ケロイド   作:石花漱一

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二十八、蛍の夜①

二十八、蛍の夜

 

 田上は、朝起きると、真っ先にタキオンの寝顔を見た。仏間の窓を覆っている白い障子から漏れている朝の光が、田上たちの下まで伸びて、柔らかくその顔を照らしていた。タキオンの寝顔は穏やかだった。小さく可愛らしい顔ですぅすぅと寝息を立てて眠っている。これが田上の恋人だった。あまりにも自分にはもったいないくらいの美人が、自分の恋人だった。

 田上は、タキオンの顔を愛おしそうに見つめ、親指でそっと頬を擦ってやった。タキオンは、起きなかった。相変わらず、すぅすぅと寝息を立てている。その顔を見つめている内に、――自分には勿体ない、という思いが胸の奥で少しずつ膨れてきた。しかし、タキオンは――勿体なくなんかない、と反論するだろうと想像すると、その膨らみも奇妙な萎みを見せた。

 田上は、暫くタキオンを見つめて過ごした。――起きないかな、と思って何度か頬をつついてみたりしたが、タキオンは、すぅすぅすぅすぅと寝息を立てるばかりだった。やがて、田上もこんな調子ではいけないと思って、ゆっくりと起き上がると最後にタキオンの頬にキスをして、部屋から出て行った。

 

 部屋から出て時計を確認すると、まだ、朝の七時ちょっと前だった。リビングに明かりは点いておらず、外へと通ずるガラス戸はカーテンで閉め切られていた。そこから漏れる朝の光によって、この部屋も薄ぼんやりと明るくされていた。田上は、まだ寝ている人たちを起こさないために、あまり音を立てないようにしながらトイレの方まで歩いた。リビングから廊下に入る時の一番初めの扉が、おそらく寝室だと思われるので、そこの前は特に慎重に歩いた。

 トイレの水を流す音が案外大きくて、家中に響いたのではないかと思えたが、誰も起きてこなかった。それで、田上はひとりぼっちのまま、リビングで、椅子に座って暫く緑色のカーテンを見つめていた。テレビを見ても良かったのだが、生憎、今は早朝でテレビをつけるには少しうるさすぎるような気がした。そして、次に何をしようかと考えていた所に、桜花がリビングに繋がる戸を静かに開けて、入ってきた。まだ眠たそうに目を擦っていたが、田上の姿を見つめると、途端に元気を小さく爆発させて「おはよーー」と言った。まだ頭が覚醒しきっていないからなのか、昨日の夜ほどの元気はなかった。田上は、それに優しく「おはよう」と返すと、桜花の行動を見つめた。

 桜花は、まず水を飲みに行った。桜花の身長には少し遠めな水道から水を出すと、それをコップについで、丁寧に近場に置いてから、水道を閉めた。そして、水を飲みながら田上の方に来ると言った。

「今日は、とも君と遊ぶ約束をしてるんだー」

「へぇ。…とも君?」

「そう、とも君。あと、一花ちゃんとけんたろー君とここあちゃんとこうすけ君とさきちゃんが来る」

「へー。…それは、家で遊ぶの?それとも、公園とかで?」

「公園で遊ぶ。児童公園に皆で行く」

「…とも君はまだ好きなの?」

「え?」

 桜花は、タキオンの顔で見たことがあるような、少し言い淀む困った表情を取った。そして、田上から一度目を逸らした後、こう言った。

「とも君、もうここあちゃんの事が好きって言ってた」

「あらそう…」

 突然の失恋話に田上もそう答えるしかなかった。桜花は、見た所普通に平気そうではあったが、先程の顔を思い出してみれば、それが失恋だということには気がついているのだろう。――俺は小二でそんな恋をしてたかな?田上は、桜花の他より少し大人びた調子に疑問を抱きながら、そう考えた。確かに、田上の初恋は、小一のときだったが、その時は、告白もできずに、そのままクラス替えの時に別の子へと気が移り変わっていった。すると、とも君もきっと、クラス替えで、心の方も変わったのだろう。

