それからもずっと、タキオンを抱き締め続けていると、閉めていた襖が開いて、桜花が入ってきた。先日の、姉に本気で怒られたことは忘れていたようで、特に何の気無しに仏間の方まで行くと、そこに置いてある荷物をごそごそと漁って、なにか変な玩具のような物を握りしめながら出ていった。抱き締めあっているタキオンと田上には、一度目をくれてやっただけで、何も言わずに出ていった。もしかしたら、初めは義兄と姉が抱き締めあっているのに気が付かずに入っていったが、帰る時になって気がついてしまったのかもしれない。
次いで、母が訪ねてきたが、田上とタキオンが座ったまま正面から抱き締めあっているのを見ると、一瞬驚いたような表情を見せた。だが、次には、目の前で起こっていることはなんでもない普通の出来事だという顔をして、「お二人さんは、朝食はとらないの?」と言った。タキオンも、母にそのような顔をされると、抱きしめるのを恥ずかしがって、簡単にやめるわけには行かなかったので、田上と抱き締めあったまま「食べるよ」と多少の動揺を覗かせた声で言った。そして、母は「了解」と言って立ち去っていった。田上は、母を見ているのが恥ずかしくなったので、返答をタキオンに任せて、自分はそっと顔を背けた。
二人は、その後に、どうしようもなさそうに目を見合わせると、タキオンの「じゃあ、着替えようか」と言う言葉に、自然に二人の体は離れていくしかなかった。
それから、二人は朝食のご飯と味噌汁をパクパクと食べた。父が、「駅まで車で送ろうか?」と提案してきた。田上の心には、送ってほしい、というものと、歩いていきたい、というものが、両方存在していたので、返答に迷ってタキオンの顔を見た。タキオンは、どちらでもよさそうな顔をして、「どうする?」と聞いてきた。田上は、少しの間悩んだ挙げ句、「なら、送ってもらっても…」と言った。それで、駅の方には、家族皆が見送ってくれることになった。
車で行くことによって、当初の歩いて駅に行く、という予定よりも家に居ることのできる時間が増えたので、そこらへんが田上には良かった。とは言え、朝の時間もまだまだ長かったので、家族皆で朝の散歩に出かけることにした。勿論、犬の散歩がてらにだった。
田上とタキオンと母は横に並んで歩いていた。滅多に車の通らない田舎道だったので、広がって歩いていても問題なかったし、車が来たとしても、この静かな田園の中にエンジンの音が一際大きく響くので、すぐに退いて道を開けることができた。
タキオンが中央に居て、その左に田上、その右に母だった。父と桜花は、タキオンたちの前の方で、犬と一緒に歩いていた。母は、主にタキオンと話していたが、田上にもしっかり話を振ってきたので、田上はそれに適当に返事をして、会話を聞いていた。今回は、田上とタキオンは手を繋いでいなかった。おそらく、母が隣に来たからなのだろうが、二人共あんまり手を繋ぎたいという気持ちにはならなかった。ただ、田上は、どちらかと言うとタキオンより暇なので、少し手を繋いで歩きたいという気持ちがあった。しかし、母は、二人の傍から離れようとはせずに、ずっと、三人で会話を続けていた。
田上は、自分が会話に加わっていない時は、前方で父にリードを持たれている犬を見ていた。特に、このゴールデンウィーク中に仲良くなる出来事もなく、自然に懐いてくれているわけでもなかった。ただ、この犬は、自分の事を胡散臭そうな目で――こいつは、なんだろう、と見てきているような気がした。そして、田上もこの犬のことを――なんだろう、という目で見ていた。そういう目で見ているから、犬の方もその目で見つめ返してくるのかもしれないが、田上は、大きい犬にあまり馴染みがなかったため、警戒の目を持って、噛みつかれやしないかと身構えていた。
ただ、この犬を数日観察している限りでは、大分大人しい犬だと言うことが分かってきた。特に、田上とタキオンの邪魔をするわけでもないようだし、吠えるわけでもない。唸るわけでもない。ただ、疑念の目を持って自分の事を見つめてくるだけで、あとは、廊下をウロウロしたり、縁側から外を眺めているだけの犬だった。大型犬より小型犬のほうが、凶暴だという事を聞いたことがあるので、この犬はまだマシなのかもしれない。
