田上が朝食を食べると、少しぼーっとしてから、電話を掛けに、自分たちの巣である畳の間に戻った。タキオンは、その途中で「幸助君となっちゃんとかいう彼女は、順調なのかな?」と聞いてきた。田上もあれから何も聞いていないので、その行き先を知ることはなかった。だから、「さあ?」と一言だけ返した。しかし、タキオンは、まだ少し弟とその彼女の事が気になるようで、話を続けた。
「私が圭一君と結婚したとして、幸助君は私の弟として扱って良いんだったかな?」
「…どうだろう?…確か、義弟で良かったような気がするけど…」
「彼女の方ももし結婚するとしたら、妹だよね?」
「…まぁ、そういうことになるね」
「じゃあ、幸助君の方は、弟としてたっぷり可愛がってやろうかな」
「やめとけ。あんまり冗談の通じる方じゃないぞ」
「全く通じないってことはないだろ?」
「通じないってこともないだろうけど、多分、幸助はあんまりお前の事をよく思ってないぞ」
すると、タキオンも暫く幸助の様子を思い出した後言った。この頃には、田上たちはもう、自分たちの荷物のところについて、立ち話をしていた。
「そうだね。――お前と圭一のことを見てたらイライラする!って言われたことがあったよ」
「…?そんな事を言われたのか?」
「正月のときにね、私達喧嘩しただろ?その時に、幸助君が探しに来てくれて、お前ら見てるとイライラすると言われたんだよ」
「へぇ…、なんで?」
「…まぁ、…私達が仲いいくせに、付き合っているのかいないのか微妙な所を彷徨っていたから、そんな事を言ったんじゃなかったかな?」
「へぇ…、…どうしてだろ?」
これは、独り言のような問いかけだった。田上は、タキオンを見ずに、空中を見つめながら、その問いかけをしていた。それから、ゆっくりとタキオンに目を戻すと言った。
「俺が、…母さんの命日の時…帰ったのは覚えてる?」
「ああ、私を連れて行かなかったときだね?」
タキオンは、少しだけ恨みのこもった口調で言った。それに、田上も微苦笑しながら「それはごめん」と謝った。
「けど、…その帰省のときにね…、父さんと幸助と三人で慣れない酒を飲んだんだよ」
「うん。確かに、圭一君が帰った時に酒の匂いがしていた」
「そう…。…それで、なんで父さんが、急に慣れない酒を皆で飲もうって言い出したんだろうって、幸助と二人で話したんだよ」
「お義父さんの目の前でかい?」
「いや、もうその時には、父さんは酔い潰れてた。俺の家は、あんまり酒に強いほうじゃないから…」
「酔い潰れてたお義父さんを置いてきたのかい?」
「いや、幸助がまだ後に出る予定だったから、幸助に任せて出た。…その時に、俺たちが、なぜ父さんが急に酒なんか進めてきたのかって結論が、…お前のせいだったんじゃないか?ってことだよ」
「私のせい?」
「そう…。タキオンが来て、家族がいつもよりか少しにぎやかになったんだよ。 それで、父さんが、寂しくなったんじゃないかって」
「ああ、…まぁ、分からないこともないね」
「まぁ、別にお前が悪いってわけじゃなかったんだけど、母さんも十年以上前に亡くなっていたから、そうやって、タキオンが一人増えると格段と家族がにぎやかになったように感じるんだよ」
「…それで、君の言いたいことはなんだい?」
「君の言いたい事?」
田上は、そうオウム返しに聞いてから、少しの間考えた。そして、タキオンを向くと言った。
「幸助もタキオンを連れてきたら良かったのに、って言ってた」
「幸助君が?」
「そう。その話をして、――タキオンが来たいって言ってた、って話をしたら、――連れてくればよかったのに、って言ってた。だから、幸助も、タキオンが帰ってきた時に母さんが生きてた頃を思い出して、少し嬉しかったんじゃないかと思う。…でも、お前があんまり調子に乗ると幸助も怒るぞ」
「そう言えば、幸助君の方には、私達が付き合ったって事は言っているのかい?」
タキオンがそう聞くと、田上は顔をしかめて「言ってない」と答えた。
「そうか…。言わないといけないのか?」
「どちらにしろ隠すことはできないよ。結婚式には招待するんだろ?」
「そりゃあ、隠すことはできないけどさ。…あいつ、俺たちが付き合ったって言ったら、それ見たことかじゃないのか?」
「その時は言わせておけば良い。本当に、あれ以上嫌な事を言うつもりだったら、結婚式も呼んでやらないで良い。そんな感じだったら、向こうも来たいとは思わないだろう?」
「…そうかもしれないけど、…あいつは嫌なんだよなぁ…」