 トレセン学園では、中等部から高等部に移るときにしかクラス替えがないが、考えてみれば、もう年度末をあっという間に過ぎていた。丁度そこらへんは、タキオンの大阪杯で忙しかったから、あまりそんな事に気を引かれることもなかった。――タキオンが虚しいと言っていたのは、このことなんだろうな…。田上はそんな事を考えつつ、とも君と桜花の事を考えた。

 桜花は、飲みきれなかった分の水をシンクに流すと、再び田上の方に戻ってきた。その様子を見つめながら、田上はこうも考えた。――桜花ちゃんのただの勘違いで、向こうは好きでもなんでもなかったのかもしれない。 そう考えてみても、結局、小学校低学年の小さな恋なので、田上が、わざわざ考えてあげる必要はなかった。そして、何より桜花がその事を気にしていなさそうだった。桜花は、「おにいちゃん、絵ー描こう?」と言うと、スタタタと小走りで自分の部屋に行って、色鉛筆とスケッチブックを持ってきた。そして、「あ」と言うと、また自分の部屋に戻っていき、もう一つのスケッチブックを持ってきた。そのスケッチブックは、桜花が初めに持ってきたものより、使い込まれた古いもので、それを開け広げてみると、驚いたことに全てのページにぎっしりと絵が描き込まれていた。今よりも大分下手な絵がたくさんあった。しかし、ページが後半になっていくにつれて、その輪郭は安定したものになっていった。

「これ全部桜花ちゃんが描いたの?」

 田上は、感心しながらそう言った。桜花は、得意げな顔をして「そう」と頷いた。田上は、このスケッチブックにタキオンの片鱗を感じた。タキオンも走ることを楽しむ子だった。タキオンには、自分の走る障害となるものが、あまりにも大きな物として立ちはだかっていたが、それさえなければ、自由に楽しく走っていただろう。そして、才能があったから、GⅠという舞台まで行った。桜花も同じ類じゃないかと思った。桜花が、焦りか何かに駆られてこれを描いているのでなければ、純粋に楽しんで描いているし、才能も十二分にある。まるで、姉のようだ。すると、将来は、それなりのデザイナーだったりイラストレーターになるかもしれない。田上は、タキオンの妹であれば大成しそうな気がした。

「桜花ちゃんは、将来の夢とかあるの?」

 田上は、桜花が、また新しく描き始めた絵を見つめながら聞いた。桜花は、「ん~?」と言いながら、きりの良い所まで絵を描き上げると、田上の方に目を上げて「なんて?」と聞いた。

「桜花ちゃんは将来の夢とかあるの?」

「んー、……あんまりない」

 桜花は、平然としながらそう言った。

「あんまりない?」

「んー、…どれもつまんなさそうなんだもん」

「つまらない?」

「…んー、…面白くなさそう」

「…え、…桜花ちゃん絵が好きだよね?」

「うん」と桜花は、しっかりと確信を持って答えた。

「じゃあ、お絵描きするお仕事とかはどうなの?」

「んー、分かんない」

 桜花は、特に将来というものに興味を持っていなさそうだった。小学校低学年であれば、何かの機会に自分の将来の夢を書くことがありそうだが、その時はどうしていたのだろうか?何か適当なものを上げていたのだろうか?

 そう考えていると、次に母が「おはようございますー」と欠伸をしながら起きてきた。そして、桜花と田上が一緒にいるのを見ると、「桜花の相手をしてくれてて、ありがとうございます」と言った。母は、起きた後にすることがあったようで、リビングにとどまることはなく、少し忙しそうにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていた。そのうちに父も起きてきて、田上に「おはよう」と挨拶をした。父の後には犬も続いていた。

 タキオンは、まだ起きてこなかった。ただ、こうして朝の生活が始まると、田上もなんだかリビングに留まり続けるのが居心地悪くなって、やがて、ゆっくりと自分たちの寝室の方に戻った。

 

