トレーニング場に着くと、マテリアルとリリックはもうすでにトレーニングを始めていた。タキオンが見つからなかった場合の為に、田上がマテリアルにそう言い付けておいたのだ。
田上の後にタキオンも来た。あまり乗り気ではない調子だったから、田上も触れ合いも兼ねて、話しながら一緒にストレッチをしてあげた。タキオンは、それで心持ち愉快になったようだった。それからは、一生懸命真剣な顔をしてトレーニングに励んだ。
トレーニングが終わると、タキオンは疲れ切った顔をして田上の下にやって来た。田上は、タキオンの肩を叩いて「お疲れ様」と言ってあげたが、抱き合うような事はしなかった。
タキオンは、したそうにしていたのだが、ここは人目があると思うと、自分でそれを抑制していた。だから、田上はタキオンに「ベンチの所に行くか?」と誘いをかけた。タキオンは、すぐにそれに頷いて、疲れた顔に小さな微笑を浮かべた。それから、リリックとも二言三言言葉を交わして、トレーニングの初めに居れなかったことを謝り、それぞれに「お疲れさまでした」と挨拶をして帰った。
田上は、タキオンの事が目の前いっぱいに広がっていて、あまりリリックの事を見る余裕にはなかったが、まぁ、リリックの機嫌は良さそうに見えた。しかし、マテリアルが言うには、あれは良い方ではないという。では、悪い方かと問うと、別に悪い方でもないという。詳しく言えば、最悪ではなく、ただ、自分の疎外感を見つめている程度ではないかという事だ。
そう言われると、田上も、真っ先に、タキオンに声をかけてしまったのを少し反省した。しかし、彼女が疲れ果てた顔をしていたのなら、声もかけてあげたくなる。いくら担当と言えど、彼女よりも地位が上というわけにはいかないだろう。そして、マテリアルはその田上の考えを全て言い当てた後に、「あなた方は、少しはマシになったかもしれませんが、どちらにしろ、もう少しリリーちゃんを大切にする素振りを見せていただきたいものです。リリーちゃんを蔑ろにしているのは、あなたたちなんですからね」と言った。
田上は、この言葉に大いに困り果てた。タキオンは、何も言わなかったが、それでも、疲れた様子で田上の手を握って、地面をぼーっと見つめている。その手は、ぼーっとしながらも、田上を離さないようにしっかりと強めに握られていた。
「タキオンさん、あなたも気を付けてくださいね」とマテリアルは言った。タキオンは、ぼんやりとしながら微かに頷いた。マテリアルは、この様子を見ながら鼻からため息を吐くと、田上に向かって言った。
「どちらにしろ、あなたの方が年上なんですから、しっかりとタキオンさんを監督してやってください。あなたがしっかりしないと、タキオンさんはしっかりしませんからね」
マテリアルは、そう言うとスタスタと立ち去って行ってしまった。田上は、今日で二度目の小言を聞きながら、自分の不甲斐なさに嫌気が差してきた。しかし、タキオンに腕を引っ張られて静かに「行かないのかい?」と問われれば、その考えは、頭の中で徐々に薄れていった。
田上は、二人で静かに手を繋ぎながら、西側に傾きつつある陽の光を背に浴び、いつものベンチを目指した。
二人はベンチに座ったが、すぐに、タキオンは田上の膝枕へと移行した。大分、今日のトレーニングが疲れたのか、田上の腹の方を見つめながら、長い事ぼーっとしていた。田上もやる事がないので、その横顔をじっと見つめていた。特に、退屈もしなかったので、二人共、長い間じっとしていた。田上は、タキオンの顔を見つめながら、タキオンがもうすぐ寝るんじゃないかと思った。それくらいに、目は疲れていて力がなかったし、体の動きもほとんどなかった。
しかし、不意にタキオンが口を開いた時は、案外しっかりとした声だった。
「同棲したい…」とタキオンがため息混じりに呟いた。田上は、タキオンの顔に汗が見えたので、自分の洋服でそっと拭ってあげた。すると、タキオンが田上の方を向いてまた言った。