「まぁまぁ、報告くらいしてやったらいいんじゃないか?」
タキオンがそう言うと、田上は荷物から引っ張り出していた自分のスマホに目をやった。それから、タキオンに目を戻すとこう言った。
「とりあえず、父さんには言っておく。まぁ、後からお前も連れて行く予定だから、そんなに重く話さなくてもいいだろう。軽くで」
田上は、そう言うと父に電話をかけようとしたが、その間にタキオンがこう言って、手を止めた。
「お義父さんの家に帰省した時、家族がなんちゃらとか言っていたよね?」
「え?……ああ、写真取る時?」
「そう。揉めてたよね?」
「ああ、…あれもまだ付き合ってもないのに妙なことだったな」
「まぁ、些細な問題ではあるが、多分、お義父さんの方も私達が付き合うってことには賛成だろうね?」
「賛成だろうね」と田上は、タキオンの目を見ながら言った。それから、不意に自分のスマホを見ると、今度こそ父に電話を掛けた。田上は、布団の上に座りながら、父が電話に出てくるのを待った。少々長かったが、それでもちゃんと「もしもし?」と父が電話に出てきた。
「ああ、父さん?」と田上が言った。
「なにか用?」
「あー、…元気?」
「元気だよ?…特に何事もなく」
「あれ、…前行った時、お酒飲んでたけど、それから飲んでたりしてないよね?」
田上がそう言うと、父の言葉は少しの間途切れた。そして、言いにくそうにこう言った。
「まぁ、そんなに量は飲んでないけど、たまに暇がある時に飲んでるよ?」
その答えを聞くと、田上は顔をしかめた。
「あんた、もう四十超えてるでしょ?その年になってから飲み始めるの?」
「いやぁ、まぁ、飲んでみるもんだね」
父は、あんまり責めてほしくなさそうな口調でそう言った。すると、田上も怒るに怒れずこう言った。
「まぁ、体調に気をつけてくれればそれでいいや。…それで、ちょっと報告があるんだけど…」
「…はい、なにか?」
「……今、タキオンの両親の家に来てる」
「…?ほう?どういう事?」
「……俺とタキオン、…付き合うことになった」
田上はこの言葉を言う時に、心臓はバクバクと早鐘のように鳴ったが、タキオンのご両親に報告したときほどの重苦しさはなかった。やはり、実の父であれば、田上にとってまだマシだった。
父は、少し黙った後、こう言った。
「…付き合う?」
「そう、付き合う…」
「お前とアグネスさんが?」
「そう。それで、挨拶がてらに両親の家に来た」
「…いつから?付き合ってたの?」
「大阪杯の時」
「…へぇ…、一ヶ月?」
「そんくらい」
「一ヶ月でご両親の家に挨拶に行ったの?」
「…まぁ、タキオンのお義父さんお義母さんの方は、大阪杯の時にちょっとした経緯で付き合いそうって事を知っていたから、まぁ、そこらへんがどう噛み合っているのか知っておいても良かったんじゃなかったかと思う」
「そう…。嬉しい。…うん、嬉しいけど、…まぁ、突然だなぁ。…順調そうなの?」
田上は、隣で、自分たちの電話に耳を澄ませているタキオンを、チラリと見つめながら、「うん」と頷いた。タキオンも田上と目を合わせると、同意して無言で首を縦に振った。
「それなりに…まぁ、真面目に交際していく予定だから、…まぁ、あんまり心配することはないと思うよ」
「はい。…お前もいよいよ結婚かぁ…」
父にそう言われると、田上は、少し苦笑して言った。
「まだ、結婚するって決まったわけじゃないよ」
「え、でも、する予定はあるんだよね?」
「それはある。…まぁ、ただ、タキオンの方もレースとかあるから当分はできない。おいおいやっていくけどね」
そして、二人の間に少しばかりの沈黙が流れた後、父が口を開いた。
「美花にもお前の結婚式を見せてやりたかったな…」
「…まぁ、…母さんの事気にしてもしょうがないよ。…天国で見ててくれているかもしれない」
「…美花が生きていればなぁ…」
父は、時々こうやってぼやくことがあった。田上は、こういう時は何も答えずに居るしかなかった。田上だって、母がいればと思う時はあったが、どうやったとしても母は戻ってこない。遠い何処かへ行ってしまったのだ。父の気持ちは分からないでもないが、こうやってぼやかれても田上には、何の言葉も返せなかった。
田上は、父が作り出した沈黙が終わるのを待った。その沈黙は暫く続いていたが、電話の向こうから父の気を取り直すような「うん」と言う声が聞こえると、そのまま続けてこう言われた。
「とりあえず、おめでとう。お前、高校とか大学の時も彼女とかいなかったもんな?」
