憂鬱の気分も高まって、田上は、先程の言葉をタキオンに伝えたのが正解だったのかどうか、ずっと考え続けていた。ただ、打ち明けられた事によって、田上の気がいくらか楽になる事にはなった。しかし、それでタキオンが何も話さずに、物思いに耽ってしまったので、正解だったのかは分からなかった。
老人たちの動きに変化はなかった。ただただ、のんびりとゆっくりと自分たちのペースに合わせながら、ゲートボールを楽しんでいる。それが、この老人たちが編み出した技なのだろう。長い事生きて、衰えてきた体を労るために、自分というものを大事にするようになってきた。そして、先が長くないことも本人たちは分かっているだろうから、その自分のペースのままに、老人たちは物事を考えているのかもしれない。
そう考えはしたものの、田上はそれを自分たちにどう活用すればいいのか分からなかった。――自分たちは生き急いでいるのだろうか?田上にはそのことすらも分からなかった。ゆとりをもって生きれるのならば、そうしたかったのだが、生憎、今の精神状態は、ゆとりとは程遠かった。
――考えないことが精神のゆとりに繋がるのだろうか?
ただ、こういう事が簡単に言えても、「考えない」ということを実行に移すのは少し難しいもののように思えた。タキオンも以前に「考えなくていい」ということを言っていたような気がするが、現にタキオンはこうして物思いに耽っている。尤も、このような状態にさせたのは田上のせいかもしれなかった。
そう考えると、田上は、タキオンの頭をそっと撫でて「タキオン」と静かに呼びかけた。タキオンは、初め何の反応も見せないかに思えたが、次第に体をモゾモゾと動かし始めると、田上の方をゆっくりと見上げた。
「なんだい?」
「やっぱり、さっきの言葉は言いすぎだった。…そのままでいいよ」
「…何の気の変わりだい?」
「…あんまり、お前を追い詰めてもしょうがないと思い直した。ごめん。もう少し俺の膝の上で気楽にゆっくりしててもいいよ…」
「そうやって、甘やかしても進展はないだろ?」
タキオンが、怪訝そうな顔をして聞いた。
「それは、…まぁ、そうかもしれない。…だから、難しい…。見て見ぬフリもできないだろ?…どうすればいい?」
「私にも分からない」とタキオンは、難しそうな顔をしたまま、田上から目をそらして言った。そして、その目はまた何も変わらない老人たちに注がれた。
日の照っているゴールデンウィークの午後。老人たちには、少し暑いだろう。所々に、水分補給をしている老人たちが見受けられた。すると、田上も水が欲しくなってきた。ただ、この公園に水飲み場はない。水がないとなると、田上もあんまりここに居てもしょうがないような気がしてきた。だから、タキオンにこの事を告げた。それを聞くと、タキオンも、「うん」と頷いて立ち上がった。
二人は、家に水を飲みに戻るつもりだった。暑さを帯びてきた日光が、家に戻る二人の背中にあたった。繋いでいる手には、汗が滲んでいたが、タキオンは決して放さなかった。田上が、自分の手汗を拭きたいと言っても、タキオンは絶対に放さなかった。それで、田上が仕方なさそうに笑うと、タキオンもそれに合わせてふふふと微笑んだ。
手に滲んだ汗が、心地良いのか良くないのか分からない、昼下がりのコンクリートの上だった。
家に戻って、二人は喉を潤すと、明かりの点けていない静かなリビングを通って、また外に戻っていった。母は、出ていったときとは違って、床に毛布を敷いて寝転がっていた。タキオンたちが戻ってくると顔を上げたが、何も言うことはしなかった。父は、出ていったときと変わらずに、ソファーの上に寝ていた。タキオンは、朝の時に自分に恥をかかせてくれた仕返しと思って、父の尻を軽く叩いてから、そこを通っていった。
外に出ると、前に出ていったときより、二人の心はいくらか軽くなっていたので、春の陽気がとても心地よく感じられた。それで、タキオンが言った。
