朝日川家の玄関の引き戸は、タキオンが初めに開けた。タキオンの父母の家は、屋根に瓦の敷かれている平屋で、長方形になっていた。向かって正面から右手に車を停めるスペースがあったが、今は、どうも車はそこに駐まっていないようだった。
鍵は開いていたので、タキオンが「ただいま~」と家の奥に呼びかけながら入っていった。すると、まず、大きめ犬がのそのそと出てきて、田上たちをじっと見つめたあと、家の奥の方を見た。家の奥の方からは、タキオンの母が「はーい」と返事をしている声がした。それから、とたとたと足音が聞こえると、タキオンの母が顔を出した。
「おかえりー。 田上さんも今日はよく来てくれて」とタキオンの母のアグネスフィオーレが頭を下げた。「花さん」というタキオンの母の渾名は、この名前から来ていた。
田上も頭を下げると、いつになく緊張した調子で、「私も今日はお会いできて嬉しいです」と答えた。タキオンは、その田上の様子を見ながら、ニヤリと笑ったが、膝くらいの高さのある上がり框に腰掛けた。そして、靴を脱ぎながら言った。
「あの犬は大人しいね」
「ああ、ホントにいい子で助かるわ。無闇矢鱈に吠えないから、全然大丈夫」
「そういうのを選んで買ったのかい?」とタキオンが、少し棘のありそうな言葉で聞いた。ただ、母は特に気にもせずに言った。
「違う。知り合いからもらったの。その知り合いのお婆ちゃんが飼ってた犬があの『よー君(犬の名前)』だったんだけど、そのお婆ちゃんがお亡くなりになってしまって、引き取り手が居なかったんだって。私の知り合いの方も、団地に住んでるから引き取れなくて、そっちの兄弟の方もちょっと無理そうだったから、困ってたらしいの」
「それで、父さんは許してくれたんだ」
「まぁね、渋い顔はしてたけど、いざよー君が来てみると、よー君が一番懐いてるのがそうちゃんだったりするのよ。それで、そうちゃんのほうも、まぁ、それなりに可愛がってるってわけ」
「じゃあ、大きい犬だけど、馴染んではいるんだね」
「そうだね」とここで、母の方が、田上に目を留めて言った。
「ああ、すみません。玄関先で立ち話もあれですね。 タキオン、早く靴を脱いで。田上さんが待ってるよ」
「母さん、もう田上さんじゃないよ。圭一君って呼びたまえ」
タキオンがそう言うと、母の目が嬉しそうにキラリと光った。
「それはどういう意味?」
「…父さんは?」
「残念ながら、今、ちょっと桜花と一緒に買い物に行っているのよ」
「なら、話は父さんが帰ってきてからだ」
「…あ、タキオン、授業出てないそうだけど大丈夫なの?田上さんが心配してたけど」
「大丈夫。これは、圭一君と私の二人だけの話だから、あんまり首を突っ込まないでくれ」
「あら、すっかり反抗期ね」
「それでいいよ」とタキオンが淡白に頷きながら、田上の方を――次に靴を脱いでもいいよ、というように見つめた。タキオンが退くと、田上もそこに腰掛けて靴を脱いだ。それから、靴を丁寧にタキオンの靴の隣に並べると、田上は家の床に立ち上がった。
そこで、丁度タキオンが母に「いつもの所に荷物を置くよ」と言ったので、田上は、タキオンの後ろに普段よりも背を小さく縮こまらせながらついていった。タキオンは、左手の襖を開けると、その中に入っていった。そこは、畳の部屋で、そこから先に進むとまた部屋があり、そこには仏壇が置かれていた。家の玄関のすぐ左手の方には縁側があって、そこには物がチラホラ置かれているのが見えた。
タキオンは、慣れた家なのでスタスタと歩いて、仏間の端の方に自分のキャリーケースを置き、田上にも置くよう促した。そして、また、もう一つ前の部屋に戻ると、こう言った。
「ここが私達が寝る部屋だ。あの頃が懐かしいね」
タキオンは、田上を見つめていたが、田上は、迷うように一度目を逸らしてから、もう一度タキオンの方に目を合わせて言った。
「父さんの家の時?」
