ケロイド   作:石花漱一

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二十七、ゴールデンウィーク初日①

二十七、ゴールデンウィーク初日

 

 マテリアルが、祝日に松浦とお出かけをしてから、ゴールデンウィークまでの間に、時間は飛ぶように過ぎていったように田上は思った。どうにも、刻一刻と近づいてくるその日が怖くて堪らないのに、時間だけはいつもよりも進みを早めていた。

 田上は、遂にタキオンの実家に旅行に行く日の前夜になって、大きくため息を吐いた。荷物は、まだバッグに収まり切ってはいない。手が、妙に重く、入れたくないと言っていたからだ。それで、ベッドの上に寝転がっていたら、唐突にスマホが着信音を鳴らし始めた。スマホの画面を見てみると、中央の方に『タキオン』と書いてあった。タキオンから電話が来たのだ。

 田上は、また妙なタイミングで電話をかけてきたタキオンを鬱陶しく思いながらも、恋人の電話に出ないわけにも行かないと思って、電話に出た。

「もしもし」と田上が言うと、タキオンのいつもの独特な調子の声が聞こえてきた。

「圭一君?荷造りは済んだかい?」

 田上は、一瞬黙って、タキオンに嘘を吐こうかどうか迷ったが、結局こう言った。

「済んでない」

「そんなところだろうと思ったよ。そんなに緊張しなくても、私の父さんも母さんも歓迎してくれるよ。さっきも、私のスマホに――楽しみ、って連絡が来てたよ」

「まぁ、…怖いからな…」

「…まぁ、いいや。電話を繋いでおこう?電話しながら荷造りをしたまえ。そうしないと、君は夜中までかかってしまうだろうからね」

「ああ」と田上が頷くと、その後すぐからは荷造りを始めないで、暫くタキオンと話をして元気をある程度回復させてから、荷造りに移った。

 ぼちぼちとタキオンの声を聞いて、答えながら、田上は荷造りを済ませた。決して、タキオンが電話をしてくれているから、荷造りの速度が大変に早くなったというわけではなかったが、それなりにぼちぼちぼちぼちタキオンに励まされながら荷造りをした。それで、荷造りが終わったのが、九時頃だったので、あとは田上が「まだ話していたい」と言って、十時に寝るまで話し込んでいた。尤も、タキオンは、田上が「話していたい」と言わなくても、本人の方が話したがっていたので、結局、この電話は続いていたように思う。

 タキオンと田上は、明日に両親に報告することを話し合っていた。どんな風に切り出すとか、どんな風にまとめるとか、主に田上の不安を解消するための計画だったが、田上は、この話については、どことなく上の空だった。明日のことを想像しようとすればする程、恐怖は募っていくばかりのような気がした。勿論、タキオンの優しさである程度解消される部分はあったが、それ以前に、田上の心には『恐怖』がべったりと貼り付いていて取れそうになかった。タキオンは、尚も田上を安心させてやろうと、両親についてあれこれ言ったが、とんと返答がないとなると、タキオンも諦めて別の話題に移った。

 田上は、眠るのが怖かった。明日が来るのが怖かった。けれども、明日に満身創痍で出かけるわけにも行かないから、寝ることは必須だった。けれどもけれども、田上は眠りにつきたくなく、その様子を感じ取ったタキオンが、電話越しに子守唄を聞かせてやった。二人は、電話越しにベッドに横になって寝ようとしていたが、田上は、タキオンが歌ってくれるだけでは駄目だった。もっと近くに、肌が触れ合うほど近くに居てほしかった。しかし、それは、決して叶わないことなので、何も言わなかった。田上は、不安を抱えたまま、タキオンの子守唄を聞いていたが、やがて、タキオンのほうが先にウトウトとし始めて、遂には眠り込んでしまった。田上は、仕様がないから電話を切ると、真っ暗な部屋の中に一人になった。その時になって、もっとタキオンの温もりを感じたくなった。暗い部屋に一人で居るのは、堪らなく怖かった。眠ろう眠ろうと思っても眠れないのが、さらにその怖さを膨らませた。田上は遂に、起き上がると、電気を点けてパソコンの方に向かった。そして、パソコンを起動させて、その前の椅子に座ると、インターネットでぼんやりと記事を眺めだした。

