ケロイド   作:石花漱一

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二十七、ゴールデンウィーク初日③

 夕方近くになると、タキオンと田上は、犬の散歩にでかけた。その犬の散歩には、父と桜花もついてきた。だから、田上とタキオンが犬の散歩をしていると言うより、犬の散歩をしに行く桜花と父に、田上とタキオンがついて行くという形だった。さらに言えば、この散歩についていくのは、二人で行こうと言い出したわけではなく、タキオンが田上を誘ったからだった。けれども、言ってしまえば、田上もこうして田舎の道を散歩できるのは嫌いじゃなかったから、その道をタキオンと散歩できて嬉しかった。

 田上は、前を歩く父と桜花の少し後ろに、タキオンと一緒についていきながら、軽く話などをした。「圭一君の小さい頃は?」とか「私の小さい頃はね…」などという話を投げかけられたので、田上もそれなりに散歩にあった雰囲気で静かに言葉を交わした。周囲が閑静とした田んぼだったので、自分たちの声がよく響くような気がした。

 田んぼには、緑が生えようとしていた。田んぼの中には早めの苗がぽつぽつと暗くなりつつある景色の中に黒く小さく見えた。田んぼの周りの畦は草が刈られたばかりのようで、適当に山にされた雑草がこれもまたポツポツと置いてあった。

 四人と一匹は、歩道のない道路を話し声を響かせながら歩いた。特に桜花の声は大きく、辺り一帯に響き渡るようだったから、父が度々注意をしていた。タキオンはその様子を見つめながら、田上とそっと手を繋いだ。田上も手を繋ぎ返して、恋人繋ぎをした。タキオンは、嬉しそうに、寂しそうにふふふと笑うと、父と妹の背を見つめて言った。

「…なんだろう…。…こう…君が帰りたいと言う気持ちが分かるよ…。…私は今…猛烈にあの頃に帰りたい気分だ…」

「…あの頃?」

 田上が静かに聞いた。

「…あの頃さ。…何も考えなくてよかったあの頃…。…だから…、ちゃんと私の手を握っててくれよ。繋ぎ止めててくれよ。…でないと、あの頃に引っ張られて行ってしまうかもしれない…」

「俺の手も握っててよ…?」

 田上が、少しの不安を顔に滲ませながら言うと、タキオンは、先程の口調より少し元気を取り戻して言った。

「勿論さ。私は、圭一君の彼女だもの。…でも、私の手も掴んでてくれないと嫌だよ…?」

「掴むよ。今更放したりなんてしない…」

「どうかな?君は不安定な時があるからね。…まぁ、そのときは、私が掴んでいてあげるけど」

 タキオンが、そう言うと、田上はまた少しだけの不安に苛まれたような顔をした。

「掴んでいていいのかな?」

「んん?掴むさ。恋人の手だよ?私が掴まないで誰が掴んであげるんだい?」

「…掴まれていいような人間なのかな?」

「いい人間さ。私が君を好きなんだ。そして、君も私が好きなんだ。これを掴む権利がないと言っていいのかな?」

「…ないかも…」と田上は、含みがあるような微笑みを浮かべながら言った。タキオンは、この顔をじっと見つめていたが、不意に立ち止まると、父と桜花との差が開いていることを確認して言った。

「キスしよう?」

「ここで?」

 田上も父の方を気にしているようだったが、タキオンが「そんなに長くはしない」と言うと、小さく頷いた。

「君からして」

 タキオンがそう言うと、田上は、タキオンの脇腹にそっと手を添えて、タキオンとキスをした。田上は、父が近くにいる手前、あんまり長くするつもりはなかったのだが、いざやってみると、――もっとしたい、もっとしたい、という気持ちが働いてしまい、止まらなくなっていた。ただ、十秒したかしてないかの内に、近くのまだ刈られていない草むらの中からガサガサッと音が聞こえ、次いで、バタバタと何かが飛んでいく音がした。その音に、田上もタキオンも驚いてキスを止めた。それから、慌てて父の方を見たが、父も桜花も、タキオンたちが大幅に遅れを取っていることには気が付かずに、歩き続けていた。もしかしたら、父の方は、一度振り返って目撃したかもしれないが、それを二人に敢えて言うということもしないだろう。