「児童公園にでも行って、遊ばないかい?」
「何して?」
田上がそう言うと、タキオンは少し考えて言った。
「確か、サッカーボールがこの家にあったはずだ」
それから、タキオンはまた家に戻って、玄関でサッカーボールを探し始めた。サッカーボールはすぐそこにあったので、タキオンは、それほど長いこと探さずに、すぐにボールを抱えて戻ってきた。そして、ついでに、もう一個、片手で投げやすいくらいのボールも持ってきて、「はい、これは君が持っていて」と言って、田上に手渡してきた。
「こういう落ち込んでしまった時には、運動をするのが一番だ。それに、彼氏と楽しく遊ぶんだったら尚の事良い」
タキオンは、まだ先程の事を少し引きずっているようだったが、できるだけ平然としてそれを言った。田上も同意見だったので、「そうだね」と頷くと、タキオンとボールを持っていない方の手で手を繋いだ。タキオンは、田上を愛おしそうに見た後こう言った。
「中々、…圭一君のような彼氏もいないね…」
「俺?」
「そう、圭一君。 圭一君みたいに彼女の事を考えてくれている人もそうそう居ないよ」
「…振り回してるかもしれないけどね…」
「いや、…やっぱり、私の事を心底から考えてくれている。幸せにしたいと思ってくれている。これだけで彼女がどんなにありがたいと思うか、圭一君には分かるかな?」
そう聞くと、田上は、タキオンの目を暫く見つめながら、家の敷地の外の方へと出た。それから、タキオンに向かってこう言った。
「それを言ったら、こんなに彼氏の事を考えてくれている彼女も、タキオン以外には見かけないね」
すると、タキオンは少し目を伏せて、自分の足元を見つめながら田上の隣を歩いた。
「……愛せないって、言ったからなぁ…」
「愛そうとしてくれていることは分かるよ。そして、それが愛ってことも。ただ、お前の中にあるなにかが、それを邪魔しようとしてるんだろ?」
タキオンは、田上にそう言われると、その顔を見つめた。それから、少し口元を強張らせながら目を逸らして言った。
「駄目だ…、圭一君の顔を見てるとキスをしたくなる…」
「なんでそんなにキスがしたいの?」
「……彼女の証…だろうか?…」
「…彼女…。付き合い始めの頃は、したがるのは分かる。それこそ、彼女の証みたいなのが嬉しいんだろう。…でも、お前、少しキスし過ぎだもんな。まだ、…付き合って一ヶ月とかだったら、キスをしてないカップルも居るだろうし、やっても、…まだ数回とかそのくらいじゃないか?」
「…まぁ、キスにあまり抵抗のない人だったら、私達と同じように何回もやっているだろうが…」
ここまで言うと、田上が口を挟んだ。
「タキオンはキスに抵抗はないの?」
「…ある」
「でも、本当に、まだ付き合ってない時、付き合うきっかけになったのはお前のキスだろ?」
「それは、…圭一君が、――俺以外に大切な人を作らないでほしい、みたいな事を言ったからだろ?だから、そのとき君を好きだった私は、それを好機だと思って、君にキスしたんだよ」
「でも、言葉で伝えれば良くなかったか?キスした直後も、何も言わないで微妙な雰囲気だっただろ?」
「まぁ、私の体が勝手に動いたんだよ。もうあの時は、私の心と圭一君の心が触れ合っていた。だから、私もキスをしても問題ないと思っていた。私を愛してくれるだろうと思った。…圭一君だって、私に依存していた。だから、付き合うにはあそこしかなかっただろ?」
「…まぁ、…あれが正解だったとも不正解だったとも言えないな。…何の話だ?」
「私がキスをし過ぎだって話」
「初っ端からキスだったからなぁ…」
「もう、その話はやめてくれよ。体が勝手に動いたんだよ。これ以上の説明の仕様がない」
「ごめん。 じゃあ、お前は、…俺の顔を見るとキスをしたくなるんだろ?」
「圭一君の顔を見ないのは嫌だよ」
「そうじゃない。…ただ、…ただ、…ねぇ。…キスしたがりなのは、……なんの影響か…」
