三十、ぬるま湯のような日差しの中で…
田上とタキオンの朝は遅かった。昨日の夜中三時まで話し込んでいれば、そうなるのは確実だろう。そういう所で、今日は、田上にはどことも分からない、大きな公園に遊びに行く予定だった。時間は聞かされていなかったので、田上も知らなかったが、どうやら九時頃に行く予定だったと言う。それで、昼飯を食べて目一杯遊んで、この家に帰ってくるというのだ。目一杯遊ぶことに関しては、二日目の内にやってしまっていたから、田上にはあんまり何をする予定もなかった。
そして、二人は、出ていく予定の九時に起こされた。特段、きっちりと時間を計っていくわけでもないので、そこらへんの時間は緩めだったが、起こされた時に「もうすぐ公園に行きますけど」と言われたら、田上の方も慌てた。タキオンの方は、寝起きで頭も上手く働いていないのか、「二人の準備が済み次第行きます」と言われても、大変にのんびりとしていた。それだけなら良かったが、田上の手を握って、動きを阻害しようとしてきたので、田上も弱ってしまった。
そんなこんなで、田上はタキオンの世話をしつつ、話しかけてくる桜花の相手をしつつ、顔を洗って服を着替えてトイレに行って、車に乗る所まで来た。タキオンはまだ眠たそうだった。田上もまだ眠たかったが、まさか「公園に行かないで眠る」とも言えないので、タキオンを急かしつつ自分も車に乗り込んだ。桜花は母の膝の上に座りたがったし、タキオンは田上の横に座りたがった。そうすると、後部座席は四人になって、少し窮屈だろう。だから、母が桜花に「前の席に座りなさい」と言ったのだが、妹は、タキオンみたいな顔をして駄々をこねた。その時はタキオンも特に気にしていなかったのだが、「じゃあ、タキオンが前の席に行って」と言われると、眉を寄せた。
「嫌だよ」とタキオンは母に言った。それで、母の方が田上の顔を見ると、タキオンは田上の腕を抱いて、「私は圭一君の隣が良い」と言った。タキオンの頑固さをよく知っている母だったから、その顔を見ると、――これは動かないな、と察した。しかし、桜花だってタキオンの妹であるので、同じくらい頑固だった。それで、母が板挟みになった時に、田上がタキオンの手にそっと触ってその名を呼んだ。呼ばれるとタキオンも田上の顔を見た。田上の顔は、「お前ならできるだろ?」と言っていた。こうなると、タキオンも弱い。惚れた男にこういう目をされたのならば、ここは女として引かねばならぬ所だろう。タキオンは、恨めしそうに田上を見つめながら、「分かったよ」と言うと助手席の方に歩いていった。
母は、それを見て事が上手く収まったことに驚いた。そして、田上が上手くタキオンを制御していることに、もっと驚いた。自分の娘と平気な顔をして過ごしていられる男だから、並大抵の男ではないと思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。――これなら、問題なく娘を嫁に出してやれる。母は、そう確信を深めて、桜花を膝の上に乗せた。
桜花は車に乗っている間に、田上に話しかけてきて、手遊びなんかをしたりした。田上も保育園の頃にやっていたり、小学生の頃に女子がそれで遊んでいるのを見かけたりした。ただ、女子が遊んでいた方は、遊び方は全く分からなかったし、リズムをとらなければいけなかったので、初心者の田上には少し難しかった。
逆に、保育園の頃にやっているのを覚えていたり、小中学生の時に雨の日など外に行けない時に遊んだ手遊びは、田上もちゃんとできた。桜花に教えることもあったので、ゴールデンウィークが明けたら、学校で桜花が広めに行くかもしれない。
タキオンは拗ねているかもしれないと思っていたのだが、案外、平気そうだった。時々、助手席から後ろを振り向いては、桜花と田上と母の会話に参加をし、田上の事をこっそりと愛おしそうに見つめた。
助手席に居るタキオンは、父の良い話し相手になっていた。と言っても、それほど口数の多い父でもなかった。それでも、娘には色々と聞きたい事、話したい事があるらしく、先日話したばかりだと言うのに、それなりに道中に大きな飽きがないくらい話していた。
