その公園は、駅前の公園よりも、家に近い場所にあり、あそこよりも人気な公園だった。駅前の公園は、遊具も少ないし、芝生も大した面積ではないので、より広く、より多彩な遊具のある児童公園が家族連れには人気だった。
タキオンは、そこに嬉々としながら田上を連れ立って歩いたので、田上も自然と笑顔になった。タキオンは、田上とその公園に行けるのが嬉しくてたまらないようだった。頻りに、田上の手を引いて前に行こうとするので、田上が少し小走りにならざるを得ない場合もあった。そんな時には、タキオンは笑みを我慢しようとしながら「すまない」と謝ったが、すぐに我慢できずに笑顔になっていた。田上は、そんなタキオンを見つめながら、幸せの幻影を見て微笑んだ。
陽光の中、澄んだ青空の下、木漏れ日の前、そのような場所に立っているタキオンが、田上には夢や幻の様に見えた。――なぜ、俺は幸せなのだろう? 田上には、目の前に居るタキオンが、未だに少しぼんやりとしていた。今まで、自分を好きになる人なんて居ないと思い続けて生きてきた。それが、大阪杯の時から今にかけてあっという間に打ち砕かれた。――なぜ好きなのだろう? その答えはタキオンが教えてくれた。特に大した理由はなく、心が通じ合ったからお互い好きになったのだ。運命と呼べばそれで良いかもしれないが、好きということに必ず当てはまる言葉を、タキオンも田上も持ち合わせていなかった。
その後に、田上はこう思った。
――俺は、幸せになっても良いのだろうか?
母を亡くし、男家族しかおらず、今まで一人で生きてきたような田上だった。少なくとも、田上の心には、支えてくれた人はあれど、自分を一人にしないでくれた人はいなかった。孤独が、田上の人生を支配していた。もう、これから先もずっと一人だと思って過ごしていた。それが、急激に終わりを迎えたのだ。しかし、それを受け入れるには、まだ田上の心は追いついていなかった。
タキオンは相変わらず、思い出の中の写真のように田上の手を引いていた。
二人が公園につくと、桜花たちであろう子供の集団が、走ったり急旋回したりしながら、公園の中を転げ回っているのが見えた。桜花もその中の一人として混じっていたので、二人のお兄ちゃんお姉ちゃんが公園の中に入ってきても、遊びに夢中で全く気が付かなかった。
公園には普通のベンチが六つあって、砂場や遊具がある方に二つ、後の四つは広い芝生の端の方に置かれていた。そして、公園の中央には、屋根付きの長く正方形なベンチが一つ置いてあった。田上たちが入った公園の入り口付近のベンチには、もう既にカップルが座っていた。三人も四人も座れるような広さのベンチではないので、タキオンたちはそこを通り越して、もう一つ先のベンチに腰を下ろした。丁度良い塩梅の木陰になっていたので、そこは昼近くの暖かな陽光を涼しくさせていた。
広い芝生の周りに設置されている四つのベンチには二組のカップルが座っていて、タキオンたちが三組目のカップルだった。タキオンたちが通り過ぎたカップルの内、女性の方はタキオンにしっかりと見覚えがあったようで、しきりに彼氏に「あれ、アグネスタキオンじゃね?」と言っていたが、彼氏には相手にされなかった。それで、少しふてくされていた。タキオンは、それを背後に感じながら、田上の手を幸せそうに握り返した。
二人は、公園に訪れるカップルの一員となった。他の二組のカップルもタキオンたちと同じように、ベンチに座りながら手を繋いでいた。そして、時折、キスもしていた。向かいの端に座ってキスをしていた一組の若いカップルを見ながら、田上は顔をしかめて小声で言った。
「この公園、カップル多くないか?」
「私達もその一員だよ?」
タキオンが、幸せそうに微笑みながらそう言うと、田上は、彼女の顔を少しの間じっと見つめた。それから、ゆっくりと言葉を発した。
「さては、…お前、分かってて俺をここに連れてきたな?」
「正解」
