タキオンは、一時間目の休みのチャイムが鳴って、一目散にトレーナー室へと帰ってきた。次は移動教室のようだったので、その教室用の荷物も携えている。全く以て学生であり、田上の彼女だった。その矛盾と呼んでもいいものか怪しい矛盾が、田上の心に波風を立てた。ただ、この頃になると、田上も、大分タキオンに自分の心の内を打ち明けやすくなっていたから、いつものように、ぼんやりと静かにしながら今まで考えていたことを話した。
「タキオン、…俺は、…未だにお前の事を女子高生だと思うよ」
田上がそう言うと、タキオンは少しだけ不安そうな顔を覗かせた。
「女子高生は嫌いかい?」
「…タキオンは、嫌いじゃない。…だから困ってる」
それだけで、田上の言いたいことはちゃんと伝わったようだった。タキオンの顔からは、納得した色が見られた。
「君も色々と考えるべきことがあるだろうからね。…私もどうにかしてあげたいが…、もっと艶っぽくなればいいかな?」
「艶っぽく?」
「化粧していないから君も私の事が子供っぽく見えてしまうのかもしれない。日頃からしっかりとメイクをしてみようかな?」
「…別に、そんなに気は遣わなくていいよ…」
「いや、君が私の制服姿を見て、女子高生が嫌だというのなら、制服姿のままでも私は君の彼女だと認識させないといけない。ネックレスはいつもつけているが…」とタキオンは、制服の内にしまっていた月のてんとう虫のネックレスを取り出した。
「もう少し工夫をしないといけないな…」
「どうするんです?」とマテリアルが言った。タキオンは、そう言ったマテリアルの顔をじっと見つめた。結構長いこと眺めるものだから、マテリアルも「私の顔に何かついてます?」と言った。しかし、タキオンはそれでも黙って眺め続けた後に、こう言った。
「マテリアル君は大人っぽいと言えるかな?」
これは田上に向けられた質問だった。田上は、マテリアルの容姿については、特に考えていることはなかった。ただ、綺麗だなー、と思うことはあるが、それよりもずっとタキオンの方が好きだった。だから、田上は首を傾げて少しの間、マテリアルの顔を見つめたあと、こう言った。
「まぁ、マテリアルさんらしい顔をしてるよね」
「どういうことかな?」
「…大人っぽいって言うほど大人っぽくはないし、子供っぽいかと聞かれると、別にそうでもない顔」
マテリアルは、これを褒められていると解釈して、一人で嬉しくなっていた。
タキオンは、嬉しそうなマテリアルを無視して言った。
「ブレスレットなんてどうだい?大人っぽいアクセサリーだろう?」
「…そうかもね?」
田上が微妙な反応を見せたので、タキオンは目を細めて首を横に振った。
「そんな反応じゃ駄目だね。それに、ネックレスが駄目なんだから、ブレスレットも制服の中に取り込まれてしまうだろう。 制服と言うのが女子高生の象徴で、あまりにも存在感が強いからね。…ジャージか?」
「ジャージが大人っぽいかは別だろ」と田上も流石に笑って言った。
「そうだろうね。…となると、…仕草かな? 大人っぽい仕草ってなんだろうね?マテリアル君」
「ええ?…大人っぽいと言えば、……髪を掻き上げる仕草?」
「そんなの女子高生でもできるよ。…ただ、近頃髪を切ったからね。前の時ほど、髪を掻き上げるのに優雅さもないだろう。…圭一君は、髪を掻き上げる仕草はどう思う?」
「え、…いいんじゃないか?」
「…いや、それだと、あまりにも限定的すぎるから却下だね。何か、君の精神に訴えるようなものじゃないと…」
タキオンはそう言って、田上のことを見つめ始めてきた。田上も、見つめ返すのはなんだか面倒だったので、目を逸らすとパソコンの画面を見た。今度の予定が記されているが、これは何度か修正を加えた物の現在の姿だった。修正を加えること自体は余り珍しくないが、今回は、タキオンがどうにも不安定だったので、大阪杯の時と比べると、修正の回数は多かった。それ以前であれば、日本ダービーから菊花賞の時も、タキオンの動きは凄かった。レースに出ると言ったり、出ないと言ったり、こちらも調整が大変だったが、なんとかここまでこぎつけることができた。あの時辺りに、タキオンが自分の足で苦しんでいたとしたら、それを乗り越えられてよかったと思う。
タキオンは、それからもじっと田上の事を見つめていたが、不意に時計を見ると、もう教室に行かなければいけない時間だった。タキオンは、照れている田上の頬にキスをすると、トレーナー室を出ていった。その直後に、授業の始まりを告げるチャイムが鳴ったので、タキオンが授業に遅れたことは確実だった。
