ケロイド   作:石花漱一

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三十、ぬるま湯のような日差しの中で…⑤

 二人が起きた時間が、まだ朝早くでもあったので、タキオンを抱き締めてじっとしていると、段々と瞼が重たくなってきた。それで、その重さに遂に負けてしまうと、田上は微睡みの中に落ちていった。タキオンも頭の中に少々の眠気があったが、眠ってしまうまでには至らなかった。

 そして、段々とじっとしているのも退屈になってきたから、田上と話でもしようと思って「圭一君?」と呼びかけた。すると、返事が無いので、タキオンはもう一度「圭一君?」と呼びかけてみた。今度も返事がない。そこで耳を済ませてみると、息の仕方などから田上が寝ていることに気がついた。それではもう退屈で退屈でしょうがないので、タキオンは、田上を起こさないようにそっとその腕の中から抜け出した。やっぱり、腕の中に居るのも心地よかったのだが、田上と話もしないでじっとしているとなると、退屈さには勝てなかった。

 寝ている田上は、まるで子供のようだった。今までは、二十五年という歳月に見合わないくらいの険しい顔で寝ているのを、タキオンも何度か見たことがあったが、今の田上はそんな事を全て忘れて、子供のように安らいだ表情でスースーと寝息を立てて眠っていた。

 タキオンは、そんな田上が愛おしくなって、その頬にそっと手を触れた。すると、髭のチクチクが手に触れた。この髭が、田上の歳月を少し老けさせていたが、それも、今は大分気にならなくなっていた。ちょっと髭が濃いくらいの普通の二十五歳だ。タキオンは、この田上の姿を初めからちゃんと知っていた。出会った頃も、その表情に、若干の不安の面影があったものの、柔らかなお兄さんという気があった。おそらく、具合が悪くなったのが、田上が自分の事を好きになってからだと、予想した。菊花賞辺りから、表情が険しくなったように思った。

 まだ、この険しさは完全に拭えていないが、夢の中なら大分マシになったのかもしれない。しかし、今後完全に拭えるということもないだろう、とタキオンは思った。まだ、田上の心には女子高生と付き合っているという負い目があるように思うし、その負い目はタキオンが大人になったとしても消えないのだと思う。そういう真面目な所がある田上だったから、タキオンも好きなのだが、もう少し自分たちの恋が上手く行きさえすればなぁ、と思わないこともなかった。とりあえず、田上も大分、タキオンの事を直視できるようになってきたと思う。

 

 田上はそれほど深くは眠らなかった。二十分から三十分ほど経つと、自然に目を覚ました。タキオンは、自分の腕の中から消えていて、代わりに目の前で本を読んでいた。すると、たまらなく寂しく、また、甘えたくなって、「タキオン」とその腕を触って気を引いた。タキオンは、本から目を離して田上を見ると、微笑んで「おや、起きたかい?」と言った。それには、田上も答えずに、ただ腕をタキオンの方に広げて、タキオンを抱き締めたいという事を伝えた。

 タキオンは、ニコニコとしながら「いいよ」と言うと、今回は、田上に背を向けてその腕の中に収まった。特にこれと言った理由はないのだが、強いて言えば、たまにはアクセントを加えてみよう、というものと、田上に後ろから抱き締められるのも悪くないような気がしたからだ。そして、実際に悪くなかった。正面から頭を抱き締められて、田上に包まれるというのも良かったのだが、後ろから抱きしめられると、それはそれで田上の手や腕が頬に感じられたし、背中の方にはぬくもりができて、そのぬくもりに心地よい安心感があった。確かに、田上は、身長も百七十二センチほどで日本人の平均身長だったし、肩幅もそれほどに広くはなかったが、抱擁力はあった。タキオンは、その抱擁によるぬくもりと優しさが大好きだった。愛されているという事を感じられるとともに、田上の男性らしさのある温かみが感じられた。その為にタキオンは、恋人らしさを持って、田上に「圭一君」と少々甘い声で呼びかけた。田上は、嬉しそうな低い声で「なに?」と答えた。そして、タキオンが次の言葉について何を言おうか考えたあと、結局、何も言う言葉が見つからずに「なんでもない」と言って笑った。田上も嬉しそうに微笑むと、そっとその頭を撫でてやった。すると、タキオンはまた嬉しそうにふふふふと笑った。

