その後も何度か、マテリアルが田上の頭を小突いて気を引こうとしたが、田上は絶対に自分の気を起こそうとはしなかった。マテリアルが、「強情すぎますね」と言う声もどこか遠くから聞こえるような気がしたが、田上には、それを声として脳で処理するのは少し曖昧にしかできなかった。
それから、昼の時間が来た。マテリアルが、タキオンに「お昼ご飯どうしますか?」と聞くのが、どこからか聞こえた。タキオンは、ずっと田上の手を握って、その顔を心配そうに見つめていたが、その時は、少しの間顔を上げて、マテリアルと会話をした。田上の目もタキオンの意識がそれたと思うと、少し動いたが、どうにも自分自身がこの状態から抜け出しては行けないような気がして、田上は、すぐに目を動かすのをやめた。
結局、タキオンはカフェテリアには行かず、田上の傍に居続けると言ったので、マテリアルが購買でおにぎりを人数分買ってくることにした。その際に、田上も「お昼ごはんがほしいですか?」と聞かれたが、田上の代わりにタキオンが「私が食べさせる」と言って、田上は食べさせられることになった。田上の心は、この時、嬉しさにざわつこうとし始めたが、それは、田上自身が必死になって押し留めた。今の田上は、嬉しさにピクリとも顔を動かすことを許されなかった。
マテリアルが、お昼ごはんのおにぎりを買って戻ってくると、タキオンは、田上の傍に椅子を持ってきて、左手で自分のおにぎりを食べながら、右手で田上に食わせようとさせていた。田上は、初めこれを食べようか食べまいか迷ったが、タキオンが無理に田上の口におにぎりを押し付けてくると、微かに口を開けた。一応食べようという意志はあったのだが、食べるという動作をするには、あまりにも気力が消え失せていて、それ以上大きく口を開く気にはなれなかった。そのおにぎりは海苔で全面を包まれていたので、しっかりと口に入れるには海苔をちゃんと噛み千切らなければならなかった。それでいて、田上は口を微かに開けたり閉めたりを繰り返しているだけなので、唇に海苔の硬い感触が伝われど、口の中に入ってくることはなかった。
その仕草はタキオンにもしっかりと見えていたので、タキオンは、はぁとため息を吐くと、自分のおにぎりを机に置いて、田上におにぎりを食べさせるために細かく千切ってやることにした。田上は、自分の微かに開いている口の隙間でも食べられるように細かく刻まれたおにぎりを、タキオンにされるがままにゆっくりと食べた。タキオンは、その田上の様子を悲しさと嬉しさの入り混じった複雑な顔で見つめながら、「前にもこんな事があったなぁ…」と呟いた。すると、田上にも同じ事が頭の中で思い起こされた。タキオンが言っているのは、きっと、バレンタインデーの時のことだろう。落ち込んだ田上の為に、自分の手を汚しながらチョコを食べさせていた。
――あの時から何も成長してないな…。
田上はあの時の事を思い出しながら、そう思った。そうすると、数段気分が落ち込むような気がしたが、タキオンが次のおにぎりのかけらを田上に食べさせようと待っているから、田上は食べるのはやめなかった。
田上のおにぎりが全部なくなる頃には、もうお昼休みも終わっていた。これには、タキオンも中々の根気を使ったらしく、最後の一欠けを田上の口に入れると、タキオンは、はーーと大きくため息を吐いた。
「やれやれ、やっと終わったよ」
そして、それから自分のおにぎりを食べる番だった。余程腹が減っていたのか、四分の三ほどはぺろりと平らげてしまったが、そこまで来ると、田上の顔をじっと見て言った。
「お腹は満腹になったかい?」
田上は、ここで多少気分は良くなっていた。タキオンと触れ合ったのもあっただろうし、満腹になって、いくらか脳の血の巡りが良くなったからかもしれない。それで、田上は、タキオンの気遣いを見せて、声を発して返事はしないまでも、分かるくらいに微かに頷いてやるということはした。タキオンは、それを見ると、嬉しそうに微笑みを浮かべて、残りのおにぎりをパクリと食べた。
タキオンが昼食を食べ終わると、田上もそろそろトイレに行きたくなったので、唐突にふらっと立ち上がると、元気のない足取りでドアの方に歩いていった。その時に、当然タキオンは「どこに行くんだい?」と少々驚きながら聞いた。田上もここで答えない程、元気がないわけでもないし、配慮がないわけでもないので、「トイレ」と一言言った。それにタキオンは「そうかい」と田上が返事をしてくれたことに多少満足をしながら返した。そして、田上がトイレに行くのをそのまま見送った。
