田上は、タキオンの事をうんと強く抱き締めながら、時折、自分の心を吐露した。「行かないで…」とか「ずっと傍に居て」と小声で呟くように言う度に、タキオンは、田上を安心させるように「大丈夫だよ」「ずっと傍に居るよ」と言った。
それから暫くもたまに同じ事を繰り返しながら、タキオンと田上は抱き締め合った。時折、タキオンの方からも何か一言言うこともあった。その時は、田上も「大丈夫、傍に居る」と返した。
この恋人たちの空間に一人できるだけ存在を隠して居たのがマテリアルで、もうそろそろ我慢の限界に達しようとしていた。田上に怒るつもりは無いので、このままこっそり部屋から抜け出そうと考えていたのだが、如何せん、絶対に身動き一つで田上が反応せずともタキオンの聞こえの良いウマ耳が反応するのは分かっていた。しかし、もうマテリアルもこれ以上息が詰まるのは嫌だった。
そんな時になって、幸せそうなため息を吐くと、田上はタキオンを抱くのをやめた。タキオンは抱き締めたりなかったようで、まだ抱いていたが、田上が「マテリアルさんが居るだろ?」と囁きかけると、タキオンも惜しそうに少し離れて、マテリアルを見た。マテリアルの方も丁度タキオンたちの方を見ていたので、タキオンと目が合った。
タキオンは、目を合わせると、微笑んで言った。
「何か得られるものはあったかい?」
「…どうでしょう?…あんまり…まぁ、仲が良いかなってところですかね?」
「仲が良いのは良いことだよ。君もそういう人と付き合えばいいよ」
タキオンにそう助言されると、マテリアルは、微かに困ったように笑った。タキオンも人の気を読んでいない変な助言を与えてしまったと勘付いたようで、それ以降は何も言わずにまた、田上の方に目を戻した。
田上は、その後にタキオンを下ろして立ち上がると、マテリアルに向かって「すみませんでした」と頭を下げた。マテリアルは、一瞬、どう返答しようと迷いを抱いて、目を宙空に泳がせた。それから、田上を見ると、少し頭を下げて「どうも」と返した。
田上もこの後に何か言おうと思ったのだが、何の言葉も出てこなかったので、暫く、マテリアルと田上が見つめ合ったままの妙な時間が過ぎた。その後に、田上がまたもう一度頭を下げて、タキオンの方を見ると、タキオンが言った。
「ベンチの方で、もう暫く一緒に居ないかい?」
「…いや、午前にやらなかったことを取り返さないといけない。…今日はトレーニングするのか?」
田上は、少々心配そうな面持ちでそう聞いてきた。タキオンも、今日はそういう田上を安心させてあげたい気持ちがあったが、どうにも、朝から息を詰めていたような感覚だったので、こうして田上と仲直りできるまでに大きな疲れを感じた。その為に、返答を渋ると、田上が「したくないのか?」と優しく聞いてきた。タキオンは、ここで本音を言うべきか否か迷ったが、本音を言わないのもおかしいだろうと思うと、田上の目を困ったように見つめながら言った。
「今日は、疲れたよ」
「じゃあ、今日は無しにするか?」
「…いや、そんなにサボるわけにもいかない…。トレーニングするから、ちゃんと見ててね?」
「分かった…」
田上がそう返事をすると、タキオンは、暫く田上の顔を見つめた後にゆっくりとハグをした。田上もタキオンを抱きとめた。そして、タキオンが「ちゃんと見ててね」と呟くようにいうのが聞こえると、その頭を謝罪と優しさを込めてよしよしと撫でた。
その後は、田上も仕事に取り掛かり、パソコンのキーボードをカタカタ言わせたり、マテリアルと言葉をかわしたりもした。マテリアルもマテリアルで、自分のスマホを見つめながら、田上に何かを言っているらしかった。タキオンがぼんやりとその話を聞いた感じでは、レースを走るライバルについての情報などを集めているらしかった。
宝塚記念ももうそろそろ出走者が固まってくる時期で、時折、怪我や新しく出走する人などで入れ替わりや抜けがあるものの、あんまり変わることはなかった。トレセン学園は、多彩な生徒がいるとは言えど、GⅠウマ娘を多数排出している強豪校でもあった。そのため、タキオンのダンスレッスンなどにもGⅠだけでなくGⅡやGⅢを優勝している人を見る。皆意気揚々と勝つ気ではいるみたいだったが、結局、この中で優勝できるのはただ一人だ。その中で、タキオンは何度も勝ってきたので、勝手に敬遠されたり、畏怖されたり、ライバル視をされていた。特に、タキオンがそのことについて構うことはなかったが、田上がライバルの情報を集めていてくれているのは非常に助かった。殊に、自分の足の脆さを克服する研究をしていた頃は、大いに助かった。タキオンも手が回らない状況であったので、そういう事は田上に任せっきりだった。そういう考えがあって、不意にタキオンの胸に感謝の念が湧き上がって、田上の頬をちょんとつついた。田上は、一生懸命パソコンを見ていた最中だったが、別に邪魔されたことに対して怒りも見せずに、――なに?と言うようにタキオンの顔を見つめた。タキオンは、田上の横で机の端にだらしなく頭を乗っけながら「ありがとう」と小さく言った。田上は、少し複雑そうな顔をした後に、「どういたしまして」と返した。それから、仕事に向き直ろうとして、やっぱりやめると、タキオンの頭を少し強く撫でた。田上にとっては、これが愛情表現の一種で、それはタキオンにもちゃんと伝わった。嬉しそうに、ふふふと笑って顔を伏せると、その後は暫く田上の横で眠りながら休憩した。