タキオンは、犬に特に怯えることはなかった。だから、適当に犬を可愛がっていた。その為に、タキオンには田上より少し懐いているような気がする。タキオンは、犬に怯えている田上に対して、笑って「怖がることはないよ」と言い、何度かその犬の頭を触らせようとしてきた。その時は、田上も仕方なく犬の頭を撫でてやったのだが、あんまり良い心地はしなかった。犬の方も、田上の事を見つめてきてばかりで、あんまり気持ちよさそうではなかったから、「君は撫でるのが下手だなぁ」とタキオンに笑われた。
田んぼの中には、苗が植えられていないものも多くあって、水だけがそこに溜まっていた。そして、そのなにもない水の中に良く晴れた青空が良く映えた。雲ひとつ無い青空ではなかったし、透き通るほど綺麗な青でもなかったが、水面にはしっかりと青空があり、風が吹く度にゆらゆらと揺らめいていた。
コンクリートの道を歩いていけば、傍に通っている用水路を水が流れていく音が聞こえる。段差があればジャボジャボと大きな音を立てるし、なければ、ちょろちょろと流れる水の音が聞こえる。田上は、その水の中を覗きたいと思いながら歩いていた。特に何かが見つかるというわけではないだろうが、絶え間なく流れる水を見つめて見たかった。
そして、ある時犬の糞の為に一行が立ち止まる時があった。田上は、これ幸いと用水路に近寄ると、その薄暗い水の中を眺めた。特に何もない。魚がいるのも見えない。底の方には、砂利が少し溜まっているのが見える。ただそれだけだったが、田上にはとても懐かしいものだった。子供の頃から、こういう物をじっと眺めるのが好きだった。そして、その子供時代を彷彿とさせる行為が、田上には楽しかった。
暫く見つめていると、タキオンも隣にやってきて「何かいるかい?」と聞いてきた。田上は、「特に何も」と答えた。そして、隣にしゃがみこんだ恋人の顔を見た。タキオンも、水の中を好奇の目で見つめていたが、田上が自分を見てきていることを知ると、彼の方に目をやった。それから、二人は見つめ合った。この一瞬の間に、世界にはまるで二人しか居ないような気がしたが、すぐに、桜花の「くさ~い」という甲高い声が聞こえてきた。タキオンは、その声が聞こえた瞬間に、田上から目を離すと、また水の中を見つめた。
犬の糞を片付けてからも、二人は用水路の中を見つめていた。遂には、母もタキオンの隣に来たから、田上はがっかりした。タキオンも少しがっかりしたが、それはあんまり表情には出さずに、話しかけてくる母に応答していた。父と桜花も、皆に倣って水の中を覗き込んでいた。犬は、――この家族はなにをしているんだろう?という目で、家族を見、そして、父の周りをウロウロとした。
勿論、水の中にはなにもないので、初めに、なにかがあるような素振りで、その中を見ていた田上は、皆を騙してしまったのではないかと申し訳なくなって、居た堪れなくなった。だが、母に限っては水を見つめるというよりも、話したいという事の方が勝っているように見えた。そうすると、父や桜花は待つしか無いから、ぼんやりと水の中を見ているのだろうという結論に至り、田上は少し安心した。相変わらず、水の中にはなにもない。絶えず動いているとは言え、その動きの中に特徴的な新鮮さがあるかと言われれば別にそうでもない。三分も見ていれば飽きてしまうような代物だったが、この家族は、母が話しているために五分、六分程ここに居座り続けた。
家族が動き始めたのは、痺れを切らした父が、母に向かって「歩きながら話さないか?」と言ったからだった。そうすると、母もそれに素直に従って、立ち上がり、歩き始めた。田上もタキオンの横に立って歩いた。タキオンは、母に、学校について少し質問されていた。その質問は田上にも飛んできて、答えづらさに逃げてしまいたかったが、何とか最近のタキオンの様子はこれこれと伝えた。その際に、タキオンが自分のトレーナー室に入り浸るために授業に出ていない、と言うことはできるだけ避けたかったため、田上は、トレーナー室に入り浸ってしまったのを「結果」として言い、「目的」としては伝えなかった。それでも、タキオンは少し落ち込んだ様子だった。