 

 田上は、結局、深夜の二時に布団に入って、その四十五分後に眠りに就いた。最終的に、音楽を聞き続ければ、なんとか微睡みの中に入ることができて、不安な夢の中に落ちていけた。

 夢の中では、相変わらず、田上らしいなにかに追われているかのような、田上を苦しめる恐怖そのものが現れていた。そして、悪意も田上の夢を見ていた。田上が、苦しそうに走りながら、暗闇を逃げ惑っているのを見ていたが、今回も唐突に夢の世界を塗り替えた。

 真っ白になった世界の中に、悪意と田上だけが居た。悪意は、今回は田上に姿を見せていた。田上の中学時代に好きだった青葉という女の子の姿で、田上の四、五メートル先に突っ立っていた。田上は、キョロキョロとあたりを見渡して、悪意の姿を見つけた。そして、悪意が、今は何もしなさそうな様子だとわかると、はぁと大きなため息を吐いて、ふかふかのソファーを創り出し、そこに座った。悪意は、それをじっと見ていたが、やがて、おもむろに口を開いた。

「……お前、…あのウマ娘を好きじゃないだろ?」

 田上は、何も答えようとはしなかったし、ソファーに寝転がったままピクリとも反応をしなかった。すると、田上のソファーの横に悪意が突然に現れて、そのソファーを思い切り蹴った。ソファーは浮き上がるほど飛んで、田上は白い世界にゴロゴロと投げ出された。しかし、それでも反応は示さなかった。死体のようにピクリとも動かなかった。するとまた、悪意は田上の近くに現れて、その脇腹を思い切り蹴り上げた。田上は、今度は痛みにうめき声を上げながら、三、四メートルほど飛んでいった。しかし、起き上がって悪意と退治しようとはしなかった。相変わらず、死体のようにピクリとも動かなかった。

 今度は、悪意は、田上の横の方に現れて、うつ伏せになっている田上を思い切り踏んづけた。田上は、背を蹴られても顔を蹴られても、痛みにうめき声を上げるだけで、反応しようとはしなかった。そして、遂に悪意も諦めて、田上の近くにソファーを創り出すと、その上に座って田上を見つめた。田上は、涙を流しながら、虚ろな白い世界を見つめていた。

 悪意は、こいつをどうしようかと考えたが、どれほど蹴られても抵抗しようとしない田上を見ていると、段々とイライラしてきた。だから、ソファーから立ち上がると、暫く早足であっちへ行ったりこっちへ行ったりして、最後に田上の脇腹をまた思い切り蹴ると言った。

「本当は好きなんかじゃないくせに」

 田上は、痛みにうめき声を上げた。そして、また抵抗しないもののように思えて、悪意は、もっと苛立ったが、不意に田上が悪意の足首を掴むと、ぱっと起き上がり、ぐるんと一回ししてハンマー投げのように遠くへぶん投げた。勿論、現実の田上にはこんな力はないから、夢の中でこそできたことだった。悪意は、田上の思ったような軌道でぽーんと飛んでいき、地面に激突すると思ったら、その地面がトランポリンのように弾んで、悪意は、再びポーンと跳ねて、地面にゴロゴロと転がった。けれども、悪意は、田上のように痛みにうめき声を上げはしたものの、寝転がって抵抗をしないということはしなかった。

