ケロイド   作:石花漱一

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二十九、雨音①

二十九、雨音

 

 翌朝目を覚ましても、雨は上がっていなかった。どうやら、今日一日降るつもりなのかもしれない。田上は身動きをしようとして、自分の体が上手く動かせないことに気がついた。隣を見てみると、まだすやすやと眠っているタキオンが、田上にぎゅっと抱きついているのがわかった。結構、逃さないように本気で抱き締めてきているので、ここからタキオンを起こさないで抜け出すには、相当の苦労がかかりそうだった。それで、一つため息を吐いたが、タキオンを起こしたくなかったため、田上はまだ少し寝ぼけが残っている頭で、木の天井を見上げた。辺りは雨により暗いので、今が何時くらいなのか判別することは難しかった。耳を澄ましてみた所、あまり物音はしなかった。一人くらいの足音が時折するのだが、家族の内の誰なのかは判別できなかった。

 次第に意識がはっきりしていくにつれ、田上は動き出したくなったが、タキオンの起きる気配もなく、どうしようかと考えていた。ここでタキオンの腕を引き剥がそうものなら、確実に起きてしまうような気がする。タキオンは田上にただ抱きついているのではない。ぎゅっと抱き締めているのだ。絶対に逃さないようにホールドしているので、ここで逃げれば確実に起きそうなものだった。

 そう考えている内にも時間は過ぎていったが、田上は動こうとはしなかった。動きだしたい気持ちはあったが、起こしてしまえば、タキオンの機嫌はどうなるのか分からない。これで、悪くなってしまえば面倒なので、田上はタキオンが起きないかなぁと願いつつ、タキオンの自然な目覚めを促すように、時折モゾモゾと手足を動かしてみた。

 すると、ある時、タキオンが目を覚ましたように「うぅん…」と唸った。田上は、これを好機だと思うと、もう少し体を動かして、自分の体を仰向けからタキオンの方を向く体勢に変えた。それでも、タキオンは田上を放そうとはしなかったが、田上の左手が動かせるようになったので、タキオンのおでこをその手で撫でながら、「おはよう」と言った。そして、今度は、完全に起きた反応をタキオンは見せた。田上におはようと呼ばれると、一瞬間が空いた後に、首を横に振って、田上の胸に顔を埋めた。田上は、その頭を嬉しそうに撫でながら、再度「おはよう」と呼びかけた。自分の胸の中で唸る声が聞こえたが、十数秒後にタキオンは田上の胸から顔を出して「おはよう」と自分の恋人に返した。

「今何時だい?」

「んん?…七時十七分だね」

 田上は、枕元にある自分のスマホの時計を確認しながらそう言った。そして、縁側に居る犬が物音を立てたのに少し反応をしながら、田上は、タキオンの方に向き直った。タキオンは、田上を抱きしめるのをやめようとはしていなかった。未だに、幼児のように田上の体を抱き締めていたから、田上は苦笑して言った。

「動けないんだけど」

「動かさないために決まっているじゃないか」

「じゃあ、動かないから、ちょっと体勢を変えさせてよ」

「嫌だ。こうしてたい」

 その言葉を聞くと、田上はまた苦笑した。

「じゃあ、動かさないためじゃないな?」

「…ああ。…圭一君を抱きしめるのは気持ちがいい」

「気持ちがいい?」

「……私の物って感じがするじゃないか」

「お前の物じゃないぞ」

「限りなく私の物に近い存在だろ?」

「…どうかな」

 田上が答えるのを回避するとタキオンは、田上の事をより一層強く抱き締めながら言った。

「圭一君は私の物」

「お前だけのじゃないぞ」

「私だけの物。 好き」

「……俺だって嫌いじゃないけど…」

「朝の時くらい良いだろ?誰にも迷惑かけてるんじゃないから、圭一君に存分に甘えたい」

「一番迷惑かけてる人物が俺だってことを知らないなぁ?」

「圭一君なんてどれだけ迷惑をかけたって許してくれるじゃないか」

「許さないぞ。駄目。本当に、束縛癖は良くない」

「でも、普通のカップルだって、朝にくらいこんなことはする。 それじゃあ、圭一君は、私に金輪際甘えてくれるなと言いたいんだね?」

「別にそんな事を言いたいんじゃないけど、…屁理屈で押し切ろうとするなよ」

「…じゃあ、私の圭一君に抱きつきたいという欲望はどうすればいいんだい?どう解決すれば?」

「そりゃあ、……」

「分からないだろう?」

 タキオンが勝ち誇ったようにそう言った後、その口調から、少し不安げな口調に変化させて言った。

「本当に動きたいのかい?」

「……別に、タキオンがこうしたいなら、こうしててもいいけど、せめて体勢は変えさせてくれ、このままじゃ辛い」

「仕方がないなぁ」と言いながら、タキオンは田上を掴んでいる手を緩め、田上が仰向けになるのを許した。その後に、自分は田上の体によじ登って、正面からぎゅっと抱き締めた。これにより、再び田上は動けなくなった。田上は、そんなタキオンを仕方がなさそうに見つめながら、そっと頭を撫でてやった。

