ケロイド   作:石花漱一

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七、素敵なディナー(前編)

七、素敵なディナー

 

 それから、二人は驚異的な回復を見せて、病院の人を驚かせた。タキオンもウマ娘といえど、その体温は雨風に奪われて、死にかけのはずだった。病院の人が言うには、「あの状態であそこまで走ったのは奇跡に近い」とのことだった。タキオンの体も冷え切っていて、病院への入院を余儀なくされたが、それも夕方近くになればもう回復していた。だが、田上は、まだ寝たり起きたりを繰り返していて、体温も通常までは回復していなかった。診てくれたお医者が言うには、「もう大丈夫だ」と言っていた。タキオンに感謝の言葉も告げられた。

 タキオンは、誉め言葉には何の感慨も抱かない性質だったが、今回ばかりは、少し胸の奥からこみあげてきそうなものがあった。それをぐっと飲み込むと、「元々は私のせいでしたから」と答えた。お医者は、不思議そうな顔をして内容を聞こうと思ったが、代わりにこう言った。

「君たちのことは一応、トレセン学園の方にも連絡したよ。もう大丈夫だろうけど、何かあると困るから」

 タキオンは面倒くさそうな顔をした。すると、お医者が苦笑して言った。

「あんまりそんな顔しなくても怒られたりはしないと思うよ。今回のことは事故なんだから。怒る方がどうかしてる」

「…だが、トレーナー君は?監督不行届で罰せられたりはしないかい?」

「そこのところも大丈夫なんじゃないかな?もしものことがあれば、君が断固抗議してみるといい。世間は、子供の声には多少甘かったりする」

 そう言うとお医者はニヤッと笑った。

「君の行動が批判されているのをどこかの記事で見たことはあるけど、それも被害者面をしておけば案外声は少なくなるものさ」

 そして、お医者は部屋から出て行った。その後は、看護婦さんが出たり入ったりして、田上の様子を確かめてから、また静かになった。

 タキオンと田上は、同じ部屋に二人きりになった。タキオンは落ち着かなかった。田上が心配なのもあったが、起きた時田上が何と言う言葉を発するのか。

「お前のせいでこうなったんだぞ!」と言うのだろうか?それとも「もう俺はお前を諦めたよ」と言うのだろうか?

 そのどちらも嫌なことだった。早く起きて、元気になった姿を見せてほしかった。

 

 ベッドの上に座って田上の顔を眺めていたタキオンは、暫くすると乗っていたベッドから降りて田上に近寄った。その顔は、あんまり安らかとは言えない寝顔だった。眉間にしわを寄せて、唇をきつく結んでいた。どちらかと言えば、泣きそうな寝顔だろう。それとも、泣くのをこらえている寝顔と言った方が正しいのだろうか。賢助の家で散々田上の寝顔を見てきたタキオンだったが、ここまで苦しそうな寝顔を見たのは初めてだった。

 自分の言葉のせいでこんな風になってしまったのだろうか?とタキオンは考えた。自分の言葉で田上をここまで傷つけて、夢の中にまでその傷を負わせているのだろうか?

 そう考えると、鬱々とした気分になってきて、その思いを払うようにゆっくりと首を振った。だが、あんまりそれも叶わなかった。鬱々とした気分は続いてきて、夕日がその部屋に差し込んだ。 

 ベッドと田上の影が黒く伸びた。窓から見える夕日は、どこか不気味で物々しく感じた。紅いはずの夕日は、黒く濁っているように感じたし、黒く伸びる影は、タキオンを闇の世界に連れて行っていくように感じた。

 タキオンは、田上のベッドのわきに膝をついてうつむいていた。もう自分ができることはないかのように感じられた。その時、田上がもぞもぞと動いて、「誰か…」とかすれた声で言うのが聞こえた。その途端に、黒い影はただの影に戻った。夕日は、いつも通り赤く燃えていて、街を照らしていた。

