ケロイド   作:石花漱一

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三十一、部屋に戻れば⑥

 寮に着くと、寮長が「お疲れ様です」と言って田上を出迎えた。田上はその横を会釈をしながら通り過ぎ、自分の部屋に戻った。そこで一息を吐くと、すぐにタキオンと話したいという欲が湧いて、寝る前にすべきこと諸々を済ませに掛かった。

 田上が、電話をかけた時には、タキオンはまだ風呂に入っていたため、電話に出てこなかった。代わりに、電話の向こうからデジタルの声がしたので、田上は間違えて電話をかけてしまったのかと驚いた。しかし、デジタルの方は、タキオンから「風呂に入っている間に電話が来たら、私は風呂に入っていると伝えておいてくれ」と言伝られていたので、タキオンの電話に出てきた次第だった。その事を田上に伝えると、田上は「いつもご苦労さまです」とタキオンの同室の子を労ってあげた。デジタルは、「こちらこそいつも楽しい思い出話をありがたく聞かせてもらっています」と恐縮した。そして、次に何を話そうかという沈黙が二人の間に気まずく流れたが、二人共話す義理もないので、田上が「じゃあ」と切り出すと」向こうも「じゃあ」と言って二人で電話を切った。

 タキオンが電話を掛けてきたのは二十分後だった。田上は、待ちくたびれて、ベッドに寝転がり本を読んでいる頃だった。タキオンの電話に出ると、田上は「長湯だったな」と言った。すると、タキオンはキョトンとした声で「こんなもんだろ?」と言った。田上は、てっきりタキオンが四十分や三十分くらい風呂に浸かっていたものと思い込んでいたが、田上が電話をかけたのが、丁度タキオンが風呂に入った頃だったので、そのような勘違いをしただけだった。その事に気が付くと、二人はふふふと笑い合い、タキオンは「じゃあ、君の事は待たせてしまったわけだ。すまないね」と言った。

 それから、二人は、なぜタキオンが遅れたのか、とか、田上の読んでいた本の事とか、適当な談話をゆっくりと済ませた後に、一番話したい事に取り掛かった。

「罪悪感はどうだい?」とタキオンが唐突に言った。田上は、自分の心の中を手で探ってみた後に、「まぁ、…どうかな」と軽めな口調で言った。

「完全に否定できないんだったら、まだ君の心にはあるね。…それをどうしてみたらいいかな?」

「俺には、もうどうすることもできないよ」

「諦めるにはまだ早いと思うんだよね。…と言って、私にも罪悪感の扱いに関する知恵もない。…君は、私の事が女子高生だか大人だか分からないと言って、制服が似合ってないと言っていたね?」

「ああ」

「…私が大人に見える時ってどうだい?罪悪感という物を感じるかな?」

「……んー、…分からん」

「…なら、何が苦しいとか具体的に分かるかな?…例えば、私のこんな仕草が嫌だとか、罪悪感に苛まれるだとか」

「………存在?」

 田上が、少々躊躇いがちにそう言うと、タキオンがハハハと笑った。

「それを言われちゃ困るが、あながち嘘でもないだろう。君は、私という存在に悩まされているんだからね。そうなると、彼女としてもちょっぴり寂しい物だね」

「だから、俺は、あんまりこの話はしたくない」

「いやいや、これは放っておくだけ寂しい物だよ。君が私を見る度に罪悪感を背負っていると思うと、こっちの方もやりきれない。ぜひ、この問題は君一人で抱え込まないで、私と一緒に解決してほしい」

「……でも、…俺はもうどうしようもないと思うんだけどね」

「話が元に戻った。 私は、この問題は見逃すべきではないと思っているよ。今後に関わってくる。君の罪悪感の為に、喧嘩をする度に別れる危険性があるのはあんまり芳しくないからね。私は、そんなぎりぎりに立って喧嘩なんてしたくない」

「カップルってのは、大体そんなもんじゃないか?」

「…どうだろうね?…でも、他のカップルがそうにしても、崖っぷちに立って、別れるか別れないかを目の前に突きつけてから、別れないというのを選択するのは、大分疲労の掛かるものじゃないかな?」

「まぁ、そうかもね」

「そうだろう? 君は、私の女子高生という肩書が嫌いなわけだ」

 唐突に切り替えられた話に、田上は素直に「うん」と頷いた。

「その肩書が無ければ、まだマシに付き合えると思うかい?」

 田上は、その質問に少し悩んでから、「どうだろうね?」と答えた。タキオンは、この答えをあまり予想していなかったようだ。少し驚いた声色になっていた。

「どうだろうね?…私が、二十五で、君の同僚だったとしても、君は素直に付き合えなかったと言うのかい?」

「…初めは簡単だと思う。俺から何か仕掛けるって事はあんまりないと思うけど、仕掛けられて、付き合うって事になったら、タキオンよりも付き合うことについて抵抗感はないと思う。でも、結局、同棲とか結婚とかになってくると、気が重くなりそうな気がするんだよな」