田上は、初めの方にタキオンに断りを入れると、リリックのダンスレッスンのためにタキオンのトレーニングから外れた。タキオンは、結局、トレーニングをするということにはなったが、田上が外れるとなると少し不満そうでもあった。しかし、最後には、マテリアルの指導の下で着々とトレーニングを進めた。
リリックの方はそれほど長くは掛からなかった。講師の先生が、優しそうなおばさまだったので、リリックが先日サボってしまったことを謝ると、「いいのよ~」と言って受け入れてくれた。そして、暫く田上も遠くからそれを眺めていたが、特に、厳しさもなく分からない子には分からない子なりに優しく教えてあげていたので、田上は安心してタキオンのトレーニングの方に戻っていった。
タキオンのトレーニングの方に戻っていくと、タキオンは目聡く田上を見つけて、トレーニング中だというのに嬉しそうに手を振ってきた。田上も苦笑しながらも嬉しそうに手を振り返すと、マテリアルの横に立った。
タキオンのトレーニングの態度は、まだ様子を見ないといけないと言えど、頗る順調なもののようであった。田上が来た一瞬によって集中が途切れたものの、すぐに集中を取り戻して、黙々とトレーニングに励んでいた。田上もこれが良い兆候である、物事が好転する先触れのようなものだと信じて、その恋人であり、アスリートでもある自分の好きな人の走る姿を見つめていた。
タキオンのトレーニングは日が落ちるまで続いた。その間に、リリックがダンスレッスンを終えて戻ってきた。タキオンよりもダンスレッスンは早く終わったが、田上により、「終わったあとには、一応連絡をくれるか言いに来るかするように」と伝えられていた。だから、リリックは、憧れの先輩であるタキオンの姿を一目見るために、田上に直接、「終わりました」と言いに来た。田上は「お疲れ様」と言うと、その後に「どうする?トレーニングはやってるけど、ちょっと走ってきてもいいよ?」と聞いた。それに、リリックは、はははと愛想笑いをして「疲れたので…」と断った。田上は、そう言ったリリックの様子を少しの間眺めていたが、その疲れは、どちらかと言うとリリックには心地のいい刺激になったのじゃないかと思った。特に、リリックの顔に疲れ以上の影の色は見えなかった。だから、田上は、これも好転の兆しと考えて、――どうかこの先も上手く行きますように、と願った。ただ、そうそう上手くも行かないのが現実ではあった。一先ずは落ち着いたが、その先がどう転ぶかは分からない。田上の人生には、まだまだ上り坂があり下り坂があった。
タキオンのトレーニングは、リリックのダンスレッスンが終わってからも暫く続いたので、リリックは途中で見るのに飽きて、先に帰ってしまった。その際に、――GⅠを取るためにはこのくらいトレーニングをしないといけないのかな?と思うと、多少不安にもなった。リリックは、GⅠをとりたいと少しは思っているものの、自分の足の速さが到底重賞を勝ち抜けられるようなものじゃないとも分かっていたので、部活の遊び感覚で走るのはしたかった。ただ、ここで何を勘違いしてか、田上がタキオンと同じように自分に指導をしてきたらと思うと、少し怖かった。今の所、そういう気配はなさそうだったが、帰る際には、本格的に入るチームを間違えたかもしれないと思い、ため息を吐いた。マテリアルは、リリックのそういう調子をなんとなく勘付いているようだったが、田上は生憎、タキオンの方がまだまだリリックより、良くも悪くも夢中になれる存在だった。その事を、心の中で感じながら、マテリアルは――どうしたもんか…と心中でため息を吐いた。
そうして、タキオンのトレーニングは終わっていった。タキオンは、これまでも休憩が入る度に嬉しそうに田上の下に寄って来はしたものの、トレーニングの集中の切れ間だったので、その集中を絶やさないように少し張り詰めていたりもした。そして、終わった途端に満面の笑みで手足を嬉しそうにバタつかせながら田上に飛びついてきた。まるで、大型犬のような仕草で、田上の対応も大型犬を迎える仕草のそれだった。その二人を苦笑しながらマテリアルは見つめて言った。
「どうするんです?まだ、少し時間はありますけど」
「…どうする?」と田上がタキオンに向かって聞くと、タキオンは当然「一緒に居るだろ?」と答えた。田上は、それに微かに口角を上げながら見つめ返すと、次に、マテリアルの方を見て、「一緒に居ます」と答えた。その姿が、若干朝の面影を帯びていたので、マテリアルは少し眉を寄せて言った。
「……本当に居るんですね?」
「はい…」と田上は静かに答えた。その二人のやり取りを聞いて、田上と会えた嬉しさを発散させていたタキオンも、田上の顔をじっと見つめた。タキオンにも、やはり、田上が朝の面影を帯びているように見えたので、こう言った。
