ケロイド   作:石花漱一

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二十九、雨音②

 傘は、まあまあ大きかったが、それでも、田上がタキオンの身を案じて、自分の身を犠牲にしてまでもタキオンのスペースを十分に確保したため、田上の体は右側の手が少し濡れていた。それに気がついたタキオンは、田上に苦笑しながら「私は十分に入れているんだから、そんなに端に寄らなくてもいいよ」と言ったが、そう言われても田上は中央に少ししか寄らなかった。

 足は、知らず知らずのうちに、水溜りに入っていくにつれ、濡れていっていた。ただ、田上はそれを見越してサンダルで来ていたので、田上の靴自体は家の中で無事でいた。サンダルは、朝日川家の物を借りていた。

 雨は相変わらずザアザアと降っていた。この時になると、一昨日も通っていたかもしれない自転車の人が、青い合羽を着て、雨の中を一生懸命に漕いでいた。一昨日も今日も同じ時間帯に見たということは、もしかすると、ゴールデンウィークにも仕事がある人なのかもしれない。――この雨の中を…、と田上は憐れむような目で見つめながら、自転車が通り過ぎていくのを横目で見送った。

 散歩コースの中で、田んぼを一周するには、曲がり角を何回か曲がらなければ、家に帰り着くことができない。その曲がり角の一つに、石碑がぽつんと置いてあった。おそらく、田んぼを作った際か、それ以後にできたであろう、神様に祈るための石碑だと思われる。その前には花が置かれており、今もしっかりと手入れがなされているようだった。

 そこで、桜花は少し立ち止まった。石碑に興味があったからではなく、ただ単に、子供の遊びの一環として、その近くにあった水溜りで遊びたかったからのようだった。桜花は、泥と水を盛大に飛び跳ねさせながら、水溜りでこれでもかと遊び回っていた。父にリードを持たれている犬も、少し桜花の様子に引いているようだった。タキオンたちも、その様子を、父から二、三歩引いた所で見つめていた。

 そしてある時、田上がそれを無表情で見つめながら言った。

「キスすればよかったのかな?」

「…ん?」

「…なんでもない」

 タキオンに聞き返されると、田上も話す気力を失ってそう言った。タキオンは、実の所、話は聞こえていて、田上に「その質問の意味はなんだい?」を意味する「ん?」だったのだが、田上には通じなかった。けれども、話の流れに抵抗するのがタキオンには億劫で、次には、二人共黙ってしまった。そして、タキオンは、一人で、田上の今の発言の意味を考えていたのだが、あんまりよく分からなかったので、結局口を開いて聞いた。

「さっきの質問がそんなに気がかりかい?」

「ん?」

「キスをしたいか、したくないか」

「……別に…」

「急に強がるなよ。話すことはあるだろ?」

「……ないよ…」

「………いっそのこと、こんな事全てを父さんたちに相談してみるっていうのはどうかな?私達と似たような事をして結婚したわけだから、それなりに悩みも似ているんじゃないか?」

「……どうかな…」

「…圭一君、相談が嫌いだからねぇ…」

 タキオンが、田上を目を細めて見ながら言った。

「………あんまり嫌だな…」

「でも、…どうだろう?…圭一君が考えている以上に、私達は良い線をいっているのかもしれない。早々に結婚できそうだろ?子供の予定もあるし。そこらへんでのほほんと生きている女よりも、私は大分幸せに生きれそうな気がする。圭一君だって、嫁がもらえてよかっただろ?」

「良くないことはないよ」

「ほら、良いと思っている。つい、一ヶ月前と自分の境遇を比べてごらん。大分マシになっていると思うよ。何しろ、大阪杯前の圭一君は可哀想で見ていられなかったからね」

「…そんなだった?」と田上は、先程よりも僅かに明るい口調で聞いた。

「思い出してみたまえ。あの頃は、死にたい死にたいと繰り返していたんだから、その時に比べたら、圭一君は随分マシになったよ。少なくとも、今は死にたくないだろ?」

「まぁ、…マシになったかもな」

「すると、私も随分と報われたんだよ。今では、こんなに圭一君に愛されるようになっている。一月前の私にこの相合い傘を見せてあげたいね」

 田上は、顔に微笑みを浮かべて、タキオンを見つめた。タキオンもまた、田上と同じような微笑みを浮かべて、田上の事を見つめ返していた。

「マシになったね…」とタキオンが言った。

 田上は、それにゆっくりと頷いて、傘に落ちる雨音を聞いた。

 