 タキオンと田上は、前の二人に追いつくために少し小走りになった。その途中で、田上がこう呟いた。

「若気の至りだな…」

 田上の半分独り言のつもりだったが、タキオンは、こう返した。

「若いっていいもんだよ。よっぽどの事をしでかさない限り、今みたいに、甘い蜜を躊躇なく飲める」

「…躊躇がないってのは、如何なもんだろう?」

「若気の至りってことさ。今のは、特に大衆の目の前でもないんだから、そんなに気にしなくてもいい案件だよ」

「でも、お義父さんに見つかるかもしれなかった」

「父さんは何も言わないよ。あれくらいなら見て見ぬふりはできる。それに、自分たちも散々やってきたんだから、文句は私が言わせない。私にだって、甘い蜜くらい飲ませてくれ」

「…キスが甘い蜜か?」

「そうだよ。圭一君との甘い一時じゃないか。これ以上に、甘い物があるかい?」

「…タキオンの紅茶?」

「あれは甘いが、度合いが違う。君とのキスの方がもっと甘い」

 タキオンが恥ずかしげもなくそう言い切ると、反対に田上は恥ずかしそうにタキオンから目を逸らした。

「お前、よく…そんな事が言えるな…」

「言えるとも。君との事だもの。私にとって、君と居れることがどんなに幸福なことか分かるかい?君が思っている以上に幸福に感じているかもしれないよ?」

「本当かぁ?」と田上が怪しむと、タキオンも少しだけ怒ったようなふりをして言った。

「本当だとも!そうじゃなきゃ、結婚しようなんて言わない! 分かるかい?私は、この世に圭一君以上に大切なものを持っていない。研究も実験も捨てた。圭一君が私の全てなんだよ!」

「…でも、…宝塚記念は?」

「あぁ…、それはね…。…それはね?…理論が違う。私の中に相反する理論が存在しているんだよ。…だから、それは、圭一君と一緒に解決したい」

 タキオンが真剣な顔でそう言うと、田上は、一瞬だけ目を逸らしてから言った。

「…俺と一緒に解決したいってことこそ、矛盾の原因なんじゃないのか?」

「なら、私は、君を優先する。何か、矛盾の原因として、矛と盾が現れた時には、君が良い。圭一君と生きたい。その思いは変わらない」

 タキオンが相変わらず、真剣な面持ちでそう言うと、田上も少し意地悪な事を言った気がして、「意地悪なこと言ってごめん」と謝った。タキオンは、特にそれについて何も言うことはしなかった。ただ、父と桜花の背中に追いつくと、田上の腕にぎゅっと取り付いて、ボソリと呟いた。

「私の手を放すなよ」

 田上は、「うん」と小さく頷いて、絡ませようとしてきているタキオンの手をぎゅっと握り返した。

 

 散歩は、田んぼの周りを囲うように伸びている、誰も居ないコンクリートの道を一周回って過ぎていった。人は殆ど見なかった。一度、軽トラックが自分たちが通っていった道を走っているのが見えたが、そのトラックも、自分たちが左に曲がった十字路で直進して行って、姿を消した。

 タキオンと田上は、それからはキスもしなければ、抱き締めあう事もしなかったが、相変わらず、タキオンが田上の腕をぎゅっと抱き締めていて、田上は少しだけ歩きづらかった。ただ、特に振り払うということもせず、むしろ、その事を多少嬉しく思いながら、田上は父と桜花の後ろを歩いていった。

 父は、途中で田上とタキオンに話しかけてきた。その内容は、主に、タキオンが学園ではどういう様子とか、レースの具合は?とかそんなものだった。残念ながらあんまり良い報告を、田上もタキオンもできなかったが、父の方は、そのことについて良いも悪いも評価を下さなかった。ただ、満足そうに笑うと、田上にこう言った。