 

 それから、タキオンは暫く田上を放さないように、体の上に留まり続けた後、ようやく、田上との朝の時間を満喫しきって、解放することになった。その時間が約三十分くらいだったので、田上が思ったよりかは長くなかった。ただ、それでも、遺恨が残らなかったというわけではなく、田上は、タキオンに引っ張られて洗面台に行きながらも、タキオンの事をどう考えればいいのだろうか、と考えていた。

 田上は、これまでの人生の中で、他の女の人と付き合ったことがなかったので、果たして普通のカップルがこうして朝の時間に抱き締めあっているのかについては、怪しいところだと思った。確かに、理想のカップル像としてはそうなるかもしれないが、タキオンの方も付き合うのは初めてであるわけで、普通のカップルがどのようにするのかは知らないはずだ。友達から聞いているとすれば別だが、聞いていないのであれば、タキオンが言う普通のカップルとは、理想のカップルということになる。田上は、タキオンの考えを、理想のカップルの方に断定した。おそらく、朝にベッドで彼氏とのいちゃいちゃを話すような友達は、タキオンにいないと考えたからだ。

 この理想のカップル像に何が問題があるのかと言えば、タキオンがそれに重きを置いているということだった。タキオンは、その理想のカップル像を体現して、友達より優位になりたいということはないだろう。それは、タキオンがあまり望まないことだった。

 それよりも、タキオンが一番望んでいるのは、田上との理想の生活のように思う。理想の姿になることこそが、タキオンの理想だった。これでは何を言っているのかあまり分からないが、とにかく、タキオンは、理想こそを追い求めて、田上と付き合っているような気がした。

 そう思うと、田上は、タキオンが昨日の夕方、公園から家に帰る時に言った言葉がなんとなく分かったような気がした。タキオンらしくない悩みだと思ったが、こうしてみてみると、タキオンらしい悩みでもある。ただ、やっぱり、らしくない調子もどこかにあった。

 甘えるのが好きなタキオンだったから、大人になるのが不安だというのは、その甘えの裏にあるものが見える発言のように思う。かと言って、それをそのまま彼女として受け止めてしまうには、あまりにも受け入れすぎているというか、寛容的というか…。

 どちらにしろ、ここ数日、またはもっと前から田上が悩んでいることと、内容は大差なかったし、話も大きく進んでいるように感じなかった。田上は、顔を洗ってさっぱり笑顔になった自分の彼女の顔を見つめながら、道標のない道が目の前に広がっているのを感じた。

 

 二人は、いつものように朝食を食べて、家族と談笑をした。それから、タキオンが田上を誘って、縁側に二人きりになった。桜花も少し来たそうにしてたが、タキオンが心持ち強く「駄目」ときっぱりと言うと、姉に怒られるのが面倒だった桜花は、恨みがましい目で姉を見つめながら、大人しく引き下がった。

 タキオンはそれを見ると、少し心が傷んで、縁側の床に田上と二人で座ると、近くに居た犬の体を撫でながら「悪い姉だよな…」と呟いた。

「俺なんか、幸助の事は嫌いなんだから、ちょっと妹に怒ったくらいでそんなに落ち込まなくてもいいよ」

「…でも、圭一君と幸助君の場合は、年はそこまで離れてないだろ?私の場合は、高校生と小学生だ。…大人げないね」

「お前、まだ大人じゃないんだから、そんなに大人ということに気負わなくてもいいんだぞ?」

「じゃあ、圭一君は、子供の私とは付き合ったらいけないわけだ」

「そんなことないよ」

「優しい言葉なんてかけないでくれ。…どうせ、圭一君だって、サラサラ黒髪の大人っぽい女性の方が好きなんだ」

「なにそれ」

 田上は、唐突に出てきた自分の好みと断定された女性像に、少し笑ってしまった。

「前に圭一君が言っていたじゃないか。なんとかっていう芸能人が好きって」

「ああ、松林百合子?」

「それだよ。どうせそんなのが好きなんだろ?」

「別に好きじゃないって。ただ、美人だと思っただけだよ」

「でも、名前を上げるって事は、好みの顔だってことだろ?」

「そりゃあね、高校生くらいの時だよ?男子高校生って言ったら、美人は大体好みなんだよ」

「じゃあ、私なんて眼中にない訳だ」

「お前は美人じゃないか」

「じゃあ、圭一君は、私の顔だけで好きになったということだね?」

「そうじゃないよ。面倒臭い所も含めて好きって伝えただろ?」

 田上がそう言うと、タキオンは少し嬉しそうに口の端を歪ませながらも、絶対に嬉しい素振りは見せまいと、田上から顔をそらして、「そうかい」ととりあえずの返事をした。田上は、そのタキオンの嬉しそうな気配を敏感に感じ取って、すぐにそれを利用した。