タキオンが授業に行くと、マテリアルが話しかけてきた。
「あなたがたって、仲良いですよね」との事だった。田上は、これに首を傾げて謙遜したが、その心は、実際に仲がいいと思っていた。
「どうでしょうねぇ」と田上が言うと、マテリアルが反論した。
「仲良いですよ。今どき、いってらっしゃいのキスをするカップルなんて居ませんよ」
田上は、それに少し照れ笑いをしながら答えた。
「いや、居ないことはないでしょう?」
「いや、居ませんよ。そんな恥ずかしい事、ここに人が居るっていうのにやる人が、あなた方以外にどこに居ますかね?」
「…恥ずかしいですかね?」
「恥ずかしいに決まってますよ。そんな、露骨にドラマみたいなこと、大分仲良くないとしませんよ」
「…恥ずかしがるべきですかね?」
「べき?…私は知りませんよ」
「……若いですかね?」
「若い?…若いんじゃないですか?」
そこで、田上は一つため息を吐いて、机の上の物を転々と見つめて目を泳がせた。
「………結婚するべきだと思いますか?」
「私は知りませんよ」
「……タキオンって、……可愛いですよね?」
「ええ?」とマテリアルは少し笑った。田上も、タキオンと人前でいちゃいちゃすることはあれど、こうして、他人のマテリアルに自分の心情を打ち明けることがなかったからだ。そして、あんまり可愛い可愛いと言わない男のギャップが、マテリアルには面白かった。
「まぁ、可愛いですね」
「ですよね。……あれと、今すぐ結婚してもいいって言われたら、マテリアルさんは認められますか?」
「ちゃんと節度を持って、清い交際を続けるというのならば、私も認めてやらないことはないです」
「…じゃあ、同棲するってなったら?結婚と同棲は、同じようなものでしょう?」
「それだと、…まぁ、罪悪感が湧きますね。自分の結婚相手が、制服着て学校に行くなんて、どこのアニメオタクが妄想したのか分かりません」
「…そうですよねぇー」と田上はため息まじりに言ったから、マテリアルは、また少し笑って言った。
「いいと思いますよ。結婚なんてしたい時にすればいいもんです。私の目の前でいちゃいちゃしすぎないって言うんなら、結婚でもなんでもしてやってください」
「そうですよねぇ」と田上は頷いて、暫く自分の机の上に置いてあるペンをじっと見つめた。灰色のペンだった。いつも自分が愛用している、黒インクが出る細いペンだ。確か、菊花賞の前くらいに買ったもののような気がする。まだまだ依然としてインクが出るので、使える物だ。そのペンを見ている内に、タキオンに十七の誕生日の時に上げたあのカラフルなペンを思い出した。タキオンから使えなくなったという報告も聞いていないから、未だに使っているのだろう。中々、貰った物を大切にしてくれる優しい子だ、と思いながら、「優しい子」という単語が田上の心の中に引っかかった。
あの子は優しい子だ。子。そう呼んでいるのはなぜなのだろうか?自分がまだタキオンの事を子供だと思っているからじゃないだろうか?先程も言ったように、タキオンが女子高生であるという気は、まだ抜けていない。ただ、タキオンは考えの足る子でもある。それこそ、嫁にしたらとても良い人にはなるだろうが、どうも、嫁にしてもいいものかと思った。
言ってしまえば、気持ち悪い妄想だ。下心から女子高生を嫁にしたいと思っているようなものだ。だとすると、田上は、気持ちの悪い妄想をしている、気持ちの悪い人間だということになる。女子高生と結婚するというのだからそうだろう。もしかすると、タキオンが結婚したいと言っているのは、まるっきり自分の妄想なのかもしれない、とも思い始めてきた。
十八歳を好きになることを、ロリコンというのは流石に無理があるだろう。タキオンは、あんなではあったが幼くはない。少なくとも、キスをしてくるような年齢だ。
そう考え続けていると、段々と田上も考えるのが嫌になってきた。タキオンの考えたくないところばかりが、自分の目の前に出てくる。女子高生。子供っぽい。我儘。…こういう物を目の前にして、それら全てに反論するのがどうも面倒臭かった。結局、タキオンのキスを、大人として受け入れた。大人として話し合うことも何度もあった。強引な所はあったが、それは大人らしくちゃんと直すと言った。大人と子どもの境目も曖昧であるし、くだらない大人も居るということは田上も知っていた。そして、田上自身が、どうにも子供っぽい所がある人であり、それを大人と定義するからには、タキオンは十分に年齢以上に大人だった。田上だってタキオンの事を尊敬している。隣に居てくれれば、それが望ましい。