「同棲したくはないかい?」
「したいよ」と田上は優しい声で答えた。
「したいだろう?…今すぐできる方法はないだろうか?」
「それをしたら、尚の事先生に怒られるよ。軽率に動き過ぎだって」
「かねちゃんに怒られるくらいはどうとでもなるさ。それよりも君の方が大変だろうね。家族寮は学園の外だろう?」
「そうだね」
「そうなると、外部の人が私たちの同棲を知ることになる。同じ家から出てきたら、それこそ報道だろうね」
「そうだね。…面倒だね」
「面倒だよ。…それに、…あそこはどうだったかな?籍を入れないと住めないんだったかな?」
「どうだったかな…。…確か…、籍は必要だったような気がする…」
「…圭一君」
「ん?」
「今こそ世間体を捨てるべき時期だとは思わないかい?」
「そう言われると、…少し困るなぁ…」
「困るだろうねぇ。君の立場も重々承知だよ。それに、昨日か一昨日に父さんたちに、卒業したら籍を入れると言ったばかりなんだ。それを気が変わったからひっくり返すとなったら、信用は失うだろうねぇ」
「そんな無責任な事はできないよ」
「…なら、…別のアパートを借りてみないかい?ここらは高いが、もう少し遠くに行けば、良い物件があるかもしれない」
「…難しいかもなぁ…」
「難しいだろうね。それに、君も今は重要な時期だ。スカウトしていくんだったら、同棲はまだ後になるだろうね」
「後にはなるかもね」
「……圭一君は、私と同じくらい同棲をしたいと思ってくれているのかな?」
「…どうだろう?…タキオンが同棲したいなら、俺もしたいよ」
「それじゃあ、…ね、微妙だよ。…まぁ、君の言いたい事も分かる。君は、今この状況で満足できているからね。そんなに、すぐには同棲したいという気分にはならないんだろう。でも、私が言うなら同棲はしたいよ、と。うん、私は良い彼氏を持ったよ。彼女の事を良く思ってくれる彼氏だ」
「…でも、まぁ、俺だって同棲したい気持ちはあるよ」
「でも、今すぐじゃなくても良いだろう?」
「まぁ、そうかもしれないね」
「そうだろう?私は、今、この状況でも君と同棲したくてたまらない。むしろ、君と居る時こそ、同棲したらこんなことができるだろうなぁ、あんなことができるだろうなぁ、という妄想が止まらないのだよ」
「そりゃあ、大変だ」
「大変だよ。…アパートの事、少しは考えててくれないかな?」
「考えても…いいけど、…夏は合宿に行くだろうし、…それに、どうもすぐに同棲っていうのもねぇ…」
「少し考えてみてくれよ。 いいだろう?一緒に同じ場所に帰れるんだ。私たちが成し得なかったことだよ?これは。通学路が一緒という事だ。まるで、学生みたいじゃないか」
「そりゃあ、夢のようだけどね。…罪悪感が湧くなぁ…」
「今更何を言っているんだい?女子高生ということで罪悪感が湧くというのならば、君はもうすでに何回も、その女子高生とキスをしてしまっている。むしろ、こっちの方に罪悪感を持ってもらいたいものだね」
「順当に行けばそうだったろうけど、生憎、出だしが悪かったし、お前の方こそキスを求めてきてたから、俺で抑えられるもんじゃなかったよ」
「ふぅん?…まぁ、…結果的に君とここまで近くなれたのだから、キスも悪くないだろう?…だろう?」
「…俺が答えるの?」
「当然だよ、君に聞いているんだから」
「……それに、俺が良いと答えると思ってるの?」
「当然だろう?私の彼氏は、私に対して物凄く優しいんだもの。恥ずかしい事だって、きっとこっそり言ってくれるさ」
そう言われると、田上も苦笑して「そうかもね」と答えた。これは、キスの是非についての答えも兼ねていたのだが、当然の事、言葉足らずでタキオンには伝わらなかった。だから、二人の間に一瞬のキョトンとした間があった後に、タキオンが「キスは悪いかい?」と聞いた。田上は、平然としながら「悪くないかもしれない」とだけ答えた。タキオンは、それで満足だったようだ。ふふふと顔に笑みを作ると、次にこう言った。
