昼食を食べ終わると、二人はいつものベンチに行った。ベンチに座った時には、昼休みの時間は二十分ほどだった。タキオンは、それに「短いなぁ」と田上の膝枕の上で零した。田上は、タキオンの顔を見つめながら、その髪をそっと撫でていた。
二人は、残りの時間を無為に過ごそうとした。この無為も後で思い返せば、思い出になっているのかもしれないが、今の二人にとっては、何かしたいのに何もできない若干の憂鬱の混じった無為な時間だった。その時間の内に、タキオンは、地面の草をちぎって、それをくるくる回して居た。脳みそでは、田上とキスでもしようか、ハグでもしようか、と考えているところだった。しかし、雰囲気はどうもそうではない。重くないのに重苦しく、タキオンの体をそれ以上動かせないようにしている物だった。
それでも、タキオンは、不意に思いついた話が、口から強引に飛び出でようとするのを後押しして、こう言った。
「圭一君は、…私の事を大人っぽいと思っているのかい?」
「うん」
田上の返事が一言だったので、話がテンポよく進まなかった。しかし、タキオンも田上と話していたいので、こう続けた。
「…私の事好きかい?」
「うん」
「……背が高く見えるのはどのくらい背が高く見えるんだい?君より背が高い?」
「…うーん…、元々今より十センチ低かった。それが、今、…二十センチ背が高くなったり、また十センチ背が低くなったりしてる」
「大人の私ってどう見える?」
「どう見える?」
「…背が高いと君好みかい?」
「…まぁ、好きだよ」
「大人の私は好きなのかい?」
「好きだよ。…かっこいい」
「かっこいい?」
タキオンは少し笑ってしまった。
「かっこいいってのは、…圭一君から見た私かい?」
「そう」
「…どういう所がかっこいい?私としては、そういう方面を狙っているつもりはなかったのだが」
「んー…、まぁ、…頼りがいがあると言うか何と言うか…」
「頼りがいがあるかな?」
タキオンは、ここ最近の自分の様子を顧みてそう言った。
「…んー、…言葉にするのが難しいけど、…言えば、――制服が似合ってない、ってのが全てを表してるね」
「…そんなに制服が似合ってないかい?」
「似合ってないよ。タキオンは、もうちょっと大人っぽいような気がする。…まぁ、どんな服を着てもいいけどね」
「つまり、制服は子供っぽいと?」
「まぁ、女子高生が着るんだから子供っぽいよ」
「…君は、私が圭一君の事を好きだと自覚する前から好きだったんだろ?その時は私のどこが好きだったんだい?」
「…まぁ、…大概、…良い所はたくさんあるよ」
「…そうかなぁ?…私はあんまり自分のことは良いとは思わないけどね?」
「そんなことないよ。…俺を好きでいるっていうのが凄いところだ」
「…でも、それは君が私の事を好きになった理由じゃないだろ?私が君とキスする前は何もなかったんだから」
「…んー、…まぁ、タキオンだから好きになったとしか言いようがないだろうね」
「まぁ、そんなところだろうね。君の一番身近な女性であるわけだ。…つまり、君はもうその時から私の事を女性として認識していたわけだ。子供ではなく女性として」
「それが、社会の倫理的には不味いことだから、お前を好きになっちゃいけなかったんだよ」
「そしたら、今はどうだい?こうして大人な私を膝枕できてよかったとは思わないかい?」
タキオンがそう聞くと、田上はその顔を上から覗き込みながら微笑んだ。
「お前には敵わないよ」
「敵ってもらっちゃ困るね。君は尻の下に敷いておかなきゃ、またいつ逃げ出すかわからない」
「もう逃げ出さないよ」と田上は少しだけ不満を声に滲ませながらそう言った。すると、タキオンも田上の目を見て言った。
「今のは冗談だよ。悪い冗談だったね。 まぁ、私もまだ君のことを少し束縛していたいってことさ。なにしろ、君に逃げ出してもらっちゃ寂しくて寂しくて困る。自分の半分がどここかに行ってしまったようなものなんだから」
「俺もそんなもんだよ」
田上がそう言うと、タキオンはやっと起き上がれるような気がして、上半身を起こした。そして、一つ一つの動作を丁寧にしながら、田上の膝の上に向かい合って座った。