「…私は、…今でも圭一君とキスをしたいけどね…」
タキオンは、少し主張するように言ったが、田上はその響きに気が付かずに、考え込みながらこう返した。
「キス…したいんだよね、…いつでも…」
「いつでも」
タキオンが田上の言葉を繰り返すと、また主張するように、田上の手を少しだけ強く握ったが、田上はこれにも気が付かずに考えていた。
「恥ずかしさもなく、人の目の前でお前はキスをできるからな…。…それでいて、キスには抵抗があるんだろ?」
「…知らない人や交流が薄い誰それに、キスをするのは嫌だってことだよ」
「それじゃあ、抵抗がないのと一緒だ」
田上は苦笑しながら言った。
「なら、圭一君はどうなんだい?私とのキスに抵抗があるかい?」
「…まぁ、初めはあったけどね…」
「なら、初め以外は私と同じだ。君だってキスが好きだ」
「そりゃ、嫌いとは言っていない。…お前とのキスは好きだけど、どこそこではしたくない。そこが違う」
「私はしたいのに」とタキオンは、唇を尖らせて言った。
「それは、俺の恥ずかしさだって分かってくれ。俺は、本当に恥ずかしいんだよ。それを、お前は強引にしてきているんだからな?」
「ちゅーしたい」と唐突にタキオンが求めてきた。田上はこれに顔をしかめたが、チラチラと視線を左右に動かして、辺りに人が居ないことを確認すると、タキオンのほっぺに一瞬キスをしてやった。タキオンは、これが嬉しくないわけではなかった。元々断ってくるものだろうと思って、駄々をこねたのだったが、予想外に田上がほっぺにキスをしてくれて嬉しかった。ただ、やっぱり、自分の理想としては、今この場で唇にキスをしてほしかったので、少しの嬉しさに口元を笑みに歪ませながらも、タキオンはしかめっ面を作って言った。
「ほっぺじゃ駄目」
「このくらいで我慢しろ。今のをやるのだって嫌だったんだぞ」
「私だって嫌だ」
「…俺を困らせたくてやってるんだろ?」
田上が、困り顔半分、迷惑顔半分といった調子の顔でそう聞いてきた。それで、タキオンも少し動揺したが、今更それを認めるわけにも行かないので、無言で首を横に振ると「違う」と言った。
「圭一君とキスをしたいから」
「俺とキスをしたいって言っても、……なんでそうなるんだ?何か別の理由があるだろ?何かをしたいと思うからには、その行動の裏になにかあるんだろ?」
「…君とキスをしたいと思っちゃ駄目かい?」
タキオンがそう言うと、田上は真剣な顔でタキオンの顔をじっと見つめた。そうすると、タキオンも目を合わせづらくなってそっと逸らした。
「…駄目とは言ってない。…ただ、今までした話を全部無視して、自分の意見を押し通そうとするのはお前の駄目なところだぞ」
こう言われると、タキオンは、苦々しげな顔をして、地面を見つめた。隣では、タキオンに重い言葉を投げかけつつも、一緒に手を繋いでくれている田上の歩いている足が見える。その足と自分の足を交互に見て、目を瞑って深呼吸をした後にタキオンは気を取り直して言った。
「こんなに真面目に話をしようとしちゃ駄目だ。二人共言葉がきつくなってしまう。もっと、…私も君の事を労るから、圭一君も私の事を労って話をしよう?じゃないと、圭一君のパンチが重すぎて、私がダウンしてしまいそうだ」
田上は、複雑そうな顔をして微笑んだ後、ゆっくりと頷いた。
タキオンは、公園に入ると、一目散に走り出して、サッカーボールを足元で蹴り転がし始めた。
「私を捕まえてみろ~」と楽しそうにいいながら、走り出した彼女を見ると、そのはしゃぎ方に田上は微笑んだ。――子供っぽいと言っても、こういう子供らしさはタキオンの取り柄だ。そう思いながら、田上は嬉しそうに微笑して、タキオンの後を追いかけ始めた。
