タキオンは、レジャーシートの上にお弁当が広げられるまで、田上から離れようとしなかった。田上が起き上がって胡座をかいてもその上に居座り続けた。両親には、恥ずかしかったのかあまり顔を見せようとはせず、田上の胸の中に埋めていた。
昼飯は重箱の中に作られていて、ウマ娘二人と男二人と子供一人が食べて、十分に満足できる量が入っていた。バッグから重箱が取り出されると、途端にフワッと香ばしい匂いが田上の下に漂ってきた。それで、思わずタキオンも田上の胸から顔を出して、その匂いの元の方を見ようとした。その時に、父と目が合ってしまって、タキオンは嫌そうな顔をして、また田上の胸に顔を埋めた。その様子を見ると、父がはははと笑って、田上に話しかけた。
「タキオンが小さい頃もこんな感じだった」
「へぇ」
「…こう、…今の嫌な顔が小さい頃とそっくりだった」
「桜花ちゃんとタキオンの顔って似てますよね」と田上が言った。桜花がこちらを見て、話を聞き始めた。そして、父は、田上の言葉に嬉しそうに笑った。
「そうなんだよ。桜花とタキオンは生き写しかと思うくらい似ているんだから、偶に、桜花の事をタキオンって呼び間違えることがあるんだよ」
「へぇ。…目とか鼻とか似てますよね」
「そうそう」と母が話に割り込んできた。
「私も間違えることがあるのよ」
それから、皆話す事がなくなって、桜花とタキオンを交互に見つめていた。タキオンは相変わらず、田上の胸に顔を埋めていて、聞こえているはずの外の話も、知らぬ存ぜぬという態度だった。桜花は、見つめられると、父にこう言った。
「お姉ちゃんと似てるの?」
「ああ、ホント、十数年前のタキオンだよ。ウマ耳がないのと、茶髪じゃないのとだね、違うところは。それ以外は、大体タキオン」
「嫌な時の顔とか、本当にタキオンと似てるな~と思います」
そう田上が付け加えると、父母から賛同があり、桜花が、ははははと笑った。
そして、母が余計な話をした。
「それで、私思い出したんだけど、圭一君、タキオンの扱いが私より上手いと思って」
「はぁ」
「車に乗る時に助手席か後部座席かで一瞬揉めそうになったでしょ?あの時に、圭一君がタキオンの顔を見ただけで、タキオンの心を変えさせちゃったから、これは凄い。私もそうちゃんもああなったタキオンを相手に、言う事を聞かすのは難しいから。桜花が生まれてタキオンが二人になった気分なのよ」
「桜花も聞かん坊なところがあるからなぁ」と父が、冗談めかしながら言った。田上は、苦笑しながら、自分の胡座の上で赤ちゃんのように丸くなっているタキオンを見ると、タキオンの方も田上を見てきていた。それが睨むようだったので、田上は八つ当たりされそうな気配を感じた。そして、その通り、タキオンは田上の頬に手を伸ばすと、その頬の皮をちょっとばかり引っ張った。大した痛みではなかったが、それでも、軽い痛みを感じさせるほどには引っ張ってきた。それで、田上がタキオンを注意するように見下ろすと、その手を引いてくれた。
昼飯時になってようやくタキオンは田上から降りた。初め、タキオンは正座で田上の隣にいようとしたのだが、やっぱり面倒だったらしく、すぐにその姿勢を崩すと、田上に甘えるように肩を寄り掛かれさせ始めた。田上も、これは大した面倒ではなかったから、タキオンが寄り掛かるのを許した。
タキオンの母は料理が上手だった。それで、母が「タキオンも結婚するんだったら料理を作れるようにならないと」と冗談を飛ばすと、父が「お前も昔は似たような物だっただろ」と先程の話の延長が始まった。
母も昔は、タキオンのように我儘だったらしい、これで娘二人が我儘なので、きっと気性が遺伝しているのだろう。そして、その我儘の手口もタキオンと似たような物だった。それらの事を暴露されると、母は誤魔化し笑いをして、「美味しい美味しい」と料理の方に話題をそらそうとした。そこで、田上が口を開いた。