 タキオンは、ゆっくり立ち上がると田上の顔の傍に行った。まだ、目は開けていなかったが、タキオンが顔を近づけると再び呻くように「誰か…」と言った。

「トレーナー君?」

 タキオンも囁くように言った。

「どうかしたのかい?どこか痛むかい?腹?足?」

 タキオンの声が聞こえると田上も安心したようだ。

「いや……、水」

 そう微笑みながら呟いた。タキオンは、傍の机に置いてあったコップを手渡そうとした。しかし、そこで田上が起き上がらないと飲めないことに気が付いた。

「トレーナー君、君が起き上らないと飲める水も飲めないよ」

 タキオンはそう言った。すると、田上がまだ目を瞑りながら言った。

「起こして…」

 タキオンは、面倒臭そうに、しかし、どこか嬉しそうにため息をついた。

「全く、君ってやつは…」と言うと、田上の頭と背を抱えながら起こしてあげた。だが、力が入らなかったのか田上は、タキオンが手を離すとまた後ろに転がってしまった。

「君、力を入れてしゃんと立たないと…」

 そう言うと、タキオンはもう一度立たせた。だが、また「いいかい?」と言って手を離すと後ろに倒れた。その顔は、目こそ瞑っていたものの嬉しそうにニヤニヤしていた。

「君、さてはわざとやってるねぇ?」

 タキオンがそう言うと、田上はこう返した。

「わざとじゃないよ。力が入らないのは本当だ。…タキオン、手を貸して」

 田上は、そう言うと布団の中から手を出した。その手を不思議そうに握ってタキオンは聞いた。

「これに何の意味があるんだ?」

 タキオンの言葉を聞くと、田上は微かに目を開けてタキオンを見てから言った。

「へへへ、暖かい」

「…とうとうイカれたか。一回死にかけて、頭がおかしくなってしまったらしい」

「そんなことないよ」

 田上は、微笑んでタキオンを見上げながら言った。

「おれは、お前の背に揺られてる時か、それともここに運ばれて眠っているときか分からないけど、夢を見たんだ。…暖かい大地の眼差しを受けている夢だった」

「…?意味が分からないぞ?」

「何と言うか、神様に包まれている気がしたんだよ。大きな大きな手の平で、人を何人も包み込めるような手。だけど、俺はその手の中に一人だけだった。一人だけで草原の上に立っていた」

「そこで何を思ったんだい?」

「ああ、タキオンの所に戻りたいなぁ…って。そこには俺一人だけだった。木も草も花も生えていて、動物なんかも寄ってきてそこら中、命から漏れ出る光で溢れていた。だけど、俺は一人だった。その動物たちは、よく懐いていて、ある種の機械的な感じもあったんだけど、とにかくよく懐いていた。そして、俺を引き留めるように袖を噛んだり戯れようとしてきた。まるで、俺を自然の一部にしてこようとしているみたいだった。だけどな。それを俺も一時は楽しんだけど、やっぱり空虚なんだ。空っぽなんだ。命はあるけど、そこに想いはない。心がないんだよ。感情はあるのかもしれない。…俺を引き留めようとしている…一番近い言葉で『悲しみ』かな?だけど、それも違うと言えば、大きく違うし、違わないと言えばぴったり当てはまるようでもある。…それは、俺の感じ方次第だったのかもしれない。

…とにかく、俺は戻らなくちゃと思った。タキオンもいるし、幸助もいるし、父さんもいるし、トレセン学園にも数々の友達がいる。そいつらの顔が思い上がった途端、母さんの顔も出てきた。母さんはどこにいるんだと思った。俺には、母さんが俺の戻りたいと思っている場所にいるとは思えなかった。…これは当然だろう。母さんは同じ場所にはいない。もうあの世に行ってしまったんだ。だけど、だからと言って俺の夢の中に現れることはなかった。…俺は、もしかしたらこれがあの世の光景かとも思ったんだけどな。そして、俺は母さんを探して歩いた。森や草木、花びらの裏を探して、母さんを呼んだ。その間に、友達もたくさんできた。鹿やウサギや熊や狼、それにちっちゃなミツバチとも友達になれた。だけど、蛇とは友達にはなれなかったな。それから、しばらく歩いていくと、俺の好きなバンド、『大きな蛇』のボーカルの木下一抹が出てきた」

「私はずっと疑問に思っていたのだけど、そのボーカルの人の名前って本名なのかい?」

 唐突にタキオンが口を挟んだ。

「いや、本名じゃない。確か…本名はあまりにもダサいから、言いたくないって言ってたな。何かのインタビューで。…で、話を続けてもいい?」

「いいとも」

「ありがとう。…それで、木下さんが出てきたところまでは話したな。それからなんだけど、その木下さんが俺に向かって言ったんだよ。――お前のいるべき場所は本当にここなのか?と。すると、俺の友達たちは怒った。熊も狼も吠えて、その人に襲い掛かったけど、その人は陽炎のようにそれを避けて俺に話を続けた。――もしも、お前の心の中に大切なものがあるのなら、それを見つけに行った方がいいぞ。そして、俺の胸を指差したんだ。すると、そこには空っぽの何も入っていない空洞があった。先は見通せなかった。そこで光を全て吸い込んでいたんだよ。そしたらな、そこで俺の友達たちが皆俺の胸の中に飛び込んできた。熊だって飛び込んできた。俺は、一瞬殺されるかと思ったんだけど、何事もなくて後ろを振り返ってみたら、俺の知ってる、と言っても顔は見たことがないたくさんの人が立ってた。…これは、俺の友達が胸に飛び込んでそのまま通り過ぎた姿だと思うんだ。だって、熊も狼も鹿もこの胸に飛び込んだら忽然と消えたからね。そして、その俺の後ろに立っていた人たちが口々にこう言ったんだ。――行かないで!――消えないで!――あなたがいないとこの世界がなくなっちゃう!――君の心がないとこの世界は終わるんだ!――あれは私たちの宝物だぞ!あの人たちの言葉は、段々と怒りに変わっていった。そして、最後にはこう言った。――そうだ!こいつを縛り上げよう。出れなくすれば、もう大丈夫だ!これより後に起こることは心配がなくなる。こいつの心があればこの世界は平和だ!そう言って、俺の方に襲ってきた。人の姿だったけど、あれは見るもおぞましい怪物の姿となって襲ってきた。人が半壊した姿の様なものだ。所々、腕がなかったり、足がなかったりしていた。そこの部分は、黒いドロドロとしたもので覆われた。嫌だった。逃げるのも嫌だったけど、それよりも森や草や花の美しかったはずのものまで黒々と変貌を遂げていくから嫌だった。俺は、ひたすらに走って森の奥から飛び出た。すると、そこでまた『大きな蛇』のボーカルの木下さんが現れたんだ。あの人はいつもつけているサングラスを外して言った。その目は閉じられていて見えなかった。

