レジャーシートの方に三時のおやつを食べに戻った。タキオンも大いに泣いたので、水分補給と休憩をしなければ、午後に田上と遊べなかった。タキオンは、おやつを田上に食べさせていたが、これは、先程のようにしつこくなかったし、見せびらかすようにイチャイチャもしなかったので、タキオンの謝意の表れだと思う。バレンタインの時にもこれと同じような事をしたことがあり、今回のはそれと似たような雰囲気だったので、状況は違えど、タキオンは、人に何かを分け与えるというのが、好きなのかもしれない。現に、田上の口に直接運ばずとも、手渡しだけで済ましてくる時もあった。直接口に入れてくる時は、それはもう好きだから抑えようがないのかもしれない。中々、まだまだ若気の至りのようなことはあれど、田上とタキオンの関係性は一つマシになったような気がしたし、田上がタキオンと付き合う上での心意気も一つ明確になったような気がした。一番気をつけるべきは自分だった。身近にいる人で一番タキオンを甘やかしていたのは、自分だった、子供扱いしていたのが自分だった。大人のタキオンと付き合いたいと言っている時点で、甘やかしていては駄目なのだ。言葉と行動が矛盾している。大人の女と付き合いたいと言うからには、まず自分が認識を改めるべきだった。そうしなければ、田上のことが好きなタキオンは、その認識に順応しようとしてしまうだろう。タキオンは、とにかく田上に縋りたくてたまらないのだ。そして、縋られるのが嫌なのであれば、それ相応の態度を取ってタキオンと接するべきだった。
――これからは一人の自立した人間として、タキオンと付き合おう。
田上はそう心に決めた。ただ、心の何処かに、まだタキオンを甘やかしたい自分も居て、それに振り切るには、田上の心はふわふわとしていた。だから、タキオンが少し可哀想になった。自分と付き合わないで、もっとマシな人を好きになっていれば、こんなに振り回されずに済んだろうに…。
二人は、おやつを存分に食うと、それなりに仲良く遊んだ。バレーボールもあったので、それをぽんぽんと空高くに飛ばしながら遊んだし、桜花の案内で、滑り台をタキオンと二人で滑ることもあった。予想外に勢いが出たので、二人が絡まって滑ってしまい、怪我をしそうになったから、改めて滑り台を複数人で滑ってはいけないという注意事項を思い出した。ただ、怪我をしなかったので、二人で滑り台の下に転げ落ちながら、大いに笑った。
まぁ、色々な遊びをして五時くらいまで過ごした。最後辺りになると、田上が疲れてきたので、まだまだ遊び盛りの桜花を置いて、タキオンと二人でベンチに座っていた。こういう時に、タキオンはキスをしたがる人だったが、今回はしなかった。それどころか、肩を寄り添わせて、田上の肩に自分の頭を軽く置くということに、恥じらいを見せているようでもあった。手を握っていたのだが、その手の握り方も今までとは少々違うように思えた。今までは、少々強引にでも自分の「手を繋ぎたい」という欲求に任せて、田上を無視して繋ぐような繋ぎ方だった。しかし、今回は、田上に同意を求めてくるような、そっと寄り添わせてくるような繋ぎ方だった。もしかしたら、こういうのも時間が経てば元に戻るのかもしれないが、タキオンの優しい手付きが、今は大変に穏やかで居心地が良かった。タキオンも田上の心の安らぎを感じたのか、そんなに話もしないで、そっと田上の隣に居るだけで充実を感じているようだった。
泣いてからのタキオンは静かだった。幾分反省したからかもしれないし、単純に泣いて疲れたからかもしれない。家に帰るために荷物をまとめていた時も、タキオンの声は少し枯れていた。
今度は二人共、本当の恋人のようにお互いを気遣いながら手を握っていた。荷物を持って、車に戻る時に「君が恋人で良かった…」とタキオンが呟くように言った。田上は、それに何も答えなかったが、少し嬉しそうに微笑した。
帰りの車は、桜花が助手席の方に乗ったので、タキオンと田上が隣同士になった。もしかしたら、大泣きしたお姉ちゃんに気を遣って、彼氏の隣に居られるようにしてくれたのかもしれない。もし、そうなのであれば、小学二年生にしては大した気遣いのできる子だった。将来は、大成するかもしれない。
相変わらず、タキオンは静かだった。田上越しに窓の外を見て、茶畑を再び見た時も「茶畑だね…」と静かにしか言わなかった。特に、落ち込んでいるような声色でもなかったので、田上はそこらへんのことは気にしなかったが、段々と不安になってきた。田上は、彼女を矯正してまで一緒にいたくはなかった。できるだけ、ありのままのあなたでいいと思う性質の人だった。
この「ありのままでいい」というのが曲者だった。他人に順応すること、環境に順応することは、ありのままのあなたじゃないのだろうか?洗脳されたらありのままのあなたじゃないのだろうか?ある思想に影響されたあなたは、あなたじゃないのだろうか?
