タキオンは、授業に遅れたが、本人は気にしていなかった。田上にあのベンチの前でキスを一度せがむと、その後は手を繋いでゆっくりと校舎の中へ入っていった。そして、別れるべき所で別れると、「次の休みに行くからね」と言った。田上は、微笑みながら小さく手を振り返した。
トレーナー室に帰ると、今までしていなかった仕事をそれなりにした。そして、それが一段落つくと、マテリアルがこう言った。
「実際、お見合いってどんなもんでしょうね?」
田上もしたことがないので、「知りませんね」と答えた。それでも、マテリアルは、今後への不安を払拭したいらしくこう言った。
「予想でいいです。イメージでいいので、こんなもんって言ってみてもらえませんか?」
「…ええ?……正装はしますよね」
「着物ですかね?」
「着物かどうかは、…また別なんじゃないんですか?……あと、多分、食事ですよね?それなりに情報交換をするんじゃないんですか?」
「親って同席するんですかね?」
「ああ…、どうでしょうね?親…。俺のイメージだと、漫画とかでは親も同席しているのかな…?」
「でも、邪魔じゃないですか?」
「まぁ、邪魔ですよね。盛り上がれるかもしれない話で盛り上がれもしなくなるでしょうし」
「じゃあ、親同伴ってないんですかね?」
「まぁ、あってもなくてもいいんじゃないですか?」
田上が分からないなりに適当に返事をすると、マテリアルは、はぁとため息を吐いて自分の手のひらを見つめた。それから、また田上の方を見て言った。
「実際、…結婚できそうですかね?」
「え?」
「結婚できそうですか?私って」
「…できないわけじゃないんじゃないですか?」
「…何人にも振られたのに?」
「…んー」と田上は困ってしまった。ここまで赤裸々に話されると、流石の田上でも困ってしまう。本来なら、人の恋愛事など指導できる立場にないのに、タキオンと付き合ってしまったばっかりに、こういう話を一日に二度もされる。尤も、マテリアルはこういう話が好みだから、田上がタキオンと付き合っていようがいまいが、この話は持ちかけてきていたかもしれない。しかし、答えられないこともなさそうなので、田上はとりあえずこう言った。
「その内良い人が見つかるんじゃないですか?」
「その内ですかー?」とマテリアルが残念そうな声を出した。その内が嫌なら、今すぐ適当に動き出せばいいのに。そう思ったが、田上はそれは表には出さなかった。
「その内じゃ駄目ですか?」
「駄目ですよぉ。二十七になって親に見合いさせられるくらいなら、今すぐの方がいいじゃないですか」
「二十七って言っても、マテリアルさん、今、…二十二?三?」
「二十三です」
「…あれ?誕生日って…」
「ええ、四月二十です」
「あれ、……何も言ってませんよね?」
「ええ、言ってません」
マテリアルは平気そうだったが、その逆に田上は平気そうではなくなっていた。部下の誕生日を忘れるとはなんということだろうか?そのように考える重大さが田上にはあったのだが、マテリアルは、別にどうでも良さそうな顔をしていた。それでも、田上は申し訳なくなって「ああ、すみません」と頭を下げた。
「いえいえ、別に気になさらないでも、誕生日なんて一つ年をとるだけですから祝わないでくれても良いんですよ」
「いや、…でも、タキオンの誕生日はネックレスを贈ってあげたのに…」
「それは、彼女だからじゃないですか。私は、ネックレスなんていりませんよ。それに、次の日はカラオケだったので、十分に誕生日プレゼントでしたよ」
「ああ、そうか!そこら辺は、カラオケだったりタキオンだったりで頭が一杯一杯だったのか!」
「まぁ、忘れちゃったもんはしょうがないですね。来年はせめて質のいい消しゴムでもくれてやってください。 それで、私の年齢がなんですか?」
「え?…ああ、二十三?で、……二十七にお見合いでしょ?…そしたら、四年ある。四年もあったら、人ってどんな風になっているか分かりませんよ?…だって、小学六年生が、高一になっていてもおかしくないんですからね。四年は長いですよ」
「じゃあ、その間に私も彼氏ができますかね?」
「そりゃあ、俺には責任は持てません」
「そりゃあ、田上トレーナーには持てないでしょうね。赤の他人なんですから。それでも、部下なんですから、質のいい男の斡旋…いや、それはいいです。なにか…何かありませんかね?」
「…クラブ?」
「クラブってなんですか?」
「俺も知りません」
「私も知りません。無責任です」
「…なんか、ワイワイするところでしょう?」
「田上トレーナーは誘われたこと無いんですか?仮にも、GⅠトレーナーでしょう?」
「GⅠトレーナーでも付き合いが悪かったら誘われませんよ。今でもやってることと言ったら、友達とつるむくらいしかありませんよ」