「同棲はどうだい?学生と一緒の家に帰るというのも、悪くないんじゃないかな?」
「そりゃあ、…ね。制服の学生と一緒に同じ家に帰るとなると、多少の悪さも出てくるよね」
「誘拐かな?」
「他の人にそう見られていてもおかしくはない」
「じゃあ、着替えてから帰ればいい。それなら、誰も君と私を学生とトレーナーだとは疑わない。…しかし、そうすると、少々通勤通学が一緒という感じが薄れるな…」
「そんなのなくてもいいし、朝登校するときはどうするんだ?制服で行くのか?」
「君のトレーナー室で着替えればいい」
「出入りはあるんだぞ?」
「君以外の男性が出入りする予定はないだろう?カーテンを閉め切って着替えればいいだけさ」
「お前一人の為に、わざわざ皆が出て行かないといけないのか?」
「まぁ、出て行くぐらいはいいんじゃないか?」
「…まぁ、どちらにしろ、あんまりすぐはできないからなぁ…」
「ちょっと本気で考えてみてくれよ?私は本気で言っているんだ。本気で君と同棲したいんだ」
「今すぐ?」
「できれば今すぐが良い。できなければ、夏合宿が終わった直ぐ後、もしくは、夏合宿までまだ少しある。六月の最後辺りに引っ越せればいい」
「それだと大分忙しい事にならないか?父さんの家にも行く予定だろ?」
「それは、君にも少し苦労を掛けるかもしれないが、私の言う事を聞いてくれたりはしないかな?」
タキオンは、あざとく困ったような顔をして見せた。田上もそう言われると困ってしまう。彼女を優先させたくなるが、これは一筋縄ではいかない。なにしろ、トレーナーと女子高生が付き合っているというだけでも問題なのに、同棲するとなると、これは大問題だ。本当に、ゴシップネタとして週刊誌に取り上げられてもおかしくない事態になる。それに、六月と言ったら、宝塚記念もあるし、父の家にも行かないといけないだろうし、スカウトもあるので、これに同棲の為の引っ越しともなれば、これまでになく予定がぎっしりとなる。タキオンの為と考えれば悪くもないだろうが、それにしても考えただけで、田上には気が萎えてくる予定の詰まり方であった。
田上は、困った顔をしてこう言った。
「難しいだろうなぁ…」
「難しくてもどうにかならないかな?」
「…やっぱり、そう上手くも行かないんじゃないか?…そもそも、世間から肯定されているような事でもないと思うし」
「私たちが付き合っている事が?」
「うん」
「それなら、あの記事のコメント欄で散々祝われてたじゃないか。世間も肯定してるよ」
「世間は俺たちのファンだけじゃないだろ?」
「だけど、世間をそう広く見渡してみたって、広いということくらいしか分からないと、前も言ったじゃないか」
「…でも、…俺は世間から悪い人間だとは思われたくないよ」
「じゃあ、圭一君が今一番大切である私の為に悪い人間になってくれ」
「……後から、後悔する事にならないか?」
「私の為に後悔してくれ」
タキオンの強気な発言を聞くと、田上の意気は少し沈んだ。すると、その様子を感じ取ったタキオンが、少し声色を和らげて言った。
「…どうにかして、融通を利かせてくれないかな?」
「……世間だけじゃないよ。六月は宝塚記念とか選抜レースとかで忙しすぎる」
「じゃあ、夏合宿が終わったらすぐ」
「…それも難しいよ」
「…嫌いになるよ」
田上は、この言葉に嫌そうに眉を寄せた。タキオンは、自分の言った言葉に少し落ち込んでいる調子で、田上から目を逸らしていた。田上は、これになんと答えようか迷った。「なれよ」と言ってやりたいような気がした。意地悪をしてきたタキオンに、意地悪をし返せばいくらか気は晴れるだろう。しかし、そういうのもタキオンを動揺させて可哀想なので、田上は「ならないでほしい」と低く沈んだ声で答えた。