 

 それから二人は、抱き締め方を変えたり、キスをしたりしながら、朝の甘いひと時を一時間ほど過ごした。その後に、一度、トイレに行ったり、家族に挨拶したりしたが、朝食は食べずに、また布団の方に戻り、もう一時間二人で過ごした。トレセン学園の方に帰ると、あんまり、このように、人の目を気にせず、二人でぬくぬくと寝転がれるということもなかったので、今のうちに、満足できるまで、二人の時間を過ごしておくつもりだった。

 だからと言って、トレセン学園に帰って、満足が満足のまま維持できるかは、また難しいことだと二人は分かっていた。しかし、今はとりあえず、思う存分にいちゃいちゃして、後で後悔がないようにしておかなくてはならない。後で、もっといちゃいちゃしておけば良かった、と思うよりかは、田上も、タキオンとの時間、今、一秒一秒に全ての愛おしさを見つけたかった。その為に、田上はタキオンを抱きしめるということをたくさんしていたのだが、タキオンの方は、田上に抱き締められてばかりというのも退屈だったので、暇潰しに本を読んでいた。ただ、これは、特にタキオンがいちゃいちゃしたがらないというわけでもなく、田上が甘えてきだすと自分もそれに乗っかって甘えることには甘えた。そして、本を読むのに集中できていたのかと問われると、そうでもなかった。常に、田上が甘えてくるので、その度にタキオンは田上と甘い一時を過ごした。

 こんなにも甘えてくる田上は珍しかった。以前にも、タキオンに少し甘えてくることはあったが、こんなにも甘えた声を出して、タキオンにすり寄ってくるのも中々ない。タキオンには、田上が、ライオンの姿形をしているくせに、子猫のように甘えてくるように思えた。その考えが少し面白かったので、田上に言ってみた。タキオンは、てっきり田上が少々不機嫌か、もしくは、甘えようとしなくなるかな、と思っていたのだが、以外なことにそんなことはなかった。

 田上は、タキオンの膝枕の上に頭を乗せていたのだが、そこからタキオンを見上げて、嬉しそうに「ライオン?」と言った。それから、両手を猫の手のように上げて、「ガオー」とまで言ってみせた。その声には少々照れが混じっていたが、それでも、タキオンには田上がそんな事をすると思っていなかったので、驚いて目を見開いた。それから、「おお、なんだ?可愛いライオンだな?」と動揺を隠しきれない声で言った。その声に、田上も自分の気を取り戻したようで、少し顔を赤くさせると、「やらなきゃよかったな」と言った。

「いや、やってくれたほうが良かった。…うん」

 まだ、動揺の冷めきっていないタキオンが言った。田上は、顔を苦々しげに笑わせながら、「こんなことするような年齢じゃない」と言った。それでタキオンも動揺が冷めたので、こう言いかえした。

「いや、二十五はまだそんな事をする年齢だよ。それに、可愛かったよ?今の圭一君は」

「…お前にしか需要がないもんだろ」

「当たり前だよ、何言っているんだい。私以外に需要があっちゃ私が困る。 ただ、君のようなギャップの塊のみたいな人間は需要があるかもしれない。なにしろ、君は私にモテるような人間だからな。顔も悪くないし、優しくて仕方がないし、誠実だし、本当に彼女の事を大切にしてくれる。きっと、普段私と居る状態の君が、世の中の女性に広まってしまったら、外に出歩く毎に、君は女性から声を掛けられるかもしれない」