「タキオン、また料理の練習するんだろ?いつぐらいにしたい?」
それにタキオンが答える前に、母が言った。
「料理の練習してるの?」
「ええ、あの、食堂を借りてやらせてもらってます」
「ああ、食堂って、あのおじさんたちまだ食堂やってるの?」
「ええ、まだやってます」
「懐かしい~」と父と母が口を揃えて言った。
「あんまり変わってないんだろうね~。 おじさんもおばちゃんも元気?」と母が聞いてきたから、田上は「元気そうには見えます」と答えた。
「ああいうところに勤めておけば、認知症にはなりづらいだろうね。毎日、色んな人が居て飽きないだろうから」
「そうだね」と父が返した。
タキオンは、田上の質問に「近くでいいよ」と返してきた。田上は、それに頷くと、残りのご飯を食べようとしてきたのだが、タキオンが「あ~ん」と言って、田上の顔の前に食べ物を乗せた箸を持ってきた。中々経験のないことだったから、唐突に目の前に持ってこられると田上も驚いたし、両親の前なのにこんなことをしなければならないのかと、嫌がった。桜花も姉の真似をして、自分の食べる物についていた大きめに切られた玉ねぎを母に食べさせていた。両親は、まぁ、あんまり娘が恋人といちゃついているのは見てやらないようにしていた。そして、タキオンが中々諦めようとしないし、両親の手前、あんまり強く拒否もできないので、田上は仕方なく口を半開きにさせて、タキオンがその中に食べ物を押し込んだ。
タキオンはそれを中々やめようとはしなかった。田上が一口食べ終われば、二口目を食べさせて、二口食べ終われば、三口目を食べさせた。田上には、タキオンが何をしたいのか分からなかった。両親の前でこんな事して、田上が嫌がっているのもタキオンはわかっているだろう。そういうところは、ちゃんと察することのできるタキオンのはずだ。ただ、タキオンの表情から察するに、嫌がらせをしたいというわけじゃなさそうだった。そうなれば、見えてくる答えは、タキオンと田上が恋人である様を父と母に見せびらかしたいというものだったが、一体なぜ見せびらかしたいのか、その理由が田上には分からなかった。
見せびらかしたいについては、何となく分かる。タキオンは、物事を確定させたがるから、少しでもその「確定」に近づこうと、周囲の認知を得ようとするのかもしれない。これには、心理的にふわふわしている田上の影響もいくらかあると思う。その認知を得るために、抱きついてきたり、手を繋ぐのであれば、田上もまだ分かる。ただ、こんなバカみたいにいちゃいちゃしなくてもいいんじゃないかと思う。何が不安なのかは知らないが、これだと、二人共大人なくせに分別のなっていなカップルのように見える。実際、両親にはそう見えているだろう。田上も嫌だったのだが、断るに断れなかった。だから、しかめっ面でタキオンを睨みながら、もう一度口にスプーンを入れられた時に、それを噛んで放さないでやろうとした。すると、タキオンは、急にニコニコするのをやめて田上を睨み返した。一瞬二人の間に火花が散ったが、桜花が、「あ、空の方に鳥が飛んでるよー?何の鳥ー?」と言うと、二人は睨み合うのをやめた。それがあっても、タキオンはもう一口食べさせてきたが、その後はもう自分のご飯を優先させた。田上に寄り掛かるのはやめなかった。
お昼になると、タキオンが桜花と母と遊びに行くと言ったから、田上もついていこうとした。すると、田上は、タキオンから「君は来なくていいよ」と言われた。まだ思い切り睨みつけたのを根に持っているのだろう。ただ、来なくていいよと言われて、レジャーシートの方に戻るわけにも行かなかった。そちらの方には父が眠っていた。今回は、桜花たちの遊びにはついていかないで昼寝をするようだった。田上は、父と二人きりで居るのも気を遣ってつまらないので、広い芝生をブラブラと横切ると、端の方にある背もたれのない石のベンチに座った。木の下だったが、日差しの関係上、影は横の方にそれていて、田上の体は陽の光に剥き出しだったし、石のベンチは熱せられていて楽に座れたものではなかった。
