ケロイド   作:石花漱一

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二十七、ゴールデンウィーク初日④

 やがて、話題は、タキオンの髪の話に流れていった。特に、切った理由は聞かれなかった。父母二人とも髪が長くて邪魔になったから、タキオンも髪を切ったのだろうと勝手に解釈していたからだ。それは田上にとって大いにありがたかった。ここで、タキオンと田上が喧嘩していたと知ったら、折角、今まで作られた田上への信頼が揺らいでしまうかもしれなかったからだ。

 父は、何度も何度も娘の髪を褒めていたが、二、三回褒められるとタキオンも父に飽きてしまったようで、田上に話しかけてくるようになった。それで、父は、母にタキオンの髪型のことを熱心に話していた。そして、田上と目が合うと、こう聞いてきた。

「田上君は、髪の毛を切ったタキオンを初めに見て、どう思った?」

 田上は、この質問に、思いの外動揺してしまったが、この家に来てから動揺しっぱなしだったので、父母も田上の動揺に、別の理由が隠されているとは思わなかったようだ。

 田上は、これに嘘を吐くしかなかった。厳密には嘘ではないのだが、初めに見てどう思ったかと聞かれれば、自分のせいだと思ったことは間違いないだろう。

「か、可愛いと思いました」

 田上は、無難な言葉を選んでそう言った。父は、その言葉が聞きたかったようで、嬉しそうに頷くと、タキオンに「田上君は、可愛いだってよ」と面倒臭そうな絡み方をした。

 タキオンは、それを邪険に扱いながらこう答えた。

「そんな事は分かっているよ。可愛いなんて、言ってしまえばいつでも言える」

 父にはそんな感じだったが、田上と目が合うとタキオンは少し微笑んだような気がした。特に確証はないので、気のせいかもしれない。

 その後は、テレビを見ながら田上に語りかけてくる桜花と話した。聞き上手の大きい兄が桜花の良い話相手だった。別に、桜花にとって他の人が良い話し相手ではないということではなかったが、このゴールデンウィークに限り、桜花はこの大きい兄を目一杯満喫しなければならなかった。それで、田上の隣に座るし、田上に一生懸命話しかけるし…、といった所で、そのお兄ちゃんの恋人であるタキオンお姉ちゃんよりも、お兄ちゃんを独占しようとしていた。けれども、タキオンも自分だけ仲間外れでは嫌だったので、度々、聞かれてもいないのに口を出すことがあった。それに、特に嫌な顔もせずに、桜花は適当に話した後、田上にまた話しかけた。タキオンは、田上に桜花の相手ばかりをされると、段々とつまらなくなってきたので、そっと田上の左手を握り始めた。田上は、桜花の話から目を上げて、チラリとタキオンを見たが、それ以上は桜花に遮られてできなかった。ただ、タキオンも、田上とずっと手を繋いだままでは、残りの食事を食べられなかった。

 そういう訳で、タキオンは、時々田上の気を引くように手を繋ぎ、お腹の頃合いも丁度良くなった所で、本格的に田上に絡み始めた。

 

 父は、酒を飲むには飲んでいたが、缶ビールを何本も開けるほどの酒飲みではなかった。ただ、ちびちびと飲みながら陽気な口ぶりになるだけだった。

 そのうち、田上もご飯を食べ終わり、タキオンに手を引かれて、二人が寝泊まりする畳の部屋に行った。桜花は、その頃始まったアニメに夢中になって、田上がタキオンに連れ去られていったことには気が付かなかった。

 畳の間は、あの食卓よりも少しひんやりとしていたように感じた。タキオンは、縁側の隙間から見える外の目を移すと、そこの雨戸を閉めに行った。そして、座っている田上の胡座の上に自分も座ると言った。