「余計なお世話だ。 それで、タキオンが…。いや、タキオンが、父さんと直接話したいって言っていたから、そんなに遠くない時にそっちの方に行くかもしれない」
「はい、了解」
「あと、また、今の機会に、電話の方でも一足早く挨拶したいって言っていたから、タキオンの方に代わるよ?」
「あっ、今?そこにアグネスさん居るの?」
「うん。じゃあ代わるよ?」
父の返事を聞きながら、田上は、タキオンの方に電話を渡して、ほっと一息を吐いた。いくら父と言えども、やはり、自分の恋愛事を打ち明けるとなると、それなりの緊張が伴った。
タキオンは、田上からスマホを受け取ると、少しくだけた口調の敬語で「お電話代わりました」と話し始めた。
「この度、息子さんと交際させていくことになりました、アグネスタキオンです。不束者ですが、息子さんのことを一生懸命支えていきたいと思いますので、どうか今後とも宜しくお願いします」
その言葉を横で聞きながら、田上は、タキオンの事を改めて尊敬した。――育ちが違う。田上は、初めに思ったのはそれだった。タキオンも、田上にはあんな調子だが、真面目にしようと思えばできる育ちの良さがあった。田上も、今のタキオンの調子を見てみれば、自分がお義父さんお義母さんにもっと礼儀正しくできたのではないかと、気恥ずかしくなってきた。
タキオンは、そんな田上のことには気が付かないで、父と会話をしていた。父は、唐突にこんなに礼儀正しい言葉を並べられて、少し困ったように「は、はい」と言っていた。当然だろう。田上を育ててきたのはこの人だから、田上の礼儀は父の礼儀とあまり大差はない。タキオンに比べれば、あまり気の回らない礼儀しか持ち合わせていなかった。
父は、返事をした後にこう言っていた。
「こちらこそ、あんまり役に立たない息子ではございますが、貰ってくれるのならば有り難いことです」
この返しはどうかと思うが、とりあえず、父はそう言い切った。それ以外にどう言えば良いのか分からなかった。タキオンは、それで顔に微笑を浮かべながらチラリと田上を見やると、言った。
「とんでもないです。圭一君の方が、私にとってもよくしてくれて、本当に思いやりのあるいい人です」
お世辞を言われてるとしても、田上はいい気になって微笑を浮かべた。すると、タキオンもニヤリと笑いながらこちらを見ていたので、田上も同じようなニヤリ笑いになった。
父は、そんな二人には当然気が付かずに、こう返した。
「そんな事を言って頂けて本当に有り難いです。本当に、御存知の通り母が死んでいますので、息子の家族になって頂けたら、本当に本当に有り難いです」
この言葉は、心から言っているようだった。タキオンも田上の境遇を思えば、そんな言葉が出てくるような気がする。――家族。その言葉を胸に抱きながら、タキオンは、「分かりました。 圭一君から聞かされているとは思いますが、改めて、後日に訪ねようと思っておりますので、その時はどうかよろしくお願いします」と言った。
「こちらこそ、どうかよろしくお願いします」
その父の言葉で、田上の父とタキオンの儀礼的なやり取りは済まされた。儀礼的と言っても、二人の間で交わされた言葉は、二人の心からの言葉だった。父は、この先どうなっていくのかも分からない息子に恋人ができて嬉しかったし、タキオンは、田上と家族になろうとしていることを義父に報告できて嬉しかった。
「圭一君の方にお電話代わります」と言うと、タキオンは、田上にスマホを微笑みながら手渡してきた。田上は、それを受け取って、電話の向こうの父に、適当にこう言った。
「そういうわけだから、そんなに近くはないけど、遠くない内にそっちに帰る。六月の後半…七月は多分行かないから、そこらへんになるんじゃないかと思う。詳しい日程は、また、決まった時に伝えるから」
「了解」
そう返事をした後に、田上が別れの言葉を告げようとしたが、その前に父がこう言った。
「あの…、あれだ…。…おめでとう。…この先、……いや、これはやめておこう。…うん。おめでとう。父さんはちゃんと応援してるからな」
「…タキオンのお義父さんとお義母さんも応援してるって」
「そりゃあ良かった。…それだけだ。もう何も言うことはない?」
「ない。じゃあね」
「はい、バイバイ」
そう言うと、電話は切られた。田上は、その後にスマホをスリープして、真っ暗になった画面を見つめた。外から差し込んでくる光が、その画面に反射させて、天井を映し出していた。田上は、暫くこうして動かないつもりだったが、横には恋人のタキオンが居た。恋人のタキオンは、田上の方に少し身を寄せると言った。