「私は大人っぽいかい?」
「そういう所が子供っぽいよ」と田上はからかったが、これは、あまりタキオンのお気に召さなかった。眉を少し寄せるとこう言った。
「子供っぽいのは嫌いかい?」
「嫌いじゃないよ」
「でも、好きでもないだろ?」
「遊び心はあってもいいと思うよ?」
そう言うと、タキオンは少し目を逸らした。
「君の好みは、どうも判別しかねるな」
「そのネックレスは結構気に入ってる」
「ん?」
タキオンはそう言って、自分の胸にあるネックレスを見ようとしたが、これが角度の都合上中々見えないので、仕方なく田上を掴んでいた片方の腕を外して、持ち上げてみせた。それから、田上と自分の顔の間で黄色のてんとう虫のネックレスを見比べると、こう言った。
「私も君のセンスは嫌いじゃない」
「気に入ってる?」
「気に入ってなきゃ毎日つけないよ」
「…俺が上げたものだったら毎日つけそうだけど」
「…それは否めないね」
そうして、二人の間に一瞬の空白ができた。二人は、一時の間見つめ合ったが、タキオンがその空白を埋めるべく、唐突に顔を寄せてキスをした。田上は、仕方がなさそうに微笑みながら、そのキスを受け入れた。
そして、唇を離した時、タキオンは田上の顔を見ると、その顔にその顔以上の物を見出した。その正体は、今までのことだったり、これからのことだったりするかもしれないが、それ以外もあった。感謝もあったりするだろう。そして、堪らなく嬉しくなって、タキオンは田上のことをぎゅっと抱きしめながら、その耳元でこう言った。
「ああ、…君が好きだ」
田上もタキオンの体を抱きしめ返した。その体は、大きいのか小さいのか判別がつきにくかった。一瞬考えてみると、タキオンの重さがその体の大きさに見合ってないくらいに軽いので、もしかしたら、小さいのかもしれない。しかし、抱きしめた感じは、大人の女性だ。セーラー服の襟が少し邪魔なくらいだ。それ以外は、大人の女性と感じる。だが、田上の認識として、タキオンの大きさはまだ定かではない。やはり、どのようにとっても、タキオンの体の形状は定まらない。むしろ、顔も童顔になったり、大人びていたりするときもあるような気がする。
田上は、その覚束なさに少し不安になって、自分がタキオンを抱きしめる腕を少し緩ませたが、そうすると、タキオンが目一杯力強く田上を抱きしめているのが、より強く感じられた。タキオンは、その身の愛を田上に全身全霊を持って伝えようと、できるだけ力を込めて田上を抱きしめている。その愛が、田上の身の中にも、見えない血管を通して入ってくるようだった。心臓がポンプで血液を全身で送るように、タキオンが持つ田上への愛おしさも、心臓のポンプから田上へと流れ出てきた。田上は、その力強さが嬉しかった。その力強さによって起こされた嬉しさが、自分の心を震わせた。田上は、それに身を委ねたいと思って、自分は、タキオンの体にそっと手を添えるだけにした。タキオンは、一生懸命に田上を抱きしめて、その愛を送り込み、これからも一緒に居ようと言った。田上は、それに嬉しそうに頷いた。
恋人である二人には、二十分という時間は短かった。すぐにチャイムが鳴って、タキオンが不満そうにした。しかし、もうタキオンも田上の愛し得る大人というものとして、田上と対等でいたかったので、不満そうな顔をしながらも「また後でね」と言って、授業に出なければならなかった。田上は、いつものようにタキオンに小さく手を振って、授業へと送り出していった。
五時間目の休み時間になると、タキオンはまたトレーナー室に来た。田上は、今日まだ一度も顔を見せていないリリックのことが心配だったが、そもそも、タキオンのように毎回トレーナー室を訪れるような子でもないので、放っておくしかなかった。一応、LEANで今日の予定を伝えた時は、ちゃんと返事は来ていた。
タキオンは、いつものように長机から椅子を引っ張ってきて、田上の隣りに座った。そして、こう言った。
「大人の私は好みかい?」