「そう。また、あの頃とは随分と関係性が変わった。 いい方向にね?」
「…ああ」
田上は、緊張気味になって頷いた。すると、その様子を少し遠くからじっと見つめていた母が、二人に向かって言った。
「タキオンと田上さんは、昼食は食べてきたの?」
「ん、まだ食べてきてないよ」とタキオンが答えた。田上も一応頷いておいた。
「ラーメンでもいいから、何か作ってくれよ。腹が減って死にそうだ」
「田上さんもラーメンでいいですか?インスタントですけど」
「あ、はい。それでいいです。…あ、あと…」と田上が言うと、急いで自分のバッグの方に立ち戻り、少し中を漁ったあと、お土産のお菓子の箱を取り出して、母の方に差し出した。
「あの、これ、タキオンから好評だったと聞かせてもらったので、…喜んでもらえるかな…と…」
「ああ!ありがとうございます!桜花がとっても気に入っていたんですよ!本当に美味しかったです!お気遣いありがとうございます!」
「いえ、五日間も滞在させていただくので、これくらいのことは…」
「ああ、もう、全然お気になさらずに!本当に、タキオンと二人で来てくださるのが嬉しいので、全然、こっちも昨日から皆で夕食のときなんかに――楽しみだね――楽しみだね、って言い合っていたんですよ」
「ああ、ありがとうございます…」と田上は、耳まで真っ赤にさせて、頭を軽く下げた。その二人の様子を見つめながら、タキオンはくすくす笑って言った。
「じゃあ、母さん。圭一君も少し疲れてるし、緊張もしてると思うから、ラーメンを作ってきておいてくれ。私達は、この部屋で少しゆっくりしておくよ」
タキオンの母は、ニコニコしながら「はーい」と頷くと、これまたニコニコしながら部屋から出て行き、ついでにそこの襖も閉めた。田上は、タキオンを――これからどうするの?という目で見つめた。タキオンは、その目を気にせずに、「よっこいしょ」と言いながら仏間の隣の部屋の隅に畳まれている二枚の布団を背もたれにして、ゆっくりを畳に腰掛けた。そして、不意にタキオンが振り返って、布団が二枚あるのを確認すると、立ち上がって母が出ていった方の襖を開けに行き、そこから大きな声で母に向かって呼びかけた。
「布団は二枚あるけど、圭一君の分もあるのかい?」
「はい!そうです!」と台所に居る母から声だけが返ってきた。すると、タキオンがニヤリとしながら田上の方を振り返って言った。
「圭一君の分も買ってきてくれたらしいね。…いよいよ、君も私の家族の一員だね」
田上は、畳の上に立ち尽くしながら、元気がなさそうに微笑した。すると、その田上の元気の無さに気がついたタキオンがこう言った。
「いい加減座りなよ。緊張するのもわからないことはないけどね。…もう少しリラックスしてもいいよ」
タキオンがそう言うと、タキオンが開け放していた襖の方からゴールデンレトリバーが顔を覗かせた。タキオンたちが変なことをしていないか、警戒の為に顔を覗かせたらしいので、そのまま少し吠えるように「ワフッ」と言うと、台所にいる母の方を見て、もう少し大きな声で「ワン」と言った。母は、犬を落ち着かせるために「大丈夫だよ~。私の娘と息子だよ~」と言った。
その声が聞こえると、途端にタキオンが笑いだして、まだ立っている田上を見上げながら言った。
「もう、圭一君を息子みたいに思っているそうだよ、母さんは」
「…そうだね…」
田上は少し複雑な心境だったが、改めてタキオンに「少し座りたまえ」と言われると、やっと腰を床に落ち着けた。それから、タキオンも眠そうに欠伸をしたが、少し遠くを見つめると言った。
「桜花と父さんはいつ帰って来るんだろうね?」
田上はこれには何も返さずに、ただ床の畳を見つめていた。家の雰囲気は、田上の父方の祖父母の家に似ていた。田上家の祖父母の家もこうして畳が敷かれていて、仏間があって、縁側があった。家の造りも結構似ていたが、所詮他人の家であることに間違いはないので、タキオンが田上の父の家に帰省したときのように、全く知らない匂いがこの家に漂っていた。