そして、言ったんだ。――道はこの先にある!得るものはあるさ!だって世界はこんなにも広いんだ!そういうと、俺の背を押した。途端に足取りが軽くなって風のように走った。後ろを振り返ってみると、もう木下さんは小さくなっていた。しかし、神々しい大きな光を放ってその怪物たちを食い止めていたのははっきりと見えた。すると、一匹のミツバチが俺のところに不意に飛んできたんだ。そして、俺の前に回り込むと、胸の中にふいっと入った。その時の俺は無謀だったのかなんなのか分からなかったが、立ち止まって後ろを振り返ったんだ。そしたら、見えたのは当然人だった。しかもよく知っている人だ。母さんだった。母さんは俺にこう言った。――私のちっちゃな坊や。下りてきなさい。…俺が走っていたのは少しの上り坂だったからね。そして、また言った。――私の可愛い坊や。いい子だから下りてきて。これは坂の話にしては変な話だよな。木の上に上っていたならまだしも、俺は坂を上っていただけなんだ。…まぁ、俺はその声を聞くと堪らなく嬉しくなったよ。だけど、同時にお前、タキオンのことも思い出したんだ。俺は言った。――俺は、タキオンの所に帰らないといけないんだ。母さんダメだよ。そっちにはいけない。すると、母さんは一歩詰め寄ってきた。――いいから。私の可愛い坊や。…少し怒っているみたいだったな。――坊や。愛しい愛しい坊や。あなたが全てなの。私の全てなの。ここで俺は、この母親が絶対に偽物だということに気が付いた。母さんは俺が全てなんてことは言わないからな。それに気が付くと、同時にいろんなことが起きた。その母親は小さな黒いミツバチに変わり、そこにさっき友達になれなかった蛇が出てきた。そして、そのミツバチをパクリと食べた。すると、大きな叫び声が聞こえて、衝撃波の様なものが走ったし、眩い光も起こった。まるで、ゲームで最後の敵を倒した時みたいだったな。そして、それがしばらく続いたので終わるまで待つと、蛇は賢い物を言いそうな顔でこちらを見てきたけど、何も言わなかった。ただ、ふんと鼻を鳴らすと俺が今来た道に消えていったんだ。これは、タキオンみたいだったな。生意気な感じがよく似てる」

 そう言うと、タキオンはむっとした顔をしたが、何も言わずに話を続けさせた。

「そして、俺は石畳の街道を歩いて行ったんだ。もうなにもない。ただ、自分の足音に耳を澄ませて歩いた。そして、ようやく終点に辿り着いたんだ。終点は街道がそこで途切れた崖だった。先がボロボロとしていて、踏む場所を間違えれば落ちていきそうだった。それから、俺はその崖の先に自分の心を見つけた。空中に浮いていたよ。なんだかよくわからない綺麗な紫色の光の粒みたいな物が寄り集まっていてできていた。だけど確かにそれは俺の心だった。俺は、それに触れるのかすら分からなかったけど、とりあえずそれに飛び込むしかなかった。えい、えい、ってね。怖かったよ。それを掴めなかったらどうしようかと思った。だけど、結果は大丈夫だった。光の粒に触れるとそれは俺の手にまとわりついてきて、一個の大きなボールとなった。俺は、それをしっかりと握ると胸の中にはめ込んだ。風がビュービュー鳴ってやかましかったけど夢はそれで途切れた。…いつ見た夢だったんだろう?描写的には、生死の間を彷徨っているようだったけど…」

 田上は、そう言うと身を起こしてタキオンを見た。タキオンもまた田上を見つめ返した。

「私は、……その夢が話す内容がとても面白いことのように思うけど、…今日のところは頭を使うのをやめないか?私は…、私は…、君が起きていてくれるだけで嬉しくて」

 タキオンは、しおらしい淑女のように田上を見つめた。夕日を顔に受け眩しそうだった。田上は、そのことに気が付くと言った。

「カーテンを閉めよう。電気をつけよう。ここはどこだ?病院であってるよな?」

「ああ」とタキオンは頷くと、カーテンを閉めに窓辺に歩いていった。最後に名残惜しそうに夕日を見つめると、カーテンをシャッと閉めた。

 その日の夜は、田上がもう起きていることに驚かれた。賢助も幸助も今日のところは碌な話はできないだろうと、病院のロビーで待っていたそうなのだが、田上が起きたと聞くとこちらもやはり大きく驚いた。そして、病室で賢助が言った。