どうやら、今から行く公園にはタキオンも何度か来たことがあるらしく、そのような前提で父が、外に見える物を指さして、あれが消えた、これが消えたと言っていた。大きなドラッグストアもいつの間にか潰れていたようだった。
山を上った先にその公園はあるようだったので、いつの間にか、景色はコンクリートの灰色から、緑色が主体のものとなっていた。そして、その緑色の中には、茶畑もあった。これは何年ぶりに見るかも分からない茶畑だった。鹿児島に行くときは、祖父母の家に遊びに行く道中で定期的に目にしていたが、それも中三になれば見る機会もなくなった。特にこれと言った思い出のある茶畑ではなかったが、それを見ると故郷に帰ってきたような心地になった。
タキオンも、茶畑に気が付くと、後部座席の方を振り向いて田上に「茶畑だよ、圭一君」と言った。それに母の方が反応して、こう聞いた。
「圭一君、お茶が好きなの?」
田上にされた質問だったので、多少戸惑いつつもこう答えた。
「いえ、…出身が鹿児島だったので…」
「へぇ!鹿児島もお茶があるものねぇ。…じゃあ、桜島とかも見たことあるんだ?」
「はい。あんまり、…山から煙が出てるだけですけど…」
「へぇ~」と母が感心した声を出した後に、タキオンが母に向かって言った。
「いつか、圭一君のふるさとの方に旅行しに行く予定だから。…新婚旅行で行くのも良いかもね?」
最後の言葉は、恥ずかしげもなく田上に向けられた。だから、田上も返答に困ってしまって、苦笑と愛想笑いの入り混じった顔をするしかなかった。
そして、母が口を開いた。
「…じゃあ、鹿児島の方にご実家が?」
「…いや、…母の病気が重くなった時に、大内県の方に引っ越したので、…そっちの方に家はありません」
「へぇ~」と気を遣ったような声が母の口から発せられた。
「…じゃあ、タキオンと旅行に行くときは、久々に鹿児島に戻るってこと?」
「まぁ、…はい。そうですね。行くとしたら久々に行くことになります」
そうすると、母は微笑んで助手席のタキオンに言った。
「ちゃんと迷惑かけないようにするのよ」
「私を何歳だと思っているんだい?もう、この人と結婚してもいい年齢だよ?いつまでも親が口出ししてくるもんじゃないよ」
すると、父も「そうだよ」とタキオンの言葉に反応した。
それから、桜花が「私も桜島見に行きたい~」と言った。それに、母が答えた。
「桜島って言ってもねぇ、ただ噴火するだけだったら桜花にはちょっとつまらないんじゃない?」
そして、母は田上にこう聞いた。
「鹿児島って桜島の他に何かあったりする?」
「えー…、山?と、…豚肉とか牛肉とか、…それと、…鳥の刺身もありますし、離島に行くんだったら、屋久島とかも…」
「ああ、屋久島ね。奄美もあるわね。…圭一君は、島の出身ではないんでしょう?」
「はい。普通の所です。特に、何もない所で…」
「ほら、西郷隆盛とか大久保利通とかもいるじゃない」
「ああ、そうですね。西郷さんも大久保利通もいます」
「あと、何があったかしらねぇ…」
そう母が考えていると、運転席から父が言った。
「鳥の刺身は?」
「それはさっき言ったわよ」
「おお、すまん」と父は謝った。それから、今度はタキオンの方が言った。
「あれがあるんじゃないか?…知覧特攻平和会館」
「おお、タキオンよく覚えてるね」と母が感心した。そして、「知覧に行ってみるのもいいわね」と言った。
田上は、思いがけず、自分が会話の中心になっていて、少し嬉しかった。この家に来てからはぶられ気味…という訳ではなかったのだが、何か壁のようなものがあると感じていた。特に壁らしい壁ではなかったのだが、今までは、タキオンとセットの自分として話しかけられていたのが、今回は、自分自身にしっかりと興味を持たれて話しかけられている、という感覚だった。