「圭一君のお義父さんの方も、応援してくれるってね。これで一件落着だよ」
「ああ、そうだな」
田上はそう言いながら、布団にごろりと横になった。なんだかよくわからない少しの虚しさが田上を襲った。緊張が解れてホッとしたのでもない、少しの倦怠感と共に田上は動く気力を失くした。タキオンは、その横で半身を起こしたまま田上の顔を覗き込んだ。田上は、確実にタキオンの存在に気づいて入るのだろうが、天井を見つめたまま目を動かそうとはしなかった。それだと、タキオンも納得がいかないので、無理矢理に田上の上に覆い被さって、その視線を天井から自分へと奪い取ると言った。
「どうかしたのかい?」
「…いや…」
そう言って、田上は、タキオンからまた目をそらそうとし始めたので、タキオンは田上の顔にもっと近づいて、その視線をできるだけ奪える場所に行った。
「どうしたんだい?急に。電話を聞いてみた感じ、お義父さんは私達が付き合うことを喜んでいたよ?」
「喜んではいた…。喜んでは…」
田上は、頑なに目を逸らし続けてそう言ったあと、タキオンの方に目を向けた。タキオンは、田上が目を向けてくれたことにより、無理に動いて視線を取る必要がなくなった。
「…俺にも分からない」
田上は、少し悲しそうな顔をしながら言った。
「なにがだい?」
「…何も分からない」
「それは、…圭一君が急にそうなってしまったことについてかい?」
「…うん」
田上は、しっかりと受け答えはするものの、やはり、表情から悲しげな気配は拭えていなかった。タキオンも、田上が何に引っかかって、こうなってしまったのか分からなかったので、簡単に声掛けをできずにいた。
タキオンは、田上のおでこにかかっている前髪を、そっと指で掬って持ち上げた。田上は、タキオンの顔を見たまま、何も話さなかった。そして、タキオンは、田上の前髪から彼の顔の方に目を戻すと、自分も田上と同じような悲しげな顔を取って言った。
「お義父さんの反応が嬉しくなかったかい?」
「嬉しい?……分からない…」
「…私にもさっぱり分からないよ…。 キスしたら、君は喜ぶかい?」
「…喜ぶかもしれない…」
この時にはもう、田上の心は、最愛の人であるタキオンに甘えることに傾いていた。タキオンは、田上の返答に沿って、喜ぶかもしれないキスをしてあげた。田上は、その時まで、タキオンとキスをすれば、いつものような嬉しさや愛おしさが込み上げてくると思っていたのだが、いざキスをしてみると、あんまりそのような感情は湧かなかった。ただ、思ったよりも普通のキスで、戸惑っただけだった。タキオンも、田上と同じように普通のキスをしただけだった。自分が思っていたよりも、普通のキスだった。そして、少し反省した。あんまりこのような場面をキスで紛らわそうとしても、田上自体が、タキオンほどにキスに重きを置いていないと思ったからだ。タキオンは、田上とのキスが好きだったし、田上も嫌じゃないことは明々白々なこととしてタキオンに伝わる。しかし、田上に対して、キスが気分を紛らわせるものとして働くのか?と聞かれれば、タキオンも決してそうじゃないと思う。田上は、どちらかと言うと、二人で一緒にいる時間の方を好む性質だった。そして、タキオンも同様にその時間が嫌いじゃなかった。だから、田上の前髪をそっと掬ってあげると、今度は、田上の横に寝転がって、寄り添うことにした。それで、田上にもタキオンの思いが伝わった。次第に、悲しげな顔から微笑へと移り変わると、また、タキオンと普通に話してくれるようになった。
結局、田上が、父との電話の後に、なぜ落ち込んでしまったのかは、分からずじまいだった。
その後、田上とタキオンは、自分たちの満足の行くまで、布団の中でいちゃいちゃした。そして、それが終わると、二人はそれぞれパジャマから普段着へと着替えることにした。田上は、タキオンの下着姿を見るつもりなど毛頭なかったが、タキオンが度々、隣の部屋で待機している田上をからかうために首だけ覗かせて、「見たいかい?」とニヤニヤしながら言ってきた。しかし、田上はその度にしかめっ面をして「見たくない」と返した。タキオンには、このしかめっ面が可笑しかったようで、その為に、田上を本気で怒らせない程度に度々からかうことを繰り返したのだった。
