タキオンは、暫く、寝転がっている田上の胸に顔を埋めた後、唐突に「キス」と言って顔をあげると、田上の体を少しよじ登って、唇を触れ合わせた。田上は、――今後、タキオンと触れ合うためには何を意識すれば良いんだろう?と少々の鬱気分になりながら、タキオンのキスを受け入れた。
タキオンは、どうやら田上の心の変化を感じ取っているようだったから、今回のキスは少し長めで、田上を自分の身の傍へ縛り付けておくような物だった。田上も、タキオンがそうしたがっているだろうという事を感じ取っていた。だから、益々タキオンとの関係に一石を投じなければと思って、早くキスを止めたいと願った。
その思いに逆らうように、タキオンはキスを長く続けたが、それも終りを迎えた。タキオンが一度唇を離して、もう一度キスをしようとした時、田上がその間に手をねじ込んだ。タキオンは、瞑っていた目を開いて、彼氏の顔を迷惑そうに睨んだ。田上は、冷静な話し合いがしたかったから、こう言った。
「キス、長くない?」
「長くない」
少々イライラしたようにタキオンは言い、田上の邪魔な手をどけようとしたが、田上は抵抗を見せた。タキオンも本気になれば、田上の手をいとも簡単に退ける事ができたのだが、思いの外抵抗されたので、眉を上げて田上の顔を見つめ直してしまった。
田上は、唇と唇の間に挟んでいた手をそっと外すと、タキオンの頬を落ち着かせるように触りながら言った。
「俺、思ったんだよ」
「なにを?」
タキオンは、イライラとした調子を変えないでそう言った。
「…タキオンがなんでこんなに甘えん坊なのか」
タキオンは、田上の目を見つめたまま、黙っていた。
「あんまり碌な考えは出なかったんだけど、俺、…もっと…こう、…健全に付き合いたい。 キスし過ぎじゃない?」
「…やめろって?」
「やめろって言うわけじゃないけど、…分かるかな?…お前だって、嫌だって言ってただろ?俺を黙らせるキスが。…違う?」
「……でも、今のは黙らせるのじゃなかった」
「…どう思う?」
「どう思う?」
田上の唐突で曖昧な質問に、タキオンはオウム返しで返した。田上も曖昧にしたのには訳があって、その理由は、タキオンの意見と自分の意見が異なっているというのを言い出しづらかったし、それを言ったとしても、タキオンには理解してもらえないような気がしたからだった。田上の言い分としては、――俺が元々この話に触れたいと思っていたことを、お前が感じ取ってキスを始めた、ということだったのだが、それはあまりに感覚的すぎたので、タキオンを説得するには材料が足りなかったのだ。だから、自分で考えさせようと質問したのだが、それには少し曖昧すぎた。
田上は、慎重に言葉を選びながら言った。
「お前は、…本当に黙らせたくなかったのか?」
こう聞くと、タキオンは少しの間考え込んだが、やがて、田上の顔を見るとこう言った。
「そもそも君は、なんでそんな考えに至ったんだい?」
「……多分、お前は怒るんじゃないかと思う」
「理由を言ったら?」
「そう」
「……その言い方ずるくないかい?私が怒る道を塞ごうとしているじゃないか」
「じゃあ、お前を不快にさせると思う」
「…どのくらい不快に?」
「…怒るくらいに」
「その見返りは?」
「見返り?」
「報酬だ。いや、慰謝料だね、私を不快にさせるんだから。 その慰謝料の内容はなんだい?」
「…お菓子?」
「違う」
「…アクセサリー?」
「物を買って私をなだめようとするな」
「……またお弁当を一緒に作る?」
「それもいいが、もっと…面倒臭い私の乙女心を察してみせろよ!」
「ええ?」と田上が困ったような声を出すと、タキオンは少し強めに田上の頬をぐりぐりと指で突いた。
「私のしたいことを考えてみたまえ!何をしてほしいと思う?」