「先程相談に乗りに行ったご友人ってどんな方なんですか?」
マテリアルは、貪欲に食いついてきたが、残念ながら相手は彼女持ちだ。しかし、田上と同じように複雑でもある。一言で表してしまうには、田上の心情的に重かった。一応、国近も秘密にしたがっているようだったので、余計なことは言わずにこう答えた。
「明るいやつだけど、最近は彼女のことで悩んでるらしい」
「へぇ、彼女持ちですか。この学園にそんな人物がいるとは知りませんでした」
「ですよね。この学園の人たち、揃いも揃って浮いた話が流れてこないから、僕も不思議です」
「昨今じゃ、草食系男子が増加してるだの、未婚率が高まっているだのと言いますからね。こういうところなのかもしれません」
田上は、急に始まった真面目な話に戸惑いつつも、そのことに思いを巡らした。確かに、昨今じゃ晩婚化という言葉も度々聞く。若者が結婚しにくい立場にいるのか、若者同士の出会いがないのか、金が無いのか、なんなのか…。田上は専門家じゃないからそこの所は分からなかった。ただ、この学園に居るのであれば、金が無いなんてことはあまりないだろう。この学園に居る以上、少なくとも金だけは貰っているはずだ。だとすれば、出会いがないのか? マテリアルは、出会いがないことを嘆いているような気がするが、あれは、ただ単に、自分の受動的な態度を嘆くことによって鬱憤を晴らしているだけだろう。それに、共有スペースの壁にひっそりとある掲示板には、サークルメンバーの募集やイベントのボランティアへの参加の募集の張り紙もある。その中には、若者の出会いの場を増やすためのイベントの告知の張り紙もある。これがあるなら出会いはあるはずなのだろうが、不思議とトレセン学園内のどこそこで手を繋いで歩いている男女を見たことがない。タキオンと田上くらいだ。そう考えると、田上も少々恥ずかしくなった。今まで思ってた以上に自分たちは目立っていたのではないか?それに、フジさんからは、付き合っているという噂を流してあげたという、まぁ、その場では有り難いことかもしれないことをされた。
しかし、後になってみると、これはどうも恥ずかしいことを世間に広められた。言ってしまえば、タキオンと田上は、この学園でただ唯一公然と付き合っている人たちということになる。奇異の目で見つめられることは間違いないだろう。――トレセン学園の人たちは、一体どこで付き合っているんだろう?と思った。田上たちのように公然と付き合っていない人たちがあまりにも多すぎる。いや、もしかしたら、本当に付き合っていないのかもしれない。付き合っているのならば、田上たちのようにもう少し公然と手を繋いでも良いような気がする。若い二人が出会うなら、若気の至りもあるだろう。――タキオンと付き合ったせいか?とも思ったが、やはり、若いのだからもう少し油断してても良いはずだ。いくら頭のいいトレーナーが集う場所と言えど、本人たちも若さには敵わないだろう。
――それとも俺がバカなだけなのか?と思いつつ、田上は、今何を話していたんだろうと考えを遡らせた。すると、最後に話したのは草食系男子とかだから、自分の考えは少し横の方にズレて来始めていたところだった。田上は、それでも少しの間、タキオンと自分の関係について思いを巡らせた。
相変わらず、女子高生と付き合っているという問題について、手の打ちどころがないからどうしようもない。――俺は、本当にバカなのかもしれない、と思った。バカならバカで本望だ。自分がバカであるなら、世間なんて気にせずにバカらしくタキオンと結婚することができる。しかし、バカはバカでも思い悩むタイプのバカだったから、結局堂々巡りになる。――なにかそういう本でも買ってみようかな、と思った。純文学なんてたくさんあるだろうから、その中には、女子高生と付き合うことで悩んでいる大人をテーマにした本もあるだろう。ただ、――面白いものかどうか…、となった。純文学の中にも高松信夫のような面白い本はあるが、大して売れていない本はやっぱり面白くない。面白くない本は、やっぱり、純文学に必要な人の心のリアルさが足りていないだろう、と田上は思っていた。そして、そういう本を読んでも結局、自分の心は満足できないだろうと思うと、買う気にはなれなかった。田上も大概、マテリアルと似たり寄ったりな人間ではあった。
田上は、自分の考えから目覚めるとマテリアルにこう言った。
「なにか、…今度もイベントがあるそうですけど、それには出ないんですか?」
「イベント?」
「あの、…合コンとも違うのかな?やったこと無いのであんまり分からないですが、とにかく、まぁ、出会いを見つけましょう的なイベントがあるらしいですよ。女子寮の掲示板にもないんですか?」