タキオンは、尚も幸せそうに微笑みながらそう言ったので、田上も怒る気が失せたようだった。はぁ、と仕方がなさそうに力を抜いてベンチの背もたれに寄り掛かった。しかし、すぐに気を取り直すと、体を起こしてタキオンにこう聞いた。
「なんでこの公園カップルが多いの?」
「知らない。……カップルが過ごしやすいからなんじゃないかい?」
「…どういう事?」
「…カップルは、…どこそこでキスできないだろ?」
タキオンが冗談めかして言うと、田上も少しはははと笑った。
「確かに、どこそこでキスする訳にはいかないな」
「すると、…キスをするためには、自分たちがあまり罪悪感を感じない場所であれば良い。他のカップルがしてるんだから、私達もしていいだろ、ということだ」
「じゃあ、お前は、キスを公然とするためにここに連れてきたのか?」
そう田上が半笑いになりながら言った。そして、タキオンは、少し口角を上げると、「そうかもしれない」と言って、唐突に田上の唇にキスをした。田上も予期していたことではあったが、こう自分の良い予想が的中してしまうと、――またこれか…、と思いつつも嬉しさが込み上げてきた。キスはそれほど長くなかったが、神経は研ぎ澄まされており、自分たちの唇の感触以外に、子どもたちの笑い声が二人の耳に鮮明に入ってきた。丁度、鬼ごっこをしていたようで「桜花ちゃんタッチー!」と叫んでいる男の子の声が聞こえた。
二人は、その声に微笑みながら唇を離した。そして、互いの目を見つめ合うと、揃ってその声が聞こえた方向に顔を向けた。ピンク色の服を着た桜花が滅茶苦茶に笑いながら、男の子を追いかけているのが見える。どうやら、鬼は複数いるらしく、男の子が挟まれそうになった。それで、男の子が方向転換しようとした所、芝生の上で滑ってすっ転んでしまった。男の子はすぐに起き上がったが、立とうとはしなかった。頻りに自分の足と手のひらにできた傷を確認して、立つ気配を見せなかった。――もしかしたら、泣くのを我慢しようとしているのかもしれない。中々立たないところを見ると、田上はそう思った。おそらく、骨が折れたのでは痛みに耐えきれずに泣き出すだろうから、その心配はないように思えたが、その男の子が周りの少年少女に囲まれたまま、立ち上がらないでいるのを見ていると、田上も段々と心配になってきた。
その田上の様子を見て、タキオンが言った。
「見に行ってみるかい?桜花の姉なんだから、見に行く理由は十分にあるだろうけど」
田上は、それに少し迷った後、頷いて立ち上がった。タキオンもその横について、群がっている子どもたちのところに行ったが、田上たちがそこに辿り着かない内に、転んだ男の子は立ち上がって公園の入口の方にとぼとぼと歩いていった。田上たちは、それで、男の子が大丈夫なようだと安心したが、近づいてきた二人を桜花が見つけた。
「あ、お姉ちゃんにお兄ちゃん」
桜花がそう言うと、他の子供達が一斉に桜花の見ている方角を見た。そして、アグネスタキオンとそのトレーナーの田上を見つけると、一気に「あれ?」という調子になった。桜花のお姉ちゃんの正体がアグネスタキオンであることに気がついたのだ。
一人の女の子が、桜花の肩をつついて言った。
「あれ…?…桜花ちゃんのお姉ちゃんってアグネスタキオン?」
「うん、そうだよ?」
桜花は事もなげに言ったが、そう言えば、自分のお姉ちゃんがGⅠウマ娘でとっても有名だったことを思い出すと、得意げににんまりと笑って言った。
「お姉ちゃん、皐月賞も菊花賞も大阪杯も勝ったんだよ!」
「すごい!」と子どもたちの群れの中に居た一人の小さいウマ娘が言った。
「アグネスタキオンじゃん!」
そして、その子がタキオンの方に向かって走り出すと、他の子も一斉にタキオンの方に向かって走り出した。タキオンは、面倒臭そうに顔をしかめた。それから、子どもたちの中で一番タキオンに興味のない桜花も顔をしかめた。桜花もお姉ちゃんが大好きであることには間違いないし、かっこいいお姉ちゃんが誇りでもあるのだが、自分が注目を集めて目立つことも大好きなので、こうして有名なお姉ちゃんがやってきて場を引っ掻き回してくれるのは、あまり嬉しくなかった。