 突然に田上の後ろに現れると、その田上の膝を蹴って体勢を崩させた。田上は突然の出来事に咄嗟に反応することも敵わず、悪意に仰向けに倒され顔面を何度も蹴られた。夢の中なので怪我はないが、それはもう尋常じゃない痛みが田上を襲った。鼻が折れたような気がするし、目は潰れたような気がする。だが、怪我はしていない。血は出てくる気配はない。ただ痛みだけが田上の顔にあり、悪意は、憎しみを込めて田上の顔を蹴り続けた。

 痛みで気が狂いそうだったが、不思議と自分の気はあって、悪意が収まるまで堪えろ堪えろ、と自分に呼びかけていた。悪意は、中々とどまることはなかったが、それでも、田上が全然抵抗しないのを見ると、段々と自分の中の憎悪もぶつける方向が分からなくなって、遂には、息を切らしながら田上を見下ろすだけとなった。

 田上も、痛みに満身創痍といった状態で、骨は折れていないが腕を上げるのには大変な苦労を伴った。それだから、悪意の足首を掴んでも、先程のように振り回すことはできなかった。また、そうする気もあまり残っていなかった。ただ、田上は、悪意の足首を掴むと、泣きながらこう言った。

「嫌いじゃない…」

 そして、悪意との間に壁を創り出すと、段々とそれを大きくさせて、遂には、自分と悪意がいる場所を隔離した。そして、田上が壁の向こうで「出ていけ…」と呟くと、悪意は、壁にぐっと迫られて出ていかざるを得なかった。悪意は、これに非常に怒って、――あの研究室でならあんな男になんて負けなかったのに!と思った。しかし、そう思った所で、田上がそう易易とあの部屋に来てくれるわけでも無いので、悪意は、さらに怒りを募らせた。

 

 田上は、朝四時頃に飛び起きた。息が止まらない。苦しさに頭が朦朧とする。必死に自分の息を鎮めようとするが、それをすればするほど、自分の気は不確かになり、段々と焦りが募っていった。

 幸いな事に、過呼吸は、それ程経たずに収まったが、それでも息苦しさの余韻は残り、息を切らした人のように自分の息を制御しようとしていた。朝四時だったので、深夜の二時に寝た田上は、碌に睡眠が取れていなく、まだ瞼が重たかった。しかし、先程の過呼吸もあり、これからのタキオンの実家に帰ることもあると、眠れる気はなく、洗面台に水を一口飲みに行くと、落ち着きなくパソコンを見始めた。

 朝六時半ごろになって、田上は、昨日タキオンと約束していた時間にモーニングコールが来なかったことを思い出した。普段であれば、この時間くらいにタキオンがモーニングコールをしてくるが、今日の田上とタキオンはもう少し早く起きるはずだった。朝は、早く出たかったので、準備の時間もそれに合わせて早く取らないといけないからだ。田上は、そのことを思い出すと、自分から進み出すのが億劫になったが、それでもしなければならないと考えて、ノロノロとタキオンに電話をかけた。

 タキオンは、「おはよー」と寝惚けた声で出た。田上も「おはよう」と元気のない疲れた低い声で「おはよう…」と返すと、暫くの沈黙の後、タキオンがこう言った。

「圭一君…、…寝てない?」

「…寝たよ…」

「…本当に?」

 一度嘘を吐きはしたものの、――いずれバレることを今隠してどうする?という考えに至ると、田上は、迷いの最中に「寝てない…」と答えた。タキオンは、まだ寝惚けが取れないようで、反応が大分鈍っていたが、田上の言葉を数秒かけて理解すると言った。

「そうか。……緊張したのかい?」

「……それもあるけど、…夢に、…またアレが出てきた…」

「アレ?」

「…悪意…」

「…ああ…、大丈夫だったかい?」

「…大丈夫だった…」

 田上はそう返事をした後に、タキオンに、自分が過呼吸を起こしたことを話そうかどうか迷った。まだ、胸の奥に息苦しさが残っているような気がした。その苦しさと共に今から行かなければならないタキオンの父母の家のことを考えると、田上はこの先に不安を抱いた。

