三十一、部屋に戻れば
寮の部屋に戻れば、いつもの寂しい静閑な一室が自分の目の前にあった。あんまりいい気持ちはしない。あの家が堪らなく恋しくなった。勿論、自分一人で寛げるというあんまり大したことのない安心感のようなものも少量湧いてきたが、今はとにかく、タキオンと離れているというのが寂しく、人の声がしないというのが寂しかった。まだ、カフェテリアは開いている。残り三十分くらいだったが、二人で一緒に食べようとタキオンに頼まれていたから、田上は荷物を置くとすぐに部屋を出ていった。
田上とタキオンは、二人用の席に座ってカフェテリアでご飯を食べた。ここに来ると、帰ってきたという感覚もより克明になってきたが、人がワイワイガヤガヤとしているので寂しさは湧きづらく、その中で、タキオンと田上の二人だけで話しているというのが、自分たちから生まれた、世界からの孤立の感情をより一層強く感じさせた。そして、それによって、二人の世界は一層強固なものとして、二人を繋いでいるように感じられた。
タキオンは、波を超えたからなのか、まだ向こうの駅のホームに居た頃よりかは口数は多くなっていた。それでも、憂鬱さか旅の疲れかで普段の口数よりかは、まだまだ少なかった。田上もそのほうが話しやすく、夕食も食べやすかった。ただ、二人が話す時間として三十分は短いように感じられた。だから、二人はこのあと電話しようと約束したのだが、二人の気持ちとしては、電話よりかずっとずっと対面で触れ合いながら話す方が嬉しかった。しかし、寮の壁は破れないものだから、電話するより他に仕方がなかった。
そして、タキオンは、その電話の中でこう言った。
「こう…帰ってきてみると、…私も少しは君に怒られて大人になったが、むしろ、同棲したいという気持ちは強まったよ」
「俺もだよ」と田上は静かに、しかし、熱を込めて頷いた。
そのあと、二人は暫くの間電話でやりとりをして、会いたい会いたいという事ばかりを繰り返し繰り返し言っていた。二人共会いたいのだから、その気持ちが二人で二倍に増幅されて膨らんでいくようなものだった。しかし、やっぱり、静岡の時のように過ごすことはできないのだから、二人の会いたいという思いは募っていくばかりだった。
それから、二人は寝る前まで電話を続けて、田上が電話を切ろうという頃にようやくタキオンも電話を切った。二人共、明日の朝会うことに熱心だったが、明日の授業に出るのかどうかは話題には挙げなかった。タキオンは、それが少し苦しかった。もし、田上が一度でも授業のことを口に出して、タキオンに出るのかどうか聞いてくれば、タキオンはもう耐えきれずに田上に縋ってしまおうと考えていた。しかし、田上は何も言わなかった。忘れていたわけではないだろうと、タキオンは思う。あの人は、敢えてそれを言わなかったのだ。電話の時の口調からも、心配そうな雰囲気と意を決した雰囲気が伝わってくる。それが、どうしようもなくタキオンを苦しめた。勿論、田上であれば快く縋らせてくれる。そういう優しい男だ。決して、タキオンを拒んだりはしないが、もうこれから、ただで縋らせるということはないだろう。優しい男が意を決したからには、それなりの覚悟を持っている。これからは、絶えず、タキオンが決めるべき決断はタキオンに委ねてくる。それも、タキオンがどうしようもなく嫌になって、田上に縋ってみれば、田上が判断してくれないことはないかもしれない。しかし、田上に「大人として見る」と言われた手前、こういう子供らしさを田上に押し付けるのは嫌だった。タキオンだって大人でありたかった。
タキオンは、寝る前に悶々と考え込んでいたが、明日は授業に出る、と決心すると少し心は軽くなり、すぐに眠りにつけた。
次の日の朝に起きると、タキオンはすぐさま田上に電話を掛けた。そして、まだ寝ぼけている田上に、「すぐにそっちに行く」と伝えた。タキオンは、今は、田上に会いたくてどうしようもなかった。それだから、急いで制服に着替えると、田上の寮の前まで行った。朝の門限は七時からだったが、そんな門限はあって無いようなもので、まだ七時前だと言うのに人の出入りはあった。タキオンは、その寮の前のそわそわしながら待っていると、その三分後に田上が出てきた。田上は、ベンチに座っているタキオンと目が合うと、ホッとしたような顔をして「ああ、今日は行くんだな」と言った。タキオンは、それに無言で頷くと、田上と手を取って、人の往来のある寮の中へと入っていった。