ただ、田上がトイレから帰ってくると、そうも行かなかった。タキオンは、田上がまた椅子に座ってしまうと、先程の何もかもを拒絶する調子に戻ってしまうのではないかと考えたから、田上とちゃんと会話をするためには、ただで椅子に戻す訳にはいかない。タキオンは、田上がトイレから帰ってくるのを立ち上がって、今か今かと待ち構えていた。
そして、田上がトイレから帰ってくると、横を通り過ぎて椅子に座ろうとする田上に待ったを掛けた。
「ここは絶対に通さない。圭一君が私と正面切って話してくれると約束するまで絶対に通さない」
田上は、そう言っている自分より背の低く愛らしい生き物を、ただ内心で困りながら見つめていた。こうなると、田上には抵抗する術がないように思われた。試しに横を通って自分の椅子に戻ろうとしたが、正面から抱き締められて、それは押し止められた。
田上は、ただされるがままに抱き締められていたが、やはり、心には少しばかりの嬉しさが込み上げてきて、田上はそれを打ち消そうと暫く心の中で戦った。タキオンは、手を田上の背まで回すと、その服を掴んで絶対に逃さないようにしてから言った。
「…君の…君の彼女でありたい…。…だから、…逃げないで…」
田上の表情は、尚も険しくなって、悲哀の度を増した。そして、その数秒後にこう答えた。
「逃げるよ…」
「…君がそういう人間だってのは分かってる。…昨日は、怒鳴ってすまなかった。…まだ、…まだ、君の彼女でいたい…。…私を幸せにして…」
「……無理だ…」
「大丈夫だよ。…そうは言っても、私はもう幸せだよ…」
そう言いながら、抱き締めてくるタキオンに、返す言葉を田上は見失った。内心では頭を抱えた。タキオンを跳ね除けて、悪口雑言を叩きつけるとか、逃げたいとか、そういう欲が出てきたが、この心底信頼されているという感じを食らってしまうと、どうにも嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。それでいて、田上はタキオンから逃げたいのだからしょうがなかった。田上は、タキオンに抱き締められたまま立ちすくんだ。反対に、タキオンは田上が動かないでいると、安心を取り戻してきたようだった。次第に、田上の服を掴む力を弱め、もっと抱きしめた時に心地のいい体勢を取った。そして、時折、田上の首辺りに愛情表現の一つとして、頭を擦りつけた。
田上の心は嬉しさを増して行ったが、依然として、苦悩もまだ拭えているわけではなかった。タキオンもそれは分かっているので、暫く、田上の居る安心感を堪能すると言った。
「怒鳴ったりしてごめん。…気が立ってしまったのは本当だから、それについて許してくれと言うつもりはない。…ごめん。……君とこれからも一緒に居たい…。…別れたくない…」
これでも、田上は何も言うことはできなかった。タキオンも、これ以上口を開いてまで言うことが無くなってしまったようで、その後は、暫く田上を抱き締めたまま誰も何も口を開かなかった。
暫くすると、タキオンは、もぞもぞと体を動かして、田上の顔を見ると言った。
「その…君の態度と言うか、…私が言ってしまった手前あれなんだけど、成り行きとして別れることになってしまったじゃないか…。…それだから、…私はここで君を抱き締めてても構わないとは思っているけど、…君が…その…別れない?…勿論、君にも抑えがたい悩みがあるのは分かっているが、…私から言ってしまった以上、君の口から許しをもらわないと、…少し心が落ち着かないんだよ。…どうかな?何か言ってくれるかい?」
この時は、田上もタキオンの顔を悲しそうな顔をして見つめていた。そして、時折、目を逸らしながらもこう答えた。
「俺は、……疲れたよ…」
「分かるよ。…でも、君は前に――俺がお前から逃げようとしたら止めてくれ、みたいな事を言っていたから、私も君の事を好きである以上止めなければならない。 それ以前に、私は、君の事が好きだからなんとしてでも引き止めたい」
「……好きになる価値なんて無いよ…」
「価値があるから好きになってるんじゃない。君が大切だから…」
「俺に…大切にされる程の価値はない…」
「あるよ。私に大切に思われてる。それだけで、君は大切にされるべきだ」