ただ、次第に会話は田上から離れていった。特段引き止めるつもりもなかったので、田上はその会話の流れを聞きつつ、話が振られればそれに答えた。そして、窓の外を流れる景色を見つめた。風景は、茶畑から山の緑に移った。五月の若い葉っぱは、陽の光に燦々と輝いていた。
大きな公園には、それに見合ったくらいの車が二十数台ばかり駐めることのできる駐車場があった。その駐車場の半分ほどが埋められていたので、公園もそれなりに賑わっていた。
桜花は、車から出るや否や、駐車場の中を走り出そうとし始めたので、慌てて母がそれを止めた。丁度、車が一台入ってきていたところなので、桜花をしっかりと見張らねばならなかった。
タキオンは、車から降りるとすぐに田上の所に来て、恋人のように田上と手を繋いだ。それがなんだか、周りに見せびらかすような手の繋ぎ方であるような気がしたから、田上も少し嫌な感じがしたが、今更どうこう言うものでもないので、そのまま手を繋いでおくことにした。
桜花は、晴れて走り回っても良い公園の芝生のところに行くと、一目散に駆け出して、芝生の上で綺麗な側転を二、三度やってみせた。姉に似て、運動神経もそれなりに良いようだった。それから、芝生を行った先にある坂を駆け上がると、坂のてっぺんにある大きな滑り台を滑ろうとしだした。母は、桜花の安全確認のためにその後を駆け足で追いかけていった。
タキオンと田上は、桜花ほど公園で遊ぶことに大きな楽しみを見出していなかったので、お弁当などの荷物を持っている父の跡について行った。そして、父はいい木陰を見つけるとそこのレジャーシートを敷いて、荷物を置いた。バドミントンやボールなど、この前児童公園で遊んできていたものを持ってきてはいたが、今は遊具があるので、桜花がそれで遊びそうな気配はなかった。
田上たちは、そのレジャーシートに座ったが、父は桜花の後を追うかけていくようだった。田上たちに「ここに居るのか?」と問いかけて、「居る」とタキオンから返されると、のんびりと陽の光の暖かさを感じながら、桜花の方へと歩いていった。
田上は、暇そうにレジャーシートの上に寝転がった。そして、タキオンが田上の上に乗って、寝転がってきた。初めは、田上の上に仰向けに寝ようとしていたのだが、これはあまりにも無謀だったので、多少胸が苦しくとも、田上の顔を見ながらその上に寝ることに決めた。田上は、そんなタキオンに反応は寄越さないで、木の葉の間から見える点々キラキラとした陽の光を見つめた。そして、一際大きな木漏れ日を見た時に目が眩みそうになって、慌ててタキオンの方に目を戻した。タキオンは、田上の上でリズムをとるように体を揺らしていたが、田上と目が合うと、そっと唇にキスをした。
それから、こう口を開いた。
「何か遊びでもするかい?」
「しない」と田上は、再び木漏れ日を見つめながら答えた。この木漏れ日を見つめ、タキオンの体の重みを感じ、それと共にじんわりと襲ってくる眠気を感じていると、田上のやる気は全く起こらなかった。それどころか、マイナスの方へ向かいそうな気もある。なんだかとても疲れたような気がする。そうして、浮かない顔をしていると、タキオンが再び口を開いた。
「なにか悩みでもあるのかい?」
「……いや、…眠い…」
「そうだね、私も眠いや」
タキオンは欠伸をしながらそう言うと、田上の上から降りた。そして、そのまま田上の腕を枕にしながら目を瞑ってしまった。田上も、流石に、ここまで来て眠るつもりはなかったのだが、タキオンが隣で目を瞑っているのを見ている内に、自分も眠りに就きたくなってきた。だから、近くから適当な枕になりそうなボールを、手を伸ばしてとると、それを頭の下に置き、次いで、体を横に起こすとタキオンの頭を抱き締めて、眠りに就いた。タキオンも、どうせ目を瞑るだけで、本格的な眠りには入らないだろうと思っていたのだが、彼氏の胸に抱かれて、その温かな雰囲気の匂いを嗅いでいると、自分も段々と眠りの底に引きずり込まれていった。