田上がまだ緊張している様子で居るので、タキオンは、それを見つめると不意に動き出して、田上の頭を抱えて、横向きに倒した。田上は特に抵抗もせずに、怪我をしないようにゆっくりと倒れながら、タキオンの成すが儘に任せた。タキオンは、田上を横に倒すと、自分もその前に寝転がり、田上と目を合わせながら言った。
「大丈夫だよ。君だけに喋らせることなんてしないって言っただろ?もう少しゆっくりしててもいいよ」
「ああ…」と田上が、何か言いたいことを胸の内に押し込めているような顔をすると、タキオンは田上の頭を腕の中に包んで、ぎゅっと抱き締めた。そして、唐突にまた犬が「ワフッ」と言うと、タキオンは急いで音の正体を確認したあとに、苦笑した。
「さすがに、自分の家でこういう事をするとなると中々後ろめたさもあるな」
「…緊張が凄い…」
「…大丈夫だよ。君が、あの時の帰省で私にしてくれたように、私も君を抱き締めてあげるから」
「……冬の雨の中を走らせたけどな…」
「それはもう、今となれば、私達の絆が深まったいい思い出だよ。 死んでないんだから、落着さ。そして、今は付き合えているんだから」
「…別れたくない…」
「別れないためにも、父さんと母さんに私達の関係を認めさせてあげなくちゃ。…君のお義父さんには言ったのかい?私達が付き合っていること」
「…言ってない…」
「なら、また、言いに行かないと。…近いうちにね…」
「父さんには電話でいいよ」
「…それだと私もあんまり納得がいかないなぁ。私もこうやって君の両親に挨拶をしたい」
「母さんは死んだ…」
「死んでない。君の傍に居るよ。例え死んでいたとしても、顔を見せてあげなくちゃ。あなたに、もう一人娘が増えましたよって」
「…お前の家も大きいから、婿入りしないといけないんじゃないのか?」
「…どうだろうね?…おばあちゃんは、そこら辺はしてほしいと思うかもしれないけど、元々、跡取りの方は、私の母さんの兄、私の伯父さんが居るからね。…まぁ、どちらにしろ、私にはそんな事は関係ないと思うね。私は、私の母さんの娘で、君のお母さんの娘だ。君も同じように君のお母さんの息子で、私の母さんの息子だ」
また、犬が、タキオンたちの畳部屋の前でウロウロとしている音が聞こえた。その音の正体を確認するためにタキオンが顔を上げると、そのまま、ついでに襖も閉めに行った。電気は点けられていなかったので、縁側の方にある障子から透けて照らしてくる淡い陽光に部屋が照らされた。田上の鼻には、不意にぷんと線香の匂いが漂ってきた。その匂いをタキオンも感じたようだった。田上に「仏壇に参っておくか」と言うと、仏間に歩いていった。田上もゆっくりと重い体を立ち上がらせると、タキオンの後について仏間に入り、その後ろに正座をした。
タキオンが蝋燭と線香に火を点けて、鐘を打った。カーン…と静かな部屋に鐘の音が響いた。田上は、その音が頭の中で何度も木霊するのを感じながら、目を瞑って手を合わせていた。長い事そうやっていたが、タキオンも田上と同じように長い事手を合わせていた。そして、二人揃って手を下ろし、目を開けると、丁度、タキオンの母が「ラーメンができましたよー」と二人に呼びかける声が聞こえた。
タキオンと田上がラーメンを啜っている頃に、桜花と父の宗太郎が玄関をがらららと開けて帰ってきた。途端に嬉しそうな子供の叫び声が聞こえてきた。見慣れない姉の靴ともう一足の見慣れない男物の靴が見えたからだ。
「お姉ちゃん帰ってきてるのーー?」と玄関の方から呼びかけられたが、タキオンは、ニヤリと笑って田上を見ただけで、それに返事をしようとはしなかった。
次いで、どたどたと足音が聞こえると、玄関の方に続く廊下から桜花が姿を現した。そしてまた、きゃーと叫んで言った。