「してほしい?」
田上は、困り果てた顔でそう言った。
「そうだよ。なんだと思う?圭一君の口から言え!」
「んー……、してほしい?」
「そう、圭一君なら簡単にわかるだろ!」
「んー……」と唸りながらも、田上の頭にはある答えが浮かんでいた。その答えは、タキオンがしてほしいことと言ってたから、流れで言えば十中八九キスだろう。キスがほしいというのであれば、いかにもタキオンらしいやり方ではあるが、本末転倒であるような気がするし、そもそも、違ってたらただ自分が恥ずかしいだけということになって、あんまり言い出しづらかった。それでも、タキオンは、執拗にぐりぐりと田上の頬を抉ろうとしてくれるので、田上は、渋々「キス…?」と頼り無げな声で言った。タキオンは、田上が自分の乙女心を分かってくれていたというのに、しかめっ面をして「正解」と言った。それから、数秒田上と見つめ合った後に、唐突にキスをしようとしたから、田上は慌ててその間に手をねじ込んだ。しかし、今回は、タキオンに「一回だけ」と言われると、一度無理矢理キスをされた。――どうしようもねぇ、と思いながら、田上はそのキスを受け入れたが、タキオンが口を離してくれると、少し嗜めるようなしかめっ面を作りながら言った。
「タキオン、今のキスは良くないだろ?」
「一回だけだった」とタキオンは、田上から目を逸らしながら言った。その様子から、少しの後ろめたさがあったのだろうと、田上は察したが、しかめっ面は変えないで言葉を続けた。
「その一回はどうだった?俺に無理やりしただろ?」
「圭一君だって嬉しいんだろ?」
「嬉しくない」
田上は、ここでタキオンを甘やかしたらいけないと思って、きっぱりとそう言った。途端に、タキオンも田上の顔を睨み始めた。だからと言って、田上から離れるようなことはしなかったが、それでも二人の視線の間には微かに火花が散っていた。
「本当に嬉しくないのかい?」
「嬉しくない。特に、無理矢理されるようなキスは嬉しくない」
「……キスは嬉しいんだろ?」
タキオンは、なんとか自分が有利に話を運べる方に持っていきたくて、そう聞き返した。しかし、田上は依然として「無理矢理されるのは嬉しくない」と繰り返した。
「じゃあ、キスは嬉しくないってことでいいんだね?」
「無理矢理されるのは嬉しくない」
「じゃあ、キスは嬉しいんだね?」
「無理矢理は嫌だ」
「嬉しいか嬉しくないかで答えてくれ」
「無理矢理は嬉しくない」
「…じゃあ、キスだ。無理矢理じゃないキスは嬉しいだろ?」
「無理矢理は嬉しくない」
田上がこうも強情でいると、タキオンも少し泣きそうになってきた。
「無理矢理じゃないキス。それで考えてみてくれよ。嬉しいだろ?」
「無理矢理は嬉しくない」
「意地悪しないで…」
タキオンをそこまで弱らせると、田上も少しだけしかめっ面を申し訳無さそうに和らげた顔で言った。
「無理矢理のキスも意地悪なんじゃないのか?」
「…」
「…俺は、もっとお前と話したい。一々キスで中断されると話ができない」
「…」
タキオンが黙ったまま田上の胸に顔伏せたままで居ると、田上も元気づけてやるように頭を撫でて、ついでに、少し柔らかくて肌触りの良いウマ耳を触った。途端に、タキオンがピクリと身動きして、ゆっくりと顔をあげると、笑いを我慢している顔をしながら「耳を触るのはやめてくれ…」と田上に頼んだ。田上は、顔に微笑を浮かべると、「わかった」と言って、耳を指で触るのを止めた。それから、タキオンの頭を撫でながら言った。
「顔を上げてくれないか? お前の顔を見ながら話をしたい…」
すると、タキオンは田上の胸に顔を埋めたまま、こう返した。
「君の顔を見ると、キスしたくなるから駄目だ…」