田上は、小鳥の声をすぐ近くで聞いたような気がして、はっと目を覚ました。辺りを窺ってみると、確かに小鳥がすぐそこの地面を跳ねて歩いていた。それで、緊張した体を脱力させると、目の前にはタキオンの顔があった。すうすうと心地よさそうに眠っている。この様子から見るに、昨日の夜更けまで起きていたのはタキオンにも堪えていたと分かる。田上は、そんな愛しい彼女の顔を暫く眺めつつ、どうにかしてこの頭をどける方法は無いかと、自分の頭の中で考えていた。
そんな時になって、遠くから桜花たちの話し声が聞こえてきたような気がした。「お姉ちゃんたち、まだ眠ってるねー」と言う声が、段々とこちらに近づいてくるような気がする。田上は、あんまりこういう仲の良い姿を、両親や桜花には見せたくなかったのだが、生憎、タキオンを起こさないでここから脱出する方法がない。だからと言って、今ここでタキオンを起こしてしまうのは、少し可哀想な気もする。それに加えて、田上は今この状況が気に入っていた。タキオンが自分の懐の中で安心して寝ている状況だ。だから、田上は、自身の自尊心よりもこの状況をもう少し楽しんでいられることに賭けた。両親も桜花も、何か言うとしても、その場限りのからかいくらいだろう。両親に至っては、気を遣って桜花を別の所に引っ張って行ってくれるかもしれない。それに、自分は今動けないのだ。動いてしまえばタキオンを起こしてしまう。タキオンを思いやるなら、動かないのが賢明だ。
田上は、絶好の言い訳を見つけて、両親にもし詳細を聞かれてもこう答えることに決めた。桜花は、もう、すぐそこまで来ていて、どうやら水分補給をしに来たようだった。田上は、ぎりぎりまで寝たふりをするかどうか迷っていたが、あんまり嘘を吐くのも嫌だったので、両親が近くまで来た頃合いを見計ると、まるで今起きたかのように、ピクリと体を動かさせて両親の方を見た。勿論、タキオンは田上の腕の上でまだ眠っている。
田上が振り向くと、桜花が「あ、起きたの~」と言った。田上はこの返答に迷って、暫く黙っていたが、特に気にはされなかった。そして、近づいてきた両親が、タキオンがまだ寝ていることに気がついた。田上は、やましいことをしているように見られはしないかと、少々怯えていたが、これも特に気にされなかった。むしろ、母からは「タキオンをこれからもよろしくお願いします」と改めて挨拶をされた。田上は、その唐突な言葉に「は、はい」とたどたどしく返事をするしかなかった。
タキオンは、桜花たちが水分補給を終えて、再び遊びに行ったとしても、まだ、すやすやと眠っていたが、やがて、「うぅん」と唸ると、田上の体に抱きついてきた。田上は、それを優しく受け止めながら、その頭を撫でてあげた。どこからか鳥の声が聞こえた。今度は、小鳥の鳴き声ではなかった。空高くから聞こえるトンビの鳴き声のようだった。その声が耳に入ってくると、それと共に清涼な風を感じた。木陰に居ても少し汗ばむくらいの暑さ、それも、タキオンとくっついて寝ていれば尚更な暑さだったので、田上にはその風が心地よかった。鳥の鳴き声と清涼な風の心地よさ、その二つが合わさった時、田上は頭の中にぼんやりと思い出されてくるようなものがあった。そして、最後にタキオンの小さな肩が田上に感じられた時、田上はどこかへ連れ去られていくような気がした。どこか遠くへ…。過去に流れる小川のせせらぎの音が聞こえる…。
田上は、夏も近い梅雨の晴れた日、蒸し暑さに重い体を動かしながら、小学校へと登校していた。隣には弟の幸助が居る。まだ小さい時分だ。この頃から我儘ばかりで可愛げは無いように思えるが、それでも登校する時はいつも一緒だった。
二人して、道端のコンクリートから生えている草花に気を取られながら歩いていた。まだ、遅刻になるまでは余裕があるので、こうして道草を食っていても良いのだ。しかし、今日は暑い。今まで雨続きだったのも嫌だったが、ここまで暑くなるとこれはこれで嫌だ。草花も心なしか暑さにしおれているような気がする。