「圭一君、辛いとかどうしようもない苦しさを感じたら、私を抱きしめてって言っただろ?私は、君の好きな人なんだから、いつでも頼ってもらわなくちゃ困る」
「…俺は別に……。まぁ、……ああ…」
田上が口ごもる様子を見ると、タキオンはすぐにマテリアルの方に向かって言った。
「君は、もう帰るんだろ?」
「え? ええ、帰ります」
「じゃあ、私は少し圭一君と二人きりにさせてもらいたい。いいかな?」
「ああ、勿論です。じゃあ、さようなら。田上トレーナーもまた明日」
「また明日」と田上が静かに返事をしながら、二人はマテリアルを見送った。
そして、マテリアルが完全に夜暗に消えると、二人は、まだトレーニングをしている人たちから遠く離れた土手に座った。それから、タキオンが言った。
「まだ、後ろめたさがあるんだったら、私でそれを解消してもらわないと困る」
「いや…、別に…、まぁ…、そんなこともないんだけど…」
「圭一君、問答無用だ。私を抱き締めて。昼の時みたいに、しっかりと抱きしめたまえ。君が私を好きだということから目を離してもらわれると困るんだ。君の好きな人は誰だい?」
タキオンが、有無を言わさない口調でそう聞くと、田上は、複雑そうに目を上げて、「タキオンだよ」と答えた。
「なら、その事から目を離すな。私の事が大切なんだったら、ちゃんと私の事を大切にしろ」
「分かった」
田上はそう言って、タキオンの方に体を寄せるとそっと肩を抱いた。それでは、もう少しばかり田上の感情の表し方が足りないと考えたタキオンは、田上の横に座るのじゃなく、田上の膝の上に座ろうと、すっくと立ち上がった。そして、膝の上に座ろうとしたのだが、これが中々土手の上だと難しさがあった。それで二人は、結局、土手に寝転がって体を向き合わせると、そこで抱き締め合った。ただ、これはタキオンの理想したような姿じゃなかった。もっと、田上が自分に甘えてくれるような姿になってほしかったのに、これでは、田上の胸に抱かれて、自分が甘えているような姿になっていた。それで、タキオンももう一度この体勢に一捻り加えようと、田上に提案したのだが、田上もさすがに苦笑して「もういいよ」と答えた。だが、そこで、タキオンが、自分の腕を田上の枕にして、自分の胸に田上を抱くという名案を思いついたので、タキオンは無理にも立ち上がると、田上を自分の胸に抱くという体勢を取った。田上は、これを結構嫌がった。この体勢が、完全にタキオンの胸、即ち女性の胸に顔を埋めるような形になるので、公衆の面前でそんなはしたない真似はしたくないと主張した。ただ、タキオンに「君はもう、何度も公衆の面前でキスという、若気の至りによるはしたない真似をやっただろ?」と諭されると、ぐうの音も出なかった。
そういう訳で強引にタキオンに押し切られると、田上もまぁ、恋人の胸に顔を埋めるのも恥を我慢しさえすれば、悪くはないと思った。ただ、最初の内、ぎゅうとタキオンに抱き締められていると、さすがに、田上も緊張や何かで息苦しさはあった。
ただ、それは初めの内だけで、後になってくると、タキオンに「圭一君から抱き締めて」と言われた。そういう時になると、田上は、自分の位置を調整して、あんまりタキオンの胸に顔が埋まらない場所に来た。そして、タキオンと目線の高さが合うと、見つめ合いながらその体に腕を回した。タキオンは、自分の位置も調整するために、もう少し田上に密着しようとニコニコしながら、田上に寄ってきた。田上はそれを受け入れると、これまた複雑そうな顔をしながら言った。
「お前は大切でも、自分の事は大切じゃないからな…」
「…ふむ。…俗に言う自己肯定感の低い人間だね?」
「…そうかも…」
「…その肯定感の無さはどうやったら解決できるんだろう?…いや、自己肯定感が低いと言うよりも、自分自身を否定しているという方が、分かりやすいな。…そこまで否定する必要はないとは思うけどねぇ。…ただ、…解決すべき…程のものかな?…私と居る時間を大切にすれば、それも流れていったりするんじゃないか?」
「…分からない…」
「…ただ、…まぁ、私との時間の中に、君は――自分より別の人の方がいい、というような私を大切にしているようで、自分を蔑ろにしているだけの考えが思い浮かぶわけだ。…やっぱり、君は私への好意をしっかりと認めるべきだよ。私が好きなのであれば、その心を大切にしなければならない。自己を肯定するというのは、自分の心の存在を認めるということだから、君は君自身を認知しなければならない。なにより、君は自分の心を蔑ろにするとともに、私の心も同時に蔑ろにしようとするわけだから、それも知ってくれなくちゃ困る。…だから、こうして君の心を認知するために、君は私に思いの丈をぶつけて、ハグをする必要があるというわけだよ」
「…そんなもんか…」
「…ちゃんと考えてくれ。今君の目の前にいるのは誰だい?恋人であるのは誰だい?君の思いはどんなだい?君の考えは?それを、包み隠さず言えるくらいに親しい恋人が私だよ」
タキオンがそう言うと、田上はタキオンの目を見つめた。タキオンも微笑を浮かべながら見つめ返すと、「もっと私の事を想って抱き締めてみれば?」と言った。田上は、それを実践するためにタキオンをもう少し力強く抱き締めて、その赤い瞳を少し嬉しく思いながら見つめた。