「お姉ちゃんと田上さん結婚するのーー?」
タキオンは、少し困ったように微笑みながら、「まぁ、昼食が終わったら話すよ」と言った。その後に、大柄なタキオンの父がのそのそとリビングに入ってきて、田上と目を合わせると微笑みながら一礼し「いらっしゃい」と言い、次にタキオンの方を向くと、「よく帰ってきたな」と言って、娘の肩をぽんぽんと叩いた。タキオンは、「ただいま」と言うと、残りのラーメンに手を付けた。
父の方は、母の方と田上の方を交互に見つめながら言った。
「報告があるっていう話を聞いてたんだけど、もう、終わらせちゃった感じかな?」
「いいえ、まだだけど…」と母が言い淀んで田上の方を見ると、田上は、もう今から話さなければならないと思い、慌てて背筋を伸ばして目を見開いた。すると、タキオンが口を挟んできた。
「今は、ラーメン食べてるからちょっと待ってて。食べ終わったら話すとするよ」
それで、田上も自分でも動揺しているのが傍目から見え見えだということを感じながら、タキオンの父の視線を浴びて、残りのラーメンを食べた。父は、タキオンの向かいの席に座ると、桜花の相手をしながら、タキオンと田上を可笑しそうに交互に見つめた。やがて、母の方も田上の向かいの席に座った。すると、桜花が言った。
「あ、私の席がないよ!?」
「あら!」と母も驚いた声を出して、どうしよう、というように自分の椅子を見つめた。すると、父が口を開いた。
「丸椅子がなかったかな?それで良いんじゃないか?」
「ああ、そうだね。私が丸椅子に座りましょう。…桜花、今すぐ座るの?」
母がそう聞くと、桜花は暫く悩んだ後に「座らない」と答えた。
「なら、後ででいいわね」
母は、田上のラーメンの残りを見つめながらそう言った。タキオンは、もうすでに食べ終わっていた。あとは、田上が食べ終わるのを待たれているだけだった。ここまで来ると、田上も具合が悪くなってくるような気がして、逃げ出したくなった。もうあと一口かそこらで食べ終わってしまう。時間は稼げそうにない。ここで、田上は、こう口を開いた。
「トイレに行っても…?」
別に時間を稼ごうという気はなく、純粋にトイレに行きたいだけだった。タキオンは、眉を上げると、左手の廊下を指さして、「あっちの行き当たりにトイレがあるよ」と言った。だから、田上は、申し訳無さそうに頭を微かに下げながら、トイレに向かった。トイレの中では、――何とか時間稼ぎができないか?と考えたが、生憎、大きい方も今の所は出る気配がなく、小便を終えたらトイレから出るしかなかった。
トイレから出ると、桜花が話している声が聞こえた。
「結婚するのー?」と聞いてたが、タキオンの声は「ううん、まだだよ」と答えていた。そこから聞こえる声は異様な程に静かな場所から発せられていた。田上はその部屋に戻るのが怖かった。今から何が始まるのか。自分が得体の知れない何かの下に、愚かにものこのこ足を運んでいるんじゃないかという気がした。ただ、もう後戻りをする術はなかった。ここまで来てしまった以上、タキオンの隣に戻るしかなかった。田上は、曇りガラスの引き戸を引いて、リビングの中に入った。
まるで、お葬式に参列している人のように…、田上は自分で自分自身のことをそう感じながら歩いた。自分の足音が微かであるにも関わらず、とす…とす…と頭の中に響いてくるような気がする。タキオンの目が田上のことを見つめてきているが、それが自分をバカにしてきているように感じる。きっと、この先もう何もかもうまく行かないんじゃないかと思いながら、田上は席に着いた。
タキオンは、そんな田上を心配そうに見つめたが、唐突にこう口を開いた。
「圭一君から言ってくれるかい?」