「桜花は相変わらずうるさいね」

「そうだね」と田上は答えた。

「…もっと君と居たい」

「今日の夜は存分に居れるよ」

「…圭一君と、…お義父さんの方の家に行った時は、君は、私の事を相手にしようとしてくれなかったけどね」

「そりゃあ、あの時は、まだトレーナーと担当だった。それなのに添い寝をしろという方がおかしい。お前も、まだ…あの時は好きじゃなかったんだろ?」

「いや、それは予兆だ。確実に、あの時は君に惹かれてた」

「…それって、知らないところに来て、不安だったから俺にすり寄ってきたってだけじゃないのか?」

 田上が、少し口元を強張らせながらそう言うと、タキオンは、田上の両手を自分の太ももの上に置き、そのごつごつとした手を不思議そうに見つめながら言い返した。

「君は、自分からそんな事を言って悲しくはならないのかい?」

「…なる」

「なら、言わなきゃ良いじゃないか」

「それは、…お前だってできないだろ?一度心に芽生えた疑念が、拭えないままで居ると、健康に良くないだろ?」

「そりゃあ、否定できないけどね、…まぁ、そんなのじゃないよ。不安だったからという理由はあるかもしれないが、今は、圭一君を旦那として迎えて申し分ないほどにいい男だと思っているよ」

 そう言って、タキオンは田上の顔を見ようとしたが、生憎、田上の胡座の上に座っていたので、彼氏の顔を見ることは難しかった。なので、その代わりに少し田上の手で遊んだ。田上の指を広げたり曲げたり、田上もその時々でタキオンの相手をして、急にぱっと開いたり、握ったりした。すると、タキオンは嬉しそうにクククと笑って言った。

「やっぱり、良い彼氏だよ」

「そんなんでもないぞ」

「謙遜するなよ。圭一君は、立派に彼女の両親の家に挨拶に来る丁寧な彼氏じゃないか」

 そこで、母が田上たちの居る畳の間に顔を覗かせて、いちゃいちゃしている二人に声をかけるのが申し訳無さそうな調子で言った。

「お風呂はどうしますか?…一緒に入りますか?」

 一緒に、という言葉を聞いた瞬間、田上の心臓は飛び上がったし、タキオンは怪訝な声をして聞いた。

「一緒に?」

「え?…付き合っているんだったら一緒に入るのかな…って…」

「入るわけ無いだろ?私は、まだ学生という身分なんだ。…肌を見せるにはまだ若すぎるよ」

「高校生だし、若すぎるってことはないんじゃない?」

 案外、母が一言で引き下がらなかったので、タキオンは田上の胡座の上で体を捻って、その肩越しに母の顔を見た。

「まだ、高校生だよ?」

「そうね」と言いながら、母は、首を捻って食卓に居るであろう父の方を見て言った。

「ねぇ、私達がまだ若かった時に一回一緒に風呂に入ってたわよね?」

「若かった時?」と姿の見えぬ父の声が聞こえてきた。

「そう、高校生の卒業したてだった時…。もう引退してたわよね?」

「引退は~…してたな」

 父の声は躊躇いがちだった。

「一回家族風呂で一緒に入らなかった?」

「ああ…、入ったね…」

「もう、タキオンと圭一君も入っていい頃合いじゃない?」

「頃合いか~どうかは、…二人が決めることじゃないか?二人で入りたいんだったら、この家で二人で入ることを止めはしないけどね…。…まだ、タキオンも走ってるからそこらへんも二人で考えることだし…。…まぁ、あんまり口出しするのはやめてあげなさい」

「はーい」と母が間延びした返事をすると、今度は、タキオンたちの方に向き直って「聞こえた?」と聞いた。タキオンは慎重に頷いてみせたが、母は、その頷きを見ても「それじゃあどうする?」と簡単に言った。田上も後ろの方に立っている母の顔を胡座のまま一生懸命に振り返って見ようとしていたが、そんな田上に今の質問が答えられるはずもなく、タキオンは再び怪訝な口調で言った。

「風呂は、私達が今すぐ入らないといけないのかい?」

「いや、それも兼ねて聞きに来た。今すぐ入りたい?それとも、いつでも?」

 タキオンは、その質問を受けると、問うように田上と目と目を合わせた。田上は、タキオンに全ての判断を委ねるという眼をしていたし、言葉でも「どっちでもいいよ」と言った。タキオンは、その言葉を聞くと、悩ましそうな顔をして母に言った。