不意にタキオンが「好き」と言ってきた。だから、田上も何か言い返そうと想ったが、ここで「好き」と返すのはなんだか違うような気がして、一瞬口ごもった。そして、その後にこう言った。
「行かないで」
「行かないよ。ずっと傍に居る」
タキオンは、心持ち口角を更に上げながらそう返した。田上もタキオンと似た表情を取って、その瞳を見つめた。それから、暫く沈黙があったが、田上がこう切り出した。
「本当に行かないのか?」
「行かないとも。私を見れば分かるだろ?」
「…分からん…」
「それは、君が、私が君の傍に居る理由を探しているからさ。私を十分に観察して、私の心情を読み取れば、君もいくらかの安心は得られるとは思うよ」
「……傍に居てほしい…」
「居るとも。結婚の予定もあるよ」
「……いつ結婚するの?」
「…いつにしようかねぇ?私が、学生の内はまだ君も結婚は難しいだろうし…、……私も引退を決意しないと、結婚というものも難しいかもね…」
「引退して…」
田上が半ばからかうような、何も考えていないような目つきで、タキオンを見つめながらそう言った。当然、タキオンはそれに対する答えに困ってしまった。走りに対するタキオンの葛藤は、尚もタキオンの胸に貼り付いていた。
「…引退は、……いつか君と一緒に相談できたら良いと思ってる」
「…ごめん…」
「いいよ。私は、君からそういうのをもっと引き出したいし、例え、それで私の心が少しばかり傷つけられたとしても、それは本当に少しばかりだ。すぐに塞がるような傷だから、私は、その傷と一緒に君ともっと話したい。 君が話をしてくれさえすれば、私も安心だよ。君だってバカじゃないから、私の事を考えてくれる。そうすれば大概は上手くいく」
「俺は、…バカかもしれないよ?」
「そんなことはない。私とこうして向き合って話しているし、私の事を想ってくれてる。それだけで、圭一君だって天才の一員さ」
タキオンがそう言うと、田上は少しだけ口角を上げて、「どうだろうね…」と言った。タキオンも無理に、田上を引き上げるつもりはなかったので、田上がそう言っても、自分も微笑んで田上の顔を見つめているだけだった。
二人は暫く土手に寝転がりながら抱き合っていて、時折、タキオンの方からキスをしたり、キスをせがんだりした。その度に、田上は嬉しさを心に滲ませながら、快くタキオンとキスをした。
特に、なんとも言い難いふわふわとした掴み難い会話が二人の間で交わされた。田上が、タキオンに自分の感じていることや不安に思っていることを言ったりしたが、それは、先程の言葉の繰り返しのようなものだった。その度に、タキオンは「大丈夫だよ」と田上を安心させようとしていたが、それが、ふわふわとした空気を更にふわふわとさせていた。実際、田上は、今安心しているのかいないのか分からないような心地だった。今、目の前にタキオンが居て、仲良くできているというのは、田上にとって十分に安心できることだった。それでいて、田上は、タキオンから自分の不安を語れと命令されていた。命令だけで出てくるようなものではないのだが、安心している時に不安を引き出そうとしても、それはあやふやなものでしかなかった。それは、田上本人も心の内の何処かで認めていた。
それでいて、タキオンから言ってくれと半ば命令、半ばせがまれていたので、田上も――言ってあげなくては、という気持ちが働いた。別に、これが大した悪い事かと聞かれれば、(二人がうまくやっているのであれば)そうでもないが、不安を突き止めるには取り留めのない言葉しか出てこなかった。
それでも、まぁ、今の所は、一応二人で居られる解決策が見つけられて、この恋人たちはほっとしている所だろう。ほっとして、もっと二人でいる時間を楽しみたい所なのだろう。だから、今の所は、取り留めのない言葉でも、自分たちの心地よい会話の種になるならそれで良かった。
二人は、触れ合い、目を見つめ、言葉とキスを交わすことができて幸せの真っ最中だった。
翌日になると、タキオンはいつものように田上にモーニングコールを掛け、田上はそれに「おはよう」と返した。それから、少し話した後に、二人は朝食のために寮の前で落ち合った。そして、朝食を食べ終わると、二人でベンチに行って暫くいちゃいちゃとした。今日は、トレーニングがなかったので、二人でずっといちゃいちゃしようと考えていたのだが、途中で邪魔が入ることが、今日に限って多々あった。ハナミとアルトが散歩で通りかかったり、マテリアルが暇を持て余して遊びに来たり…。それはそれで、二人にとってもいい刺激にはなったのだが、やっぱり、誰もいなくなった途端に訪れる二人だけの心地の良い雰囲気が、田上とタキオンはとても好きだった。タキオンの髪を手櫛で梳いてあげるのにも飽きが来なかったし、田上の膝の上に頭を置いて、その上で田上の顔を見つめるのにも長い事飽きが来なかった。
例え、顔を見つめることだけに飽きが来たとしても、二人で居ること自体には飽きは来なかった。ベンチに居るのが飽きれば、二人でそこらへんをぶらぶらと歩いて、歩くのに飽きれば、またベンチに戻ったり、違う景色が楽しめる場所に行ったり…。二人は、お互いの事が大好きだった。それ故に、二人でいる時間に一つの苦痛も感じなかった。