「おい、本当は嬉しいんだろ?顔を見せろよ」

「嫌だよ。浮気男には見せられない」

 タキオンの声色は、もうすでに嬉しそうな気配を見せていた。

「俺がいつ浮気したんだよ。高校時代に美人だと思った芸能人の名前を上げちゃ駄目だったか?」

「覗き込むのはやめてくれよ」とタキオンが嬉しそうに言った。「そうだとも。芸能人なんかより、私を好きにならなければならないんだ!」

「だから、さっきから好きだって言ってる。顔を見せろよ。もう怒ってないんだろ?」

「怒ってる。圭一君がそんなに見てくるから私も嫌になった」

「じゃあ、もういいや。ゲームをしに行こ」

「ああ、待ってくれよ」

 立ち上がるふりをした田上に、タキオンが慌てて追いすがった。そして、田上のしてやったりという目と、タキオンの若干真に受けてしまった目が合うと、タキオンは顔を嬉しそうに曇らせて「意地悪」と言った。

「私の事好きだって言っているくせに、そうやって意地悪をする」

「俺は、むしろお前に上手く乗せられた感じがあるけどな」

「乗せられた?」

「…そうでもないかもしれないけど、…甘えたいお前に乗せられたのかな…って。…まぁ、違うかもしれない」

「…そうだよ。……余計なことを思い出させないでくれ」

「……どう思う?」

 田上が、自分の言うべき言葉に言い淀んで、そう言った。

「どう思う?」とタキオンが聞き返した。

「…俺は、…お前をどうすればいいのか分からない。…どうすればいいと思う?」

 それを聞くと、タキオンは不機嫌そうな顔をして、田上の顔を少しの間見つめた後、こう言った。

「今は忘れてくれ。そんな事悩んだってしょうがない。もっと、圭一君も私を受け入れてくれよ。私の事を真っ直ぐに抱き締めてくれたら、私だって満足できる」

「うーん…」と田上は曖昧な返事を見せた。田上だって、何も考えないでタキオンの事を抱き締められたらそうしたかったのだが、今まで、タキオンの事をずっと真剣に考えてきてしまった以上、その考えを簡単に捨てることはできなかった。

 その田上の様子を察したタキオンは、田上の胡座の上に乗っかると、自分の腹のあたりに田上の手を回させた。そして、「ちゃんと抱きしめて」と田上に言った。田上も、タキオンに「真っ直ぐに抱き締めてくれたら」と言われたばかりだったから、なるべくその思いに報いようと、タキオンの体をぎゅっと抱きしめて、以前よりも少し短くなった後ろ髪をかき分けて、うなじに顔を寄せた。そのタキオンの匂いが田上の鼻をくすぐり、彼女の体をぎゅっと抱きしめているという感覚が、目の前にはっきりと形になってくると、田上は、途方もない幸福か快楽に襲われた。タキオンは、自分の腰に回されている田上の男らしい腕を感じて、ふふふと吐息を漏らした。

 外の道路では、車が雨水を弾き飛ばしながら走っていく、シャーーという音が通り過ぎていった。犬は、いちゃついている二人を暫く見つめていたが、やがて、慣れていない二人の見知らぬ人間の傍に居るのが、心地悪くなったのか、ゆっくりと立ち上がると、リビングの方に歩いていった。

 犬が去った後も、タキオンと田上は、暫く日頃の苦悩を忘れていちゃついていた。

 

 昼頃になると、二人はいちゃつくのをやめて、縁側からリビングの方へと出てきた。昼飯を食べるためだ。その頃には、二人は目一杯触れ合って、充実した顔になっていた。田上も考えを捨てられないといいながらも、案外簡単に物事を忘れて、タキオンの恋人のような仕草に見惚れていた。

 二人は仲良くご飯を食べた。家族とも会話をすることはしたが、主に二人の間だけにある二人の世界がそこに築かれていた。母は、そんな二人を見て微笑んでいたが、父は、何か含みのある目つきで母の目を見ようとしていた。ただ、母は、父の目線には気が付かずに、娘とその彼氏を見て、時折、桜花の世話をしていた。

 桜花は、はなっからタキオンの事を見限っていた。二人だけの世界を作ろうとしていることもなんとなく子供の勘で感じ取っていた。だから、田上に話しかけることもせずに、二人のことを無視して、母や父に話しかけていた。