そして、また、目の前に女子高生という単語がふわふわと浮いてくるのが、どうも嫌だった。
田上が色々と思い悩んでいる内に、国近から連絡が来た。誰にも聞かれたくない話だと言うので、田上のトレーナー室は使えなかった。かと言って、国近のトレーナー室も使いたくないそうだ。なぜなのかは分からなかったが、田上には、タキオンといつも話しているあのベンチが思い起こされたので、そこを提案してみた。国近は、風を感じれるなら丁度いいだろうと言って、田上を呼び出した。
田上は、一体何を誰も居ない所で話されるのだろうと思いながら、トレーナー室を出て、カフェテリアの前まで行った。そこで、国近と落ち合うと、こう言われた。
「まず、お前が言う所に行ってから話をしよう」
田上は、――そこまで他人に聞かれたくない話なのか、と思いながら、うんと頷いた。カフェテリアの前も、授業中だったのでほとんど人の気配はなかった。そういう場所でも国近は話したくないようだった。
普段からお喋りな国近と、こうして黙りながら歩いているというのは、田上にはどうも気まずかった。一体、この陽気な男を陰気にさせるほどの重い何かが、どういう風に存在しているのだろう?と首を捻って考えながら歩いていた。国近は、早く話したかったようで、度々「まだか?」と聞いてきたが、カフェテリアからそこまでは少し遠かったから、田上は「まだだ」と国近が話してくるかもしれない内容に怯えて答えた。
田上は今まで相談事などされるような人間じゃなかったから、覚えている限りでは、友達からこのような相談をされるのは初めてだ。そして、それにちゃんと答えられるかも分からなかった。タキオンなら、「君のような人間ならしっかりと答えることができるさ」と言いそうだったが、大して主義主張もない人間だったから、「分からないなぁ」で済ませてしまう可能性も十分に有り得た。
そんな事を不安に思いながら、ベンチ近くまで来た。そこでまた、国近が「まだか?」と聞いたから、田上は前を見つめながら、必死にされるかもしれない質問とその答えを用意しようと努め、「もうすぐだ」と答えた。国近は、それきり、ベンチに着くまで一言も話さなかった。
ベンチに座ると、国近は暗い顔で辺りを眺め、「良いところだな」と言った。田上は、うんと答えたが、その後は何も言わなかった。ただ、自分たちの奇妙さを思った。この爽やかな風が吹くいつものベンチで、大の男二人が暗い顔をしながら座っている。田上の顔は国近ほど暗くはなかったが、それでも緊張に少し伏し目がちになっていた。
そして、ベンチの横には、タキオンではなく国近が座っている。田上は、この奇妙さに居た堪れなくなって、座ったあとすぐに立ち上がると「飲み物買ってこようか?」と言った。確か、この近くに自販機があったはずだった。国近は、それにうんと頷いた。田上は、そう素直に頷かれると、次に何をすれば分からなくなりそうだったが、とりあえず、コーヒーを買っておこうと思うと、小走りに自販機の方へ行った。
自販機から帰ってくると、国近はベンチの上に寝転がっていた。田上が来ても起き上がらなかったから、もしかすると寝ているかもしれないと思ったが、顔を覗き込めばしっかりと目を見開いていた。
田上がコーヒーを差し出すと、「ありがとう」と言って受け取ったが、それを自分の胸の上に置いたばかりで飲もうとはしなかった。そして、田上の為に席を開けようともしなかったから、田上は芝生の上に座って、コーヒー缶を開け、一口飲むとこう言った。
「なにか悩みでもあるのか?」
国近が田上の方を見ると、そのはずみで胸の上に置いていたコーヒー缶が顎に当たり、「いて」と一声上げた。その後に、また自分の胸の上にコーヒー缶を置くと、田上をじっと見つめた。じっと見つめて何も言わなかった。まだ、頭の中で何かを思案しているような感じがあったから、田上も芝生の上に座ったまま、コーヒーを飲んで国近を見つめ返し、根負けすると、地面の草が気になったふりをして目を逸らした。
そして、ある時、国近が言った。
「お前ら…、付き合ってんだろ?」
田上の心臓は宙返りを打ち、前に跳ねて、そのまま逆さまに飛んで、二回転三回転してどこかへ飛んでいったような気がした。そんなあけすけな動揺に自分でも気が付かずに、できるだけ平静に努めようとしながら、「何のこと…?」と言った。そんな田上の様子を見て、国近は口の中でフフ…と笑った。