「母さんが余計なことを言うから、変になったな…」

「あら、ごめん」

 全く反省していなさそうな調子だった。

「ごめん?…まぁ、いいや。後ででいいや。圭一君も後で。一緒に入るのかどうか話す」

「分かった」と母は言うと、入り口の襖の影に隠れて、次に「桜花と父さんが風呂よー」と大きな声で呼びかけた。桜花は、リビングで何かをしていたようで「嫌だー」と返していたが、母に「ダメー」と更に返されていた。

 

 タキオンは、去っていった母がまた戻ってないか、暫く入り口の頬を注視していたが、やがて、座っている田上に向き直ると複雑そうな顔をして言った。

「一緒に入る?」

「入る?」

 田上は、まだその言葉が飲み込めていないように、オウム返しにそう聞いた。

「そう…。私は、…別にいいんじゃないかと思うのだけど」

 タキオンからその言葉を聞くと、田上は戸惑うようにその赤い瞳を見つめた。しかし、タキオンもまた戸惑うように田上の目を見てきていた。それで、田上はタキオンと目を合わせることが困難となり、やがて目を逸らした。

「いい?」と田上が、またオウム返しに聞いた。

「いいと思う。…別に、何かしようってわけじゃないが、もっと親密になっても…」

 ここでタキオンの言葉が途切れた。田上がちらりとタキオンの顔を見ると、その口は奇妙に強張っていた。

 田上は暫く考えた後に言った。

「いずれ…、いずれ、そうなるべきだとは思うけど…、今はまだ早いかな?」

 田上が少し不安そうにタキオンに聞き返した。

「早すぎるような気もする」とタキオンは、自分が緊張していることに気がついて、それに仕方がなさそうに苦笑しながら言った。

「…あんまりここで揉めても仕方がないな。 でも、私はいつでも一緒に風呂に入ってもいいよ。圭一君と同じように早すぎるという気もあるけど、圭一君が入りたいって望むんだったらいつでもいい。本当にいつでも」

「…まぁ、…分かった。…うん…、考えておく…」

 田上がそう言うと、タキオンは期待と不安に膨らませた胸からため息を吐いて、田上の胡座の上に座り直した。そして、緊張から解かれた笑いをはははと力なくすると、こう言った。

「ホントに、母さんのせいで妙なことまで考えないといけなくなった。…別に、圭一君は思いつめなくてもいいからね?私も十分に早すぎると思う。でも、もう少し君と親密になりたいとも思う。ただ、これは抜きにしてもいい。本当に、私も早すぎると思っているけど、ちょっぴり圭一君ともお風呂に入りたいな、と思うだけなんだ。だから、そんなに大したことじゃないと考えてくれ。別に、この帰省中にわざわざ同じ風呂に入らなくてもいい。ただ、それだけが私達が親密になる手段であるわけでもなし、言ってしまえば、私達はもう恋人の実家で寝泊まりするくらいには親密なわけだから」

 タキオンはそう言うと、田上の腕を持ち上げて、自分のお腹の回させ、ぎゅっと抱きしめる体勢にさせた。そして、田上もそれに則ってタキオンをぎゅっと抱き締めた。タキオンは、嬉しそうにふふふと笑った。

「こうしているだけでも私は十分に親密だ」

 そのタキオンの子供のように嬉しがっている様子を見ると、田上は胸の内から愛おしさが込み上げてきて、そっと低い声で「タキオン」と呼びかけた。タキオンはそれにふふふと笑いながら「なんだい?」と答えた。すると、再び田上は「タキオン」と言った。タキオンは、また、「なんだい?」と答えた。「タキオン」「なんだい」をあと三度ほど繰り返した後、田上は唐突にタキオンのうなじにそっとキスをした。タキオンは、こそばゆさと嬉しさで思わず軽く叫んでしまった。そして、笑いながら「やめろよ」と田上の腹を肘で小突いた。田上は、タキオンを抱き締めながら微笑み、再度、タキオンの首筋にキスをした。今度は、タキオンがこそばゆくて首を捻ったので、頭と頭をぶつけてしまった。

