ケロイド   作:石花漱一

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二十七、ゴールデンウィーク初日⑤

 タキオンと田上が出ていった道に街灯はなかったが、月明かりが思いの外明るく外を照らしていて、薄ぼんやりとでもタキオンの顔を視認することができた。タキオンの両親の家から少し行った所には、歩道があったから二人はとりあえずそこまで歩いた。そこにも街灯は設置されていなかった。

 タキオンは、歩道について誰も居ないと見るや否や、田上の体に抱き着いた。田上は、先程のようにタキオンを安心させてやろうと、頭をよしよしと撫でてやった。タキオンは、長い事そうしていた。まるで、拗ねてしまった子供のように、いつまでも田上の所から離れないかのように思えた。だが、その膠着状態にも終わりがやってきた。タキオンは、今まで田上の胸に埋めていた顔を上げると、しょんぼりと落ち込んだ顔をしていた。

「私、…君が大好き…」

「俺も好きだよ」と田上も優しく返した。その声は、静かではあったが、より静かな住宅地の外れにある歩道では、異様に大きな声のように聞こえた。

 タキオンは、その言葉を聞くと、また田上の胸に顔を埋めて、暫く黙り込んだ。田上は、タキオンの心の中で、怒りの整理がつくまでしっかりと待ってあげた。それは、本当に長い事長い事かかったが、田上は、じっくりとタキオンの頭を撫でながら待ってあげていた。

 やがて、タキオンは、田上の方を複雑そうな顔で見上げながら言った。

「悪い姉だと思うかい?」

「…あの怒り方は良くなかったかも知れないな。…でも、それを言ってしまえば、俺もあの時、帰った時に幸助に怒鳴ったからな…。俺の方も悪い兄じゃないか?」

「あれは、幸助君の方も悪かった。…あの時みたいに、君が怒ると困るな」

「あれは…、たまたまだよ。…タキオンと一緒に帰って落ち着かなくて気が立っていたっていうのもあるし、幸助もあんなにバカだとは思わなかった」

「…私は、…ただの八つ当たりだ。小学二年生にあんなにムキになって怒るんじゃなかった…」

「でも、キスを見られてびっくりしたっていうのもあるだろ?」

「…そうだよ。…君とキスしたいのに、あの家じゃ禄にできない」

「できると思って帰ってきたのか?」

 田上がそう聞くと、タキオンは、一瞬考えるために目を落としてから、また田上を見た。

「まぁ、そうじゃないが、浮かれていたのもある。…ここは、私達が最大限恋人として触れ合っていい場所だろ?あの家でキスをしちゃ駄目かい?」

「駄目ってことはないだろうけど、桜花ちゃんの事は考えないとね。 あの子が来る度にあんなに怒るんだったら、タキオンもやってられないだろ?」

 タキオンは、――否定できない、というような複雑そうな顔で、田上を見つめ返した。

「あの家でキスをするかどうか。…お母さんは、二人で風呂に入るのを勧めるくらいだから、特に、恋人らしい行為をするのに対して、否定的な感情は持っていなさそうだけど、…問題は桜花ちゃんだよね。さすがに、キスしているのを見つける度に、あんなに叫ばれると俺の心臓も持たない」

 田上がそう言い切ると、タキオンが、「そう言えば、さっきのキスは、ぎりぎりできていなかったね」と言った。

「もう一度、ちゃんとしよう」

 タキオンがそう誘うと、二人は、目を瞑ってキスをした。その途端に、どこからともなく車の音がして、夜中の住宅地の外れを、眩しいライトで煌々と前方を照らしながら、車が走り去っていった。その車のせいで、二人は、また満足にキスをできない内に離れなければならなかった。こうもタイミングが噛み合わないと、田上も少し笑ってしまった。タキオンも初めは、車の方に悪態でも吐こうかと思ったが、田上の微笑みを見ると、どうでもよくなってしまった。そして、二人は、今度こそ仕切り直して、しっかりとキスをした。

 