「それは、環境が変わるのが億劫って事かい?」

「……子供とか…結婚とかに責任が持てない」

「ふぅん?責任は持てるだろ?」

「いや、…俺ならビビる」

「……それは、…どうしたもんだろう?…確かに、私も子供に不安はあるけれどね…」

「お前は、良い母親になれそうだよ」

「そりゃあ、言って貰えてありがたいが、今日の様子を見てもそう言えるのかい?」

「…大丈夫じゃないか?」

「何を呑気な事を言っているんだい。苛ついて君に当たる様な人間が、子育てを上手くできると思うかい?」

「あと数年もすれば大丈夫なんじゃないか?」

「君の私への信頼がどこまであるのか知らないが、私が数年すれば大丈夫なら、君も数年すれば大丈夫だよ」

「どうかなぁ?」と少しお道化て見せた。

「どうなるかは分からないけど、君が私と付き合うという事に罪悪感が無いようにしなくちゃいけない」

「なくなるかな?」

「なくなるさ。少なくとも、軽減させる。常に、君の頭に別れるか別れないかがあるなんて可哀想だ」

「なくならないんじゃないか?」

「私はなくしてあげたいんだ。それに、だったら、君は例え他の女性と付き合ったとしても、結婚も子供も作れないという事じゃないか」

「時間が解決してくれるんじゃないか?」

「そりゃあ、…そうならそれがいいが、…それは他の女性の場合だろ?私が、今は付き合っているんだから、女子高生という肩書がある問題を真剣に考えなくちゃいけない。 それとも、もう大丈夫なのかな?」

「どうかなぁ…」

「…私がいつものように君に――好きだよ、と言うとしよう。すると、そんな私を君はどう思う?」

「どう思う?」

「どう思うんだい?」

「どう思うんだい?」

「…大人だと思うかい?」

「大人だと思うかい?」

 田上は、オウム返しをしながら少しの間考え込んだ。それから、こう言った。

「タキオンじゃないか?」

「そのタキオンはどう見える?」

「……タキオン」

「そうじゃないよ。女子高生とか大人とか。私は君の事が好きだ。そして、甘える。そういう時に、君は罪悪感が湧いたりするのかな?」

「……分かんない…」

「んー、でも、…結局、君は結婚や同棲の時に罪悪を感じるんだろ?」

「感じるかもね…」

 まるで、他人事のように話す田上にタキオンは苦笑しながら言った。

「他人事じゃないだろ?こっちは、君と結婚するかしないかの話をしているんだ」

「…うん」

「…うん。…うん。要領を得ないね。…とにかく、今の話をまとめると、君は私と付き合うことそのものに罪悪感を感じる。また、結婚や同棲についても、不安感がある。こういう事だね?」

「結婚や同棲は、押し切られればするかもしれない」

「押し切られるのはあんまり良くないね。後から自分の意見を言って、結婚した後に喧嘩するような事があるかもしれない。そうならないためにも、結婚するときには今のように話し合って、お互いの心残りが無いようにしないといけない」

「でも、…どうなんだろうね」

「なにがだい?」

「……特に、何もないけど…」

「何もない事はないだろ」

「………結婚できるのかな?」

「私はしたい。でも、君は不安らしい。押し切られたらするらしいが、それは後に尾を引くからあんまり良くないだろう、って話だ。結婚できるならすればいい」

「…タキオンは怖くないの?」

「私は、早く君と一緒になりたいという気持ちの方が勝っている。それに、結婚してからしたい事もちゃんとある」

「したい事?」

「子供とかいるだろ?それをちゃんと育てる」

「でも、静岡のお前の親御さんの家では、不安だとか言ってなかったか?」

「不安だよ。まぁ、同棲してからそこで尻込みするかもしれない。でも、まぁ、若干の夢もある。子供はたくさんほしい。にぎやかな家庭にしたい」

 そう言われると、田上の心臓も変な具合になってきてしまった。追い詰められているような心地がある。タキオンは、それを田上の躊躇いのある沈黙から察したのか、こう言った。

「女子高生と子供を作るなんて論外かい?」

 田上は、暫く黙った後に「ああ」と重苦しく頷いた。

「お前を…まだ、…担当みたいに思う気持ちもある」

「…担当に手を出してはいけないと?」

「ああ」

「…私は、…全然手を出されても構わない」

 今度は、田上も黙ったから、タキオンがこう言った。

「まぁ、当分は一線を超えないようにしないといけない。キスまでがギリギリだ。それ以上はやっちゃいけないと分かっているから、あの静岡の家で母さんが――一緒に風呂に入れば?と言ったのも、結構無責任だね」