場は、桜花から一気にタキオンへと注目が写った。タキオンだって、こんなに子供に群がられたくはなかった。なら、顔を隠せばいいじゃないかと思うのだが、そちらもそちらでなんだか嫌だった。圭一君と一緒に居る時間があるなら、タキオンはサングラスなんてつけずに、素顔のままで向き合っていたかった。
ただ、群がってくる子どもたちを全力で無下にはできないので、「はいはい」と微妙な顔で適当に空いてをすると、すぐに「遊んできなさい」と諭し始めた。そして、最後に「私はこのお兄ちゃんと遊びに来たんだから、君たちと遊んでいる暇はないんだよ」と言うと少々強引にその場から抜け出そうとした。そこで、今度は田上の方に注目が集まっていった。タキオンが、話に田上の事を持ち出すと、少し静かになってから「お兄ちゃん?」と疑問に思うさざめきが広がっていった。皆、桜花が「お兄ちゃん」と言ったのと、そのお兄ちゃんとお姉ちゃんがどうも恋人同士のように手を繋いでいるのとで、少々混乱してしまったようだった。それで、一人の女の子が群れの一番後ろに居る桜花に話しかけた。
「この人も桜花ちゃんのお兄ちゃん?」
桜花は、真顔だったのを少し笑顔で取り繕って、「うん、そうだよ」と言った。すると、群れの目は、桜花のお兄ちゃんとお姉ちゃんが繋いでいる手に、おもむろに向けられた。そこで、桜花もこの変な空気がなぜ作り出されているのかが分かって言った。
「お姉ちゃん、お兄ちゃんと結婚するって言ったから、田上さんのことお兄ちゃんって呼んでるの。だから、本当のお兄ちゃんじゃないの」
「へーー」と感心した声が、子どもたちの間に広がって、タキオンと田上の顔がまじまじと見つめられた。それから、一人の男の子がこう聞いた。
「なんで結婚するんですか?」
「なんで?」
タキオンが半笑いで返しながら、田上と目を合わせた。田上もこの質問に少し戸惑ったように、口元に笑みを浮かべていた。それで、タキオンは、子供に詳しく説明する必要もない、と思って、こう言った。
「好き同士だったから、結婚することにしたんだよ」
またまた、「へーー」と子どもたちの間で感心した声が上がっ。そして、タキオンは次の質問が上がる前に、「私達はもう行くよ」と言って、また自分たちが座っていたベンチの方に戻っていった。子どもたちもその後を追いかけてくるような真似はしなかった。
ベンチに座ると、タキオンが苦笑しながら言った。
「あの子どもたち、圭一君の事は完全に気がついてなかったな」
「そんなもんだよ」と田上も苦笑しながら言った。
すると、タキオンは真剣な顔をするふりをして、戯けながら言った。
「そんな事無いさ。君はあの、アグネスタキオンのトレーナーだよ?有名に決まっているじゃないか」
「言うほど有名じゃないよ。タレントとしてテレビに出てる人くらいだよ、トレーナーで有名なのは」
「それでも、私は、今の世代のトップだよ?距離で分けるなら速い人はまだ居るし、レースは始まってみなきゃわからない。しかし、中距離ではほとんど私が一番人気だ。落としたレースは日本ダービーしかない。 そのアグネスタキオンのトレーナーなんだから、君も有名になっているに決まっているじゃないか」
田上は、少しの間、なにか物言いたげな目でタキオンを見つめた後、「そうだね」と返した。タキオンも田上の奇妙な間には気がついたが、その奇妙な間が何を意図して作られたのか、タキオンには理解できなかったので何も触れずに置いた。
陽の光は、少しずつ高くなって行って、春の一時はのんびりと過ぎてゆくかに思えたが、まだ田上とタキオンに話しかけてくる人物が居た。
子どもたちに群がられてから十分後くらいに、あるカップルが二人の前に立った。タキオンと田上も、その時は、黙って、芝生で遊んでいる人たちを、少し眠たそうな目つきで見ているばかりだったので、自分たちの前に人がやってくるとすぐに気がついた。