「逆ナンってやつ?」

「そう、それだ。だから、…私以外に需要がないと言うより、私にしか見せない上に、世の中に供給なんて欠片もしないわけだから、自然と需要もなくなるわけだ。これで、世の中の女性が、君の優しさや、ギャップや、男らしさに気がついてみろ。いつ、私の立場を奪われるかわかったもんじゃない」

「お前以外のことは好きにはならないよ」

 田上は、そう言ったが、タキオンは何も答えなかった。なんと答えれば良いのか分からなくなったからだ。「ありがとう」と答えても良かったのだが、それを答えようとすると、素直に言葉が出てこない。他の言葉も考えようとしたのだが、なにも思いつかなかった。それで、二人は数瞬見つめ合うと、田上が口を開いた。

「お前も、中々自分に自信がないんじゃないか?」

「ん?なぜだい?」

「だって、…俺はお前以外のことを好きになるつもりはないのに、度々、他の女を警戒するだろ?独り占めにしたいって言うより、他の女に俺が奪われることを警戒している感じだからね。…自信ないのかな、って思った」

「そりゃあ、……君と似たようなもんだよ。他の女がぐいぐい詰めて、君が間違ってキスしてみろ。私はそれだけで大分なショックだ。想像しただけでも嫌だ。……だから、…今後、君を女性が居る酒飲みの場に一人で出させたくないんだけど、…いいかな?」

 唐突な束縛に驚きつつも、田上は「うん」と頷いた。

「特に、酒飲むような女友達も居ないし、そもそも酒がそんなに好きじゃないならいいけど…」

「でも、君、たまに付き合いで酒を飲みに行った時があっただろ?」

「まぁ、そうだね。最近は全然なかったけど、昔はあったな」

「…それはやめてほしい。…君がどうしても行きたいって言うんなら、君の意見を尊重するしか無いが…」

 タキオンは、抑えきれない自分の束縛欲に、少し落ち込んでいるような口調でそう言った。そのタキオンを、田上は不思議そうに見つめた。

「まぁ、ああいうのは大体男が大半だよ」

「大半ならそれでいいが、女性が居るんならやめてほしい。…私の事を出汁にしていいから。――彼女が酒飲みはするなって言うんでやめておきます、とでも断ってくれないか?」

「…まぁ、今後そういう事があるかも怪しいけど、…特にこだわるとこでもないから断っておくよ…」

「ありがとう」と相変わらず落ち込んでいる口調で、タキオンはそう言った。田上もタキオンが何を考えてそう言っているのか、正確に分からなかったので、じっとその顔を見つめていた。そして、考えが少しまとまると、ゆっくりとこう言った。

「…俺も、何か束縛した方が良いかな?」

「束縛?」

「…何か、…勿論、他の男と触れ合ってほしくはないからね。…お前、妙に距離が近い時があるから、それはやめてほしい。俺はいいけど、他の男にそれをするって言うんなら、流石に嫉妬する」