田上は、これを答える必要もない当たり前の事しか言えないし、これまでずっと伝えてきたのだから言う必要もないことだと思ったのだが、律儀に「好きだよ」と答えてあげた。すると、タキオンは嬉しそうに笑って、「私も圭一君のことが好きだよ」と言った。田上は、その言葉に特段の意味を見出さなかった。最早、何回も言ったことである。何回も言われれば、多少は慣れる。田上は、それにゆっくりと頷いて、自分の仕事に再び取り掛かろうとした。すると、タキオンがまた言った。
「大人の私は好きかい?」
「好きだよ」と再び答えた。
「どんな所が好きかな?」
昼休みの会話を再び繰り返しているような気がしたが、田上はこう答えた。
「大概好きだよ」
「大概じゃ駄目だよ。私のどんな所が好きなんだい?」
「…どんな所って言っても…、かっこいい所?」
「他には?」
「可愛い所?」
「もっと」
「…頭がいい所」
「そして?」
「……一途な所?」
「…どうも、…微妙だなぁ…」
タキオンはそう言ってから、チラリとマテリアルを見た。マテリアルは、一生懸命書類に目を通している。すると、タキオンは今なら行けるんじゃないかと思って、「キスしないかい?」と比較的小さな声で言った。田上は、タキオンはもうマテリアルの前では大人しくなったとばかり思っていたので、それに即答はできなかった。しかし、これを断るのも彼女の事が大切な彼氏として、如何なものかと思ったので、田上は無言で頷くとタキオンのキスを受け入れた。
タキオンは、それほど長いキスをしようとはしなかった。ただ、愛を確かめ合うだけのキスだった。そして、唇を離すとまた言った。
「私は、大人っぽく見えるかい?」
「十分大人だよ」
「……そんな事が聞きたいんじゃないんだよなぁ…」
「…なにか言ってほしいことでもあるのか?」
「…なにかだね…、私の心を芯から温めてくれるような言葉だよ」
「…でも、…そんなの俺には簡単には思いつけないよ?」
「そうなんだよねぇ。…君と同棲したい…」
タキオンが不意にそう言った。すると、田上もなんとなくタキオンの言いたいことがわかったような気がした。そして、言ってほしいことも朧げにわかったが、朧なだけに掴めそうにはなかった。
「俺もしたいよ」と田上が言った。すると、タキオンは、一瞬田上の方に身を乗り出して、その膝の上に乗ろうとしたが、流石にそれはやめた。マテリアルは、まだ唸りながら書類を読んでいた。
「私なんて、もう同棲したくてしたくてたまらない。結婚したい」
「俺もだよ」
「君もだろうねぇ。……いっそのこと、籍を入れるだけとかは?」
田上は、答えづらかったので、少し残念そうに微笑むしかできなかった。
「まぁ、できないだろうねぇ…。君と同棲したい。同棲すれば、もっと楽しいことが増えるのに」
「どんな?」
「そりゃあ、色んなことがあるだろ?まず、君との時間が増える。これが一番大きい。一緒に居れる時間が増えればどんなにいい事か。朝起きてから、夜寝れるまで一緒に入れるんだぞ?」
「そりゃあ、夢のようだね」
「そうだろう?さらに、夢のような暮らしができるというわけだ。同棲した彼氏と一緒に朝の歯磨きなんて理想だろ?」
「理想のために同棲するのか?」
「いや、それはまぁ、理想だよ。一番は、君と居れる時間が長くなるのが好ましい。実に好ましい。早く同棲したい。…あと十一ヶ月も待たないといけないなんてとんでもなく長いとは思わないかい?」
「まぁ、長いね」
「長いだろう?…同棲したいよ。そしたら、いつでも遠慮なく君にくっつけるのに」
「平日の日中はそうでもないんじゃないか?俺は仕事でここに来ないといけないし、土曜もトレーニングはしてる」
「ああ、そんなの御免だね。仕事より彼女を優先すべきだ」
タキオンがそう言うと、田上が困ったように微笑んだので、タキオンも次の言葉はこういう他なかった。
「まぁ、冗談だよ。仕事がなきゃ、そもそも同棲するのも難しいのは分かってる。だけど、休日の間は私は君にくっついて過ごしていたい。静岡の方に帰った時の布団に居る時みたいに、ずっとそうやって暮らしていたい」
