ケロイド   作:石花漱一

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三十、ぬるま湯のような日差しの中で…④

 父が分厚いアルバムを机の上に置いて捲ってみると、まず初めに、父と母だけの写真があった。父は、「これは違うな」と言いつつ、その写真を懐かしそうに眺めながら、一枚一枚捲っていった。そして、ある時、赤ちゃんの写真が出てきた。まだ生まれたばかりの時だ。母が、乳をやっている時の写真もあったので、田上は少々気まずかったが、他の家族は気にしていなかったので、自分も気にするのはやめた。桜花も、自分だけ仲間外れは嫌だったし、お姉ちゃんの小さい頃の姿も気になるので、絵を描くのをやめて、家族と一緒にアルバムを覗き込んだ。

 赤ちゃんは、小さなウマ耳を頭に生やした栗毛の子だった。そこらへんは、もう父と母しか覚えていないので、アルバムを捲りながら思い出話をするのを、田上とタキオンと桜花は聞いていた。田上は、不意に――タキオンが、自分の赤ちゃんの姿を見ながらどう思っているのだろう?と思って、隣のタキオンの顔を覗き込んだ。タキオンは、特に大した事はないと思って、覗き込んでいたが、田上が見てきているのに気がつくと、微かに笑って、「なんだい」と聞いてきた。田上は、また赤ちゃんタキオンの写真に目を戻したあと、「赤ちゃんの頃のタキオンは可愛いね」と言った。すると、タキオンがこう言った。

「今の私は可愛くないって言いたいのかな?」

 特段怒っている様子ではなかったので、田上も微笑みながら答えた。

「そんな事は言ってないよ」

 その後に、「今も可愛いよ」と言おうと思ったのだが、両親の前なのでやめておいた。タキオンも、恥じらいのために、その言葉を催促することはなかった。

 段々と、アルバムの中でタキオンは成長していった。家の中の写真は、この家ではなかった。おそらく、東京の祖父母の家の方だろう。大体が和室であり、趣のある襖や建築の中に、お嬢様らしいタキオンがニコニコとしながら遊んでいたり、ただ単に立っていたりしていた。それに、田上が思わず「可愛い」と呟くと、隣のタキオンが嬉しそうにふふふと笑いを漏らすのが聞こえた。顔は、確認しなかった。

 そのうち、小学校の運動会で一着になっているタキオンが何回も出てきた。今の面影を残す小さなタキオンが、体育帽子を被って、準備運動をしている姿などは、少し面白かった。

 畑のような場所にいるタキオンも居た。これは、芋掘りの時の写真らしい。タキオンは、友達であろう小学生の女の子と二人でしきりに地面を見つめていた。その時の二枚目の写真があったから見てみると、どうやら、土の上に出てきた幼虫を二人で棒でつついて見ているらしかった。タキオンが言うには、この女の子とはそんなに仲がいい訳では無いらしい。

 その内に、アルバムの主役は桜花になった。勿論、タキオンもイベントが有る毎に顔を見せてはいたのだが、幼少期ほど見られなくなった。ここらで、タキオンはアルバムを覗き込むのをやめて大人しくなった。田上も、桜花の幼少期に、タキオンの写真を見るときほどの興味は湧かなかったので、少し大人しくなった。アルバムのページを捲る主導権が自分になかったので、もう少しじっくりとタキオンの幼少期を眺めていたかった。

 そんな事をぼんやりと思いながら、隣のタキオンを見ると、微笑みながら見つめ返された。それでもタキオンを見つめていると、「なんだい?」と聞かれた。特に何の用事もなかったので、顔を横に向けるとそのまま、また桜花の写真を、家族とともに見つめ始めた。

 ただ、桜花の頃になると案外アルバムもすぐに終わった。この頃になると、スマホなどで写真を撮る機会も多くなり、印刷をするのも面倒になってきたので、あまり桜花の写真をアルバムに入れてないそうだった。だから、桜花は、代わりに、母のスマホの中にデータとしてある自分の写真を見つめ始めた。そうなると、皆で見るには、スマホの画面が小さすぎるので、田上も見るのを諦めてしまった。