「酒は飲めるのかな?」

「…いえ、あんまり…」と田上は答えるしかなかったが、それでも、父は残念そうにしなかった。ただ、ニコニコと笑い続けて、「タキオンもいよいよそういう年か…」と呟いた。

 田上とタキオンは、ただ不思議そうに顔を見合わせるだけだった。

 桜花が、道端で急に立ち止まると、他の三人と一匹も立ち止まって、桜花がしゃがみこんで見つめているものを見た。桜花は、道の脇に伸びている水路の上に張られている蜘蛛の巣を見ていた。蜘蛛の巣には、丁度、小さめの蝶々が引っかかっていたようだった。それを、今、女郎蜘蛛がせっせと糸でぐるぐる巻きにしようとしていた。それを、犬は「はっはっ」と言いながら見つめていた。

 桜花は、一度田上の方を間違えて見上げた後、次に父の方を見上げて言った。

「蝶々さん助けられないの?」

「助ける?」と父が聞き返した。

「蝶々さん食べられちゃうよ?」

「んー、…蜘蛛さんも蝶々さんを食べないと死んでしまうからねぇ。ちょっと難しいかもね」

「蜘蛛さんは死んじゃってもいいんじゃない?」

「でも、蜘蛛さんが死んじゃうと、今度は、蜘蛛さんを食べる鳥さんが食べる物が無くなって死んでしまうよ?桜花も鳥さんは好きだろ?」

「私好き。そういう本を図書室で読んだような気がする。食物連鎖って言うんじゃなかったかな?」

 すると、田上もタキオンも父も、小さな娘に感心した「おおー」という声を上げた。

「桜花はよく知ってるね」と父が言った。

「でも、鳥さんは、もっと大きな鷹さんに食べられるんでしょ?」

「そうだよ」

 父が、優しく答えた。そこで、珍しく自転車が通りかかったので、それに気がついた田上は、タキオンに「自転車」と言った。タキオンは、田上を見つめたが、特に大した反応は寄越さなかった。自転車は、そのまま田上たちには目もくれず、通り過ぎていった。

 その間に、桜花の話は別の物に移っていた。

「昨日の音楽の授業で、川の歌を歌ったよ」

「川の歌?」

「えっとね。『小川』っていう歌で、

  ち~いさな小川のな~かに な~にがいる~

  か~えるや小魚泳いでーる~

  ち~いさな流れは き~よらか~に~

  冷たくもーりをながれてーる~

 

  や~がて、か~わが水増すと~ 

  小さな子~らが泳い~でる~

  過~ぎさるその日は流れゆき~

  や~がて、おーおきな川にーなる~

 っていう歌だよ」

 タキオンも父も拍手をしようとはしなかったが、田上が、歌い切ったことに少し感動して小さく拍手をすると、タキオンも苦笑して、田上と同じように桜花に拍手をしてやった。桜花は、嬉しそうにニコニコしながら、「どう?」と言った。父もタキオンも田上も口を揃えて、「凄いねぇ」と桜花を褒めた。すると、桜花は、もっとニコニコになった。犬は、相変わらず、「はっはっ」と言って、事の成り行きを見守っていた。

 一行が再び歩き出すと、タキオンは田上に言った。

「圭一君に子供ができたら、大変な子煩悩になりそうな気がするよ」

「お前だって、子供は嫌いじゃないだろ?」

「いいや?無礼な子供は嫌いだよ?」

「でも、自分の子供だよ?嫌いになるはず無いだろ?それに、他人の子供みたいに無礼に見えることもないだろ?」

「…どうだろうねぇ?」

 そう言ったタキオンの目は、先を歩いている桜花に目を向けられていたが、本気で自分が子供を愛せるかどうか悩んでいそうだった。だから、田上は自分の腕にくっついているタキオンを見て言った。