「掲示板?」
「あの…玄関を通り過ぎた所にありませんかね?」
「………ああ、ありますね。私、あそこは見てませんでした」
「ああいう所に、サークルだったり、なんかイベントの告知もありますよ。感謝祭のボランティアの募集なんかもしてましたし」
「参加するんですか?」
「…俺はしたことありません」
「ゲームが趣味なんでしょう?ゲームサークルとか入らないんですか?」
「俺も、よく確認はしてないので、どういうクラブとかサークルとかがあるのかも分かりませんよ」
「そんなのに参加する人なんて居るんですかねぇ?」
「…まぁ、…出会いたい人なんかは参加するんじゃないですか? マテリアルさんも、別に出会い目的の場じゃなくても、サークルなんかに入ってみたらどうですか?」
「…いやぁ、ガツガツした人は嫌いですよ」
「ガツガツした人?」
「結婚したい!って人です」
「マテリアルさんがそうなんじゃないですか?」と田上は、半笑いで言った。
「いや、…私もそうかもしれないですけど、言ってしまえば、草食系女子です。私は、草は草同士で仲良くしたいんです。肉食にとって食われるのは嫌です」
「でも、肉食の人が悪い人とは限らないでしょう?」
「限らないかもしれませんが、私の肌には合いません」
「でも、草食系の人だって、悪い人は存分に居ますよ。草食系男子が大人しいからって、性格が良いとは限りませんよ」
「そりゃあ、言ってしまえばそうなるでしょうけど、聞いてませんでしたかね? 私は、インスタント理想の男の人がほしいんですよ」
「じゃあ、もうソシャゲとかなんとかやってみたらどうです?キャラクターだったら、インスタント理想の男の人じゃないですか?草食系男子で性格が良い人」
「それじゃあ嫌なんですよねー。そうなってしまうとオタクじゃないですか」
「オタクは嫌なんですか?」
「オタクって、…ねぇ?女版オタクってことでしょう?」
「気持ち悪いですか?」
「まぁ、気持ち悪いでしょう?」
田上は、高校時代に、ゲームの為にウマッターをやっていた手前、女のオタクがどういうものかなんとなく聞きかじっていたが、今のマテリアルとあんまり変わらないもののように思う。オタクと言っても千差万別なのは変わらないから、気持ち悪いのも居れば、普通の人もいる。ただ、そういう事をここで指摘して、マテリアルと険悪になっても仕方がないので、田上はこう話を逸らした。
「じゃあ、インスタント理想の男の人はどうするんですか?」
「それが問題ですよ。 あー、どこかにそういう人が居ませんかねぇ?」
「それを探しに行ったら良いんじゃないですか?」
「だから、私の話を聞いてましたか?インスタント理想の男の人なんですよ。台所で手軽に作れるくらいの男の人がいいんですよ」
そう言われると、田上もなんだかアホらしくなった。台所で自分の恋人が作れたら、今頃、晩婚化も未婚率の上昇も離婚問題も解決している。できないから、そうなっているのだ。景気が悪いなどの社会不安があれば、結婚もしづらくなるのだろうが、個人として目の前でただ不満だけを垂れ流されれば、何も生えてこない不毛の地を眺めているのと同じだ。もう既に恋人ができてしまった田上には、アホらしいこととしか思えなかった。不満を垂れ流すなら、まず行動してみれば良い。そうは言っても、行動するのが億劫だから、マテリアルは不満を垂れ流すしかなかった。
それからは仕事をした。二人共、今まで話していたことは一旦忘れることにして、適当に情報のやり取りをし、担当の二人のことを話し合った。そして、次にスカウトする子の事も話し合った。マテリアルが、「また次の選抜レースでもスカウトするんですよね?」と言ったから、田上は頷いて、マテリアルが色々聞いてくるのに返事をした。
そして、三時間目の休みになった。タキオンが再びやってきた。一度、田上の前にやってきて、なにか言うことでもあるように立ち止まったのだが、「まぁ、いいか」と言うと、長机から椅子を引っ張ってきて、田上の隣に置いた。そして、隣からパソコンを覗き込むと「仕事は順調かい?」と言った。順調といえばそうかもしれないが、一番順調じゃないのは、田上の隣に居るアグネスタキオンだ。そのことが、一度喉のところまで出かかったが、田上はそれをぐっと飲み込んで「順調だよ」と答えた。タキオンは、田上が言い淀んだ一瞬の間に気がついたようだったが、それを気には留めなかった。ただ「ふぅん」と頷いて、田上の隣りに居続けた。