 暫くは、父がタキオンの写真を見たり、桜花の写真を見たりしていたが、やがて、田上に「見るかい?」と手渡してきたので、「ああ、はい、見ます」と受け取ると、タキオンの昔の写真を再び眺め始めた。すると、タキオンも田上に体を寄せて見つめ始めてきた。二人は、先程よりも詳細に写真を眺め始めた。

 タキオンの母方の祖父母の写真があった。勿論、大概がタキオンとセットになっている写真だ。まぁ、優しそうに笑っている方々だった。ただ、父は、この人たちに遺恨があるのか、あんまり触れるようなことはしなかった。この写真を見る限りでは、双方とも遺恨を残すような人たちには見えない。桜花も、この祖父母の家に遊びに行かないということもなさそうだった。父方の祖母の見舞いに行った日に、「また、東京のじいちゃんばあちゃんの所に行きたいな~」と言っていた。

 この写真を見たとしても、知らないタキオンの歴史がまだある。母方の祖父母にはまだ会っていない。中々、金持ちの家ということもあって、複雑な事情がありそうだということがわかった。そうすると、田上は、タキオンと結婚するということが少し怖かった。自分は、全くの庶民だ。金持ちの暮らしなど経験したことがないし、『家』という一つの社会もあまり感じたことがない。田上にとって、家とは家族と同義であるが、タキオンの家の場合は少し違いそうだった。タキオンの父母の結婚にいざこざがあったのが、それだろう。流石に、もう大体の事は決着を終えていそうだったが、ここで、母方の祖父母がタキオンにお見合いの相手なんかを探してきてたらどうすればいいだろう?田上には、あんまり他人に抗う勇気がないので、すぐに身を引いてしまいそうだったが、そうなると少し悲しくなった。

 そんな事を思いながら、もう、勝手にページを捲っているタキオンに合わせて、写真を一通り眺めた。パーティーのようなものに出席しているタキオンの写真があった。表情が少し強張っているのが面白かったが、そのパーティーが正装で行くようなものだったので、――タキオンはこういう世界に住んでいたのか、と少し驚いた。その写真にも祖母が写っていたので、祖父母に連れられてこういうものに来たのかもしれない。田上の気は尚も重くなった。しかし、今は、タキオンと二人きりではないため、特に何を言うこともしなかった。

 

 それから、飽きるまで写真を眺めた後、桜花は眠りに行き、部屋は一気に静かになった。アルバムも、机の上に放置されたままで、田上とタキオンは、ソファーに座ってテレビを見ていた。父は、食卓で難しい顔をしたまま本を読んでいた。

 バラエティ番組は、芸人が騒いでいるだけの番組だったので、田上にはあんまり面白くなかった。ただ、芸人が騒ぎながら無難なことをしているように見える。それを見て、タキオンはたまにクスクスと笑っていたが、田上がつまらなさそうにテレビを観ているのを見ると、その笑みを落とした。それから、今度は、芸人が世界のどこかに旅をしに行くという番組を見た。これは、まだ新鮮味があってマシだった。中東のどこかの街のようで、異国の暮らしを紹介しながら、今日番組でやることを語っている。食べ物はあんまり美味しそうには見えないが、それでも、見る分には――こんなものを食べて暮らしているんだな、と好奇的な目で見つめることができる。

 それを一頻り観て、一時間ほどの番組が終わった時、田上とタキオンは暇を持て余してきたので、それぞれテレビをつけっぱなしにしながら、田上はゲームを、タキオンは本を読み始めた。初め、タキオンが田上の膝に乗ろうとしてきたので、邪魔だと断ったのだが、「騙されたと思って」とタキオンに言われると、仕方無しに膝に乗せてあげた。しかし、案の定邪魔だったから、タキオンに「どいてくれ」と断ると、タキオンも「すまないね」と笑いながら膝から降りてくれた。一種のいちゃつきであり、特に無理矢理過ぎるということもなかったので、田上はあまり怒らなかった。