「そうだね」

「…でも、私は手を出されても良い」

「…」

「…むしろ、手を出してもらった方が、男と女として居れるんじゃないか?」

「……居れないよ…」

「なぜだい?」

「お前は、……女子高生だからだ」

「でも、晴れて、次の四月一日から私は女子高生じゃなくなる。その時はどうだい?」

「……あんまり…軽々しくはしたくない」

「…まぁ、やる時にできればいいが…、一度、未遂事件を起こした時があったね?」

「未遂?」

「私が君の部屋に上がりこんで、してもいいと言った時だよ」

「ああ…」

「実際してもいい。…さっきは、担当としての私だと思う時があると言ったね?」

「ああ」

「君の事だから、担当に手を出しちゃいけないと思って、今まで過ごしてきたんだろう。まぁ、一線は超えちゃいけないのは分かるが、結婚すればいずれは超える一線だ。その時に、…君はどうなるかな?」

「…それを考えないといけないのか?」

「でも、私たち、結婚は考えているんだ。なら、いずれ超えるべき一線の事は考えておくべきだろう?」

「…考えなくてもいいんじゃないか?」

「…でも、君が私の事を見てると、罪悪感が湧いてくるって言うから、今こんな話をしているんじゃないか。私は、君が罪悪の向こう側に私を置いて話すのは嫌だ。私は、君の妻だ」

「…まだ、気が早いよ」

「いいや、あと一年もすれば妻だ。卒業したらすぐに籍を入れるんだろ?」

「大学とか進むつもりはないのか?それに、選手生命もある」

「競走は卒業と同時にやめる。私は十分に勝った」

「宝塚は?」

 そう言うと、タキオンは少し押し黙ってから言った。

「非常にセンシティブな話題だね」

「前の方がもっとセンシティブな話題だった」

「それとこれとは別だ。宝塚記念の問題は、私にとって非常にセンシティブだ」

「なら、結婚とか子供の事だって、俺にとっては非常にセンシティブだ」

「結婚はいずれするべきことじゃないか」

「宝塚記念だっていずれするべきことじゃないのかな?」

「……まぁ、この問題は後回しだ。とにかく、私は今トレーニングをしているだろ?四の五の言っていない。今日も真面目にトレーニングをやった。むしろ、全盛期より真面目なくらいさ」

「今も全盛期だろ?」

「私には分からないね」とタキオンは返答から逃げた。田上はそれを追窮しようかとも思ったが、手の付け方があんまり分からないので、何も言わなかった。代わりに、タキオンがこう言った。

「宝塚記念はどうとでもなる。君の結婚はどうとでもならない」

「宝塚記念もどうとでもならないよ。出るからには勝つんだろ?カフェさんも居るんだから簡単には勝てないぞ」

「カフェには菊花賞で勝った。今更負ける私ではないさ」

「そりゃあ、お前、自分を過大評価し過ぎだろ」

「おや、彼女の事をもっと誇りに思ってくれてもいいんじゃないかな?」

「……いいよ。…それで」

 田上が、苛つきながらも諦めた声でそう言うと、タキオンもすぐに事態を察した。

「ごめん。許してくれ。君と喧嘩したいわけじゃないんだ」

「…いいよ」

 田上の苛ついた調子はあまり変わらなかったから、タキオンは、悲しそうに眉を寄せた。しかし、その様子は電話越しの相手には見えない。二人の間には、一瞬の沈黙が訪れた。それから、田上がため息を吐いて言った。