 キスをし終えると、タキオンは、田上の体を抱き締めて見つめ合ったまま、嬉しそうにふふふと笑った。田上もふふふと笑い返すと、話を元の場所へ戻した。

「それで、家でもキスしたいんだろ?」

「そうだね。…このままじゃ、あの学園以上にキスができない生活になってしまう」

「…そんなにキスをしたいのか?」

 田上がそう聞くと、タキオンは、少し空中に目を泳がせた後、田上を見た。

「圭一君は、キスをしたくないのかい?」

「別に、したくないわけじゃないけど…」

「いや、圭一君はしたいんじゃないかと思うけどね。たまに、求めてくるときもあるし。 私が、圭一君に好き好きしてるから、君はそれに甘えて、受け入れているだけなんだ。それが、悪いことって言いたいんじゃないけど、君だって私とキスをするのが楽しいんだ。私だけが君にキスを求めてると思うなよ。圭一君だって、私が求めなければ、いっぱい求めてくる。私にはその確信があるね」

 タキオンが急に饒舌になったのに驚いて、田上は、「あ、ああ」と返事をすることしかできなかった。その反応が不満だったのか、タキオンは、一度じっと田上の顔を見つめると、唐突に田上の顔に手を添えて、そっとキスをした。田上は、それを勿論受け入れたが、心境はあんまり芳しくなかった。今しがたキスについての自分の気持ちをかき乱された挙げ句に、こう求められると、動揺せずにはいられなかった。

 田上は、タキオンから求められたキスが終わると、少しつまらなさそうな顔でタキオンを見つめた。すると、またタキオンの胸に不満が宿ったようで、「もう一回」と言いながら田上の頬に両手を添えると、もう暫くのキスをした。田上は、心の中で苦笑した。このキスは、完全に自分の意思ではない。勿論、タキオンを大切にしたいという意思はあるが、タキオンが先程言った理論に沿った田上ではなかった。これは、完全にタキオンが求めているからこそやっていることだった。流石の田上でも、数秒に一回キスをしたいとは思わない。タキオンが好きで、抱きしめたい、キスしたい、と思うことはあっても、数秒に一回はやっぱりタキオンがしたいからしているのだろう。別に、タキオンが求めなければ、田上が求めているかも知れないという事を、真っ向から否定するつもりはなかったが、タキオンが田上にキスを求める回数は、田上から見てみれば少し多いように感じた。

 ようやくタキオンのキスから解放されると、田上は、動揺が晴れてすっきりとした微笑みを浮かべながらタキオンを見た。タキオンは、その顔が気に入らなさそうだったが、再びキスをすることはなかった。

「やっぱり、お前もキスしたいんだろ」と田上が、多少ムカつくかもしれないような顔で言った。

「圭一君だってキスしたいくせに」

「俺は、今みたいに毎秒はしなくていい。したい時にできれば」

「都合のいい女ってことかい?」

「それは違う。大切だ。大切だから、今のキスだって別に嫌いじゃない。キスできるんだったらした方がいい」

 タキオンは、それで数秒の間田上を睨むように見つめたが、やがて、はぁとため息を吐くと田上の体をぎゅっと抱きしめて、肩の方に顔を埋めた。

「怒るよ」

「なんで?」

 唐突なタキオンの言葉に、田上の声は少しだけ大きくなってしまった。その後に、どこかで、猫が威嚇しあっているような声が聞こえた。

「圭一君が私の事を大切にしすぎてて、幸せすぎるんだ」

 この言葉に田上は、微笑した。

「タキオンは、幸せすぎると怒るのか?」

「そうだとも。こんなに幸せだと、…もっと君を好きになってしまう」

「好きになったらいけないのか?」

「…いいや、そうじゃない。…ただ、…もっと君が好きになって、圭一君とずっと一緒に居たくなる」

 そこまで言われると、田上もタキオンの言いたいことが少し分かった。つまり、好きなのは良いが、好きすぎるという事になってしまうと、タキオンも田上の傍に居たくてたまらなくなるのだ。

――これは、俺にも責任があるんだろうな。

 田上の肩に顔を埋めて、幸せそうに吐息を漏らしながらも、同時に、少しの説明のしにくい感情によって体を強張らせているタキオンを抱き締めながら、田上はそう思った。

 