そうして土曜日は、二人で過ごし、途中で天皇賞・春のレース場に行くカフェの一行を見送ったりして、のんびりと過ごした。
次の日も、トレーニングは無しだったので、田上とタキオンは、土曜日と似たような感じで一日を過ごそうとした。ただ、午後三時半過ぎ頃にこんな事があった。
その時間は、丁度カフェのレースがあったので、折角だし皆で見てみようと、チームの皆でトレーナー室においてある小型のテレビの前に集まって、天皇賞・春を観戦した。やはり、マンハッタンカフェは強かった。見事に、最終コーナーからの物凄い追い込みをかけると、優勝を勝ち取った。誰もが、――これは、菊花賞を勝ったアグネスタキオンでも勝てないかもしれない、と思った。タキオン自身でさえ、カフェの最後の末脚に少しの恐怖を抱いて押し黙った。田上は、そのタキオンの顔を心配そうに見ていたのだが、最後のヒーローインタビューの際に、カフェとそのトレーナーの松浦の口から、こんな事が語られた。
まず、記者の質問から始まった。「今日の走りは凄かったですね」などの礼儀上の建前などを述べて、その後いくつか質問をした。中には、タキオンにとってはどうでもいいものもあったが、次走の予定を記者が聞いた時にタキオンは思わず目を見開いた。
松浦とカフェは一度目を合わせると、コクリと頷き、松浦が口を開いた。
「次走は、アグネスタキオンさんも走る予定の『宝塚記念』に挑戦したいと思います」
これを聞いた時は、田上も「おお?」と思わず声を出した。今ここで言ったということは、それなりの計画があって言っているという事なのだろう。となると、カラオケを皆でした時辺りには、それなりに二人の間でこういう話し合いが行われていたのでは?という考えに田上は至った。ただ、タキオンはそれどころではなかった。大阪杯の時の恐怖が蘇ってきた。最後の直線で、後ろから追いかけてきたハテナキソラ。あの恐怖が再び繰り返されるのではないかと思った。特に、「アグネスタキオン」と名指ししている以上、自分をライバル視しているのは間違いないだろう。今までのカフェの態度からも、菊花賞での惜敗の無念を晴らしたいと願っているのが伺える。タキオンに取って、本気の相手ほど怖いものはなかった。本気で自分を潰そうとしてくるからだ。あの本気に比べれば、自分の本気などちっぽけなもののように思えてしまう。あの情熱に比べれば、自分の情熱などごうごうと燃え盛る炎の前にいる、蛍火に過ぎなかった。
できれば、田上の傍でのうのうとゆったりとした空気を味わいながら、その大きな懐に包まれて安心しながら生きていたかった。自分を傷つけよう、負けさせようとするような思いやりのない人が居る所に身を投じたくなかった。しかし、タキオンの中の何かがタキオンをレースへと駆り立てた。タキオンは、今更それを後悔した。田上の言う事をもっと素直に聞いておけばよかったと思った。
タキオンは、次走に宝塚記念を走るとカフェが言ったときから、ぐっともっと落ち込んだ顔になった。田上もそれにしっかりと気がついてこう言った。
「大丈夫か?」
「…大丈夫」
タキオンは、明らかに大丈夫そうではない低い声でそう返した。
「その声は大丈夫じゃないだろ。…俺にもタキオンの気持ちを聞かせてほしい」
田上がそう言うと、タキオンは暫く押し黙った後に、身振りで田上に自分を抱き締めてほしいように伝えると、田上の膝の上に座って、その男らしい腕にぎゅっと抱き締められた。
「……あの人達は怖いよ…」
「怖い?」
田上は、優しく問いかけた。
「…怖い。…皆で寄ってたかっていじめようとしてくる…」
「皆っていうのは、…誰?」
「…カフェと…大阪杯で私に負けた人…」
「ソラさん?」
タキオンは、田上の頭の横に自分の頭を置きながら、コクリと頷いた。
「その人たちが怖いの?」
「…怖い」
「…なんでだろう?」
「知らない…」
「……宝塚記念には出走するの?」
「…しないといけないんだろ?」
「…登録の解除は、…頑張ればできるかもしれない。…けど、カフェさんも怒るだろうね」
タキオンは何も答えずに、田上に抱かれ続けた。
「…解除してみようか?」
タキオンは、何も答えなかった。すると、田上はタキオンの頭をよしよしと撫でて言った。
「お前は速いんだから大丈夫だよ」
「…でも、最近は、トレーニングに身が入ってない…」
「そんな事はないと思うけど…?ちゃんとトレーニングはしてると思うよ?」
「……休憩の時が違う。…前なら、もっとトレーニングにのめり込んでた。…圭一君と居れるのが嬉しいから…」
「そりゃあ、嬉しそうなのはこっちも見てて分かるけど、集中もしてるんじゃないか?」
「…違う…。…心が常に君の事を考えてる。…別に、走る時は走ることもしっかり考えているんだけど、やっぱり、心の片隅で君のことが好き…」
「…それは、別にいいんじゃないか?走る事は考えられているんだろ?」
「…違う…。…ふわふわとしている感覚。……本当は投げ出したいのかもしれない…」