「お前を担当として扱えばいいんだか、彼女として扱えばいいんだか分からない」

「私には、彼女として出走してくれと言ったよ」

「…でも、…お前は…」

「彼女として走ったら弱くなるなって言いたいなら、君の口からは聞きたくないね」

「…弱くなる」

「…もともと、私はこんなもんだ」

「…いや、俺があの時見たタキオンはそんなもんじゃなかったよ」

「じゃあ、彼女じゃ…、ううん、そういう方向に話を勧めたいんじゃない。君の罪悪感だよ」

「いい機会だから、もう少し宝塚記念について話そう?」

「話せることがあるのかい?」

「………勝てそうか?」

「…どうだろうねぇ?」とタキオンはわざと軽めな口調で答えた。

「…カフェさんは大丈夫そう?」

「大丈夫そうに見えるかい?」

「今のタキオンなら十分に勝てると思うよ」

「そう思うんなら君も随分呑気だねぇ」

「冗談じゃないよ。トレーナーの立場から見てもそう思う」

「私の彼氏として、彼女の事を見ていてほしいな」

「彼氏として見るんだったら、俺のできる事は何もない」

「あるよ。励ますとか」

「励まして勝てるのか?」

「まぁ、圭一君からの応援があったら百倍速く走れそうかな」

「……それじゃあ、トレーナーは必要ないな」と皮肉混じりに言った。

「そうだね。私専属のモルモット君になりたまえ」

「残念ながら、他の人が必要としてる」

「私の彼氏なのに?」

「お前の彼氏だけじゃいられない」

「それじゃあ嫌だよ。私だけを見たまえよ」

「…宝塚記念は…、…どうなると思う?」

 唐突に切り出された田上の言葉に、一瞬の間を置いてから、タキオンは言った。

「どうなったって良いだろう?それとも、君は勝ちにこだわるのかい?」

「わざわざ負けるために出走するのか?」

「そんな事じゃない。勝ったって負けたって良いだろう?という事だ」

「じゃあ、お前は何を目標にして出走するんだ?」

 それを聞かれるとタキオンは困った。「何って…」と言いながら、次に言うべきことを考えた。タキオンの心中にあったのは、最早、田上との明るく楽しい同棲生活だった。以前のような、競走を目的にしたものではない。今は、田上と生活できればタキオンにとって万全で、宝塚記念などの競走は、その生活の延長線上に過ぎなかった。

 つまり、宝塚記念など、本来のタキオンにとってはどうでもよく、何もかものついででしかなく、渋々やるものだった。それ故に、何と言う目標があるはずもなかった。

 タキオンが返答に窮すると、田上がこう言った。

「お前にとって何が望みだ?」

「……君と生きる事」

「…走りはもうやめるのか?」

「やめない」とタキオンはすぐさま答えたが、この瞬発力にタキオンも驚いた。口が勝手に動いたような物だったので、タキオンが意図した答えではなかった。だからと言って、じっくりと考えたとしても、やめないと答えた可能性は十分にあった。

 田上は、電話の向こうで暫く考えてからこう言った。

「どうも、…俺にはお前をどう扱えばいいのか分からないよ」

「私は彼女として扱ってほしい」

「そしたら、担当のお前はどうなる」

「…両立はできないのかい?」

「…したことがないから分からない」

「…」

「…お前を担当として扱ったら、不満が出るんだろ?」

「……ああ」

「…なら、その時点で両立ができない」

「…私、君の彼女だもん」

「……彼女」と言いながら、田上は、別れるということを頭に思い上らせた。しかし、つい一、二時間前にその話をしたばかりだったし、頭も大分冷えていたので、それを口に出すことはしなかった。ただ、それでも、別れるという単語が頭の中に上がる以上、タキオンをどうすべきなのかと考えた。

 別れて安泰なのかと言えばそうではないだろう。ここまで親密になったのだから、今までのように担当とトレーナーというだけではいられない。どちらか片方がこの学園を去らなければ、事の決着はつかないのだろうと思う。その大混乱が起これば、二人共傷付くだけなのは目に見えているので、それは避けたい。しかし、自分の頭の中には、軽率に別れるという単語が出てくる。タキオンも嫌なのだろうと思うが、出てくるものは止められない。

 ——どうしたものか…、と田上は思ったが、何も思いつかない。その内に、枕元に置いていた本が気になって、手に取った。そして、パラパラとページを捲ると続きを読み始めた。初めは、数ページ読むだけのつもりだったのだが、タキオンが何も話さないのと、活字に引き込まれるのとで、田上は普通に読書を楽しんでしまっていた。それから、タキオンが「君、本を読んでいるのかい」と電話越しに言うと、田上はすぐにタキオンとの電話を思い出して、「ああ、ごめん」と謝った。

 タキオンは、ため息を吐いてから言った。

「はぁ…。…同棲したいよ」

「…」

「…なんで、今、私がこう言ったか分かるかい?」

「分からない」

「君が本を読んでいるというのも電話越しだと気が付くのに時間がかかるからさ。それが同棲していれば問題なく解決する。こうやって話すのも机越しでできるし、無言の時間という物も感じれることができる。 そうだよ、無言の時間だよ。同棲しないと、君と暇な時間を読書して過ごすということもできないだろ?」

「うん」

「触れ合うだけでも大いに意義があるじゃないか。それに、同棲していなければ、わざわざ君と時間を作って会わなければいけない。それが、わざわざ会わなくても、常に一緒に居るという事だよ」

