ケロイド   作:石花漱一

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六、どうしても冬(後編)

 タキオンは、今日の朝は素直に起こしてくれた。特に表面的には何の不機嫌さも見せず、いつものように過ごしていた。

「あけましておめでとう」

 タキオンがそう言うと、田上も「あけましておめでとう」と言った。あんまり正月らしからぬ朝だった。正月というのに、朝はパンだしテレビはついていない。不満は特になかったが、今年は冬を満喫できていないようでどこか寂しかった。昨日の大晦日もタキオンに付き合って、早く寝たのだ。年越しと言うことすらあまり実感できなかった。

 田上は、大して美味しいとは言えない食パンをかじりながら台所にいる父に聞いた。

「爺ちゃん婆ちゃんが来るのは今日?」

 すると、少しだけ開いている引き戸の向こうから返事が聞こえた。

「いや、明日だよ」

「じゃあ、明日初詣に行くんだね?」

「ああ」と聞こえてきた。隣にいたタキオンは、起きてからトイレに行くとそのまま食卓について、田上付近にあったパンをとると自分もかじっていた。今日は、なんだか二人の間が離れているような気がした。田上としては、こちらの方が好都合だったはずだが、あの状況に慣れてしまっていた自分の心が「寂しい」と嘆いていた。だからと言って、そのことについてなにも言うことはなかった。ただ、「明日は忙しくなるよ」とタキオンに言っただけだった。タキオンは黙って頷いていた。

 あんまり嬉しくはなかった。タキオンが、不機嫌そうな兆しも見えないし、いつも通りと言えばいつも通りだから、これと言った理由も見つからないのに、タキオンが変わって見えるのは。田上は、複雑そうに時折、チラッチラッとタキオンを見つめていた。そして、タキオンがその視線に気付く度に田上は目を逸らすのだが、何回か繰り返すとタキオンも確実に自分の事をトレーナーが見ていることに気が付いたようだ。少し不機嫌そうになって聞いた。

「君、私の事をさっきから見ているようだけど、何の用があって私を見ているんだい?」

「それは……、今日のタキオンが…何か違うから」

「違う?何がだい?」

「何と言うか…。大人になったと言うか…」

 そこでタキオンは田上の言いたいことに気が付いたようだ。ああと相槌を打って言った。

「私が君にくっついていないことだね?…別に、君としてはいいじゃないか。私が離れていることくらい」

 田上は、さらに複雑そうな表情を見せた。

「なんだい?その顔は。…だってそうだろ?君は散々私に離れろ離れろ言ってきたんだ。そこで私も昨日の事で堪忍袋の緒が切れたね。もう君から離れることに決めた」

「昨日の事?」

 田上は、何のことだか分からずに聞いた。

「昨日の夜のことだよ。君、私と話すために布団に入っておきながら私の話を全然聞こうとしなかったじゃないか。追い出そうかと思ったくらいだよ。…けど、それは私の温情でやめた。……だけどね、私はそれで傷ついたよ。私が何か言えば眠そうに生返事。起きろと言っても眠そうに生返事。これでは私は何に話しかけているのか分からないよ」

 それを聞くと田上も昨日のことを思い出して、申し訳なさそうに「ごめん」と言った。

「ごめんで済むんだったら、私はこんなに怒っていないね。君は!私の心をないがしろにしたんだ。心と心が通じ合っていると言ったのがバカみたいだよ。私は何だい?君のために踊る道化師かい?それとも可愛い可愛いストリッパーかい?」

「ストリッパーなんて言葉、どこで聞いたんだよ」

 田上が呆れて言った。

「この際、そんなことはどうでもいいし、例えなんざそれでなくてもいい。肝心なのは、君が私を何だと思っているか、だ!私は、君のちっちゃなちっちゃな可愛いタキオンとでも思っているのかい?」