 田上とタキオンは、最後にもう一度キスをすると、家の方に戻った。夜風は、思ったよりも冷たかった。それで、田上が少し震えていると、タキオンが歩きながらもう少し近寄り、田上の腕に自分の腕を組ませ、その腕を温めるように少し擦ってやった。田上は、タキオンの気遣いに「ありがとう」と言って返した。タキオンは、嬉しそうにニコニコ笑うと、「当たり前のことだよ」と言った。夜の住宅地には、二人の微かな足音と静かな話し声が時折聞こえてくるだけだった。家のカーテンの隙間から、明かりがまだ漏れていた。

 二人が家に帰り着くと、母はもう風呂から上がっていて、「おかえりー」と出迎えてくれた。時刻は、午後八時を少し過ぎた頃だった。タキオンと田上は、いつものように外に出た後には手を洗うと、そのまま、リビングでついているテレビを無視して、自分たちの布団のところに行った。

 仏間の窓が開いたままだったので、そこの窓を閉めると、二人は同じ布団にくるまった。以前、田上の父の家に帰省した時のように、田上が、タキオンから一歩身を引こうとしたくるまり方ではない。仲の良い恋人同士が楽しげにくるまっているものだった。二人は、布団の心地よさと、目の前に好きな人が居る安心感で、少しの間、ふふふと笑い合っていた。リビングの方では、父が軽くハハハと笑う声が聞こえてきた。その声が耳障りだったのか、タキオンは、少し立ち上がるとリビングの方へと繋がる襖も閉めた。そして、やっと二人きりになった。桜花もリビングでテレビを楽しんでいた。

 タキオンと田上は幾度かキスをして、お互いを愛おしそうに見つめながら笑い合った。それから、話もした。先程の、風呂に入る前の話の続きだった。

「おじいちゃんとおばあちゃんの話はしてくれないのか?」

「今? 今するのかい?」

 タキオンが、少し物足りなさそうに言った。

「今じゃなくてもいいけど、風呂から上がったら話そうって話じゃなかった?」

 田上の言葉を聞くと、タキオンは、木製の天井を見上げながら暫く考え込んだ。少し長かったので、田上が、気を引こうと手を繋いだ。そして、その手の平を揉んだりすると、タキオンは田上の方を見てくれたが、その焦点は田上に向けられているのか、それともどこか別の所に向けられているのかは分からなかった。けれども、確かに田上が見つめられているときもあることにはあった。

 タキオンは、ようやくの事、田上にしっかりと焦点を合わせると、布団の中で少しずつ近づいて、田上とキスを交わした。今度は、桜花の乱入もなかった。二人は、満足の行くまでキスを交わし続けた。そして、タキオンが唇を離した時、口を開いて言った。

「圭一君は、もう眠気はあるかい?」

「眠気?ないけど」

「そうだろうねぇ…」

「…なに?」

「…いや、…こういう話は、真っ暗になってから語る方が私好みだ。君と寝る前になって、本当にゆっくりとできる時間になってから、少し話したいなぁと思うんだよ」

「俺はそれでもいいよ」

「…どうしようかな?」

 タキオンは、田上に答えを求めたが、田上も特にこだわりがあるわけではないので、「タキオンのしたいように」と答えるしかなかった。それを聞くと、タキオンは、一度田上から目をそらして考えたが、次には、「まぁ、圭一君がそう言うならお言葉に甘えさせてもらおう」と言った。それで、タキオンの祖父母の話はまた次へと持ち越された。

 タキオンと田上は、その後は、二人だけでいるのに少し飽きるまで、存分に二人だけで居続けて、それから、飽きた時には二人でリビングに行って、仲良くテレビを観た。丁度、映画をやっていた。日本の巨匠が監督したアニメ映画だった。タキオンと田上は、それを手を繋いで観た。少し驚くようなシーンがあると、タキオンの手がぴくっと動くのを感じて、田上は心の中でふふふと笑った。

 桜花は、映画の途中で寝ることになった。その寝かしつけに母も寝室へと行った。父は、食卓の椅子に座りながら、娘とその恋人の背中を見つめたり、映画を観たりした。娘たちを見るのだけでも、映画と同じくらい面白かった。時折、見つめ合って微笑み合う二人を見ていると、自分の顔にも自然と笑みが零れてきた。父の宗太郎は、この仲の良い二人にぜひ、幸せになってほしいなぁ、と思った。

 