 田上は、「いてぇ」と言って思わず身を引き、タキオンがそれを笑いながら「だからやめろと言っただろ」と言った。

 そこで、騒々しい声が部屋の外の方から聞こえた。

「お母さーん!着替え忘れたー!」

 母は、今、食器洗いで忙しかったようで、洗い場で食器をカチャカチャ言わせながら、「自分で取っていきなさーい!」と返した。そして、不意にドタドタと足音が聞こえると、桜花が、濡れた髪から水を少量滴らせて、襖の影から顔を覗かせた。ニコニコと笑って、桜花は二人の姿を捉えると、「お姉ちゃん!お兄ちゃん!」と呼んだ。田上もタキオンも振り返ると、桜花は姉をからかうように言った。

「お姉ちゃん、お兄ちゃんの事が好きなの?」

 タキオンは、その口調がなんだか気に入らなくて、少しだけ顔をムッとさせたが、口調は平淡に「好きだからこうしているんだよ」と言った。それから、桜花がこう言った。

「好きだったなら、一緒にお風呂に入れば~」

「ん?」とタキオンが怪訝な顔をすると、桜花はキャハハハと笑いながら入り口から去っていき、台所のお母さんに大声でこう言うのが聞こえた。

「お姉ちゃん、お兄ちゃんと一緒にお風呂に入りたいんだって~」

 その後に、母が、「やめなさい」とたしなめたが、またもやキャハハハと笑うと、再び田上たちの居る畳の間に顔を出し言った。

「お母さんに言っておいたよー」

 完全にお姉ちゃんをからかうためだった。タキオンも、これじゃあ面倒だからと立ち上がると、桜花は、お姉ちゃんに怒られると思って、キャハハハと笑いながらそのまままたお風呂の方に駆けていった。タキオンは、その後ろ姿を見送ると、母に「一緒には入らないよ!」と声を掛けて、田上の胡座の上に戻った。

「やれやれ、桜花も随分とやんちゃなやつだ」

「タキオンの小さい頃はあんなだった?」

「私?」

 そう聞かれた瞬間にタキオンは、少し表情が強張ったように思った。

「私は…、幼い頃はこの家には住んでいなかったからね。実家の方は、もう少し礼儀作法に厳しかったように思う」

「おばあちゃんとか厳しかったのか?」

「いや、そうじゃない。まぁ、ある程度の礼儀作法を教えられたという感じだ」

「おじいちゃんとおばあちゃんの方って、どんな感じ?」

「私には、おじいちゃんもおばあちゃんも二人ずつ居るが?」

「…どっちも教えてくれたら」

「…じゃあ、父さんの方の尾広山のじいちゃんについて話そうか?」

「いや、…もうすぐ風呂じゃないか?」

「ああ、そうだね。多分長くなる話だし、一言じゃ済まないね」

 そう言った所で、丁度良く母が襖から顔を覗かせて、「お風呂どうします?」と聞いてきた。タキオンと田上は顔を見合わせて、お互いとも何も言わないので、タキオンが「私が先に入ろうか?」と言ってきた。田上が、「どうぞ」と言うと、タキオンは田上の胡座の上から立ち上がって、母に「私が入るよ」と言った。母は、「ありがとうございますー」と言いながら、また食器洗いをしに戻っていった。

 タキオンは、自分の荷物の所に行くと、着替えを取り、そのまま「ばいばい」と言ってお風呂の方に言った。田上はここで一人きりになって、そわそわとし始めた。台所からは、まだ食器を洗う音がする。ここで、自分だけ楽をしててもいいものか怪しくなって、田上はそっと立ち上がると、襖から外の方を見た。畳の間の入口から見える台所、食卓の方には、母しか見えなかった。桜花や父はもしかしたら、自分たちの部屋に居るのかもしれない。桜花の部屋の隣には、もう一つドアがあったから、おそらく、そこが父母の寝室、または、書斎なのかもしれない。田上は、その部屋を見ていなかったので、詳細は分からなかった。

 それから、部屋を出ていくと、田上は食卓の方に行き、一生懸命皿を洗っている母の背に向かって話しかけた。

「あの…」

 言葉の続きが出てこなくて、そこで途切れた。

「あ、はい。なにか御用で?」と母が答えた。

 田上は、一瞬言葉が何も出てこないかに思えたが、勇気を出して言った。

「何かお手伝いできることはありませんか?」

「ああ、お手伝い…?」

 そう言いながら、母は、お手伝いの内容を考えようと、空中に目を泳がせていたが、やがて、田上に目を戻すと言った。

「全然大丈夫ですよ。圭一君も私の息子のようなものなので、こっちに出て、テレビでも見て寛いで居てもいいですよ」

 田上は、そう言われると引き下がるしかなく、また、テレビを見ないのも申し訳ないような気がして、大きなテレビの前に置かれている二人用ソファーに背筋を伸ばして座ると、目の前のテレビを付けた。