「よくやった。お前は男だ。命の糸を何とか繋ぎ止めた」

 そう言うと、ニコニコ笑っていた。幸助も嬉しいようだったが、何も言わなかった。ただ、面会時間が過ぎて病室を出て行くときに最後に言った。

「お前が生きてるのは、タキオンさんが一生懸命運んだからだぞ。そのことに感謝してもしつくせないくらい感謝しろよ」

 およそ幸助らしくない声のトーンと言葉だったが、田上はその言葉に頷いた。そして、タキオンの方を向くと言った。

「改めて礼を言うよ。命を救ってくれてありがとう」

「…よしてくれ、なんだか気持ちが悪い。私は君のためにやったんじゃない。君が死んでほしくないから運んだんだ。私の勝手な感情だよ」

 タキオンは、面倒くさそうにそう言って、ため息をはいた。

「幸助君も余計なことを言わないでくれたまえ。この子はすぐに真に受けるんだ。あんまりいろんなことを吹き込むんじゃないよ」

 タキオンにそう言われると、幸助は嬉しそうに笑って、「了解」と言った。そして、部屋から出て行った。その後には、訳も分からない幸福感が部屋を包んだ。皆が笑顔になるような幸福感ではなかった。ただ、今にもむずむずと笑いがこみあげてきそうで、一度誰かが突けば、笑いが爆発してしまいそうな幸福感だった。

 タキオンは、ベッドに座りながら言った。

「……本当に君が生きていてくれて助かったよ」

「…何でだ?」

「だって、私の目の前で君が死んだとあったら、罪悪感が一生付き纏うだろ?あの時こうできたんじゃないか?あの時、あんな話をしなければよかった。後悔しても意味のない後悔ばかりを繰り返すことになる」

「それもまた一興じゃないか?」

 そう言うと、タキオンは面白い発見をしたという顔で言った。

「どの口がそう言うんだい?もし私が君の目の前で死んだとあったら、君もまた自分のことを一生責め苛むだろう?」

「…いいや、それも一時の名残惜しさに過ぎないね。十年後には忘れているかもしれない」

 田上は、そう言って母の顔を思い浮かべた。タキオンもまた同じことを思ったようだ。こんなことを言ってきた。

「それでは、君の母親はどうなんだい?…あんまり答えたくなかったら答えなくていいけど、君の母親のことを忘れられるというのかい?」

「…」

 田上は、押し黙ってゆっくりとタキオンを眺めた。あんまり長い時間眺めたので、タキオンもじれったくなってこう言った。

「分かった、分かった。すまない。この話はしたくないんだな?ならば、謝るよ。すまない。だから、そんなに見つめるのはやめてくれ」

 そう言われると、田上はふっと微笑んだ。

「いや、話したくないわけじゃない。ただ、タキオンと別れるのはいつになるんだろう?と思って」

「私と?」

 タキオンは笑った。

「貴重なモルモット君だからな。…そうだなぁ、私が、君の言っていた『いい男』を見つけるまでは傍を離れさすわけにはいかないな」

 そう言うと、田上は寂しそうに笑ったが、タキオンはちょうど欠伸をしていて、それを見ていなかった。

 欠伸をした後、タキオンは言った。

「私も疲れたみたいだな。明日に備えるために、早く寝よう。…病院食はいつだ?」

「…さぁ?もうすぐ来るんじゃない?」

 その言葉の通り、これの五分後には夜食が運ばれてきた。タキオンは、量が少なくて不満そうだったが、田上は黙って食べた。考える事が次々に湧いてきた。あの夢の事だったり、タキオンに運ばれている朦朧とした意識の中の事だったり、いろんなことが湧いてきたが、結局は上手くまとまらずタキオンの不平不満を聞くだけだった。

 なんだか、今日のタキオンは文句が多かった。「あー、寒い」だの「この味噌汁、熱っ」だの、子供のように不満を垂れ流していた。そして、田上と目が合うと嬉しそうにニコニコした。田上は、その笑顔を見て複雑な気分になった。しかし、夜になると、体が力を取り戻そうと田上を強制的に寝かせた。そのおかげで次の朝には、田上はすっきりと目覚めることができた。タキオンもそうだったようだ。

 元旦は散々な目にあったが、二人ともそんなことは頭の中になかった。ただ、お互いがお互いを助かってよかったと思っているだけだ。

 

 二人は朝になると検査を受けたが、特に引っ掛かることはなかったようだ。なぜか知らないが、風邪をひくこともなく二人は復帰した。これには、医者の方も首を傾げていたが、タキオンによる田上の奇跡的な救助を目の当たりにすると、そういうこともありえるのでは?という考えになってしまった。