 タキオンは、まだ朝の光を浴びながら眠っていた。様子は、田上がその部屋から出て行った時とあまり変わらなかったので、田上はタキオンを通り過ぎると、仏間に行って、そこの部屋の窓の障子を開けた。その先には、ちょっとした庭があって、植木鉢にいくつか花が植えられていた。ピンクだったり赤だったりするものが、綺麗に咲いていた。おそらく、母の趣味じゃないかと思って、田上はその花を少しの間眺め続けた。しかし、それもやがて、つまらなくなってくると、田上は花から目を逸らして、退屈そうに仏間を見渡した。仏間は、少しの物置のような形になっているらしく、所々にあまり動かされていなさそうな物が置かれていた。さすがに、仏壇の方は手入れがされていて、その周辺には物は置かれていなかったが、それ以外は、少し雑然としていた。

 その時、縁側の方でガラガラと音がした。誰かが雨戸を開けに来たのだ。田上は、突然の出来事に暫くその方向を注視したが、何回かガラガラと音がすると、その後は静かになったので、田上はまた退屈になった。すると、田上の視界の中で、布団がモゾモゾと動き出した。タキオンが起きたのだ。ただ、田上は、タキオンが起きたという確証がまだなかったので、その様子をじっと見つめていた。

 そして、次に、「う~ん」と伸びをする声が聞こえた後、「圭一君?」と自分の名を呼ぶ声が聞こえた。田上は、これにニヤリとしたが、返事は寄越さなかった。もう少しタキオンが、自分を求めて寂しそうにしている姿を見てみたかった。しかし、タキオンは、何かの勘なのか、それとも五感で感じ取れるものがあったからなのか、すぐに仏間にいる田上を見つけて、半身を起こした。まだ眠たそうな顔で「おはよー」と言うと、「一緒に寝よう?」と続けた。田上は、ニヤニヤ笑いを止めると、「いいよ」と言ってタキオンの隣に寝転がった。タキオンは、寝惚けながら田上の顔に手を置くと、指先でとんとんと田上の頬を叩いた。まだ、自分が何をやっているのかわからない調子であるような気がした。タキオンの目は閉じられていたし、口では言葉の形を留めていない声をむにゃむにゃと出していて、時折、「好き」とか「圭一君」とか聞こえるような気がした。

 田上は、タキオンのされるがままに、頬をつつかれたり、引っ張られたり、抱き締められたりした。苦しすぎたり、痛すぎたりしない限り、抵抗はしなかった。ただ、タキオンと居れる時間が安らかだったので、その時間に身を任せた。

 タキオンに抱き締められながら、自分も目を瞑って心を無にしている時、タキオンはようやく「ふぁ~~~」と長い欠伸をして、寝ぼけから覚めたようだった。そして、自分の胸の中に抱き締められている田上を静かに見やると、そっと解放して目線を合わせることにした。田上は、少し目を瞑っただけで、眠気が頭をぼんやりとさせた。それも、目を何回か瞬かせれば、眠気は吹き飛んで、目をぱっちりと開けた。目の前にはタキオンの顔があって、朝の光と布団の中で穏やかに微笑していた。

「おはよう」とタキオンがゆっくりと優しく言った。田上も同じように優しく「おはよう」と返した。そして、タキオンは少しずつ田上に近づいて、朝のキスを布団の中で交わした。田上も微笑しながら受け入れて、キスが終わると、その微笑のまま恋人の顔を見つめた。恋人であるタキオンは、愛おしそうに自分の彼氏の顔を見つめた。それから、キスをするために少し上げていた頭を下げると、「ありがとう」と一言言った。田上は、それに何も返さずに、白い光に照らされた木の天井を見上げた。タキオンが、自分の耳たぶを触ってくるのを感じたが、それに反応はせずに暫く考えた後、こう言った。

「昨日の夜の続き…、してもいい?」

「昨日の夜?」とタキオンはオウム返しに聞いたが、田上の言おうとしていることが何であるかを悟ると、急に顔を曇らせて「嫌だ」ときっぱり言った。田上がしたかったのは、昨日の夜のタキオンが恋人として走る事、についての話の続きだった。

