。私たち悪い魔法にかけられてるんだ。こんなところにアグネスタキオンがいるはずないもん。それによく見たらトレーナーの方も田上トレーナーだから本物だし、いよいよ怪しいね。セットでお得は怪しいって母ちゃんが言ってた」

「…でも、これは全然お得じゃないよぉ。僕、トレーナーの方はいらないし」

 男の子がそう言ったので、田上は少し傷ついて、タキオンは愉快に笑った。そして、またウマ娘の子が言った。

「ああいやだ。魔女が高笑いしてる。帰ろ、たった君」

 ウマ娘の子は、男の子の手を取ると、そそくさと公園から出て行った。

「追わないのかい?」

 タキオンがそう言ったので、トレーナーは首を横に振った。

「あれを追ったらいよいよ俺たちは不審者になるぞ。…けど、せめて家に入るところまでは見届けたいな」

「じゃあ、そっと後を追おう。左の方に帰っていってたぞ」

 そう言うと、二人は小走りになって思いがけず帰り道を帰っていった。そして、その子たちは案外早く見つかって、家から漏れ出ている光が道に照らしこんでいた場所にいた。

 二人は、母親に怒られているらしかった。「こんなに泥んこにして」とか「早く帰ってきなさいよ」とか聞こえてきた。

 タキオンはその声が聞こえてくると、嬉しそうに言った。

「あの子たち帰ったみたいだね」

「そうだな。良かった良かった。道も反対じゃないから、帰る時間を無駄に長くせずに済んだぞ」

「おや?歩いても良かったんじゃなかったのかい?」

「それは、お前が歩きたいと言った時だけだ。帰るとなったら俺は早く帰りたい」

「君ってやつは、本当に何を考えているのか分からないね。言葉っていうものが転々としすぎだよ」

「んん?転々とはしていない。ただ、口にしていないだけだ。だから、少ない情報の中でお前が判断するとなると食い違いも生まれるわけだ」

「あんまり、誇らしそうに言わないでおくれ」

 タキオンがそう言った時に、ちょうどその家の前を通ったので、タキオンたちに気が付いたウマ娘の子が叫ぶのが聞こえた。

「魔女だ!魔女が追っかけてきた!怖いー!!」

 母親の怒っている声が聞こえてきた。しかし、それには耳をかさないでタキオンは言った。

「薬を持ってきていればよかったかな。もう少し魔女らしいことをして、あの子を脅かしてやればよかった」

 そう真剣に言ってから、不図、田上の顔を見ると二ッと笑った。

「それもあんまり可哀想か」

 冷たい北風が吹いてきた。住宅街にある明かりは少なく、薄ぼんやりな街灯もたまにしかなかった。家々から漏れ出る光を後にして、二人は進み続けた。タキオンは少しの間、田上から離れていたかのように見えたが、もう一度冷たい北風が吹くと田上の方に身を寄せた。田上たちが置いて来た明かりからは二人の会話の内容は聞こえなかったが、後ろ姿から楽しんでいるようなことは分かった。しかし、もう一度冷たい北風が吹いて、二人は身震いした。

 外の空気は、二人で楽しく笑い合うには、どうしても冬だった。

 

 夕食も食べて風呂に入ったその日の夜。大晦日で長い特別番組もやっていたのだが、二人はそんなことは気にせず布団に入った。タキオンが「もっとトレーナー君と話す時間をとりたい」と言ったからだ。当然トレーナーも一緒の布団だ。田上としてはやっぱり不満なわけだったが、タキオンの嬉しそうな顔を見るとそれも行き場を失って、困ったように笑うだけになる。

 タキオンが、嬉しそうに笑いながら今日の出来事を振り返った。特にあのウマ娘の子についてだ。

「君、あの子の顔見たかい?ウマ娘らしからぬ表情だったよ。例えるならば、意地の悪いおばちゃんみたいな」

「あんまりそんなこと言ってやるなよ。俺たちを魔女の一行だと思ったからあんな顔になったかもしれないんだぞ」

「ふむ、それも面白い。あの子少し用心深すぎやしないかい?いくら知らない人について行っちゃだめと教育されていたとしてもだ。さすがにねぇ…。まやかしなんて言葉どこで覚えたんだろう?見たところ、まだ小学生にもなっていなさそうだったよね?」