タキオンは、田上に手加減をしてくれた。それでも、中々捉え難かったが、タキオンを追いかけ続けていると、はあはあぜえぜえと良い具合に息が切れて、今まであった息の詰まりが解消したように思えた。息の詰まりとは、要するに、今までの雰囲気の息苦しさのことである。それが、息を切らしながらタキオンを追いかけることで解消された。
タキオンも田上に追いかけられるのが、本当に嬉しかったようだ。笑いを絶やすことなく、常にアハハハと笑いながら、田上にボールを渡さないままで居た。
公園のベンチには、相変わらずカップルが座っていて、目の前の芝生ではしゃいでいるのがかの有名なGⅠウマ娘と、そのトレーナーであることも知らずに、――あそこの若い夫婦かカップルは仲がいいなぁ、と思っていた。タキオンたちは、それ程に一緒になって、一体になって、はしゃぎながら公園の芝生を縦横無尽に駆け回り続けていた。
そして、田上がもう駄目だと芝生の上に寝転がった時に、タキオンも一緒に息を切らしながら田上の隣に寝転がった。タキオンは、ウマ娘であるので、男の田上との遊びなどで体力を切らすはずもなかったが、今回ばかりは、あまりにも笑いすぎて息を切らしてしまった。そして、寝転がりながら、田上と一緒に、また、ふふふふと笑い始めた。田上もこんなに笑ったのは何年ぶりなんだろうというくらい全力で笑ったので、今、脳内は笑いの幸せで満たされていた。そして、寝転がったまま、手を繋いでいる自分たちの手を持ち上げると、そのタキオンの手に軽くキスをしてやった。タキオンは、これまた嬉しそうに笑いながら、はあはあと息を切らしていた。
息を切らしていたと言っても、流石にタキオンはアスリートだった。田上より早く呼吸を落ち着かせたし、そもそも田上程は息を切らしていなかった。田上は、もう今日の分の体力を使い果たすくらいに、タキオンのサッカーボールを捕らえようと動いていた。そして、今は、体力を使い果たして、タキオンが立ち上がってもまだ息は整っていなかった。
タキオンは、立ち上がるとニコニコと笑いながら、息を切らしている田上の顔を覗き込んだ。それから、ニヤリと笑うとこう言った。
「今なら、圭一君も抵抗できないだろうから、いくらでもキスができるね」
「バカ言え…。……、ウマ娘なんだから、初めから抵抗しても意味がないよ」
「いやぁ、私だって、君に抵抗されるとあんまり嫌だよ。無理矢理はそんなに好きじゃない」
『無理矢理』という単語に二人は反応して、暫く見つめ合ったまま黙ったが、やがて、タキオンがまた口を開いた。
「一回だけキスしてみてもいい?ちょっとだけだから」
「……駄目だよ」
田上は、多少悪くなさそうな雰囲気の顔をしながら、そう断った。今の田上であれば、強引にキスしても、なにも嫌がらなさそうな気がした。しかし、タキオンもここでは多くの人に見られるという自覚はあった。やるんなら木陰に行くが、ここは、公園のど真ん中、芝生のど真ん中であり、その周りのベンチの人達はきっと自分たちを見ながら会話しているのだろう。そこで、今まで元気そうに遊んでいたタキオンたちが急にキスを始めたらどうなるだろうか?きっと、苦笑しながらそっと目を逸らすか、タキオンたちに聞こえないように小声で話してバカにするか、そこらへんだろう。タキオンも、自分の衝動が完全にキスの方に向いていないのであれば、そのような事を冷静に考えることができた。だから、今のような田上の攻められてもよさそうな様子を見ても、強引には行かず、「分かったよ」と頷いた。
すると、少し不満そうな…というより、少し驚いたような、と表現したほうが正しいだろう。田上も、強引にキスをされたら…という心が少しだけ見え隠れしていたので、タキオンがそのようにしてくれることを期待していた。そして、その期待が良くも悪くも裏切られたので、そんな顔をしたのだった。今回は、田上の脳みそが息を切らして、考える力を失っていたので、期待していた出来事だった。ただ、タキオンの方は今回はしっかりと考えることができていたので、無闇にそんなことはしなかった。タキオンの「キスしてみてもいい?」は冗談のまま終わった。