だから、田上は暫く不快に耐えて、その不快がいつの間にか快楽に変わらないかとぼんやりして座っていた。しかし、どうも無理そうなので、立ち上がると別のベンチを探した。結局、見つかるには見つかったのだが、ここまで来てタキオンと喧嘩というのもなんだか面倒だった。田上は、硬い石の上に怠そうにしながら座っていた。遠くの豆粒みたいな人の群れの中には、タキオンらしき人影が見えた。桜花と一緒に広い滑り台を滑っていた。キャーと聞こえたのがタキオンの声かもしれない。人の事をないがしろにしておいて、よくもまぁ楽しめるものだ。実際のところは、楽しんでいる演技かもしれない。しかし、演技であれ何であれ、田上は、タキオンに振り回されるのに少々うんざりしている頃だった。恋人として傍に居るのは心地が良いが、どうも…、といった具合だったので、もう嫌になって、硬い石のベンチの上に寝転がった。すると、足がベンチからはみ出して、足だけが陽の光に当たるようになった。じんわりと暑かったが、先程の熱せられたベンチよりはマシだったので、そのままにしておいた。
眠る気にはなれなかったので、田上は、午前中の時のように木の葉と木の葉の間から漏れ出る光をぼんやりと見つめながら考え事をしていた。今は、とことんタキオンに嫌気が差していたので、別れる、という選択肢まで頭の中に出てきていた。なんなら、今から一人で帰ってもいいとまで思っていた。ただ、別れてしまえば、タキオンがあまりにも可哀想だった。泣くだろうし、これまでの関係も一気に崩れる。例え、田上が雲隠れしようとも、タキオンには実家の住所がバレてしまっているので、そこまで訪ねてくるだろう。追い縋れるならどこまででも追い縋っていこうとする子だ。田上が実家まで逃げたぐらいじゃ追いついてくるし、田上が別の全然知らない場所に行ったとしても、父に迷惑がかかる。九州のじいちゃんばあちゃんの家にだって訪ねてくるかもしれない。
――とんでもないやつと付き合ってしまったなぁ、と田上はぼんやりと思った。タキオンの事は嫌いじゃない。好きだ。女性として好きだ。ただ、まぁ、見れば分かる通り、女性として、人間として今ひとつ欠けている所がある。タキオンとしては、田上になんでもしていいと思っているかもしれないが、田上だって生身の人間だ。モルモット君として薬を飲んでいた頃とは付き合い方も違う。人間同士として付き合っていこうという話だ。それをタキオンは、まだモルモット君として乱暴してもいいように思っている。しかし、田上には、これが手に負えない。ガツンと一発言ってやればいいと思うのだが、どういう言葉を選んでガツンと一発言ってやれば良いのか分からない。下手な言葉を選べば、反論して適当にあしらわれるか、怒らせて田上を振り回すか、だ。全く、田上が生身の人間じゃないならタキオンも適当に相手をしても良いのだが、生身の人間である以上、タキオンの乱暴に抗う術がない。キスなんて何回すればいいというのだろうか?これも一種の「確定」を狙って、キスをしているのだろう。こうやって、キスを繰り返すことで繋がりを強固にしようというものだ。田上を縛り付けようというものだ。そういう物が田上には透けて見えるが、タキオンには透けて見れないらしい。金持ちのお嬢さんだから甘やかされて育ったのか知らないが、ここまで人を想う気持ちを捨ててもらうと困る。父の方はしっかりとそういう教育をしそうなものだったが、できなかったのだろうか?