 昨日は、夜だったし、眠たかったのもあって、有耶無耶のまま話が終わってしまった。田上は、その話を終わらせるべきではなく、もっと深掘りするべきだと考えた。トレーナーとして考えるならば、できる限り担当の子を勝たせてあげたい。しかし、田上とタキオンには、恋人としての二人と、トレーナーと教え子としての二人という関係性があった。――それをどうにか、きっぱりと区別をつけるでもないけど、何か良い塩梅の所を見つけなければならない。 田上はそう考えていた。だから、タキオンが「嫌だ」と言っても、手を繋いで、求めるようにタキオンを見た。田上にそうされると、タキオンも弱かったので、やがて、根比べに負けて「私に答えは出せないよ」と言った。

「今すぐ答えを出さなくていい。ただ、…宝塚記念は勝ちたくないのか?」

 田上がそう質問すると、タキオンは苦しそうな顔をして黙り込み、田上の顔を見つめた。タキオンの心は、今、二分されている状態だった。走りたい私と圭一君の恋人でいたい私。そして、走りたい私の正体が掴めないが故に、タキオンは、この事について田上に簡単に打ち明けられずにいた。もしかしたら、走りたい私の正体は、案外陽の光の下に照らされていそうなものでもあったのだが、それを見るには、タキオンも盲目になってしまうようだった。

 田上は、タキオンの複雑そうな顔を見つめると、今度は自分の方から近寄って、タキオンの唇にそっとキスをした。タキオンが求めるほどに長いものではなかったが、それでも、口を開かせる効果は十分にあったようだ。

「君も毎秒したがるじゃないか」とタキオンは、苦しそうな表情を変えないままに言った。

「俺だってしたいときはしたい」

「昨日はしたくないって言ったくせに」

「それは、…別にしたくないってことじゃなかった。したい時にしたいってことだった」

 田上がこう言うと、タキオンは、反論できずに口を閉じた。こんな言い争いを重ねても無駄だと気がついたからだ。

 そして、そんなタキオンを見つめながら、田上は言った。

「…恋人として走る事…、それは、少し走るという事に大して熱意が欠けるかもしれない…」

「恋人として走ってくれって言ったのは圭一君の方じゃないか」

「俺はそう言った。あの時は、それしか道がないように思えた。…お前が苦しんでいるんだったら、その苦しみから守ってやりたかった。…だけど…」

 そこで田上は、タキオンの顔をじっと見つめて、頭の中で続きの言葉を整理させた。

「だけど…、…お前が勝ちたいんだったら、恋人のまま走るのは駄目だという事に、ここ最近のお前を見て気がついた。…勝ちたいのか?…怒らない。二人で生きる道を見つけたい。その為にお前に質問してるんだ。このままじゃ、にっちもさっちもいきそうにない。…分かるだろ?」

 田上にこう言われてもタキオンは答えることができなかった。田上もそれを予期していないわけではなかったので、タキオンの方に少しずつ近寄ると、タキオンの頭の下にそっと手を回し、半端に抱きしめる体勢をとった。これが、立ち上がっている状態であれば、田上もちゃんと抱き締めていたのだが、こう寝っ転がっているとそれをするには少し難しかった。けれども、タキオンも田上に抱き締められるのは悪くなかったようで、もう少し自分の体の上に乗っている田上の腕を引っ張ると、田上の体重が自分にかかっても良いように許した。タキオンは、その田上の重みが少し心地よかった。縛られている。離れることができない。そんな感覚と共に、田上の重みを感じ、安心感を得た。その安心感がじんわりと心に滲んできた時、田上は顔を上げて言った。

「タキオンも言いづらいだろうから、あんまり一方的に話すっていうのもあれなんだけどな…。…あれだ…、俺が悪いと思って、本当にどうしようももないやつだと思ったら、いつでも別れ話をしていいからな。…お義父さん、お義母さんには悪いけど…」

「…それは嫌だ…」

 タキオンは、一言だけそう告げた。そんなタキオンの顔を見つめながら、田上は、タキオンのお腹を寝かしつけるようにぽん…ぽん…と叩くと、言った。

「俺だって、結構、選択を間違えてるからなぁ…。…これだけは聞かせてくれないか?…一着になりたいのか?なりたくないのか?首を縦に振るか横に振るだけでいい。教えてくれないか?」