すると、タキオンの方もすぐに反省して、田上と同様の低い声で「ならない。…ごめん」と謝った。田上は、それに答えることはしないで、タキオンの髪の毛を指先で触って、少し遊んだ。
その後も二人の話は続いた。タキオンは、どうしても田上との同棲の夢を諦めきれないようだった。しかし、田上も簡単には譲れないものがあった。ともすると、その譲れないものは、田上のこれまでの発言を全てひっくり返す程の効力を持つものだった。田上は、今、タキオンに言われてここに居る。タキオンが言わなければここには居ない。とっくの昔にタキオンの事は諦めて、キスをされても何事もなかったかのように平常の関係を保っているか、どこかタキオンの見つからない場所で隠れ潜んでいるかだろう。
田上がここに居るのは、タキオンが田上にも勝るくらいの大きな大きな愛を田上にぶつけてきたからだった。そして、その大きな愛の中に隠れ潜んでいる田上の心には、未だに、女子高生との結婚について不安に思っている自分が居た。また、不安に思っているというよりも、嫌がっていると言っても良いかもしれない。
とにかく、田上の心には、タキオンとの結婚なんてまだまだ先の事と考えて、それについて深く思い悩もうとはしなかった。そして、同棲についてもまだまだ先の事と考えていた。これで、急に同棲の話を持ち掛けられても、確かな対応はできない。どこか、隠れられる場所を探して、のらりくらりと身をかわすだけだ。ただ、その身のかわし方が、正論の事この上ないので、タキオンも攻めるに攻めれなかった。また、田上との諍いもあまり起こしたくないが故に、少し臆病になっている節もあった。まだ、タキオンに、田上と付き合う為ならどんな犠牲を払っても構わないというあの頃の気概があったなら、事は右か左かのどちらかには転がっただろうが、どうにも田上を傷つけたくないという心が働いて、自分の同棲欲は攻めるに攻めれなかった。
その中でもタキオンが苦労したのは、田上のガードの硬さだろう。何しろ正論だから、我儘を言っている自分が悪い事が良く分かる。田上の立場を考えればそうなるだろう。正論を振りかざしておかなければ、後々面倒な事に繋がる可能性があるのは分かる。今でも、ぎりぎりの所を攻めているという自覚はタキオンにもあったから、それが正論だということが分かる。
しかし、分かっていたとしても田上と同棲したい事にはしたい。彼氏と彼女なんだから、同棲しない方がおかしいだろうというのがタキオンの正論だ。だが、この正論は、田上の正論に比べれば弱いもののように思えた。
これは、田上の立場が勝っているからである。田上の立場が危うい事になれば、タキオンにとってもあまり芳しい事になるとは言えないだろう。その為に、二人共田上の正論を優先すべきと考えたが、タキオンの正論だって悪い事はない。彼氏と彼女なんだから同棲するのは当たり前だ。タキオンとしては、いつまでも外に邪魔されていたくはないのだろう。自分たちが二人きりでいれる内を作って、そこでぬくぬくと同棲生活を楽しみたいのだ。これのどこに悪い事があるのだろうか?この一点を見つめる限りでは、悪い事はない。しかし、田上の点を見つめれば、決して良い事とも言えないのが実情であり、タキオンはそれによって縛られていた。
田上は元々ある縄に縛られておけばいい物なので、その縄の扱いを多少は心得ているだろうが、タキオンはその縄に対して、腕をきりきりと引っ張られるばかりだったので、同棲欲は中々潤いを見せなかった。
そして、ある時こう言った。もう、宵闇が迫ってきた頃だった。
「圭一君は、どうしてもどうしても同棲をしたくないのかい?」
「…できないだろ?」
今まで何度か繰り返した答えを、また繰り返した。
「私が嫌いになると言ったら?」
タキオンは、また同じことを言った。