 ここで幸助がタキオンの怒りに気が付いて見ていたスマホから顔を上げた。すると、タキオンは「こっちを見るな」と声を荒げたから、幸助が苦笑いを浮かべながら再び自分のスマホを眺めた。しかし、その画面には集中はできなかったようだ。終始、タキオンたちの会話に耳を澄ませていた。

「いや、俺は、別にあの時は眠たかったからで…」

「言い訳なんて聞きたくないね。私はあの時何回も君に話しかけたんだ。それなのに君は、生返事ばかりで眠いの一点張り。もう眠いなんて言葉は聞きたくない!」

「…いや、俺はお前のことは……、お前のことは…」

 田上は言葉を言うのに躓いた。本当の事を言えないのは分かり切っていたし、例え本当の事を言ったとしてもこの場がますます拗れる事だけは分かっていた。だから、タキオンの顔を見ると、怒っている赤子に仕方なく謝るように言った。

「ごめん、タキオン。別にお前の事を怒らすつもりはなかったんだ。取返しならつくんだから、ほら、ね?今日もたくさん遊んであげるよ」

 田上はそう言って、手を微かに広げた。タキオンに許してほしいつもりで、少し手を広げて抱きつくのを無言で許可した。タキオンもそれに気が付いたようだ。座っている二人がぎこちなく抱き合おうとすると、タキオンが急に田上の右肩と後ろ頭を掴むと首筋を広げさせて、そこにガブッと噛みついた。田上の首に鋭い痛みが走った。それは十秒以上続いた。幸助も突然の出来事に驚いて見ていたが、何をすることもできずにただ呆然と見続けることしかできなかった。

 田上は、痛みで声を発することもできずに、ただもがくように後ろに倒れただけだった。それでも、タキオンは文字通り食らいついてきた。タキオンとしては血が出るまでするつもりだったが、口を離した後、噛み後しか残らなかったのを見ると、――私もまだまだ甘いな、と思って立ち上がった。そして、寝転がってる田上に言った。

「あんまりウマ娘を舐めるんじゃないよ。その気になれば噛みつくんだ。君なんかが適当に相手をしていい代物じゃない。そんなつもりで私と触れ合おうというのなら、君との契約を即解除するつもりだ。……そして、こんな家、君がいる以上いるつもりはないよ」

 そう言うと、タキオンはまだパジャマであることにも構わず、隣の部屋にあったキャリーケースを持つと家の玄関に立った。そこで父が心配そうにタキオンに話しかけた。

「俺の息子が何かアグネスさんの気に触ることでもしたのか?」

「いえ、ほんの喧嘩です。…短い間でしたがお世話になりました。こんな急に帰ることになって、お礼も口でしかできずにすみません」

「いやいや、そんなことはいいんだけど…」

「私の分の食品もたくさん買い込んでいたでしょう?少ないかもしれませんがこれを…」

 タキオンはそう言うと、キャリーケースの中から財布を急いで取り出し、金を出した。

「いやいや、それは受け取れない。アグネスさんが持っていてくれ。…どうしてもだ」

 タキオンが迷うような顔をしたので、賢助は最後にそう念を押した。そして、付け加えた。

「アグネスさん、逃げるなら早くした方がいい。圭一は、満足できないことがあったら、必ずそれにケリをつけに行きますよ。その結果が、不幸でも幸でも」

 その言葉を聞くとタキオンもニヤリと笑った。

「ええ、私もそのことは承知です。あなたほどではないにしても、約二年間傍で彼を見てきましたから」

 ここで田上が引き戸を引く音が聞こえた。

「彼が来たようです。では、また会うことになるかもしれませんが、また会わないことになるかもしれません。その時は、私の顔を忘れてやってください」

 タキオンはそう言うと、ドアを開けて走り出した。キャリーケースはお金とスマホだけを持つと、玄関の近くに置いて来た。どうせ、トレーナー君はトレセン学園に所属しているトレーナーなのだから、自分がこのまま帰ってもあの人がこれを持ってくるだろうと考えたからだ。だから、走るときに必要のないキャリーケースは置いて出た。