「あんな事をしておいて、よくとぼけてられるよ」
田上は、黙ったままでいた。
「お前、四月の初め辺りに、アグネスさんが電話かけてきた事覚えてるか…?……まぁ、お前が何も答えない気持ちも分かる。……はぁ…」
国近は、そうやってため息を吐いた後に何も話さなくなった。田上からも目を逸らして、木の葉の影を見つめた。田上は、タキオンが恋しくなった。何が楽しくて陰気な男とこんな場所にいるのだろうか?田上は、友達よりもタキオンの方がずっと好きだった。だから、タキオンともっと一緒居たいし、このベンチにはタキオンと二人で居たい。しかし、タキオンは、今は授業中だ。無理に呼ぶわけにも行かない。田上は、この後、どう言い逃れをしようかと考えながら、草を指に絡ませた。
国近は、再びコーヒー缶を顎にぶつけながら、田上の方を見た。田上の奢りだというのに、一口も飲もうとはしない。別に、飲まずに捨てない限りは田上もとやかく言うことはしなかったが、それでも、一向に開ける気配を見せないとなると、田上も自分がコーヒーを買ってくる必要はなかったのでは?と思うようになった。ただ、どちらにしろ、コーヒーを買いたくて立ち上がったのは田上であったから、身体的疲労の上では、国近が頼もうが頼むまいが変わらなかった。
国近は、また田上の方を見ると言った。
「付き合っているんだろ?」
田上はこれにどう答えるのか迷った。うんと言うべきか、否と言うべきか、そのどちらを答えようか、今まで散々悩んでいたのに、いざ質問に直面してみると、どうしようもなく動揺した。いっそのこと、タキオンに全て返答を預けてしまいたかったが、タキオンはここにはいない。だから、答えなければならない。しかし、田上もタキオンが居なければ度胸がない。だから、答えられずに、うつむいたままで居た。せめて、この沈黙が答えたくない沈黙ではなく、思い悩んでいる沈黙と国近が捉えてくれればいいと田上は思った。
国近は、田上が何も答えないでいると、はぁとため息を吐いた。そして、また木の葉の陰を見つめるとこう言った。
「お前って、…凄いやつかと思ってたんだけど、…案外度胸がないんだな…」
喧嘩を売っているのかと思った。今すぐにでも、立ち上がって胸ぐらを掴んでやろうかと思ったが、殴る勇気はない。田上の温厚な性格も、一つには、その臆病さから作られていると言ってもいいだろう。タキオンにも度胸がないと言われたことがあるし、国近にも言われた。自分でも、そんなに度胸がある方だとは思っていない。いや、むしろ無い方だろう。その為に、田上は、ただ項垂れたままで相変わらず地面の草に気を取られているふりをした。
国近は、何も言わずに、ただ見えない天を仰ぎ続けた。心地よい風は吹いている。自分の足元の草を揺らすのが感じられる。しかし、タキオンと居るときほどその風を心地よくは感じられない。田上は、もう一度、――タキオンだったら良かったのに…、と思った。
国近も田上が一向にタキオンとの関係を認めようとしないので、困っているらしかった。自分の相談事は、そういう事に関係することだった。つまり、国近は、ソラとの関係に悩んでいた。それを、田上に相談したかった。田上とタキオンが仲がいいのは知っている。なんなら、付き合っているという噂まで聞いたし、キスをした所を見たという噂も聞いた。流石に、キスまで問い正すのは気が引けるが、せめて、同じことを悩んできたであろう者同士、意見の交換をしたかった。しかし、田上は何も話さない。――ワンチャン、もう別れた可能性もあるのかもな…。 国近は、田上が話さない理由をそうじゃないのかと思った。そして、そうであるとしても、そうでないとしても、田上を焚き付ける材料になるんじゃないかと思って、国近はその事を口に出してみた。
「お前は、……もしかして、…もう…別れてたりするのか…?」
田上は、どれだけこの質問に頷いてしまおうと思ったか分からない。しかし、嘘を吐くのは苦手だったし、心が居た堪れないし、後日、タキオンと田上と国近で出会ってみれば、必ず一悶着起こる。タキオンだって、田上の事を見損なうかもしれない。そういう事を色々と考えた挙げ句、田上は、この首を縦に振るか横に振るかという答えやすい質問くらいには、正直に答えてやることにして、首を縦に振った。
国近は、田上が俯きながら首を振ったのを見ると、多少安心しながら「そうか…」と言った。それから、また沈黙が訪れたのだが、先程よりかは長くなかった。国近は、田上の方を向いて、こう言った。