 映画が終わる頃には、もう大人も寝てもいいような時間になっていた。特に、これから寝る前に少し話したい大人は、もう布団に入って良い頃だろう。そういう訳で、田上とタキオンは、まだ起きている父と、いつの間にか桜花を寝かせて寝室から戻ってきていた母に、就寝の挨拶を告げると、二人でニコニコしながら自分たちの布団へ戻っていった。

 敷かれていた二枚の布団の内、一枚はほとんど用はなかった。田上は、まぁ、タキオンに一枚、自分に一枚の布団で寝ても問題はなかったが、タキオンは、田上とくっつくことをやめずに、一枚は不要となっていた。ただ、田上もタキオンがくっついてくれないとなると、それはそれで寂しくなっていたかも知れない。そういう意味では、田上もタキオンに感謝してはいた。タキオンのように、恋人にぐいぐい詰め寄るのは、田上の自尊心のようなものもあって、少し難しかったからだ。だから、田上も今回の帰省では、タキオンが同じ布団に入ってくるのを拒もうとはしなかった。

 二人は、一枚の布団で窮屈そうにしながらも、寝るために仰向けに寝転がった。タキオンも今回の帰省では、以前のように田上の懐に潜ろう潜ろうとはしなかった。ただ、二人で手を繋いで寝ることができれば、それで良かった。タキオンの手は、田上よりも温もりがあった。そのせいで、布団の中でじっと手を繋いでいると、少し汗ばんでくるほどだった。田上がそれに少し居心地が悪くなって、手をモゾモゾと動かすと、タキオンは田上の方を向きニコリと笑って、もっと強く田上と手を繋いだ。そうされると、田上も少しの嬉しさを顔に滲ませて、笑い返すしかなかった。

 二人は、先程の話の続きを始めた。暗い部屋で、田上は、タキオンの輪郭を見つめながら言った。

「お前のおじいちゃんおばあちゃんの話は?」

 それを聞くと、暫くの沈黙の後に、タキオンが田上から手を離して言った。

「常夜灯を点けて話そう?圭一君の顔を見ながら話したい」

「どうぞ」

 田上の返事を聞く前に、布団からモゾモゾと這い出していたタキオンは、そのまま立ち上がり、普通の家よりも少し低めの位置にある電灯の紐を二回引っ張った。すると、オレンジの明かりが、ぼうっと灯り、タキオンと田上の顔が少しだけ鮮明に照らされた。タキオンは、立ったまま田上を見下ろすと、ニヤリと笑って、田上の胸に足を置いて体重を少しかけた。田上は、タキオンが自分にじゃれたがっているのを理解してはいたが、今この状況で布団から手を引き出すわけにもいかないし、タキオンと暴れるようにじゃれつく気もなかったから、仕方なさそうに睨んであげた。それでタキオンは満足したようだった。ふふふと口の端から笑いを漏らしながら、タキオンはまた田上の布団に入り込み、その手をギュッと握って、身を寄せた。

「私のおじいちゃんとおばあちゃんかい?」

「そう。尾広山…は、地名?苗字?」

「地名だよ。ここからそんなに遠くはない。車で三十分ばかりの所、山を上った先にある家に住んでいるのが、尾広山のじいちゃんとばあちゃん。だけど、今は、ばあちゃんは具合を悪くして、病院にいる。もうそろそろ退院の時期だった気がするけど、どうだろう? ただ、多分介護は必要になるんじゃないかと思う」

「おじいちゃんは?」

「じいちゃんは、尾広山にある家に住んでる。山の中だよ。ここも田舎だけど、あそこも別種の田舎だね」

「おじいちゃんたちに会えるかな?孫が、彼氏連れてきたって」

 田上が少しウキウキしたような声で言うと、タキオンは、ニヤニヤ笑いながら田上を見た。

「もう一度挨拶しなければいけない事になるけど良いのかい?」

「もう、お義父さんお義母さんほどに挨拶はしなくてもいいだろ?おじいちゃんの人柄はどう?孫が連れてきた人に怒ると思う?」

「いやいや、そんな人じゃないさ。多分、圭一君が真面目なやつだって分かったら、それだけで大丈夫だと思うよ。特に、何も考えていないよ。生きてる内に、孫娘がひ孫を見せてくれたらそれで良いんだよ」