「ならないでほしい」と田上も同じ言葉を返した。
「今度こそ本気の本気だったら?」
「……つらい…」
「…じゃあ、君は、私よりも世間体を優先させる人間という事でいいんだね?」
「そんな風に思いたいんだったら、そんな風に思ってくれていい」
すると、タキオンは顔を悲しそうにしかめた。
「ずるい。結局私が負けるじゃないか」
「最初に負けたのは俺の方だよ」
「そりゃあ、君は負けたかもしれないが、それは君にとってもいい方向に転がった。私のは、君にとっていい方向に転がるだけだ。また君の勝ちだよ」
「俺は、勝ちたいなんて思ってない」
「そりゃあ、君は私から離れたいと思っているんだからいいさ。私は君とくっつきたいんだもの」
タキオンの声は、自分が泣きそうなのを押し隠すように少し強まっていた。
「俺もタキオンとくっつきたい」
「君は耳に心地いい言葉を言ってりゃいいさ!実際に動くのは私なんだから!」
二人の間に重苦しい沈黙が流れた。タキオンの目は潤んでいて、今にも涙が零れてきそうだった。それでも、タキオンと田上は見つめ合うのをやめなかった。
「……別れたいのか?」と田上があるとき口を開いた。陽は、西の空をごくわずかに赤く染めていたが、最早、それはないと同然だった。
タキオンは田上の顔を睨みながら言った。
「君が別れたいんだろ。同棲なんか本当はしたくないんだろ?どうせ、初めから君の気持ちは私の方に向いていなかったんだ。別れたいなら別れればいい。君に恋した私が馬鹿だったよ」
田上は、暫く何も言えずに黙っていたが、やがて、こう言った。
「別れたいのか?」
「さっきも言った。君は、どうも世間体が気になるようだから、初めから、私と付き合うのが間違いだった。どこか、…そこらへんの女性にでも声をかけてみるといい。きっと振り返ってくれるよ」
田上は、じっとタキオンの顔を見つめ続けた。タキオンは、膝枕から脱してしまおうかとも考えたが、こうも見つめられ続けていると、起き上がるに起き上がれなかった。タキオンも田上の顔を見たが、その顔を見ていると段々と罪悪感が湧いてしまって、横の方に目を逸らしてしまった。すると、田上の首に掛かっている銀の鎖が目についた。――この男は、こうやって自分の為に律儀につけてきてくれている…。そう思うと、タキオンはやりきれなくなって、その鎖からも目を逸らした。
田上は、長い事黙っていたが、やがて、擦れた声で「別れたくない」と言った。あまりに小さな声だったので、タキオンは幻聴を聞いてしまったのかと思って、田上の顔を見た。田上の顔は、苦しそうに歪んでいたが、タキオンと目が合うと再び「別れたくない」と言った。タキオンは、これにどう答えればいいのか悩んだ。ここで、軽々しく口を開くのも違うような気がする。かと言って、すぐに起き上がって田上にキスをするとなると、少し情熱的過ぎであり、また、キスで誤魔化しているような気分でもあった。だから、タキオンは少しの間悩んだが、結局、キスが自分の考え得る最良の方法だと思ったので、半身を起こすと、自分を見つめてくる田上にキスをした。
田上は、キスが終わると、不安そうにタキオンを見つめた。タキオンもまた田上を見つめ返したが、困ったことにこの後何を言えばいいのか分からない。問題は、未だに滞ったままである。自分が今キスをして、この短い喧嘩で仲直りをしたとしても、同棲は絶対に許してくれないだろう。こうなると、なんのために喧嘩をしたのか分からなくなる。タキオンは、自分の子供らしさにつくづく嫌気が差して、田上に身を寄せると、その体をぎゅっと抱き締めた。