田上もタキオンが隣に居られると集中しづらいので手を止めようとしたが、タキオンには「手を止めないでくれ」と言われた。なんでも「仕事をしている恋人を隣で見ていたい」らしい。田上はこれには笑ったが、タキオンの言う通りにもできなかった。もう休憩に本腰を入れようと思っていたところなので、脳が休憩に傾いている。この休憩をなくしては、次の仕事にも移ることができなさそうなので、少し不満そうな顔をしたタキオンに断りを入れつつ、田上はタキオンの相手をした。
タキオンは、あまり話さなかった。田上の顔をじっと見つめることはあっても、見つめるばかりで何も言おうとはしない。田上が「何?」と聞いても、「何にもないよ」と言って、田上の顔を見つめ続ける。田上もそうされるとあんまり居心地が良くなかったから、最近整理した本棚から適当な本をとると、タキオンの隣で本を読むことに集中しようとした。それでもタキオンは見つめてくるし、田上もタキオンの視線が気になる。田上は、やっぱり本を読むのをやめてタキオンの相手をしようとした。しかし、相手をするには手応えがない。田上もこの女をどうしようかと思って見つめていると、不意に、タキオンが田上の思うほど小さくないことに気がついた。勿論、抱きしめがいのある小さな肩ではある。田上よりも身長は低いが、田上がタキオンを女子高生と思ったほど小さくはない。十分に大人として付き合えるくらいの身長だ。むしろ、なんだか段々と大きくなっていくような気がする。これは気の所為ではあるが、大きいと思ってみると、確かに大きい。大人の身長だ。
田上は、このふわふわとした自分の認識に、少しの間苛まれた。タキオンが大きいの小さいのか分からない。つい、一時間ほど前までは、小さいと思っていた。小さい女性だった。そして、今目の前で見つめてきているタキオンは、少し大きい。これは、別に町中で手を繋いで歩いていても、成人と手を繋いで歩いていると間違われないほどではないかと思う。顔もしっかりしている。童顔と言うほど童顔でもない。紛れもない女性だ。すると、当然のようにここで女子高生という単語が田上の頭の中で再生された。田上は、どうもその単語を考えるのが嫌だったせいか、それとも、タキオンを女性として見始めてきたせいか、女子高生という単語は、それほど強い効力を発揮しなかった。ただ、浮かんでは消え、浮かんでは消えて、いつの間にか、タキオンの女性という部分に取り込まれていった。それでも、タキオンを女性と考えれば、必然的に田上の良心の呵責として、女子高生という単語が再生されるようになっているので、どうしようもあるはずがなかった。
田上は、目の前のタキオンの背が高くなると同時に、タキオンを自分と対等の存在であるかのように感じた。むしろ、それよりも頼りがいのある存在のように感じた。自分よりしっかりとした女性。自分ができないことを簡単にやってのけて、その上、手を引っ張ってくれる女性のように感じた。
田上はそれに、特段惨めさや不甲斐なさなどの感情を抱かなかった。かと言って、嬉しいかと問われれば、そうでもない。もしかしたら、不甲斐ないのかもしれないとも思ったが、表立って不甲斐なさを感じることはない。すると、嬉しいのかもしれない。
田上の心はどっちつかずだったため、果たして、タキオンの女性らしさに喜びを感じれるのかどうか怪しいところだった。
タキオンは相変わらず何も話さなかった。タキオンの姿形を見て思案を重ねている田上を、嬉しそうな目でじっと見ていた。それ以外には本当に何もしそうにない。傍で見ているマテリアルは、この二人が黙ったままで特にこれといったイチャつきもしないで、ただ座っているのを訝しそうな不思議そうな目で見つめていた。
やがて、チャイムが鳴った。タキオンも田上もすっかり時間の事を忘れていた。タキオンは、「もう行かなきゃ」と言って田上の頬にキスをしようとしたが、田上はそれを避けた。タキオンが田上の事を不思議そうな目で見つめ返すと、田上もタキオンを不思議そうな目で見つめ返した。そして、二人の間に一種の混乱が訪れると、田上が口を開いた。
「頬は……」
「頬はダメかい?」
「いや、そうじゃないんだけど、今の一瞬を取り逃すと、恥ずかしいな」
「恥ずかしいんなら避けなきゃ良かったじゃないか」
「元々、頬にされるのに照れがあるから避けたんだよ。次やる時は、背後から忍び寄ってやれ。授業に遅れてるから、早く行きな。今は、ほっぺはダメ」
「分かった」
タキオンが、そうニヤリと笑って頷くと、唐突に田上の手を取って、その指に唇を振れさせた。田上がびっくりする間もないくらないに、タキオンはすぐに田上の手を放すと、「ばいばい」と言って、トレーナー室から出ていった。田上は、それに「ばいばい」と返すしかなかった。
タキオンが部屋から出ていくと、マテリアルがからかいの一歩手前のような表情で、目だけを動かして田上を見た。そして、こう言った。
「タキオンさんからのキスは嬉しいですか?」