「良いってことはないだろ」

 田上が苦笑しながら言った。

「まぁ、離婚されたら向こうもそりゃ、がっかりするだろうが、まぁ、そんなことをくよくよ考えるような老人じゃないよ。もう、私を育てるのは父さん母さんに任せて、あっちは、孫娘二人を存分に甘やかすことに生命をかけてるから。そこに、孫娘が真面目な彼氏を連れてきてご覧よ。これは、ひ孫が生まれる日も遠くないと思って、大喜びさ」

「まぁ、おじいちゃんからしたら嬉しいかもね」

「ホントだよ。これで圭一君も孫の一人だからね。真面目な孫が一人増えたってことさ。圭一君のじいちゃんばあちゃんのように、君を質問攻めして放さないかもしれないよ?」

「その時は、どうか、お前が助け舟を出してくれ。さすがに、そういうのはきつい」

「分かった。出して上げよう。 ただ、孫が一人増えることは間違いないからね。それに、真面目なんだ。真面目な孫は、老人にモテるよ」

「あんまりモテたくはないなぁ」と苦笑しながら言った。

「まぁ、大歓迎されるから、ダメ出しされるとかそんな所は心配しなくていいよ。本当に、あの人達は、孫が大好きで、その孫が連れてくる男も大好きだから」

「おばあちゃんの方もそんな感じ?」

「そうだね。ばあちゃんもそんな感じ」

 そう言った時、タキオンの鼻の奥に不意に懐かしい香りが、つんと鼻をついた。それは、いつも祖母の家に行くときに、車の中でウキウキと車窓の外の景色を見ていた匂いだった。祖母の家に辿り着く匂いだった。懐かしさそのものの匂いと言っても良いような気がしたが、それにしては、その匂いによって、情景がありありと思い浮かべられた。それで、タキオンの心も一時的に懐かしさに惹かれるようになって、唐突にこう呟いた。

「あの頃に帰りたいなぁ…」

 田上もその言葉の意味は、十分すぎるほどに理解できた。例え、今、最上の恋人がいるこの瞬間があっても尚、帰りたい場所がある。永遠の中に留めておきたい時間がある。田上もそのことは重々承知だったが、――俺という恋人も居るんだぞ、という事をタキオンに忘れさせないために、少し繋いでいる手をモゾモゾさせて気を引いた。タキオンは、田上の思惑に乗って、しっかりと田上の顔を見てくれた。タキオンは、田上の表情からその言いたいことが大体分かった。だから、仕方がなさそうに田上の体にもっと詰め寄ると、布団がずれるのも構わずに、その体の上によじ登り始めた。そして、田上の胴体に完全によじ登ると、そこで力を抜いてリラックスし始め、こう言った。

「行くんだったら、君も連れてあの頃に戻ったほうが良いかも…」

「…俺は、タキオンと一緒にここでこうしている方が良いなぁ…」

「…でも、今この瞬間もいつか思い出になってしまうと思うと、虚しく感じないかい?」

「…永遠なんて無いからな…」

 田上は、少し寂しそうに言った。その言葉を聞くと、タキオンは、田上の体をもっとギュッと抱きしめた。

「どうにかして永遠を作れないだろうか?」

「…そうすると、また寂しくなるんじゃないか?人の輪から外れるということだろ?」

「…そうだね。…でも、…圭一君と私だけの世界も、中々魅力的だと思うけど」

「…俺は、…この季節を感じれる暮らしも良いような気がする…」

「…そうかもしれない…。…そうかもしれないが、…今この瞬間が、ただの瞬間として去っていくには、惜しいような気がする。…もっと、…もっと深く味わってから、この瞬間に別れを告げたい」

「でも、…時間はそう簡単に待ってはくれないからな」

「そうだよ」

 タキオンは、そう言いながら面を上げた。その顔は、諦めたように笑っていた。そして、タキオンは、そのまま田上の上でモゾモゾと動くと、キスができる所まで来て、そっと唇と唇を触れさせた。今度のキスは、先程よりももっと長かった。おそらく、今の言葉を意識してのことだろう。田上とのキスの時間を、もっと深く味わうために、このような瞬間を設けたのだ。実際に、この二人でするキスは、時間がいかほどでもあろうと、お互いの事に夢中になって、永遠にも一瞬にも感じられるような、一種の混乱があった。幸せに満ちた頭の狂いがあった。それが、悪いことなのかどうかは知らないが、今の所、悪さを見せる様子はなかった。ただ、お互いの唇の感触が愛おしかった。