「……俺は、……お前から……離れたい…」
「…それは、…ちょっと、…それを言われると私にもどうしようもない。…でも、……そんな事言わないでほしいなぁ…」
タキオンが、不安そうな顔で見つめてくると、田上は目を逸らした。
「圭一君は、…私を好きじゃないってことかい?」
「……いや……」
田上がその後を続けようとしないので、タキオンは少し首を傾げて、その続きを催促した。すると、田上はこう続けた。
「俺は、……もう愛想が付きたんだよ……。…お前のことじゃない。…俺が、…俺で居ることがもう辛い…」
「…私が、傍に居て支えてあげると言ったら?」
「そんな……こんな男は、…見捨ててくれていい…。…お前は、…もっと別の人と幸せになるべきだ…」
「君とがいい」
タキオンが、尚も不安そうにそう言った。田上は、その顔を見つめながら、心の中に愛おしさが湧いて、思わず撫でたくなった。しかし、今の悲しみの中では、腕すらも動かすことは敵わなかった。
「俺じゃあ、お前は幸せにはできない…」
「私が君を幸せにする」
「……駄目だ…」
「駄目じゃない。一緒に歩いてあげる。手を繋いであげる。どれだけ君が悲しくても、私は一緒に居てあげるから」
「……それは、…理解してる…。けど、…何回そう言われても、俺はお前の所から逃げ出そうとした…。…もう駄目なんだよ…」
「駄目じゃない。まだ、ほんの序の口だ。一緒に居てあげる。この感情は、損得で測れるものじゃない。君が好きだから、君と一緒に居るんだ」
「……報われないかもしれないよ…」
「それでも居よう。大切なんだよ、君の事が」
タキオンのその言葉を聞くと、田上は抱きつかれたまま大きくため息を吐いた。
「……疲れた…」
「いいよ、私を抱き締めても。癒やしになれると思うけど」
その時のタキオンは、田上を腋の下から抱き締めていたので、田上は、タキオンの肩を抱ける状況だった。それで、田上は少し迷った後に、タキオンの目を問うように見て、「いいよ」という返答があると、そっとその肩を抱いた。それをすると、少し胸のつかえも取れて、幾分楽な心地になったような気がした。そして、もう一度今度は先程よりも軽くため息を吐いた。
田上とタキオンは暫くそうしていた。タキオンが時折、からかうように「やっぱり、圭一君は私の事が好きだね?」と言ったが、抱くのをやめない代わりに何の返答もしなかった。そして、思いの丈をぶつけるように長い時間自分の腕の中にタキオンを包み込むと、田上は、やっぱり悲しそうな表情をしてタキオンを抱くのをやめた。ただ、その顔には、どことなく嬉しさも含まれているようであった。その顔を見つめながら、タキオンは「もっとしてもいいよ?」と言ったが、田上は首を横に振って、自分の腹の周りに回されているタキオンの手からも逃れようとした。それに一瞬、タキオンは躊躇いを見せたが、無理に抱き締めたままにはせず、田上のしたいようにさせた。それが、少し田上には驚きでもあった。てっきり抵抗でもされるものと思っていたから、その思い違いから、田上はタキオンの手から離れた後でも動かずにじっとタキオンの事を見つめていた。タキオンもまた、田上の事を見つめ返していた。だから、二人は、また暫く黙って見つめ合うままになっていた。タキオンは、本当の所は田上の体を抱き締めに行きたいところだったが、田上が次の行動をどうするか決めかねている所に飛び込んでいくほどの度胸はなかった。下手をすれば、また突っぱねられるだけだった。
ただ、それでも、タキオンは自分を抑えきれずに、田上の両手をそれぞれ自分の手で握った。決して、ハグのような大っぴらな物ではなかったが、それでも、十分に愛情表現の一部として、タキオンは田上の手を握っていた。すると、田上は、相変わらず悲しそうな顔、声で言った。
「俺なんか選んでも、幸せになれないぞ…」
「君が傍に居るだけで幸せだよ」
タキオンは、田上の目を見つめて微かに口角を上げながら、静かに答えた。
「でもなぁ、……傍に居れなくなるかもしれない…」
「居れるよ。君はどんな時でも、私が傍に居れるように考えてくれた」
「…自殺したら?」
「そんな事はしないって信じてる。君は優しいから、良くも悪くも私の事を大切に思ってくれてる。そして、圭一君は、君自身が自殺したら私が悲しむって事を知ってる。…大丈夫。辛くなったら私が傍に居るから」