寮の中で行き来している人達の顔は、ゴールデンウィーク明けだからなのか暗い顔をしている人が多かった。と言っても、仕事が憂鬱なのではなく、ただ単に旅行疲れの可能性もあるから、一概にそうであるとは言えない。ただ、その人達皆が皆、手を繋ぎながら歩いていいるタキオンと田上を見ているような気がした。タキオンも、以前であればそれが得意だったが、今はもう恥ずかしさが湧いて仕方がなかった。ただ、そういう意味では、もうタキオンに振り回され続けてきた田上の方が、慣れてしまっているのかもしれない。なにしろ、嫌がっているというのに、大衆の面前でキスをされた男だった。今更、手を繋ぐことくらいで動揺するはずもなかった。
田上は、恥じらいを持ったタキオンの手を引きながら、いつもの食堂へと来た。修さんも節子さんもいつものようにニコニコしながら、「ゴールデンウィークはどっかに行ってきたんけ?」と聞いてきた。田上は、返答に迷ったが、タキオンと付き合っていることは二人も知っているので、「タキオンと旅行に行ってきました」と答えた。ここで、両親の家に挨拶に行きました、と答えれば、少し考えの古い修さんたちがどんな勘違いをするかも分からなかったので、面倒を避けるためにそう濁した。修さんたちは、そんな言葉の裏には気が付かずに、タキオンの方に「楽しかった?」と聞いた。タキオンは、少々強張った顔で「楽しかったです」と頷いていたから、田上は面白かった。その後に、修さんは「また、タキオンちゃんと一緒に料理はせんとね?」と聞いてきた。前回のタキオンの花嫁修業は修さん達にもお気に召されたようだった。それに田上が「近いうちにやりたいと思っています」と答えると、修さんたちも満足そうに頷いた。
その後に、修さんたちから料理を受け取って、田上とタキオンは席に着いた。それから、田上がこう言った。
「今日は、…行けそうなんだね?」
タキオンは、いっそのこと今縋ってしまおうかとも考えたが、自分の意はもうすでに決されていたので、それほど強い望みとして湧いては来なかった。その事を感じながら、「……うん」と朝食を小さな口で一口食べながら答えた。
すると、次に、田上はこう言った。
「今日は大人しいな」
「…うん」
どうも要領を得ないので、田上もあんまり話しかけるのをやめた。ここで、至らぬことを話してしまって、タキオンが授業に出るのをやめたくなると不味いと考えたからだ。
朝食は美味しかった。二人は、ほとんど喋らずにパクパクと食べて、皿を空にした。タキオンが先に食べ終わっていたので、まだ食べている田上の顔を見ていた。田上は、考え事をしていたのでその視線には気が付かなかったが、タキオンは、その視界の端に手を伸ばすと、白い机を人差し指でトントンと突いて、田上の注意を引いた。田上が目を上げると、タキオンが微笑みながらこう言った。
「このあと時間があるから、時間いっぱいまであのベンチで過ごさないかい?」
田上は、それに嬉しそうに微笑を浮かべて、「ああ」と頷いた。それから、また二人は黙ってご飯を食べ続けた。
食器を使った食器置き場の方に返却すると、節子さんが「ありがとう~」と言って、厨房の方からその食器を取っていった。田上たちはその声を聞きながら、外の方へ向かった。
外は、朝の新鮮な空気と、快晴な空によって気持ちが良かったが、草や道が濡れているのが気になった。そして、案の定、ベンチの所に行くと、そこは濡れていて座れそうもなかった。夜中の内に雨が降ったらしい。仕方がないから田上とタキオンはトレーナー室に行くことにした。その途中で、田上のスマホに国近から連絡があった。『今日の午前中の内に話したい事がある』ということらしかった。ハテナキソラの方は、今回は、タキオンと同じ宝塚記念ではなく、マイルの安田記念に出るらしかった。だから、特に今回は田上と国近もそれほどバチバチではない。その代わりに、改まって話したいこともないように思えたから、田上はどうも不思議であった。マイルなら、もっとベテランの補佐をしている鳩谷か田中に聞けば、詳しいことは聞けるだろう。別に、自分じゃなくたって良いはずだし、霧島でも、あの担当のササクレという子はマイルと中距離を主軸にしていたはずだ。そして、マイルの方で確かGⅢを優勝していた。自分に聞くよりかは断然実があるだろう。それでも、田上は、――レースについて聞きたいことがあるのだろう、と見当をつけて、『いいよ』とメッセージを返した。