田上と幸助は、そのコンクリートの道を歩いていた。だが、幸助は途中で友だちを見つけてしまったようだった。車が来ていないかを右左を見て確認をすると、そのまま道路を渡って、向こう側の歩道へと行ってしまった。それで、田上は一人ぼっちのまま、不意に見つけた道脇の昆虫の死骸に群がる蟻の行列を見ていた。それを棒でつんつんとつついてみると、一回転して転がってしまった。すると、田上には、蟻が混乱し始めたのが目に見えたので、面白くなってもう一度死骸を元の場所に戻してやった。それから、また死骸を転がす…というのを二、三度やった時に、自分の脇を、高校生が自転車に乗って通り過ぎていったので、集中が削がれた。途端に、日の暑さを感じて、田上は早く教室に行って扇風機を浴びたいという気持ちになった。
田上は、校門の前まで来た。そこまで来ると、散らばっていた小学生が蟻のように一所に集まって列を作っていたので、田上は少し面白くなった。しかし、蟻のように行き来するというわけではなく、ただ一箇所へと歩いているのに気が付くと、少しつまらなくなった。
靴箱の所でたむろしている女子の数人の群を見ると、その中に小学生の時分の好きな人が居るのが見えた。少々大人っぽいキラキラしている可愛い子だ。田上は、小学生男子の例として、大変惚れっぽい性質だったので、一度に好きな人を二、三人見つけて、それに順位をつけることなどもしていた。例えば、「マル子ちゃんが一番好きで、バツ子ちゃんが二番目に好きで、サンカク子ちゃんが三番目に好き」というようなものだ。大人になってしまえばくだらないもののように思うが、その時分は真面目に順位をつけていて、友達とは「あの子は不細工だよねぇ」と言う嫌な子供だった。ただ、田上は、自分からそのような事を言ったりはしない。多少の礼儀は心得ているので、人の悪口は言ってはいけないと思うのだが、友達と秘密の話をして、少しはしゃいでしまったときなどは、そのようにアホらしい子供になる。そうは言っても、子供というものは、大抵がアホらしく、大人になっていく内に色々な事を学んでいくものだ。
今回見つけた好きな人は一番好きな人である。田上の「好き」の基準は、最早顔と言ってもいいくらいだから、一番好みの顔の人と言ってもいいだろう。田上は、その人の事を期待している目で見つめた。話しかけるか、挨拶をされるか、そのどちらでもいいから、とにかく接触してみたかった。しかし、結局話しかけられはしなかった。女友達の輪の中で、きゃあきゃあと叫んでいて、靴箱に女受けの良い陽気でかっこいい男子が入ってくると、そちらの方にすり寄っていくばかりだった。
田上は多少がっかりとしながらも、扇風機を求めて教室へ歩いた。田上だって、別にそこまで暗い訳では無い。さっき靴箱に入ってきた陽気な男子とも、仲がいいと言えるくらいだ。むしろ、自分の教室で一番暗くて陰気なやつに比べたら、田上は陽気な方であると言える。顔も悪くはないだろう。小学生の頃は快活で良く笑う男子だったので、女の子にウケが悪いのかと言えば別にそうではない。女子とも立派に話していた。ただ、あのかっこいい男子が、女受けが良すぎるというだけだった。その男子も、女子の方と少し挨拶を交わすと、小走りで廊下を走ってきて、田上の横に着くと「おはよう」と挨拶をした。田上も「おはよう」と挨拶を返した。
かっこいい男子は、その後にこう言った。
「俺、今日宿題忘れちゃったぁ」
「なにしてるの?」と田上は、はははと笑い、その後も駄弁りながら教室へと歩いた。
教室に着くと、田上は早速扇風機を浴びるために、ランドセルを自分の机の上にほったらかしにした。そして、天井に取り付けられた扇風機が下へ向かって回転するごとに、田上もそれに合わせて回転した。それを見た教室の男子がもう一人、二人集まってきて、田上と同じように扇風機の回転に合わせて回転し始めた。女子は、それを可笑しそうに見つめながら、田上に「なにしてんの?」と言ってきた。田上は、嬉しそうに笑いながら「扇風機が回るのに合わせて回ってる」と答えた。そして、女子のことなんてなんにも気にしていませんよ、という風を装って、今度はもっと面白可笑しく回り始めた。その内に、教室は、扇風機に合わせて回っている男子だらけになったが、もうすぐ朝の会が始まる時間だった。田上のぎりぎりまでそれをして遊んでいたので、ランドセルから教科書を出したり、筆記用具を出したりして、引き出しにしまうという準備が終わっていなかった。だから、朝の会が始まるまでに着席できていなかったのは、田上と遅刻してきたあと一人二人だけだった。田上は、その際に先生から注意されたので、ちょっぴり泣きそうになりながら席へと座った。