「うん」

「…魅力的じゃないかな?」

「…今は難しいだろうけどな」

「…んん…、駄目だね。 考えてもみてくれよ。私は、君の家にすら、上がることは叶わないんだぞ?」

「前は、上がってきてたじゃん」

「上がっていいなら上がるが、あんまり目立つ行動は避けたいんじゃなかったかな?」

「まぁ、…そうだね。規則もあるし」

「そうだよ。私はがんじがらめさ。年齢に規則に…その他諸々。全然君と一緒になれないじゃないか」

「しょうがないもんだね」

「しょうがないなら済めばいいがね?…私はそこらの学生の様にも行かない。そこらの学生、つまり、寮に入っていない学生だよ。…待てよ?良い事を思いついた!君、そこの寮から出たまえ!」

「なんで?」

「君が他のアパートか何処かに住めば、休日は一緒に居れることになる」

「ん?」

「んん!君も察しが悪いなぁ!つまりだよ!つまり、君が他のアパートに住む。そうすると、もう寮の規則はいらないわけだ。外なら、トレーナーと二人で同じ家に泊っても全く問題がない。つまり、休日は君と一緒の家で過ごすことができる。なんなら、泊ったとしても怪しまれることはないだろう」

「…すぐに?」

「うん。今月中にもやって構わない。君が引っ越すときには私も手伝うよ。 いやぁ、私も良い事を考えついたものだね。君が寮の外に出れば問題ないわけだよ」

「……金は?」

 田上は、無作法と思いつつも、タキオンの突拍子もない道理について堪え切れなくなって、聞いてしまった。それで、タキオンも田上が何を指して、自分に聞いているのかに気が付いて、少し動揺した。

「金は…」と少し考えた後に、「私が出そうか?」とタキオンが提案した。しかし、自分が住む家に彼女が金を出すというのも変な話なので「いい」と田上は断った。ただ、これはタキオンの我儘から出てきたものだったので、それから振り回される身としては、少々納得が行かない。タキオンも、そんな田上と折り合いをつけようとして、「半々かな?」と提案した。

 田上は、恨めし気にスマホの画面を見た。ふわふわとぼやけた光の輪郭が、ただ画像として映し出されているだけである。この画面で、今すぐにでも電話を切ってしまえる。田上は、そんな意地悪を一瞬してみたくなったが、それをしたところで話が余計にややこしくなるだけなのでやめることにした。

 代わりに、こう言ってみた。

「金とかだけじゃないよ。財産も俺とお前で一つになるという事だよ。付き合うってそう言う事だろ?」

「そうだね…。でも、…君が良いんだったら、私の口座にあるお金は自由に使ってくれ構わないよ」

 そう言われると、田上も困ってしまって、黙り込んだ。こうなると、なんだか、幼気な少女を騙しているような心地になった。田上には、付き合った時のお金の考えなど全くなかった。ただ、今、不図浮かび上がった問題に、飛びついてみただけだった。そして、その問題を考えれば考える程、自分に結婚の意思がなかったのだと分かる。すると、タキオンを騙している気分になる。実際、騙しているかもしれなかった。ただ、自分が恋した人と付き合っているという喜びに酔いしれて、その為に、彼女には体の良い言葉を投げかけているようだった。

 田上は、妙に冷えている頭の中で、次にどう言えばいいのだろうかと考えた。心臓は、妙に熱く、血を体中に巡らせているように感じた。タキオンとまだ付き合いたいという気持ちはあったが、自分には、どうもその度胸がない。覚悟がない。自分の金を彼女に自由に使わせてやるという覚悟は、田上にはまだなかった。ただ、未だにお遊びとして、恋を楽しんでいた。――この男は本当にどうしようもないな…、と思うと同時に、――タキオンと一緒に居れる道はないのだろうか、と思った。

 しかし、どうにも覚悟が据わっていないということが目の前にあると、道を探そうにも、まず覚悟を決めなければならないという事が先決になった。覚悟を決めなければ、この先一緒に居る事もできない。――自分にその覚悟があるのだろうか。そう思いながら、ない事を確認して、田上は返答をタキオンに与えられずにいた。すると、タキオンの方から言った。

「…まだ、…私と居るのに罪悪感が湧くのかい?」

 田上は何も答えなかった。

「…まぁ、君の罪悪感がなくならない事にはどうしようもないね。 とりあえず、私のお金は貸してもいいよ。いや、あげるよ。私が部屋を借りるから、そこに…住んでほしい。……君の生活が多少混乱するって事は分かっているんだけども、…そうなれば、…私としては良いと思うんだよ…」

「……問題は、俺の罪悪感だけじゃないよ。…幾ら同棲じゃないといっても、休日の度に泊りに来るんだったら、それはもう他人から見ても付き合ってるも同然だ。すぐに、週刊誌か何かに嗅ぎつけられる」