高校生くらいのお洒落な女の子が、茶髪に染めた彼氏と共に立っていた。先程の田上たちが通り過ぎたベンチに座っていたカップルだ。「あの~」と丁寧に声を掛けて、座っている田上たちと目が合うと、タキオンの方を主に見つめながら言った。
「アグネスタキオンさんですか?」
タキオンは、少し女子高生を警戒するような目つきで見つめながら、「ああ」と頷いた。すると、女子高生は彼氏と目を合わせて嬉しそうな声を上げた。
「ええ!本当ですか!私、いつもレース見てます!……お隣の方は…?」
「トレーナー」
淡白にタキオンはそう答えた。そして、女子高生は、今も尚繋がれている二人の手を見つめながら言った。
「トレーナーということは、…田上トレーナーですよね?」
田上は、無言で頷いてから、「はい」と口を開いた。そしてまた、女子高生は繋いでいる二人の手を見た後に、ニヤニヤとした笑いを手で隠そうとしながら言った。
「え、…もしかして、……付き合っているんですか?」
その後に、フフッと笑い声が漏れていた。その笑いにタキオンはあまりいい気持ちはしなかったが、それは表には出さないで、繋いでいる手を掲げてみせると、「この通り、付き合っているよ」と事も無げに言った。それが、あまりにも事も無げで、田上もタキオンも恥ずかしさを欠片も見せていなかったから、女子高生は、にわかには信じられず、「え、本当ですか?」ともう笑いを隠しきれずに聞いてきた。
タキオンは、少し迷惑そうにしながら、――目の前でキスでもしてやろうかな、と思ったが、それをするのもまぁ面倒なので止めることにした。代わりに、隣の田上の顔を見つめながら「本当だよね?」と聞いた。田上も無言で頷いた後に、女子高生の方を向いて「本当ですよ」と言った。すると、女子高生はこう言った。
「え!…田上トレーナーって、…何歳ですか?」
「二十五です」
田上が、落ち着いた口調で答えると、女子高生は「へー!」と言って、隣の彼氏に「二十五だってよ」と伝えた。隣の彼氏は、この場に居ても居心地は良くなかったようだった。少しの緊張のために、口を開けないでいるのが見え見えだった。
女子高生の方は、回る口を止めようともせずに、タキオンにこう聞いた。
「え、タキオンさんって、田上トレーナーのことが好きだったんですか?」
タキオンは、一度静かに田上の方に目をやったあとに、「そうだよ」と女子高生に言った。
「え、いつから付き合ってたんですか?」
すると、タキオンはこれには「それは、君に教える義理はないね」と答えた。これで、女子高生は少し怯んで、タキオンが面倒くさがっている気配を察知しないかと期待していたのだが、女子高生の質問は止まらなかった。
「え、タキオンさんって、年上が好みなんですか?」
「…まぁ、…この人だから好きになっただけだよ。……別に、年上だから圭一君の事を好きになったわけじゃない」
「ん?田上トレーナーの下の名前って、圭一なんですか?」
これは、田上に来た質問だったので、田上は「そうです」とだけ答えた。そして、また、女子高生は、タキオンの方を向くとこう言った。
「田上トレーナーの好きな所を三つ上げてみるとしたらどこですか?」
「三つ?」とタキオンはオウム返しに聞いて、田上の顔を見つめたが、やっぱり女子高生の方向くと言った。
「これも、君に教えるようなことじゃない。それに、私達、今休暇中なんだ。そっとしておいてくれないかな」
タキオンが、はっきりとそう言うと、女子高生もタキオンに邪魔に思われていると気がついたようで、慌てて「すみません」と謝った。それから、嬉しそうに頭を下げた後、彼氏と共に自分たちのベンチへと戻っていった。その際に、「サイン色紙持ってくれば良かったねー」という彼女の声が聞こえた。
タキオンは、暫くあのカップルが戻ってくるのを警戒して、無表情のままで居たが、やがて、場がしっかりと二人きりのものになってくると、タキオンは、はぁ~とため息を吐いて、田上の膝の上に頭を乗せた。
「全く、有名になって良いことなんて一つもないね」