 そう言って、次に田上はタキオンの前髪をかきあげてやった。タキオンは、それに鬱陶しそうに首を横に振ると、今の首振りが田上に勘違いされなかったのだろうか?と彼氏の顔を見つめた。田上は、勘違いはしていなかったようで、「いつでもいいよ」と優しく言いながら、タキオンの顔にかかっている髪をそっと指でどかしていた。すると、今度は、その指が触れている箇所がくすぐったくなって、掻きたくなったが、その衝動を我慢して、タキオンは言うべき言葉を考えると、田上の顔をじっと見つめて言った。

「分からない」

「分からない?」

 悲しそうな顔をして答えたタキオンに、田上が優しく聞いた。そして、また、タキオンは次の言葉を少しの間考えてから言った。

「……私は、…圭一君の恋人でありたい…」

「うん」

「……私は、…一着になりたいのか、なりたくないのか分からない」

「…うん。…それは、…どうなの?一着になりたい気持ちもあるけど、なりたくない気持ちもあるって事?それとも、もう本当に右も左も分からない感じ?」

「……なりたいし、…なりたくない…」

「…うん。…タキオンは、それについて理由がわかったりする?」

 タキオンの頭には、なんとなく――田上に嫌われたくないからじゃないか?という考えが浮かんだが、それがあまりにも脈絡のない考えであるため、タキオン自身でも少し信じがたかった。何か、体の良い理由を頭の中にぱっと思い浮かべることができれば良いのだが、それも生憎無理だった。けれども、前述の考えもにわかには信じがたい。そのことについてもっと深く考えることができれば良いのだが、今こうして田上の懐に抱かれていると、その幸せさが脳を支配して、あまり変なことに頭を悩ませたくなくなった。ただ、こうして悩んでいる自分に対して、田上が心配そうな顔をして、優しい声を掛けてくれて、抱き締めてくれれば、それが幸せだった。

 しかし、同時にタキオンの理性も、ちゃんと考えを捉えて放さなかった。考えを自分では深く掘り下げることができなくても、田上が代わりにそれをしてくれる。理性は、田上にそれを話す事を選んだ。

「……圭一君に……嫌われたくない…」

「それが理由?」

 タキオンは、ゆっくりと頷くと、また少し深く田上の懐に入り込んで、その体に手を回して抱き着いた。田上は、微笑みながらタキオンの頭を撫でてやったが、話は続けた。

「俺は、…多分、タキオンを嫌いにはならないと思うんだけどね…。何か、それらしいことを言ったことがあるのかな?」

 タキオンは、田上の胸の中で、田上の匂いを目一杯に吸いながら、首を横に振った。しかし、これは田上に上手く伝わらなかったようだ。「え?」と言うと「今のは返事?首を振ったの?」と返ってきた。だが、タキオンもこれ以上何か伝えようとするのは億劫だったので、田上を抱きしめたまま動こうとはしなかった。

 

 田上は、少しの間黙っていたが、やがて、「体勢が辛いから」と言うと、自分の体を仰向けに寝かせて、その上に、田上に抱きつきたいタキオンを置いた。タキオンも、先程よりも体勢がずっと楽になって、上にいることで、より大きく田上を感じれるような気がしたので、この体勢になったのは万歳だった。

 それでも、田上は少し息がしづらくなったようで、深呼吸で少し息を整えるとこう言った。

「……今まで、…酷いことをたくさんしてきたからなぁ…。…お前がそう思ってもしかたがないのかもしれない…。…本当に、嫌になるな…。…何を選べば正解だったんだろう…?」

 タキオンは、「何も選んでも、正解はその時にしか分からないよ」と言いたかったが、今、口を開いてそれを言うのは億劫だったので言わなかった。この場の主導権を握るのは、自分ではなく、田上であってほしかった。まだまだ、田上に甘えている自分であってほしかった。