思想を持たないあなたこそがあなたなのだろうか?科学で説明されるあなたは一体誰なのだろうか?ある身体的特徴が、科学によって「0.1%の確率で現れます」と説明されたあなたは、0.1%のあなたなのだろうか?
ありのままというのはあまりに曲者だった。なにがありのままなのか説明できるものではない。一人ひとりがありのままのあなたなのよ、と説明されたら、浅いのだか深いのだか分からない言葉に「はぁ、そうですか」と頷かないといけなくなる。一見説得力がありそうな言葉だが、「では、ありのままとは一体何ですか?」と聞かれると、「それは、あなたこそが知っているものなのよ」と言いくるめられそうな気がする。
では、自分のどこに、ありのままがあるというのだろうか?思想は、成長と共に変わることがある。外見は、事故を起こして怪我でも負ってしまえば、一瞬で変わる。感情はどうなのだろうか?これは、科学で説明されてしまう。〇〇というホルモンが出ると、嬉しくなりますよ。赤ちゃんが愛おしくなりますよ。攻撃的になりますよ。そうやって説明されるのであれば、「あなたこそが知っているもの」という表現はおかしいように思う。「ありのままとは、科学で説明できるものである」と言ったほうが良いだろう。すると、ありのままとは他人が分かるものなのだろうか?親しい人であれば、「あなたのありのままとはこんなものですよ」と言って、ありのままを指図できるのだろうか?
そんな物をありのままとは言わないような気がする。とすれば、「ありのまま」とは「ありのまま」なのだろうか?思想が変わるのも、外見が変わるのも、ホルモンによって攻撃的になるのも「ありのまま」なのだろうか?人体が起こす不思議によって、特定のホルモンが注入されると、性格が大人しくなるのも「ありのまま」なのだろうか?科学信仰によって、空気中に漂っているかもしれない1%のウイルスに怯えながら暮らすのが、「ありのまま」なのだろうか?
彼氏と一緒に過ごす内に、その彼氏に適応するのが「ありのまま」なのだろうか?獣のように強姦して、自分の性欲やらなにやらを、自分の気の向くままに充実させるのが、「ありのまま」なのだろうか?社会秩序に基づいて生活をしている自分は、「ありのままではない」と言えるのだろうか?
田上は、なにより自分が変わってしまうのが怖かったから、そういう事を色々考えた。タキオンのしたいままにさせれば、苦労するのは自分である。だから、タキオンはその子供っぽさの残るありのままで、別の男と付き合うのが良いのだろうか?しかし、タキオンは、その子供っぽさの残るありのままの姿で、「君と付き合いたい」と言っている。田上は、それじゃあ嫌だ。これをありのままというのなら、二人はぶつかることになる。そして、どちらかが折れないといけない。そうすると、どちらかのありのままは挫かれるということになる。これが挫かれると、どちらか一方は生涯ありのままで生きていけないということになる。
これではあまりに不器用な「ありのまま」だった。ありのまま、と言うからには、どの姿だってありのままでないといけないのだろう。そうすると、やはり、ありのままはありのままとして、時間や思想で変化していかないといけない。すると、ありのままで生きて行けていない人、というのはどんな人なのだろうか?田上は、思考に基づいた答えにより、――変わることができない人がありのままに生きることのできない人、と位置づけた。ただ、これも「ありのままである」と揚げ足を取ることはできる。ありのままとは「万物を認めること」であるならば、変わらない人というのも認めなければいけないことになる。しかし、苦しくなりながら生きるのでは、「ありのまま」も良いものじゃない。皆が皆、ありのままを勧めるのならば、それは良いものとして勧めてくるのだろう。
――しかし、と田上は思った。
――しかし、ありのままということが「変わることを受け入れる」ということならば、その「変わる」とはあんまり心地の良いものじゃない。現状維持は何もせず、何も考えずで、居心地は良いが、変わるとなると、何でもかんでも考えることが増えるし、やることもある。となると、ありのままに生きるというのもあんまり楽じゃない。