田上とタキオンが、トレーナー室で静かにいちゃいちゃしているとマテリアルが入ってきた。タキオンは、すぐにマテリアルに気を遣って離れたが、マテリアルはどうも機嫌が悪いようで、離れて座り直したタキオンと田上をじっと睨んだ。それから、自分の隣の席に荷物を置き、座ると、大きな大きなため息を吐いてこう言った。
「あーーー、もう二度と帰省したくないです」
「なんでなんだい?」とタキオンが、仕方がないので優しく聞いてやった。すると、マテリアルがこう言った。
「あんた美人なんだから結婚しなさいしなさい。しまいには親戚の連中まで来たから本当に嫌になりましたね」
「母親にそう言われたのかい?」
「そうですよ!孫の顔が見れるのはいつだろうねぇ、って毎朝起きる度に言われるんだから、こっちもたまったもんじゃありませんよ」
「まぁ、孫の顔くらい見せてやっても良いんじゃないかな?」
「そりゃあ、こっちに見せてやれそうな伝手があればね!無い内から孫の顔が見たいなんて言っているから、こっちも腹が立つんです!」
「でも、君、モテるんじゃないのか?」
「ここ最近はめっきりですよ!タキオンさんまで母さんと同じこと言わないでください!」
「ああ、それはすまない」
それから、タキオンは、もう余計なことは言うまいと口を閉ざした。この様子では、不図した拍子に八つ当たりされそうだった。しかし、マテリアルはまだ話したいらしく、田上の方を向くとこう言った。
「田上トレーナーは、お父さんからそういうことは言われないんですか?」
「いや、俺は…」と言いながら、田上はタキオンの方に目線を送った。それで、マテリアルは、――この人はもう相手がいるからなんの心配もないんだ、と思って嫌になった。それでしかめっ面をしながら、再びこう言った。
「別れたらどうです?」
「そりゃあ、八つ当たりが過ぎるよ!」とタキオンが抗議すると、マテリアルも流石に反省して「すみません」と言った。それから、また大きなため息を吐いた。
「あーー、…手軽な男の人が手に入りませんかね?」
「そこらへんで声でも掛けてきたらどうだい?トレセンには暇そうな男たちが居るよ」
「私が声をかけるんじゃ駄目ですよ。『インスタント理想の男の人』です」
「そんな都合の良いものがあってたまるかい」
「それがないから私も母さんに面倒な事を言われないといけないんですよ。聞いてくださいよー」
「聞いてるよ」
「田上トレーナーもです」
「俺も聞いてる」
「私ねぇ、二十七まで何もなかったら、お見合いの相手を用意するからね、って言われたんですよぉ」
「おお、良いじゃないか。インスタント理想の男の人だ。親が自分の為に用意してくれるんだから、これより良いものはない」
「ええー? でも、どうします?凄く太った男の人とか来たら」
「じゃあ、結婚をやめたまえ」
「ええー?四十歳の人しか来なかったらどうするんですか」
「じゃあ、結婚したまえ」
「嫌ですよー。同じくらいの年の人がいいですよー」
「君も美人なんだから、見合い相手の一人や二人くらい簡単だろう?むしろ、君は選ぶ立場にあるんだよ」
「ええー?だるいですよ、見合いなんてー」
「だるいんならやめればいいじゃないか」
「じゃあ、孫の顔を見せられませんよ」
「君には弟が居るんじゃなかったかな?」
「ああ、それだ」とマテリアルは適当に言ったが、暫く黙った後にこう言った。「でも、結婚したいですよー」
これには、タキオンも多少マテリアルの事がうざったくなって、少し語気を荒らげた。
「じゃあ、お見合いでもなんでもすればいいじゃないか!」
「ええー、そしたら、駄目じゃないですかー」
「何が駄目なんだい?」
「結局離婚するに決まってますよー」
「じゃあ、勝手にしたまえ」
「嫌ですよー。結婚するなら一生一緒に居たいじゃないですかー」
「じゃあ、相手の事がどうしようもないやつだと分かっても、我慢して一緒に居ればいいじゃないか」