田上はその答えを聞いて、少し考えたが、無理にタキオンの顔を上げさせても仕様がないだろうと思うと、そのまま言葉を話を続けることにした。
「…で、どこまで話したんだっけ?」
「…私を怒らせたいんじゃなかったのか?」とタキオンのくぐもった声が聞こえてきた。それを聞くと、田上は笑って答えた。
「違うよ。怒らせたくないんだよ。お前、怒ると面倒臭いから」
「…悪かったね、面倒臭い女で」
「面倒臭い女が好きだよ」
そう田上が言うと、タキオンの尻尾がぱたんと跳ねるのが見え、顔がにやけているのであろうことが窺えた。タキオンは、「女ったらしの君も好きだよ」ともう少しで笑いそうな声で返した。
「…タキオンは…、…今までの話忘れたな…。何を話したいんだったかな?」
「私を怒らせることだろ?」
「その内容だよ。…ああ、思い出した。…不快にさせるかもしれないけど、言ってもいい?」
「言ったらキスだよ?」
「それは無し。続けて話をしたい。俺の話の後にキスすると、お前、話を終わらせようとするだろ?」
「…ほんの少しだけ…」
タキオンは、田上の体をギュッと抱きしめて、胸に顔を埋めながら言った。ただ、田上も簡単には譲れなかった。
「ほんの少しって言ってもね、…お前が、もっと長くキスをしたくなったら、俺は抵抗できないんだよ」
「嬉しいんだ…」
タキオンがからかうように言ったが、田上は顔をしかめると「無理矢理は嬉しくないよ?」と返した。そこで、再びあの時の様になりたくないタキオンだったから、「分かったよ。無理矢理にはしない。…なんなら、君が引き剥がしてくれ」と返した。
「じゃあ、俺が話したら、ほんの少しだけキスをして、また話の続きをしよう」
「わかった。…三秒ね。三秒キスをしよう。それから話す」
「じゃあ、まず、お前が嫌なことを言うけど、…お前、……まだまだ子供の心がぬけきっていないな…って」
案の定、タキオンは嫌そうな顔をして、田上を見つめた。それから、こう言った。
「それで終わりかい?」
「いや、…もう少し。…お前がね、…抱き着いてきたり、…キスを求めてきたりするのを見ると、…そう思うんだよ」
「それで終わりだね?」とタキオンは、益々嫌そうな顔をしながら言った。
「終わり」
田上がそう言うと、タキオンは嫌そうな顔をしたまま顔を近づけてきて、田上とキスをした。
一……二……三……。
二人の脳内で数が数えられたが、ここに来て、タキオンは田上とのキスをやめようとはしなかった。田上もそれを予期していたのか、タキオンが三を過ぎても一向にキスをやめようという気配を見せないと、思わず笑い出しそうになってしまった。それから、田上がタキオンの方を持ち上げて引き離しにかかると、全力で抵抗はしないまでもギリギリまで田上とキスをしていようと、少しの間、体を固くさせて田上の唇に追いすがった。それを、田上は笑いながら引き離し、田上に体を持ち上げられたまま苛立ちと悲しみが入り混じった顔をしているタキオンに言った。
「お前、三秒経ったらキスを止めるって言っただろ?」
「…もっとしたくなった…。良いだろ?」
「良くない。約束しただろ?」
田上がそう言うと、タキオンは目を逸らしたまま何も言わなかった。なので、田上はタキオンを自分の胸の上に下ろし、話を戻してこう言った。
「そういう所が子供っぽいぞ」
「子供みたいな彼女も嫌いじゃないだろ?」
これは、中々返答に難しい質問が投げかけられてきたので、田上は、一瞬どう答えようか迷ったが、あまり間は空けずにこう返した。
「俺は、大人になった彼女と付き合いたい」
「なぜだい?子供っぽい所も魅力の一つだろ?」
「魅力かどうかは人それぞれだけど、タキオンは、子供のままだと俺を愛してくれないだろ?」
「愛?」
タキオンが怪訝な顔をして聞いた。