 ただ、普段の田上の不安を知らないタキオンではないので、すぐに田上の言い淀みを見つけるとこう言った。

「本当に大丈夫だったのかな?」

「……大丈夫じゃないかも…」

 田上は半ば自分に呆れながら、それでも、その事をタキオンに打ち明けることができそうなことに安堵してそう言った。タキオンも田上の気持ちを察すると、ふふふと笑った。

「大丈夫じゃない?」

「…まぁ、ね…」

「どんな事が大丈夫じゃないんだい?」

「…あんまり言いたくない…」

「それは、止むに止めれぬ事情があるのかい?」

「…ない…」

「なら、私としては言ってほしい気分だね」

 そこで、再び田上も迷いを抱いて、言うか言うまいか考えたが、結局、タキオンにこう打ち明けた。

「…あんまり大したことじゃないかもしれないけど…、過呼吸になって目が覚めた…」

「過呼吸?…緊張かい?」

「…そんなとこだろうと思う…」

 そこで、タキオンは一つ欠伸をすると、こう言った。

「とりあえず、朝の準備をしないとね。準備は一人でできるだろ?」

「……昨日の夜みたいに、電話しててくれないか?」

 田上は、自分でも情けない声だと思いながらそう言った。タキオンは、それに「いいよ」と優しく返すと、二人は支度を始めた。

 

 相変わらず、田上の支度は遅かったが、それでもちゃんと予定と合わさった時間には寮の外に出ることができた。タキオンは寮の外に出て、田上の顔を見ると本当に体調がよくなさそうなのを確認した。体調というよりかは、主に表情から元気のなさが伝わってきた。

 それで、タキオンも田上のあまりの元気の無さに可哀想になってきて、元気づけるように一度キスをしてあげた。そして、田上が思う存分自分を信頼してくれている状況を彼に確かめさせようと、ハグを求めた。田上も少し元気がなさそうに笑いながら、タキオンを抱き締めて、「行かないで…」と呟いた。タキオンは、それにいつものように「傍に居るよ」と答えながら、母親のように「よしよし」と言って田上の頭を撫でた。そのタキオンの手の感触を感じると、田上はなんだか嬉しくなって、思わず、「好き…」と呟いた。思いがけず田上からそんな言葉を聞けたことに、タキオンも嬉しくなり、ふふふと笑うと「私も好きだよ」と答えた。

 それから、二人は、暫く道のど真ん中で抱き締め合っていたが、当然、ここは道であるので人の往来も少なからずあった。だから、田上も誰かの足音が石畳にコツコツと響いて来ると、慌ててタキオンから離れて、「行こうか」と言った。タキオンは、愛おしそうに田上の顔を見つめながら、田上と手を繋いで「ああ」と頷いた。

 二人が向かったのは駅だった。電車で静岡で向かう予定だった。朝ごはんはまだだったので、近くのコンビニで二人分の朝食を買うと、二人は手を繋いで電車に乗り込んだ。

 

 静かに揺れる電車と皆それぞれ黙りこくっている人の気配を感じながら、田上は、二人用の座席と二人用の座席が向かい合った席にタキオンを隣にして座っていた。目の前の席には、中年で小太りの頭の毛が少し薄くなっているおじさんと二十代前半くらいの綺麗なウマ娘が座っていた。田上と小太りのおじさんは、それぞれ窓側の席に座っていた。そして、そのおじさんが眠ってしまっていてだらしなく足を広げていたので、田上には少し窮屈だった。田上より小柄なタキオンが、「席を変わろうか?」と小声で語りかけてきたが、田上はそれを断った。一つには、今更動くのが面倒臭いのもあったし、一つには、我慢ができないほど窮屈でないのもあったし、もう一つには、自分の恋人であるタキオンをこんな小汚そうなおじさんの近くにやりたくない独占欲らしきものもあった。タキオンは、田上が断ると、大人しく引き下がったので、わざわざ独占欲まで説明せずに済んだ。