 どこか浮ついた雰囲気のまま、田上とタキオンは、また自分たちの畳の間に戻って、敷かれていた布団を畳んだ。そして、畳の上に二人でゴロンと寝っ転がると、「暇だなぁ」と二人して言った。まだ、いちゃいちゃしてもいいような気がしたが、昼飯の前に思う存分いちゃいちゃしてしまったので、やることはあんまりなかった。それでも、二人で指先を絡ませ合って、暇なりに楽しく遊んでいると、唐突に畳の間の入り口の襖の向こうから「ちょっといい?」と母の声が聞こえてきた。タキオンが「いいよ」と声をかけると、母が襖を開けて二人に言った。

「今日、あの遊具がたくさんあるおっきい公園に行こうと思ってたんだけど、生憎の雨だったから、今日は、お義母さんのお見舞いに行こうと思ったんだけどどうする?どうします?」

 田上は、あんまり家に一人でお留守番というのも嫌だったので、タキオンに判断を委ねようと思って、タキオンの方を見た。タキオンは、こう答えた。

「ばあちゃんはまだ入院してたのかい?」

「そう、来週退院ね。だから、まぁ、今のうちに行っておいてもいいかな、って思ってたんだけど、圭一君はどうします?あの、…行くか行かないかは圭一君が決めてもらっていいですよ。タキオンのおばあちゃんなのであんまり知らないと思いますし」

「んー」と田上は言いながら、タキオンの方を見た。できればタキオンの答えを聞いてから、行くか行かないかを判断したかった。その田上の気持ちをタキオンは読み取って、「私は行くよ」と田上に言った。それで、田上も「じゃあ、俺も行こうと思います」と母に告げた。

「あ、じゃあ、もう、あと十分二十分くらいで行きますので、準備して頂けたら…」

 母はそう言って立ち去っていった。タキオンと田上は、その言葉を聞いてから、ゆっくりと準備を進めた。

 

 田上は、また車に乗ることになった。今回は、桜花が助手席に座ったので、母が後部座席の方に来ていた。本当は、タキオンは窓際の席に座りたかったのだが、田上が中央になって、母と隣になってしまうと緊張してしまうだろうと思ったから、タキオンが今回も真ん中になってあげた。

 その気遣いもあって、田上は車の中で快適に過ごすことができた。それに、タキオンとしてもこうした方が良かったかもしれない。もし、田上が中央に座っていたのであれば、タキオンがくっつくと、その重みで母の方に傾きそうで嫌がったかもしれないが、窓際であれば、タキオンの重みがかかったとしても窓に寄りかかればいいだけなので、田上も何も言わなかった。

 二人は、手を繋ぎながら、車の中で時間が経過するのを待った。

 

 病院に着くと、父と母と桜花を前に歩かせて、田上とタキオンは後ろを歩いた。田上は、おばあちゃんにどう挨拶しようかと考えていたところだったから、あんまりタキオンと手を繋ぐ気分にはなれなかった。しかし、タキオンの常ながら、少々強引な聞き分けのなさを発揮して、田上は手を繋がれることになった。田上はそれを多少不快に思いながらも、大人しくタキオンに引かれていった。

 病室に入ると、もうすでにそこには人が居た。どうやら、タキオンのおじいちゃんが来る日と重なってしまったようだった。田上の心臓は偶然の出来事により、病院に入った時よりももっとばくばくと打ち鳴ってしまった。ここで、おじいちゃんと邂逅するなどとは全く以て考えていなかった。おばあちゃんに挨拶するだけでも精一杯だったのに、ここで二対一とは何をどうすればいいのだろうか?

 そう考えている内に、早速田上の存在が切り出された。

「今日は、タキオンがある人をつれてきたんですよー」と母が言うと、最後尾に居た田上に、前の人波が割れて、その存在を露わにした。田上は、緊張のあまり思わずタキオンの手をぎゅっと握りしめた。しかし、ここで話さなければ、あまりにもみっともないので、田上は一歩前に進み出ると、オドオドとしながら頭を下げて、「こんにちは、お孫さんと交際させていただいている田上圭一です」と言った。祖父は暫く訳が分からなさそうに、ぽかんと田上の顔を見ていたが、やがて、自分の気を取り戻すと「ああ、タキオンの彼氏ぃ」と言った。そこで、タキオンが進み出てきて、田上の隣に立った。

「久しぶり、じいちゃんばあちゃん。死ぬ前に折角だから私の旦那でも見せておこうと思って」

 そのタキオンの冗談で、一度場は和んだが、祖父はまた戸惑いながらこう言った。

「結婚はしてない?」

「してないよ。旦那はただの冗談。彼氏を連れてきただけ」とタキオンが答えた。

「はー、タキオンももうそんな年かあ」と祖母の方が、結構元気そうな声で言った。

 田上は、この会話を聞きながら、終始ハラハラしていた。先程の祖父の顔が気になって仕方なかった。なぜ、自分の挨拶の後にあんな顔をしたのだろう?タキオンは、喜ぶと言っていたが、あの顔は確実に喜んでいるとは言えないだろう。まさか、嫌なのだろうか?