「自分の子供だよ?」

「…いや、別に子供が嫌いなんじゃない。…ただ、…言ってもいいものかなぁ?」

「言ってよ。旦那だろ?」

 田上が、当然のように発言すると、タキオンは少し微笑みながら田上を睨んだ。

「君、こんな時だけ自分は旦那かい?」

「…旦那じゃ駄目?」

「駄目じゃないし、むしろ嬉しいが、…これについて話しても不毛か。…結局、君は私の事が好きなんだし…」

 その後に、タキオンが何も話そうとしなかったので、田上はまた聞いた。

「子供を持つのが不安か?」

「…不安…じゃないと言えば、嘘になる。…でも、いざその時が来てみれば、ちゃんと愛せるような気がする。…ただねぇ…」

「俺には言いにくい?」

「…いや、言っても良いことではあるが、言いにくいことでもあるね。…ただねぇ…」

 タキオンは、ここで自分が言い淀んでいることを誤魔化すように、ふふっと笑って言った。

「ただ…、私は、…ねぇ、…圭一君の事が好きだから…、…君に夢中なんだよね…」

「…つまり?」

「つまり?……私は、…子供を持つより君と居るほうが好きかもしれない…」

「なるほど…。気持ちは分からなくもないけど、…まぁ、タキオンはタキオンなりに子供ができたら愛せそうじゃないか?」

「そりゃあ、できたら愛せる気はする。でも、あくまで、できたらであって、ちょっと…圭一君との時間が、…今この瞬間が儚く過ぎ去ってしまうのが、嫌という気はするね…」

 田上の目を見ずにそう言い切ったタキオンを、田上は心配そうな目で見つめた。すると、タキオンは、田上の方をあんまり良い調子とは言えなさそうな表情で見て、言った。

「別に、嫌というだけだよ。…君が、愛を注いでくれるのが、ずっと私だけだったら良いと思うだけ…。理想郷だよ…」

 それから、田上に「見るな」というように頬をつついてきた。しかし、田上はそれでもタキオンを心配そうに見続けた。ただ、何を話せば良いのか、暫くの間分からなかったから、タキオンをじっと見つめ続けた。タキオンもそうされると、少し嫌だったようで、「あんまり見るなよ」と不機嫌そうに言った。田上は、そこでようやく口を開いた。

「結婚しような」

「え?」

「結婚。しないとな」

「…ああ」

 タキオンは、戸惑いながら頷いた。しかし、その後にこうも言った。

「君の方も迷うくせに」

「迷うことには迷うけど、…結婚したほうが良いだろ?」

「悪くはない。…でも、圭一君の方から――やっぱりしたくない、って言うだろ?」

「そりゃ、言うかもしれないけど、その時は手を繋いでてくれるんじゃないのか?」

「当たり前だろ。私の恋人だぞ」

「なら、尚の事結婚しないとな、と思っただけだよ」

「でも、したくなくなるんだろ?」

 タキオンが、妙にしつこい上に意地悪なので、田上も少しむっとなりながらも、優しく言い返した。

「俺と結婚したくないの?」

「…したいさ。…ごめん、意地悪だった、今のは」

「別にいいよ」と言いながら、田上はタキオンの手をぎゅっと握った。タキオンもそうされると、嬉しそうに田上の手を握り返して、もう少し田上と寄り添って歩けるように近づいた。そして、こう囁いた。

「やっぱり、圭一君は私と結婚すべきだ」

「…なんで?」

「…特に、…大した理由じゃないが、…君以上に私に優しくしてくれる人はいないから、やっぱり、君が良いと思っただけだよ」

「褒められてるってことでいいかな?」

 田上は、少々得意げになってそう言った。

「それでいいし、私が圭一君を求めてる。…どこにも行かないでくれよ」

「それは、俺だって同じだよ。…行かないで…」

 すると、タキオンは、少し首を横に振って答えた。

「君がそんな事を度々口にするから、私も、君がどこかに行ってしまうんじゃないかと不安になってしまうんだよね。 勿論、私が君に色々話してほしいと頼んだわけだが、……私がどこかに行ってしまうのがそんなに不安かい?」