 タキオンは、医者と会うたんびに奇跡奇跡言われるので機嫌が悪くなってしまった。機嫌が悪くなってからは田上の傍を離れようとしなかった。田上もこれには大いに困ったが、話し相手ができてちょうどよかったとも言える。ただ、タキオンが話し相手に適任だったのか?と問われればそうではなかっただろう。元々二人とも自分から話す方ではないのだ。田上としては、聞き役として誰かと話をしたかったのだが、タキオンは用がないときは話すこともしないので、そういう相手としては不適任だった。

 ちょうどその時、タキオンのスマホに電話がかかってきた。見ると、自身の母からだったようだ。しかもテレビ電話をしたがっていたようだ。

「トレーナー君、君も当然一緒にするんだろうね?」

 テレビ電話を面倒臭がってか、タキオンがそう言った。田上は、暫く考えた後、頷いて少し体勢を整えた。

 タキオンは、隣のベッドから離れると田上のベッドに座り、田上に近寄った。しかし、二人で見るはずだったスマホの画面を天井の方にかざすと、田上に言った。

「面倒臭い母親だから、少しくらい混乱させてやった方が身のためだ」

 そう言うと、通話開始のボタンを押した。

『もしもーし、タキオン』

 画面の見えないスマホから調子のいい声が聞こえてきたが、次の瞬間には疑問の声に変わった。

『タキオン?…何これ?どこ?…もしもーし、タキオン。いるんでしょー』

「…はい」

 タキオンは、やっとスマホを天井にかざすのをやめて自分の顔が見えるようにした。田上は、無理にその画面に入りたいとは思わなかったので、そっと後ろに身を引いた。タキオンは気が付いていなかったようだ。自分の家族と電話をしていた。

『タキオン、大丈夫?タキオンの方は大丈夫って聞かされてたけど、田上さんの方は?』

「元気だよ」

 そう言って、タキオンは後ろを振り返ったが、そこには誰もおらず田上が後ろに身を引いているのを見ると怒った。

「君も一緒にするって言ったろ!」

 そう言うと、タキオンは田上の袖を引っ張って、無理矢理田上の体を起こさせた。

『あ、田上さん』

 田上の顔が映るとタキオンの母がそう言った。

「こんにちは、花さん。ご無沙汰してます」

 この花さんとは、タキオンの母の渾名でお母さんの方からそう呼んでくれと田上に頼んだのだ。

 田上が申し訳なさそうに返した。すると、母親の方も少し苦笑しながら言った。

『私の方も連絡をしていないので大丈夫ですよ』

 これは頓珍漢な返答に思えたが、その場の誰も指摘することはせず話は進んだ。

『体調の方はいかがですか?』

「すこぶる元気です。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

『いえいえ、…あんまり事の成り行きを聞いていませんでしたのでお伺いしたんですが、私共の娘が何かしてしまったのでしょうか?それならば、後日また謝罪の機会を…』

「いやいや、そんなことはないですよ。僕が彼女を怒らせてしまったんです。まだ首の痕が残っていると思うんです。ほら、ここに…」

 田上が、着ていた物をずらして、首筋の噛み後を見せたから、タキオンが慌ててスマホをずらして見えないようにした。

「君、気でも狂っているのかい!?そんなもの見せるんじゃないよ。少し怒っただけじゃないか。そんな噛み後くらい」

『何?噛んだの?』

 伏せたスマホからそう声が聞こえてきた。心配しつつも面白がっていた声だった。田上は、それに答えた。

「首をガブッとやられました」

 すると、「首!」と言ってゲラゲラ笑う声が聞こえてきた。それはちょっとの間続いて、笑い終わった後、タキオンがスマホを元の位置に戻した。

『私の娘がすいません。首だなんて、…痛かったでしょう?』

「ええ、それは痛かったんですけど、娘さんも僕が傷つけてしまって大変心を痛めたから、こんなことになったんだと思います。…すみません」

『謝らなくてもいいんですよ。結果良ければ、全ていいんですから。仲直りはできたんでしょう?タキオン』

「…ああ」

 タキオンは、少し機嫌が悪そうに言った。そして、すぐその後に思い立って、その言葉を撤回した。

「…いや、まだ仲直りはしてないね。君からまだごめんの一言も貰ってないや。謝ってもらおう。今ここで」

『タキオン、やめなさい。田上さんもする必要はないですよ。いつもの我儘ですから』

「…いえ、ここで引き下がってはトレーナーの名が廃れます。それ以前に男としてどうかしています。謝らせてください」

 田上は、そう言ったが、どこからどう話せばいいのか分からずしばらく間が開いた。そして、一言ずつ話し始めた。

「お前が、何に怒っているのか、聞いてなかったけど、お前はそんな簡単に明かすつもりはないんだろうと思う」

 タキオンが、頷いた。ちゃんとスマホも二人の様子が見える位置に立てかけていたので、母親はハラハラしながら見守った。

「だから、俺が考えたのは、やっぱりその直前の行動だろう。俺も省みてみると、確かにタキオンの腹が立つ部分はあった。それは、俺の考えてもみなかったことだ。…お前は、やっぱり俺の知らないうちに大人と子供の境目で葛藤していて、俺の知らないうちにそれから脱しようとしていた。そして、その最中で俺が、お前をバカにしたんだろう。俺は全くバカにするつもりはなかったんだけど、確実にバカにしていたことは認める。悪かった。すまない」