そう田上は思った。そして、またタキオンの方に考えを戻すと、不安になった。ありのままというのも全く楽なものではない。
皆がこぞって「ありのままがいい」と説く理由は分からなかったが、とりあえず、タキオンとは折り合いをつけて、喧嘩の度に幸せになれる道を見つけていけたらいいと思った。それで不安になるのだったら、タキオンに抱き締めてもらえばいい。タキオンが不安になるのならば、田上が抱きしめればいい。そして、それからもまだ諍いが起きるのならば、タキオンと折り合いをつけて、解決策を探ればいい。今回は、田上がもう我慢がならなかったから、タキオンに苦情を申し立てた。それで、タキオンが折り合いをつけて、もう少し大人しくなるように心がけてくれた。ただ、ありのままというのも楽じゃない。ありのままという言葉に目を奪われすぎると、何をしたいのかを忘れる。田上は、タキオンと一緒に幸せになりたかった。
ここで、見えない大きな手というものを感じる。あたかもこの世界には神が居て、その神によって、自分とタキオンが結婚するかも、何が幸せかも決められているのじゃないかということだ。そして、その神によって、自分たちの間が引き裂かれてしまったらどうしようと思う。ありのままとして受け入れればいいのだろうか?それは、あまりにも不人情な気がするから、この世は、ありのままだけでは成り立っていないと思う。
全く、不安になると話に脈絡がなくなるから困る。不安になった途端に、ああなるんじゃないか、こうなるんじゃないかと心配になる。ありのままになってこれが解決されるならそれがいいが、どうもその様子じゃないから駄目だと思う。あんまり、この世に生きて、考えを持っているというのが嫌だった。どうせだったら、犬か猫に生まれて人様に飼われれば良かった。犬か猫にも人とは違う物の感じ方があるから、それになった所で不安が完全になくなるのかと言われれば、断言できそうになかったが、そうするとこの世に生を受けて、生まれ落ちてくる事自体嫌になる。タキオンも四月末辺りにそんな事を言っていた。その時は、田上も――一緒に生きるから、と言った。今田上が同じ事を言えば、タキオンはなんと答えるだろうか?
おそらく、田上と同じ事を言うような気がする。
田上は、繋がれたタキオンの左手を感じながら、車の中に居た。タキオンの方はあんまり向かなかった。特に用事があるというわけではなかったし、タキオンの顔をいつまでも見つめていたってしょうがないので、車の外を流れるようにして去っていき、様々に飽きさせない田舎の風景を見ていた。道中にある錆びた看板には、何か標語のような物が書かれていたが、風化して真ん中の方が見えなくなっていた。車の絵があったので、大方、「よそ見運転厳禁」みたいな事かもしれない。
タキオンは、そんな田上の気を引くようなことはしなかったが、自分がつまらなかったのだろう。偶に、田上の指を引っ張ったり縮めたりして遊んでいた。そういう時に気が向くと、田上はタキオンの方を向いて、微笑みながら「何?」と言った。タキオンも同じように微笑むと、「なんでもないよ」と言った。
桜花は、遊び疲れたのか、いつの間にか眠っていた。母も少々疲れたのか、行きの車の中ほど喋ろうとはしなかった。だから、車内はとても静かだった。車がコンクリートの上を走っている音しか聞こえない。そして、タキオンの方もいつの間にか眠っていた。自分の肩が重いなぁ、と思ったら、タキオンが田上の肩に寄り掛かって眠っていた。その寝顔には大分疲れが残っていたので、田上は申し訳なくなった。付き合ったのが、自分じゃなければ…。そんな事を今更どうこう言ってもしょうがないのだが、そう思わずにはいられなかった。
家に帰り着くと、田上は隣のタキオンを揺り起こしてあげた。タキオンは、「うぅん」と唸って伸びをすると、一旦また田上の方に寄り掛かったが、十数秒後にゆっくりと目を開けると、「帰ったの?」と言った。田上は静かに頷くと、「もう帰ったよ」と言った。日は落ちていた。家の玄関の扉を開けると、置いてきていた犬が嬉しそうに出迎えてきた。公園で遊ばせても良かったのだが、車の中が満員だったので、今回は家に置いてきていた。