ただ、田上だって、子育ては一筋縄じゃいかないんだろうということくらい分かるので、あんまり父を責める気にもなれなかった。少なくとも、今見る限りでは人の良さそうなお義父さんである。
そんな想像を繰り返していると、段々とタキオンが可哀想という気持ちが積もってきたから、別れるという選択はさすがにしないであげた。どちらにしろ、別れるとしたら今世紀最大の大喧嘩をしないといけないだろうし、もしかしたら、首根っこを引っこ抜かれるかもしれない。
問題は、タキオンをどう取り扱うか?だ。ここ最近の田上の悩みの種だ。ここまで横暴に自分の事を扱われてもらうと、タキオンの方の扱いもまた困ったものになってしまう。一発ガツンと言いたいのだが、どう言えば良いのか分からない。これまでも散々話し合ってきたが、田上自身の弱みをタキオンに見せていたので、ガツンと言ったとしてもそれで揚げ足を取られる可能性もある。揚げ足を取られれば田上も弱かった。自分がなっちゃいないのだから、他人になれという道理は通用しないと田上の中で決まっている。他人にあれこれ言うのなら、まず自分からそれをしてみろ、ということだ。この道理は、筋が通っているのか、いないのか分からない。
他人に指図するのなら、上から目線で反感を買うかもしれない。なぜ、自分の方はできていないのに、まるでできているかのように振る舞うのか、ということだ。ただ、田上の場合は、指図ではなく、タキオンに頼み込んでいると言ったほうが正しいかもしれない。実際、田上はできるだけタキオンを怒らせたくないので、懇切丁寧に言うようにしている。丁寧に言っていなかったとしても、田上の悩みくらいタキオンは知っているはずだ。そして、タキオンは、それらの事を真っ向から弾き飛ばして、自分の我を通すために田上の欠点だけを指摘してくる。
真っ向から弾き飛ばす、というのが、タキオンの最も困る点だった。そうされてしまえば、田上は刃が立たない。タキオンが聞かないと言えば、タキオンは聞かないのだ。そうなれば、こちらも武器を振りかざすしか無い。例えば、「別れる」とかだ。ただ、田上はあまりそのような手荒な真似はしたくなかったし、それが間違った方向に転んで、本当に別れるような事になってしまうと、自分も悲しくなる。もし、手荒な真似をすれば、遺恨が残ることにはなるだろう。例えハッピーエンドだったとしても。
――ハッピーエンドならば、遺恨ぐらい残っても良いのだろうか?
田上はそう考えた。最終的にハッピーならば、遺恨が残ったとしてもハッピーなのだろう。…ただ、ハッピーエンドのエンドが、どの時点でのエンドかが分からない。少なくとも、この出来事を死ぬまで引っ張るということもなさそうだったから、結婚くらいまでだろう。結婚で一旦ハッピーエンドを迎えて、そこに遺恨を残し、「あの時は君があんな事を言ったね」とタキオンにチクチク言われるのならばそれは良いことなのだろうか?そもそも、残るくらいの遺恨があるのならば、完全なハッピーエンドとも言えないだろう。タキオンとは、できるだけ仲良く一緒に生きたかった。
武器を振り上げないとすればどうすればいいのだろうか?田上にはそこの所が難しかった。冷静に話していても、タキオンはキスで誤魔化そうとしてくる時がある。そうなれば、田上も冷静なふりをして、タキオンの腹に銃を突きつけなければならない。ここまで来ると、お互いの事がもう信用できていないような気がした。
――一度、腹を割って話さないとな…、と田上は思った。ただ、そうするときにも武器が必要な気がした。
田上が、ボーッとしながらタキオンについてあれこれ思いを悩ませていると、不意に桜花の甲高い声がすぐ近くで聞こえた。田上は驚いて半身を起こすと、その声の正体が桜花であることを確認した。桜花の目的は、田上を驚かすことだったようなので、それが成功して喜んでいた。その喜び方もタキオンと似たようなものだった。