「上手くやれているのか?」
田上は、また選択に迫られた。答えるべきか答えないべきか。答えなくてもいいんじゃないか、というのが一瞬頭の中を過る。しかし、先程、口は開いていないにしても、仕草で答えたのもあって、次の言葉が出やすくなったように思えたので、田上は言った。
「……俺は、…あんまりこういう話はしたくない。俺も今悩んでいる最中だ。お前の悩みに答えられることもない…」
国近は、その言葉を飲み込みながら、黙って田上の事を見つめていたが、やがてこう言った。
「アグネスさんとは上手くやれてるのか?」
「………それなりだ…」
「…そうか…」
話は一つ一つの間に途切れ、一向に進む気配を見せなかった。国近は、再び木の葉を見上げ始めた。田上は、再び風の気持ちよさを感じ始めた。
暫く経った後に、国近がまた口を開いた。
「俺は、…今更どうすればいいんだろう?」
「……なにがだ?」
「……あまりにも無責任すぎたよな…」
田上は、ソラのことを話しているんだろうと見当をつけた。そして、それが今自分が悩んでいることと重なった。タキオンの事が好きだという気持ちと、無責任な人間。しかし、国近の次の言葉はこうだった。
「俺は、……あんまり好きじゃなくなったなぁ…」
田上は、何も答えずに国近の顔を見た。国近は、今は田上の顔を見ずに、木の葉だけを見つめて悲しそうな顔をしていた。
「…どうも、……恋愛というか、そういうものにソラが合わないと言うか、……どうも、……恋愛っていうのは重かったなぁ…。……もっと軽いものかと思ってた…」
これは、今まで田上とタキオンが今まで田上とタキオンが悩んで、何度も何度も討論を重ねたものだった。相手がタキオンじゃなかったら、今頃破局しているのは間違いないだろう。田上は、そう考えた上で、何かアドバイスをする気にはなれなかった。むしろ、別れてほしいとさえ思った。なぜそう思ったのかはわからない。しかし、国近とソラが別れてくれれば、なにかスッキリしそうな気がした。今まで、タキオンと田上にわだかまり続けていた塊が、そこでようやく消え失せるような気がした。だからと言って、別れてくれという事はできないし、何か言うこともしてやれない。
田上とタキオンが今こうして付き合えているのは、全てタキオンのお陰と言っても差し支えない。あのような性格のタキオンだったから、田上を引き止めることができた。ソラで国近を引き止められるのかは分からないし、何を思って二人が付き合っているのかも分からない。
田上は、黙って下を向いていたが、国近は話を続けた。
「なぁ、……俺は、…いや、お前は、…女子高生を好きだと思えるのか?」
田上は、首を横に振りたかったが、国近は今は田上の方を見ていないから、首を振ってみせたところで仕方がない。だから、田上は黙ったままで居たが、次第次第に田上はこの重苦しい空気から逃れて、トレーナー室に帰りたくなった。どうせ、自分が言ってやれることはなにもない。国近が何を言ってほしいのかすらわからないし、自分は別れてほしいと思っている。その中で、国近が満足できる答えが出せるはずもないだろう。そして、国近が満足できたとしても、田上がその返答に満足できないかもしれない。自分が思っていることと真反対のことを言わなければならない。タキオンと付き合っているのであれば、国近にもソラと付き合い続けろと言うべきだ。しかし、国近は別れさせてほしいようでもある。そんな重い責任は、田上は負いたくない。別れるのなら勝手にやってくれと思う。今更、迷っているふりをして、自分の背中を押させに来るのは、甚だ迷惑だ。こちらも、答えが決まっている問答に参加するほど暇じゃない。
それでも、田上はこの場から離れられずに居た。未だに、この光景は奇妙だ。一人は芝生の上に座って、一人はベンチに寝転がっている。まだ、先程二人でベンチに並んで座ったときよりかは可愛げがあって、奇妙さも薄れているかもしれない。しかし、田上の心境では、国近とこんな所に来たくなかった。タキオンが、堪らなく恋しかった。
国近は、まだ木の葉を見上げ、ベンチに寝転がっている。先程の質問から、一言も喋らないまま十分が経とうとしている。田上が、沈黙に耐えきれなくなって飲む缶コーヒーも、もう殆ど空だった。底に溜まった一滴や二滴を、今は一生懸命飲んでいた。