「タキオンさんは、我慢するんですかー?」
そう聞かれると、タキオンは田上の方を一度チラリと見てから言った。
「私と圭一君の場合は、我慢が必要ない立場にある」
「ええー?絶対嘘ですよー。田上トレーナーに付き合う前に色々と言われていたでしょう?辛いって泣き言言っていたじゃないですかー。あれは、我慢じゃないんですかー?」
「それはねぇ…」
タキオンは、困ったように田上の方を見た。田上は、タキオンの顔を直視できずに、目を横に逸した。罪悪感で居た堪れなくなった。その田上の様子を見ながらも、タキオンはマテリアルに言った。
「あんまり言わないでくれよ。こっちは冗談事じゃないんだ」
「それで、臭い物に蓋をしたままで良いんですかー?結婚する時に問題になりますよー?」
タキオンは、田上の様子をチラチラと確認していたが、田上が思い詰めたような顔をし始めると、「君も余計な事を言ってくれたな」とマテリアルに当たった。それから、田上の方を向いて言った。
「分かってるよね?私、圭一君の事大好きだから」
「…ああ、…分かってる。……でも、酷いことを言ったなぁ…」
「あの頃は荒れてたから仕方がないよ。触れたら傷つけようとしてくると知った上で、私は君に触れていた。そりゃあ痛かったが、今こうしていられるんだったらそれでいいよ」
「分かってる。俺もお前の事が好きだから。…また、デート行くか?」
田上は、やっぱりタキオンに今までやったことが申し訳なくて、そう言った。タキオンは、嬉しそうに微笑むと、「いいとも」と言った。しかし、ここで予定を立てることもなく、再びマテリアルが鬱陶しくなるほどに呑気な声を出した。
「お二人は、結婚っていつされるんですかー?」
「君は、もう少しシャンとしたらどうなんだい?」とタキオンは言ったが、マテリアルは意に介さずにもう一度「結婚っていつされるんですかー?」と聞いた。
「結婚は、卒業したらするさ」とタキオンが答えた。田上は、それを見つめていた。マテリアルは、「ふ~ん」と頷くと、こう言った。
「結婚してからは同棲生活を少し楽しまれるおつもりですか?」
これは、予定も何も立てていなかったので、タキオンは田上の方を見た。田上も具体的なことは言えないし、未だ想像し難い部分もあるので、「まぁ、そこらへんは追々考えるかな…」とタキオンに頷いてみせた。
「だそうだ」とタキオンもマテリアルに言った。すると、マテリアルは、眉を上げて顎をしゃくれされた妙な顔をしながら「ふ~ん」と言って、またこう聞いた。
「どうして付き合うんですか?」
「どうしてって、そりゃあ、好き同士だからだよ」
「好き同士なら付き合うんですか?」
これは、田上に向けられた質問だったから、田上もうんと首を縦に振った。
「じゃあ、お見合いってなんですかね?好きでもなんでもない赤の他人ですよね?」
「君が結婚したくないなら、赤の他人を断れば良い」
「でも、親は結婚しろって言うんですよ?」
「結婚したくないなら、親を振れば良い」
「親を振るって言っても、相手は親ですよ?今まで自分を育ててくれた人ですよ?」
「それに恩義を感じるんだったら、結婚して孫の顔でも見せてやれば良い」
「タキオンさんは、もう田上トレーナーと付き合っているんだから、将来に心配がなくていいでしょうが、私はそうも行きませんからね。真剣に考えてください」
「真剣に考えろと言ったって、君が結婚したくないと言うのなら、私はどうしようもない」
「私は、結婚したいってさっき言ったじゃないですか」
「なら、お見合いをすればいいじゃないか。それか、どこか適当な男を引っ掛けて、付き合ってみせればいいだろう?」
「その適当な男が居ないんですよ。流石に、通行人を適当に捕まえるわけには行かないでしょう?流石に、人となりくらいは分からないと私も付き合うことはできませんよ」
「じゃあ、私達が君の親の代わりに見合い相手を探せってことかい?」
「そうです」
「なら、カフェのトレーナーを差し出してやったじゃないか。あれはどうなったんだい?」
途端にマテリアルは顔をしかめて言った。
「あの人の話はしないでください。もういいんです。他の人がいいです」
「良くないことはないだろう?私も詳しいことは知らないが、人のいいやつだってことくらいは知っているよ?顔も普通だろう?」