母とタキオンは、遠くから歩いてきていたが、目が合ったタキオンは今まで母とニコニコ話していたのに対して、きつい目線を田上に向けた。だから、田上も嫌になって、また木の葉を見つめて寝転がった。桜花は、その上にドシンと乗ってきて、田上の腹を圧迫した。途端に、本当に嘔吐しそうになったので、慌てて「ゲロが出る!やめてくれ!」と叫んで、桜花を下ろした。桜花は嫌そうだったが、田上を睨むと、母の方に駆けて行った。そうされると、田上はこの家族のことが嫌になった。お義父さんだけは例外だが、お義母さんもどこか危ういところがあるので、この家の女性陣は皆タキオンのようなものかもしれない。皆タキオンのようなものなら、苦労をかけてもなんとも思わないとなると、田上の心は疲弊した。
ただ、桜花はすぐ機嫌を取り戻すと、今してきた遊びを色々と田上に話して聞かせてくれた。その中には、お姉ちゃんとあれしたこれしたも、ちゃんと含まれていた。タキオンと母は、そんな桜花の様子を少し離れた所から見ていた。田上は、桜花の話を聞きながらタキオンの方に不図目をやった。すると、やっぱり、タキオンは睨み返してきていた。そんなに睨むなら見るのをやめればいいのにと思うのだが、田上が見てない間もタキオンはじっと睨みつけてきているようだった。そうすると、やがて、母がタキオンの顔が険しいのに気がついて、言った。
「あんたなんでそんな顔をしてるの?」
田上にも聞こえるくらいの声が聞こえてきた。
「……なんでもない」
そう言ったタキオンの声は、絶対になにかある声だった。だから、母は、タキオンが睨んでいる田上の顔と、娘の顔を交互に見比べると、少し小声になって「喧嘩したの?」とタキオンに聞いた。これでも、田上の耳には聞こえたから、桜花の話半分で、こちらの話にも耳を澄ますようになってしまった。
タキオンは、もとから隠すつもりも内容で、頷くだけをした。これは、田上の視界の端に移ったし、次の母の返答でも察することができた。
「へ~、…お昼は仲良かったでしょ?ってなると、…一瞬で喧嘩したねぇ。いつの間に喧嘩したの?」
タキオンは、何も答えなかった。すると、母が言った。
「あんたね、圭一君、本当に良い人なんだから、手放さないように、ちゃんと貰っておきなさいよ。あんたに寄りつく男なんて今後いないかもしれないからね」
「……分かってる…」とタキオンは、むっつりと怒った声で言った。
「本当にね、あの人以上の人はいないんだから、ちゃんと優しくして、繋ぎ止めておかないと」
すると、母の小言にタキオンは「分かってるったら!」と大きな声を出した。自分より背の低い母を睨みつけたが、母だって、タキオンを産んだ母なので、タキオンと同じような顔をして睨み返した。桜花も振り向いてそちらを見たので、田上も一緒にそちらを見た。タキオンは、田上のことなど気にしていないように見えたが、一瞬田上の方に目をやって、田上が自分の事を見つめていると分かると、こちらの方にズンズンと歩いてきた。そして、怒りながら「今の話聞いてたね?」と言った。田上は、ここで嘘をつく気になれなかったから、タキオンの目を見つめながら「聞いてた…」と静かに言った。途端にタキオンは足を上げた。田上は――蹴られる、と思って身構えたが、タキオンは靴の裏で田上の肩を押しただけだった。そして、田上は抵抗することも虚しく、芝生の上にゴロンと落ちてしまった。母は、それを見て「あ、タキオン!」と怒った声を上げたが、タキオンは、田上の寝ていたベンチに座ると、「別れたいんなら別れればいい!」と言った。それから、下の田上にタキオンの栗毛のウマの尻尾がペシンと叩いてきた。田上は、起き上がってタキオンと喧嘩をする気になれず、ちくちくする草を首筋に感じながら、木陰を見上げた。いい陽気だが、気分はそれに伴わない。――もっと楽に暮らせたら…。田上はそう思った。