 寝る時間になると、田上とタキオンは二人で布団に入った。今日は少々暑いような気がしたが、それでも、タキオンは田上と寝ることを諦めなかった。二人は、いつものように常夜灯の下で語らって過ごしたが、昨日ほど長くはなかった。軽く一つ二つばかりの話をした後、ぼんやりと二人で常夜灯を見つめ、それから消した。

 消す際に、タキオンは田上にキスを求めた。求める時の顔は、田上には少し大人になったように見えた。だからという訳では無いが、田上はタキオンとキスをした。タキオンのキスは、田上の愛を求めるようなキスじゃなかった。むしろ、今日許してくれた事に感謝するような温かみのあるキスだった。それなりに田上を思ってキスをし、田上もタキオンを思ってキスをした。

 それから電気を消した。

 

 電気を消すと、その暗さが重くのしかかってくるように、田上には感じられた。それが恐怖に繋がって、田上は、怯えを振り払うように、タキオンの手を、ぎゅっと強く握った。すると、タキオンの方も少し力を入れて握り返してくれた。それから、タキオンは布団の中の手で、手遊びを始めた。田上の手の平を人差し指でくすぐったり、親指をつまんだりしてきたから、田上も同じようにタキオンの手を触った。すると、また、タキオンが田上の手で遊ぼうとしてくるので、田上は少し安心した。隣に人が居るということがしっかりと伝わってきて心地よかった。

 しかし、それもタキオンが飽きてやめてしまうと、田上は、暗闇の恐怖に再び怯えなければいけなくなった。実の所、田上はタキオンに抱きつきたかった。タキオンに抱きついて、その人のぬくもりを感じて、暗闇の恐怖から脱したかった。だが、それを二十五歳の男がするのでは少しみっともない。十八歳がするのならまだいいが、二十五が十八を頼ってしがみつくのでは、傍から見ればみっともないことこの上ないだろう。

 そう考えて、田上は暗闇の中当を警戒しながら、――早く朝になればいいのに…と思った。しかし、願った所で早く朝になるわけでもない。田上はできるだけ、タキオンに肩を寄せながら、押し潰されそうな暗闇に耐えていた。

 田上の心臓は忙しなく打ち鳴っていて、なんだか具合が悪かった。体が重いし、喉の奥には異物感がある。

――ああ、嫌だ。

 そう思いながら、不安な眠りに就いた。

 

 朝起きると、田上の目の前にはタキオンの顔があってほっとした。タキオンは、あまりに暑かったのか、田上と繋いでいた手に汗を滲ませていたし、額にも汗が見えた。だから、田上は、まだ眠っているタキオンの掛け布団を剥がしてやると、ついでに自分のところも剥がして、横の方においてやった。しかし、それでは寝転がるのに少し心許ないので、薄い毛布を一枚、自分たちの腹のところにかけてやった。

 どうやら一晩中手を繋いでいたようだった。朝起きていた時には、手を繋いでいたので、今日は放さなかったようだ。田上には、そちらのほうが安心して、都合が良かった。タキオンが傍に居るという事が、田上にとっては居心地が良かった。

 タキオンは、安らかな顔をして眠っている、自分にはもったいないくらい美人な彼女を暫く見つめた後、――抱き締めてもいいだろうか?と考えついた。昨日の夜の暗闇は去ったが、まだ、少しの不安は残っていた。もしかすると、今日もう帰らないといけないからかもしれない。折角の休暇で、存分にタキオンといちゃいちゃできる時間があったにも関わらず、タキオンとの時間が薄く感ぜられて、ただ過ぎ去っていくように思っているのかもしれない。そう思っていると、段々と帰るのが嫌になってきた。昨日の夜に荷造りしている時はそうでもなかったが、今こうして考えてみると、もっとタキオンとできる色んなことがあったような気がする。