 そう思いつつも、状況は進んでゆき、田上とタキオンは丸椅子に座らされて、祖母の質問に答えることになった。その時に、祖父は母と世間話をしていたのだが、不意にはははと祖父の年老いた笑い声が聞こえたかと思うと、田上の肩をぽんぽんと叩かれた。田上が驚いて振り返ってみると、祖父は満面の笑みで言った。

「トレーナー君?」

「ああ、はい。そうです」

「あー、だから、見覚えがあったんだ」

 そして、祖母の方も祖父の言葉に反応して「ああ!田上君!」と言った。

「トレーナー君かなぁと思ってたんだけど、失礼だといけないから言えなかったんだ。 そうかい、タキオンと付き合ったか。宗太郎と同じか」

 田上は、このときまでうっかり忘れてたが、この人たちはタキオンの祖父母であったのだが、タキオンの父、宗太郎の父母でもあった。そして、宗太郎の方も、ほとんど田上と変わらない境遇であったから、この人たちは、トレーナーとウマ娘が付き合うのを間近で見るのが二度目ということになる。田上は、不思議なこともあるもんだなぁと思いつつ、そんなイレギュラーを二回も体験することになる祖父母の顔を見た。こうしてみてみると、祖父のさっきの理解が及んでいないような表情も消えて、心から田上の事を歓迎しているように見える。

 田上は、長く生きている祖父母に敬意を抱きながら、それでもやっぱり少し緊張して、ここから早く家の方に帰りたいと思った。

 

 その病院にはまあまあ長く滞在した。途中で、祖父母たちの興味が他の家族に移ったのは良かったが、それでも、そこに居なければならないため、タキオンだけが質問にあっているときなどは、田上は近くからタキオンを見つめるしかなかった。

 田上は、事の成り行きで後ろの方に移動することに成功した。しかし、それ故にタキオンから離れてしまったのが難点だった。タキオンが一緒なら、小声で話してそれなりに楽しむこともできたのだが、どうやら、孫娘は可愛いものらしい。あと一年で卒業の高校生になったとしても、祖父母はタキオンと桜花を可愛がっていた。田上も仲間外れにされないように度々祖父母が声を掛けてくれていたのだが、元々、田上があんまり話す方ではなかったので、碌に会話に参加することもできずに、後ろの方でじっと話に耳を傾けていた。

 ただ、じっとしているのがつまらないというのもあったが、この家族の話は聞いていて面白かった。田上の知らないようなタキオンの話が出てくることもあったし、祖父母と話しているときのタキオンは普段とはまた違った優しい顔をしていた。あの顔を田上に見せてくれれば嬉しいのだが、あれだけの我儘を言うのも、田上だからやっていることなのだろう。そういう『唯一』を感じ取っても、田上は、タキオンの束縛癖はどうにかしてほしかった。

 最後にまた改めて「これからもよろしくお願いします」と挨拶をしてから、田上は病室を出た。祖父は、まだ祖母と話しているようだった。

 病室を出ると、タキオンは早速田上にくっついてきた。まるで、今までのは演技でしたでも言うような豹変ぶりで、田上の腕に取り付いて、そっとすりすりと田上の肩に頬を擦り寄せていた。

 田上は、表情に嬉しさを微妙に滲ませながら、それを見て言った。

「お前、…顔が違うよな…」

「顔?」とタキオンがキョトンとしながら聞き返した。

「顔。おばあちゃんたちに向かって話しているお前は、大分優しそうだった」

「今は優しそうじゃないのかい?」

「…タキオンらしい顔をしてる」

 田上が、明言を避けるとタキオンは顔をしかめて、前方に歩いている家族を見た。それから、また田上の方を向いて言った。

「あとでじっくりと聞かせてもらおうか。ここじゃ、話しづらいからね」

 田上は、「ああ」と頷いてから、タキオンと見つめ合い、目を逸らした。それから、二人は車の所へ歩き、それなりに別の事を話しながら、家に帰った。

 