その後に田上が着替えたのだが、タキオンは、田上が本気で嫌がるまで同じ部屋に居続けた。田上は、自分の上半身の着替えが終わるまで、タキオンが傍に居ることを許したがそれ以降は駄目だった。「前は同じ部屋に居たことがあったじゃないか!」とタキオンは主張したが、田上は、どうしても、タキオンが卒業するまで、そういうギリギリの所は避けたかったため、頑なに「出て行ってくれ」と主張し返した。タキオンもバカではないので、田上の言い分もしっかりと理解できた。だから、少し不満そうにしながらも、大人しく田上の言うことに従った。
不満そうに部屋を出て行ったタキオンだったが、特に、仲がこじれたということではなかった。田上が着替えてくると、彼の方は少ししかめっ面をしたが、タキオンが「ごめんよ、そんなに本気じゃなかったんだよ」と謝ると、田上は「いいよ」と返した。そして、またリビングの方に戻ると、母からタキオンに「あんまり困らせたら駄目だよ」と諭された。タキオンは、これに不服の意を示した。
「昨日の夜、――一緒に風呂に入ったら?と言って、私達を混乱させたのはどこのどちら様でしたかね?」
少し怒った調子のその声を聞くと、母は、オホホホと高く笑って誤魔化した。父は、それを聞いて笑ったし、田上は苦笑して、繋いでいるタキオンの手を握り直した。
この家では、おそらく田上とタキオンは常に手を繋いで過ごしそうな気がした。タキオンが、執拗に手を繋ぎたがるからだ。田上は、別にここに来てまで手を繋ぐ必要はないと思ったのだが、タキオンは、移動する毎に、事ある毎に田上と手を繋ぎたがった。――家の中なんだから、そんなに手を繋ぐ必要もないだろうに…。田上はそんな考えを持っていたが、タキオンの笑顔に押されて、そこまで強くは言わなかった。
そんな思想を持っていた田上だから、家の中で手を繋ぎたがるタキオンの姿は奇妙なもののように映った。
――家の中で手を繋いだって大したことないじゃないか。
この考えがあったからと言って、では、外で手を繋げば大したことなのか?と聞かれれば、田上はきっぱりと「違う」とは言えなかった。つまり、田上は、手を繋ぐなんてデートの時にするくらいのものだと思っていた。なら、キスはどうなんだ?と聞かれるが、キスはいつでもするものである。ドラマや小説など様々な媒体で、キスは様々な描かれ方をしている。情熱的にするものもあれば、軽くほっぺやおでこにするものもある。田上とタキオンのように、恋人たちが事ある毎にキスをする作品だってあるだろう。そういう作品に触れてきた田上であれば、キスにこそ、そこまでの抵抗はないものの、家の中で手を繋ぐのはやっぱり奇妙なもののように思えた。
特に、否定するほど悪いことでもないので、田上はタキオンにあまり強く言わなかったが、それでも、父母の前で恋人らしさを見せつける行為と、家の中で手を繋ぐという一見無駄な行為は、田上の違和感を誘い、心に留まらさせた。タキオンは、特に深い思いは抱いていないつもりだった。田上と触れ合いたいから、手を繋いでいるだけだった。田上もそのことに考えは至っていたのだが、どうにも奇妙で奇妙で仕方がなかった。
ただ、田上にとってもタ、キオンと触れ合える時間が心地よくないわけではないので、ソファーで一緒に座っている時などに手を繋ぐことになれば、喜んでその手を握った。
田上たちが、起き上がってリビングに来た時、桜花は忙しそうにあっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、田上たちが座っているソファーの前の机の上に、物を集めていた。そして、その物を手提げバッグに入れていたので、タキオンはどこかへ行くのかと勘付いた。しかし、どこへ行くのかまでは知らなかったので、丁度目の前に来た桜花にこう聞いた。
「どこかに行くのかい?」
「え?ああ、児童公園に遊びに行くの」
「ああ、そうかい。友達と?」
「うん」
桜花は、そう答えると、また自分の部屋の方に戻っていった。手提げバッグの中は、結構欲張って物を入れたようで、所々物がはみ出していた。その中には、スケッチブックもあったので、公園かどこかで友達に絵を描いてみせるつもりなのだろう。おそらく、桜花は、友達の間で絵が上手い人として人気なのじゃないかと、田上は思った。
田上は、その後、タキオンにこう言った。
「とも君と遊ぶらしいよ」
「とも君?桜花が好きな?…なんで君がそれを知っているんだい?」
「お前より早く起きてたから、桜花ちゃんと話をしてたんだ」
「ああ、それで君は仏間で突っ立ってたりしていたのか。…なんで仏間に?」
「別に、…特に理由はないよ。そこでちょっと外を見てみただけ」