 その為に、タキオンは少し力を込めて、田上をギュッと抱きしめ直した。田上もタキオンの心の機微を、どこかで感じ取ったのか、安心させるように頭をポンポンと叩いてやると、独り言のように言った。

「…お前が一緒に居てほしいって言うから、一緒に居ることにしてる…。…別れるための心構えもできてるつもり。…お前を不安にさせたくないから傍に居る…。お前が居てくれるって言うから、傍に居る。…居てほしい…。居てくれる…。…離したくない気持ちもある。…付き合ってたらそんなものかもしれない…。…タキオン」

 タキオンは、呼びかけに何も答えなかったが、田上はタキオンが話を聞いているだろうと思って、話を続けた。

「今、ようやく軌道に乗ってきた所だ。ようやく、俺もお前と付き合うということに前向きになってきたところだよ。…ようやく、一緒に居れそうな気配も見えてきた。…けど、まだ、気配だけだと俺は思う。まだ、もっと考えることがある。…そう思わないか?」

 タキオンは、田上の胸に顔を埋めながら、コクリと首を縦に振った。その様子をしっかりと確認すると、田上は、またタキオンに押さえられて苦しい息を、深呼吸をして整えた。

「本当にようやくだ。ようやく、俺の心も少しは落ち着いた。 一ヶ月経って、やっとお前が俺を好きなんだろうって事が、身に染みてきた。だから、…まぁ、それなりにお前が大切だ。心に残る大切な人として、お前が大事だ。…だから、……あんまり何を言っているのか分からなくなってきたけど、…ようやくお前を抱き締められる…?…これまでも抱きしめる場面は多々あったんだけど、…前向きに抱き締められると言うか、俺自身が、タキオンの事を本当の恋人だと思って抱き締められる気がする。…言ってること分かるかな?」

 タキオンは、田上の胸に顔を押し付けながら「分かる」とくぐもった声で返した。その時に、タキオンの吐息が、服越しに田上の胸を熱くさせたので、田上は少し笑った。特に可笑しさから笑ったわけではなく、タキオンの吐息に幸せを感じたから笑ったのだった。

 

 それから、田上は、少しの間タキオンに「お前の事が好きだ」という事を、色んな言葉を使って伝えた。そして、満足と納得の行くまでタキオンに伝えた後、「一緒に部屋を出よう?」と言った。しかし、タキオンは、田上の上に抱き着いたまま首を横に振って動こうとしなかった。こうなると、田上は動けない。タキオンは、ウマ娘であるためそう簡単にどかすことはできない。ウマ娘でなくても嫌がっている人一人を自分の上からどかすのは、困難だと言うのに、それが、タキオンで、ウマ娘であるから、田上は抵抗する前に諦めることをした。そして、タキオンの頭を撫でて、考え事をしながら、彼女が自分の上から退くのを待つことにした。

 ただ、タキオンは、その田上の様子を敏感に感じ取ったのか、今ここに居る自分以外のことは考えさせまいと、その唇にキスをした。唐突に唇を当てられて、田上は一瞬鬱陶しく思ったが、突き放すような真似はしなかった。タキオンがウマ娘だから抵抗しても無駄だという考えではなく、単純に、タキオンとのキスは田上にとって嬉しいことだったからだ。すぐに、頭は、鬱陶しさから、タキオンを抱き締められる嬉しさへと変わった。タキオンにしてみれば、これが狙いだったので、タキオンの策略は物の見事に上手くいった。これで、キスをしている間は、田上はタキオンの事しか考えられない。その他の事に考えを巡らすことが難しくなる。タキオンがキスをし続けていさえいれば、田上は「ここから離れよう」と言い出す気さえ起きないだろう。現に、田上の頭は、今はタキオンとのキスの嬉しさで支配されており、その事しか考えられなくなっていた。