 田上が大真面目な顔でそう言うと、タキオンは微笑を浮かべた。

「分かった。善処しよう」

「善処じゃ駄目だ。絶対にしないと言ってくれ。…こんな束縛は駄目か?」

「いや、そのくらい縛られたほうが、私は心地がいいよ」

「…俺の彼女…」

 田上は、タキオンの目を真っ直ぐに見据えて言った。

「うん。やっと実感が湧いてきたのかな?」

「…まぁ、…女子高生が彼女っていうのも変なんだけどな…」

「高校の頃の君じゃ考えられなかった?」

「考えられなかったよ…。年下の教え子と付き合うなんてフィクションだからな…。変なもんだよ…」

「私は嬉しいよ?」

「そりゃあ、お前は、年上の俺と付き合うだけでいいんだろうけど、こっちは世間体があるんだよ」

「父さんはそれを打ち破った」

「だから凄いよ…。お前の父さんはとんでもねぇ人だよ。…お前の家系の遺伝子には、年上のトレーナーを好きになれなんていう遺伝子が含まれているのか?」

「さあ。…東京の方に住んでいるおばあちゃんは、トレーナーがいたけど、普通におじいちゃんと出会って結婚したらしいよ?」

「じゃあ、そこで突然変異したんだ」

 田上がそう言うと、タキオンはクスクス笑った。

「じゃあ、私達の子供もトレーナーと付き合うというわけだね?」

「それは、…ちょっと面倒だな。…順当に恋してほしいな…」

「おや、じゃあ、私は順当じゃないと?」

「順当じゃない。トレーナーなんか好きになってどうする」

「おや?君は女子高生を好きになったんじゃないか、可愛いトレーナー君」

 すると、田上が嫌そうにタキオンを睨んできたので、タキオンは、「なにか文句があるかい?」と言った。そう言うタキオンから目を逸らすと、田上はこう言った。

「…文句はない。…文句はないけど、…お前が俺の同僚だったらなぁ…。まだマシに恋ができたのに」

「以前の私と同じことを言っているね。私と同い年で同じクラスだったら良かったのに」

「はぁ…、お前が同僚だと、俺は遠くから見てるだけだったな…」

「そんな事無いさ。私が見つけてあげるよ」

「…いや、お前は、結構人から好かれるからな。…ここが女子校じゃなかったら、俺のことなんて眼中にもなかったぞ…」

「つれないなぁ。 私、君の事がとっても好きなんだけど」

「…俺は日陰者だよ」

「じゃあ、君は私の事を人気者だと言いたいのかな?」

「実際そうだろ?」

「いや?友達連中とバカ騒ぎしている人たちに比べたら、私もまだまだ日陰者さ」

「そういうのがモテない男子に需要があるんだよ。ある程度距離の近い接しやすい女子ってのに高校生男子は簡単に惚れるんだ」

「じゃあ、君も高校の頃はそんな人を好きになっていたのかな?」

 田上は、答えづらい質問に直面してしまって、変に口元を笑みのように歪めたまま、タキオンを膝枕の上から見上げた。

「どんな人だったんだい?高校の頃の君の好きな人」

「…そんなに聞きたいのか?」

 田上は、多少うんざりしながらそう言った。

「聞きたいよ」

「でも、聞いたら絶対にヤキモチ焼くだろ?」

「まぁ、…焼くだろうね。 だが、そのくらいが丁度いいとは思わないかな?君だって妬かれたいだろ?」

「んー…、妬かれるとちょっと面倒だからなぁ」

「…悲しいな…」

 タキオンは、本当に悲しそうな表情で田上を見つめていた。

「悲しいなって言われてもな…。少しくらいなら妬いてくれても構わないけど、それでスイッチが入って束縛されるようになると、こっちもちょっと困る」

「今、スイッチを入れてもいいんじゃないか?」

「それでまた、――君は御仏じゃないか?って言うのか?」

 そうすると、タキオンは、また少し悲しさを増した表情を見せた。

「なんとか、欲望のままに生きれる方法はないものかな?」

「…今なら、キスをしてもいいよ」

「本当かい?」

「本当」

 そう言うと、田上はよっこらしょと起き上がって、タキオンの前で胡座をかいた。そして、両手を軽く広げると、タキオンを受け入れる姿勢を見せた。タキオンは、それに微笑しながら近づいて行って、正面からそれの上に座った。一瞬見つめ合うと、二人はキスをした。十数秒ほど唇を重ね合わせると、二人は唇を離して見つめ合った。そして、田上が、難しそうな顔をしてこう言った。

「お前が女子高生じゃなければなぁ…」

「女子高生じゃ不味いかい?」

「不味いよ。十八歳と付き合う二十五歳なんて聞いたことがない」

「君が聞いたことがないだけで世の中には居るんじゃないかな?実際、芸能人の中には、二十くらい年の差があっても結婚している人がいる。八歳差くらいなんてことはないだろ?」