 玄関に辿り着くと、二人は玄関先の屋根の下でまだ何かを話していた。犬がびしょ濡れだったので、それの処理のために玄関が詰まっていたのもあるが、二人としては、まだ外で雨が降り注ぐ音を聞いていたかった。外はもう真っ暗になっていた。玄関の明かりに照らされて、屋根から落ちる雨水だけがその光に反射して、白く光って見えた。

 田上は、ぽたぽたと屋根から垂れてくる雨水の一つに、田上は手を差し出してみた。特に何を思うということもない。ただ、――こうしたら濡れるのだろうか?という当たり前の事を思って手を差し出した。そして、案の定、雨水は手に当たって跳ねた。それでもまだ、田上が手を差し出し続けているものだから、タキオンが「なにしてるんだい?」と聞いた。

「…手を濡らしてる」

「それは見れば分かるよ。何をしてるんだい?」

「…特に、なにもないけど…」

「…圭一君って、…時々そういう子供っぽいところがあるよねぇ」

「…そうかな?」と田上は少し微笑んで答えた。

「そうだよ。童心を持ち合わせているものね」

「そうかなぁ?」と今度は、自分の手に垂れてくる雨水を見つめながら言った。

「羨ましいよ。その童心、私にも分けてくれないか?」

「分けれるもんなら分けるけど…」

「冗談だよ。…圭一君は、…そういう小遊びが好きだよね。星も好きだし。…私も、圭一君みたいに風流を持った大人になりたいねぇ…」

「…褒められてるの?」

「褒めてるよ。風流は褒め言葉じゃないか。 こう、私がなりたい圭一君ってのは、こう、…落ち着いた大人っぽい雰囲気を持った、周囲の人まで落ち着かせるようなかっこいい大人になりたいね」

「…なんでそんなにべた褒めするの?」

 田上は、嬉しさの笑みを隠しきれずにそう言った。

「私が、実際そう思っているからさ。落ち着きのある男性ってのは、一緒に過ごしていて良いものだよ。元々の私の気性の相性もあるだろうけどね、圭一君の傍に居れて良かったよ」

「苦労もかけたけどな…」

「そんなのはもう、一、二週間もすれば笑い話だよ。それに、私だって圭一君に苦労をかけた。本当に、圭一君には恩しかないよ」

 田上は、この言葉に僅かに動揺した。そして、「恩返しの為に結婚するんだったらやめてくれ」と言おうと思ったのだが、タキオンの顔を見ると言う気が失せた。恩返しのためでないことは田上も重々承知だった。己の優しさが、タキオンを好きにさせただけだった。だから、タキオンの顔を見ながら、半ば疲れたように、半ば安心したように田上は言った。

「お前がかけてくれる苦労なんて屁でもないよ」

「そう。私もそれに同意見だね。圭一君なんて、私に苦労をかけさせまいかけさせまいとしていたんだが、やはり、そんな人間に苦労をかけてもらわれると、信頼を感じて良いものだね」

「そうかぁ?」

「そうだよ。圭一君なんて特に、他人に弱みを見せようとしないことで有名だから、その分信頼の濃さを増して感じられるだろうね」

「そうかな…」と田上は少し照れながら答えた。

「本当に、誰にでも優しいくせに、いざとなったら怖気づいてしまう人だからね。…いや、私にしか怖気づかないのかな?」

 タキオンは、田上に質問してきたが、あんまり自分にもよく分からなかったので、首を傾げるくらいしかしなかった。

「まぁ、圭一君というものは複雑な人間というものでも有名だからね。その心を溶くのに、どれだけの苦労を費やしたか…」

「お前だって複雑だよ」

「おや、そうだね。簡単に上手くいく私達じゃなかったからこそ、この状況に心の底からの感謝が生まれてくるよ…」

 その後に、タキオンは「好きでいてくれてありがとうね」と玄関で犬の世話をしている親たちに聞こえないように小声で言った。田上も微笑んで頷くと「俺も」と言った。

 二人は、犬の世話が終わっても外に居ることにした。まだもう少しこの雰囲気を味わっていたかった。雨音は、徐々に終わろうとしている気配が窺える。雨は小粒となって、屋根から滴り落ちてくる雨水も先程のような勢いな無くなっていっていた。