 スマホとお金は、もし電車に乗るタイミングがあれば必要だと考えた。スマホがなければ、現在地の確認が難しいし、お金がなければそもそも電車に乗れない。自分の足で帰ることも考えたが、電車で三時間かかる場所から帰るのはさすがに無理がありそうだ。タキオンは、そう思って、まずは素直に駅の方角ではなく、昨日行った公園の方に決めた。こっちの方が、田上を混乱させることができそうだと考えたからだ。

 タキオンは、駐車場までの階段を降り、道に出ると、右に舵を取った。

 

 田上は、暫くの間、何が起こったのか分からずに首の痛みに呻いていたが、段々と意識を取り戻せて来ると、タキオンが獣のように素早く動いて自分の首筋に食いついたのを思い出した。しかし、その後に立って言っていたことは思い出せなかった。痛みに涙が出そうだったからだ。それ程に痛くて、冷や汗もかいた。その冷や汗が、噛まれていたところを押さえていた手を濡らすと、いよいよ血が出てきたのかと思ったが、そうではなかったことが自分の手を確認して分かった。そうすると、首筋の痛みもいくらか薄れたように感じた。それでも痛くて、田上はよろよろと立ち上がると、タキオンが立ち去ったはずの玄関に続く引き戸に手をかけた。

 その時に何か話し声が聞こえ、タキオンが話しているであろうことが分かった。その声の調子は先程のものとは打って変わって、落ち着いたものだったので田上は嫌な予感がした。引き戸を開け切ると、もう玄関の扉が閉まるところで、タキオンの尻尾の先が見えたような気がした。田上は、父に聞いた。

「タキオン、なんて?」

「お前に追いかけてほしいってさ」

 賢助が、苦笑しながら言った。それを聞くと、田上の嫌な予感は的中した。タキオンは、今度は街の中で鬼ごっこをやろうというのだ。秋頃にも運動場でこういうことをしたような気がしたが、今度はその比じゃない。タキオンは田上に余裕を持って距離を取るだろうし、その逃げる範囲も知れたものではなかった。行こうと言えば、隣町にも余裕で行けるのだ。田上は、はぁと大きなため息をついた。すると、賢助がまた苦笑をしながら言った。

「そんな顔をするなよ。お前にチャンスをくれてやるって言ってるんだぞ」

「……そうだろう。…そうだろうけど、実際にはそうじゃないんだ。あいつは、俺があいつを捕まえれたら許す気でいると思う。もしかしたら、追いかけ始めた時から許す気かもしれない。…でも、同時に捕まえられなかったら許す気はないんだ。今度はそうだ」

「今度?前もそんなことがあったのか?」

 賢助は、靴を履いている息子にそう聞いた。しかし、田上はもう父の話など無視した。一刻も早くタキオンを見つけて捕まえなければいけない。そう思ったからだ。

 田上は、靴を履いて外に出ようとしたが、首の痛みに呻きつつ後ろを振り返った。暖かそうな炬燵と明るい光が引き戸の奥に見えた。あそこにいれば、タキオンなんかに煩わされることもなく気持ちよく過ごせるだろうと思った。しかし、父の声で我に返った。

「圭一!女の子を待たせるつもりか?」

 田上は、そう言った父の顔を見て言った。

「うるさい!そんなことを言うやつは消えちまえ!」

 そう言うと、田上は思い切りドアを開けた。そこでキャリーケースを見た。それで、少なくともタキオンには帰る意思があるのかもしれないことを読み取った。だが、その意思に喜ぶことはできない状況ではあった。

 田上は、乱暴にキャリーケースを家の中に放り込むと、その中に財布もスマホもないことを確認して、外に出て行った。タキオンは、もうどこにいるのか皆目見当がつかなかった。しかし、田上は探さなければならなかった。愛する人を。愛しい我が子を。

 