 ただ、その中で一つ誤算だったのが、タキオンだっていつまでもこうしているわけには行かないことだった。時折、唇を離してキスを止めるかと思いきや、またキスをするという事をして、キスに慣れて整いつつあるかもしれない田上の脳みそをリセットしていたが、そうして時間稼ぎをした所で、また桜花がいつ入ってくるとも知れないし、その内トイレに行きたくなるかもしれなかった。その思いが、頭の中で膨れ上がり、冷静にタキオンを諭そうとしている所で、縁側の方でなにかの物音が聞こえた。タキオンは、家族の誰かかもしれないと思って、慌てて田上とのキスを止めた。田上は、どうせタキオンをどかすことはできないので、全ての判断をタキオンに委ねていた。

 タキオンは、鬱陶しそうに少し顔をしかめながら、障子の方に四つん這いで歩き、そっとその障子を引くと、縁側にいたのは、寝転がってだらしなく足を広げている犬だった。「なんの用?」とでも言うように、舌を大きく出しながら息をして、タキオンの方を見つめてきた。タキオンは、――よくよく考えれば、物音の正体は犬だったと自分であれば簡単に気づけたはずなのに、なんで気づけなかったんだろう?と少し自分自身の間抜けさに苛立ちながら障子をトンと閉めた。そして、田上の方に向き直ると、田上は、もう半身を起こしていて、先程のキスの続きをしようという雰囲気ではなかった。それでも、タキオンが多少がっかりしたような顔をすると、田上もそれに勘付いて、「まだしたいの?」とタキオンに問いかけてきた。タキオンは、これに大いに悩んだが、結局、キスをするのはやめた。そんなもので無理に縛ろうとしても、どうしようもないと思ったからだ。けれども、田上の下に行くと、まだ少し田上と一緒に布団の中にいることにはした。田上もタキオンに「部屋から出よう」と誘うことはしなかった。考えてみれば、今日はなんと言ったってゴールデンウィークだし、予定も何もないんだから、朝はゆっくりとしていて良いはずだった。その訳で、田上は、タキオンと一緒に布団にまだまだ居続けることを選んだ。

 二人は、布団の中で嬉しさに身を包まれながら、朝の一時を過ごした。

 

 二人は、十分に満足するまで布団の中に過ごした後、手を繋ぎながらリビングへ出た。田上は、あんまりご両親の前で見せつけるような事はしたくないと言ったのだが、タキオンがどうしても手を繋ぎたがったので、仕方なく田上はタキオンと手を繋いだ。

 田上は、タキオンの父母と目が合うと、自分の顔が見る見る内に赤くなっていくのを感じたが、タキオンはそんなことにはお構い無しで、田上との手を解くと、自分はトイレへといった。それで、田上は行き場を失くして、とりあえず、すぐ近くにあるソファーに座った。田上の前の小さい机では、桜花が一生懸命に紙に何かを書いていたが、今度は、スケッチブックではなかった。それで田上が覗き込んでみると、その正体が、小学校の宿題であることがわかった。その紙には、数字がたくさん並んでいたので、どうやら算数の宿題のようであった。まだ、小学二年生だったので、もう少し歳を取ってから出されるような、小さい数字を紙いっぱいに敷き詰めた宿題ではなかった。ただ、単純な掛け算がざっと二十問ほど並べられていただけだった。桜花は、それを難しい顔をして、う~んと唸りながら解いていた。どうやら、お姉ちゃんとは違って、数字は苦手なようだった。

 その内に、タキオンがトイレから戻ってきて、田上の隣りに座った。そして、田上と同じように桜花の宿題を覗き込むと、ちらりと見てきた田上と目を合わせて、ふふふと笑った。それから、また宿題の方に目を戻して言った。

「この問八の問題、間違っていないかい?」

「ええ?八番ー?」

 桜花が面倒臭そうな声を上げた。その調子は、まるで「余計なことを言いやがって」と愚痴を垂れているようだった。その調子を感じ取った田上は、タキオンを指先でつついて「桜花ちゃん、今、一生懸命問題を解いているんだから、間違っている場所を見つけたとしても終わってから言いなさい」と言った。タキオンは、田上の口調に苦笑して、「分かったよ」と言った。