「付き合ってるも同然だったら、人前でキスをしている方がもっと付き合ってるも同然だ。君は、すぐに週刊誌週刊誌と言うが、週刊誌だってすぐには嗅ぎつけないだろう」

「いや、もうすでにトレセン学園内では俺たちが付き合っているっていう噂が流れてるんだ。これは、冗談じゃないぞ。この中に、週刊誌に垂れこんでいる人が居てもおかしくはない。それに、この前海で会ったような記者もいる」

「あれはたまたまだ。まだ話の分かる人だったから良かったが」

「そうだよ。考えてみろ。こっちは成人なんだ。お前は、まだ二十じゃないから成人じゃない。だから、報道される時には、俺が未成年と半同棲みたいに報道されるんだぞ」

「そりゃあ、言葉の見てくれに騙されてる。実際、君は私の事を未成年だと思って接していないじゃないか」

「……接して」と言いかけた田上の言葉を、タキオンが遮った。

「接してない。私の事を本当に子供だと思うんだったら、私たちはこうして付き合ってなんかいない」

「でも、お前は十八だ」

「そんな問題、とうの昔に過ぎ去ったじゃないか。十八とキスしたんだろ?十八と結婚したいと言ったんだろ?」

「……」

「ごめん。今のは言葉が強すぎた。…あんまり向きになり過ぎた。…でも、…でも、…君が私の事を愛してくれているということを知るためには、男と女になるしかないと思うんだよね」

「…今は絶対に無理だ。本当に、その線だけは超えちゃいけないだろ?」

「分かってるよ。だから、もどかしいんだよ。君がもう後に引けない状況にするにはそれしかないだろ?それをすれば、私の事をちゃんと見つめないといけなくなるじゃないか」

「…それをしたところで、俺の罪悪感はもっと増すだけだよ」

 田上がそう言うと、タキオンは不図、帰省の時に見た夢の事を思い出した。田上との間で産んだ子供が胸に重くのしかかる夢だ。そうすると、タキオンは心の中で――ああ、と納得して田上に言った。

「そういう夢をこの前見た。…結局、君と私との間に生まれた子供は、負担になるだけだった」

「……ごめん」

「君が謝る必要はないよ。私はなんとか君と上手くやって行きたい。だから、君が私と子供を作っても罪悪感を感じないようにしたい。私は幸せな家庭を築きたいんだ」

「…難しいぞ…」

「難しくてもやるさ。少なくとも、君は私の事が好きなんだ。…ねぇ、もっと素直になってくれよ。私の事好きだろ?」

「……好きだよ」

「んん、それじゃ、あんまり満足できないね。…でも、…実際の所を聞かせてくれ。君は私と暮らしても良いと思っているのかい?恥も外聞もなく、週刊誌もない世界があったとして、君は私と暮らしても構わないかい?」

「そんな世界があるんだったら、暮らしてみてもいいよ…」

「…無意味だね。無意味な質問をした。結局、それは君の理想通りの世界でしかない。問題は、君の理想と私の理想をどう照らし合わせていくかだ。私は子供が欲しい。そして、君は、私と付き合うのに怯えている。…実に面倒だねぇ」

「…面倒なら」

「面倒なら、捨ててくれなんて事言わないでくれ。私が君に心底惚れているのは知っているだろ?」

「なんで俺に惚れるんだ?」

「そりゃあ、君が立派な男性だからさ。この二年間、私をひたすらに支え続けてくれている」

「支えただけだ」

「その支えが、十八歳を恋に落とさせるとは知らないのかい?」

「恋に落ちるのか?」

「失礼だな。普段の私を見たまえよ。君の虜じゃないか」

「……未成年の癖に」と田上が冗談めかして言うと、「おやぁ?」とタキオンが半笑いになった。

「成年の癖に私に心底惚れているじゃないか。私の事を抱き締めて、――結婚しないとな、って言ったじゃないか。私の事が大好きじゃないか」

「…どうにも、世間は逆風で辛いな…」

「大丈夫だよ。私と結婚すれば、案外何もなかったなということになるさ」

「…お前と結婚ねぇ…」

「…考えてみてくれよ。私だよ?もしかしたら、今後私以上に良い人が君の前に現れないかもしれないよ?そういう時になって、結婚しておけば良かったと後悔するのはもう遅すぎるだろ?私は今こんなに必死になってラブコールを送っているんだから」