「それはお互い大人同士だからなぁ…」

「私は子供かな?」

 タキオンは、少し顔を近づけた。すると、田上は、それにドキドキして目を逸らしながら言った。

「お前は十分に大人だよ。そこらへんの二十五歳よりちゃんと物を考えてる時がある。…でも、やっぱり、幼さも残っている気がするからなぁ…」

「なら、君だって十分に幼い時があるよ。今さっきなんて、私の膝枕で嬉しそうにおねんねしていたじゃないか」

「そりゃあ、彼女の膝枕に寝転がって何が悪い」

「悪いとは言ってない」

 タキオンはそう言うと、田上の唇にキスをした。田上は、少し嬉しそうにしながら瞬きをした。

「そんくらいキスできるようになれば、大人だよ」

「だろう?」とタキオンが得意げな顔をして言った。

「…ただ、なぁ…。…お前が十八じゃなかったら…」

「十八歳がそんなに嫌かい?」

「十八ってなぁ…。世間じゃ、子供と言われるような年齢だし、女子高生だし…」

「なら、今からトレセンをやめてあげようか?」

「それはやめておけよ」

「でも、もう君の隣に永久就職する内定は決まったようなもんだし、やめても別に問題はあるまい」

「あるだろ?もう、レースには出れないぞ?」

 田上がそう言うと、タキオンは少し顔をしかめた。すると、田上が微笑した。

「そういう所が子供らしい」

「それを言ったら君だって子供らしいところがあるじゃないか。二十五歳如きで何をオトナ気取っているんだい?」

「…そうだな、ごめん。お前は大人だよ…」

「…ちょっと今のは言いすぎた。…まぁ、大人と子どもの境目なんてそんなものだね。曖昧なものだよ。世の中には、くだらない大人もそれなりに居るのだから、大人という言葉自体にそこまで高尚な意味はないだろう」

「…けど、年齢とともに見える景色も違ったりするからな…。…成長っていうのは…」

「個人差が大きいだろうね。その人がどのような道を歩んできたのかによって、物事の考え方は異なるし、どのような道を歩んでいきたいのかにもよって捉え方も変わる。子供や大人と人は言うが、実際はそんなに変わらないものかもしれない。ただ、その子供が歩んできた先に君が居て、君が歩んできた後ろに子供が居るようなものだよ」

「…なるほど。…深い?」

「…まぁ、適当だ。ただ、私と君に大きな差はないってことさ。ただ、私達は互いに惚れ合っている」

 すると、田上は、少し目を泳がせた後にこう言った。

「俺は、お前に惚れてるのかな?」

「どういうことかな?」とタキオンは、少しだけ表情に不安を覗かせた。

「……いや、…どうだろうな…」

 その後、暫く考えたあと、田上はまた言った。

「……俺は、…お前が好き。……お前が好き。…好きならそれでいいだろ?」

「…まぁ、私としては全く問題はない」

「…ただ、そこに別の可能性があるとしたら?…例えば、俺の『好き』は、科学によって作られた『好き』だった…とか」

「…ふむ。…ふむ。…君は、科学を誤解しているかもしれないが、…君の言う科学はそんなに深いものじゃないよ」

「…どういうこと?」

「…科学は、人が物理的に死ぬことを探る学問だということだ。精神というものも、精神を物理的に探るものだ。だから、それほどの深さはない。…例えば、人はなぜ人を愛するのだろうという疑問に、なになにというホルモンが働くからだ、という答えを返すのが科学だ。決して、思考に答えを返してくれるものじゃない。あなたのその生きづらさは、なになにというホルモンが出ているからであり、そのホルモンを抑制しておけば、生きづらさは解消しますよ、というものだよ。思考に答えを返してくれることはない。物事の浅い所を細かく分析して、その浅さの解明に努めているんだ。 勿論、未知の世界というものは魅力的なものだが、考え方に答えを出す学問ではない。そこの所を君は誤解しているんだ」