「インスタント同棲生活ですね」とマテリアルが、口を挟んできた。タキオンは、唐突に挟まれたその言葉を、この上なく鬱陶しく思って、マテリアルの方を苛つきながら見つめた。しかし、マテリアルは書類から目を上げずに、聞き耳だけ立ててそう言っていたので、マテリアルとの目は合わなかった。タキオンは、マテリアルに自分の苛つきを伝えられなかったのが、尚の事鬱陶しかったが、田上の前であんまり声を荒げるのも嫌だったため、マテリアルの言葉は無視することにした。
「圭一君はどうだい?同棲したらしたいこととかあるかい?」
「俺ぇ?…タキオンとあんまり変わらない感じではあるよ。というよりも、同棲してする事ってそれくらいしかないんじゃないか?」
「ほら、君、ゲームが趣味だろ?私と一緒になにかすごろくのゲームとか、皆で戦う奴とかしたいんじゃないのかな?」
「まぁ、してもいいけど、タキオンはあんまり面白くないんじゃないか?」
「君とできるものだったら喜んでするよ」
「でも、あんまりタキオンがゲームしてるのが想像できないけどな…」
「想像できないことはないんじゃないか?…いっそのこと、君とゲームをするためにゲーム機を買ってみるのもいいな。 あれだろ?あの会社の携帯ゲーム機だろ?」
「まぁ、それもあるね」
「ん!そういや、君の部屋には高そうなパソコンもあったな。あれどのくらい高い物なんだい?」
「ん~、…ウン十万」
「ふむ、君、中々趣味にお金を使うタイプだね?」
「…それを言ったらタキオンの所だって、高そうな化学器具があっただろ?あれは、総額したら結構な額になるんじゃないか?」
「まぁ、それは結構だが、私はもう研究はやめた」
「あれ?前に、何かしたいことがあるとか言ってなかったか?」
「ああ、…それは、…中々、悪意とか何とか言う変な事象のせいで、研究室に近寄り難くなっただろ?」
「ああ」
「…意欲はあるんだけど、どうにも微妙なところだね」
「カフェさんは、今もあの部屋に出入りしているんじゃないのか?」
「確か、していたね」
そう言うと共に、タキオンは田上の顔をじっと見た。それから、こう言った。
「…束縛してみてもいいかな?」
「なんで急に?」
「カフェの話を君から聞くのは嫌だった。私だったら、妬いちゃうよ」
「そりゃあ、…扱いに困るな」
「まぁ、言ってもしょうがないってことくらいは分かっているよ。しょうがないから、存分に私の前でカフェの話をしてくれ」
その言葉に田上は苦笑した。
「そんなに言われたら、こっちも話しづらいだろ?カフェさんは、お前の友達だけど、それでも嫌なのか?」
「嫌だね。友達なら尚の事嫌だ。君が一心に愛を注がなければいけないのは、私なんだ。私こそが圭一君の彼女なんだから」
「そりゃあ、俺こそがお前の彼氏だけど…、ね。束縛…、嬉しくないことはないんだけどね」
「まぁ、そんなに気にしなくてもいいよ。圭一君が、私を大切に思ってくれているということは分かっている。女の話をちょっとくらいなら許してやるさ。でも、飲み会とかは駄目だからね。女が居るんだったら駄目だ。カフェでも誰でも断固反対だ」
「いいよ。俺も酒を飲まないんだから、行く気もないよ。 で、何の話をしてたんだっけ?」
「えっと…」とタキオンが言うと、またマテリアルが口を挟んだ。
「インスタント同棲生活です」
その声が聞こえると、タキオンは再び頭に来るものがあって、マテリアルをキッと睨んだ。しかし、マテリアルは未だに自分の書類を見つめている。これに怒った所でどうしようもない。それよりかは、田上と話した方が遥かに有益だ。そう思うと、タキオンは田上の方を向いて言った。
「そうだ、同棲生活だった。…同棲生活の前は何だったかな?」
「大人っぽいです」とまたまたマテリアル。タキオンは、何か物を床に叩きつけたい衝動に駆られたが、それをぐっと抑え込んだ。しかし、表情まではどうにもならなかった。タキオンの表情が、田上の前で急に固まると、田上もその変化に気が付いて「具合でも悪いのか?」と心配そうな顔をした。ここで声を出してしまうと、どうにも平常は保てないような気がした。しかし、答えなければそれはそれで平常でもないので、――圭一君の前では良い顔をしていたいしていたい、という思いで、必死にこう言った。