タキオンにそう言われると、田上は、自分の心の中の葛藤に耐えるように目を細めた。そして、はぁ、とため息を吐くと、再び「疲れた…」と言った。それから、自分の椅子へ向かうように動き始めたので、タキオンも自分の立ち位置を変えると、田上の横に立って椅子までついていった。その後に、田上が自分の椅子に力無く座ると、タキオンは一瞬考えた後に、こう言った。
「君の膝の上に座ってもいいかい?」
これに、田上も一瞬考えた後に、「いいよ」と返した。そして、二人はこれまたぎこちなく、互いに向き合って座った。今度は少しタキオンの顔の位置が高くなったので、田上はタキオンの顔を若干見上げることになった。タキオンは、田上の顔をこうして見ていると、キスをしたい衝動に駆られた。それで、一度「いい?」と出し抜けに聞いた。全く唐突な言葉ではあったが、田上には完璧にその言葉の意味が理解できた。そして、当然、するかしないかについては迷いを抱いたが、結局、首を横に振って「駄目」と答えた。その答えに、タキオンはちょっぴり悲しい気持ちになったが、無理にキスをするということはしなかった。その代わりに、タキオンはこう言った。
「君とキスをしたい」
これは、二人の間で取り交わされていた無言の会話を、タキオンが改めて口にしただけだったが、二回もこう聞かれると田上の心にものしかかる物があって、苦しさに密かに身悶えた。しかし、今の田上に、タキオンとキスをするほどの勇気はなく、ただ、改めて無言で首を横に振った。
その動作の意味をタキオンは確かに受け取ったかのように見えた。返事はしなかったが、その表情が確かに田上の動作の意味を理解していた。だが、タキオンは、少し顔を近づけると、キスをしそうな表情をして「いいかい?」と再び聞いてきた。田上は、その表情を見ると、堪らなく胸がドキドキし始めた。顔もより近づいたのもあって、田上の心臓は、答える事を忘れさせるほどにドキドキした。タキオンは、もう一度「いいかい」と聞いたが、田上は、タキオンの瞳に見惚れていてそれどころではなかった。だから、タキオンはその無言をイエスだと解釈すると、そっと唇を重ねた。途端に、田上の意識は戻って、駄目と答えなかった後悔と、タキオンとキスをしている嬉しさとに心を挟まれた。田上は、目を瞑って悲しそうな顔をしながらも、タキオンがキスをしてくるのを受け入れた。
三十秒ほどした後に、タキオンは唇を離して田上を見た。田上もまた、タキオンの瞳を見つめた。しかし、田上はタキオンから目を逸らすと言った。
「…駄目だよ…」
「駄目じゃない。君だって嬉しかっただろ?」
「…駄目…。もっとマシな人を好きになれ…」
「君とキスをした後じゃそうも行かないね。 私は、君の虜だもの」
「……好きになるべきじゃなかった…」
「私が君を、かい?それとも、君が私を、かい?」
「…両方…。お前は女子高生なんだ…」
「また、その話しかい?…両親も賛成しているんだ。なにも後ろめたいことはないよ」
「まだ、賛成はされてない」
「でも、あそこまで分かりやすく――報告がある、と言っておいて、――その報告を楽しみにしてる、と返されたら、それは賛成されたも同然だろう?」
すると、田上はタキオンから目を逸らしたまま何も答えようとはしなかったので、タキオンは話題を変えた。
「君、ゴールデンウィークはどうする?…私は行きたいけど」
「……ゴールデンウィーク…」
「そう、ゴールデンウィーク。婚約の報告は、行くつもり…だろ?」
田上は、長い事これに付いて考えたが、最終的にこう言った。
「お前、…やめとけよ…、こんな男…」
「そりゃ、簡単にやめるわけには行かない。なんて言ったって、私の惚れた人だもの。簡単にどこかに放り投げる訳にはいかないよ」
「…はぁ…、…お前を幸せにはできない…」
「もう幸せだよ。こうして傍に居ることを許してくれてる」
「……傍に居ることだけが幸せじゃない…」
「いいや、私にとってはそれが一番の幸せだね」
「苦労しかない…」
「いや、幸せもある。圭一君とこうして話せていることこそが幸せだ」
「…駄目なんだよ…。…幸せになれない…」
「私はもう十分に幸せだ。君がどういう幸せの形を描いているのかは知らないが、幸せはそんな簡単に形として描けるものじゃない。今自分の状況に当てはまった幸せこそが、今、一番尊い幸せなんだよ。だから、私は君が好きで、幸せだ」