「…なるほど…」

 あんまりよく分かっていなさそうな田上を見ると、タキオンは微笑んで言った。

「つまり、…君の『好き』という感情の中に科学があって、君の『好き』という考えの中に科学はないのだよ」

「…ほう…」

「分かったかな?」

「…まぁ、…なんとなく?」

「もう一つ付け加えてみると、科学は君の人体だ。君の人体こそが科学そのものであり、その脳みそから生み出される考え方は、科学ではなく言葉だ。言葉は、過去からずっと伝えられてきものだが、その存在は目に見える物じゃない。知らず知らずの内に、子供からその子供へと伝えられていく。……しかし、それに科学というものはあんまり絡んでこないね。 まぁ、言ってしまえば、私達の体こそが科学だから、多少は絡んでくるだろうが、それにしては人間は千差万別だ。様々な考え方がある。その中で、古くからある一定の思想というものは、…話があんまりまとまらなくなってきたな。…私は何が言いたいんだったかな?」

「…タキオンの言いたいことは大体分かったよ。…科学に考え方を変えられるというより、考え方を科学が調べてるということだね?」

「ざっくりいうとそんな感じだ。私よりもまとめ方がしっかりしているよ」

 田上は、微笑んで「ありがとう」と言った。それから、タキオンは少し何かを考えていたが、やがて、田上の目を見ると言った。

「君が突然に変なことを言うから、私も動揺したじゃないか」

「…まぁ、…好きだよ」

「好きって言えば私が許すと思っているのかい?」

「…ああ、ごめん…」

「…そんなに怒っては居ないけどね、…まぁ、君の言いたいことも分かる。最後に綺麗にまとめてくれたしね。 私は、影響を与える科学というのはあんまり好かないね」

「…どういうこと?」

「世の中を変えたがる科学ということだよ。実際、私の足の脆さの克服のためにした研究がそれだった。だから、人よりも一層嫌いなのではあるが、……薬というものは実に便利なものだね?」

「そうだね」

「腹痛を止める物だったり、熱を下げるものだったり、痛みを和らげるものだったり…。実に便利で好ましい。新しい薬が作られれば、今死ぬ人も明日に生きながらえることができるだろう。 しかしだね、今死ぬべき人は明日を生きるべきだったのだろうか?」

「…どうだろうね?」

「まぁ、君にも分からないし、私にも分からない。しかし、人間が進もうとしている道はそこなんだ。交通事故にあっても絶対に死なない世界。人間はそれを作ろうとしている。今なら、交通事故に会えば死ぬ。即死の事故にね?しかし、人間は、即死の事故からすらも人を救おうとしている。お人好しも度を超せば、…なんとやらだ。 人間は、死を支配しようとしている。逃れられぬ死の恐怖から、科学という信仰の道具を使って、できるだけそこから遠ざかろうとしているんだよ。そして、遂に死ななくなった暁には万々歳だ。勿論、私は人に死ねと言っているわけじゃないよ?ただ、生き死にを制御できるようになった日には、人類はどこへ向かっていくのだろうと気になってね。 君も気にならないかな?生物が死ぬことのない…楽園だ」

「まぁ、…死ぬのは怖いよね」

「そりゃあ、私だって人間だ。怖いに決まっている。明日私が死ぬのが、運命によって決まっていたとしたら、どうも耐えられない。せめて、一日中君と一緒に居たいと泣いて頼むかもしれない」

「俺だって嫌だよ」

「そうだよ。そして、難病で死んでゆくような子どもたちを見ていると、いたたまれない。――この子達にも、幸せに生きることのできる未来があったかもしれないのに、と思うんだよ」

 すると、田上の顔が曇った。タキオンは、これにあっと気がついて、慌てて言った。

「そうだ、お義母さんは病気で死んだんだったね。ごめん。無遠慮なことを話しすぎた」

「いや、いいよ。…お前の話には興味がある」

「…いいのかい?」

「いいよ。別に、母さんの死に触れたくらいで怒りはしないよ。タキオンも、何の理由もなく無礼なことを言わないだろうしね」

「そう、そのくらいの良識は備え付けている。…なら言うが…、そういう、お義母さんのような人たちにも未来があったわけだ。その未来を思うと堪らなく悲しくなる。…しかし、…しかしだね…。どうも…、圭一君のお義母さんの死を当たり前だとも言いたくないんだけどね…」