田上がようやく起き上がると、タキオンは「キャッチボールをしよう?」と提案したが、それは敢え無く却下された。まだ、立ち上がってボールを投げ合うには体力が足りず、公園の中央辺りにある正方形のベンチに座った。そして、そこのベンチにはタキオンたちの対辺に、桜花たちのグループかは定かではないが、小学校低学年あたりの子が座って、なにやら話をしていた。桜花は、相変わらず、午前の時と同じように、楽しそうに辺りを駆けずり回っていたが、その手が泥にまみれているように見えた。おそらく、砂場で滅茶苦茶に遊んだのではないかと思われる。よくよく見れば、顔にも泥がついていた。そして、砂場で遊んでいたであろう証拠に、この公園の砂場には、大分頑張って作ったであろう砂の山が大きく作られていた。他の子も手が泥で汚れていたので、協力して作ったのだろう。そして、その手で、今は鬼ごっこをしているという訳だった。
桜花のバッグらしきものは、他の子のバッグと共にまとめられて、田上たちの居る正方形のベンチに置かれているのが見えた。その近くに、先程の話をしている子供が座っていたから、それが桜花の友達ではないとすれば盗まれやしないかと、田上は少し心配になった。けれども、そんなものは杞憂でしか無いので、田上は特にどうすることもなく、自分の息が整うのを待った。
タキオンは、まだ遊び足りないようで、田上が息を整えいている間も、落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返していた。そして、遂に座っている田上とキャッチボールを始めようとしだしたので、田上も苦笑すると、大分落ち着いてきた息を、最後に深呼吸して、タキオンと立ち上がってキャッチボールをすることにした。
タキオンと田上はピンク色の小さなボールをぽーんぽーんと放物線を描かせながら、交互に投げあった。タキオンのボールのコントロールは、天性のものなのか見事に田上の手に収まってくれたが、田上のボールは手前へ行ったり奥へ行ったりして、その度にタキオンが動かざるを得なくなってしまったので、少し申し訳なくなった。
それでも、キャッチボールは楽しかった。田上とタキオンは、ボールのキャッチボールと共に、言葉のキャッチボールもする遊びをしていた。
まず初めに、タキオンの方が「圭一君好きー」と言いながら、田上にボールを投げてきた。それで、田上も少し笑うと、「俺もだよー」と周りを気遣ったなるべく小さめの声でタキオンに言葉を返し、ボールも返した。
「いつも落ち着いている所好きだよー」と言って、タキオンはボールを投げた。それに、今度はニヤリと笑うと、田上は返答を考えてから、ボールを投げた。
「元気はつらつな所が好きだよー」
ぽーんとボールは飛んだ。
「真面目に私を好きな所が好きー」
「お前も真面目に好きなの好きだよー」
「君の手と声と顔が好きー」
そこまで来ると、田上も恥ずかしくなって「恥ずかしくないかー」と言いながらタキオンにボールを投げ返した。すると、またこう返ってきた。
「私の好きな所、あと一つ上げてくれよー」
そして、田上もまた苦笑して、仕方なくこう返した。
「お前の人を思いやる心が好きだよー」
そうすると、タキオンも嬉しそうに笑って、またボールを投げ返した。
「君の優しさに何度救われた事か!」
ボールは一際高く舞い上がり、弧を描いてから田上の手に収まった。
「俺だって、お前の優しさに何度も救われた!」
そこで、返ってきたボールを受け取った時、不意に、ベンチに座っている人と田上越しに目が合った。そして、はにかみながら目を逸らすと、田上に話しながらボールを投げた。
「少し声が大きすぎたみたいだね」
タキオンは、その言葉に合わせて、声の音量も少し低めていた。ボールもその声の大きさに合わせて、あまり高く飛ばないで田上の下に届いた。