タキオンは相変わらず静かだったが、田上の隣に居ることを楽しんでいる雰囲気が感じ取れた。それが、田上にはなんだか嬉しかった。田上は、質素な生活、物に少しの不自由のある生活というものを愛していたから、こういう落ち着いた交際のほうが良かった。きらびやかな遊園地に行くよりも、安い植物園に行くほうが良かった。ただ、タキオンが遊園地に行きたいというのなら、別に断る理由もないので、行くことには行くだろう。
しかし、今のタキオンは、遊園地に行くタキオンよりも植物園に行くようなタキオンだろう。植物園だって、遊園地より劣るかと聞かれれば、色々な工夫をして飽きさせないようにしている植物園もあるだろう。ただ、田上は、遊ぶと言うよりも二人の時間がほしかった。タキオンも田上をよく理解してくれている人だから、田上がそういう性質の人間だということをちゃんと知っていた。それでも、振り回してくるようなタキオンだったが、今、洗面台の横に立って、自分の順番を待っているタキオンは違った。タキオンは、田上に優しく微笑みかけていた。その表情は、少し思慮深くなったように感じた。
夜になってご飯を食べ、風呂に入って、寝床に横になった。まだ眠るつもりはない。ただ、暇つぶしのためにタキオンと布団の上に寝転がっただけだ。明日帰る支度をしなければならなかった。明日、早めの昼飯を食べたら、学園の方に帰る予定だと母に告げていた。桜花は、その時に「ええー、嫌だ―」と言っていた。この分では、帰る時には少々ごねそうだった。田上は、「また来るよ」と桜花を落ち着かせるために言ったが、案の定、タキオンと父と母にふふふと笑われてしまった。そして、「次はいつ来るの?」と桜花に聞き返されたが、これには答えることはできなかった。生憎、遠出をするのはそんなに好きじゃなく、頻繁にはしたくなかった。だから、田上はタキオンの方を見ると、「いつだろうね?」と聞いた。タキオンも特に予定はなかったので「いつだろうねぇ」と返した。それで、田上は父と母に向かって、「宝塚記念に出走するんですけど、観に来るんですか?」と聞いた。その時に、タキオンは少し嫌そうな顔をした。父母は、顔を見合わせた後に、「予定が定まっていないからわからないけど、なるべく行くつもり」と答えた。タキオンの嫌そうな顔には誰も気が付かなかった。
桜花は、自分が宝塚記念に行くよりも、田上とタキオンが、この家に来てくれる方が嬉しいようだったが、田上は、自分の家にも六月の内に帰らないといけないため、そこまで直近で行けるわけでもなかった。そして、七月八月になれば、夏校舎に行くことになる。夏校舎は、東北の方にあるので、またこれも遠出だった。一応、夏校舎からまた別の場所へ旅行はできるのだが、まぁ、その時になってみないとわからないかもしれない。
二人は、布団の上で少し散らばった荷物を片付けたが、田上の携帯ゲーム機だけはまだ使うので、そのまま置いておいた。それから、あんまりやることもなかった時に、自分の仕事の事をまとめたプリントを眺めていた時があり、それを入れたファイルもまた、外に出ていたので、片付けた。その際に、田上はこう言った。
「……二人目は、…どんな人なんだろうな?」
「…え?」
「チーム。 あと二回選抜レースがあって、あと二人スカウトしようと思ってるけど、どんな人になるんだろうな?」
「……あんまり嫌な人は嫌だな。そこらへんの性格も加味して選んでくれないと」
「…そうだね。…となると、無難な人か?」
「無難がいいね、私は。…できるだけ当たり障りがなくて、大人しい子がいいよ。間違って変な子を選ぶと、私が気兼ねしないといけなくなる」
「そうだなぁ。…リリーさんはいい人選だったね」
「リリー君はいいとも。マテリアル君も、まぁ、いいだろう。…年下がいいね。年下が扱いやすくていいよ。私を尊敬している人も多いだろうし」
「同い年だって、尊敬してる人はしてるだろ?」
「まぁ、そうだが…」
「…まぁ、年下だろうと年上だろうと、人を見て決めないといけないな。…ただね、…声を掛けたあとにやっぱり無理でしたって言うのもねぇ…」