気温はほとんど夏だった。扇風機もずっと来るのではなく、周期的にフワッフワッとしかそよ風を送ってこないので、教室の皆は汗をかきながら授業を受けていた。担任のずんぐりとした男の先生も、Tシャツを体に張り付かせながら一生懸命算数を教えていた。
時折、笑い声が上がる時があった。この先生は、小学生を和ませるのが上手で、偶に冗談を飛ばしては小学生たちを楽しませていた。
今日の予定の中に、グループで活動をするものがあった。四時間目の授業だ。近所のパン屋からいい匂いが漂ってくる。お昼近いこの時間帯にこれほどの匂いを垂れ流して、小学生たちのお腹をいじめているのだから、訴えられてもおかしくは無いと思う。
そんな事を思いながらも、田上は五、六人ほどのグループに分かれた。三十一人のクラスだったので、一つだけ六人グループの所がある。田上の所がそれだった。そして、そのグループの中に好きな人がいた。田上の斜め左後ろの席の子だったので、なんの躊躇いもなく話せるのがこのグループの中だけだった。と言っても、それほど仲が悪い訳では無い。まぁ、女子の中では大体仲がいい方だ。仲が良くなければ、それほど好きにもならないだろう。そうして、少しの興奮に包まれながら、田上は今話し合うべき議題を話した。
田上は、真面目な方だったが、世の中にこれほど真面目じゃないやつが居るのかと目を疑う時がある。まさに今このときだ。先生が話し合えと言っているのに、別の雑談をしようとし始めている。そんな人達を無理矢理にでも引っ張っていかないといけなかったのが、田上だった。とにかく、先生に怒られるのが嫌だったので、やるべき事はさっさと済ませてしまいたかった。ただ、他の話をするような人たちなので、田上がまとめ上げて話をつけてしまおうとすると、田上を話に引きずり込もうとしてくる。田上も人がいいのでその話に乗ってあげると、いつの間にか変に時間が過ぎている。そこで田上も必死になったので、他のグループ内の人も話し合いを始める、と言った具合だった。子供の頃から気苦労の多い田上だった。
五時間目の授業も六時間目の授業も同じ具合だった。ダラダラと間延びした授業の中に時折笑いが起こり、そして、また暑さに唸り続ける。
田上は、六時間目が終わると憂鬱になった、今日はピアノの習い事がある。弟と一緒ではあったが、頼りになるものでもない。嫌なものは嫌だった。ピアノ教室と違って、家にクーラーは無いが、それでもクーラーのない家でゴロゴロしながらゲームをしている方がマシだった。
田上は一旦家に帰るため、再び日が強く照っているコンクリートの上を歩いていった。今度は、幸助も居ないし、友達も今日は別の友だちと一緒に帰ってしまった。スイミングスクールの関係で、その子はそのままスクールに通うらしい。途中で喉が乾いてきたが、まだ水筒を持ってきてはいなかった。田上は、――明日から水筒って母さんに頼まないと…と思いながら、自分の影を一歩ずつ踏んで帰り道を辿った。
母は、ピアノのレッスンについてくる。自分より母のほうが、習い事に熱心だったが、田上もその時はそんな事を露とも思わなかった。ただ、自分がやるべきだから、このピアノをしないといけないんだと思っていた。ただ、音楽は嫌いではない。歌うのは好きだ。だから、ピアノのレッスンも結局行けばなんとも思わなくなる。心に多少のわだかまりは残るが、クーラーの効いたピアノ教室で一生懸命にチャンチャンチャンとピアノを鳴らしていた。弟よりも自分の方が曲の飲み込みは早かった。クラシックなんかはつまらないと思っていたが、自分の聞いたことのあるアニメの曲やJポップは好んで弾いていたのでこちらの方が飲み込みは早かった。