タキオンがこう言うと、田上も事のあらましは掴めた。要するに、タキオン自身の葛藤が、タキオンの心を弱めて、自信をなくさせているようなものだ。田上としては、タキオンはトレーニングに集中できていると考えている。走っている最中に田上の方を向いてくるようなことは滅多にないから、今の所は、順調なようだろう。むしろ、その前のトレーニングをしていなかった時期が、タキオンを弱めているのかもしれない。タキオンとしては万全で挑みたいところだろうが、研究のためではなく自分の私利私欲と呼べるのもののために、何度もトレーニングをサボって田上を困らせた。その事実が、タキオン自身を万全でないものとしていた。田上は、勿論、タキオンには天性の走りの才能があると考えていたから、少しトレーニングをサボった所で、挽回はできそうな気はしていた。勿論、サボるのが直前まで続けば、それはそれで問題にはなる。しかし、タキオンだって、元々はアスリートで、もう体は出来上がっている。挽回の仕様は、これまで通り真摯にトレーニングに打ち込めば、簡単にできる。
ただ、やっぱり、タキオンの心に引っかかっているのは、田上への思いと走りへの思いのせめぎあいだろう。一度走りたくないと思ってしまったからには、次走る時に、走りたくないと思ってしまった時の気持ちが蘇ってくる。タキオンは、そのことを言っているのだろう。その心を押し込めて、走りに集中できているから、今は良さそうに見えるものの、後から綻びが見えてきそうな気配はあった。田上に、この綻びを直す術はなかった。ただ、タキオンの事を同情するように思いながら、その髪をさらさらと撫でた。
それからのタキオンの気分は、もう最悪なものとなったが、田上がタキオンを甘やかしてあげたおかげで、幾分か楽にはなった。それで、今日も一日が終わり、それぞれ寮の部屋に別れるとなった時には、あまりごねはしなかった。
ただ微笑を浮かべて寂しそうに手を振ってくるので、田上も別れるのが惜しくなって、少し後戻りすると、タキオンの頭をくしゃくしゃと撫でて、しっかりと抱き締めてから自分の寮へと帰っていった。
「明日も朝に電話をかけるからね」
タキオンのあまり覇気のない声が、田上を見送ってくれた。そして、田上も自分の部屋に戻ると、タキオンとスマホで暫くやり取りをして、寝る前にやるべきことを済まし、眠りに就いた。
それから、朝はタキオンのモーニングコールで目を覚ました。
普段であれば、朝起きたばかりでももう少し元気のいいタキオンが、昨日の夜のように覇気のない声で「おはよう」と電話の向こうから呼びかけてきた。田上も「おはよう」と返しながら、「調子はどう?」と聞いた。タキオンは、ため息を吐いた後に「そこそこ悪いね」と答えた。それに、田上は、適当な返す言葉が見つからずに、少しの愛想笑いで誤魔化した。
その後、少しの間、口を開きにくい沈黙が続いたが、田上がこう口を開いた。
「…もう、会う?」
「……会う…」とタキオンのあまり気乗りしなさそうな声が聞こえた。これは、特に田上に会うのが嫌だというわけではなかったが、ここから動いて外に行くという事が、タキオンにとっては面倒臭いことだった。けれども、タキオンにとっては、田上に会うということの方が魅力的なことだったので、その面倒臭さがタキオンの行く手を阻むことはなかった。
タキオンが、田上と電話をしながらノロノロと着替えている間に、田上は、諸々の準備を済ませて、ウマ娘寮の前まで来ていたようだ。タキオンが寮から出ると、田上がベンチに座って待っているのが見えた。そして、田上が立ち上がると、タキオンを出迎えて、よしよしとその頭を撫でた。田上に頭を撫でられると、タキオンはどことない幸福感に包まれて、自然と笑みが零れ出てきた。
今日は、祝日で、授業自体は休みだったが、トレーニングはあった。さすがに、三日連続で休んでいるわけにもいかない。田上は、普段との気分転換のために、午前中にトレーニングの時間を設けた。ただ、今日は一人での指導だった。マテリアルが、松浦とおでかけに行くからだ。田上も一人で二人の指導は、できなことはないが、一応、念のためタキオンを連れてトレーナー室に行き、念入りに準備をしてからトレーニングに臨んだ。トレーナー室にいる間は、田上も自分の事に集中こそしていたが、しっかりとタキオンの相手も怠らずに、タキオンもまた必要以上に田上に我儘を言うことはせず、仕事を熱心に計画している自分の恋人を見つめていた。
トレーニングは、九時の少し前から始まった。リリックとタキオンにそれぞれやることを告げ、自分はそれを遠くから見守った。二人共、まぁ、それなりにトレーニングに取り組んでいた。あんまり楽しんでいるという調子ではなかったが、真面目に取り組んではいた。タキオンが、そんな様子なのは、カフェが宝塚記念に出るせいだろうということは、田上もわかっていた。ただ、リリックも同じように少しの不調の影が見えているわけが田上には分からなかった。もしかしたら、という予想はついた。おそらく、リリックの方もカフェが宝塚記念を走ったことが影響しているように思う。