そう言いながら寝転がったタキオンの頭を撫でて、田上は言った。
「そんな事無いんじゃないか?」
「いやぁ?今まで悪いことはあれど、良いことなんて一つもなかったよ?特に有名になりたいと願っていたわけでもなかったからね」
「ファンとの交流は楽しくないのか?」
「君は楽しいかい?」
タキオンが切り返すと、田上も少し笑って「楽しくない」と返した。
「私は、なんなら君と私だけの世界でいいと言ったことがあるだろ?」
「でも、お義父さんとお義母さんとか居たほうが良いんじゃないか?」
「…でも、あの人達も同じ家に居られたらね。…少し迷惑だったりするからな…」
「…それじゃあ、寂しくないか?」
田上がそう反論すると、タキオンは、今まで芝生の方に向けいていた目を、おもむろに彼の方に向けて、ニヤリと笑った。その後、唐突に田上の首元に手を回すと、その首根っこを掴んで田上とキスをした。タキオンの重みが首にかかったので、田上は少し窮屈な体勢になってキスをされることになった。タキオンも田上の事を思って、長くキスの時間は取らなかったが、それでも、唇と手を離して田上を解放すると、ニヤッと満足そうに笑った。
「母さんも父さんも私達の世界に居てもいいが、迷惑はかけないでもらいたいね」
「そんな都合良くも行かないだろ」
「行かないから参っているんだ。そうだろ?」
タキオンが田上に問いかけると、田上は、顔に浮かべていた笑みを少し落として「そうだね」と答えた。
午前中はこうして過ぎていった。一度、あのカップルがサイン色紙をわざわざ持ってきてタキオンと田上に書かせた以外は、何も起こらなかった。その際は、タキオンが「あんまり見せびらかさないように」と念を押した。どうも、彼氏の方は、タキオンのファンでも田上のファンでもなかったらしく、彼女の隣について居るだけで、サインをもらおうとはしなかった。
桜花は、あの後も、一度も田上たちの所に訪れることはなく、友達と夢中で遊び回っていた。時折、休憩がてらにスケッチブックを持って、友達数人に囲まれながら絵を書いていたが、走っている時間のほうが圧倒的に長かった。その内に、怪我をした友達も、手と膝に絆創膏を貼り付けて戻ってきた。まだ、遊びたりなかったようだ。桜花たちは、その子を快く迎い入れて、続きの遊びを始めた。
子どもたちの数は、田上が聞いたときよりも数人多くいるように感じた。もしかしたら、知らない子と遊んでいるかもしれないし、もしかしたら、同じ小学校の友達が偶然ここで遊んでいたのと合流したのかもしれない。――子供って元気だなぁ、と田上はのんびりしながら思った。
子どもたちの様子を観察している限りでは、どうやら、桜花がリーダー格の子供だったようだ。タキオンもその事に気がついて、田上にうんぬんかんぬんと話していたので、田上はタキオンにこう聞いた。
「タキオンは、小学生の時とか、どんな感じだった?」
タキオンは、芝生に目線を向けながらも、焦点はそれには合わせずに遠くを見つめながら答えた。
「……私は、君も見ての通り一匹狼だったよ。恋愛なんて気にしない、走りだけに情熱を注ぐただのウマ娘だよ」
「好きな人は居なかったの?」
「君が初恋だよ?言わなかったかな?」
「…初恋?」
「そうだよ。高校生の時に初恋を迎えた稀有な存在だよ」
「…好きにならなかったの?小学生の時とか」
田上がそう聞くと、タキオンは、少し彼の顔から目を逸らした後に、ゆっくりと彼に目を戻して答えた。
「まぁ、人に興味がなかったね。足の脆さも相まって、私の目は走りにしか向いていなかった。…だから、君に私の足の脆さも打ち明けなかったんだよ」
タキオンが、その敏感な話題に触れると、田上もぴくりと一瞬だけ表情を変化させたが、またその顔をいつものように穏やかにした後に言った。
「打ち明けてくれてたら、また別の未来もあったかもしれないけど、…まぁ、俺はこうしてお前と居ることができて楽しいよ」
「私も楽しい」