「しかし、言うしか無いよ。君にもチームってものがあるんだから、先方にも、合うかどうかを感じさせないといけない。私達が付き合っているというだけで嫌になる人もいるだろうからね」
「…男女のもつれを競技に持ち込むな、と?」
「そんな感じだよ。…まぁ、私達も、マテリアル君やリリー君に色々と迷惑をかけたからね」
「……大変だったなぁ…」
田上が、ぼんやりと思い出しながら言うと、タキオンも黙って一点を見つめるようになってしまった。田上は、それからもタキオンに色々と話しながら、荷物をまとめたが、まとめ終わると、タキオンが正座をしてかしこまっているのが見えた。なにか言いたそうに、苦しげに顔を歪めている。だから、田上は優しく「なにかあるのか?」と聞いた。タキオンは、その言葉を待っていたかのように言った。
「改めて、……君に謝りたい。今まで、色々無茶をして、そのまま押し切ろうとしてすみませんでした。……これからも、付き合っていただければ幸いです」
タキオンはそう言って、布団に頭を下ろした。田上は、こういう場面でどう返せばいいかも分からなかったから、とりあえず、「いいよ」とだけ答えた。それでも、タキオンが頭を上げないので「これからも付き合うから、頭を上げてくれ」と付け加えた。
それで、タキオンが顔をあげると、その顔は大変苦しそうになっていた。
「本当にすまなかった。圭一君に嫌われてもしょうがないくらいに、色々酷いことをしてしまった。…公衆の面前でのキスも散々してきたよ…。君は嫌がっていたというのに…」
タキオンは堪らなく申し訳ないという顔をして、田上を見た。田上は、顔を和らげると、首を振って言った。
「タキオンが分かってくれたならいいよ。これからもよろしくね」
「君は御仏じゃないか?」
タキオンがあまりにも感謝してそう言うものだから、田上も少し笑ってしまった。
「こっちは初めからお前がどんな子かってことを分かって付き合ってるんだから、多少の我慢くらいだったらできるよ。ただ、…まぁ、回数は多すぎたな」
すると、タキオンも苦笑した。
「すまない。…こうしてなんでも許してくれる彼氏に出会うと、私はなんて偉大な彼氏と付き合ってしまったんだと思うね」
「偉大は言いすぎだろ」
田上が謙遜すると、タキオンは真面目な顔をして言った。
「偉大だとも。 だって、…分かるかい?無理矢理キスしてくる彼氏なんて私は嫌だ。それも公衆の面前でだよ。それを、いいよと簡単に許してくれることが、過ちを犯してしまった彼女にとってどれほど有り難い存在なのか分かるかい?本当に偉大なんだよ。とてつもなく優しい男だ。私は、もしかしたら、世界で一番偉大な男に出会ってしまったのかもしれない」
田上は、自分のことを、タキオンが言うほど尊敬できる人間だと、思っていなかったから「どうだかな…」と呟いた。タキオンは、これにまたなにか反論をしたそうだったが、ここで、堂々巡りの問答を無理に続けたって、諍いしか起きなさそうなので、言葉をぐっと飲み込んで、本気で自分を駄目な人間だと思っている彼氏の顔をじっと見た。田上も少しの間見つめ返したが、照れのような物か、それとも別の何かをタキオンの視線に感じると、そっと目を逸らして、布団の上に寝転がった。
タキオンは、田上の目を見つめながらその懐にそっと入ってきた。泣いたときから帰ってくるまでは少々大人しかった彼女だったが、やはり、田上に甘えるような気持ちは残っていた。田上は、別に無理矢理されたわけじゃないので、黙ってタキオンが自分に甘えるのを許していた。
二人は、布団で寝るというわけではなかったので、暫く二人きりの時間を楽しむと、暇になったのでリビングの方に出ていった。田上の顔を桜花が見ると、いの一番に「お兄ちゃんずっとここにいないかなぁ~」と不満を垂らした。タキオンは、くすくす笑うと、「また来るんだろ?」と田上に聞いた。田上は、からかわれているのに照れて、少し口の端を歪ませると「まぁね」と返した。それから、二人はリビングの椅子に座った。
座るとまだ食器洗いしている母がこう言った。
「もう帰る準備はしたの?」
田上とタキオンは、それぞれ「しました」「したよ」と答えた。母は、それを聞きながらカチャカチャジャージャーと食器を洗い、言った。