傍から見れば、好きな人を崖から突き落とす事のように思えたが、タキオンにはこうするしか術はなかった。田上の名誉を守りたいなら、田上に名誉を守らせるしかなかった。田上は、そう言われると、怯えた顔をしてタキオンを見つめたが、タキオンは、そんな様子には気づいていないふりをして言った。
「昨日話しただろ?」
――なにを話したんだったかな…? 田上の頭は真っ白になっていた。昨日タキオンと話していたことは一切思い出せない。それでも、何か話さなければならないと思うと、田上はこう口を開いた。
「大阪杯の時にも…耳にされたと思いますが…、僕とタキオンは通じ合っている仲でした…」
これは、全く田上のアドリブを聞かせたものだったから、――大丈夫かな?とタキオンは内心ちょっとドキドキしながら、田上の横顔を見守った。田上は、時々、母を見たり、父を見たり、自分の親指を見たりしながら、話していった。
「ただ…、トレーナーという立場上…僕も、思うところがあって…」
ここで、タキオンの父が少し微笑みながら頷いた。タキオンの父もトレーナーとして、母のアグネスフィオーレと結婚したので、田上の気持ちも十分過ぎる程に分かった。
「あの時は、…まだ…どうすればいいのか、…分かりませんでしたが、…その後も何度か話し合った後に交際することに致しました…」
田上はそう言った後に、言い切れたことに内心大きな大きな安堵を感じながら父と母の顔を真っ直ぐに見た。二人共、良くない印象を抱いている顔ではなかった。心から祝福している顔だった。それで、タキオンは田上の言葉の続きを言った。
「結婚も考えている。まだ、いつになるかは分からないが、私が引退した頃合いが丁度いいように思う。…何かあるかな?」
タキオンの母は、なにか言いたそうな顔をしたが、一度父の方と目を合わせてから田上に向かって言った。
「田上さん、…今までは、トレーナーさんとして接してましたけど、これからは、息子として扱ってみても?」
「あ、ああ、はい。全然、勿論。…どうぞ」
田上の耳は真っ赤に染まっていた。タキオンは、その耳を見てくすくす笑いながら、父母に向かって言った。
「言いたかったのはこれだけだ。付き合った。結婚も考えている。そして、多分、それは実現できる。今までもちゃんと話し合ってきたから、確実に結婚はできる。…圭一君もその考えだろ?」
タキオンが問うと、田上は一瞬タキオンと目を見つめ合わせた後、タキオンと父母どちらに返答したらいいのか迷い、「はい、…そうです?」と中途半端に答えた。ただ、タキオンはそれだけでは、どうも満足が行かなかったらしく、「ん?」と言うと、田上に続きを催促した。
「…話し合うことができる。それがあれば、簡単には別れることはない…んだよね?」
田上が不安そうにそう付け加えると、タキオンも苦笑して、「ああ、そういう事だ」と言った。それから、父母の方を向くと、タキオンは言った。
「なにかあるかい?言う事とか」
母は、「なにもないけど…」と言いながら父の方を見た。父は、タキオンの顔をじっと見ると、次いで、田上の顔もじっと見て、言った。
「俺と母さん、フィオーレの方もそういうトレーナーと担当だったという話は知っているかな?」
これは、主に田上に向けられた質問だったが、タキオンは「知っているとも」と答え、田上もその後にゆっくりと戸惑いながら頷いた。
「なら、分かると思うけど、…俺の方も田上さんとタキオンの関係をちゃんと応援します。相談とかがあったら、遠慮は特にしなくていいからな」
父は、田上とタキオンの顔を交互に見つめながら言った。田上もタキオンも同じように頷くと、父の方も満足げに頷いて、「俺も言いたいのはこれだけ」と言った。すると、タキオンが立ち上がって言った。
「よしよし。順調に事は運んだ。言っただろ?圭一君。父さんも母さんも君を一人前の大人してみているよ」
それをご両親の前で言われると、田上もなんだか恥ずかしかったが、改めて父母の方を見ると、感謝の言葉が突いて出た。
「ありがとうございます」