タキオンは、そう言うと、膝枕をしてくれている田上の頬に手をやって、撫で始めた。田上も、タキオンのおでこを撫でて、暫く二人でそうしていた。
やがて、お昼時になると、帰るために桜花がバッグを手に持って、二人の下にやってきた。田上とタキオンは、タキオンを膝枕したままいちゃいちゃしていたが、桜花がやってくるのを見ると、そのまま桜花の方に目をやった。二人共、正午を告げるサイレンが鳴っていたことに気がついていたが、桜花と一緒に帰るつもりだったので、ここでこうしていちゃいちゃとしていた。
桜花は、にこにことしながら二人の前までやってきて、「お姉ちゃんお兄ちゃん、かーえろ」と言った。実の所、二人はまだ帰りたくなかった。まだまだのんびりできそうな気配があったので、できるだけここに居て、二人きりの時間を楽しみたかったが、桜花が来てしまった以上、そうも行かなかった。
タキオンが、惜しそうに田上を見つめて、鼻からため息を吐くと、ゆっくりと躊躇うとように起き上がった。田上も、タキオンが起き上がると、名残惜しそうにしながらもよっこらしょと立ち上がった。タキオンは、半身を起こしても、まだベンチに座ったままだった。タキオンの方は、名残惜しさに抗うことができなかったようだ。だから、田上の方を見上げると、甘えた声を出して「立ち上がらせて」と言った。桜花は、だらしのない姉の姿を見て、「赤ちゃんみたい」とからかったが、タキオンは、それを無視すると、田上に抱いて立ち上がらせてもらった。そして、そこで田上に抱かれたまま離れなくなった。「だっこして」と言うと、てこでも動かなかったので、田上も抱っこせざるを得なかった。しかも、これが対面でだっこしろというこということだったので、尚の事大変だった。おんぶだったら、背を曲げれば何とか支えることができるが、対面では中々に厳しかった。それでも、タキオンが田上の体にしがみついて、両足を地面から離すような体勢になれば、少々みっともないながらも、なんとか田上にだっこをしてもらう事ができた。そのタキオンを、桜花が笑いながらからかったが、タキオンは、無視をし続けた。
結局、途中までは、タキオンもそのままの格好で田上にへばりついて帰ろうとしたが、流石の田上ももう耐えきれなくなった所でタキオンを下ろして、せめて、おんぶなら良いということで妥協させた。タキオンは、もっと田上に甘えたかったのだが、田上に無茶をさせてもしょうがないので、不満ながらも妥協することにした。桜花は、お姉ちゃんに構ってほしかったのか、頻りに「お姉ちゃんは赤ちゃんみたいだなー」とか「お姉ちゃんも小学校に戻ったらいいんじゃない?」とか言ってきていたが、タキオンには無視されるか雑にあしらわれるかだったので、それを傍から見ていた田上は少し桜花が可哀想になった。けれども、自分もタキオンを運ばないといけないし、下手に口出ししてタキオンと諍いを起こすのも嫌だったので、何も言えずにいた。
家に着くと、田上はタキオンを下ろそうとしたが、これも中々下りようとはしてくれなかった。時々、こういう事がある彼女なので、田上も慣れてはいたが、それでも、何故こうも唐突にこうなってしまうのかが分からなかったので、タキオンに質問してその原因を探ろうとした。すると、途端にタキオンは田上の背から下りて、さっさと靴を脱ぐと自分一人で手を洗いに行ってしまった。田上は、少々戸惑いながらその背を見つめていたが、両親の家である手前、自分たちの不和の種を見せるのもなんだか億劫な物のように感じたため、声をかけるようなことはしなかった。
自分も手を洗いに行った時には、タキオンと合流したが、タキオンは何かに怒っているらしく、田上と話すどころか目を合わすことすらしなかった。田上には、何故タキオンが怒っているのかも分からなかった。そして、それを聞くこともできないのだから、鬱陶しくもあった。――女ってのは、突然怒るってよく言うけどなぁ。 タキオンの唐突な怒りは田上にも伝播して、その内心を少し苛立たせた。