 田上は、自分の濡れている指を弾いて、タキオンに水をピッピとかけた。タキオンは、それを呆れ半分、可笑しさ半分といった目で見つめてきた。そして、「元気だねぇ」と口を開いた。田上は、その言葉を受けると、また屋根から滴り落ちてくる雨水に自分の手を濡らして、タキオンに弾き飛ばした。今度は、タキオンも嫌そうな顔をしてこう言った。

「やめろよ。中学生かい?」

「童心を分けてあげるよ」と田上は中学生のように、自分の好きな人が嫌がるのを嬉しそうに見つめた。

「童心?じゃあ、私もやっていいってことだね?」

 タキオンはそう言うと、自分も屋根から滴り落ちてくる水に手を濡らして、田上に方にピッとかけた。すると、「うわっ」と田上は声を上げて、「やめてくれ」と言ったが、こうなるとタキオンも中学生だった。嫌がる田上が面白いので、その後二、三回水をかけてからやめてあげた。

 その後に二人はキスをした。お互いの事が愛おしくて愛おしくてたまらないキスだった。その間に、二人で少しの夢を見ていたようだったが、やがて、夢から覚めると二人は家の中に入っていった。

 

 二人は、家族と共に夕食を取り、それぞれに風呂に入り、田上は桜花の遊び相手なども務めた。

 今日は、二人で夜の空いた時間に桜花と一緒に遊んであげた。田上は、布団の上でゴロゴロしながら三人で遊んでいると、自分も桜花と同じくらいの年齢の頃を思い出せて心地が良かった。あの頃は、母もまだ元気に生きていた。田上も何も考えなくて良かった。このありふれた幸せが、二十五歳になっても変わっていないものだと、漠然と思っていた。考えてみれば、今、この布団で寝転がっている景色というのは、田上の求めていた景色かもしれないが、それにしては、景色の端の細かなところが違っていた。母はもうこの世にはいないし、自分はまだ結婚していないし、年下の教え子と付き合っている。

 そう思っていると、その教え子と目が合った。桜花とじゃれ合って遊びながらタキオンは、「なにかあるのかい?」と聞いてきた。田上は、微笑しながら目を落とすと、その時は「なにもない」と言った。

 そして、桜花と続きを楽しく遊んだ。まるで、タキオンと田上の子供のようによく懐いてくれて、田上も一種の夢の続きのような感覚を感じ始めていた。子育ての大変さなど一つも感じないで、子供とじゃれあって遊ぶというのは、夢のようなことだろう。その甘い幻想の中で、自分の妻のようなタキオンと目を見交わした。

 桜花も眠りに行き、時間が経って、部屋の常夜灯も消した頃、田上は、真っ暗な闇の中で静かになってしまった外の雨音を聞きながら、そっと口を開いた。その頃はまだ、常夜灯を消して間もない頃だったので、タキオンが起きているのは分かっていた。

「母さんが中三の時に死んで十一年が経った…」

「…うん」と暗闇の中でタキオンが返事をする声が聞こえた。

「……高校に上がった時は、もう大変だった…」

「…うん」

「……一番大変だったのは、父さんだったかもしれない…」

「…」

「……俺が不登校になって、幸助もストレスで腕をひっきりなしに掻いていた…。…父さんも、あの頃は大分痩せたと冗談を言ってた…」

 隣でタキオンがもぞもぞと体勢を変えて、より田上にくっつくようになっていた。

「……あの頃が一番大変だったかもしれない…。大阪杯の時も大変だったけど、あの頃も大変だった…。 それでも、なんとか生きないといけないと思って、高校には行った…。大学にも行って、…今では、こうしてお前と寝てる…」