 タキオンは、家に帰ると田上と縁側に行き、そこに座って外を見つめながら話した。

「それで、優しそうじゃないと言いたいのかい?」

「そう言いたいわけじゃない」

「じゃあ、なんだい?」

 タキオンがキツめに聞くと、田上は少し眉を寄せて言った。

「面倒臭い女と優しい女は、一つの体内に共存しないのかもしれない」

「悪口だろ?」

「そうじゃない。面倒臭い所も含めて好き」

 田上がそう言うと、タキオンはそれだけで嬉しくなってしまったようで、口の端を笑みで歪めながら、午前中の時のように目を逸らした。

「…ずるいぞ。それを言えば、私が嬉しくなるって分かって言っているんだろ?」

「そんなことないよ。好きだよ」

「ほら、確信犯じゃないか!今の流れで好きなんて言う必要はなかった!」

 そして、田上が、もう一度「好きだよ」とからかうと、タキオンは耐えきれなくなってまた目を逸らした。

「好きって言えば良いと思っているだろ。面倒な彼女のあしらい方なんてそんなもんだと思っているんだろ?」

「そんなことないよ。 好きだけど」

 そしてまた、タキオンは口の端を嬉しそうに歪めた。

「ちょっとやり方を変えたまえ!面倒な彼女ってのは圭一君にちょろいんだぞ!」

「…面白くって」と田上はニヤリとしながら言った。

「やめらんないんじゃないんだよ!こっちは嬉しくてまともに話ができないんだよ!」

「でも、…かわいいよ」

「うるさいよ!そっちがその気なら、私だってできることがあるんだからね!」

 タキオンの少し怒っているその目を見ると、田上もすぐにその「できること」が分かった。そして、そこで敢えて挑発をした。

「やってみろよ」

「ん?」

 田上が案外怯まなかったので、タキオンは少し驚いた声を出したが、次には、ゆっくりと顔を近づけて田上の唇にキスをした。田上は、もうタキオンとのキスなど慣れたものだったので、寄り掛かってくる彼女の体をそっと抱いてあげた。そして、その後すぐにキスが終わると、タキオンは不満足げな顔をして言った。

「別れる」

「え?」

 唐突な言葉に田上は少し不安そうになった。

「なんで?」

「そんなに意地悪するんだったら別れる」

「それは、…嫌だ…」

 田上の口の端は緊張に強張っていた。そうすると、タキオンも田上が憐れになってきた。自分は、ちょっとした冗談のつもりだったが、それを察することもできずに、先程のように、強気に返すこともできずに、受け答えをするこの男が、愛おしくも憐れだった。

「…別に、そんなに動揺しなくてもいいよ。…今のはちょっとした冗談だよ」

「…別れてほしくない…」

 田上は、タキオンが冗談と言ったのにもかかわらず、気落ちした声を戻さないでいた。だから、タキオンは田上の頭を正面から優しく撫でた。

「冗談だよ、そんな顔しなくたっていいじゃないか…」

「別れるのは嫌だ…」

「大丈夫、冗談だよ。冗談。私も意地悪だった。ごめん」

 そこまで言うと、田上の不安に満ちた顔も少しは和らいだ。タキオンは、その顔を見つめながら言った。

「圭一君も随分と女々しいところがあるじゃないか」

「……仕方ないだろ…?」

「まぁ、圭一君らしい所でもあるだろうけどね。…それに、…ねぇ、圭一君も私が居なくなったら寂しいだろうからね…」

「俺は、別れたくないよ…」

「私だって別れたくないさ。ずっとそう言い続けてる。むしろ、別れたがっていたのは圭一君の方だったけど」

「そりゃあ、あの時には俺にも迷いがあった」

「今はない」とタキオンは、少し険悪になりそうだった雰囲気をパッと断ち切った。それから、田上の胡座の上に頭を乗せると、縁側に寝転がり、外の雨に濡れる芝生を見つめながら「いつ結婚できるかな…?」と田上に聞くともなく聞いた。

 田上もタキオンと同じように外を見つめていたが、その問いを聞くと、自分の股の間に居るタキオンを見下ろした。タキオンも、田上を見つめ返してきた。

「……いつだろう?」と田上は、少し疲れたような表情で言った。

 外はザアザアと雨が降っていた。やはり、雨は一度も上がらなかった。田上は、タキオンの髪を手で梳き続けながら、彼女と共に外の景色を見つめ続けていた。

 

 時刻は夕方近くになった。その頃になると、少しは雨も収まって、代わりに若干の寒さがあった。ただ、タキオンとくっついていれば、その温かな体温に、田上の寒さも消えていった。

 そんな中でも、犬は散歩したがるようだった。雨なんてなんのそので、玄関に居る父の周りを嬉しそうに飛び跳ねていた。桜花も小さい傘を持って父についていくようだった。そのことに気がつくと、タキオンも、田上に「一緒に行こう」と言った。若干寒い以外は断る理由もないので、田上は、タキオンと共に外に出ていった。しかし、タキオンは、田上と二人で二つの傘を差そうとはしなかった。所謂、相合い傘だ。