 バラエティをやっていたが、ここ最近のタレントや芸人は知らなかったので、ほとんどが知らない人ばかりだった。ネットの動画サイトから成り上がった人も居たようで、ますます分からなかった。鼻に洗濯ばさみやザリガニを挟んでても、慣れない家なので特に笑うことはできなかった。田上が、真顔でテレビを見続けていると、その様子に気づいた母が声を掛けてきた。

「テレビつまらないなら、チャンネルを変えてみてもいいですよ?」

 少し苦笑気味だったが、田上は、それに言葉で答えるすべを持たずに、無言のまま首を縦に振ると、言われるがままにチャンネルを変えてニュースを見た。どうやら、国際情勢も緊張しているらしい。アメリカとロシアが睨み合っているとか何かで、専門家が一生懸命に解説していた。そのうち、戦争を始めるんじゃないかという憶測も立てていた。いや、専門家なら、理由があって言っているのかもしれない。――どうにも、右も左も信じられない世の中になってきたな…。田上は、そう思いながらニュースを見続けた。

 福岡の町中で四人殺して、一人に重傷を負わせた通り魔事件があったらしい。警察の調べによると、襲われた五人と逮捕された男性に面識はなかったらしい。――面識があるやつを五人も襲ってたまるか、と田上は思った。そのうち、初めに襲われたのは女性だったらしい。こういう事件になると、いよいよ女性が可哀想になってくる。気の狂った男に襲われるのは、大概、か弱い女性のような気がする。少なくとも、ニュースを見る限りではその印象が強い。――右も左も信じられない。 田上は、ニュースを見ながら再びそう思った。

 

 田上が、気を沈ませながらニュースを見ている内に、桜花が部屋からスケッチブックを持ってきて、田上の座っているソファの前に置かれている机にそれを広げた。小学二年生にしては、中々輪郭の整合性が取れている絵を「見て」と言って、田上に見せてきた。田上は、それを見ながら少し感心して「凄いねぇ」と本心のままに言った。

 すると、母が声を掛けてきた。

「桜花、もう宿題終わったの?」

「終わったよ」と桜花が、少しつっけんどんになって返した。

「どのくらい終わらせたの?ゴールデンウィークなんだから、まとめて宿題出されてるでしょ?」

「少し終わらせた」

「音読は?ゴールデンウィークはないの?」

「あ」と桜花は声を出すと、「あったかもしれない」と言って、急いで部屋の方に戻っていった。そして、戻ってくると、国語の教科書を携えて、母に向かって「じゃあ読むよ」と言った。田上も小学生の頃に習ったことのある、懐かしい小説の一場面が小学二年生の拙い朗読によって、聞こえてきた。田上は、その間に邪魔だろうと思って、テレビのニュースを消した。

 流石に、一つの小説丸々朗読することはなかった。いくら、低学年向けの国語の教科書に乗っている短い小説とは言え、その中でもボリュームがある方だったので、二年生にそれをさせるのは少し酷だっただろう。そういう訳で、桜花は、一場面だけ読み終わると、すぐに田上の下に戻ってきて、今まで自分が描いた絵の数々を見せて、最後に田上にこう言った。

「描いてほしいの言ってみて。私、なんでも描けるよ」

 そこで、田上は、「お姉ちゃんを描いてみて」と言った。桜花は、それに少し迷ったが、「いいよ」と言うと、タキオンをいい感じにデフォルメした絵と、ついでに、手を繋いでいるお兄ちゃんを描いてくれた。手を繋いでいる描写は、まだ小学二年生には少し難しかったようで、形がちょっと崩れてしまったが、それでも、他の小学二年生よりも頭一つ抜けて上手いと言えるくらいには、上手に描けていた。田上は、指先で小さく拍手をしながら「凄い。俺も描いてくれたの?」と言った。