そう言いながら深々と頭を下げると、父母の方もそれに微笑み返しながら、頭を軽く下げた。
そして、田上が立ち上がると、田上の席の背後のソファーで犬と戯れついていた桜花が、タキオンと田上の二人を見上げて言った。
「結婚するの?」
「…結婚はね」とタキオンが言った。
「来年頃にすると思うよ。桜花、田上さんはもう今からお兄ちゃんだよ」
それから、タキオンは田上に目を戻すと悪戯っぽく笑った。桜花は、それを聞いて、一気に元気を爆発させて言った。
「ええ!?本当!?お兄ちゃんになるの?」
「そうだよ。圭一お兄ちゃんだ。お兄ちゃん、まだまだ元気で若いからたくさん遊んでもらうといいよ」
「えー!じゃあ、今からお店屋さんごっこしよう?」
田上は、これを聞くと、緊張で身を固めたが、その前にタキオンがストップを掛けた。
「ちょっと待った。お兄ちゃんは、今から私に用事があるんだ。今の話で大分緊張しただろうからね。お兄ちゃんも休みたいのさ」
そこで、まだ座っている両親の方からクスクス笑いが聞こえてきた。
「えー!そんな事言って、お姉ちゃん、お兄ちゃんと遊びたいだけなんでしょー」
すると、田上も少し笑ってしまった。タキオンも苦笑して、こう言い返した。
「おやぁ?桜花も鋭いね。ちょっと二人だけで話したいから、テレビでも見ときなさい」
「嫌。私も行く。どこ行くの?」
「あっちの部屋さ」
タキオンはそう言いながら歩き出し、田上はその後に少し元気を取り戻した足取りでついていった。そして、部屋を出る際に両親と目があったので、小声で「ありがとうございます」と言うと、小さく頭を下げてタキオンの後についていった。
桜花は、「よー君行くよ」と言うと、ゴールデンレトリバーを従えて、田上の後ろについて行った。
その三人と一匹の後ろ姿を見ながら、両親はニコニコと笑っていた。
タキオンは、畳の間に着くとぐでんと布団を背もたれにして、足を広げて、ほとんど寝転がるような体勢になった。田上は、その横に座ったが、タキオンが伸ばしてきた手を取ると、そのままその手に引っ張られて、タキオンの隣に同じような体勢で寝転がることになった。そして、その後に桜花と犬が入ってくると、桜花は、田上の横に寝転んで、犬は、「はっはっ」と息を出しながら、寝転がっている三人を見つめた。
田上は少し怖がっている調子でその犬を見つめていたから、タキオンが言った。
「犬が怖いのかい?」
「ん?…怖がっていないと言えば嘘になる」
「素直に怖いと言いたまえよ。部屋から追い出そうか?」
「追い出してもらうほど怖いわけじゃない。多分、噛まないんだろ?」
「噛まないんじゃないか?…桜花、どうなんだい?」
「噛まないよ」と桜花は、能天気な調子で答えた。それでも、田上は、少しの間犬を警戒して見つめていたが、相変わらず、犬も田上を見つめたまま「はっはっ」と言っているだけだったので、ふぅとため息を吐いて、天井を見上げた。
「気が抜けたかい?」とタキオンが田上の横に寄り添いながら聞いた。
「ああ、…本当に良かった…。…特に何の失敗もなかっただろ?」
「全然大丈夫だったよ。昨日の夜に話そうと予定を立てていたことを全部アドリブに変えたのは、さすがに心配したけどね」
「だって…、緊張して何も浮かばなかったんだよ…。…マジで緊張した…」
そして、田上は、気の抜けたようにはははと力無く笑った。
「よくやりきったよ。緊張しても言えるタイプじゃないか」
「もう逃げ場がなかったからな…。…良かったぁ…」
「晴れて、君はもう私の父さん母さんを、君の父さんと母さんのように扱っていいことになったね」
そこで、桜花が口を挟んできた。
「田上さん、じゃなかったお兄ちゃんは、なんでお兄ちゃんになったの?」
「お姉ちゃんと結婚したからさ。結婚っていうのは、家族になる、っていうことだから、お姉ちゃんの家族は誰?」
「…お兄ちゃん?」