 田上は、タキオンの目論見通り、とりあえず駅の方に向かう他なかった。キャリーケースの中に財布がなかったということは、お金を使う何かをする予定があるということだ。――いや、ないかもしれない。田上は、心の中でそう否定した。

――お金なんて持ってるだけで役に立つものだ。俺から逃げるのにも大いに役に立つだろう。……くっそ!もうどうすればいいんだよ。なんでこんなに寒いんだよ。

 田上も急いで出てきたので、靴下も履いていなかったし、格好も寝巻のままだった。灰色の長ズボンと黒の袖の長い服を来ていた。特に、足が寒かった。靴を履いていると言っても、靴下を履いていないから実質裸足なのだ。かじかむ足を靴の上から温めようとして、時折立ち止まってはつま先を揉んでいたが、一向に暖かくなる気配はなかった。

 そして、そのまま駅まで行った。駅には少しの人の移動があって悪い予感がした。田上は、急いでこの前見た元気なおじさんを探した

 おじさんは、回収した切符を片手に人の波を見つめて去っていくのを眺めていた。そのおじさんに田上は慌てて話しかけた。

「も、もう電車って行きましたか?」

「え?ええ、行きましたよ」

 この頃には、もうおじさんは田上のことを忘れていて、知らない寝間着姿の人が急に話しかけたのだと思った。

 田上はなおも言葉を続けた。

「そ、そこに女の子はいませんでしたか?白いパジャマを着た女の子です。ウマ娘です!みませんでしたか?」

「ウマ娘?…多分見ていないですね。白いパジャマを着てたんでしょ?…それなら、猶更分かりそうなものだけどね」

「ほ、本当に見てないと断言できますか?」

「う~ん、降りる人は多かったけど、乗る人は四,五人だったからね。多分、見てないと思うけど…。う~ん…」

 そう言って、おじさんは答えを曖昧にした。おじさんの言い分だと、断言はできないけど、ほとんど見なかったと言っていいのだろう。田上は、その言葉に少しだけ心を躍らせたが、すぐに自分を抑えると「ありがとうございます」と言ってその場を離れようとした。その時におじさんが「その格好だと寒いよ」と呼びかけてきたのだが、再び「ありがとうございます」と言ってその場を後にした。

 

 次に行くべき場所は、田上が設定したタキオンが走るはずの道だった。とりあえず、この町でタキオンが知っていそうな場所にあたるしかなかった。もう一つには、昨日行った公園があるのだが、それは走る道に比べると駅から遠かったし、田上としては長くて面倒な走る道の方を先に片付けて、それから公園の方に向かう事の方が気が楽だった。しかし、走る道は走る道で思ったよりも簡単には行かず、さらに度々立ち止まってかじかむ手足を温めようとしているのだから猶更時間がかかった。八時ごろに家を出た田上が、走る道を往復してその途中にあるショッピングモールの所の交差点に戻ってくる頃には、十時を回っていた。

 寒さと疲れと焦りで頭がおかしくなりそうだった。そのうち、タキオンは、本当は電車に乗ってもう帰ったんじゃないかと思った。おじさんが見ていないと言ったのは自分の希望的観測でしかなく、本当のところはもう電車に乗って遠く離れた所に行っている。そして、自分との契約解除を進めようとしている。その考えが頭をよぎると吐き気がこみあげてきたが、何回か嗚咽をしたのみで何も出てくることはなかった。

 どうしようもなく寒くなった。もうかじかむ手足に感覚はなく、後は必死に動いている心臓の音だけが感じられた。もう全てを投げ捨てたかった。家に帰って暖かい炬燵に入って、タキオンのことなんて忘れていたかった。だけども、タキオンもまたこの寒い中で自分を待っている可能性があると思うと、せめて公園までは行かなければならないと思った。だから、田上は、家に帰る方向には舵を取らず、その交差点からそのまま公園の方に行ける道に舵を取った。

 そこで、小雨が吹いてきた。この寒いのに雪にはならず、ただ雨となって田上の体に吹き付けた。まるで、霧雨のように細かい雨だった。それが田上の肌を濡らし、服を濡らした。