そして、二人は、まだまだぽーんぽーんとボールを投げあった。今までのように一球一球ごとに言葉も投げかけることはしなかったが、それでも、何か思いついた事があれば、ボールと共に言葉も投げかけた。話の内容は、大体、自分たちのこれからについてだった。そして、それを投げかけるのも大体タキオンだった。田上は、少しぼんやりと曖昧に考えながら、それに返答をした。ただ、タキオンはそれでは満足できなかった。満足できない時は、ストレートなボールが飛んできた。それが、田上の足などに当たると思いの外痛かった。けれども、田上もあんまり答えられるようなものでもなかった。今、この状況が、田上の考えを阻害しているのもあった。飛んでくるボールを掴むのと、投げるのと、考えるのとを並列して処理する能力は、田上に備わっていなかった。それだから、ぼちぼちに考えてタキオンに答えるしかなかった。
二人は、この状況に不満足ながらも、それなりに楽しんで、ボール投げをした。田上が曖昧なら、曖昧なりに楽しむということを、タキオンは心がけた。どっちにしろ、本気の問い掛け合いまでには発展しそうになかった。タキオンの言葉は、今の状況では上手く受け止めきれないからだ。タキオンも、この状況こそが、それに繋がらないと理解していたから、特に田上を責めることもしなかった。ストレートのボールを投げるのも、ほとんど冗談のようなものだった。
ぽーんぽーんとボールは飛んだ。次第に、タキオンも口数が少なくなっていき、ただボールを投げるという行為がつまらなくなってきた。もっと運動的でスリリングなものを味わいたくなってきた。そこで、タキオンは、自分の家にバドミントンのラケットと羽根が合ったことを思い出した。そして、唐突に投げるのを止めると、田上にこう言った。
「私、ちょっとひとっ走り家にバドミントンのラケットをとってくるからさ、バドミントンしないかい?」
「ん?別にいいけど」
「じゃあ、行ってくる」
そう言うと、タキオンは、田上にボールを手渡して、そのまま走って行ってしまった。タキオンがそれなりの速さで走っていく背に「気をつけて走れよ!」と呼びかけると、残された自分は、サッカーボールと小さいボールを二つ持って、正方形のベンチへと座った。
正方形のベンチには先程よりも人が居たが、田上が座れないほどではなかった。どうやら、桜花とわいわいきゃっきゃしてた子どもたちの幾人かが、休憩の為にそこに座っていたようだった。幸い、田上のことには気が付かなかったので、田上は、そのまま大人しくしながら正方形のベンチの前にある、ベンチの屋根よりも一、二メートル高いくらいの木を見つめた。
公園の中央の方に一本の一際高い木が生えている。他の木々は、公園の外の方を囲うように規則正しく並べられているが、この気だけは例外的に中央に置かれていた。そして、その木には、子供がよじ登って遊んでいた。これは、桜花たちより少し年上の小学三年生か四年生の子と、その弟のような小一くらいの男の子が一緒に木に登っていた。それ程高いところまで行こうとしなかったから、田上も注意はしなかったが、それでも、小学生がその木に登っているところを見ると、落ちやしないかと内心冷や冷やしながら見つめていた。すると、弟より少し高いところに登っている兄の方と、田上の目が合った。兄は、ニヤッと笑うと言った。
「おじさん、どう?こんな高いところまで登れる?」
田上は、「おじさん」と呼ばれたことに少しショックを受けながらも、首を横に振ると「俺には無理だなぁ」と少々上ずった声で答えた。そして、今度は、弟のほうが口を開いた。