「え?」
「タキオンさんからのキスは嬉しいですか?」
二度も繰り返せば、流石に田上でも聞こえてしまう。そして、答えたくない質問だ。田上は、これにどう答えようか一瞬迷った後に、こう言った。
「嬉しくないことはないです」
「正直なもんですね。つい一ヶ月前まではあんなに切れ散らかしていたのに」
「……あんまり触れないでください…」
田上は、悲しそうな誤魔化し笑いをした。
「いや、これは触れないでおくのは勿体ないですよ。あなた、タキオンさんに散々酷い言葉浴びせたんですよ?」
「…はい、反省しています」と言いつつも田上は少し苛々としていた。これは、当人同士でもう解決している案件のはずだった。それを、今更マテリアルが口を挟んできてとやかく言われると、流石の田上でも苛々してしまう。勿論、悪いことをしたとは思っているが、当人同士でもないのに、こんなにねちっこく言わなくてもいいだろう。田上のその思いを察したのか、それとも、マテリアルの良識が働いたのか、マテリアルはすぐに表情を固くさせると「今のは言い過ぎましたね。…ごめんなさい」と言った。田上は、それに「別に問題ないですよ」と優しく答えた。すると、マテリアルは表情を少し和らげて、こう言った。
「でも、タキオンさんとのキスは嬉しいでしょう?」
「…んん。…何が言いたいんですか?」
「いや、…いや、…実際どうですか?恋人がいるって。どんなもんですか?」
「……なんと答えれば良いんでしょうね」と田上も返答に窮して、誤魔化し笑いをしながらそう言った。
「なんと答えてもいいです。恋人って良いですか?悪いですか?」
「…まぁ、無いよりかはあったほうが良いかもしれませんね」
「ふ~ん?…タキオンさんは好きですか?」
「……そんな事俺に聞いて楽しいですか?」
「こっちは恋人欲しいから真剣ですよ?」
「恋人欲しいんだったら聞く以外にすることがあるんじゃないですか?」
「まず、聞いてみるんです。それから、考えるんです。恋人があるメリット、デメリットを」
「そもそも、マテリアルさんは付き合った事があるんじゃないですか?」
「あなた方のように真剣には付き合ったことがありません。友達の延長線上みたいなもんです」
「…好きじゃないんですか?」
「…どうでしょうね?……そんな事聞きたいですか?」
「それはこっちのセリフです」と田上が返すと、マテリアルは、してやられたという顔をした。
「それを言われちゃ、こっちも黙るしかありませんが、私は興味があるんです。……結局、恋人ってどのようにしてあるべきものなんですか?」
「どのように?」
「…なんのために、とか、…恋人はいちゃいちゃするべきだ、とか」
「……俺には、…あんまりよくわからないですけどね…」
田上がそう言うと、マテリアルも一旦「そうですか…」と言って引き下がったが、一度、自分の手の平を見つめ続けた後に、また田上の方を向いてこう言った。
「恋人って…、恋人って、…結局、……どうなんでしょうね?…二人で居るのって楽しいですか?」
「…まぁ、楽しくないことはないです」
「…恋人を作ったら世界が変わると思いますか?」
田上は、これには少し返答の時間を要した。今の田上であれば、「変わる」と言っていたかもしれないが、マテリアルの境遇を考えてみれば、簡単に変わると言えなさそうでもあった。なにしろ、この美人な女性が恋人ができて振られているというのだから、一概に変わるとも言えないだろう。マテリアルが、こうして田上に聞いてきているということは、今までの交際の中でもあんまり変わった実感を得なかったのかもしれない。以前、タキオンとマテリアルの『本気の恋』談義を事の成り行きで聞いたことがある。どうやら、マテリアル自身の感覚によると、本気の恋は無いようだった。そういうマテリアルにとって、本気の恋がなんとあるかを説明するのは、田上も骨が折れそうだったし、本気の恋が始まりじゃないにしても、付き合って子供が産めるならそれでも良いのじゃないかと思っていた。
ただ、マテリアルは恋人を作って世界を変えたいらしい。確かに、タキオンと付き合って田上の世界は大きく変わった。いい方向に変わったのかと言えば、そうではないかもしれない。それでも、男女として二人で居るというのは、居心地のいいものであったことは間違いない。その男女というものをマテリアルが知らなければならない。いや、もしかしたら知っているかもしれないが、彼女の境遇がどうにも複雑だ。付き合った男にことごとく振られるのなら、マテリアルに何か問題があるのではないかと疑ってしまう。田上は、記憶の底からこの言葉を思い出した。
――付き合った男ことごとくヘタレで、荷が重いとか…。