タキオンはベンチに座ったまま、田上は起き上がらないまま、少しの時間が経った。母は、タキオンに「圭一君をもっと大切に扱いなさい!あんたの恋人でしょ!」と怒っていた。タキオンは、「うるさい!」と母を黙らせた。桜花はその場に居るのが怖かったようで、ベンチの後ろに転げ落ちた田上の状態を心配そうに確認しながら、遠巻きにそれを見ていた。タキオンの尻尾は、執拗に田上の顔を触り続けてきた。何度も何度も田上の頬を撫でたり鼻をくすぐったりするからおそらくわざとなんだと思う。ただ、これは、タキオンが田上に怒ってほしくてそれをやっているのだろうと、見当がついた。だからと言って怒る気にはなれず、むしろ、タキオンの意思を挫いてやりたいという思いさえ湧いた。
くすぐったさに反応はなく、この胸の中に静かに煮えている怒りをどうしようかと思った。その怒りを爆発させるなら、もう、ここからトレセン学園まで帰ってやるのだが、生憎、道がわからない。タキオンも面倒な場所で怒ってくれたものだった。まだ、ここがトレセン学園で、両親が傍に居ないなら、本音をぶつけても遠慮はなかったが、両親の手前そうも行かない。八方塞がりだ。逃げることはできないし、かと言って、本気で戦うのもはばかられる。そんな所でどうやってタキオンと喧嘩をすればいいのだろうか?相変わらず、タキオンは田上に喧嘩をふっかけたくてたまらないらしい。母は、タキオンを怒っているが、それに夢中でベンチの後ろに倒れたままの田上を起こしには来ない。桜花は、相変わらず怯えている。ため息が出てきそうだった。もう吐いているのかもしれない。ただ、田上は、この八方塞がりにぼんやりとした怒りを感じたまま、何をするかも分からずに、自分の顔にちょっかいを掛けてくるタキオンの尻尾を握り、引っ張った。途端に、タキオンが真っ赤な顔をして振り向いた。そして、自分でふっかけてきた喧嘩だと言うのに、更に怒って、田上の頬を叩いた。結構、強かったので、口の中が切れたかもしれなかった。口の中に血の味が広がった。
母は、更に怒ってわーわーと喚いた。その声を聞きつけて、父がやってきた。これには田上も大分安心した。この場を収めることができるのは、この人くらいしかいないだろう。いくらタキオンでも、田上にはもうお手上げだった。地面に寝っ転がったまま、口の中の痛みに少し泣きそうになっていると、父が田上を覗き込んできて「田上君、大丈夫かい?」と聞いてきた。田上は泣くのを我慢して首を縦に振ると、ゆっくりと体を起こした。タキオンは、怒って芝生の反対側の方に駆けて行っていた。流石、現役のGⅠウマ娘だ。次の瞬間にはそこに行っていた。母も元GⅠウマ娘だからその後を追いかけようとしたが、流石に、現役の娘には勝てなかった。すぐに戻ってくると、今度は田上に気を遣い始めた。
田上は、「ええ、大丈夫です。大丈夫です」とばかり繰り返していた。遠くに走っていったタキオンが気になって仕方がなかったが、父母に囲まれていると抜け出しにくかった。それで、田上の安否が確認され、喧嘩の理由もタキオンが一方的に怒っているだけだと聞かされると、今度は、注意がタキオンの方に向けられた。田上は、タキオンのことを目で追っていたので、林の縁の木の陰に座り込んでいるのは分かっていた。そこに皆で行こうという話になったが、皆でぞろぞろ歩いていくと、タキオンが警戒するだろうから、まず父だけで行ってみることにした。田上は母と二人で居るのは嫌だったが、桜花の相手をできるからまだマシだった。桜花は、田上を心配しながら「大丈夫?」と言っていた。田上もいくらか落ち着いて、口を大きく開けると指を差して「ここらへんを怪我した」と言った。桜花は恐る恐る田上の口を覗き込んでいたが、どこを怪我したのかは分からなかったらしい。結局、田上も説明するのを諦めて、遠くのタキオンと父の影を見つめた。