「愛。 俺はタキオンに愛してほしい」
「愛していないかい?」
「タキオンが俺を愛したいのは分かる。でも、…どう思う?タキオンはどう考える?今の質問を」
「……愛してないと言いたいんだろう?」
タキオンは、少々疲れた顔でそう言った。田上は、また答えに迷って目を逸らしたが、ここで逃げてはいけないと思って、ゆっくりと頷くとこう言った。
「お前が、俺を愛せないって前に泣いたことがあっただろ?それの意味を考えてたんだけど、…やっぱり、お前の心の子供の部分がそうさせてるんじゃないかと思ってね…。いや、でも、お前が俺を愛したいのも分かるし、その心が愛だと思う。ただね、…どう言えばいいかな?……愛情の表現と言うか…、束縛の仕方と言うか…、俺を縛ろうという心がどこかで働いているよね。 勿論、俺はお前の事は嫌いじゃない。これからもずっと、恋人同士で居たい。ゆくゆくは結婚したい。…ただ、この束縛は少し考えておくべきものじゃないか?」
「君だって、考えるべきことはあるじゃないか」
「そりゃあ、あるさ。似た者夫婦って言うだろ?俺たちは似てるんだよ」
そう言う田上を、タキオンはじっと睨むようにして見つめていた。
「俺は、お前と似てるってことが嬉しいけど、お前は嬉しくないのか?」
「…嬉しいよ?」
「じゃあ、似た者夫婦ってことでいいだろ?」
「…いい…が、…なら、これからどうするつもりだい?彼女の欠点をこれでもかとばかりに並べて、それを全て改善しろって言うのかい?」
「そんなに怒んないでほしいんだけどね。ただ、ね。束縛のことは前から言ってただろ?この話自体もそんなに目新しい話でもないんだけどさ、ただ、…タキオンもあんまりこの事について考えてなかっただろ?」
タキオンは、無言のまま田上を見つめ続けた。
「…考えてたら、この話もそんなに意味はないんだけど、…今一度考える機会じゃないか?」
「…考えて、君と手を繋げなくなったらどうするんだい?」
「それはどういう状況?」
「……私は、圭一君に甘えていたい…」
「…それは、…甘えたいってこと?」
タキオンは、田上に分かるくらいに微かに頷いた。
「甘えたい…って言っても、…そうか、…お前現状維持の思想があるからな」
「…別に、そんなことはない。…私にだって探求の意欲はある」
「でも、理想郷とか二人だけの世界とか永遠とか言ったりするだろ? だから、お前は、俺と二人だけの永遠の世界を作りたいわけだ。永遠に変わらない世界。結婚もしたくないんじゃないか?永遠にこのままで居たいはずだ。永遠にこのまま話していたいはずだ。もしかしたら、ずっとこの家に居たくなるかもしれない」
この言葉がタキオンの胸に刺さって苦しくなり、タキオンは、悲しそうな目つきで田上を見たが、田上はその目をしっかりと見つめ返すだけだった。
「何回も言ってるけど、永遠って脆いぞ。俺だってあの頃に帰りたいから、気持ちは分かる。でも、その脆さも分かる。お前だって分かってるけど、目を背けているだけだと思う。 授業に出なくなったのも、多分、永遠を擬似的なものでもいいから作りたかったんだろうと思う。特に変わりのない一日をトレーナー室でずっと過ごすのは、お前にとっては価値があるはずだ。 けど、本当にそれでいいのか?俺に甘えたままでいいのか?…こんな事言えた柄じゃないんだけどね。同じ悩みを持つ似た者夫婦である以上、言わないといけないと思う。 気をしっかりと保て。甘い誘惑に惹かれていくな。俺のキスは安くはないぞ」
田上は、最後にタキオンが和んでくれないかと、冗談めかした言葉を入れた。言葉自体も本心の一つではあったが、タキオンがもう少し明るくなってほしいとの気持ちの方が強かった。それが功を奏して、タキオンは、少しだけ表情を和らげてくれた。