今度は、愛を田上に送り続けるようなものじゃなく、ただ、お互いの心音のリズムの違いに、何か真のあるものを見出せないかと思って抱き締めた。田上は、タキオンが抱き締めてくるのを不安そうに受け止めながら、その機嫌を窺おうとした。タキオンは、田上の肩で暫くその匂いを嗅いだ後、「ごめん」と一言言った。田上からの返答はなかった。すると、タキオンは寂しくなって、少し強く田上の体を抱きしめると、再び「ごめん」と言った。田上は、これでも何も答えなかった。タキオンは、田上が今どんな顔をしているのか窺おうと思ったが、そうすると、田上が自分にとても怒っているのじゃないかと思って、恐ろしくなった。その為に、タキオンは田上の体にしがみ付いたまま離れようとしなかった。
田上は、自分の体にしがみ付いてくる、大人だか子供だか判別のつかない女性をどうしようかと考えた。正直に言ってみると、人を好きになるというのが、もう嫌になりつつあった。こんなに苦しまなければいけないのなら、最早、初めからこの関係など無かった方がマシだった。
ただ、一概にマシと言えない自分もいて、それはそれで苦しかった。すると、まだ犬や猫の方に生まれていた方がマシだったかもしれない。何も考えないで、猫のように呑気に生きたり、犬のように縁側で外を見続けるのも良いかもしれない。それはそれで苦しいかもしれないが、それこそが田上の夢だったので、初めからタキオンの方に気持ちが向いていないというのは、その通りなのかもしれない。
田上は、そういう事を考えると、益々自分の事が嫌になった。彼女とも碌にコミュニケーションが取れずに、八つ当たりされたり、しかえしたり、そういう事が嫌になった。できることなら、全てが楽な世界であってほしかった。就職は上手く行く。彼女との関係は円滑に。病気や事故で死ぬ不安もない。歩いているだけで楽しくなれる。そういう世界に生まれたかった。そういう理想的な人間として生まれたかった。歩いているだけで、体が疲れてくる人生なんて真っ平だ。複雑な人間関係の目の前で、立ち往生はしたくない。とんだロールプレイングゲームだ。こんなゲームなど、百本も売れないだろう。苦しみの中に快楽があるなどという理想論など聞きたくもない。苦しまないで生きていられるなら、それが一番いい。なぜ、わざわざ苦しみの中に突っ込まないといけないのだろうか。それこそ、自殺していった人への冒涜だ。自殺した人こそ、最上の苦しみを身に受けて自殺したはずなのに、その中に快楽があるという。全く以て冒涜だ。これでは、死んでいった人は報われないだろう。
田上は、頭の中で色々な事を考えて、自分の目の前の出来事が上手く行かないのを何とか人のせいにしようとした。そして、人に擦り付けるのは、何とか成功したような気がするが、果たして、この目の前にいるタキオンとこれからも付き合い続けるのか、という事にはまだ迷いが残った。タキオンを目の前にしてしまうと、どうしても迷ってしまう。これが何に繋がっているのかが分からない。本当に、考えの足りないバカとして生きていたかった。そうすれば、世の中もっと楽に見渡せるのに。
そう考えている間にも、タキオンは田上の事を抱き締め続ける。二人の間には、複雑な事情がある。とても、一朝一夕で切り崩せるものではない。五回十回切りつけて、びくともしない可能性も大いにある。三十回切りつけてもダメかもしれない。場合によれば、一生ダメかもしれない。
田上はその様に考えていくと、不意に自分の言うべき言葉が見つかって、タキオンに低く囁いた。
「タキオン…、俺…、これからも迷い続けるよ…」
これは、田上の一つの宣言だった。タキオンは、それに「ごめん」と泣きそうな声で謝った。田上は、ようやくタキオンの体に自分の腕を回すと、その頭を少しだけ撫でてあげた。
二人は、暫くの間黙ってお互いをお互いの温もりで慰めた後、顔を見合わせた。タキオンの顔はすっかり意気消沈していたし、田上の顔は深い物思いに沈んでいた。田上は、タキオンの顔を見ると、それに愛おしさが湧いてきたが、それを素直には受け止められずに、その顔をじっと見つめ続けた。