父は、頭をぽりぽり掻きながら、どうしたものかと思って、娘の下に行った。もう高校卒業間近だと言うのに説教なんてしたくなかった。ましてや、娘の色恋沙汰に口を出したくもなかったが、タキオンがウマ娘であり、聞かん坊である以上仕方がない。自分が出でしゃばってやるしかなかった。
それにしてもタキオンはなぜ怒ったのだろうと、父は不思議に思っていた。全く、一瞬の内に喧嘩をしたようだった。昼飯の後には喧嘩をしていたというのだから、「あ~ん」をやっていた次の瞬間には喧嘩をしていたと言ってもいいだろう。確かに、田上君もあの「あ~ん」は嫌がっていたから、喧嘩をする理由はある。しかし、全く無言の内に喧嘩をしてしまうとは、中々、最近の子は難しいものだと、父は考えた。田上君も二十五なのだからそれなりに大人の目は持ち合わせているだろう。そうすると、タキオンの相手というのはつらいんじゃなかろうかと、思った。タキオンもまだ思春期らしく切れている節がある。そんな女の子を二十五歳が相手をするのは、どうも難しそうだった。ただ、言ってしまえば、自分も似たようなものだったので、少し苦笑した。
父は、タキオンの所に行くと、体育座りで顔を膝の間に埋めている娘に向かって、「タキオン」と呼びかけた。すると、娘は泣きながら「父さんは嫌。圭一君…」と言っていた。ポリポリと頭をかくと、父は芝生の向こうの田上を見た。桜花と話しているのが見える。――さて、どうしようか…。 ここで、田上を呼んできて、また喧嘩を始めてもらっても困る。しかし、――まぁ、取っ組み合いの喧嘩をすることもないだろう、と思うと、父は、また暑い日が照っている芝生の上を歩いて、田上を呼びに行った。
田上を呼ぶと、母も一緒についていこうとしたが、父が、「お前が行くと余計なことを言う。二人に一旦任せなさい」と言うと、その母を引き止めた。ついでに田上についていこうとした桜花も引き止めた。
田上は、日の照る芝生の上をとぼとぼと歩いていった。なんと言ってやろうか。どうしてやろうか。その時になったら、タキオンに流されてしまわないか。色々な考えが、一歩踏み出す毎に生まれては消えていく。全く以て面倒だったが、自分の彼女のことなので、自分で落とし前はつけなければいけない。本当に面倒だった。
田上はタキオンの前まで歩くと、その前に突っ立ったままでいた。タキオンがすすり泣いているのが聞こえる。きっと、先程の平手打ちを誤魔化すための涙だろう。そう思うと、田上は、誤魔化されまいと意思を固めて、「タキオン」と呼びかけた。タキオンは、顔を挙げなかったが、誤魔化されないためにはここで譲歩してはいけない。ここで優しい顔を見せてしまえば、甘い顔を見せてしまえば、また振り出しに戻り、苦労するのは自分だ。ここらで決着をつけなければいけない。そして、それが駄目なら、別れるというのも視野に入れなければいけない。
「タキオン」ともう一度呼びかけた。
「顔を上げてくれ。…話ができない」
「嫌だ…」とタキオンは答えた。すると、田上はもう面倒になって、タキオンと人ひとり分空けた距離の所に座ると、ため息を吐いて、仰向けに寝転がった。涼しい風が林の縁を流れているのを感じる。ここに居れば、いくらか頭は冷えそうだった。
いつの間にか、タキオンがすぐ隣に来ていた。田上は、――誤魔化すつもりだろう、と思うと、また一人分空けた場所に寝転がりなおしたが、するとまた、タキオンは田上の隣に来た。これではイタチごっこの上に茶番になってしまうので、別の方法をとらなければならなかった。田上は、なによりタキオンに誤魔化されるということをされたくなかった。
そして、ここらが潮時だろうと思うと、田上はこう言った。
「……口の中怪我した…」