「圭一君のキスは安くないのかい?」と力のない声で聞いてきた。だから、田上はこう返した。
「ああ、ただでキスして逃げるなんて許さないからな。一生責任を取って貰わないと」
「ああ、思ったより安くて助かった」とタキオンは、また少し表情を和らげて、口の端にニコリと笑みを浮かべた。
「私の一生くらいだったら、君に捧げられる」
「その為には、永遠から抜け出さないといけないよ。抜け出すのは結構大変だよ?」
「その時には、君も取り立ての為に私に協力してくれないかな?」
「それは、言われなくてもする。ただ、それは、先の話じゃないよ?今からずっと考え続けないと。今から一緒にずっと考えないと。永遠から抜け出すっていうのはそういうことだぞ?」
「……でも、…恐怖はあるだろ?」
「恐怖?」
「圭一君も言ってた。――折り返し地点をすぎれば後は死ぬだけ、って。永遠に君と一緒に居たい。ずっとずっと死なないで、圭一君と一緒に過ごしたい」
「…気持ちは分かる。…気持ちは分かる。…でも、今はそれを想像してもどうしようもないとも思う。それよりも想像すべきことはあるだろ?結婚生活とかこれからのデートとか」
「楽しみなことだけ考えて生きれたら、私達はこうやって話してないだろ?」
「そりゃあ、そうだ。…けど、それこそ、それだけ考えていたら、虚しくなるだけだろ?」
「君だって怖いんだろ?」
「そりゃあね、居れるんだったらずっとお前と一緒に居たいよ。…居たいけどねぇ。…人の一生って儚いから…」
「圭一君と一緒にいるのに、私は、百年や二百年じゃ足りない」
「俺もそうだと思う。死んでも離れたくない。…でも、永遠なんてものに人間は閉じこもることがそもそもできないからね…」
「…カフェは、幽霊がいるって言ってた。死後の人や思いの塊が。そんなものになって巡り合うことができないだろうか?」
「そりゃあ、俺もなんか不思議なことに出会ったからあんまり否定はできないけどね。……それでも、そう上手くは行かない気がするなぁ…」
「なぜだい?」
「…カフェさんは、あれを悪意と呼んでいた。お友達のトゥルースさんが言っていたから。トゥルースさんってのもどうも、…何かを隠してるって言っていただろ?隠す…。なんで、カフェさんに自分の本当の名前を隠していると思う? トゥルースさんは、カフェさんのご先祖だったりしないのかな?」
「知らないよ、そんな事」
タキオンは、そう言うと、田上を見つめるのをやめ、また田上の胸に顔を埋めだした。そのタキオンの頭を撫でながら、田上も天井の片隅を見つめながら言った。
「魂って物がどうなってるのか知らないんだけどね。そう単純でも無いと思うんだよ。もしかしたら、俺だけ地獄に堕ちてるかもしれない」
「そんなことはない。圭一君以上にいい人はいないんだから、地獄に堕ちるはずがない」
「それは、言ってもらえて嬉しいけどさ、…世の中そう上手くも行かないから、俺も老人になって、死ぬ寸前になって運転をしてて、運転中になにか発作とか起こして、人を轢いて殺してみてごらんよ。それだけでもう俺の心は救われないよ」
「なら、老人になった時には免許を返納すればいい」
「それができたら苦労はしないけど、もし、早死にだった場合はどうなる?生活習慣が悪くて、心臓に疾患を抱えていたら?」
「…早死になんてしないで…。せめて、百まで生きてくれ。そうじゃないと、私の身が持たない…」
「百まで健康に生きれたら、それはもう万々歳なんだろうけど、認知症とかになって、お前の顔を忘れたくはないなぁ」
「そんな想像しないでくれ…。目の前に彼女が居るんだぞ…」
「…まぁ、…難しい話だよ。…死への恐怖を和らげるために宗教があるんだろうけどな…。そんなもの頼って暮らしてないから、…どうすればいいんだろう…」