「ふぅん」
タキオンは、特に何も言うことがなさそうにそう頷いた。それから、最後の荷物をバッグに入れて、慌てながら家から出ていく桜花を見送った。色々と準備をしていたら、約束の時間ギリギリになってしまったのだ。母は、「車に気をつけてね」と言っていたが、あんまり聞いていない様子で「はぁい!」と返事をして、外に飛び出していった。ただ、朝日川家では、車に気をつけるのは習慣づけてあるので、どれほど急いでいたとしても、基本的な「道路の左右を確認する」は忘れていなかった。
桜花が慌てながら出ていくのを見送ると、朝の情報番組も終りを迎えて、中身も碌に知らないドラマが始まった。こうなると、タキオンもつまらなくなってきたので、田上にこう提案した。
「私達も散歩に行かないかい?」
「お前が行きたいなら俺も行くけど」と田上は返した。それで、タキオンは「じゃあ、行こう!」と言ってすぐに立ち上がった。田上もその後について、玄関の方まで行った。
その際に、母がタキオンたちにこう言った。
「ちょっとよー君も散歩に連れて行ってくれない?」
よー君は、散歩の匂いを嗅ぎ取ったのか、嬉しそうに尻尾を振って母の隣に居た。しかし、母が、タキオンたちにリードを渡して、見慣れた家族の者が、付いてきそうな気配がないとなると、どうもおかしいぞと尻尾を振るのを止めて、タキオン達をじっと見た。タキオンたちはもう靴を履いていたので、一、二歩距離をおいて二人を見ている犬に近寄れずにいた。だから、母が苦笑すると、あんまり芳しくない犬に少々無理にリードを付けてやった。それから、奥の方に引っ込むと、犬用のお菓子を持ってやってきた。
「とりあえず、これ食べさせてやって。知り合いのおばあちゃんに飼われてたときからのお気に入りのお菓子らしいから。私達も、これ食べさせてなんとか打ち解けたって感じ」
タキオンと田上は、母にそのお菓子を一個ずつ渡されると、犬に与えることにした。田上は、もう犬のことはタキオンに任せようと思っていたから、母にお菓子を手渡された時は――なんで俺が!?と驚いた。しかし、断ろうにも少しの自尊心と礼儀のような物が邪魔をして、断りきれずに犬にお菓子をやらないといけない羽目になった。
タキオンが、まずは先攻を切ってくれた。犬の方も、お菓子と知らないウマ娘を天秤にかけた結果、お菓子の方に傾いたようだった。おずおずと頭を下げながら、犬はタキオンの手にあったお菓子をパクリと食べた。今度は、田上だったが、犬は、田上を見つめたまま立ち止まった。田上も睨み返しながら、――早く食え!と念じて、犬が手早く終わらせてくれるのを待った。しかし、犬は一向に動かない。タキオンは、軽く笑いながら「君、嫌われているんじゃないのかい?」と言った。田上は、いつまでも犬が動かないので、――これはもうそろそろ諦めたほうが良いんじゃないか?と思って、きょろきょろとタキオンと母に目を泳がせた。母も、「よー君食べないの?」と普段よりも高い声を出して、餌を食べることを催促していたが、犬は田上を見つめたまま動かなかった。
ついに、母も田上に「もう諦めます?」と半笑いをしながら聞いた。田上は、即座に「諦めます」と返すと、母は田上にこんな質問をした。
「もしかして、圭一君、犬が苦手だったり?」
「ええ…、まぁ、…苦手です」
横でタキオンがニヤニヤしていたのを無視しながら、そう答えた。
「あら、でも、よー君全然噛まないし吠えないんですよ?」
「…まぁ、…お菓子を食べてくれなかったから、どうでしょうねぇ…」
犬は、母の方を見上げて、目で「この二人から私を解放してくれ」と訴えかけていた。しかし、母の方はそれには気づかずに、タキオンにリードをもたせると、「いってらっしゃい」と犬を玄関の下の方に下ろした。犬は、最後まで名残惜しそうに母と玄関の方を見ていたが、玄関の扉がぴったりと閉じられると、タキオンと田上を交互に見て、覚悟を決めたようだ。先の方に立って、ぐんぐんと歩き始めた。
タキオンは、初め犬の歩く速さが分からなくて、引っ張られるようにして歩いていたが、やがて、速さのリズムを見つけると、ゆっくりと歩けるようになった。田上とタキオンは、昨日の日暮れに行った散歩コースをまた歩き始めた。犬が先頭を歩いていったので、それに導かれるようにしてその道へ二人共進んでいってしまったのだ。本当は、タキオンとしては、桜花が行った公園の方に行きたかった。こことは全く正反対の方だ。桜花が言っていた児童公園には、子供だけでなく、カップルもそれなりに居た。特にはしゃいで遊んでいるわけではないのだが、ベンチにぽつりぽつりと男女が座っているので、あそこのベンチはそういうものだとタキオンは思っていた。