 それを提案された所で、田上もタキオンのしたい事が分かった。つまり、犬の散歩が目的ではなく、この絶好の相合い傘のシチュエーションを逃すまいとしているのだろう。田上としては、別に、少し歩きにくそうということ以外は、断る理由もなかったので、大人しくタキオンの横で傘を持った。

 例の如く、二人は犬の散歩なんてそっちのけで、桜花たちの後ろを軽く手を繋ぎながら歩いていった。手を繋いで歩いたと言っても、田上とタキオンの間には傘があるので、簡単に手を繋ぐことができなかった。だから、タキオンは、田上が傘を持っている腕にくっついてきたので、田上は尚の事歩きにくかった。

 タキオンは、いつものように田上の腕にニコニコしながらくっついていた。相合い傘と言っても二人は特にすることがないので、桜花たちの背中を見つめながら、時折、言葉を交わしながら歩いていた。桜花たちは、遅れてついてくる田上たちのことなど気にもとめずに、犬の様子を楽しく観察しながら歩いていた。桜花は、たまに水溜りにジャンプをすることがあった。

 それを見ると、タキオンが自分もしたそうに田上の方を見たが、田上は「やめてくれよ」と嫌そうな顔をした。結局、タキオンは水溜りにジャンプをするどころか入ることさえ避けたが、そうすると、子供時代の名残がどこかへ飛んでいってしまうような気がした。汚れることなんて何一つ気にしていなかった子供の頃の自分。そういう子供でありたいありたいと思っているのに、いつの間にかこんな風になっていた。何年かけてここまで来たかは知らないが、もしかしたら、十年以上はあるかもしれない。タキオンは、恋人の手の温もりを感じながら、そう思った。

 恋なんて何一つ気にしていなかった自分も居た。恋の話題を聞くことはあれど、自分に恋人ができることなど、自分が人を好きになることなど、一欠片も考えていなかった。それが、今ではこうして隣に最高の恋人が居て、その人が愛おしくて愛おしくてたまらない。これが、大人になるということなのだろうか?恋をして、その人を大切にしたくなるというのが大人になるということなのだろうか?

 そう考えると、タキオンは、自分の心に不満が湧き立つのを感じた。まだ、自分だって甘えていたい。圭一君に甘えて甘えて存分に甘えて、それでも甘えて、ずっと甘えていたい。この身がぐちゃぐちゃのどろどろになって、圭一君と一つに溶け合いたい。変わることのない世界を生きたい。

 これが大人の持つべき考えなのだろうか?それとも、大人というものは、この考えを持ちながらも平然として生きていいと考えているのだろうか?

 少なくとも、田上はそう考えていないように、タキオンには思えた。変わることのない世界は無いと言っていた。その思想の下に、田上は、自分と共に、なにかよりよい生き方を探そうとしてくれている。しかし、それはあまりにも漠然としすぎていた。よりよい生き方を探したい探したいというのは感じられるのだけれど、なにがよりよいのかは田上にもあんまり分かっていないのは、タキオンにも感じ取れる。それでいて、手を引いて歩こうとしてくれているのだから、この男はしょうがない。そういう所が愛おしくはあるのだが、そのままあらぬ所へと連れて行ってもらっても困る。しっかりとこの男の抑えるべきところは抑えなければならない。ただここで、タキオンと田上が反発しあってもしょうがない。この微妙な駆け引きが、タキオンには少し面倒だった。

 考え込んでいる内に、タキオンの顔からは笑みが消え、傘を持っている田上にさらに寄りながら無言のまま歩いていた。田上は、タキオンが考えている間に、昔の思い出などを語って聞かせてくれた。雨の日は母とこんな事をして遊んだだの、あの瞬間を鮮明に覚えているだのと話してくれた。生憎、タキオンは考え込んでいたので、生返事しかできなかった。しかし、田上はそれでも良かったようだった。ただ自分が話したいだけのようだったから、タキオンが何か考えることに没頭していることなど気が付きもしなかった。

 犬はびしょびしょになりながら歩いていた。綺麗な毛並みも今は、雨に濡れて、腹の下などは毛の鍾乳洞の様になっていた。田上は、桜花の姿を見ながら、昔の自分の姿を重ねていたが、不意にタキオンが考えに没頭していることに気がついた。犬の散歩ルートも半分に近づいてきた時だった。