 田上は、一言一言を呟くように言いながら、涙が出てこないように堪えていた。

「……父さんも、…孫の顔が見れたら喜ぶだろうなぁ…」

「…するのかい?」

 暗闇から不意にタキオンの声が聞こえてくると、田上は怪訝な顔をして「何を?」と聞き返した。

「…子供。…作るのかい?」

「…今はやめとけ。…それに、俺もそんなつもりで言ったんじゃない。…お前はまだ若いよ…」

 すると、タキオンは暗闇の中で少し頭を持ち上げて、田上の顔を僅かでも良く見ようとしながら、しかめっ面をした。

「子供を作れないほど若いと思っているのかい?」

「違うよ。……この、…あんまり碌でもない男と付き合って子供を産むには、まだ若い…」

「別れるつもりなのかい?」

 別れるという言葉を聞くと、田上の胸にはズキリと痛みが走った。

「別れたくはない。…でも、…お前はまだ若いよ…」

「…私を信用してないのかい?」

「…というより、自分を信用してない…」

 それを聞くと、タキオンの目は憐れむように変わった。

「そりゃあ、自分を信用してない人間は、他人も信用できないよ。…今からでも強引にすれば…?」

「強引にはやめてくれ。俺は泣く」

 タキオンは、後悔したように、ははは…と笑った。

「やめよう。…ただ、強引に圭一君と居続けるという理由を作ってしまえば…」

「それをしたら、遺恨は残り続けるだろ?…お前は、俺を縛りたいのか?」

 すると、タキオンはまた後悔のために、上げていた頭を下ろし、田上の横にゆっくりと寝転がった。

「縛りたいわけじゃない…。…ごめん」

「………お前は、…どこか焦ってるよな…。…俺のせいかな…」

「なんで圭一君のせいなんだい?」

「俺が、…たまに、お前から…離れたがるような言動をするから、…お前も…子供を作って、繋がりをより強固な物にしたがるのかな…と思って…」

 田上の言葉を聞くと、タキオンは見えない天井を見上げた。

「……そうかもしれないねぇ…」

「……父さんも、孫の顔を見れたら喜ぶとは思うんだけどなぁ…」

「…圭一君は、…お義父さんのために子供がほしいのかい?」

 一瞬の静寂が、二人の間に流れたが、次には田上もこう言った。

「いや、そうじゃない。…悪かった…」

「別に責めてるんじゃないよ」

「………ただ、ね…。未だに信じられないんだよ。…俺に子供ができるってのが…」

「圭一君は、信じるということを覚えたほうが良いね…」

「信じる?……俺は、お前だけは信じてるよ…」

「…彼女の喜ばせ方を分かっているね…」

「本心だよ…」

「それは分かっている。…ただね、その信じているというのは…、どういうことなんだろう?先程の言葉と矛盾していないかい?」

「……お前はまだ若いって話?」

「そう。私は、圭一君よりも八歳年下だけど、十分に圭一君と対等になれるくらいには、それ相応の年齢に達していると思うのだけれど」

「…八歳も年下かぁ…」

「なんだい?今更年の差が気になるかい?何回もキスしたくせに?」

「それは、…抉るなぁ…」

「抉る?」

「…お前もまだ若いんだよ…」

「話をはぐらかさないでくれよ。 そんなに子供の私が嫌いかい?」

「嫌いじゃないよ。ずっと傍に居てほしい…」

 その後の沈黙に含みがあったので、タキオンは少し苛つきながらこう言った。

「傍に居てほしいのかい?」

「…ああ。…傍に居て…」

 それきり二人は黙ってしまった。タキオンもイライラに任せて、微妙な質問をしてしまったので、その後が続かなかった。

 田上は、眠ってしまったかもしれない。寝息のようなものは聞こえないが、聞こえなくても寝ている可能性はある。タキオンは、深い沈黙の中でどうしても田上と話がしたくて、もう一度口を開いた。

「圭一君、…起きてる?」

「……ああ」と暗闇の中から声が聞こえる。その声を聞くと、タキオンも少し安心した。それから、今度は落ち着いた声でこう言った。

「答えを聞かせてほしいんだけど、……子供の私は嫌いかい?…こうやって、圭一君の傍で甘えて、好きでいる私は嫌いかい?」

「……童心があるな…」

「話をはぐらかさないでくれ。お願いだ。分からないなら分からないなりに話してくれ。圭一君に怒ったりなんてしないから…」

「………好きだよ…」

「それは分かってる…。分かってるよ…」

 その後に、田上は何かを言おうと思ってたいのだが、それは眠気に遮られて、忘れてしまった。だから、代わりにタキオンの手をぎゅっと握ることにした。そうされると、タキオンも心に嬉しさが込み上げてきて、少し混乱した。