「そうだなぁ。絵本を読むにしてもまやかしなんて言葉は使わなさそうだし、何だろうなぁ…。母親に教えてもらったんじゃないのか?」

「それこそどういう経緯で教えてもらっていたのか気になる。どんな場面があったら、まやかしなんて言葉を教える?」

「う~ん…、色々あるだろ」

「例えば?」

「う~んと…、旦那がキャバクラ行ったときとか?」

 そう言うと、タキオンがハッハッハと笑った。涙が出るほど笑っていた。永遠に笑い続けるものだから、田上もいたたまれなくなって困ったように「そんなに面白かったか?」と言った。すると、タキオンがようやく言葉を発した。

「面白いも何も、君の発想が…」

 そう言うと、またタキオンは笑い転げた。二人は、布団の中でお互いに向き合って話していたのだが、その状態を自ら破ってしまうほどタキオンは可笑しかったようだ。

 そして、暫く満足するまで笑った頃、自分の目に浮かんだ涙を指で拭いながら言った。

「はー、君の発想力たるや。時として私の想像を遥かに凌駕するね。それにしてもキャバクラとは…」

 そう言ってまた笑いそうになったが、今度は鼻をフスフス言わせただけで、全力では笑わなかった。

「いや、思いがけずツボに入ってしまったよ。本当に今でも笑いがこみあげてくる。…それで、キャバクラか。…何の話をしていたんだっけ?」

「まやかしって言葉を教えてもらった経緯だよ」

「そうだそうだ。なんで旦那がキャバクラに行くとまやかしという言葉を教えてもらえるんだい?」

 タキオンは終始ニヤニヤしていた。

「う~ん…、まず、旦那がキャバクラに行くだろ?そこで帰りが遅くなる。すると、お母さんは呆れる。…それから、娘に愚痴をこぼすだろ?でも、自分から愚痴をこぼすわけじゃない。旦那がキャバクラに行ってることもまだ確定しているわけではないからな。…で、娘がお母さんにこう聞く。お父さんはどこに行ってるの?と。そうすると、お母さんも言うわけだけど、その言葉のままでは言えないわけだからこう言うわけだ。お父さんは、まやかしをかけられていて早く帰ってこれないのよ」

 ふむふむとタキオンが相槌を打った。

「そうしたら、娘がまやかしって何?って聞くから、お母さんが、それはね。悪い魔法のことなのよって答えるんだ。どう?」

「どう?……いや、君はやっぱりバカだと思ったよ。効果も知らない薬を三本一気に飲めるくらいにはバカだ」

 これは、タキオンと田上が出会った時の話で、タキオンのトレーナーになりたかった田上が、タキオンの薬を飲んでその覚悟を身をもって見せた事件に由来する。

 タキオンにそう言われると、田上はむっとした。

「薬飲んでくれて嬉しかっただろ?その頃には碌な実験体もいなかったんだから」

「ああ、嬉しかったさ。同時に驚愕もしたし、興味も持った。…けど、君のことは好きだよ。恋愛感情とかそんなのは抜きに」

 田上は、そう言われて嬉しかったのだが、あんまり嬉しそうな顔をするといけないと思って、口を変に歪ませた顔をしてしまった。

「なんだい?その顔は。あんまり嬉しくなかったかい?」

「いや、嬉しかったのは嬉しかったんだけど、…こういう時の顔ってどういう顔をすればいいんだ?」

「素直に喜びたまえ。素直なのはいいことだよ。とっても分かりやすくて、とっても賢い。素直であればあるほど、人とのコミュニケーションは円滑になる」

「じゃあ、俺には無理だな。あんまり素直になんかなったことはない」

「いいや、案外君も分かりやすいところはあるよ」

「…?例えば?」

「例えば?…そうだなぁ。君、お腹空いたときはお腹空いてそうな顔してるね」

「…本当に?」

「…やっぱりあんまり分からないや。…ただ、君のことが分からないんじゃなくて、言葉にする方法が分からないってことだからね。お腹が空いたとかそんなのじゃなくてもっと心と心が通じ合っているような…」

「そりゃあ、大変だ。心と心が通じ合ってたら俺の考えがタキオンに丸分かりだな」

 田上は、自分の恋愛感情を思い出しながらそう言った。

「いやいや、その心と心が通じ合うことと言葉に表すことは別だよ。…全く、昔の人もすごいよね。自分の気持ちを伝えようと頑張って言葉を作ったんだから」

「…案外ロマンチストなんだな」

「いや、ロマン…と言うより、思慮深いと言ってくれたほうが助かるね。私は、なにも星々が綺麗、という言葉だけで終わらせることはないよ。それがなぜ綺麗なのか?なぜそれを綺麗だと思ったのか?私は最近心理学に興味があってね。科学で言えば、星々がなぜ綺麗なのかは、科学的に分かる範囲で言うのかもしれないが、心理学だと人の心を中心に考えるから、心に残った映像はその人と密接な関わりをしていないか調べるんだ。…まぁ、ただ「綺麗だ」と言うことについてはあんまり心はくっついてはいないだろう。心から何年経っても離れなくて、それを思い出すとどうしようもない感情が湧いて出る。そういうものがあるかい?」