 それから、タキオンは何も口を出さずに、桜花の宿題が終わるのを待った。そして、終わった時に、「問十二を間違えてるよ」と言った。桜花は、再び「余計なことを言いやがって」と口には出さずに、表情に出して言った。タキオンは、桜花に迷惑そうにされたのに戸惑って、「今のは言ってよかったよね?」と田上に聞いた。田上は、曖昧に笑いながら「桜花ちゃんの手間を増やしただけだからな」と言った。それを食卓で聞いていた父が、ハハハハと大笑いした。

 桜花は、もう一枚の宿題もやり遂げなければいけなかったようで、田上とタキオンが朝ごはんを食べている横で、一生懸命になって問題を解いていた。朝食は、食パンにスライスチーズを乗せて焼いたものだった。特に、これと言って美味しいというものではなかったが、家族で囲む朝の食卓というものは、田上にとって心地の良いものであった。お義父さんとお義母さんが話している声を聞くと、家族のことを思い出した。それで、――父さんはどうしてるかな?と思った。――今回の帰省で向こうの家に行かなかったのだから、一度くらい電話をよこしておいたほうが良いだろう。――父さんも家に一人だろうから、たまには連絡をしてやらないといけない。――タキオンの声を聞くと喜ぶだろうか?

 そんな事を考えながら、もぐもぐと口を動かしていると、横のタキオンから「何か考え事をしているのかい?」と聞かれた。田上は、できるだけお行儀よくしようと口元を隠しながら、「いや、…父さんのことを考えてた」と言った。

「お義父さん?」

「ああ、…父さんも寂しいだろうな、と思って」

 その言葉で、タキオンも、田上の考えている内容の大体のことがわかった。チラと本を読んでいる自分の父を見つめると、田上に言った。

「寂しいだろうね。たまには電話をしてやっているのかい?」

「…大阪杯の時に、俺が目眩で倒れたのが最後」

「じゃあ、そろそろかけてあげなよ」

「…まぁ、そうしたいとは思ってる…」

 田上は、一口ずつ小さくなっていく自分のチーズパンを見つめながらそう言った。タキオンは、もうチーズパンは二枚ほど食べてしまったので、田上を見つめることしかやることがなかった。田上の言葉に返答するのは難しかった。中々良い返しが見つからなかったからだ。特に、電話を催促しようにも本人はするつもりではあると言っているし、その言葉が嘘でないのも分かる。となれば、タキオンは何も話すことがなかった。

 田上は、一口ずつ丁寧に噛んで飲み込みながら、実父に何を話そうか考えた。近況として第一にあげるべきは、タキオンの両親の家に来たということだろう。ただ、その場合、なぜここに来たのか理由を説明しなければいけなくなる。勿論、タキオンのご両親に挨拶するためなのだが、それを今父に告げるべきかどうかは、田上にも迷いがあった。タキオンは、直接会って挨拶をしたいと言っていた。しかし、それにこだわる必要もあるのだろうか?田上には特にないように思える。その事を考えているうちに、自然と視線がタキオンの方に向かってしまっていたようで、目が合った暇そうなタキオンから「なんだい?」と聞かれた。

「…いや…」

 田上が曖昧な調子で答えると、タキオンはニヤリと笑ってもう一度「なんだい?」と聞いた。そして、田上は、迷うようにタキオンに視線を送りながら言った。

「…もう、…言っても良いんじゃないかと思って…」

「なにを?」

「俺の父さんに、俺たちの関係」

「…それは、君が電話する時にかい?」

「ああ」

「なら、私もそれに参加させてほしいなぁ。それに、私だって後日、またお義父さんに挨拶に伺いたいよ?」

 中々にプライベートな話をしているので、田上は、そこらへんに居るお義父さんやお義母さんや桜花が気になって仕方がなかったが、一度動き出してしまった話は、ここで片付けるほうが早いだろうと考えた。

「伺いたいんだったら、その機会はまた作りたいけど、とりあえず、今は言ってもいいだろ?」

「いいとも」

 タキオンは、軽くそう言った。

「その時は私も一緒にいて良いんだろ?」

「いいよ」

 田上は、そう言ってもう一口チーズパンを食べた。

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