 確かに、散歩などで充実できる節はあったが、それでもまだ何か物足りない。――もっとタキオンと過ごしていたい、という気持ちが田上の中で強くなった。だから、田上は、タキオンの頭の下に手をそっと入れ込むと、タキオンの頭をぎゅっと抱き締めた。すると、タキオンが「イタタタタ」と言って目を覚ました。どうやら、頭の下に手を入れることに失敗をして、タキオンの髪の毛を引っ張ってしまったらしい。田上は、慌てて抱きしめるのをやめた。すると、寝起きで少々機嫌が悪いタキオンが、ぶつくさ文句を言った。

「抱きしめることくらい、私が起きてからしてくれよ。寝てる間にしなくたっていいじゃないか」

 田上はそれに「ごめん」と言うことしかできなかったが、段々と意識がはっきりしてきたタキオンが、田上の顔を見つめながら言った。

「…抱き締めたかったのかい?」

「いや…」と田上は、自分の負の部分を隠そうとした。しかし、タキオンも田上の彼女で、田上の心にあるものは大体心得ていたから、田上の顔をじっと見つめながら、「抱き締めたかったんだろ?」と言った。

「抱き締めたいんなら、私が起きてからにしてほしかったね」

「ごめん…」

「…ほら、今なら良いよ。抱き締めたまえ」

「いいよ…」

 田上が遠慮をすると、タキオンは「抱き締めたかったんだろ?」ともう一度言った。そして、田上が「もういいよ…」と再び頑固に繰り返した。すると、タキオンはじっと田上の顔を見つめた。田上の顔を見つめている間は、その手を握って、田上が急に起きて逃げてしまわないように繋いでいた。そして、言葉をまとめ終えたタキオンが言った。

「圭一君らしくもないね…、私が寝ている間にこっそり抱きしめようとするなんて。…案外、可愛いところもある彼氏なのかな?」

「そう思っておいてくれていいよ」

「なら、良くないよ。抱き締めたいんなら、我慢しないほうが良いよ?君だって、私の事をなんでもかんでも受け入れてくれているんだから、君のなんでもかんでもを、私に委ねてくれないと困る。私は、圭一君の彼女なんだよ?」

 タキオンにそう言われると、田上は苦笑した。あんまり自分の心をタキオンに見せるのも嫌だったが、彼女に甘えたいという気持ちも心底あったため、浮かない顔でタキオンを抱き締めた。タキオンも、そんな顔で抱き締められると、少し複雑なところがあったが、彼氏が抱き締めてくれるというのだから、あんまりとやかく言わないであげた。今は少し、抱き締められるのが心地よかった。

 田上もタキオンを抱き締めていると、大分心が落ち着いた。それどころか、自分には似合わないような妄執的な「好き」という気持ちが溢れてきて、もっともっと抱き締めたくなった。それで、もっと強くタキオンを抱きしめると、胸に顔を埋められたタキオンの方から「苦しい」というお言葉を頂いた。

 田上は、すぐにタキオンを放してその顔を確認した。タキオンはニコニコと笑っていて、田上を見上げながら「もっと抱き締めてもいいよ。息を止めさせようとしなければ」と言った。しかし、田上はその顔を見ていると、段々と後悔が湧いて出て、「もういいや」と複雑そうな顔で言った。その後に一応「ありがとう」と付け加えたが、それで終わらせてくれるような彼女ではあるはずがなかった。キョトンとした顔をすると、田上の腕枕を押しのけて、その顔を覗き込みながら「もういいのかい?」と言った。

 彼女のその顔を見ると、罪悪感が湧いた。なんだか捉えづらい罪悪感だった。好きでいて良いはずの彼女なのに、好きと思うと、なんだか悪いような気がした。それをタキオンに言えば、きっと「好きでいていいよ」と言うだろう。その優しさが、田上にはなんだか少し困った。