空を見上げれば快晴だった。雲がいい具合に散らばりながら、風に吹かれて徐々に形を変えている。田上は、ため息を吐くと空を見るのをやめて、自分の缶コーヒーを見つめた。流石に、もう一滴や二滴を飲むのも限界がある。国近のコーヒーはまだ飲まれていなかった。田上は、それをじっと眺めて、貰ってもいいものかどうか考えた。自分の金で買ったからには、国近も田上にあげて問題はないはずだ。飲まないなら尚の事だろう。田上は、自分が国近からコーヒーをもらうのが、人道的に正しいのか正しくないのか考えた後、結局わからなくなって、こう言った。
「国近、…そのコーヒー飲まないのか?」
「ああ…」
「俺が飲んでもいいか?」
「ああ…」
果たして、国近がちゃんと田上の話を聞いて返事をしているのかは分からなかったが、田上は、国近の胸の上からコーヒーを受け取ると、開けて一口飲んだ。相変わらず、何事も起こらない。田上が国近からコーヒーを受け取った直後に、頭上の木に鳥が来てやかましく鳴き立てる他は何も起こらない。ただ、少々尿意が催してきたのが、田上に感じられるだけだったが、それは十分に我慢できる尿意だった。
田上は腕時計を見ると、授業が終わるまであと十五分ほどだった。このままだとあと十五分経ってもこのような可能性がある。そうなれば、タキオンはトレーナー室に行っても、マテリアルと出会うだけになるだろう。別に、会うだけなら次の休み時間じゃなくてもできるだろうから、それほど可哀想だとは思わなかったが、むしろ、タキオンに会いたい自分が会えないのが可哀想だった。なぜ、こんな陰気な男と小一時間、ただ黙って座ったままで居ないといけないのだろうか?
田上は、陰気という言葉から、大阪杯前の自分を思い浮かべた。あそこが最も陰気だろう。死にたいとまで思いっていたのだからしょうがない。そういう男と、タキオンは根気強く話していた。惚れていたらあそこまでできるものだろうか?田上には、できる気がしなかった。流石に、二言三言で何も変わらなさそうなのでは、もう諦めたほうがマシと思えた。ただ、二人の間にはトレーナー契約という縛りがあったのも、一つの要因かもしれない。タキオンの性質として、どうもこだわる性質であったのも一つの要因かもしれない。要因なんて考えればいくらでも出てくるが、一つこれと言えるものも無いだろう。大概、何らかの関わりを持っていそうな気がする。
タキオンは、本当に自分の事を好きなのだろうか?と考えた。自分は、本当にタキオンの事を好きなのだろうか?と考えた。しかし、もうそこに余計な言葉は要らないような気がした。田上は、タキオンと二人で歩む道を選んだ。タキオンも選んだ。選んだのならばしょうがない。二人で歩むしか無い。例え、世間から女子高生と結婚した無責任な男と罵られようが、二人で手を繋いで進んでいくしか無い。どうもつらい。なぜ、こんな道を進まなければならないのだろうか?その場所が苦しいとわかっているのに、その場所に身を投じなければいけないのだろうか?いや、最早苦しい場所には立っている。いつの間にか、水の中に身を投じて、這い上がれないままで居る。今も息ができなくて苦しい。どうして、水上に上がれないのだろうか?その苦しさが、じわじわと胸を締め付ける。締め付けはするが、隣にはタキオンがいる。どうしようもない。タキオンが好きだ。どうしようもない。どうしようもない。この胸のわだかまりをなんと説明すれば良いのだろうか?苦しさの中に潜む心地よさと言えば良いのだろうか?それとも、ただ単に苦しみだろうか?淡い苦しみだろうか?的確な表現が中々思いつかない。ただの苦しみではない。それだけは確かだ。心地よさもあるような気がするが、それを果たして心地よさを表現してしまって良いのかがわからない。淡い苦しみ。それが一番近しい表現のような気がする。ふわふわとある程度呼吸のできる水の中で、上に揺られ下に揺られ、海流に乗ってどこか知らない場所へ。キラキラと輝く水の眩しさに目を細め、美しさを感じるが、やはり息はしにくい。ただ、揺られていく。その揺れの苦しさとともに自分は水に溶けていく…。
そんな心地だった。
結局、国近は十五分間何も話さないまま、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。その音を聞くと、国近は、突然眠りから覚めた人のようにピクリと身を動かして、田上の方を見ると、「長い時間付き合わしてすまないな…」と言った。それから「時間があるんだったら、もうちょっと待っててくれないか?」と付け加えた。田上は、タキオンの事を頭に上らせながら、コーヒーを飲み「いいよ」と答えた。答えた所で、国近は何も話さないのでやることはなかった。