「寂しくなるわねぇ」
「お兄ちゃん、お姉ちゃんと一緒にこの家に住めば?」
母の言葉のすぐ後に、桜花がそう提案した。それには、タキオンが答えた。
「部屋はどうなるんだい?」
「…あの部屋でいいんじゃない?」
「少し窮屈じゃないかな?」
「きゅうくつでもいいよ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも遊んでくれるから」
そう言うと、田上は少し笑った。タキオンも笑ったが、「まぁいったな」と言うと、桜花との話はやめた。
父は、部屋で何かをしていたようで、その用が終わると、のそのそとガラス戸を開けてリビングに入ってきた。そこらへんで丁度母の食器洗いも終わったので、そのまま父と入れ違いでお風呂の方へと行った。田上は、これを見て少し奇妙に思った。普通の家庭とあんまり変わらないものだ。タキオンは、金持ちのお嬢様という先入観があったからあれだったが、この家は普通だ。東京にあると言う、タキオンが小さい頃に住んでいた祖父母の家はまた違うのかもしれないが、この家では、タキオンは普通の十八の娘だった。そして、田上の恋人として扱われていた。母の方は、少なくともお嬢様暮らしは長かったはずだ。タキオンがお嬢様なのだから、母もお嬢様なのだろう。それが今では立派に主婦をしているから不思議だった。田上の想像の中のお嬢様としては、もう少しお高くとまっていて、家事などの汚れ仕事はしないようなイメージだった。これが昔はタキオンのように我儘だったと言うから、やっぱり、父と母との間では衝突が何度かあったのだろう。今日のファッションでも、母がお嬢様だということが分かるような気がした。母の今日の服装は、大分お洒落だったし、つばの広い白い帽子を被っていた。それなりに気品のあるものだった。
それが、こうして主婦となっているわけだから、やはり、人というのは変わるものだと思った。そして、変わる過程でタキオンの父と母は離れずに済んだ。――自分たちもそうなればいいな、と田上は思った。
田上が、タキオンと一緒にスマホを見つめながら話していると、父が話しかけてきた。
「二人は、家とか立てる予定はあるのか」と言った。
田上とタキオンは、目を見合わせると「ないよねぇ」と二人で言った。父は、「そうか…」と言うと、同じ机で絵を描いている桜花を見つめた。少し難しそうな顔をしていたが、この質問に何の意図があったのか、田上にもタキオンにも分からなかった。すると、父はまた田上たちの方を向いて言った。
「あの対になっているネックレスは、田上君が買ったの?」
「あ、ああ、はい。タキオンの誕生日プレゼントにあのネックレス二つを買って、二人でつけています」
「良い物選んだねぇ」と父に褒められたから、田上は「ありがとうございます」と頭を下げた。その後に、また父はこう言った。
「家を建てないんだったら、家族寮で暮らすつもり?」
「え?…ええ、…多分…」
そう言って田上はタキオンを見た。タキオンも田上の顔を見返すと、父に「そうだよ」と言った。
「じゃあ、…卒業したらそのまま一緒に暮らすのかな?」
「はい。…トレーナーの仕事は続けていこうと思っていますので」
「…ふむ。…トレーナーの仕事は順調そうかい?」
これも田上はタキオンと顔を見合わせてから言った。
「順調だと思います。タキオンもレースを勝ったのでお金はあるし、二人分の十分なお金はあります。…チームの、補佐の人や後輩の方とも関係はそんなに悪くありません」
ここで田上はちょっぴり嘘を吐いた。いや、ちょっぴりではないかもしれない。大嘘かもしれない。二人がいちゃいちゃしていたせいで、大分チーム内の関係は拗れた。マテリアルには叩かれるし、リリックには愛想をつかされそうになるしで、大分、このチームを引っ張っていく力が必要だった。軽く背に担げるようなものではないだろう。それこそ、タキオンと一緒に引っ張っていかないといけないかもしれない。ただ、ここに来て楽観視できる要素もあった。タキオンが、分別を取り戻しそうなことだった。キスなんてあれから一度も求められていない。昼から夜まで時間があれば、今までなら一度くらい求められても良さそうなものだった。しかし、今回はまだ求められていないということは、タキオンも少しは我慢がきくようになったということだ。だから、チーム内の環境もまだマシなものになりそうだった。