 タキオンは、田上が、もう自分を抱きしめる気がなさそうだと思うと、「私が君を抱き締めてもいいかい?」と聞いてきた。田上も、別に、タキオンの事が嫌いなわけじゃなかったから、首を縦に振った。タキオンは、「ありがとう」と言うと、田上の上に乗っかって、抱きしめようとした。しかし、腕が上手く回らなかったので、抱きしめるまでは行かず、田上の上に乗っかるだけとなった。そして、田上の胸にウマ耳を押し当てると、その心音を暫くの間、心地よさそうに聞いていた。いつの間にか、田上とタキオンの呼吸は揃ったものになっていた。タキオンが吐くタイミングで田上も吐き、タキオンが吸うタイミングで田上も吸った。その、二人が一体となったリズムの中に、田上とタキオンはある種の心地よさを見出して、暫くそのままじっと動かないで、心地よさに身を任せた。ここで、一度動いてしまえば、リズムが崩れる。そのリズムを崩さないでなるべく長く感じておくためには、動かないほうが賢明だが、いずれにせよ、この心地よさは長く感じられるものではなかった。

 タキオンは、田上と話したいと思うと、すぐに心音を聞くのをやめ、心地よさを感じるのをやめて、田上の顔が覗き込める位置にまでその体をよじ登った。そして、田上にこう言った。

「君の体ってのは、男らしくて頼りがいがあるもんだね。…こう、…居心地が良かったよ」

「…褒め言葉?」

「今のを褒め言葉と言わずして、何を褒め言葉と言うんだい?」

「なにか、裏に皮肉が込められているんじゃないかと」

「私が圭一君に対してそんな事を言う女だと思うかい?」

 タキオンは、心外だという調子でそう言った。

「怒ってる時だったらそんな事を言うんじゃないか?」

「そりゃあ、怒っているときだったら言うかもしれないが、今のはどう見ても怒ってなかったじゃないか!」

 そう言われると、田上も目を逸らした。

「お前って、いつ怒るかわからないし…」

「そりゃあ、…そりゃあね、…そりゃあ悪かった。……なにか、…言い返したいのに、今の言葉で全てを潰されたよ。…キスしてもいいかい?」

 タキオンがそう聞くと、田上は、少し考えてから首を横に振った。

「えー、なんでだい?キスしても問題ないだろぉ?」

「…あんまりキスしたい気分じゃない」

「分かったよ」とタキオンは大人しく引き下がった。そうされると、田上もなんだか罪悪感が湧いた。キスしたい気分じゃないのは本当だが、これは、タキオンの要求を飲んでやらない我儘になる。実際に、今はやってもいい状況だった。田上の優しさを見せるのであれば、してやってもいいが、どうにもする気分にはなれなかった。

 田上は、少しの罪悪感に苛まれながら、タキオンが自分の上に乗っている息苦しさを感じた。それと同時に、その息苦しさが心地よくもあった。彼女が傍に居ると確証のある息苦しさだった。

 

 田上は、手に少しのむず痒さのようなもの、もしくは、己の手に宿るタキオンを抱き締めたいという気持ちを感じながら、どうにもタキオンの事を抱き締められないでいた。タキオンは、もう田上の上から降りて、その横で本を読んでいた。この状況でも彼女は頼まれさえすれば、快く抱き締めさせてくれるだろう。しかし、田上の自尊心が中々邪魔だった。自分の気持ちに素直になれないのはなぜなのだろうか?この気持ちに素直になれたら、それが「ありのまま」なのだろうか?

 田上は、もう、ありのままという言葉そのものに、あんまり効力はないように思えた。ありのままと言ったって、自分の素を定義できない以上、あんまり意味はないだろう。けれども、中々、タキオンを抱き締めたいという気持ちに、自尊心が邪魔しない素直さを持ちたい気持ちもあった。

 田上は、自分の気持ちにタキオンが気がついてくれやしないかと、その横顔をじっと見つめていたが、生憎、タキオンは本に夢中のようだった。田上が見ていても、その視線に一向に気が付かない。それで、ようやく田上も自尊心を捨てねば、この願いは叶えられないだろうと思い、諦めて、タキオンの腕を触って気を引いてから、「抱き締めさせてくれないか?」と言った。それがあまりにも神妙な顔で言っていたので、タキオンは思わず笑ってしまった。