「…圭一君、私の事を、手を握ってやれば許してくれるちょろい女だと思っているだろ」

「……怒らないんじゃなかったのか?」

「…。…そういう所ずるいぞ、圭一君は。言いくるめるのが上手だ」

「……何をそんなに焦ってるんだ?」

「焦ってる?…圭一君のせいじゃなかったのか?」

「…俺のせいかもしれない…。…行かないで…」

「行かないよ。圭一君の事が好きだから…」

「……人ってのは信用できないもんだ…。…お前の言葉だって…」

 田上がそこで言葉をつまらせたので、今度はタキオンが田上の手をぎゅっと握って言った。

「何をそんなに怯えているんだい?…そんなにこっぴどく裏切られた経験があるのかい?」

 田上の脳裏には、中学の時に告白した女子の顔が過ぎった。しかし、それを口には出さないで、「なんでもない」とだけ答えた。ただ、タキオンだってそこらへんの事情は知っていたので、田上の裏切られた思い出としてすぐにそれが思い浮かんできた。しかし、それは裏切られた思い出とは違うように思えた。どちらかと言えば、裏切られたと言うよりも、田上の人生の内で、最高峰の恥をかいた思い出として、田上の記憶の中に今もありありと残っているのではないかと思われる。それを裏切られたというのなら、逆恨みも甚だしいだろう。そうは思いつつも、タキオンはこう言った。

「中学生の時のあれはどうなんだい?裏切られたとは違うかい?」

「…あれは、…どうなんだろうな…」

「……私は、あれはあんまり圭一君の人生にそこまでの影響を及ぼしてないと思う。…勿論、それなりの痛みをもたらしただろうが…」

 そう言っている内に、タキオンの頭の中には別の考えが浮かんできた。もし、田上が逆恨みをしていたとしたら、やはり、その中学生女子に裏切られたと感じていることだろう。裏切られたと感じているのであれば、田上はその子にそれなりの信頼を置いていたはずだ。間違った信頼をその子に置いて、田上は裏切られたと感じている。傍から見れば、女の子も騙そうと思って田上と仲良くしていたはずがない。少なくとも、田上が語っていた感じではそのように思う。田上が勝手に勘違いして、その子に告白して、振られたと言うだけだ。それは裏切りとは言わないだろう。田上の勘違いだ。それを、もし、田上が裏切りとしていたとしたら、人は信用できるはずがないし、信用の仕方も間違えている。何が間違えていると、タキオンは言葉を使って説明することが出来なかったが、自分自身のことすら信用できないのでは、信用というものの捉え方を根本から間違っているように思う。

 そう思って、タキオンは言葉を途切れさせたが、次に、田上の体にもっと自分の体を寄せて、自分の信頼を示そうとしながら言った。

「いや、間違っているかもしれない。…裏切られたと感じているかい?」

 田上は何も答えなかった。身動きもあまりしてはいなかったので、タキオンは田上が眠りに就こうとしているのを感じた。それでは、今の話が、朝起きた時には別の話にすり替わっていそうだったので、タキオンは慌てて立ち上がり、常夜灯を点けると、目を瞑って眠ろうとしている田上にキスをした。

 田上は、少しの嬉しさを顔に滲ませながら目を開くと、煩わしげなふりをして「なんだよ…」と眠たそうに言った。

「この話は簡単には終わらせないよ。少なくとも、今、常夜灯は点けた。圭一君が寝ようとする度に私はキスをするからね」

「……キスしながら寝るってのも良いかもしれない…」

「何を気持ちの悪いこと言ってるんだい。その気になったら、圭一君の唇を噛んででも起こすからね」

「……トイレに行ってくる…」

 田上は唐突にそう切り出すと、立ち上がって、暗い廊下をとぼとぼよろよろと覚束ない足取りで歩き出した。タキオンは、その背中を心配そうに見つめながら「気をつけてね」と言った。

 

 田上は、用を足しながら、眠気に負けそうな頭の中でぼんやりと物事を考えていた。母の事、青葉に告白した時の事、タキオンの事、結婚の事、タキオンの父の事、タキオンの母の事、父の事、幸助の事…。それらの事を考えている内に、ついウトウトとしてしまって、いつの間にかトイレに長居をしすぎていた。それだから、慌てて田上は用を済ますと、タキオンの待つ畳の間へ向かった。