 田上は、自分の中の独占欲らしきものを見出すと、胸がモヤモヤとした。――こんなに重たい彼氏でいいのだろうか?と考えたからだ。しかし、その後すぐに――タキオンはそんな事は気にしないだろうな、と思うと、胸のモヤモヤのようなものもある程度無くなって、少し安心した。

 田上は、安心しながら窓の外を流れてゆく景色と、時折、窓にふっと浮かぶ自分の顔を眺めていた。

 そして、タキオンに「君、寝てないなら私に寄りかかって寝ていいよ」と囁きかけられると、その言葉に甘えて、タキオンと手を繋ぎながらとろとろとした微睡みに就いた。

 

 その微睡みは、乗り換えをする度に破られたが、タキオンが傍に居るという安心感からそれ程不快でもなかった。例え寝惚けていても、タキオンにとって実家は何回か行ったことのある場所だったから、それ程心配せずにタキオンに身を委ねることができた。一度は、ほとんど眠りながら、タキオンに手を引かれて歩いていたので、その時は「せめて、前を見て歩いてくれないと危ない」と注意された。その注意も、田上にはなんだか嬉しかったので、微笑をすると、タキオンに「ちゃんと分かっているのかい?」と再び注意された。ただ、その注意には、タキオンの微笑も伴っていた。

 タキオンとの関係も良好に、特に予定の狂いもなく、田上たちは静岡の都市部の駅に着いた。そこから、タキオンの父母の家まではまだ少しあったが、お昼ごろには何とか着きそうだった。その時になると、タキオンのお母さんの方から『いつ頃来れそう?』という連絡が来て、次いで、『迎えがほしいなら迎えに行くけど』と来た。タキオンは、そのメッセージの内容を田上に見せると、田上はタキオンに「昼頃行けそうだよね?」と言った。タキオンは、それに頷きながら『昼頃行けそう。迎えはいらない。歩いていく』とメッセージを返信した。そして、満足そうに田上の方を見ると、「いよいよだね」と期待に満ちた顔で言った。すると、田上の安心感も急降下し、一気に不安げに眉を下げた。

「そんなに緊張しなくてもいいじゃないか」とタキオンは苦笑気味に言ったが、そう言われた所で、簡単に治る緊張でもなかったから、まるで、迷子にならないように親から手を繋がれている子供のように、田上はタキオンと手を繋いで次の電車へ歩いていった。

 

 段々と風景がそれっぽい田舎の景色になっていくに連れて、田上の心は沈んでいった。タキオンもそれを感じ取って、時折、田上を元気づけて上げようと声を掛けてくれたが、一向に田上の心に響く気配はなかった。それでも、タキオンは特に気にすることなく、自分の父母の住む街へ着くのを楽しみにしていた。タキオンにしてみれば、心配することなどそれほどなかった。自分の父さんと母さんが、自分の恋人の事を歓迎してくれるのは明々白々な事であったし、妹の桜花だって歓迎してくれないということはなかった。あの家で新しく飼っているというゴールデンレトリバーの事は知らなかったが、何も噛みつくということはないだろう。それに、田上をその犬が歓迎してくれないのであれば、自分だって歓迎してくれるようなものでもなさそうな気がした。

 田上の様子は、一応心配ではあったが、それ程不安視もしていなかった。田上だって、慣れない所に行くことがそもそも怖いのだろうから、それが、肌に馴染めば別に問題ないだろう。そして、自分の父母が田上を邪険に扱うということは絶対にないので、田上もきっとあの家が田上にとって安心できるとまでは行かなくても、危害を加えたりしない家だということが分かるだろう。分からなければ、もう少し考える必要がありそうだが、それを今考えたってどうしようもなかったので、タキオンは久々の帰省と、田上と両親の相見える機会を楽しみすることにしていた。