タキオンは、暫く田上の顔を見つめた後、唐突に「キスしても良いかい?」と擦れた小さな声で聞いた。田上は、少しの間固まった後、無言で首を横に振った。どうにも、声を出すには幾分かの勇気が必要な気がした。タキオンは、その田上の動作を見ると、目線を落とし、また田上に抱き着き直してから「ごめん」と言った。田上は、頭の中で――謝る必要はないのに、と思ったが、これも幾分かの勇気が足りないばかりに、口から声として出てくる事はなかった。
もうすぐ門限ではあったが、二人共動くに動けず、ベンチの上に座り続けていた。タキオンは、田上からなにか行動があるのを待っていたし、動こうと思っても、どうにも億劫だったために動けなかった。田上もほとんど同様の状況だった。タキオンが動くのを待っていたし、動くのが億劫。そんな中でも、門限が迫ってきているのを田上は感じていたので、抱き着いてきているタキオンに向かって、沈んだ声で言った。
「……ごめん。…軽率に別れたいとか言って」
「…ううん、大丈夫。私の方こそ、軽率に心にもない事を言ってしまった。…同棲は諦めるよ…」
「……タキオンは、…。いや、……多分、本当は、……同棲する気はあんまり無いのかもしれない」
そう話し始めた田上に、タキオンは言葉を返さずに、ただ安心して離せるように背中をすりすりと撫でてあげた。
「……まだ、少し怖い」
「君の言う事も分かる。…分かった上で、自分の我を押し通そうとしてしまった…」
「タキオンがしてほしい事も分かるよ」
「ありがとう…」
「………一緒に生きようとか言っておきながら、…あんまりその気がないのも駄目かな…」
「……」
「……ねぇ」
「…ん?」
「………同棲するのを断るのは、駄目な彼氏かな…?」
「……私も…まだ状況を碌に整理もできていないのに、君に我を押し付けてしまったから、君がダメな彼氏と言うんだったら、私はとんでもなく面倒な彼女だよ…」
「……女子高生と付き合っていて良いと思う?」
「…私は、…私たちの間に、何も妨げるものが無いのなら、恋愛結婚をしたいと思う。圭一君以上に良い人は見当たらない」
「…でも、同棲はできないよ?」
「私は君と同棲したいんだ。…他の人とじゃ嫌だよ」
「…これから大分先になると思うし、もしかしたら、卒業してからも尻込みするかもしれないよ?」
「…その時は、…どうとでも説得する。一番嫌なのは、君と離れる事だ。だから、そこでバランスをとりながら、なんとか君と結婚したい」
「……お前は、…お前は、…俺と付き合っていて罪悪感とか湧かないのか?」
「…残念ながら、私は君程の大人じゃないから、この立場としては君と付き合いたいという感情に任せていていいんだよ。…そうか、…圭一君には私と付き合うだけで罪悪感が生まれるのか…」
「そうだよ…」
「それは、…大変だ。…実に申し訳ないな。…さっきの言葉も本当に身勝手だった。すまない…」
「…謝って済むんだったら、俺も罪悪感が湧いたりはしないよ」
「…私が、校長や理事長の方に許可を取ってこようか?それに、あの秘書の方は、私たちの関係は把握しているという事だろ?それは、実質理事長に認められたも同然という事じゃないかな?」
「見て見ぬふりをされているだけかもしれない。これで、事が実際に明るみに出て、問題になったら、普通に切り捨てられるかもしれない」
「…実際、私たちが付き合っているということが問題になるのかな?と思うんだけど」
「…キスを何度も繰り返してるのは、傍から見れば不味いことかもしれない」
「でも、思わないかい?付き合っているんだ。強引に、…強引に、…したかもしれないね。本当に強引だった。…ただ、君と私の力の差である以上、責められるべきなのは私だ。私が本気で君にキスを迫ったら、君は断る術を持たないんだから、世間から糾弾されるべきは私なんだ」
「でも、俺は、そんなの見たくないよ」