 タキオンは、最後にそう聞いてきた。もしかしたら、田上の母親の事を聞けるかとも思ったのだが、それはダメだったようだ。田上の心に不図思いあがったのは、中学の時の好きな女の子に告白した様子だったが、そのことはあまり話したくはなかった。だから、ただ首を横に振った。

「まぁ…、ぱっと言えるほど心ってのは甘くないものだよ。私だって、あんまり自分の状況について分かっていないし。…ね、トレーナー君。ずっとこのままでいてくれよ。私が寝たら君も眠るんだぞ。私が起きたら君も起きるんだ。あんまり遠くに行かないでおくれ」

 タキオンは不安そうに言った。田上は、そんなタキオンの様子を見ながら、静かに穏やかにこう言った。

「もう電気を消そうか?眠たくないか?」

「嫌だ。もう少し話していたい。君はすぐそうやって遠くに行こうとする。それが私をどんなに不安にさせるか分かっているのかい?」

 そこで襖がザッと開いた。そして、幸助がこの場には場違いな声の音量で言った。

「残念だったな。俺はもう寝るんだ。電気は消させてもらう」

 タキオンは、物凄く嫌そうな顔をした。

「冗談だよ。また、常夜灯でいいんだろ?」

 タキオンは黙って頷いた。

 そして、幸助は電気を消して、オレンジの薄ぼんやりとした明かりにすると、就寝の挨拶をした。それに二人とも、「おやすみ」と答えた。

 

 二人は暫く黙っていた。田上は、タキオンがぴたりと横に寄り添っているものの、仰向けになって寝ようとした。しかし、数分の沈黙の後、タキオンが田上の頬を突きながら言った。

「トレーナー君、起きてるかい?」

 どうやら沈黙には我慢ができなかったようだ。少し不安げにタキオンはそう呼びかけた。

「起きてるよ」

 顔は全く動かさずに田上はそう答えた。

「トレーナー君、こっちを向いておくれよ。顔を見せておくれよ」

「…もう見えてるだろ?横顔が」

「そんなんじゃ嫌なんだよ。正面から君の顔が見たい」

 タキオンがそう言うと、田上は仕方なくもぞもぞ動いて、タキオンの方を見た。しかし、まだ寝るつもりはあったようだ。目を瞑って寝ようとしていた。

「目を開けたまえ」

 タキオンが怒って言った。田上は、まだ仕方なさそうに微かに目を開けた。すると、タキオンが尚の事怒って言った。

「私たちが同じ布団に入っているのは、おしゃべりを楽しむためなんだよ。今日、早く布団に入ったのもおしゃべりを長く楽しむためだ。君はまだ寝ちゃいけないんだ。目を開けたまえ」

「……俺が同じ布団に入っているのは、匂いがあって不安だったからじゃないのか?」

「それもあるけど、君とたくさんおしゃべりしたいんだ」

 じれったそうにタキオンは言った。

「早く目を開けておくれ」

「…タキオンも寝ろよ。明日だってあるんだから、今日無理に俺を起こさして明日の俺を使えなくするよりも、今日英気を養って明日も同じくらい遊べばいいだろ?」

「んん…」

 反論できずに不満そうな声を上げた。しかし、タキオンはそれでも田上と会話をしたくて我を押し通した。

「だけど…、だけど、明日だって私は君を無理に連れ回すから。今日だって君が好きだったけど、明日だって君が好きだから」

 だが、眠い田上の耳にはあまり届いていないようだった。田上は、ただ諭すようにこう言った。

「あんまり人に好きとかいうなよ。勘違いする奴がどこかにいるかもしれん」

「そりゃ、好きと言えば勘違いする奴なんてざらにいるだろうけど、君は分かってくれるだろ?そんな察しの悪い奴じゃないだろ?」

「んん…」

 田上は、眠たそうな声をあげて返事をした。そして、それっきりタキオンに真面な返事は返さなかった。朝になって田上は、このことにドキドキしたが、タキオンの言葉にそれ以上の意味がないことを知っていた。――好きなんて言葉の使いよう幾らでもある。そう思うと、タキオンの隣で朝ご飯の焼いた食パンをぽりぽり食べた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。