「いえ、私はもうあの人に触りたくはありません。もういいんです。他の人で十分です」
「十分と言ったって、私達の方も訳もなくそんなに男の斡旋を頼まれると困るよ。訳を話してくれないと次には進めないね」
「……ならいいです」
今度はマテリアルが思い詰めたようになった。それで、タキオンが返答に行き詰まると、田上が代わりに口を開いた。
「あの、ちょっとだけ聞きたいんですけど、松浦さんがなにか変なことをしたから嫌になったんですか?」
「………それは、…違います。…本当はこんな事言いたくないんですけど、…普通に良い人でした。普通に良い人です。普通に」
「普通のどこが不味いんだい?」
「……不味くはありません。……ただ、私がもう嫌になったんです」
「投げ出したと?」
マテリアルは何も答えずに、ただ机の一点を恨めしそうに見つめた。それで、タキオンと田上は顔を見合わせた。どうも、事の全貌が掴みにくい。だから、田上がもう一つ質問した。
「松浦さんと喧嘩したんじゃないですよね?」
マテリアルは、もう話す気が無くなったのか、ただ首を縦に振るだけにした。これだと、田上の質問の仕方が悪く、もう一度質問をしなおす羽目になったが、やっぱり、喧嘩はしていないようだった。こうなってくると、松浦の方がどうなっているのか気になってくる。あちらの方は、マテリアルがこうなっていることに気がついているのだろうか?気がついていないとしたら、一度遊びに誘った相手だから、また誘ってくる可能性もある。そうなった時にマテリアルは断るのだろうか?そもそもマテリアルに気はあるのだろうか?
田上は、落ち込んでいるマテリアルを見ながら、色んなことを思ったが、どうにも解決の糸口は見つけられなかった。唯一あるとしたら、松浦に談判をつけるということなのだが、マテリアルが忘れてくれと言うから仕方ない。一丁前に社会に出た成人に言う事を聞かすというのは、結構骨の折れる作業のような気がした。
二人がぼんやりとマテリアルの事を話したり、別の事を話していたりすると、タキオンの授業の時間が来た。タキオンは、田上の頬に一つキスをすると、「また次の休み時間にも来るからね」と言ってトレーナー室から出ていった。マテリアルは、それを羨ましそうな目つきで見ていて、キスをされて少し嬉しそうな田上と目が合うとこう言った。
「カップルって良いですね」
美人のマテリアルに似合わない卑屈な調子だった。田上は、――この人ならこんな風に僻むことはしないだろう、という表情を的確にやって、その綺麗に整った顔を台無しにしていた。ただ、そうすることで人間らしさが生まれくるようでもあったが、人間らしくあるのなら、もう少し明るいほうが田上には可愛げがあるように思えた。
田上は、自分の頬に触ったキスの感覚に、まだ少し集中を傾けながら「そうですか?」と変な返しをした。田上は、カップルについては、あんまり考えが定まっていなかった。タキオンと居るのは非常に楽しい。今まで、女性と関わりのなかった人生を、女子高生という立場のタキオンが全て洗い流してくれているような気がする。そして、自分も男子高生になるような気がするが、理性を持って考えてみると、まだまだ気は重い。どうしても女子高生というタキオンが頭から離れないから困った。それら全てを全く加味しないで、「そうですか?」と聞き返したから、変な返しだった。
マテリアルは、目を細めるとこう言い返した。
「恋人が居ないよりは居るほうが良いでしょう?」
「まぁ、…そうかもしれないですね…」
田上は、ゴールデンウィークの事を思い出しながら、そう言った。すると、今度はマテリアルが悔しそうに眉を寄せた。まるで、にらめっこ大会だった。
「くぅ、もう受け入れてきてますね。腹が立ちます」
「どうぞ、腹を立てて済むのならそうしてください」と田上が適当な事を言うと、マテリアルは、今度は上を向いて大きく口を開けて言った。
「ああ!これが付き合っている人の特権ってやつですか!」
「特権?」
「心にはさぞ余裕がお有りでしょう!」
「そんなにはないですよ…」
「いや、あります!今の言い方はありますね。ゴールデンウィーク、タキオンさんと何をしたんですか!言ってごらんなさい!」