田上はそう呟きながらタキオンの頭を撫で続けた。そして、つむじの所を無意識にぐりぐりと触られると、タキオンは少し口の端をなんとも言えないように歪めながら、田上に話しかけた。
「また、あの公園に行こう?あっちの方が、話していて心地が良い」
田上は、顔上げて自分を見てきているタキオンと目を合わせて、暫くタキオンの言葉を何も理解していないような表情でその顔を見ると、やがて、「ああ」と頷いた。実の所、田上の心は、タキオンの言葉によって揺れていた。死ぬという恐怖が、また真に迫って感じられるようになった。彼女と触れ合う時間が、いつか終わりを迎えるという事が虚しくて虚しくてたまらなかった。そこで、あの公園に戻ってしまうと、もう考えることを止めてしまうのではないかと思った。しかし、田上もタキオンと同様に、あそこで話したほうが心地が良いと思った。
二人は、最後に目一杯抱き締め合うと、畳の間を後にした。
畳の間から出ると、リビングには桜花が居なかった。それで、母に桜花の所在を聞いてみると、「お昼からも公園で遊ぶらしいわよ」と答えた。タキオンと田上は顔を見合わせた。そして、二人共お互いの目から、桜花が居る公園に行くのを躊躇っているらしいということが感じられた。
父は、ソファーで横になって寝ていた。そして、一つ屁をしたので、タキオンが嫌そうな顔をして、母に「この父親を掃除しておいてくれ」と言った。田上は、少し笑い出しそうになった。
とりあえず、二人は、どこへ行くかを決めないまま外に出た。家で話をしても父と母に聞かれる可能性があるからだ。今の二人の精神は、非常に面倒な話し合いをして疲れ切っていたため、なにか嫌なことは避けたい気分であったし、口数も少なくなっていた。だから、これもまた、とりあえず、あの児童公園まで行くことにして、それから、次のことを考えることにした。
児童公園まで行ったが、桜花が、再び、午前中と同じ姿のままで遊び回っているのを見ると、二人の気持ちは萎えていった。それで、タキオンは「もっと静かな場所がいい」と言うと、もっと駅の近くの方にある寂れた公園を目指した。
しかし、その公園にもゲートボールをしている老人たちが居た。ただ、あの児童公園よりかはマシなくらいに人が居なかったので、田上たちは、仕方なくそこの端にある木陰に埋もれそうな石のベンチに座った。
二人は、暫く何も話さないでゲートボールをしている老人たちを見ていた。若者の自分たちとは、正反対に時折可笑しそうに笑い声を上げていた。見た所、全員七十を超えた年齢といった所だろうか?――もう先も長くないのに、どうしてあんなに笑えるんだろう?と田上はぼんやりとしながら思った。寿命は、あと十年かそこいらだろう。一年一年と迫ってくる自分の寿命に恐怖したりはしないのだろうか?残して逝ってしまうかもしれない、旦那や妻、子供や孫に名残惜しさは持たないのだろうか? 田上は、タキオンの事を放したくないと思って、座りながら繋いでいる手に無意識に力を込めた。すると、タキオンは、田上の膝に頭を乗っけて、ベンチの上に寝転がった。ただ、相変わらず、ゲートボールをしている老人を見つめたまま、二人は話さなかった。
老人たちは、非常に穏やかにゲートボールを楽しんでいた。児童公園で遊んでいる子どもたちのようにではないが、体力さえあれば、そのように楽しんでいた雰囲気が感じられる。お婆ちゃんがハハハとしわがれた声で笑ったり、誰かが何か良い事をしたのに合わせて、パチパチと拍手したりするのが、木陰で憂鬱そうに座っている田上たちに聞こえてきた。タキオンは、老人たちを見つめながら夢想していた。――老人になった時に、圭一君とあんな風に笑い合えているのだろうか?――圭一君は早死していないだろうか?