「まぁ、それもあるが、まず初めに、桜花と母さんと父さんが居るだろ? 桜花と母さんと父さんが私の家族、そして、その家族の中に、お兄ちゃんが今日入ったってことだ」
「でも、まだ結婚はしてないんでしょ?」
「それもその通りだが、心の中では結婚しているのと一緒なんだよ」
「じゃあ、赤ちゃんができるの?」
ここまで質問されると、タキオンも困ったように笑って、「おにいちゃん、説明してやってくれよ」と田上に説明をぶん投げた。田上もまさか自分に振られるとは思っていなかったので、思わず「はぁ?」と言ってしまったが、暫く言う内容を考えるとこう言った。
「残念ながらね。赤ちゃんっていうのはね。…ある一定の年齢に達しないとできないんだよね」
「大人になればできるんでしょ?」
「まぁ、その通りだけど…」
「お姉ちゃんは大人じゃないの?」
桜花が度々口を挟んでくるので、田上は思いの外話しづらくて困ってしまった。そして、タキオンの方も口を挟んできた。
「お姉ちゃんは大人だよ」
「じゃあ、なんで、お姉ちゃんは赤ちゃんができないの?」
この質問は田上に向けられたものだったから、なんで答えにくい質問を自分にばっかり…と思ったが、田上はこう答えた。
「お姉ちゃんはね、実は嘘吐いてるんだよ」
「お姉ちゃんは嘘吐いてないよ」とタキオンが口を挟んできた。すると、桜花も年上二人の言い分が二分していたので、「どっちぃ?」と笑いながら聞いた。
「お姉ちゃんはね」「お姉ちゃんは、赤ちゃんできるよ」と田上の話にタキオンが被せてきたので、田上も多少苛ついて、タキオンの頬に軽くデコピンをすると、彼女を黙らせて言った。
「お姉ちゃんはね。赤ちゃんできるには、もう少し時間が必要なんだよ。だからね、結婚とか…キスとかで子供ができるわけじゃなくて、…その時が来たら赤ちゃんができるんだよね」
我ながら良い塩梅に誤魔化せたと思ったら、桜花からこんな質問が飛んできた。
「その時って?」
「その時?…えー、…暇とかができたらかな?」
「今暇なんじゃない?」
妙にしつこい子供だなーと田上は、内心で困り果てながら、やはり、丁寧に対応することをやめなかった。
「今はね、休養という事をしに来たんだよ。ゴールデンウィークの間は、ここに居るつもりだけど、それは、タキオン、お姉ちゃんもレースがあるからね。そのレースのために休むということをしなくちゃいけないわけで、休むというのもレースの一環なんだよ」
これ以上来たら、もうタキオンにぶん投げようという気持ちで話すと、桜花もなんとか分からないなりに納得してくれたようだ。「ふ~ん」と少し考え込みながら、その後は少し黙った。タキオンは、田上の方にもう少しだけ寄り添うと、「いい説明をしたね」と田上を小声で褒めてあげた。田上は、思いがけない心労にタキオンを少し恨みながら、その頭を優しく撫でてやった。
そして、タキオンが桜花に見られないようにこっそり田上の頬にキスをしたのだが、丁度、そこだけを桜花が見てしまって、今まで黙っていた桜花の元気が途端に爆発した。
「わー、お姉ちゃんキスしてるー!!」
家中に響き渡るような大声だった。父に聞こえておらずとも、少なくとも、確実にウマ娘である母には聞こえているだろう。タキオンは、顔を真っ赤にして「桜花、うるさい!」と言ったが、時すでに遅かった。桜花の口を塞いだ所で、言ったことはもう取り消せないし、キスを見られたという事実はもう消えない。確実に父母に伝わるだろう。
――まぁ、いいか。減るもんじゃないし…。
タキオンは、そう思いながら力無くため息を吐いた。
――きっと、父さんも母さんもこういう事を飽きるほどやってきたんだろうから、今更私が文句を言われる筋合いはないよ。
田上の方はと言うと、ちょっとばかり焦ってはいたが、タキオンのほうが冷静に見えるので、田上もつられて冷静になっていた。しかし、桜花にこう詰め寄られるのは少し面倒だった。