レッスンの時間は、四十分くらいで終わる。その後に付き添いで来ていた母とそのまま家の方に帰る。自転車でここに来るので帰りも自転車だった。母も車の運転はできたが、よく自転車を好んで使っていたので、子供である幸助も田上も自転車で帰った。
日はそれほど沈んでいなかったから、田上と幸助は、一つの携帯ゲーム機を持って外に出た。すると、近所の公園にやっぱり幼馴染が居て、携帯ゲーム機で遊んでいた。もう一人、田上のまあまあ仲のいい子も居たので、幸助と田上はそれに加わると、四人でゲームをして遊んだ。と言っても、幸助のゲーム機は田上の物でもあったので、田上と幸助は交代交代でゲームをして遊んだ。その内、先に遊んでいた二人の携帯ゲーム機の充電が切れたので、ゲーム遊びは止めになった。代わりに、まあまあ仲のいい子が持っていたサッカーボールを二対二で遊ぶことにした。まあまあ仲のいい子は、サッカークラブの子だったので、年齢が低くて弱い幸助とその子がチームになった。何度か遊んだことがあるので、幸助もその子とある程度面識はあり、快くチームを組んだ。それから、サッカーボールを奪い合うことにした。
流石に、田上も幼馴染も運動神経が悪い方ではなく、むしろ良いほうだったので、サッカークラブの子も苦戦を強いられたようだ。だから、その子が音を上げると、順番に幸助とチームを組むことになったし、幸助にもっと優しく相手をすることになった。
しかし、幸助も段々と年上とサッカーをすることがつまらなくなってきたようで、「つまんないからやめる」と唐突に言うと、ブランコの方に歩いていった。特に機嫌が悪くなったわけではなさそうだったので、田上たちも放っておいてサッカーで遊び続けたのだが、それも段々と飽きてきたので、田上たちはやめた。代わりに、また幸助を誘って「色オニ」をした。鬼の子が、色を指定して、その色に逃げる側の子が触れる前に鬼が逃げる側の子を捕まえるというものだ。
その他、色々な遊びを日暮れまでして帰った。水分補給は、公園の水道で行った。体は動き回って出てきた汗でびっしょりになった。そして、田上は、幸助と共に笑いながら帰っていった。
そこまで連れて行かれた時に、田上の唇に不意に触れるものがあった。いつもの感触だ。恋人の唇…。そこまで考えが行き着いた時に、田上は現実に引き戻された。今はまだ、暑いとは言うものの、春であり、梅雨にもなっていなかった。そして、目の前にはタキオンが居た。唇を重ね合わせていた。それに、思わず田上が身を引くと、タキオンはキスをするために瞑っていた目を開けて田上を見た。その顔は、少し心配そうだった。
「意識は戻ったかい?」とタキオンが聞いてきたから、田上は、その言葉の意図がわからないながらも、顔を困惑させて「うん」と頷いた。
「君、目を開いて起きているのに、目の前で手を振っても呼んでも全然反応しなかったから心配したよ」
「ん?…そうだった?」
「ああ、…全く、恋人を置いたまま考え事に没頭なんてしちゃ駄目だよ?」
タキオンがまるで女房みたいに言うから、田上も微笑んで「分かった」と答えた。すると、タキオンはまたキスをしてから言った。
「さっきの君、全然こちら側に焦点が合っていなかったから嫌だったよ。 少し不気味だった」
「そりゃあ、すまん」
「すまんで済むなら良いいさ。すまんで済むならね。本当にどこにも行かせてやらないから、夢の中にだって行かせてやらないぞ」
途端に田上はタキオンの束縛癖を思い出して、気が重くなった。タキオンの事は好きだし、とんでもなく良い人と思っているのだが、この束縛癖だけはどう扱ってやれば良いのか分からなかった。放っておけば成長とともに治るような気がするが、同時に、そうでもないような気もする。田上も束縛されるのは心地が良かったが、実際に行動を制限されると困ることも十分にあった。
そして、このような束縛癖を持つ恋人というのは男でも女でも聞いたことがあるものだった。田上だってタキオンの事を放したくないとは思うのだが、やはり、本物の行動を制限する恋人は違う。本気で行動を制限しようとしてくる。しかし、それでも好きな人だから、制限される側としてもやりきれなかった。