 やがて、キスが終わると、タキオンはいつものように満足そうなため息を吐いて、田上の胴体から下りた。そして、また手を繋ぎ直すと言った。

「母さんの方のおじいちゃんおばあちゃん。だから、元々私が住んでいた方の家にいる朝日川家のおじいちゃんとおばあちゃんについて話そうか?」

「ぜひ」と田上は、タキオンの目を見て答えた。

「…何から話そうかなぁ…」

「お義父さんお義母さんとは、担当契約の時にトレセン学園にわざわざ出向いてくれて、直接話せたけど、その時は、もうここに引っ越してたんだよね?」

「そうだね。小さい桜花を連れてここまで行っていた」

「じゃあ、朝日川のおじいちゃんおばあちゃんってどんな人?」

「うーん…、まぁ、尾広山のじいちゃんばあちゃんとあまり変わらないが、…家が大きいからね。元々富豪なんだ。電化製品を作っているのが、うちの朝日川の祖父の家系だった。戦後の復興で、バブル崩壊も切り抜けて、今も立派に企業しているらしいよ。私は、あまり実態の方は知らないが、小学生の時などに、そういう大物が集まるパーティーなんかに連れて行かれたことがある」

「そんな凄い家なの?」

 田上が感心したような声を出すと、タキオンは、得意そうにニヤリと笑った。

「まぁ、実態の方はもう知らないし、母さんが、父さんと結婚したことによって、形も若干崩れた。前は、一族で経営していたらしいが、母さんがただの新人のトレーナーと結婚すると、それももう諦めたそうだ」

「そんな話をどこで聞くの?」と田上が、純粋に疑問に思いながら聞いた。

「父さんが、昔そんな話をしてくれた。――お前も、この家がどんなものか知っておいたほうがいいだろう、って」

「それで?」

「それで?…何を話せば良い?」

「おじいちゃんおばあちゃんのことには、あんまり触れていないんじゃない?」

「ああ、そうだった。…父さんも母さんと結婚する時は、苦労したそうだ。家があまりにも大きすぎる。母さんには、元々兄が居たから跡継ぎなんかはよかったが、それでも、母さんの婿は、使える男にしたかったんじゃないかと思う。今はもう、おじいちゃんもおばあちゃんも丸くなったし、そのいざこざの詳細は私も聞かされていないけどね。 私は、まぁ、裕福な家で、それなりに甘やかされて育ったよ。あっちの家なんか、ここの数倍は広い。お金はある。ただ、私の足は、そんなお金のある家でも簡単には治せなかった。まだ、解明されていない病だった」

「そう考えると、お前、凄すぎないか?走りも成功してて、自分の足の、…言わば不治の病だろ?」

「まぁ、そう言ってもいいが、別に、全力で走る、競走することが簡単にはできなくなるってだけだからね。生活にはあんまり影響しないさ」

「それを治す薬も自分で導き出したんだから、ホントに、ノーベル賞貰ってもいいくらいなんじゃないか?」

「それが嫌だから公表してないんだ。それに、だったら、私はノーベル賞受賞の現場に君を連れていくけどね。――この人が居なければ、私の薬は作り上げることはできませんでした、ってね」

「それは嫌だな」

「だろ?そもそも、これは、私だけの為に作り上げたって前に言ったことがあるだろ?私は、誰かの為を思ってあの薬を作り上げたんじゃない」

「でも、その薬で救われる人が大勢いるぞ?」

「それはナンセンスだ。別に、不治の病じゃない。全力で走ることができなくなるだけだ。たったそれだけなんだ。だから、私はもう諦めようとしたが、その時になって、君が私の心にまた火をつけたんだ。だから、私は、自分の足を治す決心をして、見事それが実を結んだ」