「え、キスしたの?いつもキスしてるの?赤ちゃんできないの?」
「赤ちゃんはできないよ」
「キスってどんなんなの?」
「…タキオンに聞いてみて」
これは、タキオンのほうが悪いと思って、田上は、タキオンにぶん投げた。それで、タキオンは、面倒臭そうにしながら桜花に対応した。
「キスって言っても、肌と肌が触れ合うようなものだよ。それだけさ」
「じゃあ、なんでそれだけなのにキスするの?」
「ええ?…愛情表現の一つだよ。…圭一君の事が好きだから、ちょっとチュッとしただけ」
「へー、おもしろーい」と桜花が言うと、タキオンは田上の手をこっそり握りながら「何が面白んだか…」と呟いた。
それから、桜花はひっきりなしに話しかけてきた。大分、お母さんの血が濃いようで、話す事が大好きだった。タキオンもそのお母さんの血が流れていないと言えば嘘になるが、父の聞き役の血もしっかりと流れていることがあった。
あんまり困ったような質問を投げかけてくることは、その後はあんまりなかったが、度々、タキオンと田上の私生活の関係についてなにか言ってくることはあった。
桜花は、特に田上の方に話しかけた。実の姉よりも珍しい、今日兄になったばかりの田上と話すのが楽しいのか、それとも、単純に田上の面倒見がいいので、姉よりも会話が弾むために話しかけやすいのか、そのどちらかである可能性はあった。ただ、田上は、ここまでひっきりなしに話しかけられると少々疲れてきた。もう少しタキオンと二人だけの空間でゆっくりと軽く会話でもしながら休憩したかった。それを察したのか、タキオンは一度「トイレ」と言って立ち上がって部屋から出ていくと、その直後に父が襖から顔を覗かせて、田上に笑顔で会釈をすると、桜花の方を見て言った。
「桜花、田上さんにあんまり質問するのも止めなさい。田上さんも疲れてるだろうから、少しゆっくりしたいはずだよ」
「えー、私お兄ちゃんと話したーい」と桜花が、駄々をこねそうな気配を見せると、父が少しお道化たしかめっ面を見せた。
「桜花、めっだよ、めっ。田上さんも疲れただろうから、タキオンとゆっくりしたいはずだよ」
その後にこうも付け加えた。
「映画をつけてあげるから、こっちでそれを見ときなさい」
桜花は、相変わらず「えー」という調子だったが、それ程聞き分けの悪い子でもなかったようで、その後には大人しく父の後について部屋から出て行った。ついでに、ゴールデンレトリバーも部屋からのそのそと居なくなっていった。田上は、父がわざわざここまで来た理由を、タキオンが、田上が困っているというのを話してくれたからだと思った。タイミングもそのようだったし、父もわざわざ言われもしないで桜花を呼びに来るような人でもないだろう。気遣いができない人という訳では無いが、客人にそれ程力を注がない人のような気がした。
そして、案の定、タキオンがトイレから戻ってくると、「桜花は帰ったようだね」と言い、「私が父さんに頼んだんだ。桜花は、父さんが言わないと聞かないからね」と言った。田上はそれに感謝を告げると、タキオンの手を求めるように握った。すると、タキオンは嬉しそうにふふふと笑って、「やっと二人きりだね」と言い、田上の頬にまたキスをした。田上は、タキオンのキスに微笑み、これまで憂鬱だった物事が全て一件落着に運んで、安堵したように微笑んだ。そして、タキオンの方を向くと、暫く目と目を見つめ合わせた後、「よかった…」と言った。
それから、田上は、この部屋に居る間に何回「良かった…」と言ったのか分からない。それ程に田上には、この事が気がかりで、憂鬱で、心配だったのだ。そして、それがちゃんと両親に受け入れられて、心底ホッとしたのだ。
田上は、タキオンの家族に見られないように一度、ぎゅーっとタキオンを抱き締めて、嬉しそうにふふふと笑った。タキオンも嬉しそうにふふふと笑っていた。