 電車は、田上の父の家に行ったときのようにガタンゴトンと揺れて二人を運んでいた。そこで、タキオンは、田上の父と母の顔を思い出した。父の人柄は、――ああ、そういうものだな、ということは分かるが、母の人柄は残念ながら出会う前に亡くなってしまったので、タキオンは知らなかった。だから、自分の勝手な妄想によって、田上の母の人柄は、少しタキオンにとって印象の悪いものとなっていた。別に、会ってみればそうでもない可能性はあるが、(タキオンが思っているよりマシな人であることはほとんど間違いないだろう)田上をここまで苦しめる幼少期を作った人がこの人だと思うと、タキオンは、どうしても恨まずにはいられなかった。ただ、やっぱり、この人が居なければ、田上と自分が出会うこともなかったのだろうと思うと、感謝せずにもいられなかった。

 次に、タキオンは、田上の家族関係について考えた。田上は、高校になる頃には、母を失ってしまったのだ。その苦しみもまた、タキオンには計り知れないものだろう。――圭一君は、母をなくした時に何を思ったのだろうか? そう思いながら、タキオンは田上の顔を見ようとした。しかし、田上は、完全にタキオンに寄り掛かって、眠るとまでは行かなくても、目を摘むって落ち着いていたので、顔を見るのは容易ではなかった。だから、タキオンは、田上の顔を見るのをやめると、目の前に見える自分の手と田上の手が握られる様を見た。指を交互に絡ませて、俗に言う恋人繋ぎをしている。これを見ていると、タキオンもなんだか嬉しくなった。――本当に圭一君と恋人になっている、という事をより実感できているからだ。別に、今まで実感していなかったわけではなかったのだが、改めて、自分と田上の距離の近さを思うと、まだ、付き合っていなかった頃の自分には信じられないような気がした。

 タキオンは、暫く繋がっている自分たちの手を見つめながら、にぎにぎと手を動かしたり、少し持ち上げたりした。田上は、眠っているためか、何の反応もしなかったから、タキオンは、少し田上に構ってもらいたくて、手を強めに握ったりもした。しかし、田上は、タキオンに寄り掛かって寝たままだった。タキオンは、自分の耳に田上の穏やかな息が聞こえると、田上を動かして起こそうとするのを止めた。その代わりに、自分も田上の肩に少し寄り添いながら、嬉しそうに目を瞑った。別に、眠るわけでもなく、ただ、田上と同じ状況に居るというのが、嬉しかった。

 

 電車の旅は、田上にとって短すぎた。タキオンに手を引かれて、田舎の駅に降り立った途端、田上の顔にはどっと汗が吹き出したし、手汗いつも以上に滲んできた。そして、動きもぎこちなくなったので、とりあえず、駅舎から田上を連れ出したタキオンが苦笑しながら言った。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。…少し、近くの公園で休んでから行こうか」

 田上は、吐き気がするくらいに緊張しながら、口を開かずにただ頷いた。表情は相変わらず不安そうだった。電車の中にいる時に落ち着いていた息はどこへやら、田上の息は浅くはあはあと吐かれていた。田上は、また過呼吸になるんじゃないかと恐ろしく思って、タキオンの手を縋るように握った。タキオンは、優しく振り向きこそしてくれたが、「公園に行くまでちょっと待っててくれよ」と言うと、急ぎ気味に田上の手を引いて公園まで向かった。

 公園に着いてベンチに座ると、タキオンは一度自分の小さなバッグからスマホを取り出し、心配そうに田上を見つめたが、またすぐにスマホをバッグの中に戻すと、田上に言った。

「さすがに、君がそんなに緊張というか、怯えている顔で行ったら、父さんも母さんも心配すると思うよ?」

 田上は、これに返答しようと思ったが、なんだか嫌な返答の仕方しか思い浮かばず、口を開けようと思っても、まず開くことがなかった。だから、田上は必死の面持ちで、背を丸めて自分の膝の間から砂色の地面を見つめていた。タキオンは、田上の返答を待って、暫く田上を心配そうに見つめていたが、やがて、なにもないと分かるとこう言った。