「何って、帰省しただけですよ」
「えっ、タキオンさんと? どこに?」
「タキオンの家です」
「そこでなにしたんですか?」
「…ただ、…遊んだだけです」
「ご両親は…?」
「良く来たねぇ」
田上がそう答えると、マテリアルは少し笑い出しそうになったが、それを堪えて言った。
「え、…田上トレーナーの扱いは…?」
「……まぁ、…タキオンの彼氏として行きました」
「え、その前も交流はあったんですよね?」
「ありました」
「え、どんな反応でしたか?」
「……喜んではいました」
「喜ぶ?」
「はい」
「喜んで何しましたか?」
「何って、…遊んだだけですよ」
「え、それ以外には何もしてないんですね?」
「なにもしてませんよ。何をしたと思ってるんです?」
「…いや、…なんでしょうね?」と今度は、体を左右に小刻みに揺らしながら言った。「じゃあ、タキオンさんのご両親はあなた方の関係を知っているんですね?」
「はい。なんなら、父方のおじいちゃんおばあちゃんの方も知っています」
「んん?なぜ?」
「ゴールデンウィーク中におばあちゃんが入院している所にお見舞いに行ったので」
「あなたも行ったんですか?」
「ええ、…なんで行ったかもわからないんですけど、そこで断るのも失礼じゃないですか?自分だけ行きませんって」
「まぁ、気の遣い所ではありますね」
「だから行きました」
「ええー、…本当にタキオンさんと結婚するつもりですか?」
マテリアルは、机の上にだらしなく体を預けながら言った。田上はそう聞かれると、少し迷うように自分の机の上のものに目を移した。それから、マテリアルの方を見て言った。
「……どうなんでしょうね?……いいもんなんですかね?」
「そりゃあ、私は知りませんが、結婚式するんだったら呼んでください。ブーケだけ受け取りに行きます」
マテリアルの冗談に、田上は口元を微妙に歪ませて、目を少しだけ細めた。
「……ゴールデンウィーク中にあの子と話し合いまして」
「…はい」
「……タキオンが、そのままで居るんだったら別れるしかないけど…。…いや、…僕が我慢の限界だって言いました」
「…ほう」
「…それで、…マテリアルさんも怒っていましたが、見境なくキスをしまくるんだったら、別れる未来しかない。…でも、僕もできるだけ別れたくないので、……タキオンを大人として見るから、タキオンも変わってくれと言いました」
「はい」
「……僕の言葉は効いたんじゃないかと思いますが、どうでしょうか?」
「どうって、……まぁ、今日は普通に授業に出てますし、私が入ってきた時もやけに素直に離れたので、なにか嫌味なのかと思いましたね」
「……それで、…あの子と結婚すべきなんでしょうか?」
「そりゃあ、私には分かりませんが、タキオンさんくらいの女はそうそう見つからないから、結婚しておいたほうがいいと思います」
「女子高生と結婚してもいいんでしょうか?」
「まぁ、…法律上は問題ありませんよね」
「…そうですよね…」と田上は頷いて、悩み深そうに自分の机の上を眺めた。ゴールデンウィークの時に大人として見ると言ってみたはいいものの、未だに、タキオンの事を大人としてみればいいのか、子供としてみればいいのか分からなかった。こんな事に頭を悩ませても結果はあんまり変わらないのだろうが、どうにも、自分が世間から見て「子供」と呼ばれる人物と結婚を考えているというのが、田上には気になった。
マテリアルは、寛容なようだったが、他の人はどうか分からない。その他の人というのも具体的に挙げられる人はいないが、簡単に言えば、ネット上で意地悪な事を言うような人や、テレビにでしゃばって批判するような人だ。意地悪な人が言うことを考えれば、結局意地悪な事しか言われないというのは、田上もなんとなく分かっていたのだが、それが道理に通っていそうだったから、その道理と自分を照らし合わせて、道理から外れている人間にはなりたくなかった。