 しばらく歩くと田上は命の危機を感じるようになった。細かい粒ではあるのだが、確実に田上を濡らしていき、やがては体の芯までも凍らせようとしてきた。公園まではまだ長かった。そして、その場所にもうタキオンはいないのかもしれないと思うと、余計に足取りは重くなった。長い長い道のりだった。寒さに頭は朦朧として、体の表面を伝う雨も段々と感じることができないように感じられた。

 自分の吐く息は、もはや虫の息だろうということが感じられた。浅く息をして、時折、ゴロゴロと妙な音が喉から聞こえてくる。自分の体が異常を来たしていて、早く家に戻れと頭の中で別の声が叫んでいるのが聞こえた。しかし、一目だけでも公園を見てから…と思うと、足は死ぬことを恐れずに前に進みだした。

 田上は、もう自分の意思で歩いているとは言ってはいけないだろう。その心にあるのは、タキオンの事と暖かい炬燵の事だった。早く、早く帰るために田上は足を動かした。目の前が霞んでいくような気がした。しかし、それも公園をしっかりと見なければ、という思いで、一時は回復した。だが、一時だけだ。その後はもうダメだった。田上は、十歩歩くごとにうずくまって、やがて、七歩歩くごとにうずくまって、そして、五歩歩くごとにうずくまった。そこで、遠くの方に人影が見えるような気がした。その人は、何かを叫んでいたが、もう田上には何も聞こえなかった。

 気が付くと、家の風呂で服を着たままタキオンと一緒にお湯に浸かっていた。

 

 それから遡ること三時間前。タキオンは、公園に来ていたのだが、田上がここまできたらどうしようかと考えていた。逃げるルートとしては、駅で電車に乗るか、この町をひたすら逃げ回るかのどちらかだった。だが、タキオンの心の上では、そのどちらも定まってはいなかった。やっぱり、田上が来たらもうそれでおしまいにしてしまおうかと考えたのだ。――だけど、トレーナー君は絶対に来るだろう。そう考えるとタキオンは自身のトレーナーにこの試練を課した意味がないように思えた。タキオンは今複雑な心境の中にあったのだが、田上と本気で別れたいのかと問われれば、それはどちらでもあると答えるだろう。別れたくないし、別れたい。自分を赤子のように扱ったことは、今でも許せなかった。トレーナーの心の奥底が見えたような気がした。同時に、トレーナーの心はもっと奥が深いんじゃないかとも思った。何も心にあるのは、タキオンの事だけではないだろう。その別のものが、今回タキオンを田上に赤子のように扱わせたのじゃないかと思う。だが、そうは考えても、タキオンの心は未だに決定しなかった。だから、田上が来るまでは待とうと決めた。そして、その後のことは、公園に来る時の田上の顔を見て決めようと考えた。

 だが、田上は待っても待っても来る気配はなかった。このことは、タキオンも予期していたことではあった。街は広いのだ。道はいくつもあるのだ。そのどれもを探しているとなると、到底一日では済まないだろう。ただ、タキオンとしてはもう少し早く来てもいいのじゃないかと思う。この公園に来たのは、一番記憶に新しい昨日の出来事なのだ。幾ら駅に行ったとしても、もうそろそろ来てもいいのじゃないかと思う。すると、タキオンの頭に一抹の不安がよぎった。

――トレーナー君は、まさか私が電車に乗ったと思って後を追ったのでは?