 困ったように眉を寄せて田上を見るタキオンに、田上はゆっくりと頷いた。

「…救えるべき命を救うか…それとも、死ぬべき命は死ぬものとして見捨てるか…。勿論、圭一君のお義母さんが生きている方が良い。…それはそれで、また、君の進むべき道が変わって、私達も会えなくなった可能性があるが…」

「分かってるよ」と田上は、タキオンを安心させるために言った。

「…まぁ、…だからね、…君のお義母さんが死んだのを喜びたいんじゃない。私は、そんなに悪どい女にはなりたくない。ただ…、…どうにも言葉にするのが難しいね」

「俺のことは気にしなくてもいいよ」

「君はそう言えば良いかもしれないが、そう言われた所で配慮を欠くわけには行かないし、実際に、言葉にするのが難しいんだよ」

「…なら、タキオンのお好きにどうぞ」

「どうもありがとう。お好きにやらせてもらうが、…どうも難しいことだよねぇ。君も――母さんが生きていたら、と思う時があるだろ?」

「あるね」

「だろう?しかしだね、今、君は母さんを蘇らせたいと思うかい?」

「…まぁ、…結婚式くらいは見せてやりたかったね」

「だろう?私も、結婚式に家族が一人いないというのは、寂しいものだよ。ただ、…どこか受け入れている節もあるだろう?」

「まぁ、十一年も経てば、…受け入れているのかな…」

「それが認められないのが、世の中に影響を与える科学だ。自分の信念をどうやっても曲げないぞ!というものだ。…私の足もね、スポ根漫画ならそれでいいよ。そして、あの時は、私もスポ根のような気持ちがあったと思う。世の中に影響を与える科学というものをあんまり考えずに、自分の足を治す道を選ぶか、それとも、カフェが走るのを見るか…だった。そして、治った時も純粋に喜んだが、こういう科学を世の中に公表するのはあんまり好ましくないと私は思ったんだよ」

「うん」

「私のためにやったものだからね、ここに来た夜にも話したが。私のためにやったんだ。それを今更誰かの為にやりましたという顔をしたくないし、初めから誰かのためにしたとしても私はその当事者にはなりたくないね。 そして、ここで一番の問題が、その薬によって、救われる人が居るということなんだ。私だって、自分と同じ病気でレースの舞台から去っていく人を何人も見たよ。ウマ娘には、そういう病気があるからね。人間の姿形のまま、あり得ない速度で走っている代償かもしれないが。 ともかく、私もそういう人たちを救わずに放っておいても良いものなのかと悩んだことがある。しかしだね、…難しいものだね。結局、私はノーベル賞を取らずに、君とここでこうして抱き合っている。……君も、お義母さんを亡くしてここで私と抱き合っている…。難儀だねぇ」

 田上は、タキオンの最後の言葉が、何にどんな意味で向けられた言葉なのか分からなかったため、タキオンの目を見つめたまま黙っていた。すると、タキオンは「キスしてもいいかい?」と聞いてきた。田上は、特に何を思うこともなく頷いて、タキオンとキスを交わした。それから、タキオンは田上に向かって「朝食を食べたほうが良いんじゃないか?」と言った。その途端に、田上は、今日の昼の内に帰らなければいけないことを思い出し、もう嫌になって、タキオンを抱きしめながら「嫌!」と言った。

 タキオンは、困り半分嬉しさ半分といった表情で、田上に抱き締められると、「困った圭一君だ」と言った。そうして、そこから手を伸ばすと、田上の頭をポンポンと優しく撫でた。田上は、その心地よさを感じながらタキオンを抱き締め続けた。

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