「サービスしたよ」と桜花が得意げになりながら言った。その声を聞いて母が、ふふふと笑ったが、田上はそれに反応しないで桜花と話を続けた。桜花は、その後も田上のリクエストを求めたが、やがて、田上の風呂の時間になった。

 タキオンが風呂から上がって来ると、田上は、自分が次に入るのを少し躊躇ったが、母が「私が最後に入りますので」と言うと、田上は、タキオンの次に入ることになった。

 田上は、自分の荷物の所に着替えを取りに戻った。その後にタキオンもいそいそとついてきた。桜花は、そのまま自分の思いついた絵を思うがままに描いていた。

 タキオンは、風呂上がりの水気を含んだいい匂いを漂わせながら、田上の後ろに居た。特に、ついてくることに対してなんとも思わなかったが、着替えを取って、さあ風呂に行こうとした田上の前に塞がるようにタキオンが畳の間の真ん中に突っ立っているのを見ると、不思議そうに「どうした?」と聞いた。

 タキオンは、少しの間、田上を微笑みながら見つめていたが、やがて、「キス」と吹かれて消えそうな小声で、その微笑みのまま言った。タキオンが、なぜそんな小声で言ったのか、田上にはなんとなく察しはついたが、あんまり普段のタキオンらしくないようにも思えた。「キスしてほしい」と言うのを単純に躊躇うようなタキオンではないし、こんなに表情を頑なに変えないまま、小声で言うようなタキオンでもない。――両親の家だから緊張しているんだろうか? 田上は、そう思いながら、タキオンに求められるがままにそっと唇と唇を触れさせた。タキオンは、田上をぎゅっと抱きしめて、一瞬離さないようにするかと思えたが、その少し後に唇を離すと満足したようにため息を吐いた。

「お風呂に行くのかい?」

 その言葉の調子は、まるで「行かないで」と言っているようだったが、田上は、それにただ「うん」と頷くだけにした。タキオンは、キスをやめたあとも田上の体を抱きしめてはいたが、その返答をされると、一度、もっと力強くぎゅっと抱き締めた後、田上を解放した。

「なるべく早く上がってきてね」

 そうタキオンが言う言葉に頷きながら、田上は、お風呂に行った。

 

 タキオンの言葉を意識したからではないが、田上は、元々風呂に入るのが短いの方なので、早々に風呂から上がってきた。けれども、短いからと言ってゆっくりしなかったと問われれば、それは違う。田上は、大分満足して風呂から上がり、その時に、食器洗いを終えた母から「ゆっくりできましたか?」と聞かれたら、「はい」と風呂に入る前より心持ち晴れやかな表情で答えた。

 タキオンが待っている畳の間に入ると、タキオンは、もう布団を二枚敷いて、そこに寝転がって待っていた。そして、田上が「上がったよ〜」と言いながら、部屋に入って来ると、まるで、主人が帰ってきて嬉しそうな犬のような目をして、田上に飛びついた。田上は、そのままあれよあれよと言う間に、同じ布団の上に寝転され、タキオンに目一杯抱きつかれた。田上は、苦笑しながら、タキオンの頭を撫でてあげると、タキオンは、ニコニコした顔を田上に向けて言った。

「いやぁ~、これがしたかった。これぞ恋人だよ!」

「テンション高いな」

「高くもなるさ!風呂上がりの恋人に抱きつける機会なんて、今の私には殆どないからね。こうして寝泊まりするお出かけくらいだよ、抱きつけるのは」

「前は、恋人じゃなかったからな」

 田上は、自分の父の家に、タキオンと一緒に帰った時の事を思い出しながら、そう言った。

「恋人じゃなかったが、あの距離の近さで何もなかったというのは嘘だろう?」

「俺は、…あの時もお前のことが好きかもしれなかった」

「なんだい?その――好きかもしれない、ってのは」

 タキオンが、ニコニコしながら言った。

「あの時にお前のことが好きって認めてしまうと、耐えられる気はしない」

「耐えなくても良かったのに」

「…じゃあ、耐えないで、あの時、お前に告白してたら?好きですって」

「…私も、君に好意がなかったわけじゃなかったから…、どうなっていたかな?君が私を意識するほどに、私が君を意識していたかは微妙だが…。う~ん、どうだろう? あそこが分岐点のような気はするが…、…微妙なラインだな。君から、告白されたら、勿論、驚くが…、数日は考えるかもしれないし、その場でイエスと言う可能性もある。…う~ん、…数日置いておいたほうが私らしいし、その時は、もうすでに君の良さを認めていた。そして、結婚、交際しても構わないと思えるくらいには、私達の距離は近かったかもしれない」