「抱きしめたい?いいよ。…どんなふうに抱きしめる?」

 田上は、朝起きた時のように、タキオンの頭を胸に抱いて、がっしりと抱き締めた。タキオンは少々照れ笑いをしていたが、田上は、そんな事が気にならなくなるくらい、再びタキオンの事が好きで好きでたまらなくなった。自分の物にしている。自分の物。その言葉が、心の中で大きく膨らんできた。それと共に力も強くなったので、タキオンが「ちょっと苦しいよ」と胸の中で言った。そして、少し体をモゾモゾさせて田上の方を見上げると、こう言った。

「こんなに力強く抱き締めてくれるのも珍しいね。何かあったのかな? 夢を見た?」

「…いや。……ああ」

「どっちなんだい?」とタキオンがニコニコ笑いながら言った。それに、田上は、嬉しさと後悔が入り混じった妙な顔をした。今は、どちらかと言うと、嬉しさが勝っているような表情だった。

「……夢は見てない」

「じゃあ、何かあったのかい?」

「……特に、何も…」

「ふぅん。…じゃあ、よっぽど私が好きなんだね?」

「…そうかもしれない」

「…中々、二十五歳にしては可愛い彼氏だ。年相応だね」

「…二十五歳ってこんなもんかな?」

「二十五って言うと、…まぁ色んな人が居るだろうけど、もう少し明るくても良いんじゃないかな?…いや、まぁ、君も私と遊んでいる時は十分明るいけどね。…あれだ。もう、父親になったようなテンションだよ、君は」

「タキオンの相手は大変だったからな…」

「そりゃあ、そうだね。…すまなかったよ。…だけど、そんなに何回も言わなくてもいいんじゃないかな?少し傷つく」

「ごめん」

 田上が低い声でそう言うと、タキオンは気を取り直して、田上の体に自分も抱きついた。自分の脇腹に回されたタキオンの華奢な腕を感じると、田上は、彼女といちゃいちゃしているという気持ちを目の前に感じた。そして、自分の高校や大学の青春時代には感じなかった青春を今目の前に感じたような気がした。もっと子供らしく。もっと情熱的に。田上はタキオンを抱き締めたかった。できることなら、タキオンと同い年になるくらいに子供になって、もしかしたら、あるかもしれなかった青春を取り戻したかった。その為に、田上はもっと強くタキオンを抱き締めて、その髪の毛をくしゃくしゃに乱した。タキオンは、「やめてくれよ」と嫌がったが、それでもやめなかった。もう楽しくなってしまって、タキオンが嫌がれば嫌がるほどその髪をくしゃくしゃにさせた。そして、ある時、タキオンが「ちょっと!」と本気で怒ると、楽しさは一気に覚めて――俺はバカだなぁ、というものが心の中に溢れ出てきた。タキオンは、少々田上にムカついていたようだったが、田上の顔が一気に自分を責める気色に変わると、憐れな目でそれを見た。

「二十五から一気に高校生みたいなテンションになったじゃないか」

「ごめん…」

「いいよ。ただ、ちょっと髪が引っ張られたしね、ぼさぼさにもなっちゃった。…なんでそんなに急にテンションが上ったんだい?」

「…分からない」

「…まぁ、大方予想はできる。君ってやつは私の事が大好きだと知っているからね。大好きな彼女を抱きしめればテンションが上ってしまうのも無理はないだろう。私もその気持ちは十分に分かるが、…まぁ、君の高校生時代が垣間見えたよ」