母は、タキオンの返答が重くなったのに気がつくと、前の方に歩を進めて、犬に話しかけに行った。勿論、言葉が通じて、答えが返ってくるわけでもないので、熱心に話しかけた所でそんなに意味はないが、これは田上とタキオンに配慮した結果だろう。母が居なくなった途端に、タキオンは田上の方に身を寄せて、言った。
「私…、トレセン学園に帰ったら授業に出るよ」
「…おお」と田上は、気の利いた返事をやれないでタ、キオンを見た。
「君ばかりに迷惑をかけてられないしね」
「……迷惑ではないよ?」
「…迷惑だろ?」とタキオンが、少し眉を寄せて田上を見た。どうも、田上が先日言ったことや、今までの態度とは、違うことを言っているような気がしたからだ。
「迷惑じゃない。……迷惑だとは思ってほしくない、と言った方が正しいかもしれない」
「…?どういうことだい?」
「…タキオンが授業に出るならそれが嬉しいけど、…お前と一緒に居る時間は楽しいよ?」
「…?」
「…分かるかな?…お前だってそうだろ?俺が今まで掛けてきた迷惑を迷惑だなんて思ってないだろ?……思ってるのかな?」
「…思ってはいない」
「それと一緒だよ。…夫婦になるんだよ。迷惑をかけたかけないで物事を考えていったら、疲れるだろ?どの道、どう転んだって迷惑はかけるんだから。…思いがけないことで、俺が担当の子といざこざを起こせば、お前に頼る時が来るかもしれないけど、そんな時にお前が俺を助けてくれる理由が、――今まで迷惑をかけたから、だったら俺は悲しい。俺は、迷惑を迷惑だなんて思っちゃいない。当たり前の事だから」
田上がそう説くと、タキオンは目を伏せて、繋がれている自分たちの手と、一緒に一歩一歩同じ歩幅、同じリズムで進んでいる自分たちの足を見つめた。それから、また田上の目に、自分の目を戻すと言った。
「…君も、私と同じ思想は持っているだろ?」
「そりゃあ、俺も落ち込めば、タキオンが、俺の事を迷惑だと思っているんじゃないかと思うけど、少なくとも、俺はお前のことは迷惑だと思っていない」
「じゃあ、私がトレーナー室に残ってても良いのかな?」
「…それとこれとは話が違う」と田上が優しく言った。
「今のは思想を説いたのであって、お前がトレーナー室に残る理由を説いたんじゃない。お前は、迷惑じゃないと思われていたら、図々しく居座る人間なのか?」
「金を払えば迷惑なく、居座ることを許してくれる所もあるだろう」
「…そう言われると、話がおかしくなる。……だから、俺が言いたかったのは、結局、お前がトレーナー室に居るにしろ、教室に居るにしろ、俺は迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないってことだよ。お前に行けとか居ろとか言っているんじゃない。ただ、今は、迷惑じゃないよってことを伝えただけだ」
「…でも、君は私がいなくなると不安になる時があるだろ?」
「そうだね、そうだね」と田上は、タキオンの反論癖に多少うんざりしながら言った。「俺もまだまだ未熟です。でも、タキオンが授業に出ない理由はそれじゃないだろ?お前が何かを不安に思ったから出なかったんだ。そして、今は多分、恥じ入ったために、俺に――出る、と宣言した。それが実現されるかどうかは俺の知ったことじゃないが、俺はそれについて迷惑だなんて思っていない。だって、自分の好きな人が自分を頼ってくれるのを迷惑に思う男がどこの世に居ると思う?」
「案外居るんじゃないか?」
タキオンは、田上に大切に思われているということを一生懸命に説かれて、多少良い気になりながらそう言った。
「そりゃあ居るかもしれないが、そんなのはすぐに別れるカップルだ。心と心が離れてる」
「私達は近いのかい?」
「どう見ても近いだろ?」
その田上の反応を聞くと、タキオンは満足そうに笑みを浮かべた。
「どうも、君が私の事を好きみたいで嬉しいよ」
「そうだね」
その後に、田上は、タキオンに、授業に出るか出ないか聞こうと思ったのだが、これは、今話したことを、全て無に帰すような行為だと思ったので、それを聞くのはやめた。それでも、田上はタキオンの顔を見ていると、この先どうしたいのかを聞きたくなった。タキオンが、授業に出るというのならば、田上の肩の荷も一つ降りる。勿論、迷惑ではないが、肩の荷が降りることは嬉しくもあった。その為に、田上はタキオンをじっと見つめていると、タキオンは「なんだい?」と聞いてきた。特に、言えるような内容でもないから、田上は「なんでもない」と言いつつ、やっぱり、気になるのでタキオンの顔を見つめ続けた。