「圭一君、今の状態のままじゃ駄目だ。…父さんと母さんは何も言わないと思うけど、君が怯えてしまうと話ができない」

 それでも田上は何も話さなかった。ただ、自分の顔にじんわりと嫌な汗をかくのを感じていた。タキオンは、再びその様子の田上を見つめながら、暫く考え込んでいたが、考えがまとまると言った。

「…いや、やっぱり大丈夫かな。…別に、胆力がない君でもないわけだから、私の家に付けばそれなりに順応する可能性もある。…君も礼儀は重んじるからね。無下にはしないわけだから、自然と顔も上がるだろう。…元気を出したまえ、君らしくもないぞ」

「……俺にいつ元気があった?」

 この反論だけは、何故か口を突いて出てきたが、タキオンは苦笑しながらそれに返した。

「私を支えるだけの気力はあるじゃないか。私と一緒に笑ってくれるくらいの元気は、君も持ち合わせている。…不安なら私を抱き締めたまえ。もっと、もっと、君の不安を私にぶつけたまえ。…なるべく平和的な方法でね」

 タキオンにそう言われると、田上にもなんだかよくわからない元気のようなものが出てくる気配がしたが、だからと言って、今までの態度をおいそれと変えるわけにも行かず、今の自分の心境をどうしようかという事に苦心した。そして、一つ髪を掬い上げてみると、タキオンが言った。

「私を抱き締めたいんだろ?」

 田上は、地面に向かって俯きながら頷いたが、初めの頷きは微かすぎてタキオンに伝わらなかったようだ。ここで、二回目に頷くのが億劫になりそうになったのだが、流石は、田上の恋人アグネスタキオンと言った所で、頷くのが捉えきれずとも田上の扱い方は心得ていたので、ちょんとほっぺを触ってやって催促すると、すぐに田上の本音を引き出した。

「抱きしめたい」と田上が俯きながら言うと、タキオンは嬉しそうな微笑を浮かべて、「じゃあ、立ち上がろうか」と言った。そして、田上が立ち上がると、その背に負われているバッグをベンチの上に置かせて、自分たちは木陰に歩いていった。

 別に、木陰に行かずとも、その公園には田上とタキオン以外にはいなかったので隠れる必要はなかった。しかし、普段の癖のようなものもあり、タキオンが木陰を選んでそこに田上を連れて行った。そして、まず初めにタキオンの方からキスをした。田上もこれには驚いた。自分の方が先にハグをしたいと言ったのに、その前にキスをされたら、驚かないというわけにも行かないだろう。ただ、それを受け入れないということはしないで、タキオンが満足の行くまでキスをしてやった。

 タキオンは、キスを少ししたあと、嬉しそうにふふふと笑うと、田上を見つめて「抱きしめていいよ」と言った。ここに来ると、また田上の胸に迷いが生まれたが、タキオンに腕を持たれて、その腕を彼女の腰に催促されると、田上もおずおずと進み出てタキオンを抱き締めた。タキオンは、嬉しさが止まらなかったのか、鼻から息を出しながら無言で、田上の腕の中でふふふと笑っていた。田上は、タキオンを抱き締めていると段々と落ち着いてきた。しかし、先程のように緊張で頭が真っ白になりこそしなかったが、相変わらずの憂鬱さが滲み出てきて、タキオンを抱き締めながら、はぁとため息を吐いた。そのため息を聞くと、タキオンは、田上の背中をぽんぽんと叩いて、「心配しなくてもいいんだよ」と言った。田上は、それを聞いても暫くは、身を固くしたままタキオンを抱き締めていたが、やがて、もっとぎゅっと抱きしめると、タキオンに向かって言った。