「…俺の高校時代はもう少し大人しかった」

「そうなのかい?どんなだったんだい?」

「…休み時間はずっと本を読んでた」

「友達はいただろ?」

「いたよ。…普通に。ただ、まぁ、数人で本を読むことはできないから」

「そりゃあそうだ」

「…俺の高校時代に興味あるの?」

「そりゃあ、あるさ。…好きな人は居たのかい?」

「…まぁ、居ることには居るよ。…聞きたいの?」

「聞きたいよ」

「…昔好きだった人なんてあんまり言いたくはないけどね。…タキオンはそんな人居ないの?」

「残念ながら君が初恋だ。小さい頃は、色恋なんてものに興味はなかったからね」

「じゃあ、ここになってようやく色恋に目覚めたんだ」

「そうだね。圭一君と一生一緒に居たいと思ったからね。好きだよ」

「俺もだよ」と田上は、少し目を泳がせてから答えた。

「それじゃあ、話してもらおうか。あんまり私が嫉妬しない程度に、どんな人が好きだったか教えてくれよ」

「あんまり言いたくはないなぁ…」

「そのくらい言いたまえよ。それとも、物凄く恥ずかしいやらかしでもしてしまったのかい?」

「…そりゃあ、…そりゃあね、…恥ずかしかったことの一つや二つありますよ」

「じゃあ、それを彼女たる私に話したまえ。存分に笑ってやるさ。…まさか、中学の時の告白より酷いものはないだろう?」

「そりゃあ、ないけど、お前に話すほど面白い話でもないよ」

「それは、圭一君が話していて面白くない話ってことだろ?」

「ああ」

「なら、ちょっとくらいいいじゃないか。どんな人が好きだった?」

「…お前、俺の好きな芸能人を聞いただけで嫉妬するだろ?」

「いいじゃないか。なんなら、君の好みでも良い。黒髪が好きだっていうのなら、たまには、黒く染めてみても良いかもしれない」

「…別に、髪が黒でも茶色でもどっちでも好きだよ」

「…なら、後学の為に君の好きなタイプを聞いておかなくちゃならない。万が一、そういうのに寄り付かれると困る」

「…別にお前以外のことを好きにはならないよ」

「そりゃあ嬉しいけどね…」

「マテリアルさんはどうだ?マテリアルさんは職場の人だけど全然好きにはならないよ?お前が好きだから」

「…そりゃあ、…嬉しいね。…そんなに好き好き言われると少々むず痒くなるよ」

 タキオンがそう言うと、田上は微笑した。

「本当のことだからな…」

「んん?大分、君も…私に対して甘い彼氏だね。砂糖でどろどろにしようとしてくるじゃないか」

「どろどろになってみれば?」

「…今日はいつになく攻めてくるね。…もう帰るからかな?」

 途端に、田上はその事を思い出して、タキオンの頭をぎゅっと抱きしめると、「帰りたくない」と甘えた。

「おや、圭一君からそんな言葉が聞けるとは思わなかったね。来る前はあんなにビクビクしてたのに」

「…もう、…ここは俺の家」

 田上がそう言うと、タキオンはクスクスと笑った。

「そこまで言うとは思ってなかったよ。…良かったね、今回の帰省は楽しんでくれたみたいで」

「良かった。お母さんたちも分かってはいたけど、やっぱり優しい人たちで良かったよ。…お前も、…昨日のあれで少し大人しくなったような気がする」

「そりゃあ、…あれだけ君に言われれば、改めなければいけないと思うこともあったよ。そして、そのまま直進していくと、別れてしまうということも分かったから、…私も少し改めた。…また、ボロが出たら、昨日みたいに優しく言っておくれ」

「優しかったか?」

「優しかったよ。怒鳴らなかったじゃないか。そんなに怒ってなかったじゃないか。ただ、話してくれた。これは、相当な聖人君子だと思うね」

「そんな柄じゃないよ」

「いやぁ、私にはそう見えるよ。少なくとも、そう見えるくらい君に感謝しているんだ。…なにせ、別れ話を切り出されてもおかしくないことをしていたんだから、…本当に、…君がそうやって私を大切にしてくれているというのが、本当に本当に有り難いんだよ。とてつもなく優しい男だ。本当に、君以上の男は居ない。君が居なかったら、私はこうして君に抱き締められて、幸せいっぱいになっているということもない。…本当に、優しいやつだよ。どれだけ感謝しても足りないくらいだ…」