「あのね、簡単だよ。あそこの一番低い枝に足を引っ掛けて、あそこの出っ張ってる所を掴んで上がる。そして、あっちに手を伸ばして…」と弟は、枝や木の瘤を一つ一つ指さして説明した。それに時々兄が「こっちはこうじゃない?」と言って、弟に「違う」と返されるのを、田上は微笑みながら見つめていた。それから、弟の説明が終わり、「おじさんも登ってみる?」と聞かれると、途端に田上は我に返った。もう、弟の説明が長い上に複雑だったので、話の半分も聞いていなかった。それで、「登る?」と聞かれたのだから、田上は、返答に迷った後にこう言った。
「あー、…俺は、…ちょっと…大人だから登れないかなー」
「え?大人になると登れないの?」
弟の方が、純粋に疑問に思った面持ちでそう聞いてきた。
「いや、…大人になるとね、体が重いもんだから、木の枝が折れちゃったりしたら大変でしょ?」
「へー」と弟は頷いて、「でも、全然大丈夫だよ?」と自分の跨っている木の枝を揺すった。確かに、その枝は太くて、田上が乗ったくらいでは折れそうにはなかったが、登るのは面倒だったため、田上は「でも、俺にはちょっと難しいかな…」と言った。
弟はそれ以上粘ることはしなかった。「へー」と言った次には、「あ、たっちゃんここに変な虫居る!」と叫んだ。たっちゃんと呼ばれた兄は、危なっかしく弟の方を振り返りながら、「どれどれ?」とその木の一点を覗き込んだ。田上は、もう――タキオン、早く帰ってこないかなー、と兄弟から目を離していたところだったのだが、その兄弟から再び呼びかけられた。
「おじさん、この虫の名前知ってるー?」
「え?」
「この虫ー、見に来てよ」
そう言われたから、仕方なく田上は立ち上がるとまたその木の根元に行って、上の方を見上げた。弟の居る場所は、田上より頭一つ高い枝で、兄が、それよりも一本高い所だったので、田上でも十分視認できる距離にあった。それでも、田上はもう少し近くで見たいと思って、若干木によじ登ってへばりつくと、その虫をしげしげと見つめた。だが、初めからその虫の詳細な名前なんて分かるはずがなかった。ノコギリクワガタとオオクワガタの判別さえ曖昧な田上だったから、その虫を見ても「蛾かな…?」という言葉しか出てこなかった。すると、兄のほうがこう聞いてきた。
「おじさん、蛾とちょうちょの違いって何?」
「蛾とちょうちょの違いぃ?」
まるで、そんな事を考えるのは初めてだと言わんばかりに、田上はオウム返しした。それから、少し考えた後に適当にこう言った。
「蛾は、翅が生えてるだろ?その向きが蝶と違うんだ、確か。蝶は、翅を縦にぱたんと閉じるけど、蛾はそのまま平たくさせるだけ。…分かった?」
「んー……、ああ!そうだ!ホントだ!おじさん頭いいね!」
思いの外喜ばれて田上も少し戸惑ったが、そこで公園に帰ってきたタキオンが後ろから声をかけてきた。
「何見てるんだい?」
「ああ、タキオン。ここに蛾がいるんだって」
田上は何気なくそう言ったが、男の子たちは違った。タキオンの正体に気が付くと、「アグネスタキオンじゃん!」と叫んだ。
「おじさん、アグネスタキオンと知り合いなの!?」
その問いには、田上の代わりにタキオンが答えた。
「このおじさん、ただのおじさんじゃないよ?テレビで見たことはないかい?」
男の子は、田上の顔をじっと見て、怪しそうに言った。
「田上トレーナー…?」
その調子で男の子が言うと、タキオンが大笑いした。
「相変わらず、圭一君の印象はうっすいなあ!ハハハ!」
笑っているタキオンを、戸惑いを持った目で見つめながら、兄の方が田上に聞いた。
「じゃあ、おじさん、田上トレーナーなの?」
「そうだよ。おじさんじゃなくて、お兄さんっていう年かもしれないけど」
「へー。 東京に住んでいるんじゃないの?なんでこんなとこに来てるの?」
「それは、秘密」とタキオンが口を挟んできた。
そして、また「へー」と言うと、男の子たちは話す事が何もなくなったのか、タキオンたちをじっと見つめるだけになった。だから、田上たちも「じゃあ、バドミントンをしようか」ということで、男の子二人に別れを告げて、自分たちは芝生の方へと戻った。