「…担当の足の状態も見抜けない駄目なトレーナーだけどな…」

 田上が、唐突に落ち込んだ声を出すと、タキオンはそれを予期したように苦笑した。

「おいおい、いつまでひきずっているんだい?圭一君があの時、限界の先へ行きたいと言ってくれたから、私は、今も走っていることができているんだ」

「…でも、…走って正解なのか?」

「…どういうことだい?」

「宝塚記念。…走れるのか?」

 そう言った途端に、今度はタキオンの顔が曇ったのが窺えた。

「…走るよ。…走る。…だから、この帰省中はその事を思い出させないでくれ。せめて、帰省の時くらいはゆっくりしていたい」

「…でも、…やっぱり俺には少し心配だね…」

「…君は、恋人として走ってくれって言っただろ?」

「言ったよ。…だけど、それで走ろうと思ったら、……お前を怒らせるような事言っていい?」

「…いいよ。怒るから言ってみたまえ」

「ええ…」とタキオンの反応に困ったように返しながら、田上は、その返事をされた後もちょっと考え込んだ。そして、最終的にこう言った。

「タキオンは、……俺の恋人として走ろうとすると、……弱くなると思うんだよね…」

 案の定、タキオンは自分の心の弱い所を刺激されて、少し怒りをぶつけるように田上の頬をつねった。ただ、思いっ切りではなく、それなりに怒りと優しさを含んだつねり方だった。

 田上は困ったように笑みを作りながら、頬をつねってくるタキオンを見つめた。タキオンもまた、田上の目を見つめ返していたが、少し傷ついていた。けれども、思ったよりも傷ついていないと分かると、田上はこう続けた。

「タキオンはどう思う?恋人として走って、お前は一着を取れると思うか?」

 タキオンは、田上を悲しそうな目つきで見た。それは、まるで「私にその事を言わせるのかい?」と言っているような目つきだった。ただ、田上だって、このまま走ってしまう事に疑問が残るから、タキオンの意見を聞かないわけにはいかなかった。

 やがて、タキオンが田上との見つめ合いに根負けして言った。

「…私は、…君の恋人でありたい…」

「…でもな…。別に突き放したいんじゃない。これからもタキオンとは恋人でいたい。だけど、恋人でいると、お前は前よりも弱くなっているように感じる」

「…それがなにか悪いかい?」

 タキオンは、田上の目を見ずにそう言った。

「悪いかもしれないだろ?…俺が言いたいのは、……お前が、…お前が、…俺に頼って、甘えて、投げ出してしまわないかが心配なんだ。…だから、弱ってるんだ。…勿論、俺もお前の恋人でありたい。甘えるのだって悪いことだけじゃない。…だけど、皐月賞、菊花賞、大阪杯を勝った時のお前よりも、今のお前は、精神的に弱くなってる。…お前だって分かるだろ?」

 タキオンだって、自分の事だから、田上の発言も分からないこともなかったが、それを認めたくはなかった。認めてしまえば、折角頑張って走ろうと思っている宝塚記念への走る意欲が損なわれてしまう。確かに、以前のような活力はないが、自分だったら以前のように走れるんじゃないかという心許ない考えがあった。その考えによって、タキオンは今頑張れている所だった。走れるか走れないかはやってみなければ分からないだろ、という考えもあった。

 しかし、タキオンは、田上の言葉に答えきれずに、じっと目を逸らして、布団の皺を見つめていた。田上も、タキオンの顔を暫く見つめていたが、やがて、はぁとため息を吐くと天井を見上げた。常夜灯が少し眩しいように感じ、同時に、眠気も少し本格的になってきた。田上は、瞼を瞬かせると、もう一度タキオンを見た。タキオンは、先程のように布団の一点を見つめていた。田上もできればこんな雰囲気にしたくなかったが、いつの間にかこんな風になっていた。――今日の所はもう頭も回らなくなってきたし、話も無理だろう。そう思うと、田上はタキオンに「電気を消していい?」と聴き、頷いたのを確認すると部屋を真っ暗にした。

 二人は、それから一言も話さなかったが、手は、完全に眠りに落ちるまで放さなかった。お互いがお互いの手のぬくもりを感じながら、徐々に徐々に眠りに就いた。眠りに就いたあとも、不図した拍子に手が離れてしまうと、お互いの手を求めるように指先をぴくぴくと動かしていた。

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