田上は、先程の事をぼんやりと考えながら、タキオンの髪を触って、顎を触って、首筋に触れた。タキオンは、首筋に田上の手が来た時、少々嫌そうに頭を持ち上げたが、それは途中でやめて、田上に自分の首筋を触らせ続けた。田上の手が触れる箇所は、くすぐったく、時に痒くもあった。しかし、タキオンにはそれがなんだか心地良かった。確かに、くすぐったくてたまらないのだが、それを生み出しているのが田上だということで我慢をしてみると、田上に触れられている箇所が鮮明に感じられて、それがなんだか心地よかった。
不快さを生み出しているのは田上だったが、それがむしろ気持ちよさを掻き立てていた。田上に不快にされているけれども、こうして我慢をすることで、田上との繋がりが、よりタキオンの方へ向かって伸びる。そんな感覚を持って、タキオンはこそばゆさを受け入れていた。
田上は、尚もぼーっとしながら、タキオンの首筋を指先でカリカリと触っていた。タキオンが、触ってほしいところを変えるように、首の向きを少し変えると、田上もそれに合わせてカリカリと触ってやったが、ほとんど無意識でやっているものだった。自分がタキオンの首を触っていることでさえ、ぼんやりとしか認識していなかった。
深い木陰を作っているその木は、田上のほとんど頭上に枝を広げて、前へ前へと葉をせり出していた。その木陰の下には、手入れのされていない五月の雑草が、盛りをつけようとし始めていた。田上の足首にその草がチクチクと刺さっている。不意にその感覚に気がついて、足を掻こうと手を伸ばしたのだが、そこでタキオンが邪魔なことに気がついた。無理にどけるわけにもいかないが、だからと言って、この痒みは消えそうになかった。すると、今まで老人たちの方を見ていたタキオンが、田上の方を向いて、甘えた声で言った。
「もっと首を撫でてくれ」
田上は、タキオンの言葉の処理を脳内で追いつかせようとしながら、その言葉の意味を考え、足の痒みに耐えていた。それでも、脳の処理が追いつかなかったので、暫くの沈黙の後に、田上は「え?」と聞き返した。それで、ようやく頭がはっきりとしたような気がした。
「首を撫でて」
タキオンは、首がもっと露わになるように傾けてみせながらそう言った。田上は、勿論良い顔はしなかった。特に、キスほどの躊躇う理由がある訳では無いが、こうタキオンが甘えた声を出してくると、田上も反射的に眉を寄せざるを得なかった。その田上の表情を見ると、タキオンも少し気分を害したようで、田上と同じように眉を寄せながら言った。
「撫でて」
田上に躊躇う理由などなかったが、どうも、タキオンの首を指先で触ってやる気にはなれなかった。タキオンに意地悪をしたいからではない。タキオンを怒らせたいわけでもない。怒らせるくらいなら、首を撫でてやったほうがいいと思うのだが、田上の気は進まなかった。それでも、タキオンが半ば無理矢理に田上の手を自分の首元へ持ってくると、田上もその首を掻いてやった。しかし、その顔は少しだけ悲しそうにタキオンの顔を見つめることになった。タキオンも田上の顔を見ると、その言いたいことが分かって、後味の悪さに苦い顔をした。それから、小さな声で「ごめん」と謝った。ただ、田上は、こう返した。
「別に、謝らなくてもいいよ…」
「…無理矢理は嫌だって言ってただろ?」
「言ってた。…でも、謝るほどのことじゃないよ」
「じゃあ、…その顔はなんだい?」
「顔…?」
「顔。…なんでそんな顔で私を見るんだい?」
タキオンがそう聞くと、田上は少し迷った後に言った。
「………まだまだ子供だなぁ、って…」
すると、タキオンはまた後味の悪さを噛みしめた。田上が、自分を哀れんでいるのが分かる。彼女としてではなく、一人の生徒として自分を見てきている。
それが、タキオンにはたまらなく嫌なことだった。――もっと自分を見てほしい。――もっと女として感じてほしい。――君の彼女は私だ。
その思いの濁流が、タキオンの体を遥か遠くへ運ぼうとして、タキオンは顔を悲しげに歪ませた。
「子供な彼女は嫌いかい?」
「嫌いじゃないよ…」
「じゃあ、…なんでそんな事を口にするんだい?」
「…子供…みたいに思う節もあるからだね…」
田上の心は、心労によって軋むような音を立てていたが、その言葉を言いきった。そして、また、タキオンは一段と悲しげな表情を見せた。
「…なら、…子供の私は君の彼女じゃないと?」
「そんな事は言いたくない…」
「じゃあ、私は君の彼女じゃないんだね?」
「そうじゃない。……ただ…」
「子供っぽいのが嫌いだったら、はっきりとそう言いたまえ…」
「違う。それは違う。…ただ、お前とのこれからを考えると、…物凄く疲れそうだな…って思うんだよ」
「…じゃあ、…何が言いたいんだい?」
「俺はお前が嫌いになってたりはしない。ただ、本当に、俺の事を考えてくれるんだったら、もう少し落ち着いてくれないかな……って思う。…そして、それが簡単に行かないことも分かっているから、疲れそうだなって思ったんだよ」
田上にそう言われると、タキオンは何も反論できなくなって、その視線を田上からそっと外した。そして、老人たちの方を見ると、相変わらず、楽しそうにゲートボールをしていた。