タキオンのこの熱弁を聞くと、田上も反論できずに黙りこくった。タキオンは、そんな田上を元気づけるように、首筋の辺りをそっと手で擦ってやった。そして、また唐突にこう言った。
「もっと私を抱き締めても良いんだよ?」
この言葉の意図が田上には伝わらなかったので、彼は、顔を上げてタキオンの顔を問うように見つめた。すると、タキオンが言った。
「もっと、私に心を開いてほしいんだよ。初めは、抱き締めてくれるだけでも良いから、私が、君の好きな人だって事をもっと自覚してほしい。もっと触れ合うことによって、伝わることもあるんじゃないかな?」
「お前…なぁ…」
そして、田上は言葉を切ったまま残りを続けようとしなかったので、タキオンが「なんだい?」と聞き返した。すると、田上は続きを言った。
「……お前、…本当に…どうしようもないやつなんだぞ…」
「どうしようもなくはないさ。十分に、私の彼氏として大好きな圭一君だよ」
「……でもなぁ…」
「なんだい?」
「……お前の事は幸せにできない…」
「私の幸せを願ってくれるのは嬉しいがね、私だって、自分の幸せをまるっきり君にお世話して貰う必要はない。…私は、君の幸せも願っているんだ。君の幸せはなんだい?君の好きな人は?」
「そりゃあな…、本音を言えばそうなるよ…」
「本音くらい彼女にぽんと言いたまえ。私は、そこらの柔な女じゃない。君の本音くらいなら十分に受け止めることができる」
「どうだろうな…」
そう言った田上の顔が、あんまりタキオンの事を信用していなさそうだったので、タキオンは、田上のほっぺをつんつんとつつきながら言った。
「言っておくけどね。君が、怒った時に出てくる言葉とかは本音には当てはまらないと、私は思うよ。それは、君が本音を溜め込んでしまった後に出てくる怒りだろ?そんな理不尽な怒りを叩きつけられれば、私も多少は傷つくさ」
「…なら、尚更、…駄目だよ…」
「そりゃあね、私だって君の心は分かってる。君の中にある『歴史』は、まだ全てを知らないが、君がどういう状態にあるのかは十分に分かってる。そして、君は平常な時に――引き止めてくれ、とちゃんと言った。君自身も私から離れたくないと言っている。その事は理解している。 だから、君の本音とは、言わば君の中の『歴史』なんだよ。『人生』なんだよ。過去の遺恨があるだろ?君が、昔好きだった人に告白したら彼氏持ちで、自分の無知を呪ったことは言ってくれた。だけど、君の人生はそれだけでは構成されていない。最近では私が彼女になったし、その前にはトレーナーの勉強をしていた。その前は高校だった。その前は中学だった。君のお母さんが、亡くなってしまったことも私に言ってくれた。壮絶な過去だよ。私は、実の母を看取ったことなんて無い。それだけで、君はどんなにその背に歴史を負ってきたのかが分かる。でも、君の歴史というのはそれだけじゃない。…本音の中に秘められた歴史を、君が一番信頼しているであろう私に本音として打ち明けてほしい。…今できるのかどうかは分からないけどね」
「できないかも…」
田上は、タキオンの言葉に多少の元気のようなもの、もしくは、頭がスッキリとするようなものを感じて、表情を微かに柔らかくさせた。タキオンは、それをしっかりと感じ取って、自分も微笑みを浮かべると言った。
「別に、無理して話す必要はないけどね。…君の好きなこととか、記憶に残っているもの、考えていることをその都度私に伝えてくれたら嬉しい。もし君が、私を幸せにしたいのなら、そういう事を伝えてくれたら、私はより幸せになれるよ」
「できないかもな…」
「じゃあ、一つ例を上げてみよう。私の説明が足りなかったかもしれない。君、読書は好きだろ?それに…、星も好きだね?…あとは、…音楽だね。『大きな蛇』が好きだろ?それらに関する感想とか思ったこと、ちょっとした苛立ちとかでもいいよ。それを、私に伝えてくれたら嬉しいね」
「…別に、言ってないってこともないんじゃないか…?」
「いや、別に、圭一君が好きなものはこれだけでもないだろ?例えば、…ほら、私だ。私の事が好きじゃないか。昨日は、あんなに怒鳴ってしまったけど、まだ好きでいてくれるだろ?」
ここで、田上は一瞬躊躇いを見せて、タキオンから目を逸らしたが、またすぐにタキオンの瞳に目を戻すと小さな声で「ごめん」と言った。
「俺の方も悪かったよ…」