「……どうだろうね?」

 田上の表情は、少し強張った微笑みになった。

「あんまり濁さないでくれよ。…行かないで、と言うからには、君が、私が行ってしまうことに対して、怯えているということに違いない。となれば、君の心の何が、私がどこかへ行ってしまう想像を掻き立てるのか?だよ。もしかしたら、私が去って行ってしまって、自分ではそれを止められないと半分諦めているから、いつものように、俺はタキオンを幸せにできない理論に陥ってしまうのかもしれない。…私は、圭一君とこうして一緒に帰省できて、十分に幸せだよ?」

「俺だって幸せだよ」

 田上が、静かな調子でそう言うと、タキオンは少し立ち止まり、田上も立ち止まらされた。そして、じっと顔を見つめてから、また言った。

「私が、君の下から行くはずがないし、いざ行こうとすれば、圭一君が手を取ってくれるから全く問題はないのだけれど、――行かないで、というのは、些か引っかかるところがあるね。何が君を駆り立てるんだい?」

「知らないよ…」

「…知らないことには知らないだろうけどねぇ…。どうにかしてその正体を暴いてみたい」

「暴いたって何の得もないぞ…」

「いや…」とタキオンが言った所で、前を歩いている父が、自分たちを振り返ったのと目が合った。それで、タキオンも、ここで立ち話をしているわけには行かないと感じたから、こう言った。

「また、夕食の後のゆっくりとしたタイミングで話そう?今は、もう家につくから」

 そして、「行こう」と言って、田上の手を引っ張ると、田上はこう呟いた。

「別に良いんだけどな」

 これは、呟いたと言っても、明らかにタキオンに聞こえるように主張された言葉だったので、タキオンは少し睨むように田上を見ると、口角をちょっと上げて言った。

「良くない」

 そう言ってから、タキオンは、田上の胴に突然抱きつくと、そのまま田上の体を持ち上げた。田上は、それに「うおっ」と驚いた声を出して、多少の抵抗を見せたが、ウマ娘であるタキオンの力に敵うはずもなく、すぐに諦めを見せた。

 タキオンは、田上をぎゅっと抱きしめて移動できていることが嬉しいようだった。軽々しく持ち上げながら田上に「お姫様だっこのほうが良かったかい?」と聞いた。田上は、それに、無愛想に「下ろしてくれ」と頼んだが、結局、玄関先までそのままタキオンに運ばれていった。

 父は、田上たちが来るのを待っていた。そして、その娘とその恋人が楽しそうに遊んでいるのを見ると、顔をもっとニコニコとさせた。タキオンは、そんな父と目が合うと、持ち上げている田上の顔が見えるように後ろを向いてみせた。それから、「これが私の彼氏だよ」と言った。田上は、なんだか照れくさくて、誤魔化すように頭を小さく下げると、父が言った。

「田上君、娘をよろしくな」

 そう言ってから、腕の辺りをぽんぽんと叩かれると、田上も顔を真っ赤にさせながら「はぁ、頑張ります」としか言いようがなかった。

 

 タキオンが田上を地面に下ろす頃には、母も玄関に見物に来ていて、これも「私の彼氏だよ」と紹介された。田上は、顔から火の吹き出るような思いだったが、母に「私の娘をよろしくね」と言われると、父の時と同じように「頑張ります」と恥ずかしさに身悶えながら言った。タキオンは、これがとても愉快だったようで、父と田上が言葉を交わしたときから笑いが止まっていなかった。それで、田上が仕返しも込めて「おろせ」とタキオンの頭を肘で小突くと、タキオンは、笑いながら下ろしてくれた。

 すると、父も母もニコニコとしながらまだこちらも見ていたので、改めて、タキオンは田上の腕に自分の腕を絡ませると言った。

「私が連れてきた彼氏だよ。 娘が連れてきた彼氏だよ。…かっこいいだろ?」

 田上は、本当にどうしようも無くなって、恥ずかしそうに目を細めながら、――こんな事わざわざ言わなくていいのに…、とタキオンの顔を見つめた。タキオンも田上を見つめ返して、嬉しそうににっと口角を上げた。父も母も口を揃えて、「良い彼氏だね」と言った。田上には、それが殊更に恥ずかしくて堪らなかった。「ありがとうございます」と頭を下げながら、どうしようもなさそうにタキオンを見るしかなかった。