 そう思うと居ても立っても居られなくて、タキオンは公園のベンチから立ち上がった。そのベンチは、滑り台の近くにあるものだ。だが、何の気なしに砂場を見やると昨日の子たちが作ったであろう砂の山が見えて、立つのをやめた。もう一回ベンチに座るとこう考えた。

――別にトレーナー君がこの街にいなくたって、私は逃げ続けるよ。何年かかって、トレーナー君が私のことを忘れようとも私は逃げ続ける。そう決めたんだ。今更、この想いを捩じ切るつもりはないぞ。

 そう思うと、ベンチを座り直し、砂の山を見つめ続けた。時折、近くにある滑り台やブランコや鉄棒を使って遊んだりもした。しかし、そのどれもが空しいものだった。自分のために作られたわけではない低い鉄棒で逆上がりをしてみたり、もう成長して大きくなった肩や尻が滑り台でつっかえてみたり、すぐに地面に足がついて全然漕げないブランコに乗ってみたり、…あんまり楽しいものではなかった。

 そのうち、小雨が降ってきたので、タキオンは木の下のベンチの方に避難した。葉が全然ついていないので碌な雨宿り場所ではなかったが、それでもないよりはマシだった。タキオンは、まだ体力の持つ限り田上を待つ気だった。

 

 しばらくすると、タキオンもさすがに命の危険を感じるようになった。だが、まだ待つ気ではいた。傘を差した幸助が歩いてくるまでは。

 タキオンが、ベンチに座って震えていると、遠くから傘を差した人が歩いてくるのが見えた。一瞬自身のトレーナーかと思って、大声を上げそうになったが、それは堪えた。例え、トレーナーだったとしても喜びの歓声を上げるわけにはいかなかった。タキオンはうつむいてできるだけその人を見ないようにした。

 すると、その人の足音が段々と近づいてきて、タキオンの座っている前まで来るのが分かった。それでも、タキオンは顔を上げなかった。

 その人は、暫くの間戸惑ったように、タキオンを見つめるばかりだということが本人にも分かった。しかし、それでも何も言わず、ただサーッと流れる雨の音だけが聞こえてきた。

「…タキオンさん?」

 その人がようやく話しかけてきたとき、タキオンは物凄く複雑な心境に陥った。目の前にいる人が幸助だと気が付いたからだ。タキオンは気を悪くしてすぐには答えなかった。しかし、幸助がもう一度「タキオンさん?」と声をかけてくるとさすがに可哀想なので、ノロノロと顔を上げた。

「…なんだい?」

「ああ、よかった。生きてるね。……圭一は?」

「そんな人知らないよ。一体誰のことだい?」

 タキオンはすっとぼけたが、幸助が困ったように笑ったのを見ると、面倒くさそうに言った。

「まだトレーナー君は帰っていないのかい?」

「うん。さすがにあの格好で傘も差さずにこの気温は無理があるよ」

「……」

 幸助がそう言うと、タキオンは押し黙った。自分のせいだと思ったが、それを認めたくはなかった。しかし、じっとしてもいられなくてタキオンは立ち上がって、八つ当たりに幸助に怒った。

「わかったわかった。私が探せばいいんだろ!いっつもこうだ。トレーナー君は足手まといの愚図なんだ。ドジで阿保で間抜けなんだ。ああ!くそ!イライラする。なんで私が、彼を探す側に回らないといけないんだ」

 タキオンはそう言って起こっていたが、幸助が口を挟んだ。

「お前も家に帰って風呂に入れよ。とりあえず、お前の体も温めないと話は始まらないぞ。圭一は俺が探すから安心しろ。別にお前のせいじゃない」

「いや、完全に私のせいだね。私がわざわざこんな日に外に出て、トレーナー君を追いかけさせたからこんなになったんだ」

「あんまり自分を責めるな。…ほら、行くぞ」

 そう言って幸助がタキオンの手を軽く引っ張ろうとしたから、尚の事タキオンは怒った。「私の手に触るな!」

 すると、その言葉にカチンときたのか、幸助も少し怒り気味にこう言い返した。

「一体お前は何なんだ!圭一の彼女でも何でもないんだろ!それなら、圭一の事なんか振り回さないで大人しくしてろ!」

 突然の幸助の怒りにタキオンはたじろいだ。しかし、まだ反論する元気があるようでこう言った。

「…私は、…私は、トレーナー君の恋人でも何でもないけど…、何でもないけど…」

 その言葉は尻すぼみになって言った。

「じゃあ、大人しく俺についてこい。お前ら二人は、俺の癇に触るんだ。いっつもイチャイチャしやがって、それでいて、恋人関係じゃないと抜かす。ほんっとうに腹が立つ」

 タキオンは、少しむっとしたが、もう反論することはできずに幸助と少し距離を取りながらその傘の中に入っていった。

 