「まぁ、…私は平気だよ?そんな有象無象の意見を聞いていたらキリがない。君じゃなくて私が責められるんだったら、万々歳だ」
田上は、そう言うタキオンの顔を、複雑そうに、微かに眉を寄せて見つめていた。
「まぁ、ただ、君はまだ責められてもいないのに、私と付き合うと言うだけで罪悪感を感じているんだ。私は、君に笑って過ごしてほしいから、この罪悪感はどうにかしないといけない。きっと、卒業してからも暫く悩まされるだろうから、そうなると、結婚も遅くなる。同棲も遅くなるかもしれない。それに、これから、約一年以上も罪悪感に責められ続けなければいけないと思うと、君が可哀想で仕方がなくなってくる。笑ってほしいんだよ。私は君に」
「少しくらいなら笑えるよ?」
「そんなに強がらなくていいよ。…罪悪感だよ。君の罪悪感が問題だ。これは、社会通念上仕方のないことかもしれないけどね。せめて、私たちの間では君は笑っていてほしい。罪悪感に責められて苦しんでいる君の顔なんて見たくないよ」
「…でも、…どうしようもなくないか?」
「いや、とりあえず考えなければ始まらない。 君も苦しみたくはないだろう?」
「ないよ」
「なら、これは考えたほうが良い問題だ。苦しみながら生きていたいという人間はそんなに居ないだろうからね。何とかして君の心の負担を減らせる努力をしよう?」
「でも、もう門限だよ」
「…んー、面倒だね。…まぁ、同棲できないからしょうがない。帰ってからも電話するだろ?」
「色々と終わらせた後にね」
「私もその様にする。…今日はごめんね。……どうしようもない酷い女だった」
「タキオンの気持ちも十分に分かる。二人で暮らしたい気持ちも俺の中に理想としてぼんやりとあるんだけど、どうにもそれを実現できるのかどうか分からない」
「女子高生だからかい?」
「そうかもしれない」
「なら、尚の事、今日の出来事は、水で洗い流してはいけないような気がする。君の罪悪感はどうにかせねばならない。何の躊躇いも持たずに、私を抱きしめてあげられるようにしなければ」
「今も抱き締める事に躊躇いはないよ?」
「それは本当かなぁ?そりゃあ、君の頭が私を好きだって事で埋め尽くされていたなら、罪悪感もそこには入り込んでこないだろうが、その一瞬前や私が君に求めてきたときなんかは在るだろう?」
タキオンにそう言われると、田上もなんとなくあるような気がして、少々ぼんやりとしながら「あるかも」と言った。それから、タキオンは微笑んで田上を見た。
「今日はごめんね。…酷い事を言ってしまって」
「俺の方こそ軽率に喧嘩を吹っ掛けた。今でも、付き合いたいと思ってる。…ごめん」
「うん、いいよ。喧嘩と言ってもすぐに仲直りできた。私たちは頭の冷えが早いほうさ。そこら辺の彼氏と彼女だったら、もしかしたら、一週間以上口を聞かない事例もあるかもしれない」
「あるのかな?」
「それは、聞いた事がないから分からないが、とりあえず立とう。門限に遅れてしまう。ぎりぎりだろ?」
田上は時計を見た。すると、門限一分前だった。ここから一分であの寮までは着けないので、遅れるのは確定だった。それに、もうタキオンと別れてしまうとなると、我儘を言ってみたい気持ちも湧いて出てきた。だから、田上はこう言った。
「もう少し一緒に居たい」
「おやぁ?責任あるトレーナー君がそう言ってしまうのは不味いんじゃないのかな? また明日も会えるから、さぁ、立って」
タキオンはそう言って立ち上がると、田上の方に手を伸ばした。田上は、もう少しタキオンに甘えたかったので、その手を取ると立ち上がらないで、求めるように少し引っ張った。タキオンは、田上の引っ張る力を感じると、「しょうがないなぁ」と困ったように微笑んだが、毅然として田上の求めに応じようとはしなかったから、田上も仕方なく立ち上がった。そして、二人は抱き締め合うと、急いで寮の方に向かった。