タキオンは、田上が自分を心配しているのではないかと予想をつけたが、こちらも、なにも言うことがないので、田上の視線を無視して、自分がトレセン学園に帰ったらすべきことを考えた。ただ、どうも、今の田上の発言がちらついて中々結論が出せなかった。あそこでわざわざ――迷惑じゃない、と言うのも、タキオンにとっては迷惑な話だ。あそこでそう切り出されれば、トレーナー室に留まってもいいのかと思ってしまう。しかし、タキオンは、田上の言うように恥じ入った。母にあれやこれや質問されて、どうにも上手く前に進めていない自分を恥じ入って、一歩前に進んでみようと思った。
そこで、田上が、一度聞けば、トレーナー室に引き留めようとしているのではないかと思うような事を言った。そのくせ、問いただしてみると、出るも居るもお前次第、という訳だ。――自分の自由を尊重してくれるのは良いが、もう少し背中を押すとかなにかしてほしかった…、とタキオンは思った。彼女が一歩を踏み出そうとしているというのに、なぜ、背中を押さないのだろうか?圭一君が、一言背中を押してくれさえすれば、自分も踏ん切りがつくのに…。
そう考えた所で、タキオンは、自分の選択を田上に委ねて、もし失敗した時は、田上のせいにしようとしている事に気がついた。だから、田上もタキオンに、タキオン自身の判断を委ねさせたのだ。しかし、それでも、田上との話による妙な苛立ちとモヤモヤは消えなかった。
散歩が終わると、父は家から出ていった。何をするのか分からなかったが、早めの昼食が出来上がった頃に、玄関の引き戸をガラガラと開けて帰ってきた。田上たちが座っている食卓まで来てみると、その手には印刷された写真があるのが分かった。そして、それを一枚ずつ田上とタキオンに渡してきた。公園でボールを投げている写真だったり、一緒に蛍を見ている写真だったり、車で行った公園での写真だったりした。
車で行った公園の方は、田上とタキオンが抱き合って眠っているところまで撮られていたから、田上は少し恥ずかしくなったが、「ありがとうございます」と頭を下げて、父からその写真を受け取った。父は、タキオンと田上に渡す用に二枚ずつ、そして、アルバムに入れる用に一枚ずつ印刷してきたようで、田上とタキオンに写真を渡すと、あとはせっせとアルバムに写真を入れていた。アルバムの方の写真は桜花のもついでに印刷してきたようで、枚数が多かった。そして、それを入れ終わると、母の方に得意げに見せに行って、その後にタキオンと田上に見せに来た。桜花は、部屋に居たので、これは同じ時には見なかった。
昼食はラーメンだった。父の分は、いつ帰ってくるか分からなかったので、まだ作っては居なかった。まず、タキオンのが作られて、その次に田上の分だった。田上は、インスタントラーメンの匂いを嗅いでいると、腹が減ってきたので一口タキオンに分けてもらった。その際は、タキオンからのあ~んだった。
田上の分ができあがると、ラーメンの匂いを嗅ぎつけた桜花が部屋から出てきて、「もうお昼ごはん?」と言った。母は、「圭一君たちが、お昼丁度に出るからね」と返した。すると、桜花が、昼食を食べている二人の方を見て「えー、嫌だなー」と言った。田上とタキオンは、顔を見合わせると、何も言わずにラーメンを啜り続けたが、桜花はそれに構わず、自分も食卓に座ると言った。
「明日まで居ない?」
どうやら、交渉を持ちかけてきたようだったから、田上は笑いながら「明日は無理だなぁ」と言った。
「じゃあ、次はいつ来る?」
「いつ?…いつだろうねぇ…」
田上は曖昧に言って誤魔化そうとしたが、それくらいで誤魔化される桜花ではなかった。リビングの壁に掛けてあるカレンダーを確認しながら、こう言った。
「来週の休みは?」
「来週はちょっとなぁ…」
「じゃあ再来週」
「再来週もねぇ。タキオンの宝塚記念があるから」
「じゃあ、宝塚記念はいつ?」
「えー、六月九日かな?」
「じゃあ、その来週は?」
「その来週は、選抜レースがある」