「う~ん、…ふふふ…」と田上は誤魔化し笑いをした。

「…君は、実際の所、罪悪感を抜きにして、私と男と女という立場になりたくはないのかい?いや、もうなっているわけだが、性だよ。性のある立場にはなりたくないのかい?」

「……う~ん…」と田上は返答に躊躇った。すると、タキオンがこう言った。

「担当じゃない。今の私は担当じゃないから、素直に言ってみてくれ。それを聞いて、私が調子に乗るということもしないから。一線は、きちんと守る。卒業までは守るから」

「…う~ん…」

「彼女だよ。担当じゃない。私を彼女として捉えてみてくれ」

「う~ん、……そりゃあ、彼女だったらそれでもいいけどね…」

「なら、私は万々歳じゃないか!君の愛すべき彼女だよ!君が心底惚れている彼女だよ!」

「そりゃあ、彼女として受け止めていられるならそれでいいけど、お前は担当だろ?お前が、走りをやめて引退するって言うんだったら、まだ立場上のしがらみも解れただろうけど、お前がまだ走りたいって言うんだからしょうがない」

 そう言うと、タキオンは少しの間黙った。

「…それは狡い。私が走りたいって言うんだったら、それが君の役目じゃないか」

「でも、お前は担当じゃなくて彼女として見ろって言うんだろ?」

「そりゃあ、言うけど、もうちょっと器用にできないかい?」

「できない」と田上は、少し怒りながら言った。

「…まぁ、今の言葉も悪かった。私も言動を少し改めないといけないね。 でも、…だねぇ。…私、…私は、…私も悪い所があるからなぁ」

「お前が走る限りは、俺はお前がレースで勝てるように調整しないといけないんだ。それを、勝つ気がないのに、出たいって言われると、こっちも困るんだよ。これは、彼女とか彼氏とか関係なくだ。トレーナーとして見るんだったら、お前の態度が気になってしょうがない」

「だから、彼女として見てくれと言っているんじゃないか」

「じゃあ、彼氏としても気になる。彼氏の本職はトレーナーだから。彼氏としても気になる」

「…でも、…でも、…しょうがないじゃないかぁ…。出走登録はしたんだろ?」

「出走登録はしたよ。よっぽどのことがない限り出ないといけない。カフェさんが走るって言っても、お前はトレーニングを続けただろ?」

「続けるには続けたさ。君の前では良い顔をして居たいもの」

「俺が一緒に住もうと言っても、走り続けると言っただろ?」

「ああ…、そんな事も言ったね…。あの時に、素直にうんと頷いておけばよかったよ…」

「あの時頷いてくれても、俺は多分一緒には住めなかった」

 田上が少し気落ちした声で言った。

「まぁ、そこからも悩みはあっただろうね…。 アパートの話はどうなった?…私の我儘ではあるんだけど、どうにかできないかな?」

「…お前は、未成年だ…」

「未成年ではあるが、同時に君の彼女であり、結婚を約束している仲であり、子供を産める年齢だ。その事を踏まえて話してもらいたい。私は、君にとってただの未成年じゃない。君が心底惚れこんだ未成年だ。女性だ。キスもした。その事を踏まえてもらいたい」

「……アパートの話はいい考えだとは思う。人の視線を気にしないのであれば、適当な場所に住んでも良いと思う。金はどっちでもいい。あれを聞いたのは悪かった」

「気にしてないさ」

「…金はどちらかが負担するとして、…この前この部屋に移ったばっかりだからなぁ…」

「まぁ、君がいつ越そうと寮長の方が詮索する事ではないよ」

「でも、…色々と準備してくれたからなぁ…」

「事情ができたんなら、やむを得まいよ」

「…そんなに不人情で良いのかなぁ?」

「…どうせ、一週間後にはそんな事忘れてるよ」

「それで、もし、俺とお前が通い妻みたいな事をしていると報道されたら?」

「それが何になるんだい?」

「…寮長さんが、――そんな事の為に俺の苦労を…、って思わないかな?」

「思っていたとしても関係あるまい」

「でも、一応、お世話になった人だよ?お前が門限に遅れるのを俺が待っていた時も、寮長さんは待っててくれたんだからな?」

「そりゃあ、ご苦労な事だが、彼もそれが仕事だから問題はないだろう?結構、日常茶飯事的な物ではないのかな?」

 タキオンにそう言われると、田上もそうであるような気がしてきたが、それで人情のような物を捨てて良いような気はしなかった。そこで、田上が躊躇っていると、タキオンがこう言った。

「日常茶飯事なものだよ。どちらにしろ、やらなきゃいけないときはいつか来るじゃないか」

「でも、…可哀想と言うか…何と言うか…」

「そんな人の事を可哀想と思わないで、もう少し私の事を可哀想と思いなよ。こっちは、君と休日を一緒に過ごしたくてたまらないんだよ?」

「…お前ならもう少しぞんざいに扱っても…」

「駄目に決まっているじゃないかぁ。君の彼女だよ?繊細なんだからもう少し丁寧に扱いたまえ」

「…まぁ、今ここで決める事はできない。また、お前と顔を合わせて話したほうが良いと思う。 でも、アパートの考えは良いと思っている暇がある時に越せればいいし、俺一人の問題で済む」