 田上は、タキオンがもしかしたら寝ているのかもしれないと思って、忍び足で畳の間の襖を開けた。案の定、田上のトイレの時間が長すぎて、タキオンは目を瞑って眠っていた。だから、田上は常夜灯を消して、そのすぐ隣に寄り添って布団に入ろうとしたのだが、ここでタキオンが田上の気配を敏感に感じ取り、目を覚ました。

「…長かったね…」

 寝ぼけた声でタキオンはそう言った。反対に、田上は長く考え事をしていたので、口調はいくらか整ったものになっていた。

「お前ももう寝ろよ。明日からでもこの話はできるだろ?」

「駄目だ…。明日になったら、この雰囲気が損なわれてしまう…」

 タキオンはそう言いながら田上の腰に抱きついてきた。こちらはもう、寝ぼけが頭で考えるネジを一本外しているのが分かった。

「でも、お前もこれ以上考えることはできないだろ?」

「いや、できる。…キスすれば頭もはっきりする…。…唇どこ…」

 タキオンがそう言って、田上の上半身を手で探ってきたので、田上も苦笑した。

「お前、寝ぼけてるぞ。 それじゃあ碌に話もできないだろ」

「大丈夫。…唇……唇…」

 そう言いながら、タキオンはまだ手で田上の顔を探り続けていたので、タキオンに甘い田上は苦笑すると、「常夜灯を点けるから」と断って、布団から立ち上がった。そして、明かりを点けて布団に入ると、そのまま眠たそうなタキオンにキスをされた。田上も少し嬉しく思ったが、すぐにタキオンを引き離すとこう言った。

「ほら、もうキスしたから寝よう?もう遅いよ」

「…遅くない。語り明かすよ?……恋人たちの夜はこれからだよ…」

 タキオンは、明らかに眠たそうな自分の声を聞いて、少し笑いながらそう言った。田上は、タキオンを引き離すために、寝ながらその体を持っておくのが辛かったので、自分の体の上にゆっくりと下ろして、その体をしっかりと抱き締めた。

「子守唄でも歌ってあげようか?」

「私の話を無視するんじゃない。…さっきの調子はどうしたんだい?あっちの方が話しやすいよ」

「さっき?」

「圭一君が眠たそうにしながら話してくれたじゃないか。…圭一君もさっきみたいに朦朧と話してくれなくなったな…」

「そっちの方が話しやすいのか?」

「いくらか素直だもの。勿論、今も素直で可愛い私の彼氏だが、寝ぼけていると、また、様々な心の中を話してくれる。私はそれが好きなんだよ」

「…じゃあ、もう今日は無理だな…」

「いや、もう少しこのままでいよう。圭一君は考えておいて。…お義母さんが死んでしまって、もう十一年経ったんだろ?」

「…そうだな…」

 タキオンは、その後に「あんまり冗談で言うようなことじゃなかった。ごめん」と付け加えた。

 二人は、常夜灯を灯したまま、タキオンが田上に被さった体勢でウトウトとしていた。田上も、タキオンの温かな体温を感じながら、もうこのまま寝てもいいや、と思い始めてきた。そんな時になって、タキオンはウトウトから目覚め、田上の唇にキスをして、その意識を乱した。田上は、少々煩わしかったが、タキオンからキスをする様子から見るに、あと十分程で彼女は眠りに就きそうだった。だから、キスされるままに任せて、田上は少しづつ眠りに就こうとした。

 しかし、タキオンの方も大分粘った。十分経っても二十分経っても定期的にキスを繰り返し、田上を寝かせようとはしなかった。終始、キスをされた後に耳元で「好き」と囁かれれば、田上も嬉しくてたまらなかった。そのせいで、田上の頭は現実と夢の境が分からなくなり、眠りたいのに眠れない変な状態になった。

 だからと言って、田上が母の事を考え始めるかと言えば、そうではなかった。頭の中には、――眠りたい、という思いだけが残って、他の事を思考する気にはなれなかった。

 タキオンも眠たかった。今すぐ、この温かく包み込んでくれる優しい男性の胸の中で眠ってしまいたかったが、どうしても話さねばならぬという思いがあって、田上に寝ぼけながらも度々キスをした。それでも、二人を襲ってきた睡魔は強かった。タキオンも徐々にキスをする事を忘れ、田上の体の上で寝息を立て始めた。田上も、タキオンがキスをしなくなると、たちまちの内に眠りに就いた。