つまり、タキオンも田上と一緒にそういうものの一員としてあそこに座ってみたかった。随分前にここに帰省した時に、散歩がてらに児童公園を訪れた際は、恋人なんてものはこれっぽっちも分かっていなかったが、今のタキオンになら、あそこのベンチでなぜカップルがキスをしていたのか分かる。勿論、お互いの事が好きで好きでたまらないのだろうし、若気の至りも混じっているのだろう。そして、同じ感覚を味わうものとして、自分もそのベンチに座ってみて、あのカップルたちがどんな景色を見つめながら、恋人と共に過ごしていたのかを知ってみたかった。
とは言え、犬もいればそれなりに邪魔になるのだろうから、タキオンはゆっくりと田上と会話をして、二人で犬の散歩をするという、老夫婦を彷彿とさせる事をした後に、犬を家に置いて、また公園の方へと出かける腹づもりだった。それを田上に提案すると、「いいんじゃない?」とのんびりとした言葉が返ってきた。
五月初頭の朝は、少し風が吹いていて、ほんの僅かの寒さを感じるだけの心地のいい朝となっていた。絶好の犬の散歩日和だった。昨日の日暮れにここに来た時は、あまり感じなかったが、今ここでタキオンと散歩をしてみると、案外景色がよかった。勿論、昨日の夜に景色が悪かったのか?と問われれば、決してそうではないのだが、絶好の散歩日和と雲が少ない澄んだ青空が相まって、遠くの山々の輪郭がくっきりと青空の下に映し出されていた。その山々を見ていると、タキオンも田上の視線を追って、山並みを見つめ始めた。犬は、地面の匂いを嗅いだり、ただ前に進んだりしていた。
そして、また彼氏の顔を見たくなったタキオンが、まだ山々を見つめている田上の気を引こうとして言った。
「何見てるんだい?」
「ん?…山」
「…綺麗だね」
「うん」
会話は、タキオンの思ったような方向には進まなかった。タキオンとしてはもう少し話したかったのだが、田上の寡黙さに押されて大した言葉が出てこなかった。
そこで、タキオンは、自分が犬のリードを持っているのに気を取られて、田上と手を繋ぐの忘れていたことを思い出した。そして、慌ててリードを左手に持ち替えると、右隣にいる田上の左手を手に取った。田上は、タキオンに手を取られれると、流石にタキオンの方を見て、――どうしたの?というような目をした。タキオンは、数秒の間見つめ返すだけにしようとしたが、やっぱり話したかったのでこう言った。
「どうかしたかい?」
田上にしてみれば、「タキオンに手を繋がれた」というのが、返答として適切だったが、そんなつまらないことを言う気にもなれずに、田上は、タキオンを見つめ続けた。タキオンもまた、田上の事を見つめ続けた。すると、不意に犬が道路の脇の匂いをしきりにかぎながら立ち止まったので、田上とタキオンも立ち止まることになった。それでも、二人は見つめ合い続けた。こうなってくると、にらめっこのようになってしまって、二人共相手が先に目をそらすのを待った。田上は、特に何の理由もなくタキオンの事を見つめ続けていたが、タキオンは、田上が見つめてくる以上、自分も見つめ返さないわけには行かなかった。だから、口に微笑を浮かべながら田上の事を見つめ続けたのだが、田上は、案外あっけなく目を逸らした。そして、またタキオンの方を見ると言った。
「なんで手を繋ぐの?」
「なんで?」
タキオンは、唐突な質問に少し驚いて、オウム返しに聞いた。田上は、その返しには何の反応を見せずに、タキオンが理由を話してくれるのを待った。
少しの間、う~ん、と考えた後にタキオンは言った。
「圭一君と手を繋ぎたいから?」
「なんで俺と手を繋ぎたいの?」
「そう来るよね。…となると、…う~ん…、特に高尚な理由は無いけどねぇ…」
それが答えであるかのように、タキオンは話した後に田上の顔を見つめた。田上は、あんまり納得がいかずに、タキオンの顔を見つめ返した。すると、タキオンが言った。
「なんでそんな事を聞くんだい?」
そこで、犬がまた歩き始めたので、二人もゆっくりと歩を進めた。
「なんで?………お前が、家の中で手を繋ぐから…」
「…それがそんなに気になるのかい?」
「…いや、…気になると言うほどでもないんだけど…」
「でも、実際に君は口に出して聞いてきたじゃないか」
「…まぁ、そうだね…」