 公園の外まで歩いて行ったとき、正面の道が見えた。その道はうねっていて、すぐに先が見通せなくなるのだが、タキオンは何かを見たような気がして立ち止まった。幸助は、それに気が付かないで三歩歩いた。

「おい、何してるんだ?」

 幸助が少しイラついたように言った。

「……いや、気のせいかもしれないけど、何かを見たような気がするんだよ。…何か」

 タキオンが、不思議そうにそう言って、その道の先を見ようとしていたので、幸助も仕方なさそうに言った。

「その道の先に圭一がいなかったら、帰ろう。どっちみちお前も圭一も危ない」

 幸助はそう言って、タキオンを傘に入れて、公園の正面の道を歩き出した。しかし、その道を歩いても何も見つからないように思えた。二人は少し歩いて、何もない十字路に出た。この道は相変わらずうねっていて先が見通せなかった。

「この道の先だけ見て帰ろう」

 タキオンが幸助にそう言った。幸助も頷いたので、二人は公園の正面の道を十字路に出てもまっすぐ歩いて、見通しのきくところまでやってきた。

 すると、一見すると何もないかのように思えたその道の先にタキオンは何かを見つけた。うずくまって震えている生物だ。タキオンはその生物に見覚えがあるような気がした。そのことを頭で理解する前にタキオンは駆け出した。

「トレーナー君!!!」

 そう叫んで駆け出すと、幸助を見る見るうちに置いて行って、田上の傍に駆け寄った。

「トレーナー君どうしたんだ?…ああ、答えてくれトレーナー君」

 タキオンはもう泣きだしそうになっていた。少ししてからようやく幸助が追いついた。タキオンは、必死に田上の手をさすりながら温めようとしていた。

「ああ、聞いてくれ、幸助君。トレーナー君が、圭一が冷たい。なんでこんなに冷たいんだ?死んでいないよね。起きてくれトレーナー君」

 タキオンはそう言って、田上の頬を叩いた。すると、田上の意識が一時的に微かに戻ったようだ。タキオンの声を聴いてこう言った。 

「タキオン?そこにいるのか?」

「ああ、いるとも」

 タキオンは必死になって言った。まるで自分と話していることで田上を現世に繋ぎ止めようとしているかのように。

「よかった…。契約は、…解除はしないよな?」

「そんなこと聞くな!君は今虫の息なんだ。そんなこと気にしている場合じゃない。君の命がかかっているんだぞ!ああ…。ああ!どうしたらいい幸助君?」

 タキオンは何が何だか分からなくなって幸助に聞いた。幸助もまた、混乱しているようだったが、タキオンよりはマシだったようだ。

「きゅ、救急車だ。救急車を呼ばなきゃ」

 その声を聞くと、タキオンも幾らか冷静になった。

「いや、ここに救急車を呼ぶのは無謀だ。雨に打たれ続けながら待つなんてバカのすることだ。家だ!家に呼んでくれ。私が、この子を運ぶ!」

 タキオンはそう言って田上を背負おうとしたが、自分の手がかじかんで上手くいかないようだ。何度も何度も落としそうになって、ようやく幸助が手伝って自分の背に乗せることができた。幸助は、自分が雨に濡れるのも厭わないで、タキオンを手伝った。