 外を車が走っていく音がした。水たまりの水を跳ねさせながら通り過ぎていったが、もう雨音はしなかった。

 

 タキオンは、夜中に再び目を覚ました。今まで夢を見ていた。自分の胸に赤ちゃんを抱いている夢だった。この子が健やかに育つ未来への希望を感じながら、赤ちゃんを見ていた。田上も一緒に抱いてくれていた。しかし、その顔は悲しそうだった。「なんでこの子を産んだんだろう…」と言っていた。すると、タキオンの胸は苦しくなった。赤ちゃんの重みは増して、胸にのしかかってきた――。

 と思ったら目を覚ました。胸の息苦しさは、田上の上に寝ていて、変な体勢になっていたからだった。

 タキオンは常夜灯の明るさに目を瞬かせた。そのせいで、今が朝であるのか、夜であるのか、明け方に近いのすらも分からなかった。

 田上は、今も少し眉を寄せて苦しそうにしながら眠っている。その田上を起こさないようにしながら、タキオンはそっと立ち上がり、常夜灯の明かりを消した。外はまだ暗かった。それで、自分のスマホで時間を見てみると、まだ夜中の三時だった。――眠いはずだ…、と思いながらスマホの明かりを消すと、タキオンは田上の横にぴったりと寄り添って、二度目の眠りに就こうとした。そうすると、唐突に田上が動き出して、タキオンの頭を抱き締めてきた。寝ていると思っていた田上が、完全に起きている動きをしたので、タキオンは一瞬混乱したが、自分も田上の胴を抱き締め返すとこう言った。

「起こしてしまったかい?」

「………ああ」

 それから、二人は己の睡魔に一瞬意識をとられかけたが、持ち直した田上がこう言った。

「……母さんが…、夜にそうやって常夜灯を消してたのを思い出した…」

「……もっと聞かせて…」

「………お前と出会えて良かった…」

「私も…」

 そう答えたは良いものの、タキオンには続きの言葉が出てこなかった。ここで、田上の吐露を催促するのも違う気がするし、催促したとして話してくれるような気もしなかった。だから、タキオンは田上が話し出してくれるのを待つしかなかったが、その心には少しの焦りが滲んでいた。

 しかし、田上は十数秒ほど経った後、また口を開いた。

「……俺は、……話してほしいことってなんだ?」

「…圭一君の……好きな人の事…」

「俺の好きな人?」

 田上はそう言いながら、抱き締めているタキオンの頭をそっと撫でた。

「俺の好きな人はなぁ…、…凄いいい人だよ。こんな俺でも好きだと言ってくれている途方もなく一途な女…。…まだ女子高生なんだけどなぁ…」

「女子高生だと、その女性と付き合うのに躊躇いがあるかい?」

「…無いと言えば嘘になる。…良い人なんだけどね…。一途で、俺にはもったいないくらいの美人…なんだけど…」

「その女子高生が好きなトレーナーも、女子高生から見てみれば、自分にはもったいないくらいの優しい男性だよ。女子高生の自分の手を取ってくれる稀有な大人だよ」

「…実際は、その男もただの子供かもしれないけどな…」

「そんなことないよ…。私を好きでいてくれる稀有な存在さ…」

「…その女子高生も同じ年頃の子に恋をすれば良かったのにな…」

「その女子高生は、君が良かったと、落ち込みがちな男性にいつも言っていると思うよ」

「…男性は、…あんまりこの世に望みというものを持っていないから、そんな頼りない自分より、もっと未来に希望を持っている人に乗り換えてほしいと思っているよ…」

「男性も時には未来を想像してワクワクしていると、その女子高生は感じてる。女子高生が女子高生であることを忘れて、キスをしている時がある」

「…それは、…その男性も…女子高生のことが好きではあるから、…それに感化されているのかもしれない…」

「…女子高生が…男性の希望じゃ駄目なのかな?」

「希望……ではあるけど、…その希望は、消えてしまう可能性がある…」

「消えないと思う」

「いや、……男性は、その言葉を信じることができない…」

 田上がそう言うと、二人共黙りこくってしまった。タキオンはどうにか田上に自分の事を信じさせてみたかったが、何を言えば自分を信じてくれるのか分からなかった。しかし、ただ黙ってそこに居るようなタキオンでもないので、眠い頭で言葉を考えながら言った。