そんな調子の二人だったが、無言で隣同士の席についても母親たちは気づく素振りを見せなかった。もしかしたら、内心では気づいていたのかもしれないが、娘たちの問題だと思って触れようとはしなかったのかもしれない。それで、母親たちに普段のように話しかけられると、田上たちも普段のように答えざるを得なかったが、タキオンが頑なに田上の方を見ようとはしないため、田上も鬱陶しさが増した。
桜花は、まだタキオンの気を引きたかったのか、母親の方に、田上にくっついて帰るお姉ちゃんが如何に面白かったのかを、時折タキオンの方をチラチラと見つめながら話していた。タキオンは、自分のご飯だけを見つめ続けて、さっさと食べ終わってしまった。そして、食べ終わると、席を立って無言のままに畳の間の方に戻って言ってしまった。田上は、置いていかれたことに少しの不安を覚え、それを苛立ちに変換しながら、熱した頭の中でタキオンにぶつくさ文句を垂れながらご飯を食べ続けた。
そして、タキオンより五分ほど後に自分の分を食べ終わると、「ごちそうさまでした」と手を合わせて言った。そして、特にここに居るのも居心地が良くはないので、機嫌の悪いタキオンが居る畳の間に行った。
タキオンは、寝転がってスマホを見つめていた。布団は、出ていく時に畳んで部屋の隅に置いておくのを忘れていたが、タキオンが今畳んでくれていたようだった。そして、それを背もたれにして、半分寝転がりながら、畳の上に足を広げていた。
田上が入ってきても、ウマ耳こそピクリと動いたが、それ以外の反応は見せなかった。田上もタキオンと話すつもりも毛頭なかったので、一度、タキオンに目を留めたのみで、後は自分の荷物に行ってゲームを取り出すことにした。そして、また後戻りすると、タキオンが畳んだ布団の傍に、タキオンとの距離を人ひとり分空けて、腰を下ろした。田上も話すつもりはなかったが、それでも、何かきっかけさえ起これば、いつでも話し合えるように近くにはいたかった。それに、やっぱり、苛ついていたとしてもタキオンの事は好きなので、何かない限りはずっと近くに居たかった。
そういう訳で、いじらしい距離感を保ったまま田上はゲームをしていたが、どうやら、タキオンも段々と冷静になってみると、田上を突っぱねるのはむしろ自分の方に益にならないと考えが変わってきたようだった。スマホを見つめたまま少しずつ田上の方に近づいてくると、あと一センチ二センチで触れ合うか…という所まで来た。そこで、タキオンは一度動きを止めたが、今度は田上の方が動いた。田上は、畳の上に座っただけで布団に背をもたれ掛けさせては居なかった。ただ、タキオンを少し警戒するように体の方向だけは彼女に向けて、ゲームをしていただけだったが、ここで、近づいてきたタキオンから離れるためか、それとももっと寄り添いやすくさせるためか、その真相は今一田上にも分からなかったが、タキオンに寄り添うまでもないが、タキオンとそれ程離れても居ない場所にごろりと横になって、布団を背もたれにした。
タキオンも田上も、自分たちのしていることに集中するフリはしていたが、お互いの存在はしっかりと感じ取っていた。田上もタキオンの横に寝転がったのは、少々無意識気味だったけれど、タキオンの事を意識していないわけではなかった。そして、隣同士で寝転がっているタキオンが、田上と肩が触れ合う近さまで迫ってくると、田上は思わずタキオンの顔を見てしまった。タキオンも田上に見つめられると、不思議と笑みが零れてきそうになったが、それを必死に押し留めて、何気なく近づいたふりをした。