 スマホの中からぱちぱちと小さく拍手をする音が聞こえたが、それには何も言わずに田上は言葉を続けた。

「これで許してもらえるかは分からないけど、俺もこれから行動を改めるよ。お前は、俺の可愛い娘じゃない。大人になろうとしている立派な少女だ。俺はそのことを忘れないと誓うよ」

 それから、田上はまだ言葉を続けようとしたのだが、口を微かに開けただけで何も出てこなかった。スマホの中の母親は、それを何が起こるのかと思って見つめていた。

 少しの間、沈黙の時が流れたが、タキオンが口を開いた。

「やっぱり君は卑怯だ。バカだ。ここまで結論を出しておいて、なぜその先が言えない?絶対に謝りたくないとでも?」

「いや、違うんだ。…ただ、…ただ、この言葉が結びの言葉になっていいのかと思って。だって、ごめんって言うのは、どこか不自然だろ?」

 田上がそう言うと、タキオンはフフフと笑った。

「不自然か。確かに不自然だな。…では、ごめんの後にこんな言葉をつけてみたらどうだい?――ごめん、タキオン。これから君にいい男が見つかるその時まで、モルモットとして君の傍にいることを誓うよ。…これはどうだい?」

 田上は、物凄く嫌そうな顔をしたが、タキオンがからかって「早くしろよ。甲斐性なし君」と囃し立てると、ノロノロと言った。

「ごめん、タキオン。これから君にいい男が見つかるその時まで、モルモット……としてだけじゃなくて、一人のトレーナーとして、一人の友人として君の傍にいることを誓うよ」

「おやぁ?君も言うようになったね。私の友人かい?そんなことは当たり前だよ。トレーナーとしても当たり前だ。他にも、私専属の料理人としても当たり前だな。それに、勿論、モルモットとしても当たり前だ。元より、君がトレーナーになる条件は私のモルモットになることにあったのだから」

 すると、スマホの方から「ブラボー!!」と聞こえてきて、指笛をピーと吹きならす音が聞こえてきた。その下には、いつの間にか小さい女の子が、「お母さん何してんの?」と足元にくっついていた。

 タキオンの母が、またタキオンの顔を見ることに集中するとその顔とカメラの距離が縮まって、より巨大に見えた。しかし、その中に小さい女の子が割り込んできた。この子の名前は、田上も知っている。桜花だ。だが、そんな気軽に名前を呼べる関係でもないから、田上は黙ってその子のことを見ていた。

『お母さん、お父さんもお話ししたいって言ってたよ』

 その女の子はカメラの事には気が付いていないようで、しきりにお母さんと話していた。すると、タキオンが言った。

「桜花?私が死にかけてたこと知ってるかい?」

『わ、お姉ちゃん。久しぶり、でもないね。このまえ電話したよ。…死にかけてたの?どうして?デートしてたんじゃないの?』

 タキオンが、桜花の最後の言葉に「わ!」と驚いて持っていたスマホを落としそうになったが、危うく太ももの上に落ちて助かった。タキオンは、桜花の戯言が田上の方に聞こえていないか確認したが、その頃には田上も後ろに身を引いていて、タキオンと目が合っても不思議そうな顔をしただけだった。タキオンは、この様子に安心してスマホの方に向き直ったが、田上は桜花の言葉をバッチリ聞いていた。しかし、そんなに本気にはしていなかった。――どうせ子供の戯言だからな、と思うと、タキオンに気を使って聞こえないふりをしていただけだった。

 

 タキオンは暫くそのまま、家族水入らずで楽しく話をしていたようだった。その途中で父親も来たようだった。田上の容体を心配そうに聞く声が聞こえたが、タキオンがこちらを見ると、急いで首を振って自分は話したくないことを伝えた。未だに、タキオンの父親と向かい合って話すのは勇気が必要だった。別に、貫禄も威厳もあるような父親ではないのだが、この父親の娘を自分が今好いていると思うと、相当の覚悟が必要だった。タキオンの父としては、自分の娘を好いててくれてもいいので、同じ娘を知る者同士で仲良くなりたかったのだが、敬遠されていると分かるとそれも落ち着いた。どっちみち、話す相性としては良くないようで、二人とも聞き役の方が好きだった。