ただ、田上には、今一リリックの事が掴みきれていなかった。どうにも、一言では推し量れない子のように思えた。楽しげに笑っている時もあれば、少しの恐怖に怯えているような時もある。どちらが本当のリリックなのか分からなかった。例え、恐怖に怯えていなくとも、恐ろしく無口な時もある。それで、――無口な子だろう、と思っていると、マテリアルとは普通に話している。もうそろそろリリックとも打ち解けて良い頃だろう、と田上は思っていたが、一向に素のリリックというものが分からなかった。
それを言ったら、タキオンの方は恋人なので、まだ分かりやすい。悩みがあれば、自分に打ち明けてくれるし、田上自身の弱みも知っているわけだから、それなりに、お互いの事を知っている。ただ、リリックはどうしようもない。――タキオンとは、どんな風に打ち解けていたんだろう、と田上は考えていたが、どうにも、いつの間にやらこんな関係になってしまっていた。――もしかしたら、リリーさんとも時の流れが打ち解けさせてくれる?と田上は、心の中であんまり当てにはできなさそうな考えを持って、――やっぱり、そうじゃないかも、とも思った。
いい汗をかいた頃合いに、トレーニングは終わった。リリックは、最後に集まって少し話す事を適当に済ませると、ここに来たのはトレーニングのため、と言わんばかりに颯爽と帰っていった。その前に、田上は、いくつかリリックと実のある話を試みようとしたのだが、リリックからは礼節を弁えた適当な返事しか返ってこなかったし、タキオンは、田上が他の女と話すのをあんまり快く思わず、大ぴらでないにしてもリリックを牽制するように田上の傍に取り付いて離れなかった。それで、田上も困ってしまったのだが、場が微妙にリリックの心とタキオンの心を重ね合わせていたので、上手く話を取り持つ事もできずに、リリックは帰ってしまった。
リリックとの話が終わると、タキオンは安心したように田上の腕に取り付くのをやめ、ニコニコとしながら今日のこれからの予定を聞いた。それから、自分の汗を流しに一旦寮の部屋へと戻っていった。
田上は、まだこれからもやらねばならないことがあると言って、トレーナー室に戻った。タキオンは、シャワーをした後にまた田上のところへ来るようだった。仕事であんまり相手をしてくれそうな雰囲気ではなかったが、恋人の傍でじっとその仕事をしている様子を眺めているだけでも良かった。
タキオンが着替えてトレーナー室に行くと、田上はもうすでにそこに居た。田上の横には、タキオンが座るための空の椅子が置かれてあった。それを見てから、また田上に目を戻すと、二人は目を合わせた。そして、微笑みあった。タキオンは、それが不思議に普段目を合わせる時よりも嬉しく思った。たまらなく嬉しくなって、今すぐにでも田上に抱きつきたくなったが、あんまり仕事中の彼氏の邪魔はしないようにと、田上が休憩する時間までそれは押し留めておいた。
マテリアルは、夕方頃になって、松浦とデートをしたままのお洒落な格好で、トレーナー室に現れた。その頃は、田上も仕事が一段落ついて、タキオンと適当に喋ったり、軽くキスをしたりして、その場を楽しんでいる最中だった。
ガチャリとマテリアルがドアを開けて、恐る恐る中を覗き込んできた。そして、机の方に田上とタキオンが居るのを見つけると、少しだけ頭を下げて固まった。田上も頭を下げ返したはいいものの、マテリアルが挨拶も何も話そうとしなかったので、こちらも固まったままマテリアルを見つめていた。それで、見かねたタキオンが口を開いた。
「おかえり。なんか用かい?」
「…いえ、……」
どうも用がないとは言えなさそうな雰囲気だったので、今度は、田上の方が言った。
「とりあえず、座ったらどうです?疲れたんじゃないですか?」
マテリアルは、あんまり田上の言葉が頭の中に届いていない調子で、「はい」と頷くと、上の空のような表情でスタスタと歩き、椅子に着席して机の一点を見つめた。こうなると、田上とタキオンも――マテリアルになにかあったのだろうか?と訝しみながら目を合わせた。そして、タキオンの方が先に目を逸らすと、マテリアルの方を見て言った。
「なにか、松浦トレーナーとのお出かけで失敗でもしたのかい?」
「……いえ……」
「じゃあ、なんでそんなに落ち込んでいるんだい?」
「…落ち込んで…いますか?」
「少なくとも、私にはそう見えるね」
「そうですか……」
そう言うと、また、マテリアルは黙りこくってしまったので、タキオンはどうしようか、という目で田上を見た。だから、今度は田上の方が口を開いて言った。
「松浦さんになにか言われたんですか?」
「……いえ……」
「じゃあ、なにがあったんですか?」
「……なにも…ありませんでした…」
「…はい」と田上が相槌を打つと、マテリアルは数秒してから唐突に立ち上がった。そして、言った。
「すみませんでした。…ありがとうございます。お疲れ様でした。心配かけてすみません」
それから、マテリアルはトレーナー室のドアを開けると、すたすたと足音を立てて部屋から去っていった。田上とタキオンは呆然としながらそれを見ていたが、やがて、タキオンが自分の気を取り戻すと言った。
「あれは一体何だい?なんであんな風になっているんだい?」
「知らない…。松浦さんがなにかしたの?」
「…善人そうには見えるけどね」