「…幸せいっぱいなの?」

 田上は、年齢にそぐわないみっともないことをしていると思っていたから、タキオンのその言葉に反応した。

「幸せいっぱいだよ。好きな人に抱き締められているんだよ?圭一君だって、私に抱き締められれば嬉しいだろ?」

 そこで、田上が曖昧な表情を見せると、タキオンも彼女として怒らなければならないような気がした。

「おやぁ?君、私に抱き締められても嬉しくないと?」

「…嬉しいかもね…」

「…まぁ、私自体にあんまり抱擁力がないのかもしれないし、男性としては、抱き締められるというよりも、抱きしめるというもののほうが良いかもしれないね」

 そして二人は見つめ合った。田上は、暫くするとタキオンから目を逸らした。すると、タキオンが少し身を乗り出して言った。

「キスしないかい?」

「…なんで?」

「嫌なら良いよ。…少し、…しちゃだめかい?」

 そう言われると、田上も迷った。相変わらず、あんまりキスをしたい気分ではなかった。しかし、先程のキスを断ったのにも関わらず、こうしてタキオンに自分の我儘を聞いてもらっている手前、このキスを断るのも悪いような気がした。それで、少し迷った後に田上はタキオンを抱きしめるのをやめて、「いいよ」と答えた。ただ、その表情が複雑そうだったから、タキオンも田上に顔を近づけこそしたが、口づけはしなかった。

「…本当に良いのかい?」

「…良いって言ってるよ」

「……本当に良いんだね?」

「いいよ」

 田上の表情は頑なに嫌そうなのにも関わらず、矛盾したことを言うので、タキオンは少し迷いながらもとりあえず、キスをした。そして、また田上と目を合わせると言った。

「君、…君ねぇ。…嫌ならしなくても良いんだよ?」

 田上はなにも答えなかったから、タキオンは、その頬をぷにぷにとつついた。

「別に、私も今ならキスくらい我慢できる」

「我慢させて、お前を不満にさせてもしょうがない」

「そりゃあ、しょうがないけどね。…うぅん、複雑だ。 君だって我慢させてもしょうがない。嫌そうな顔をされて、キスをするんだったら私も複雑になるんだよ。…まぁ、そういう所が可愛くはあるんだが…」

 そう言われると、田上はタキオンから目を逸らした。タキオンも、一先ずキスにけりは付いたようで、また田上の胸にくっつくと、「抱き締めてもいいよ」と言った。だが、田上も今度は抱きしめる気が起きなかったので、「もういいよ」と言った。その声に隠された不機嫌さをタキオンは感じ取ったので、――またか、という表情で田上の顔を覗くと、こう言った。

「さっきのキスはやっぱり駄目だったかい?」

「…大丈夫」

 そして、タキオンは一瞬迷うと、田上の唇に再びキスをした。田上は、その後に迷惑そうにタキオンを見やった。

「これであんまり嫌いにならないでほしいんだけど、こうしないと君が私の事を見てくれなさそうだったから。…それで、本当に抱き締めたくなくなったのかい?」

 田上は、無言のままタキオンを見つめた。

「私は、もう少し君に抱き締めて欲しい気持ちがある。もう帰らないといけない朝だしね、もう少しゆっくりしててもいいんじゃないか?」

 タキオンにそう問われると、田上は、迷いながらもゆっくりとゆっくりと微かに、タキオンに分かるくらい微かに頷いた。それを見ると、タキオンも満足して、田上の胸にくっつき「抱き締めてもいいよ」と言った。田上は、自分の心に、多少の嬉しさを滲ませながら、タキオンの頭を抱き締めた。そして、そうする内に、じんわりと、タキオンを好きという気持ちが漏れてきて、「好き…」と一言呟いた。タキオンは、嬉しそうにふふふと笑って、田上に抱き締められたままで居た。

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