 そして、スマホの通話の時間も終わりが来たようだ。

 突然、タキオンのスマホがピロンとなって、充電が残り少なくなってきたことを伝えた。タキオンもそれを言うと、「最後に…」と母親がこう聞いてきた。

『病院からはいつ出るの?』

「えっと、確か今日だったと思うけど、詳しい日時はトレーナー君に聞いた方がいいと思うよ」

 タキオンがそう答えたから、田上は悪い予感がした。

『じゃあ、申し訳ないけど、田上さんの方に代わってくれる?出てくれないって言うんだったら、もう聞くだけでいいんだけど…』

「トレーナー君、どうなんだい?」

 タキオンが、そう聞いてきたから、田上は仕方なく頷いた。今になって、やっぱり父親の方にも顔は見せておいた方がいいだろうと思ったからだ。

 田上がスマホの方に顔を映すと、父親が第一声を上げた。

『おお、田上さん。元気そうでなによりです。うちのタキオンが迷惑かけてすみませんでした』

「いえ、娘さんに迷惑をかけたのは僕の方ですので、謝る必要はないです。むしろ僕の方が謝るべきかと…」

『謝らなくていいわ。さっきタキオンに謝ってたでしょ?…それで、退院はどうなっているのかしら?』

「えっと、昼の一時にうちの父親が車で迎えに来ます。検査等はもう済ませましたので、それを待つのみです。そして、今日は初詣に行く予定でしたけど、どうなんでしょう。そこまでは予定は立っておりません。父に伺いましょうか?」

『いえ、それだけ分かればもう大丈夫です。ありがとうございます』

 そのやりとりを、タキオンは不思議そうに見ていたが、口を挟んだ。

「トレーナー君……、君はやっぱり一人の人間なんだよな」

「…?どうしてそう思った?」

「だって、君は、私の母さんと丁寧に話してる」

「…そりゃあ、当たり前だろう?」

 スマホの向こうで父親が、微かに笑う声が聞こえた。

「そうだよ。当たり前と言われたら当たり前なんだけど、それがどうも不思議で……。なんで君は私の母に敬語を使うんだい?私には使わないだろ?」

「お前に使わないのは、それは仲がいいからで、それでお前のお母さんに使うのは…」

 ここで何と言えばいいか分からず、困ってしまって、スマホの中のタキオンの両親を見た。すると、タキオンの母親が言った。

『タキオン。大人って言うのは相手に敬意を持って話すの。それくらいのことは分かるでしょ?』

「…そうすると、なぜ敬意を持つんだい?そして、なぜ私には敬意を持たないんだい?」

 タキオンが田上に聞いた。

「俺は…、やっぱり人によって話し方を変えるよ。別に大人だからって敬意を持てない人はたくさんいるし、子供でも敬意を持てる人はたくさんいる。ただ、その人にあった話し方をしてるだけだよ。タキオンにはタキオンの、タキオンのお母さんにはそれ相応の。…あんまり深く考えないでもタキオンの思ってるままでいいんじゃないか?…タキオンだって俺に敬語は使わないだろ?」