「マテリアルさんに酷いことをしたっていうんなら、多分、本人ももっと落ち込んでいるだろうしね」
「ああ、…あれは、どちらかと言うと、落ち込んでいると言うより、心此処に在らず、と言った感じだったね。…いや、でも、松浦トレーナーがなにかしたんじゃないか?」
「でも、そんな…するってなにを?喧嘩して帰ってきたんじゃないだろ?」
「…セクハラかなぁ?」
タキオンは、自分の言葉に疑問を持ちながらそう言った。
「そんな事をする人か?…第一、カフェさんからもそんな話は聞いたことはないだろ?」
「聞いたことはないが、もしかすると、カフェのことは女として見ていなくて、マテリアル君のことは大人の女だから、セクハラの対象になったのかもしれないよ?」
「そんな事する人かなぁ?」
「…どうだろうねぇ。 本人は、何もなかったと言っているけど」
「何も…なかったってことはないでしょ?何かあったんだから、あんな風になってるんじゃないのか?」
「…私には分からないよ。 何もなかったんだろ?」
「さぁ」
田上が首を傾げてそう言ったので、タキオンも少し苦笑した。
「さぁで済ませて良いのかい?気になるんじゃないのかい?」
「…でも、…マテリアルさんは難しいからなぁ…」
「まぁ、否めないが、…どうする?」
「…どうしよう?」
田上は、タキオンの目を少し不安そうに見上げて言った。
「私は、正直な所を言うと、彼女のことはどうでもいいが、…そうも言ってられないね?圭一君の仕事仲間だから。…となると、私もどうにかしておいたほうが良いね。圭一君の仕事が立ち行かなくなってもらったら困る。 それで、どうするかだが…、…どうしたら良いんだろうね?」
「…どうしよう?」
「…君が考えてくれよ。これも君の仕事の一環だろ?私は、手伝いはするが、実行はしないよ?」
「…マテリアルさんはね…、どうも変な人だからね…」
田上が呟くように言うと、タキオンはクスクスと笑った。
「そうだね。変な人には違いがないが、…君はどうするんだい?」
「…でも、現状、マテリアルさんから何か聞き出せそうかな?」
「私も聞き出せそうには思えないね」
「…でも、どうだろう?放置したらなにか起きるかな?」
「さぁ、それは私にも分からない。そもそも、なんであんなになってしまったのかも分からないしね」
「…松浦さんの方はどうなんだろう?あっちの方も何もしてないと思っているのかな?」
「どうだろうね?気になるんなら、連絡してみればいいじゃないか。連絡先は持っているんだろ?」
「持ってるけど…、ねぇ?部外者が、わざわざ立ち入るのも変じゃないか?マテリアルさんも俺たちが探りを入れたと知ったら怒るだろうし」
「なら、バレないようにすればいいんじゃないかな?」
「バレないって言ったってねぇ?俺がわざわざそれを聞きに行けば、松浦さんの方もマテリアルさんになにかあったんじゃないかと不審がるだろうし…」
「不審がらないかもしれないよ?」
「不審がらない?」
「私には分からない」
タキオンは、田上をからかうような愛おしさを感じるような目で見つめてきた。
「…でも、現状、どうしようもなくないか?まず、マテリアルさんに踏み込めないんだから。…それに、本当になにもなさそうな感じもあるから、松浦さんが悪さを働いたってことでも無いと思うんだよね」
「君がそう思うのなら、そうすればいいんじゃないかな?」
タキオンがそう言うと、田上は暫く黙って考え込んだ。タキオンは、その田上の様子をじっと微笑みながら見つめていた。それから、田上はタキオンの目を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「…一応、…連絡だけしてみるか…」
「そうしたまえ」
タキオンの言葉にゆっくりと頷きながら、田上はスマホを取り出し、マテリアルに連絡を送った。
初めは、なんと送ればいいのか分からなかった。直接的にもう一度同じ事を聞くのは、事態が何も進展しない無意味な質問のように思えた。だからと言って、事態が進展しそうな言葉が田上には何も思いつかなかった。その田上をタキオンは、嬉しそうな目で見つめながら、時折、自分の手が触っている田上の首筋を優しく撫でてあげた。
田上には、それがとても心地よかったが、それで、いい考えが出てくるわけでもなく、結局、出す言葉を見失って、こう送った。
『もうすぐゴールデンウィークですね。久々の実家だと思いますので、ゆっくり過ごしてみてください』
これをタキオンに見せて、変な事を言っていないか確認した後、マテリアルに送った。マテリアルからは、ただ「はい」という返事だけがきた。そこになんの感情があるのかは分からなかった。翌日にトレーニングに来たときにも、そのまた翌日にトレーニングに来たときにも、マテリアルは一見すると、何の変わりもないように思えた。
田上は、ゴールデンウィークが少し不安になって、タキオンの目を見つめた。タキオンの赤い瞳は、恋人の目を捕まえると、――なんだい?と言うように揺れてみせた。田上は、ただ、タキオンの目を見つめると、「行かないで」と呟くように言った。
タキオンは、微笑を浮かべると、「ずっと傍に居るよ」と言った。