 そこで、ようやくタキオンも田上を父母に改めて紹介することを止めてくれた。父が、靴を脱いで、家の一番奥にある洗面台に向かうのを眺めながら、タキオンは、田上よりも先に靴を脱いだ。その脱いでいる間にも、タキオンは嬉しそうに田上を見つめていた。

 田上が、靴を脱いでいる間は、タキオンも田上の近くで立ち止まって待ってくれた。一度、悪戯心が働いて、田上に耳に息を吹きかけた時以外は、タキオンは、田上の事を微笑んで見つめているだけだった。

 田上が靴を脱ぎ終わると、田上とタキオンは洗面台に手を洗いに行った。その時に、桜花が、一つの部屋の中に入っていくのが見えた。そして、向こうの方も歩いてくる二人に気が付くと、その部屋の扉を開け広げて言った。

「私の部屋だよ!」

 桜花の部屋は、田上たちが寝る部屋の半分くらいの広さで、本棚一つと引き出しが三つ程ついた学習机と襖、畳がその部屋の景観を占める大体の物だった。学習机の上は、綺麗に整頓されていた。小学校から借りてきたであろう一冊の本と、筆箱が一つ置かれているだけだった。その本の題名は、遠くから見た限りだと『恋愛成就のおまじない!?気になるあの子と近づけるかも!』と書いてあり、表紙は主にピンクとお洒落な女の子たちで構成されていた。

 タキオンと田上は、筆箱の中身を見せられた。キラキラした可愛らしいペンがぎっしり詰まっていたかと思うと、それは、本当の筆箱じゃなく、授業で使う普通の鉛筆などが入っている筆箱が、もう一つあると言う。そして、桜花が、その筆箱の中身も紹介し始めると、タキオンが合間を見計らって田上に「私が小学生だった時はこんなのだったかな?」と苦笑しながら言った。田上は、その場では答えることはせずに、ただ頷くだけをして、桜花の話を聞いた。桜花のきらきら可愛いグッズは様々な物として部屋中に散りばめられていたが、タキオンが切りが良い所で「私達もちょっと手を洗わないといけないからね」と言うと、桜花の部屋紹介は終わった。これでも、タキオンたちは大分桜花の話を聞いてあげたほうだった。桜花も、十分に紹介できたようで、ニコニコと満足そうな様子だった。

 そして、二人で洗面台に行った時に田上が口を開いた。

「タキオンの小学生の時ってどんなだったの?」

「どんな?……別に、…他愛のない小学生さ」

「…その…タキオンの足の脆さが医者に告げられたのが、小学校に入る前って言ってなかったっけ?」

「……まぁ、そんなだったかもしれない…」

 タキオンは、急に無表情になりながら、田上の言葉にそう答えた。田上には、その表情の変化が心配になった。

「いつから、研究研究って言い始めるようになったの?」

「……いつからだったかなぁ…」

 タキオンは、わざと、自分をぼんやりと過去を思い浮かべているように演出していた。田上は、それをなんとなく気がついていたが、タキオン自身は、自分がそう演出していることに気が付かなかった。

「いつから?」と田上が聞いた。

「いつから?……そんな事が気になるのかい?」

「純粋に、タキオンが小さい頃がどんなだったのか知りたいけど」

「……まぁ、気性それと合っていたっていうのもあっただろうし、目一杯走る未来を失いたくなかったってのもあったし、……そういう気性だったのかもしれない…。君の言ったように小学一年生の頃にはその予兆が出ていた。…本の虫だったね…。そこから、段々と祖母の本家の方で…科学実験を行った…。楽しかったが…、目的は、私の足を治す術を、私自身が見つけることだった…。…私の物語はそこから始まった…。…君に私の足の事を何も告げなかったのも、一つにはそれが理由だ。…私は、それまで一人でやってきた。だから、その時も一人でやらなければ行けないと信じていた…。…それが正解だったのかは分からない…」