「花さんも宗太郎さんも認めてくれるかな?」

「…多分、――自分たちをお義父さんお義母さんと呼んでくれ、って言うと思うよ。…今までは、トレーナーとして、父さんと母さんと対等な関係だったかもしれないけど、本来、圭一君は年下であり、次には、娘の恋人というわけだから、君は息子扱いになるね」

「…ああ、…そうか…」

 田上が陰気にそう言うと、タキオンは元気づけるように田上の背中を擦りながら、苦笑して言った。

「大丈夫だよ。名称が変わるくらいなんともないさ」

「……大丈夫かなぁ…。…こんなに頼りない男だぞ…。…それに、付き合って、まだ一ヶ月も経ってない。…早すぎたんじゃないか?」

「早すぎるってことはないさ。どちらかと言うと、あっちも圭一君が私を嫁にしてくれるのを心待ちにしていたと思うね」

「どうして…?」

「実は、お義父さんの家に行った時に、母さんに電話したんだけど、その時に――付き合ってみたら?みたいな感じでからかわれたことがあるんだよ」

「俺の父さんの家?」

「そう。もう、お義父さんって呼んでも問題ないだろ?」

 田上が、答えられずにタキオンを無言で見つめたままで居ると、タキオンは、唐突に田上の顔に手を添えて、その唇にキスをした。そして、唇を話すと田上の目を見つめながら言った。

「問題ないだろ?もう、結婚してるも同然だ」

「…でも、一ヶ月は早すぎないか?」

 その後に、田上が「まだ一ヶ月も経ってない」と言うと、タキオンがこう切り替えした。

「いや、一ヶ月は経っているはずだよ。少なくとも、あのキスが大阪杯だったから、確実に一ヶ月は経った」

「…そうか…。もう、そんなに経ったのか…」

 田上は、自分の勘違いに少し驚いた表情を取った。

「そうだよ。もうそんなに経った。 君が思っているより、私達は大分長く続くことになりそうだよ」

 タキオンが愛おしそうに田上を見つめながらそう言うと、田上は、暫く自分の恋人の顔を黙ったまま見つめた。その後に、こう口を開いた。

「一生居られるかな?」

「その気であれば、来世も一緒に居て上げよう」

 タキオンが当然のような口調でそう言うと、田上は、少し表情を緩ませた。

「来世も?」

「できることなら、私も一緒に居たいからね」

「俺も」と田上が低い声で言うと、また、タキオンをぎゅっと抱き締め直した。タキオンは嬉しそうな声を上げて、自分の方ももっと田上に身を寄せた。二人の間には、ネックレスがあった。今日の日にもちゃんとつけていこうと、タキオンが田上に言ったのだ。お揃いのネックレスを父と母に見せれば、自分たちの信頼も目に見えて分かる。タキオンは、田上にそう説明した。そのネックレスが、今二人の胸の間に挟まれていたが、以前のときのような刺すような痛みを二人に及ぼさなかった。ただ、心地よい塊として、二人の間に溶けてくようなものだった。

 田上は、その塊を感じながら、嬉しそうに口角を上げると、またタキオンの顔を見つめ直して言った。

「キスしよう?」

「ん?いいとも」

 珍しく田上の方から求められたので、タキオンは一瞬言葉が理解できなかったが、快く受け入れた。そして、二人は暫く愛のあるキスを交わしたあと、田上が照れくさそうに口の端を歪めながら、唇を離した。

「……俺と、…結婚してくれるんだよな…?」

 田上の声の調子はどことなく緊張しているようだった。それに、タキオンは微笑みながら返した。

「結婚するとも。 いつか時機が来たら、二人で一緒の家族になろう?」

「…いいよ」

 田上は、田上らしい嬉しさを表情の奥に押し込めたような落ち着いた顔で、そう頷いた。そして、田上の緊張もある程度解れて、覚悟もそれなりに決まったようだった。タキオンが、「行けるかい?」と聞くと、躊躇いながらもゆっくりと頷いた。

 それから、二人は、各々の荷物を持つと、いよいよタキオンの父母の家へと向かった。

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