「女子高生は、……子供だから信じることができないのかい?」

「……いや、…そいつは、もう何も信じる気はないんだよ。いつからかは知らないけど、いつの間にかそうなっていた。 人を信じられる人を好きになったらどうだ?」

「女子高生が好きなのはその男性だよ。世界で一番かっこよくて優しい田上圭一というトレーナーだよ。アグネスタキオンが好きなのはその人だよ?圭一君もアグネスタキオンのことが好きじゃないか」

「……男は、…別の人に乗り換えてほしいと思っている…」

「そして、その女子高生が乗り換えたら、自分は不幸だと言うんだろ?自分で幸福になる道を手放しておいて、何を言うつもりなんだい?」

 そして、タキオンは「君の顔が見たい」と言って、田上の胴を抱きしめるのを止め、立ち上がって常夜灯を点けた。それから、また元の場所に戻って、田上の顔をしっかりと見つめた。田上は眠たそうな目でタキオンを見つめ返していた。

「男は、初めから幸福じゃない。生まれたときから幸福じゃない。だから、現状は何も変わらない。不幸が不幸になるだけだ」

「だから、そこから見える幸福を手放しておいて、自分は不幸だと言うつもりなんじゃないか。不幸が嫌なら、私の手を握って、正面から見つめてみろよ!」

 田上は、そう言われると、目を左右に泳がせた後、ぼんやりとしながらタキオンのを見つめた。

「男性はこれまでずっと一人だった。……だから、二人になる方法を知らない…」

「気負い過ぎなんだよ、その男性は。あるがままに二人で居ればいいじゃないか。言ってしまえばこの現状がそれだ。圭一君はそれを成し遂げてる。私と口論を交わすってのも、最早日常茶飯事だろう。でも、そこから逃げようとするんだったら私は許さないよ。絶対に、圭一君が私に――心底愛想が尽きたと言うまでは、地の果てまでも追いかけるから」

 そう言ったタキオンの顔を見ながら、田上の目は、一瞬しっかりとその顔を捉えて、またぼんやりとした目に変わった。そして、そうしながら田上は言った。

「…良いやつだな…、お前は。…俺にはもったいない…」

「まぁ、結婚するのは決まってるようなものだ。ここで大人しく観念しておくように」

 タキオンがそう冗談を飛ばすと、田上は微笑んだ。

 それから、こう言った。

「母さんも浮かばれるよ。多分、俺の結婚の事は死んでも心配してるだろうから…」

「ずっとずっと抱き締めてあげるからね。絶対に離さない。本当に離さない。君が何を言おうと、どう喚こうと一度掴んだが最後、私から離れられると思うなよ?」

「離れさせないであげてくれ。そいつは、すぐに逃げたがる」

「その点、男の方も頑固なやつだから、私が逃げようとしてもちゃんと手を取って抱き締めてくれる。中々、こういう優しくて大好きになってしまう男ってのはいないもんだね」

「ちゃんと手を繋いでてあげてくれよ?」

「勿論だよ。死んでも圭一君の手は放さないから、安心してくれていい。もう、ここまで来ると結婚は確実だ。もう、卒業と同時に籍を入れに行こうか?いや、引退と同時でも良いのかな?」

「引退と卒業、どっちが先になるのかはわからないけど、…卒業までに引退をしてたら、お前が晴れて卒業して高校三年生じゃなくなる四月一日に籍を入れても良いかもな…」

「その時には、私達も同棲しているね…。今からワクワクしてきたよ」

「…とりあえず、…今何時?」

「三時をちょっと過ぎた辺りだね。私はまだまだ寝れるよ」

 そう言うと、タキオンはふぁ~と大きな欠伸をした。それにつられて、田上も欠伸をして、二人でふふふと笑い合った。

 タキオンは今度こそ常夜灯を消して、二人隣同士で眠りに就いた。静かな夜と、心地のいい手の温もり、触れ合う肩の温もりがそこにあった。二人は、穏やかな深い眠りに就いた。

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