 タキオンは、そう言うと、今まで一生懸命に蛇口から流れる水で擦っていた自分の手から目を離し、蛇口を閉めると、無表情のまま、手についた水を田上にぴっぴっと跳ね飛ばし始めた。田上は、「うわっ」と叫ぶと、本当に嫌そうに「やめろよ」と言った。タキオンは、そのの様子を見ると、少し微笑みを浮かべ、蛇口を捻って自分の手にもっと水をつけると、またもや田上にぴっぴっと飛ばし始めた。田上は、一生懸命に頭を振りながら、タキオンの方に手を伸ばすと、「このやろー」と言いながら、タキオンの両手首をぎゅっと握った。勿論、タキオンはウマ娘であるので、振りほどこうと思えばすぐに振りほどけたが、敢えて、ここで更に田上に意地悪をするということもしなかった。無表情から多少の元気を取り戻し、タキオンは田上を微笑みながら見つめた。田上もこれ以上攻撃がないと分かると、タキオンの事を――どうしようもないやつめ、という眼で見つめた。それから、その髪に目をとめると、こう言った。

「ごめんな…」

 唐突な言葉だったので、タキオンも何のことだか分からずにキョトンとした顔で、見つめて質問した。すると、田上はこう返した。

「髪切ったのだよ。…俺のせいだからな…」

「それが今ここで気になったのかい?」

「…別に、…気になってるっちゃ気になってるけど、…俺のせいかなって…」

「君だけのせいじゃないし、髪を切ったのは私だよ?君といざこあがあったから、いい機会だと思って切ったんだよ。私が決断したんだ。君が決断させたんじゃない」

「…でも、俺が切らせたも同じだろ?」

「同じじゃない」とタキオンはきっぱりと言った。

「この話は不毛だ。髪の毛一本も生えてきやしない。圭一君がどう思おうと、私は圭一君が付き合っているんだし、圭一君だって私が好きで付き合ってる。そうだろ?」

「…そうだけど、…髪の毛触ってもいいか?」

「いいよ?」とタキオンは、先程のきっぱりとした口調とは裏腹に、少し嬉しそうに言った。田上は、そんなタキオンには目を留めず、以前よりも随分と短く整えられたタキオンのその髪を撫でた。やはり、少なからず後悔の念が湧いてきて、田上の顔は渋くなっていったが、不意に、タキオンが、まだ濡れている手を田上の頬に当てると、田上は、びくっと体を震わせて迷惑そうにタキオンを見た。タキオンは、悪戯が成功して嬉しそうだった。

 そこで、廊下からとたとたと足音が聞こえて、洗面台兼脱衣所の入り口にあるカーテンから、母が顔を覗かせて言った。

「二人で楽しいところかもしれないんだけど、一番初めのお夕食だし、皆で田上さんが来たことを祝って食べたいんですけど…」

 口調は申し訳ない調子だったが、眼はランランと輝いて、タキオンと田上がどんな風にいちゃついていたのか探ってやろうという気が満々だった。田上は、その母の眼には気が付かず、「すみません」と言って、慌ててタキオンの髪から手を離して、自分の手を洗った。母は、田上とタキオンがどんな風にいちゃついていたのかは一目見れば分かった。話し声も多少聞こえていたのもあったが、田上が髪を触っていて、タキオンが濡れた手で田上の頬を触っているのを見れば、――ああ、仲がいいな、と瞬時に理解できる。

 そういう訳で、母の目がランランと光ったのも束の間、タキオンも気が付かない内に、母はカーテンの裏に隠れて行ってしまった。タキオンは、母がいなくなると、また気を取り直して、田上の首元に濡れた手を押し当てたが、田上に本気で注意されると、ニコニコしながら手を拭いた。

 

 田上が、皆の居るリビングに戻ると、犬から注視された。それに気がついた田上は、――自分に触るなよ、という威嚇も込めて注視し返したが、果たしてそれに意味があったのかは分からない。犬の方はただ、自分が寝転がっている毛布の上に、また、だらしなく寝転がるだけだった。