「なにか考え事してるの?」と田上は聞いた。

 タキオンは、「ちょっとね…」という生返事を残したが、数秒後に田上の顔をしっかりと見ると、また、傘の外から垂れる雨水を見つめながら言った。

「…圭一君は、……この先に展望などあるかい?」

「展望?」

「……結婚とかそういうものじゃなくて、…私をどうしたい?」

「どう?」

「……キスしたいかい?」

「キス…?…したいの?」

「違う。私がしたいんじゃない。圭一君は、今キスをしたい気分にはならないかい?」

「…タキオンがしたいならするけど…」

「違う。私じゃない。圭一君が、したいのか?だよ。したくはならないかい?」

 田上は、タキオンの話の全貌が掴めずに、キョトンとした顔のままだった。

「したいならしてもいいよ?」

「違う。私の話に答えてくれ。圭一君はこれを答えるだけでいい。したいのか、したくないのか。 したいかい?」

「………なんでその質問を?」

「それはこの際どうでもいい。とりあえず、答えてくれないか?」

 それで、田上は答えようと思ったのだが、次には、やっぱりタキオンが質問した理由が気になって、「…なんで?」と聞いてしまった。すると、タキオンは、少し機嫌が悪そうになった。

「そんなに理由が気になるかい?」

「…いや、…別に…」

「じゃあ、答えてくれないか?なんでもいいよ。圭一君がしたくないっていっても、私は怒りはしないから」

 ここまで詰められると、田上も自分の心の中に躊躇いがある事に気がついた。それでも、それがなぜ生まれたのかに気が付かないまま、田上はゆっくりとできるだけタキオンを怒らせないように答えた。

「…今は、…したくない?」

「ふむ。ありがとう」

 田上は、タキオンが本当に少しも怒らなかったのに戸惑いながら、彼女の顔を見つめた。タキオンも初めは、田上から目を逸らして今の発言のことを考えていたのだが、不図、田上の視線に気が付くとそちらの方を向いて、「なんだい?」と言った。

「…いや、…さっきの質問の意図ってなに?って思って…」

「…特に深い意味はないよ。…圭一君は、本当に私とキスをしたいのかな、と思ってね」

「初め聞いてたことは違っただろ?この先についてだった。 私をどうしたいってなんだ?」

「…別に…。…圭一君が私をどこまで連れて行ってくれるんだろうと思ってね」

 途端に、田上の表情は、色彩を失って、目にはどこか迷うような物が現れた。

「俺じゃ駄目か?」

 田上は、喉に異物があるのを感じながら、無理矢理に言葉を発した。タキオンは、その田上の様子を少しの間黙って伺うと、やがて、僅かな笑みを浮かべながらこう言った。

「圭一君じゃ駄目なんて一言も言っていない。私の恋人は圭一君だよ?」

「……俺以外でもいいだろ?」

「良くない。なにがそんなに圭一君を不安にさせるんだい?」

「……不安じゃない」

「強がるなよ。私にはちゃんと圭一君の事がわかっているんだからね?」

「……はぁ。……キスしたほうが良かったのか?」

「ん?」

「…さっきの質問。キスしたいって答えればよかったのか?」

「別に、私はどちらでも良かった。問題は、圭一君がなぜあそこで答えるのを避けたのか?だよ。…私が怖いんじゃないのか?いや、正確には、私に嫌われるのが怖い、だね」

「……まぁ、お前には嫌われたくないよ…」

「そうだろう。縁側に居たときの圭一君の話を聞けば分かる。…その恐怖が私との間に在って、正確な話し合いができるかな?」

「…どういうこと?」

「圭一君の恐怖によって、その圭一君自身の本当の言い分が損なわれてしまうんじゃないかと思ってね」

「…でも、お前だって俺に嫌われたくないんだろ?」

「…ああ、そうだね」とタキオンは、田上から目を逸らした。そして、また田上の目を見ると、こう言った。

「それを思い出すと、なんだか、今は忘れてたのに、圭一君に嫌われたくないという気持ちが沸々と湧いてきたよ。…こうなると、冷静な話し合いが難しいねぇ。……うん、本当に今は忘れてたのになぁ」

 タキオンはそう言うと、少しだけ不安そうな顔をして、「ずっとずっと好きでいてね」と田上に言った。田上は「うん」と頷いたが、タキオンのその顔を見ると多少の罪悪感が湧いて出た。今、タキオンを不安にさせたのは、明確に自分だった。田上が、タキオンに切り込まなければ、タキオンもある種の不安を思い出さずに済んだ。それがいいことなのかどうかは分からないが、今は、自分が少し鬱陶しかった。思えば、自分の無神経な言葉のせいで、タキオンとの雰囲気が悪くなることが多々ある。その度に、タキオンに気苦労をかけている。そして、その苦労を知って自分が、自分自身に自信を失くしてしまえば、タキオンの気苦労はさらに増す。全くの悪循環だったので、田上は自分が嫌で嫌で堪らなかった。しかし、こうしてしまうとタキオンはさらに苦労する。

 田上には、もうどうすればいいのか分からなかった。

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