「なら、それでいい。これ以上は謝らなくてもいいからね?私はそんなに気にしてない。君が平常通り私の恋人であって、私が時折落ち込んでしまった時などに、私をしっかり見つめてくれれば良いんだ」
「なら…、タキオンも本音が必要なのか…?」
「まぁ、そうかもしれないね」
タキオンは少しばかりの苦笑と共に、その言葉を言った。そして、愛おしそうに田上の顔を見ると、こう言った。
「キスしてもいいかい?」
これに田上が、正面切って「してほしい」と答えるには、少々恥ずかしい質問過ぎた。けれども、先程タキオンに「思っている事を伝えてほしい」と言われたばかりだったので、それを思い出すと「恥ずかしい」と困ったように微笑みながら言った。ただ、それだけでは言葉足らずだったので、タキオンは少し理解のできていない顔をすると、「キスをするのが?」と聞き返した。当然、自分の意図した言葉として伝わっていなかったので、田上は反論したかったが、それに反論する為の言葉を持ち合わせていなかった。どうにも、自分からタキオンの事を求めていると思われると、例え既に自分の心が暴かれていたとしても、それを言うのに照れが残った。それでも、当分は田上もタキオンと心労に及ぶいざこざを引き起こしたくなかったので、勘違いを解くために田上は何かを言わなければならなかった。
そして、結局、自分の照れを押し切って、田上は困り顔で言った。
「違う。…言うのが」
「…?ああ、そういうことか。じゃあ、良いってことだね?」
田上は、尚も困った表情をしながら何も言わなかった。タキオンも事前の言葉があったので、田上から無理に了解を取らなくてもいいだろうという結論に達した。それで、田上が返事をせずとも、タキオンは顔を近づけて唇と唇を重ね合わせた。今度は、田上も悲しそうな顔をしてキスはしなかったが、その悲しそうな顔はキスが終わった時にやってきた。
「お前…、もっと他の人が居るのに…」
「居ないよ。私が君以外に男友達がいないのは知っているだろ?例え、男友達が居たとしても、私は君が好きだ。一番の彼氏だ」
「……それは、……あんまり、俺には似合わない言葉なんだよなぁ…」
「一番の彼氏が?最高じゃないか。君にぴったりだと思うよ」
「ぴったりというか…さ。…こんなに迷惑かけてるのに…」
「迷惑を掛け合ってこその彼氏であって彼女じゃないか。迷惑をかけない代わりに冷淡な彼氏と付き合うより、迷惑をかけてくれる君と付き合いたい」
「でも、…でもなぁ…。…そんなに信頼されると困る…」
この答えが田上から返ってくると、途端にタキオンは大笑いをし始めたし、会話を傍で聞いていたマテリアルもくすくす笑った。
「迷惑をかけてくれる君と付き合いたいと言っているのに、それが君には信頼の証のように聞こえたのかい?」
「いや、…いや、違う。…あの、…一番の彼氏とか最高とか…」
「でも、迷惑をかけているということ自体は否定はしていないよ?それは、信頼の証になるのかい?」
「…それも、信頼してくれていることに代わりはない。…迷惑をかけれるほど強い男じゃない」
「でも、迷惑をかけるのは嫌なんだね?」
タキオンは、田上の言葉の矛盾に多少ニヤニヤしながら聞き返した。
「…ああ…、だから、迷惑をかけれるほど強い男じゃないと言うより、迷惑をかけて我慢できるほど強い男じゃないってことだ」
「ああ、そういうことだね。…別に、さっきも言ったように、君は冷淡ではなかったからねぇ」
「…でも、…答えようとはしなかっただろ?」
「あれは冷淡と言うよりも、…一種の凄く不器用な助けの求め方だよね。君を知ってる私だから分かるような助けの求め方。まぁ、冷淡というのはね、君が思うよりもずっと冷淡って事だ。平常からスマートフォンに夢中で、彼女に構ってやらない男もいる。それで言えば、君は平常の方はずっと立派に彼女の相手をしてやっている、一番の彼氏だ」
これまた、タキオンが田上の事を熱心に褒めてくれたし、中々に正論的なような気がして、田上も反論できそうになかった。だから、少しタキオンから目を逸らすと、タキオンが田上の頬をつつきながら言った。
「圭一君は、人間をもっと高尚な物か何かと勘違いしているようだが、周りを見てみれば、結構適当な人が多いと思うよ?」
「……いや、……俺は、…ただ、タキオンがもっといい人と幸せになった方が、より幸せになれると思うんだよ…」
「君では私を幸せにできないと?」
「ああ…」