 田上がタキオンの右隣の席に着くと、その田上の右隣に桜花が自分の椅子を持ってきた。どうやら、大きなお兄ちゃんと一緒に食事をしたいらしく、ニコニコしながら田上を見つめていた。田上も、それを微笑ましく思って、口元に笑顔を作りながら桜花を見つめ返した。

 夕食は、唐揚げだった。桜花は、もう待ちきれなくて一人で先に食べていたが、母の方が「乾杯しましょう」と言ったので、田上とタキオンと父は、まだ少し準備をしている母を待たなければならなかった。その間に、田上は母から「オレンジジュースで良いかしら」と聞かれたので、「はい」と丁寧に答えた。そして、その直後にタキオンが、ちょっかいを出すように田上の頬をつついてきたので、「なに」と眉根を寄せながらタキオンの方を見た。

 タキオンは、微笑みを作りながら「別に何も」と返した。それで、また田上は桜花の方を見たのだが、再びタキオンが頬をつついてきた。それで、田上も、自分の恋人の頬をつつき返した。タキオンの頬を少し強めにぐりぐりとやったのだが、タキオンは、尚も田上の頬をつついてくるばかりだったので、今度は、タキオンの両頬を軽くつまんで左右に引っ張った。すると、タキオンも田上の顔を引っ張り返してきたので、田上もここで冷静になり、父親の眼に気がついて「やめよう」と言った。タキオンは、それでもやめようとしなかったので、田上は、自分は恋人の頬を引っ張るのを止め、面倒臭そうな顔で恋人の嬉しそうな顔を見つめた。

 父には酒が注がれ、タキオンと田上と桜花と母には、オレンジジュースが注がれた。この家で、酒を飲むのは父ただ一人だったようだ。父は今から飲める酒を待ちわびて、ニコニコと楽しそうにしていた。

 やがて、母が席につくと、父が音頭を取って「タキオンと田上君が幸せになれますように」と言って、「乾杯」と続けた。家族はそれぞれ「乾杯」と言って、それぞれのコップをカンカンと一人一人に打ち当てて、鳴らした。桜花も、プラスチックの小さいコップでそれに参加した。タキオンと田上が、お互いのコップを打ち当てる時には、微笑み合いながら、タキオンが「末永く幸せにね?」と言った。田上は、それにしっかりと頷いた。

 父は、酒が入ると先程よりも陽気になり、大声になった。そして、目の前の二人が、当事者である恋人同士にも関わらず、田上に「子供ができたら、なんて名前にするのかな?」と聞いたり、タキオンに「デートは何回行ったのか?」だのと聞いたりした。タキオンは、それを適当に受け流していたが、田上は、酒に酔っていると言えど、お義父さんになるべき人を無下にはできず、困りながらもなんとか答えていた。

 そのうち、田上の両親の話になると、様相が変わった。母を中三の頃に亡くしたとタキオンの父母が知ると、一気に通夜のような雰囲気になった。流石の酒に酔った父も、「お母さんには報告したのかい?」と聞いたことを反省した。特に、田上は聞かれたことは気にしておらず、むしろ、このような空気になることを気にしていたのだが、それを言っても、タキオンの父母は、中々元気にはなれなかった。田上としては、親が離婚した子とあんまり大差はないと思っていたが、それでも、この二人は、離婚していない実の母が亡くなってしまっていた事を本気で悲しんでいるようだった。「いつか二人が結婚した暁には、お墓参りにいってやらないといけないわね」とタキオンの母が言いだした。田上には、これが少し面倒だった。田上は、父が再婚してどこか適当な女の人とそのまま余生を楽しんでくれればそれでいいと思っていたが、この二人が、お墓参りをしてしまうと余計に自分の父の頭から母の事が離れなくなるのではないかと思った。尤も、父が再婚を望んでいるのかどうかは、田上にも分からなかった。

 テレビでは、場違いな所でワハハハと笑い声が流れてきたが、桜花が一生懸命にテレビを見ていたので、その電源を消すわけにも行かなかった。

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