さて、ここからが問題だった。田上は、話す気はなかった。今まで、理不尽に怒られているにもかかわらず、また口を開いて理不尽に怒られるのなら、相手が動いてくるのを待つ方がマシだったからだ。すると、完全にタキオンから動くしか無いように思える。ただ、タキオンも理不尽に怒ってしまった手前、上手く言葉が発せなかった。それでも、田上がこうして寄り添ったままでいてくれているのは、自分に対してそんなに怒っていないからだと思うと、タキオンは見つめていたスマホから目を逸らして、田上の方を見た。田上は、一生懸命にゲームをしていて、タキオンが見つめてきていることには気が付かなかった。タキオンは、その顔をじっと見つめ続けて、心の何処かで、田上が自分の方を振り向いて、優しい言葉をかけてくれないかと待った。しかし、田上は、全然タキオンの方を見てくれなかったので、結局はタキオンの方から何か言うしかなかった。
タキオンは、丁度ゲームの切りの良さそうなタイミングで、田上の手をトントンとつついた。田上は、タキオンの方を見て、その目と目を暫く合わせたが、タキオンが何も言わないとなると、田上もまたゲーム画面の方に目を戻した。そこで、やっと勇気が出て、「ごめん」と悲しそうな顔をしながら言った。田上は、再びタキオンの方に目を向けたが、何も言わなかった。田上が言うべき言葉を探し出せなかったのもあるし、タキオンがもっと言うべきことがあるとも思ったからだ。タキオンは、少しの間むず痒そうにモゾモゾと体を動かしたり、目をキョロキョロとさせた後、出にくい言葉をやっと吐いた。
「ごめん。…急に怒ったりなんかして」
「…なんで怒ったの?」
田上は、優しい声色でそう聞いた。
「………それは、…知らない。…もっと君と居たかった。…少しの八つ当たりかもしれない。…君に当てるべきじゃなかった。…ごめん」
「いいよ」
田上は、そう言うと、自分のゲーム機をぽんと畳まれた布団の上に置き、一回欠伸をした。それから、タキオンの方に首を向けて言った。
「女の人が突然怒るのってなんでなんだろうなぁ、って考えてた」
「そう…。ごめん」
「いいよ」と田上は、タキオンを安心させようと、微笑しながら言った。それでも、タキオンは申し訳無さそうにしながら田上の顔を見ていた。
「私って面倒臭い女だろ?」
「ちょっとくらい面倒臭いほうが、人間味があって良いよ」
「でも、圭一君の方も私の態度にイライラさせられただろ?」
「そりゃあ、ね。理不尽だったからね。 でも、タキオンってそんなもんだよ」
「私が?」
「そう。 突然変なこと言ったり、突然怒ったりするだろ?」
この答えに、タキオンはちょっと顔をしかめて考え込んだが、やがて、田上に目を向けると「そうかもしれない」と言った。そして、これまた唐突に田上の方へと身を乗り出すと、その体に少し覆い被さって「抱き締めさせて」と言った。田上は、微笑みながら「いいよ」と言ったが、その後に「ほら、突然変なことを言う」と付け加えた。タキオンは、それに微笑こそしたが、何も答えないで、完全に田上の上に覆いかぶさると、その体をギュッと抱きしめた。それから、胸に顔を埋めて、じっと動かなくなった。
田上は、その重みを感じながら、まだまだ子供のように甘えてくるタキオンのことを考えた。もしかすると、タキオンは、子供が親に甘えるような気持ちで田上に接してきているかもしれなかったが、それにしては、タキオンは大人だった。けれども、たまに、または、よく見せるタキオンの子供の顔が、田上には愛おしくも邪魔だった。もっと、大人として彼女に接してあげたかった。もっと大人同士として、彼女の夢を聞いてやりたかった。しかし、こうも子供の顔を見せられると、タキオンと居ることを素直には喜べなかった。彼女が甘えてきてくれるのは、田上にとって嬉しかった。彼女が、もっと触れ合いを求めてきてくれるのが、田上にとって喜びだったが、その触れ合いに、ただ自分はタキオンに愛を補充してやるための機械なんじゃないかと思う時があった。
タキオンは、以前に――私は君を愛せない、と泣きながら言ったことがあった。おそらく、これなのだろう。ただ、愛を求めるばかりに、田上に対して、親のように愛を注いでくれる機械になってほしいと願う。本人は、勿論そんなことはしたくないだろう。もっと、大人同士として愛し合いたいのかもしれない。しかし、タキオンが今このように抱き着いている姿は、親に縋る子供のようだった。