「…なら、私を幸せにできそうな人の特徴を少し上げてみてくれよ」
「…イケメン」
タキオンは、それを鼻で笑いこそしたが、言葉では否定せずに「それで?」と続きを促した。
「……思いやりがある…」
「君のことだね」
「精神が不安定じゃない…」
「不安定、ねぇ…?結局、圭一君は、こうして私と話してくれるわけだから、私としては、結果良ければ全て良しという精神だし、なんなら、不安定になったとしても、圭一君が私の事を思ってくれているのは十分に伝わる」
そう言った後に、タキオンは「それで?」と再び続きを催促した。
「…危うくない…」
「危うい?…具体的に」
「……お前を船から振り落とそうとする」
大分抽象的な表現のように感じられたが、それでもタキオンには伝わったようだ。「ああ」と納得の声を上げた。
「船から振り落とそうとする…。多分、私の予想だと、これが君の気になるポイントなんだろうなぁ…。…ただ、そこらへんの男じゃ、そもそも船に入れてくれないし、なんなら、入れてくれたとしても、その船が小舟でちょっとの波で転覆してしまう可能性もある。 その点、君は、勝手に左右に揺れこそするが、どちらかと言うと私を振り落とそうと言うよりも、傷ついた船体が悶えているという感じなんだと思う。……私を本気で振り落とそう…でも、別に、その時は本気だからな…。でも、私が船から転げ落ちてしまったとしても、君ならすぐに助けの浮き輪を投げてくれるんじゃないかと思うけどね」
「…もしかしたら、…自分がやってしまったことをなかったことにしようとするかもしれない…」
「…どうかなぁ?…一つの線としてあり得るかもしれないけどねぇ…。…ここに、私が反論しようがないのが、君の気になるポイントなのかもしれないね…」
タキオンがそう言っている顔を、田上は悲しそうに見つめていて、タキオンが考えから目を戻して田上を見つめると、田上は目を逸らした。そして、タキオンがその顔を見つめて、またこちらも悲しそうな微笑を浮かべると言った。
「君の優しさ…、そして、怖さ…。圭一君が圭一君自身に対して抱いている怖さが、その優しさを凌駕する日がやってくるかもしれない。その事に対して、君は怯えを抱いているわけだ…」
タキオンは、ここで言葉を切って、田上を見つめたが、田上は何も言わなかったので、話を続けた。
「圭一君は、圭一君自身が突然暴走を始めてしまうのではないかということに怯えているわけだ。…そして、それに似たような真似を何回かやったことがある。…それによって君は、より確信を深めていくわけだ。――俺は、突然彼女を振ってしまうような精神が不安定なやつだ…、と。だから、それをしないために私を遠ざける。…つまり、君は、自分自身に対して、愚かなやつだと確信を深めていくのが嫌なわけだね。それでいて、もうすでに愚かなやつだと自分を責めている。それでも、これ以上愚かなやつにはなりたくない。もしかしたら、特に、アグネスタキオンという彼女の前では愚かでいたくない、という願望もあるかもしれない。……実に大変だね。負の連鎖だ。自分を責めることに対して余念がないね。…どう、…その自分を責める姿勢を改善させたらいいんだろうね?」
タキオンはそう聞いたが、当然田上は何も答えずに、目を伏せていた。
「…でもね、やっぱり、君は私の事が好きだってことをもっと自覚した方がいい。自分を責めることばかりに夢中になって、自分の事を見失ってしまっているから、もっともっと私に甘えたまえ。いつでも、私は受け入れられる。私だって君に受け入れてもらうだけが取り柄じゃないし、君を受け入れるのも好きだ。ちゃんとつらくなったら私の事を抱き締めたまえ。 これは、命令とかではないが、半分命令みたいなものだ。ちゃんと私に甘えろ。それができないんだったら、君は何もかも捨てることになる。 手始めに、ちゃんと私の事を抱きしめて。私に君の思いの丈をぶつけるように、力強く抱き締めたまえ」
タキオンが田上にそう求めると、田上も困ったような顔をして言った。
「甘えるって言ってもねぇ…」
「簡単だよ。さっきもしたじゃないか。私はいつでも君を受け入れるんだから、君も私にいつでも受け入れられているということを自覚したまえ」