ぼーっとしている内にタキオンが来た。マテリアルにも場所は伝えていなかったので、勘でここまで来たのだろう。ただ、休み時間も後半分を切ったところだった。
「居た居た」と言って、タキオンは近づいてきた。そして、タキオンの声に多少驚いて振り向いた田上の方に手を置くと、その顔を覗き込みながら「男二人がこんなところで何をやっているんだい?」と聞いてきた。マテリアルには、「友人の相談に乗りに行ってくる」と伝えていたので、タキオンも田上たちが何をしているかは知っているはずだ。ともかく、田上はタキオンに驚いていたのと、今まで一言も話していなかったのとで、咄嗟に声が出てこなかった。すると、タキオンは田上の横に座って、同じように国近を見つめた。国近は、先程と同じように木の葉の影を見つめていたが、その表情は先程よりも険しくなっていた。タキオンは、すぐには何も話さなかった。てっきり、田上は、タキオンなら全て知っていて、何もかもに答えを出してくれると思っていのたのだが、国近に気軽に話しかけられるわけでもないようで、暫く言葉が詰まったように国近を見つめた後、田上の方に肩を寄せてきた。ここで、晴れて、田上の望みは叶った。田上は、こんな陰気な男と二人きりではなく、タキオンと共に居たかった。その望みが叶って、田上は嬉しくなった。今、彼女のことで悩んでいる国近に気遣いを見せる素振りもなく、ただタキオンに肩を寄せられると嬉しそうにニヤリと笑ってしまった。その笑いは、目の前に国近に申し訳ないと思ってすぐに引っ込めたが、嬉しさは胸の内にくすぶっていた。
タキオンは、暫く田上の肩に自分の身を寄せて、頭を擦り付けた後に、静かな声でこう言った。
「何を話してたんだい?」
これは田上に向けられた内緒話のようだったが、内緒話にしては声が大きすぎた。確実に、国近の耳には届いてしまっただろう。そして、田上も今答えてしまえば、確実に国近に聞こえてしまう。声を出すのが憚られたから、田上は、首を横に振ってそれに答えた。すると、タキオンは田上の顔を見つめて固まったが、次に、こう言った。これは、もっと低まった声だった。
「私が触れちゃ駄目な話かい?」
田上も別にタキオンが触れちゃいけない話だとも思わなかったので、相変わらず、声は出さずに首を傾げるだけして答えた。すると、国近がゆっくりを起き上がって、座っている二人を見下ろした。二人は、国近が何をするのだろうと思って、その顔を見上げた。国近は、ゆっくりとタキオンの顔を見ると言った。
「アグネスさんは、田上と付き合ってるんでしょ?」
「ああ」
タキオンは、返答の仕方に注意を払いながらそう答えた。すると、国近は田上の方を見た。
「上手くやっているのか?」
どうも彼女の前では答えづらかったので、田上は愛想笑いをしながらタキオンの顔を見て、「どうかな?」と言った。タキオンは、国近の顔を慎重に伺いながら、「百二十%上手くやっているよ」と答えた。国近は、タキオンからその答えを聞くと、多少の笑みを浮かべながら田上の方を見た。
「お前は、…未来をどう思ってる?」
田上は、地面の草に目を落とした。その傍らには、空のコーヒー缶がある。もう一つのまだ入っているコーヒー缶は、田上の手に握られていた。田上は、草を見つめながらどう答えようか思い悩んだ。国近は、タキオンと結婚するか否かについて聞いている。それが明確に、田上には分かる。分かりはするが、どう答えれば良いのか分からない。このまま順当に行けば、田上とタキオンは結婚する。順当に行かなければ、結婚していない。そんな未来は、田上には嫌だった。できれば、この愛しい小さな人と結婚していたい。ウエディングドレスを着たタキオンを、抱き上げながらくるくると回ってみたい。しかし、言うのは憚られる。国近は、今重要な選択をさせようとしてきているが、答えはもう既にタキオンと十分に話し合った後だ。今更国近如きがどう左右できるわけでもない。それでも、言葉に出すのは億劫だった。今こうやって高圧的に眺めてくる国近の目に屈して、社会の圧に屈して、全ての責任を放棄したい。重くのしかかるタキオンという小さく愛しい暗闇を、社会のせいにしながら払い除けてしまいたい。