タキオンは、今はもう大分落ち着いていたのだが、田上にそう言われると、またシクシクとして「ごめん…」と謝った。中々可哀想だったが、甘い顔を見せてはいけない。大人同士として付き合うのならば、田上がまずタキオンの子供扱いをやめてあげなければいけなかった。――俺は、子育てをしてるのか…、とぼんやり思ったが、子育てでもなんでも、タキオンと真正面から付き合うにはそうせねばならなかった。
「……俺にだったらなんでもしていいと思っているだろ?」
タキオンは何も答えなかった。
「……俺だって人だぞ。一人の人間だぞ。…俺は、お前の保護者じゃない。…彼氏だ。…恋人だ。…それを叩くっていうんだから、お前だってそれ相応の覚悟をしなくちゃいけない。今まで甘い顔だけ見せてたのは悪かった。……だから、…これからはお前には甘くはしない。お前を大人として扱う。女子高生じゃない。一人の人間だ。俺は、女子高生とは付き合わない。まだ子供だからだ。大きい子供の相手なんてしてられるもんじゃない。トレーナーと担当ならそれでいいが、男と女として付き合うなら、俺は大人の女と付き合う。そして、お前は大人の女だから付き合う。甘い顔は見せない。…それが嫌だったら、今すぐ振ってくれてもいい。今日の内にあの家を出ていくし、お前に迷惑がかからないように、トレーナーも辞める。どうぞ、自由に生きてくれ」
タキオンの泣き声は大きくなっていった。そして、唐突に、隣の田上に覆いかぶさると、「ごめん」と泣きながら言って、その唇にキスをしようとした。だが、田上はこれに抵抗して、タキオンの体を押しのけた。簡単に押せるものではなかったが、それでも、田上の本気を感じると、タキオンは案外簡単に身を引いて、自分の膝の間に顔を埋めて泣き始めた。田上は、その声を聞きながら、ぼんやりと五月初頭の日の暑さを感じていた。
タキオンは、一頻り泣いた後、寝転がっている田上の顔を覗き込むと、鼻水と涙を垂らしながら「ごべん」と謝った。田上は、僅かな笑みを顔に浮かべると、静かな声で「いいよ」と言った。すると、タキオンはもっと泣きながら「迷惑をかけることもあるかもしれないけど、これからも一緒に居てくれたら嬉しいです」と言った。田上は、また「いいよ」と言った。タキオンは、もっともっと泣いて、田上の首に抱きついた。
耳元で大声で泣かれた後、枯れた声で田上にこう言った。
「口の中…怪我したの?」
「うん、ここらへん」と田上が口を開けて指で示すと、タキオンがその口の中を覗き込んだ。タキオンにはどこを怪我したのかわかったようだった。再び、目に涙を滲ませると、「ごめん」と言って、田上の首筋に顔を埋めた。田上はその頭を優しく撫でてあげた。
田上の武器は、凶器にならずに済んだ。ただ、武器がそこにあると示すだけの結果になったのは、田上としても上々じゃないかと思った。遺恨も残りにくいものだと思った。その武器で、お前が俺を刺すか、お前が俺に刺されにくるか、そういう提示の仕方をできたのは本当に良かった。その武器が使われないことを選んだのはタキオンだったし、田上が、使うつもりも無いということを上手に示せたと思う。
タキオンは例のように、仲直りした後にキスをしようとはしなかった。この結果も、自分の言いたいことがちゃんとタキオンに伝わったのだと思って、嬉しかった。もしかしたら、ただ単に田上が本気で嫌がったことに対して、怯えてしまっただけかもしれないが、田上としては、ようやくタキオンが落ち着きを取り戻したのだろうと思った。ただ、そうすると、いつキスをすればいいんだろうという疑問が湧いてきたが、今の所はどうでも良かった。タキオンとのわだかまりが一つ解決したように思った。
二人は、手を繋ぎながら、遠くで自分たちの事を見てきている両親の下へ戻った。そして、目の前に行くと、二人で「ごめん」「すみませんでした」と頭を下げた。両親は、とやかくいうこともせずに、「仲直りできて良かった」と言った。――何回喧嘩をすればいいのだろうか?と田上は思った。