「選抜レース?」
桜花の興味が別の方に逸れた。
「選抜レースは、トレセン学園に居るウマ娘が走って、力量をスカウトしてもらうトレーナーに見せるためのレースだね」
「力量?」
「力量は、…走る速さだね。どのくらい足が速いかをトレーナーの皆に見せるやつだよ」
「もう六月が最後の選抜レースよね?」と母が口を挟んできたから、田上が「はい」と答えた。そして、桜花が質問した。
「お姉ちゃんとお兄ちゃんは、選抜レースで出会ったの?」
「あー、…選抜は、…お前走らなかったもんな?」
田上が、隣のタキオンにそう振ると、タキオンは「そうだね」とラーメンを食べながら言った。
「なんで、お姉ちゃんは選抜レースを走らなかったの?」とまた桜花が聞いた。これは、中々タキオンにも答えづらい質問だった。両親は、勿論、タキオンの足の問題を知っていたが、そこは本人に任せていた。しかし、タキオンがトレセン学園をやめようとしていたことまでは知らないだろう。田上が、返答を求めるようにタキオンの方を見ていると、タキオンも嫌々口を開いた。
「まぁ、ざっくり言うと、…だね。……まぁ、どうにも、あそこでただ闇雲に走ることを選んでいても、自分の足がもたないことは分かり切っていたから出ていなかったんだが、丁度、生徒会長さんが、そこらへんをぶらぶら歩いていた圭一君と、私を引き合わせてくれたんだよ」
「へー、知らなかった」と母が、桜花のラーメンを茹でながら振り向いて言った。
「タキオンは、…その時高一でしょ?…まぁ、高二とか高三でトレーナーを見つける人はいるけど、大体が、高一までにトレーナーを見つけるよね?」
「まぁ、母さんも私の足のことは知っているだろ?脆かったんだからしょうがない。そして、実験に協力してくれる人も居なかったから」
「呼べば私が飲んだのに」
「その時は静岡だろ」とタキオンが冷静に指摘した。母は、それに「そうか」と応じながら、こう言った。
「じゃあ、その生徒会長さんは、キューピッドって事でいいの?」
「…まぁ、そういう事になるだろうね」と言いながら、タキオンは田上の方を見た。田上は、ラーメンを食べながら首を縦に振った。
その後に、桜花のラーメンが出来上がり、食卓へと運ばれてきた。時刻は十一時を少し過ぎていた頃だった。
その後に母と父の分も作られて、晴れて、全員食卓についた。その頃には、タキオンと田上はもう食べ終わっていたが、特にやることも無いので食卓に座ったままでいた。写真は、食事が始まる前に、自分たちの荷物の中にまとめて入れておいたが、やることもないのでそれを取り出しに行って、眺めることにした。
田上が、写真を眺めているとタキオンも一緒に覗き込んできた。そして、蛍の写真を見ると、「良く撮れているね」と言った。田上はそれに返事だけをして、特に何も言わなかった。やることがないので適当に見ているだけだが、こうして写真で見てみると、本当に自分たちは仲良しなんだなぁ、と思う。自分の顔も、――こんなに表情豊かだったかな?と思うほど、笑みを作っている時がある。田上は、それを、ただぼんやりと見つめた。
当初の予定では、昼飯を食べ終わったすぐ後に家を出る予定だったが、車で出かけることによって二十分ほどの時間ができた。田上は、その時間を持て余して、畳の部屋でスマホを持ってニュース記事なんかを読んでいた。タキオンは、その田上の周りをうろちょろし、くっついて過ごしていた。最後までくっつくのはやめないようだった。
そして、いよいよ出るという段になると、タキオンが悲しそうに「もう行かなくちゃならないのか…」と田上に言った。田上だってこの家での暮らしは心地よかったが、タキオンを引っ張っていかないといけないので、自分の足を立たせると「行くしか無いだろ?」と言った。タキオンは、その言葉によって素直に立ち上がった。
車の中では桜花が「あーあ、嫌だなぁ」と田上とタキオンの気持ちを代弁していた。母は、「次また会えるわよ」と呑気な事を言っていた。田上からしてみれば、次会う時には別れているかもしれないという思いが、未だにあった。