タキオンがそう言っても、田上はまだ躊躇いを残したまま、迷い困ったようにタキオンを見つめた。それだから、タキオンも田上の躊躇いをできるだけ消してあげるように、その体をもう少し密着させた。椅子がギギギと軋んで、田上は、密着してくるタキオンから半ば離れるようにしてその体を抱いたが、残念ながら背もたれのお陰で田上がタキオンから離れきることはできなかった。ただ、その御蔭でタキオンを抱くことはできた。密着してきてタキオンから甘えてきている以上は、仕方がないからその肩をそっと触るくらいに抱いた。すると、田上の首元に顔を埋めていたタキオンが顔を上げて、田上の瞳を見つめると言った。
「もっと強く抱きたまえ。圭一君が甘えてくれないと困る」
「…甘えろって言われてもなぁ…」
「じゃあ、違う。 抱け。渾身の力をもって、私に対しての感情をぶちまけろ。恥ずかしがることはない。私も、現にこうして圭一君に甘えているから」
「いや…、難しいんだよ…」
「難しいと考えるから難しいんだ。さっきは難なくやっていたじゃないか。 私の事は嫌いかい?」
「…嫌いじゃないけど…」
「好きなんだったら、その心の通りに私を抱き締めてほしい。…それとも、君にはもっと別の甘え方があったりするのかな?もっと、君好みの甘え方があるかい?」
タキオンがそう聞くと、田上はタキオンの目を見つめて「ないかも…」と呟くように言った。
「なら、ちゃんと私を抱き締めてほしい。大切だと思うのだったら、もっとその心を尊重して、私を大切に扱ってほしい。…私達が付き合う上で、重要なのは、君の心と私の心だ。心を通じ合わせなくちゃいけないって前に言っただろ?それは、他方が心を開いていたとしても駄目だ。両方開いて通じ合わせなくちゃ。そして、その通じ合わせる事の中に君が私に忠実…という表現であっているのか分からないけど、私に忠実に好きという心を表現しなくちゃならない。君が私の事を好きだというのなら、それに忠実でいたほうが良いんじゃないかな?」
それでも、まだ田上が困ったような顔で居ると、タキオンは続けた。
「そこで、私は今提案しているわけだ。君の、私への好きという心を表現するために、一番躊躇わないでできる行動は、抱きしめるということだと。それ以外の表現方法が君の中に存在するなら、君から言ってくれないと叶わない。無いのであれば、もっと、私に君の思いの丈をぶつけてほしいね。初めは抱きしめるだけでいい。ただ、抱きしめたい時に抱きしめてくれれば良い。私は、君をいつでも受け入れる。キスをしたいのならしてもいいが、それは、まぁ、君次第だろう。君の癒しになるのであれば、それでいいよ」
すると、田上は暫く迷うように空中に視線を泳がせたあと、タキオンを一瞬チラと見て、また別の方向に視線をやりながら言った。
「俺は、…俺はな…、…なんて言えば良いかな…」
それきり暫く田上は考え込んだが、タキオンはその顔をずっと見つめていた。しかし、一向に田上が話し出す気配がないので、タキオンも田上を見つめ続けることに飽きて、もっと田上の体に密着することに専念をした。頬と頬を擦り合わせると、どことない高揚を感じて、タキオンは嬉しそうに微笑みを浮かべた。すると、これまで何もなかった田上が唐突にタキオンの背の方に手を回して、抱き締め始めた。先程のような甘えてくるタキオンを抱きとめるような感じではなく、純粋にタキオンに甘えてみようというどこかぎこちなさを伴った抱き締め方だった。そのぎこちなさも時が経つにつれ、薄れていった。段々とタキオンを抱きしめる力が強くなり、愛情の熱も入り始めてきた。そして、恐る恐るではあったが、こうも言った。
「好き…」
タキオンは、それに「私も」とだけ答えて、あとは心地の良い沈黙が訪れた。ただ、マテリアルがここでこの沈黙を心地が良いと思っているかどうかは別だった。もうそろそろこの恋人たちのいちゃいちゃにも飽きてきた頃だった。しかし、中々どうして、まだまだ続きそうな気配がするので、マテリアルは少しでも窮屈でない場所に抜け出したかった。ここに居ては、恋人たちの空気に押し潰されて、息が詰まるばかりだった。別に、今は、イチャイチャしていることに対して怒ろうという気はないのだが、この二人がいちゃいちゃしている以上、自分は息を潜めてこの二人の邪魔をしてはいけないような気がした。そのため、ここも少々居心地が悪くなっている所だった。
それでも、そう簡単にこの雰囲気を崩すわけにも行かなかったので、マテリアルは、スマホを見つめながら――早く終わらないかなぁ、と思っていた。