ただ、今の所は、田上の手も空いていた。今回のゴールデンウィークは、タキオンの心を満足させるために来たようなものである。両親への挨拶だって、本来ならもっと遅くても良い。それを今こうしてきたのだから、タキオンのためだろう。また、タキオンが二人きりになりたがっていたのも、この旅行に来た要因の一つかもしれない。その為に来たのであれば、田上だってタキオンを存分に抱き締めてやろうと思って、まだ、自分の腕を枕にしてきているタキオンをぎゅっと抱き締めた。
タキオンは嬉しそうにふふふと笑って田上の胸に抱かれた。そして、そこから声を発した。
「嬉しい」
「お前が嬉しいんだったら何よりだ」
「…最高の彼氏だ」
「ありがとう」
「…圭一君より良い男はいない。 大好き」
「俺も好きだよ」
それから、桜花と父母が二人の所に返ってくるまで、恋人たちは恥ずかしげもなく「好き」「好き」と繰り返し言い合った。田上もタキオンをずっと好き好きと言っていると、段々と心底惚れていくような気がして、彼女に夢中になっていった。タキオンも、自分に夢中になってほしくて、時折、田上の腕から抜け出すと、その唇にキスをした。
昼時になると、桜花と父母は戻ってきた。その頃まで、二人はお互いに夢中になって話していたので、桜花の一際甲高い声が聞こえた時、田上は途端に冷静になって、タキオンを置いて起き上がった。そして、またタキオンに服を引っ張られて、後ろにごろんと倒れることになった。その時に、驚いて「はぁあ!」と変に高い声が出たので、タキオンがクスクスと笑って、父母が見ているというのに、田上に被さって抱きついてきた。むしろ、両親に見せつけるためかと思われる。田上は、これに大いに困ってしまったが、どうも恥も外聞もないタキオンを引きはがせるものでもないので、「お義父さんとお義母さんが来ているよ」とだけ言っておいた。タキオンは、これに一瞬嫌な顔をして、田上を見たが、「意地悪なことを言うな」と言い返すとまた田上を力強く抱き締めた。
さて、これでどう父と母の顔を見ようかと思っていると、桜花が上から覗き込んできた。
「どうして、お姉ちゃん、お兄ちゃんに抱きついてるのぉ?」
タキオンが答えようとしないので、田上が代わりに答えた。
「お姉ちゃんも甘えたい時があるんだって。お母さんのお膝に乗れないから、こうして俺に抱きついてるの」
ははははと桜花が高らかに笑った。
「お姉ちゃんもお母さんの上に座ってもいいよー」
「…お姉ちゃんは、もうお母さんのお膝は卒業しちゃったから、…もう俺に甘えるしか無いんだって」
田上がそう言うと、また、あははははーと笑って、まだ少し遠くに居る父母の下へ走っていった。すると、タキオンが田上の耳元でこう呟いた。
「私にあんまり恥をかかせるんじゃないよ」
「今更恥も外聞もあるもんじゃないだろ。こんなに惜しげもなく抱きついているんだから、それを恥と思わないでどうする」
「こんなの恥じゃないさ」
「じゃあ、お義父さんお義母さんの前でもずっとこうしていろよ?俺に抱きつきながらご飯を食うってことだろ?」
「そりゃあ、…そうできるならそうするさ…」
「そうできない理由があるのか?」
「そりゃあ、家族の前に恥を並べる訳にはいかない…」
「でも、今も多分見られてるよ?」
「…もう少しくらい甘えさせてくれたって、誰も文句は言わないよ…」
「じゃあ、お前も文句を言うのは筋違いじゃないか?恥は自分でかいているんだから」
「棘があるねぇ。…私は、圭一君だから文句を言っているんだよ。文句を言ったって許してくれるじゃないか」
「そりゃあね、許すよ。許すけどね、そんなに簡単に文句を言われちゃ、こっちだって気が滅入るよ?」
「……じゃあ、私はどうすればいいんだい?」
「それが分かればこっちも苦労はしないが、とりあえず、…離れるの?離れないの?お義父さんお義母さんがもう来るよ?」
タキオンは、少し悩んだ末に「離れない」と言って、田上の首に抱きついたままで居た。