「……大丈夫…。…いや、やっぱりダメだ。ばいばい」
タキオンは早口でそう言うと、田上から逃げるようにしてトレーナー室から出て行った。出て行く際に、しこたまマテリアルを蹴りつけてやりたいという欲望が湧いたが、田上の前ではそうも行かないので、無言のままにマテリアルの方を見もしないで部屋のドアをバタンバタンと言わせながら出て行った。田上は、「え?」と一声上げたが、それしか言えなかった。
その後にはすぐ、タキオンが部屋から出て行った。田上には、タキオンが、なぜあんな風になったのかは、大体予想がついていた。先程から、マテリアルが口を挟んでくるのに苛ついていた様子であったのは、田上も見ていて分かっていた。しかし、あんな急に飛び出していくとは思っていなかった。まだ、チャイムが鳴るまでにはあと二、三分ある。まだ、少し話せる。田上は、がっかりするとともに少し困ってしまった。こうもタキオンが他の女性に対して敵意を抱くようなら、チームにあと二人スカウトするというのも考え直さなければいけなくなる。同年代の子が入ってくるとなると、確実に、その子とタキオンは犬猿の仲になるだろう。リリックのように年下ならまだマシかもしれない。しかし、高等部の子をスカウトしたら、それこそ、今のようには済まないかもしれない。一回、霧島の担当のササクレという子と会った時のように、喧嘩を始めてしまうかもしれない。
田上は、大いに困ってしまった。マテリアルがした事も大したことではない。ただ少し口を挟んできたというだけだ。そんな些細な事でウマ娘同士の喧嘩にまで発展してしまうのであれば、田上は不安で不安で仕方がない。――どうしたものか…と窓から空をぼんやりと見つめながら、今日のトレーニングメニューに想いを馳せた。
タキオンは、六時間目の授業はサボることにした。別にどうという事はないいつもの事なので、そこまでの罪悪感は感じなかったが、田上を裏切ってしまったという罪悪感は、胸にこびりついて離れなかった。それだから、タキオンは風の良く通る心地のいい最上階の渡り廊下に立って、前髪を風になびかせていた。すると、また、別の屋上でサボっているウマ娘の子と目が合ったような気がした。その女の子は遠かったので、自分を見ているのかは良く分からなかった。しかし、自分の方に手を振ってきてはいたので、タキオンは少し手を振り返してやった。後ろには誰も居ないはずなので、恐らく自分に向けてだと思う。普段のタキオンなら、手を振られても振り返しはしなかったかもしれない。――なんだあれ、と思いながら、陽気な人間を見下していたかもしれない。しかし、今はその陽気さが胸の罪悪感に心地良く響いた。屋上の人は、一度手を振ったきりで、それからは何もしなかったが、タキオンにとってはそこに居るだけでもありがたかった。手を振ってきたウマ娘は、体の動きが多いウマ娘だった。暫くぼーっとしていたかと思うと、何か興味をあるものを見つけたのか、屋上を歩き回る。そして、ぼーっとする、何か見つける、歩き回る。をずっと繰り返していた。それを観察しているのが、タキオンには楽しかった。
そのおかげで、時間もするすると過ぎて、いつの間にか六時間目の終了のチャイムが鳴った。途端に、タキオンの罪悪感が倍に膨らんで、思わず、足腰の力を抜けさせた。タキオンは、渡り廊下の石の壁に寄りかかって、座り込んだ。圭一君が迎えに来てくれないかな、と期待した。こうして座っていれば、白馬に乗った王子様がやってきてくれる。そして、私を迷いの森から連れ出してくれる。そんな歪な妄想をすると、その歪さにタキオンも苦笑してしまった。しかし、足に倦怠感があったのと、田上に甘えたい心持ちがあったのとで、タキオンは遂にそこから動きはしなかった。