あんまり詳しくは思い出せなかったが、そのようなことだったと思う。すると、マテリアルは重い女なのだろうか?田上としては、今マテリアルを部下として見ている限り、そんなに重さがあるようには見えない。タキオンのほうがよっぽど重いくらいだ。そして、――そもそも、重いとは何なのか?について考えた。タキオンは束縛癖がある。田上を彼氏として傍に留めておきたいがばかりに、そういうことをしてしまう。今はどうなっているのか分からない。タキオンの静岡の家に帰省に行ったときから、大分大人しくなったように思う。
ゲームのキャラクターなどに『メンヘラ』というものがある。今思えば、タキオンのそういう束縛癖もメンヘラの一部じゃないかと思う。そういうキャラクターのいるジャンルにあまり触れてこなかったから、田上はあまり分からなかったが、ぱっと思いつくメンヘラの行動は、彼氏が食べる料理に自分の血を混ぜる、だ。しかし、これは流石にフィクションだろう。それか、余程余程な人だ。マテリアルは、料理に血を混ぜるような人には見えない。それから、田上は、もっとメンヘラのことを思い出そうとしたが、あんまり出てこない。流石のマテリアルも彼氏を監禁したりしないだろうし、虐待もしないだろう。とすれば、彼氏になぜ重いと言わせたのか…。
田上は、マテリアルの方をぼんやりと見つめながら考えた。マテリアルは、まだ先程の「世界は変わるか?」の問いに対して返答を待っているようではあるが、田上が考え込んでいるとわかっているので返事の催促はしなかった。代わりに、暇潰しのために、机を指先でトントトトンと軽く叩いていた。
田上はその音を聞きながら、また自分の机の方に目を戻した。少々古びているのは、田上がやったことではなく、霧島の時からあるものだ。何年前からあるのか分からないので、霧島がこんなに古びさせたのかも分からない。田上は、その中の剥がれかけた透明のシールを見つめながら、もっと深く考えようとした。しかし、どうも二人の間に愛がないのでは、世界が変わるとは言い難い。お見合いで、素性をほとんど知らない二人が付き合ったとして、後で仲良くなるとしても、初めのうちはあんまり世界が変わらないばかりか、少し狭くなるかもしれないくらいなものだ。男女としてお互いを見ているのならば、触れ合うことは楽しい。世界は確実に変わる。しかし、急拵えで作ったものであれば、そんなにすぐには変わらないだろう。
田上は、再びマテリアルの方を見た。今考えたことをどうやってまとめて、彼女に伝えようかと思ったからだ。マテリアルも、いよいよ田上の話が始まりそうだと思って、田上の方を見た。そして、その数秒後に田上は言った。
「世界は変わらないんじゃないですか?」
「…なぜ?田上トレーナーは、タキオンさんと付き合って楽しくなったでしょう?」
「そりゃあ、楽しくなりましたが、マテリアルさんも今から赤の他人と付き合ったって、世界が変わると思いますか?」
「…変わるんじゃないですか?」とマテリアルが、適当なことを言った。
「変わるんなら変わるで結構ですが、俺は、そんな簡単には変わらないと思いますね。多分、マテリアルさんが…」
そこで、田上が言葉を切ってしまったので、マテリアルは「私がなんです?」と聞き返した。その答えを言うのは、田上にとって少々恥ずかしいことのように思えたが、中途半端にしてしまったものは仕方がないから、こう言い切った。
「マテリアルさんが、俺とタキオンみたいな恋人像を目指しているんだったら、俺とタキオンみたいな人を探さないといけないんじゃないですか?」
「…じゃあ、インスタント理想の男の人は居ないってことですか?」
「居たら俺とタキオンは出会ってません」
「いや、田上トレーナーはタキオンさんの理想の男の人じゃないですか」
「…どうでしょうね」と田上は、今まで自分がしてきたことを脳裏に蘇らせながらそう言った。マテリアルもそのことにすぐに気がついたが、謝りはしなかった。
「傷つけたにしろ傷つけてないにしろ、今、タキオンさんが幸せそうなんですから、あなたはタキオンさんの理想の人そのものですよ」
マテリアルから珍しく褒められて、少しの戸惑いを見せながら、田上は「ありがとうございます」と返事をした。
次にタキオンがトレーナー室に来ると、二人はカフェテリアに行くことになった。マテリアルは、少し遅れて行くらしかった。おそらく、恋人二人に気を遣ってのことだろう。それに対して、タキオンが「気を遣う必要はない」と言ったのだが、マテリアルは「特に一緒に昼食を食べたい訳では無い」と言って応じなかった。しかし、二人に気を遣ったであろうことは、田上にもタキオンにもなんとなく感じ取れていたので、少しの躊躇いが残ったまま二人でカフェテリアに行った。