子供と結婚をすれば、田上の道理からは外れた人間になる。道理から外れるということは、田上にとって、人に軽蔑されるということと同義だった。軽蔑されるのは嫌だった。できれば、他人からは嫌われないで生きていたかった。しかし、その他人というものも、田上の中で、あまりにも漠然とふわふわ浮いている。以前に、タキオンから、――君は一億人の人間を気にすることはない、という旨の話をされたことがあった。しかし、田上は、嫌われたくなかった。一億人であろうと何億人であろうと、自分が嫌われて、人から軽蔑される存在になった途端に、自分の存在意義が無くなってしまう。それ即ち、道理から外れてしまえば、存在意義が無くなるも同然だった。軽蔑されるような人間になってしまった途端に、軽蔑されたくない一番身近な人からも自動的に軽蔑されてしまう。そのような考えが田上にあった。
つまり、田上は道理の他には何も考えていなかった。道理の他に人情などの存在があるとは思わなかった。勿論、言葉は知っているが、田上にとって、道理が天皇や総理大臣ほどに偉い存在だった。道理も偉いことには、偉いのだろうが、道理だけで世界が構築されているのではない。しかし、道理を外れてしまえば、人から軽蔑されてしまうのも、また事実であり、人情を加味しないのであれば、女子高生と結婚しようと思っている田上は軽蔑されるしかなかった。
当然、赤の他人に人情があるはずがない。意地悪なことを言う人は、もっと人情がない。道理がこの世の全てと、田上と同じように思っているかもしれない。道理から外れてしまえば、その人は、非道徳的な人間なのだ。例えば、自分の生活のために人殺しをする人間が居るとする。捕まったその人は、警察にこう弁明する。
――幼い子供が腹を空かしていたから、泥棒に入るしかなかったんです。すると家主が帰ってきたから、捕まらずに逃げるには殺すしかありませんでした。
これは、法で罰せられるべきだ。このようなやつが世の中をのさばっていたら、我々一般市民は、夜も安心して眠れない。
ただ、この言い分は道理で世の中を解釈しているだけだ。人情を用いるのならば、幼い子供が可哀想で可哀想で仕方が無くなるだろう。親が間抜けで、頭が悪くて、貧乏じゃなかったら、この子供は幸せに生きられていた。すると、ここで、田上の頭は――悪いのは誰だ?という話になってくる。悪いのは、社会かもしれない。親かもしれない。そのまた親なのかもしれない。いくらでも、誰でも悪者にできる。可哀想可哀想と思っているやつも、そういう子どもたちに寄付してやる気がないから、こうやって、人殺しが生まれたのだ。そう思う人間もいるかもしれない。
そう思うから、田上は人に嫌われるのが怖かった。田上は、母親との相性の上、人の話を聞くという性質だったから、どんな人の声も聞き入れてしまう。そして、どんな人の声も聞いてしまった上で、自分に当てはめる。すると、自分が段々と悪い人間のように思えてくる。幼い頃に小さな蟻を何匹殺したかわからない。蝶を虫かごに入れてそのまま殺してしまったのは、蝶の自由を奪う行為であり、非人道的だ。豚を食うのは、豚の自由を奪うのと同じだ。女子高生と結婚するのは、全く無責任なやつだ。
田上は、軽蔑されるべき無責任なやつにはなりたくなかった。けれども、世間はありままの君でいろと言う。そして、無責任な人間が誕生すると、社会だったり人のせいにする。ありのままという定義が曖昧で、如何ようにも捉えることができる以上、その言葉はあんまり使わないほうがいいだろう。その言葉を使いながらも、無責任になってはいけないというのならば、無責任とありのままの矛盾を誰か解説してやってほしい。
こうやって、誰かに当たり散らしても実際にそんなに意味はないのだから、田上は面倒だった。面倒の一言で解決できるのならまだマシではあるが、結局、面倒は面倒として再浮上してしまうのだからしょうがない。タキオンだって、宝塚記念のことはまだ残っているのだ。あの子がどんな風に宝塚記念を走り抜くのかは、田上には想像できなかったが、一筋縄ではいかないような気がした。少なくとも、今日のトレーニングは来てくれそうな雰囲気がある。もう、ここからしっかりと絞っていかなければならない。田上には、タキオンのやる気を持続させてやるのが、最重要課題だと感じた。そして、そのやる気を持続させる重要なパーツは、……自分なのだろうか?
田上は、やっぱり、タキオンと女子高生という二つの言葉を離して考えられずに居た。そうやって、悶々と考え込んでいる内に、時間が経って休み時間が来た。国近は、あれ以降まだ何の連絡も寄越さなかった。