田上が、そのような余計な事を考えていると、不意に手に触れてくるものがあった。タキオンの指だ。その指は田上の手を捉えて、スルスルと絡ませてきた。そして、田上が顔を上げると、その赤い瞳が田上の目を捉えた。何も言おうとはしないが、田上に問いかけるように長いまつ毛を揺らしてまばたきをしている。田上は、その女を見ると、言わねばならないと思った。自分が言わないで、代わりに彼女に言わせるのではあまりにももったいない。そう思って、田上はタキオンの手を少し怯えながらもぎゅっと掴むと、国近に向かってこう言った。
「順当に行けば、…結婚するらしい」
どうも不安な調子ではあったが、なんとか言い切った。言い切る為に甚大な力を使ったような気がしたので、その後は、少し力が抜けて――本当にこれを言ってよかったのか、自分の首を絞める事態になっていないかを頭の中で色々と考えた。すると、国近は立ち上がってこう言った。
「どうも敵わないな」
その声の調子にはもう諦めた雰囲気があった。国近は、それを顔に笑みを浮かべながら言った。そして、そのままスタスタと歩いていった。その直後に、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。タキオンと田上は顔を見合わせた。今の言葉の意味が、分かるようで分からなかった。また、簡単なようで難しかったかもしれない。敵わないことには敵わないだろうが、別に諦めるほど敵わないものでも無いだろうと思った。国近がこの言葉を発した意味が分からなかったのかもしれない。二人は、順当に行けばこのまま幸せになれそうだった。タキオンが女子高生であるという所は、まだ田上が微妙に気になるところではあるのだが、どちらにしろ、それはタキオンのキスで一蹴されてしまいそうなものだった。
二人は目を見合わせた。その後に、タキオンが首を傾げてこう言った。
「あの人は、私達の何に敵わないんだい?」
「さぁ?」
そして、遠くの角を曲がりゆく国近の背中を見つめた。それを見つめると、田上は少し不安になった。何か重大な事を見落としているんじゃないかという気がした。何か重大な事が自分たちの目の前にはあって、国近はそれに気がついて「敵わないな」と言った。筋は通っていないが、田上にはそのような気がした。とにかく、何か田上の胸に不安が残った。それが、国近と関係しているような気がする。または、国近に関連する出来事と関係しているような気がする。国近の消えていく背中を見ていると、そのような気がした。
田上は、不安そうな面持ちでタキオンの事を見た。タキオンも同じように国近の背中を見ていたが、その背が消えると田上の顔を見た。すっかり、――自分は圭一君の彼女だ、という顔をしている。田上は、その顔を迷うように見つめながらこう言った。
「本当に結婚するのか?」
「…結婚しないのかい?」
タキオンは不思議そうな顔でそう言った。すっかり、結婚することを当たり前のことだと思っている。田上は、その問いかけに再び迷いを抱かされて、タキオンの胸の辺りを見るともなく見た。意識は自分の中に入っているので、別に、胸を見たくて見ているわけではない。それでも、タキオンは自分の胸ばかり見つめられていると少し居心地が悪くなって、「圭一君?」と田上に呼びかけた。田上は、その声で意識を戻して、タキオンの顔を見た。タキオンの顔を見た所で、結婚に対する迷いは消えない。迷いはあるが、どうせ結婚するのだろうと思う。田上は、結婚についての真偽や善悪が分からなくなった。もしかしたら、結婚にそんなことは関係ないのかもしれない。ただ、男と女が出会ったと言うだけで、結婚というものはなされていくだけなのかもしれない。例え、女子高生にでも愛を抱けばそうなるのかもしれない。そう思うと、田上は、いつものように自分の気持ち悪さと無責任さに嫌になった。
男子高生が女子高生と結婚すると決意した所であまり変わらないのかもしれない。男子高生が、将来に対する明確な算段を抱いていれば、そのように結婚すればいいだろう。子供も産めばいいだろう。若いカップルらしく、楽しく笑い合えばいいだろう。結婚すればいいだろう。
田上は、自分を男子高生であると思った。そして、タキオンを女子高生であると思った。自分の年齢は考えなかった。それが良いことなのかは分からない。しかし、心境として、男子高生とあまり変わらないと思った。この女性と付き合いたいと思った。向こうも付き合いたいと言ってくれた。なら、年齢など考える必要もない。しかし、どうにもそれが気にかかるのは田上が二十五歳だからだ。
田上は、目の前で自分と同じように、ベンチの前の芝生に座っているこの小さな女性を愛おしいと感じた。