カフェテリアに行けば、二人の躊躇いも忘れ去られた。その一つの要因として、マテリアルが平然と気を遣ってくれたことがあるだろう。あれで、機嫌が悪そうにされたら、田上たちも少しはマテリアルの状態について話し合ったのだが、機嫌が悪そうではなかったので、簡単にその気遣いも忘れることができた。
ただ、昼食を持って、二人で席に着いた時に、田上はこういう話をした。
「マテリアルさんは、彼氏が欲しいらしいよ」
「そうらしいね」とタキオンが、口にご飯を詰め込みながら言った。
「…松浦さんは駄目だったのかな?」
「どうだろうねぇ?…悪くない男だとは思うが、何がマテリアル君に気に入らなかったのか…」
「まぁ、ただ、松浦さんがマテリアルさんに気があるとは限らないけどね」
タキオンは、「そりゃそうだ」と言いながら、もう一口おかずを食べた。そして、口の中の食べ物を一通り喉の奥に流し込むとこう言った。
「しかし、二人きりの遊びに誘っておいて、気がないなんてこともないだろう?」
「二人きりなの?」
「二人じゃないのかな?あの様子から見るに、二人きりではあったようだが」
「ふぅん…。…じゃあ、…松浦さんで良くないか?」
「私もそう思うが、まぁ、マテリアル君に気がないんじゃしょうがない」
「…タキオンが居ない間にね…、…マテリアルさんには、この話を言うなよ?」
「ん?いいとも」
「タキオンが居ない間に、色々と相談されたんだよ。タキオンだから言うんだから、他の人には言うなよ?」
「分かってるよ」
「マテリアルさんは、どうも、俺たちの事が羨ましいんじゃないかと思うんだよね」
「…なぜ?」とタキオンは、余裕そうに首を傾げてみせた。
「――恋人ができたら世界は変わりますか?って聞かれたんだよ」
そこで、田上は、周りに自分たちの話に聞き耳を立てている人や当の本人が居ないか、警戒して周囲を見渡した。それから、居ないことを確認すると、またタキオンの方を向いて言った。
「恋人ができたら世界が変わるか?って聞くということは、変わってほしいな、と思っているってことだろ?」
「そうかもしれないね」
「すると、どうも世界が変わりそうにないと思ったから、松浦さんの事が嫌になったんじゃないか?」
その言葉にタキオンはう~んと一頻り悩んだ後、こう返した。
「別にそうとは限らないんじゃないか?マテリアル君があのお出かけから帰ってきた時は確か、何もなかった…と落ち込んでいた」
「だからそうじゃないのか?」
「んん?待てよ?……うん、君の言い分とあのお出かけの感想は若干食い違っている。別に、そうとは限らない。何もなかった…と落ち込むのは、実際に何もなかったからなんだ。何かあると思っていたら、何もなかった。…それで、違うのは、言うほど絶望してないってことだ。松浦トレーナーと何もなかったからと言って、世界の真理を知ったとは思っていない。それは、マテリアル君が君に――世界は変わるか?と聞いたのが証拠だ。やっぱり、まだなにかあるのかもしれないと思って、圭一君に一つ聞いてみたんだ」
「ああ、そうか」と田上は納得した声を出した。すると、その後にタキオンが言った。
「だから、松浦トレーナーが嫌になったのも、世界が変わりそうにないと思ったと言うより、世界が変われそうにないと思ったと言ったほうが正しいかもね」
田上は、「なるほど」と言って、タキオンの今の言葉を少し時間を要して飲み込んでいた。その様子に、タキオンは苦笑して「分からなかったかい?」と聞いたが、田上はあと少しで分かりそうだったので「いや」と言うと、考えるのを続けた。タキオンは、そんな田上を自分の恋人として見つめた。
田上は、暫くしてから「分かった分かった」と頷いた。
「ふむふむ。つまり、受動的だということだ。そして、タキオンが言いたかったのは、マテリアルさんが心の底の方で思っていたことだ。つまり、松浦さんの事が嫌になったという言葉がコインの表としてあって、自分たちの見えないコインの裏には、世界が変われそうにないと嘆いているということだ」
「そういうことだね」とタキオンは、正解を導き出した彼氏を見つめた。田上は、そのタキオンの背の高さと低さに不意に、再び気がついた。女子高生の割に背が高い。大人の女性の割に背が低い。その混乱の中で、どうにかタキオンの正体を突き止めてやろうと、田上の顔は一瞬にして、タキオンの顔を見たまま固まった。タキオンは、急に田上に見つめられ始めたのに戸惑って、少し目を泳がすと、「私の顔に何か付いているかい?」と聞いた。
田上はゆっくりと首を横に振った。しかし、タキオンの正体は未だ掴めないので、タキオンの顔を見つめたままである。タキオンは、その内に恥ずかしそうに田上の事を見つめ返しながら、「なんだい?」と少し強めに言った。これで、田上もいつまでもタキオンを見つめ続けているわけには行かないと思って、自分の目の前の料理の方に目を移した。だが、答えはしない。なので、タキオンも田上の気を引こうと、少し前に身を乗り出しながら田上の顔を見て言った。