桜花は、後部座席の真ん中に陣取っていた。その為にタキオンは助手席で、田上とくっつく事もできずにぼんやりとしていた。母が、「席を代わってあげようか?」と提案したが、桜花が、どうしても真ん中が良い、と言う為、――圭一君の隣になれないんなら助手席でも変わらないや、と思ってタキオンはそれを断った。しかし、そのぼんやりとしている様はどこか拗ねているようであった。実際に、父が話しかけてもその答える声に覇気がなく、どんよりとしていた。
田上もタキオンほどではないが、あんまり良い心地はしなかった。――帰ったら仕事をしないといけないのか…。子供の時からの常ではあるが、今年もまた、ゴールデンウィーク明けの憂鬱な気分に、少しの間悩まされなければならなかった。いや、もしかしたら、小学校低学年の頃は、ゴールデンウィーク明けも、普通に学校に通っていたかもしれない。ただ、桜花を見てみれば、桜花は少し学校に行くのが嫌そうに見えた。
車は、駅に電車が着く十分前に着いた。家族は、改札のない田舎の駅を通って、ホームに居た。田上はあんまり話したい気分でもなかったが、家族の方が話したがるので受け答えをするしかなかった。ただ、家族の方も田上のその様子に気が付かないわけではなかったので、母が笑って「またいらっしゃい。いつでも歓迎するから、遠慮はいらないわよ。明日にでも来ていいわ」と言った。田上は、それに微笑を浮かべて「ありがとうございます」と静かに頭を下げた。
駅の雰囲気は、田上の父が住む竜之終町の駅と似たものだった。それだから、田上はここが妙に好きだった。町並みは、あの町とは違うが駅の雰囲気はよく似ている。石の冷たさが感じられそうなのが良い。
そんな事を思っていると、田上の父の方にも言及された。ご挨拶にはいつごろ伺ったほうがいいんだろう?ということだった。これは、田上に相談するような内容だとは思えなかったが、田上はとりあえず「タキオンもまだ付き合ってから挨拶には言っていないので、当分先でもいいと思います」と答えた。実際、田上はどのタイミングが良いかは知らなかったが、そもそも、付き合って一ヶ月で両親の家に挨拶に行くこと自体が、田上にはあんまり受け入れ難かった。だから、少なくとも、タキオンが卒業する真近になってもまだ付き合っていたとしたら、両家の挨拶くらいはしても良いんじゃないかと思えた。
そうして談話を続けていると、もういつの間にか、目当ての電車が来る一分前になっていた。タキオンは田上と手を繋いで、地面を見つめていた。あんまりタキオンらしくない様子だったが、田上も気持ちは十分に分かるので、無理に励まそうという気持ちもなかった。こうして、手を繋いでいるだけで気持ちは繋がっているような気がした。
電車が目の前に停まると、田上とタキオンは順々に乗った。そして、田上は「また来てね」と言う桜花の頭を撫でて、外の見やすい席に座った。ぷしゅぅと音を立てて、ドアが閉まり、電車が動き出した。窓の外では、両親が手を振ってくれている。終始優しい母親と父親だった。他人の家に行って、ここまで居心地の良かったことはないだろう。桜花も、可愛い子供だった。また会いたいと思った。
田上とタキオンは、両親に手を振り返しながら、段々段々と見えなくなっていく両親と子供の姿を追った。そして、もう何も見えなくなると、タキオンと田上は、普通の姿勢で座り直した。その時に、田上の口からはため息が漏れた。――何度、こういう寂しさを味わえば良いのだろうか?と思ったからだった。タキオンは、落ち込みながらも、田上の肩に自分の身を寄せている。その姿は、まだまだ子供であるように見えたが、同時に、自分と対等である彼女であるようにも見えた。その双方が田上の目の前に浮かんで、少し混乱させてきた。遂には、どうでも良くなって、その考えを頭から振り払った。結局、どこまでいっても、今の所、タキオンは自分の彼女であり、自分はタキオンの彼氏だった。
田上は、タキオンがつらい姿勢にならないように、自分の肩も少し寄せて、あんまり体が斜めにならないようにしてあげた。そして、何か話したそうに、タキオンの手を少し強く握った。タキオンは、それに反応したような気がしたが、何か言葉を発することはしなかった。ただ、その後は、電車の中で静かな手遊びをして過ごした。
外にはぬるま湯のような日差しがかかっていた。そして、その中を電車は警笛を鳴らしながら進んでいった。