「そりゃあ、君はモルモット君だからね」

「それと同時にトレーナーだ」

 田上はタキオンの言葉にすぐさま切り返した。

「…トレーナーか。…ふむふむ、ちょっと分かったぞ、トレーナー君。…つまり、こんな事はどうでもいいってことだな?」

 田上は苦笑した。

「…まあ、そんなところだ。いくら考えたって、答えの出ない、というより、疑問の尽きない物はあるからな。突き詰めていくと世の中の事なんてどうでもよくなる」

「そしたら、どうしたらいいんだい?」

 タキオンが不思議そうに聞いた。

「その時は、近くの頼れる人に頼って、生きていかなきゃだめだな」

「ふぅん…」

 タキオンは、あまりよく分からなそうに言ったが、その時に、スマホの中から幼い女の子の声が聞こえてきた。

『お姉ちゃん、それにお姉ちゃんのトレーナーさん』

「なに」と二人で聞いた。

『今度の大阪杯私も行くから、それまでにあか…』

 そこでタキオンが、急にテレビ電話をぷつっと切ったから、田上が驚いた。

「桜花ちゃんが今話してるところだっただろ!?」

「いや、最近悪知恵が付いてきたからね。あの後に何か余計なことを言いそうな気配がしたから切った」

「余計なこと?」

 田上が聞いた。すると、タキオンが半ば困ったように怒りながら言った。

「余計なことは余計なことだよ!全く、最近の小学生と来たら、なにするかわかったもんじゃない」

 タキオンは、そうぶつぶつ言いながら、スマホを充電コードに繋げ、自分のベッドの方に向かった。それから言った。

「…と言うことは、今日の昼に帰るんだね?」

「退院の事?…そうだね。今日の昼から帰るけど、初詣はどうなるんだろう。俺としては、元気だから行っておきたいけどな」

「私が嫌だと言ったら?」

 タキオンがそう言ったから、田上はむっとした。

「それなら、置いていくか、俺がお前と留守番するしかないな」

 田上の顔にタキオンはハハハと笑った。

「冗談だよ。…初詣か。どこの神社に行くんだろうね?」

「毎年、車で一時間半の所に行ってるけど、…まあ、今年はどうなるのか分からない。爺ちゃん婆ちゃんも来ているのかすら分からないし」

 田上は、そう言って、言葉を切った。それから、何か迷ったように手を彷徨わせてから、テレビのリモコンをつけると、部屋にある小さなリモコンをつけた。

 テレビでは現地取材をしている女の人がこんなことを言っていた。

『私は、今京都のでっかい神社に来ています。新年に入って二日目ですが、まだまだ人で賑わっています』

「もう一月二日か…」

 タキオンが、そのテレビを見ながら呟いた。独り言のようなものだったが、田上はそれに返答した。

「そうだな。俺たちがドタバタやっている間に、世間はもう新しい年を二日も味わってる」

「あんまりいい気分はしないな」

 そうタキオンが言った。すると、田上も少し笑った。

「いい気分…しないな。新年だ。…ウマ娘とトレーナーの契約は、最初の三年が肝心だと言われてるけど、もう三年目に入る。…時間って早いなぁ。タキオンがもう十八だよ。俺と初めて会ったときは、まだまだひよっこだったのに」

「時間ってのは、私たちの気も知らないで、自分たちのペースで経っていくよ。それに抗う術なんてあるのだろうか?」

「……ないから、俺たちは今ここにいるんだろう。時間が経っていくから、俺たちはこの大地を踏みしめているんだ」

 田上が、そう言うとタキオンは黙った。そして、暫くしてから、またぽつりと言った。

「……トレーナー君。…私が二日?三日前の朝に話しただろ。永遠が欲しいって」

「ああ」

「私は、まだ欲しいよ。時間の流れを感じる度にそう思う」

 田上は、黙ってタキオンの顔を見つめた。

「…もし時間に抗う術があるのなら、私たちはこの大地を踏みしめられなくなるんだろうか?今そう言ったね?君は」

 タキオンが、田上の顔を見て聞いた。田上は、ゆっくりと慎重に言葉を選びながら答えた。

「時間に抗う術がどんなものかは俺には分からないけど、大地を踏みしめられなくなるのは確かな事だと俺は思う。だって、その大地を感じられなくなるのは自分だから、…時を遡ったり、時間を閉じ込めたりして、その『時』に漂っても、そこにいるのは自分じゃないってことは自分が一番わかる…はずだと思う。…記憶や映像や写真の中にそれがあるから輝いて見えるんだ。その時を生きている人間は、星々を眺めて「綺麗」としか言わないはずだ。だから、その星々を思い出して、妙に切なくなった時、初めてその星の綺麗さが分かるんだ。濃い青の中に光る小さい大きい、明るい暗い、赤い黄色い、様々な星を見るんだ。…分かるか?」

「……やっぱり、心って言うのは複雑だ」

 タキオンが、疲れた様にそう言った。

「心があるから、人は皆苦悩に打ちひしがれる。…心なんてなかったらいいのに」

「今自分で言ったろ?心があるから、人は皆苦悩に打ちひしがれる。…だけど、皆が皆じゃないだろ?中には、その心の中に意味を見出して、自分の苦悩の中の美しさに気がついた人もいる。それが、美しいと思わなかった人もいるだろう。様々な心が地球には住んでいるから面白いんだ。タキオンだってそうだよ。今抱えている問題の中の面白さに気が付かないか?」

「…私は、気付きたいとは思わないね。幻想でいいからそれに浸っていたい」

 タキオンは、そう言った。田上は、「そうか…」と残念そうに呟くとタキオンの顔を見た。タキオンもまた田上の顔を見ている。

 タキオンの顔は、何かをこらえているかのように感じた。だから、田上はそれを察すると、ぎこちなく腕を広げた。そして、言った。

「今度は、バカにするつもりはないんだけど、お前が何かを求めているような気がしたから…。ほら、今日昨日は、あんまりベタベタしてなかったから、その…久々にくっついてもいい。…嫌なら首を横にでも振ってくれ」

 田上がそう言うと、タキオンは田上を見つめるともなく見つめながら、こちらにゆっくりと歩いてきた。そして、あの時のように二人はぎこちなく抱き合おうとした。タキオンがゆっくりと体重を預け、トレーナーに寄りかかっていく。しかし、田上の体勢が悪かったか、田上が姿勢を崩すと二人ともベッドに倒れてしまった。

 タキオンはそれでも田上に抱きついて離れなかった。ただ、黙ってじっとしていたが、暫くすると、体が震えて、鼻をすする音が聞こえてきた。泣いていたのだ。これが堪えていたものだったのだろう。タキオンは、大声で泣きこそしなかったが、これを一時間後に看護婦が入ってくるまでしていた。その間、田上はタキオンの髪を撫でながら、途方に暮れつつ、鼻歌でも歌ってやった。できるだけ落ち着く歌を選曲したが、タキオンにどう効果があったのかは分からない。ただ、タキオンが看護婦さんに引き剥がされたときは、鼻水がだらだらで涙も出ていて、物凄く恥ずかしそうだった。


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