 そして、タキオンが背に兄を乗せるのを確認すると言った。

「俺が、救急車を呼ぶから構わず行け!死なせちゃだめだぞ!」

「分かってる!」

 タキオンはそう叫ぶと、田上を背負って走り出した。ヒールを履いていたし、パジャマが水を吸い込んで重たかったし、何より田上を運んでいるからいつもの様なスピードをタキオンは出せなかった。それでも、足の回る限り、できるだけ速く走った。その様は、まるで小説の中の主人公のようだった。

 タキオンは、田上に懸命に話しかけながら走り続けた。自分が話していないと田上が死んでしまうような気がして恐ろしかった。

「トレーナー君、生きるんだよ」

 タキオンは走りながらそう言った。

「生きていないと何にも成し遂げられない。夢も希望も、生きていないと何もないんだ。死んだらそれまでなんだよ。生きてくれ。自分の生にしがみついてくれ。私だ。私が君の生きる綱だ。私に懸命にしがみついて、生きているってことを実感するんだ。私も冷たいかもしれないが、君よりずっと暖かいだろ?君ときたらまるで死人みたいだ。…いいや、こんなことは言いたくない!生きてくれ!頼む!お願いだ!」

 最後の方は悲鳴のようになったが、田上はその声を聞くと目を覚まし微かに言った。

「タキオン…」

「なんだい!」

「俺は、あんまりいい男じゃなかったけど、お前の支えになれたのかな?」

「なれたさ!十分なってる!これからもだよ!」

 そう言うと、田上が微かに笑う吐息がタキオンの首筋にかかった。それに、「くすぐったい!」とタキオンは叫んだ。また微かに田上が笑った。そして言った。

「あんまり俺にこだわらなくても代わりはいる。俺なんか、バカで甲斐性なしの仕方がない奴だから、お前に飽きられてもしょうがないけど、お前は幸せになってほしい。いつか俺を捨てて、孤独になったとしても、いい男を見つけて健やかに生きてほしい。それが、俺の幸せなんだ」

「生憎だけど、私に結婚の予定は当分ないね!」

 タキオンがそう答えると、田上は口をへの字に曲げたが、タキオンは気が付かなかった。ただ、もうひと踏ん張りスピードを上げるとこう言った。

「私の結婚式に君も招待するんだから、生きるんだ!生きてまた笑うんだ!死ぬなんてしょうもないこと許さないよ!」

 その後もタキオンは田上に一生懸命話しかけながら、自分も足を動かして懸命に家まで走った。そのおかげで、家には案外早く着いた。

 賢助が、驚きながら、タキオンたちを出迎えた。タキオンは、自分の息を精一杯整えながら言った。

「トレーナー君が危ない。風呂場に…だけど、ゆっくりと…」

 そう言いながらも、ふらふらしながら、田上を風呂場まで運んだ。賢助は、終始足手まといだった自分を恨んだ。息子の措置はタキオンが取った。まずはゆっくりとぬるいお湯で田上の体を温めた。タキオンは慎重に慎重に温めながら田上の様子を見ていた。上半身を裸にして、その筋肉のない薄い胸を触りながら、タキオンは泣きそうになったが、ぐっと堪えると、田上をそのまま風呂に入れた。

 そして、ようやく落ち着いたようにタキオンが言った。

「……うん、心臓にショックもいっていないようだ。脈も正常、後はトレーナー君の意識が戻るのを待つだけだ」

 それから、数分後にトレーナーは目を覚ました。ゆっくりと目を開け、まだぼんやりとした様子だったが、タキオンは喜んだ。自分も体を温めるために風呂に入っていたので、トレーナーが目を覚ました時は、喜びのあまり抱きついた。そして、自分が噛んだ痕に気が付いた。それに少しの申し訳なさを感じたから、軽く唇を押し当てて、トレーナーの顔を確認した。ここがどこか、あまり理解していない様子だった。

 その時、ちょうど救急車の音が聞こえて、家の前で止まったのが分かった。幸助はまだ帰ってきていなかった。それからは、タキオンもあまり覚えていない。記憶にあるのは、絶対にトレーナーとは離れたくなかった想いと救急隊員の驚いた顔だけだった。


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