「なんだい?何か考え事かい?」
「ん?…うん」
「何か私について思うことがあるのかい?」
「…いや?」と田上は否定したが、タキオンは自分の女子高生という肩書について田上がまた悩んでいるものじゃないかと思ったから、こう言った。
「いや?じゃないだろ。またなんだい?私が女子高生だということが気になるのかい?」
「いや、…そうじゃない」
「そうじゃない?」
タキオンは自分の考えの当てが外れて、少し驚いた声を出した。
「そうじゃないならなんなんだい?」
田上は、暫く黙った後にこう言った。
「…制服着てるくせに、やけに背が高いな、と思って」
「…百五十九だよ。この頃全然伸びなくなった」
「伸びないほうが良いよ」
「背が低いほうが好みかい?」
「いや、好みとかじゃない」
「ふむ。…まぁいいか。で、百五十九の背が高いとはどういうことかな?」
「…そんなに大したことじゃない」
「大したことじゃない話でも私は存分に聞いてみたいね。 やけに背が高く見えるのかい?」
「…いや、…お前は、この頃背が縮んでた」
「おやぁ?おかしいね。私の背は伸び縮みしないはずなのだが」
「おかしいだろ?そこが、俺にも妙なんだよ」
「妙なのか。…一体どういうことだろうね?」
そう聞かれて、田上も返事を躊躇った。自分の認識が、タキオンが子供か大人かという所で彷徨っているのは分かる。しかし、それを言うのは気が引ける。タキオンもあまり良い気はしないだろう。それで、「どうなんだろうね…」と呟くように言って、誤魔化そうとしたが、タキオンの方からこう言われた。
「まぁ、大方分かるよ。別に悪いことだけじゃない。…圭一君が、女子高生か大人かという所で悩んでいるだけなんだろ?」
「……まぁ、そんなところだ」
「そんなに警戒しなくても、私はそれくらいで怒りはしないよ?」
「…どうだかな…」と田上は自分の料理を食べながら適当に返事をした。そして、慌ててタキオンの方を見ると、「怒らないかもね」と言い直した。タキオンとして、むしろこっちのほうが癪に障ったが、特段、本気で怒るということもなく、ちょっと顔をしかめると言った。
「そんなに気を遣わないでくれよ。私は、君の信任厚い彼女だよ?」
「…いや、…まぁ、…信任は厚いほうが俺は嬉しい」
「信任を寄せるのは君じゃないか」とタキオンが少し笑った。
「そうだね」
「…で、もう話す気はないのかな?話はおしまいかい?」
「…聞きたいなら話しても良い」と田上は、自分の料理を箸でつくじりながら言った。
「聞きたいよ。やけに背が高い私はどうだい?君好みかい?」
「……お前も、ちょくちょく俺の好みを気にするな」
「圭一君の好みは調査しておかないといけないからね。彼女の努めさ」
「それで、俺が――百四十九センチの女が好きだ、なんて言ったら、お前は身長を十センチ縮めてくるのか?」
「流石にそれは難しいから、圭一君に、いかに百五十九センチという身長が素晴らしいのか説くしかないね」
「まぁ、丁度いいくらいの身長だと思ってるよ」
「実際、君は小柄な方が好きかい?自分より背の高いほうが好きかい?」
「どっちでもいいよ。それ聞いて、道行く背の高い人たちに嫉妬でも繰り返したいのか?」
「いいじゃないかぁ。君、私は好みかい?」
「そりゃあ、好みだからこうして付き合ってる」
田上がそう答えると、タキオンは、へへへと嬉しそうに笑った。
「良い彼氏だ。最高だね」
田上は少し恥ずかしそうに目を細めたあと、こう言った。
「お前は、…制服がそんなに似合わないな」
「おや、どうしてだい?」
「…やけに背が高いから」
「…あんまり良くわからないね」
「…お前は、…少し大人っぽいってことだよ」
「褒められているってことでいいのかな?」
「うん。女子高生として見られて、遠ざけられるよりマシだろ?」
「マシだ。 それじゃあ、制服が似合わないから私を見てたのかい?」
「まぁ、そんなところだ。もうちょっとタキオンに似合う制服はないのかな?」
「大人っぽい制服かい?」
「うん、それだったらもう少しマシなんだけどな」
「残念ながら規定だからね」
「授業は度々サボってたのに、規定は気にするのか?」
「まぁ、気にしてやろうじゃないか。一人だけ私服ってのも、悪目立ちするだけだからね」
「…ネックレスは綺麗だよ」
「そりゃあ、君が贈ってくれたんだ。綺麗に決まってる」
「そうだな」
田上は、そう言いながら残りの昼食を食べた。タキオンは、いつの間にか全て食べ終わってしまっていた。