田上の曖昧な返事に、タキオンが少しだけ眉を寄せて聞いた。
「まだ、言葉がうまくまとまっていないんじゃないのかい?」
「…多分、そう…」
「なにが気になるんだと思う?」
「…さぁ?」
「君が、さぁと言ってしまうと、こっちもさぁとしか言えないよ。…お義父さんと電話した時がそれだったね?あの時も言葉にできていなかった」
「…そうだね…」
「……微妙だね。…とっかかりがあまり少ないから、君に質問の仕様がない。…なにか思い当たる節はないかい?」
「……別に、そんなんでもないんじゃない?」
「そんなんでもない?」
「…俺に何か引っかかりがあるとか…」
「それが、そんなんじゃないって?」
タキオンは、改めて問いかけるように、田上の顔を見つめてきたが、田上はタキオンと目を合わせなかった。
「でも、そんなんじゃなかったら、君はもっと普段の君らしくあるんじゃないかな?」
「…もう、これが普段の俺だったり…」
「それはそうかもしれないが、別に、悩みぶかいのが普段の圭一君じゃないだろう?」
「別に、悩みじゃないかもしれない」
「でも、確かに、ひっかかりはあった。お義父さんとの電話の後に、圭一君が今のような顔をしていた」
「よく見てるな…」
田上が変なタイミングで、タキオンを低い声で褒めたので、タキオンも少し戸惑ってしまった。
「まぁ、圭一君の顔は圭一君より見ている自信はあるけどね。…あと、私より見てる人と言ったら、君の家族か祖父母くらいなものさ」
「それくらいか…」
「それで、話を戻すが、やっぱり君は何か引っかかってるよ」
「引っかかってたとしても、何が引っかかっているのか分からない」
「それが問題だ。おそらく、君のお義父さんとの電話が何か引き金になった。今、弾はまだ銃口から出ていないが、もうそろそろ飛び出でようとしている頃合いなんじゃないか?」
「それは知らん」
「だから、問題なんだよ。どれくらいの事の大きさなのかわからない。かと言って、圭一君から無理矢理引き出そうとして出てくるものでもない。なにか起こるのを待つだけかい?」
タキオンがそう言うと、田上は、タキオンの方をちらりと見てから言葉を発した。
「言っても、もう、タキオンから逃げようとはしないと思うんだけどな…」
「私もそう思うが、なにしろ君のことだからとんでもない考えを思いつくかもしれない。それに、私としては、悩んでいる君を放っておく事はできないね」
「…そう騒ぎ立てるほどの問題か?」
「それがわからないから、こっちも微妙なんだよね。 とりあえず、君が何か引っかかっていると思って間違いはない。何に引っかかっているのかは分からないが、…まぁ、何が起こっても私が圭一君の手を繋げばいいだけだね」
すると、田上は、数秒間を開けてから言った。
「家で手を繋ぐ必要ってあると思うか?」
「家で?…別に良くないかな?圭一君と仲良くして何か悪いことでもあるかな?」
「いや、あるわけじゃないからあんまり強くも言ってないんだけどさ。…なんか、言えそうなタイミングが見つかったから言った。…家で手を繋ぐ必要ってある?」
「じゃあ、逆に聞くが、家で手を繋いだら行けない理由ってなんだい?」
「いや、違う。繋いだらいけないってわけじゃないんだけど、…繋ぐ…必要ってなくないか?」
「…あんまり質問の意図が分からないね。……君は私と手を繋ぎたくないのかい?」
「いや、別に繋ぐ…、まぁ、お義父さんたちに、あんなに見せつけるように手を繋ぐのは、俺も微妙なところはあるけど…」
「じゃあ、それが気になっているんじゃないのかな?」
「それがぁ?……気になってないわけじゃないけどなぁ。…もっと、…違う…のかなぁ?」
「…いや、多分わかったかもしれない。…おそらく、…これは予想だが、圭一君は、…私が無駄なことをしていると思っている。 やってはいけないことではないけれども、やらなくてもいいような事をやっているから、面と向かって言うことはできない。けれども、自分の心では無駄だと思って仕方がない。…そんな所だろうか?」
分かったかもしれないと言ったくせに、最後に自分の答えに自信がなさそうにそう言った。田上だって、あんまり自分の心に対しての解像度が細かいわけでもないので、曖昧に首を傾げることしかできなかった。
それからは、タキオンはあーでもない、こーでもないと独り言を言ったり、田上と答え合わせをしようとしたりしながら、犬の散歩を続けたが、今一二人共にピンと来るものはなかった。そして、犬を家まで送り届けると、今度は桜花の行った公園の方に手を繋いで歩き出した。