 タキオンが、真剣な顔をしてそう言うと、田上は、少し目を逸してから言った。

「まぁ、その時に告白しても良かったかもしれないけど、俺は、これでいいや。あの時告白していたら、今こうして二人でお前の父さん母さんの家で寝ていることもなかったかもしれないし」

「そうだね。色々大変な事もあったけど、それをやっとこさ乗り越えてここにいるんだからね。そこでした、一つ一つのキスが私の宝物だよ」

「俺もだよ」と言うと、田上はタキオンの頬をぷにぷにとつついた。タキオンは、嬉しそうにふふふと笑い声を漏らして、田上の顔に手を添え、風呂上がりの田上にキスをしようとした。そんな時になって、桜花がふらっと「お姉ちゃんたちここで寝るの〜?」とやってきた。その途端に、田上とタキオンがキスをしようとしている場面を見てしまったものだから、桜花が一気に興奮して「お姉ちゃんがキスしようとしてる~!」と叫んだ。田上もタキオンも突然の大声にビクッと身を震わせた。タキオンは、今ほど桜花を憎たらしいやつだと思ったときはなかった。その為に、田上の頬に手を添えたまま、次の対処に迷ってしまって、しかめっ面のまま田上を見つめるだけとなった。田上は、タキオンが動こうとしないので、自分も動けなかった。それに、大変に眉間に皺を寄せて見つめられると、自分が悪いのかと勘違いしてしまいそうになった。そこで、ようやくタキオンが動き出すと、半身を起こして桜花を思い切り睨んだ。

「勝手に覗くんじゃない!」

 明らかに怒っている声だった。田上の頭は、これからどうやってタキオンをなだめる、慰めるのかを考える方向に変わっていった。桜花は、珍しく怒っている姉の声にびっくりして、静かになった。

「こっちに来るんじゃない!あっちに行け!」

 タキオンが、もう一度そう怒鳴ると、桜花は、素直にとぼとぼと歩きながら、母の方に戻っていった。その後に、母に「お姉ちゃんに怒られた~」と泣きつく声が聞こえてきた。タキオンは、その声を聞きながら田上に目を戻すと、一度膨れ上がった怒りをどう鎮静させようか迷って葛藤している顔で、田上を見つめた。田上は、寝転がったまま腕を広げると、「来てもいいよ」と言った。タキオンは、その腕の中に入り込むと、田上の体を思い切り抱きしめた。田上は、ぽんぽんとタキオンの頭を叩いて、タキオンの怒りが引いて行くのを待った。タキオンは、暫く田上の胸の中で深呼吸を繰り返していたが、やがて、顔をあげるとこう言った。

「少し散歩に行かないか?」

「散歩?夜だよ?」

「そんなに遠くには行かない。ちょっと夜風に当たって話そう?…この家じゃ、碌に話すこともできない」

「いいよ」

 田上はそう言って立ち上がろうとしたのだが、提案した当のタキオンが、田上から離れたくなさそうに、その体にひしとしがみついていた。それを苦笑して眺めながら、田上はタキオンの頭を安心させるように叩き、「外に行くんだろ?」と優しい声で言った。タキオンは、それでも、まだ少し田上にしがみついてじっと黙りこくっていたが、やがて、起き上がると複雑そうなしかめっ面をして、「母さんに言ってくる」と言って部屋の外に出ていった。田上もその後に続いて、リビングの方に言ったが、残念ながら母は風呂に入っている最中だった。だから、父に夜風に当たりに行くことを告げると、「念のため反射材をつけていけ」と玄関にある手首に巻くタイプの反射材を二つ渡された。タキオンと田上は、それぞれの腕に反射材をつけると、真っ暗な夜の中へ光の差す玄関から歩き出していった。

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