ただ、田上は、マテリアルの状態が少し気がかりだった。カラオケの後の、松浦とマテリアルのデートの記憶は田上にまだ新しかった。あの落ち込んだのが、ただ落ち込んだだけであれば、田上にはそれがありがたかったが、どうもマテリアルというものは、少し面倒臭そうな女だった。ただ、それを言ってしまえば、田上の周りは面倒な女ばかりだった。タキオンもリリックもマテリアルも皆田上にとっては面倒なものである。もう少し、何事もなく暮らせないかと思う。もしかすると、次にチームに入る人も面倒な人かもしれない。
父は、田上の言葉を聞くと「うん」と頷いて、もう一つ質問した。
「補佐の人は、…あの大阪杯の時に居た。あの金髪の人だよね?」
「ええ、…はい」
「あの人は、大阪杯の時、落ち込んでいそうだったけど、大丈夫だったの?」
「ああ、まぁ、良い人です。大丈夫です。はい」
田上は頓珍漢な返事をした。「大丈夫だったの?」に対して「良い人です」というのは変だろう。だから、また「大丈夫です」と言い直したのだが、この動揺が父に見破られていないか心配だった。厳密には、あまり大丈夫そうとは言えなかったが、それを正直に言ってしまうと、田上が先程言ったことが嘘になる。田上は、あんまり嘘を重ねたくなかったのだが、一つ嘘を吐いてしまうと、二つ目もつかなければならないようになってしまった。
田上は、このように誠実でなければ、図太くもない自分があんまり好きじゃなかった。
父はそれからも二、三個の質問を田上に投げかけた後、「うんうん」と頷いて、「結婚式をする予定はあるのかい?」と聞いてきた。田上は、またタキオンと目を見合わせたあと、「いつかは決まってないよね?」と言った。
「そうだねぇ、…まぁ、籍を入れるのと結婚式は時期が違ってもいいとは思っているが…、圭一君の仕事が忙しくない時期だろうねぇ」
「じゃあ、夏かな?」と田上が返した。慣れないことは嫌がる性質だったので、田上はいかにも緊張しそうな行事を想像すると、今からでも少し心臓がドキドキし始めた。
「まぁ、その辺りかな」とタキオンが言うと、父が口を開いた。
「タキオンはウエディングドレスを着るの?」
「まぁ、着たいとは思ってるよ。圭一君もそのつもりだし」
「ふぅん」と父は頷くと、お絵かきにまだ夢中な桜花の顔を見た。その時に、母が風呂から上がってきた。そして、桜花ももう寝る時間だった。風呂から上がってきた母は、桜花に「もう寝るよ」と言ったが、田上とタキオンと父の話に加わりに来た。
父は、母が席に座るのを横目で見ながら、田上たちにまたこう聞いた。
「籍はいつ入れる予定なのかな?」
「タキオンが卒業したらすぐ入れようと思っています」
「ほう。…タキオンは…」と父は言いかけたが、そこで口をつぐむと、「まぁいいか」と言って、別のことを言った。田上とタキオンは、その後の言葉が気になって、顔を見合わせると二人で苦笑した。
父は、言葉を切った後にこう言った。
「田上君は頼りになるね」
「ありがとうございます」
「タキオンも、…遂にそういう歳かぁ…」
「お嫁に行く歳だよ」とタキオンが言った。
「…早いなぁ。…なぁ、お母さん」
「そうねぇ。タキオンが生まれたのなんてついこの前のような気がするんだけどね。…まさか、十八で結婚しようという歳になるとは思わなかったわぁ」
「お前も似たようなもんだったけどね」
「そりゃあ、私はそうだったけど、まさか娘まで同じ道を辿ると、誰が予想できますかね?このまま行くと、桜花も似たような事になるんじゃないの?」
「まぁ、環境がそもそも似てるからね。桜花は、また違った道に進むだろうけど、…あんなちびっこがもうこんな年になるとは…」
「ちびっこよばわりは嫌だね」
「こんな小さい頃から世話してたんだから。…ああ、アルバムがあったね。確か部屋にアルバムがあった。田上君も見たいだろ?」
田上は多少顔を輝かせて、「見たいです」と答えた。タキオンは、少々照れた顔をしていた。