田上は、六時間目のチャイムが鳴るのと同時に、――タキオンはトレーニングに来てくれるかな?と思った。タキオンが、自分を求めているであろうという事は、普段の生活態度から分かっていたので、――果たして、俺に会いたくて来るか、俺に来てほしくて何処かに居るか…と見当をつけていた。そして、田上は、まずタキオンの教室の方に行った。タキオンの教室からは、丁度女の先生が出てくるところだった。女の先生の方も廊下の角を曲がってきた田上と顔を合わせた。その途端に二人共声を重ねて「タキオン」と言ってしまった。それから、二人で苦笑すると、女の先生のほうが「タキオンはサボりましたよ」と言った。田上は、「分かりました。ありがとうございます」と言って頭を下げて去ろうとしたが、そこでまた呼び止められた。話があるらしかった。だから、田上とその先生は、タキオンを探しながら歩くことにした。
その先生は、人気のない所で話したかったらしく、誰も居ない渡り廊下に行くまでは何も話さなかった。田上は、どんな事を話されるんだろう、と多少心臓をドキドキさせていると、こう言われた。
「田上トレーナーとタキオンが付き合っているって本当ですか?」
この質問は予想していないわけではなかったが、この質問が一番されたくなかったので、それが来ないことに賭けて別のことを考えていた。その為に、咄嗟に答える事ができなかった。田上は、焦る頭で何を言おうか、どう取り繕おうかと考えていたが、「別に、怒りはしないので、はいかいいえだけで答えてみてください」と言われた。このように言われると、田上も小学生の頃に戻ったようになって、少々居心地が悪くなりつつも「はい…」と意気消沈して頷いてみせた。先生は、ため息を吐くと一度中庭の方を見、それから、また田上の方に向き直って言った。
「私は、生徒の恋愛事にあまり口出ししたくはありませんが、タキオンは別ですよ。…あんまり軽い気持ちであの子と付き合おうと思っているならやめてくださいね?簡単に手に負えるものじゃない子ですから」
「…重々承知しています…」と田上は、石の渡り廊下の一点が気になったふりをしながら言った。その様子を見ると、先生の方もまたため息を吐き、押し黙ってから言った。
「あの子の気持ちを弄んじゃ駄目ですよ?」
「…はい…」
「……トレーナーと担当が付き合うというのがちゃんとお分かりですか?」
「…はい…」
なぜ、自分はこんなにも責められているんだろう、と思いながら、田上は先生の前で反省しているふりをした。このふりというのは、あんまり定かであるわけでもなかった。田上の心の中では、冷静に自分のことを見つめている自分がいる。そして、同時に、反省の心を持った自分も存在している。その中でも、冷静に自分のことを見つめている自分は、ひっきりなしに物を話すので、少しうるさい。自分の反省の心が何処かへ行ってしまったかのように思う。しかし、タキオンの事はしっかりと丁寧に考えないといけないことは分かっているので、田上は、とりあえず、先生の話に「はい」と頷いておいた。
先生の話も終盤になってきた時、不意に自分たちより向かいの一段上の渡り廊下からタキオンらしき栗毛の頭が顔を覗かせた。そして、向こうの方も田上たちの存在に気がついたのか、すぐに頭を石の壁の下に引っ込めた。先生もタキオンの存在に気がついた。そこで、ここでお説教を延々と続けていても仕方がないと思ったらしく、急いでそこに行ってみましょうという話になった。田上は、どうもこの先生が何をしたいのか分からなかった。
タキオンは、田上たちを見つけると、ここから逃げ出すか、それとも、このまま待つか考えた。そして、田上と一緒に先生が話し込んでいたのも気になった。浮気という言葉が頭の中に浮かんだが、それはすぐに振り払った。田上と担任は、そもそもの接触回数があんまりない。常に、真ん中に自分が居るはずだから、二人で仲良くなっていることもないだろう。すると、頭の中の別のタキオンが反論した。――あれは二人きりで話し込んでいたという状況そのものだったじゃないか。
タキオンも自分の事を話していたのじゃないかと予想はつけたが、本人たちの様子を見ない限りどうにも不安だった。だから、待つというのも嫌だったが、タキオンはじっと身を縮めて体育座りをしながら、田上たちが来るのを待った。
田上と先生は、タキオンの右手の方から階段を登ってやって来た。タキオンは、階段を登ってくる足音を聞きながら、二人が来るんだろうなと見当をつけていた。その為に、二人がタキオンの方に顔を覗かせると、不自然なまでにすぐさま「おや、圭一君にかねちゃんじゃないか。珍しい組み合わせで何のようだい?」と言った。それに先生は、平然として言った。
「かねちゃんはやめてって言ってるでしょ。先生なんだから」
「クラスの皆そう言っているから別に構わないだろ?」
「まぁ、構わないけど、…今日サボったのも構わないわ。どうせ、タキオンは、私より頭がいいんですから。それよりも、今回言いたいことがあるの」
田上は、何も言わずに先生とタキオンが会話しているのをじっと見ていた。そして、言いたいことがあるの、と言ったタイミングで、また小言が始まるんだろうな、と思って気だるくなった。案の定、先生は田上と付き合っていることについて触れた。そして、「あなた、ちゃんとトレーナーと付き合うって事が何か分かって付き合っているんでしょうね?」と言った。タキオンは、鬱陶しそうに目を細めながら「分かってるよ。私も大人なんだから」と言った。すると、またこの言葉が先生を煽った。
「先生に比べたらあなたは全然大人じゃありません」
「分かった分かった。三十で未婚の君には言われたくないよ」
「あなた全然分かってないでしょう!」
先生は一際大きな声で言った。田上は、後ろで見ていて居た堪れなくなった。タキオンは、どうしてそう人を苛立たせることを言うのだろう、と思った。こんな先生の小言は聞き流すしか無い。言いたいのだから、言わせておくしか無いのになぜ、わざわざ戦いをしようとするのだろうか?そう思いながらタキオンを見ていると、タキオンも田上と不意に目が合った。そして、すぐにタキオンは、バツが悪そうな顔をしながら、目を背けた。田上は、――早くトレーニングをしたいのに、と思いながら、まだ少し長引きそうな先生の小言を聞いていた。タキオンは、田上と目を合わせてからは、先生に従順になって「はい」とか「ああ」とかで話を済ませた。実際、先生は、トレーナーと付き合おうとしているタキオンの事を本気で心配しているようではあったのだが、なにしろ伝え方が悪いので、どうも小言を言っているようにしか聞こえなかった。本気でタキオンの事を思っているのなら、そんなに心配しないでもう少し応援する形で忠言を与えてみたらいいのに、と思いながら、田上はこの無闇な時間を過ごした。
やっとのことで先生から解放されると、今度は、タキオンの嫉妬が始まった。「君はあそこで金ちゃんと何していたんだ?」と複雑そうな顔で手を繋ぎながら聞かれた。田上は、全く疑われたくないので、先生があれ言ったこれ言ったと愚痴を零しながら、あの時の状況を伝えた。田上が、先生のことを悪く言ったのは、効果があったように感じた。タキオンは、田上の話が終わると、少し表情を明るくさせながら「まぁ、いいだろう」と頷いた。それから、こう言った。
「にしても、ああいう風にかねちゃんにお節介を焼かれると困るな。普段は、まだいい先生なんだが」
「頼りないトレーナーと付き合ってしまって、タキオンの将来が心配なんだと思うよ」
田上がそう言うと、タキオンは田上の顔をじっと見てから言った。
「圭一君を見て頼りないと思うんだったら、かねちゃんも見る目がないね。こんなに良い男なのに」
「見る目があったら、むしろ困るんじゃないか?」
田上がそう聞くと、タキオンも少し笑った。
「その通りだ。見る目があったら私が困る。無駄にライバルが増えるだけだもの」
「まぁ、先生は分かってないかもしれないけど、俺はしっかりと考えているからね」
「それは私も分かっているさ。私も考えたいとは思っているが、今の所は、圭一君でいっぱいいっぱいだね」
「俺で?」
「…君さ。…君の事が好きだなぁ、と考えるだけでいっぱいいっぱいなんだね」
「…今日のトレーニングはどう?体の調子は良さそうか?」
田上が唐突にそう聞くと、タキオンは顔曇らせた。
「…まぁ、いい塩梅…に行こう。今日から飛ばしすぎると良くない」
「そうか。じゃあ、そういう感じにちょっと調整しておくね」
「ああ、ありがとう。その様にしてくれるとありがたい」
それから、二人は少しの沈黙に包まれた後、それぞれの行くべき場所へと別れた。