「…私、思ったんだけど…」

「…何?」

「…もし、私が君の家に通っていたことが週刊誌に取り上げられるじゃないか…」

「うん」

「その場合、まだ隠し通すわけにもいかないだろ?」

「うん」

「最早、言い逃れはできないわけだから、二人で結婚すると決めている以上、交際をしているとか何とかは言っておいたほうが良いと思うんだよね…」

「うん」

「すると、もう私たちの関係を隠し通す必要はない。必要が無ければ、同棲していても問題は無いんじゃないか?」

「……問題は、…お義父さんたちの信頼を裏切ることになるんじゃないか?」

「ああ、…そうだね…」

「それに、同棲は危ない綱渡りだと思う。周りに止める人が居ないから、自分たちだけで突き進んでいっても、過ちを犯している事にすぐに気が付けない。だから、やっても休日に俺の家にお前が泊りに来るくらいだ。…それも少し危ないかもしれない」

「…少し考えすぎだとは思うけどなぁ…。…私は、自制が利く方だよ?」

「俺は周りに流されるタイプだ。…押されると弱い」

「私の自制が利くんだから、君が押されることもないだろう?」

「お前の自制が利くのかどうかは疑問が残るな。 前も危ない時があった」

「でも、その時もちゃんと押し止めたほうだよ。むしろ、君の方が完璧に流されていたじゃないか。あれは、トレーナーとしてあるまじきことだよ」

「……そりゃあ、…そりゃあ、悪かった。次からは気を付ける…」

「次から気をつけると言ったってね、君は次もオーケーを出してしまう可能性は十分にあるけどね」

「…だから、同棲はやっぱりやめたほうが良い。ここも一線だ。普通の高校生は、卒業しないと同棲まで行かない」

「…私は良いと思うんだけどな」とタキオンが食い下がった。「だって、寮から出て一人暮らしをしている人も居る事には居るんだよ?」

「あんまり切羽詰まって動く必要もないと思う。とりあえず、お前は休日に俺の部屋で過ごせれば満足なわけだろ?」

「まぁ、満足だね。 その部屋はどうするんだい?…私たちが結婚するまで使うのかな?」

「う~ん…」

「子供が生まれるとなったらそれなりの広さが必要だよ?そこに住み続けるのであれば、家族が住む事も見据えた間取りを選んだほうが良いんじゃないかな?」

「…まぁ、そこらへんも含めて、明日一緒に考えよう。まだ、住むかどうかは決まってないからな?過度な期待はやめろよ?」

「分かった。存分に期待して待っておくよ」

 そうして、話は一段落を終えて、二人は一瞬の沈黙を覚えたが、さほどの間髪を入れずに田上が言った。

「宝塚記念の話は終わっていないぞ?」

「ええ?まだその話をするのかい?」

「したほうが良いだろ?」

「そりゃあ、私には何とも言えないが、結局堂々巡りになるだけじゃないか。それよりかは、まだ同棲の話に夢を広げたほうが意義があると思うね」

「同棲は、…同棲じゃないけど、同棲はお前と顔を合わさないと俺は話さない」

「なら、宝塚記念のこともそうしたまえよ。どちらにしろ堂々巡りだ」

「…走りたいんだろ?」

「そりゃあ、私も走ると言ったからには走るさ。君の彼女として走るよ」

「それじゃあね、…それじゃあ、俺だってお前のトレーナーとして傍に居る意味がない。 競走は、宝塚記念きりでやめるって事で良いのか?」

「それは約束しかねる」

「なんで?」

 田上は、多少驚きながら聞いた。

「宝塚記念の後も走るかもしれないからだ」とタキオンは当然のような口調で答えた。

「じゃあ、宝塚とか、その後は何の為に走るんだ?俺の為に走るのか?」

「…まぁ、…そういう事になるかもしれない」

「でも、俺は走らなくても良いって言っているんだぞ?」

「じゃあ、君の為に走らないかもしれない」

「…どうも、…お前の意図が掴めないんだよなぁ…。…なんで走るんだよ」

「そりゃあ、私にも言えない」

「なんで?」

「なんで?……私にも分からないね」

「……俺の為を思うんだったら、むしろ、走らない方がありがたい」

「なんで?」

「…そっちの方が、もっとちゃんと彼女としてお前の事を見つめられる。これが、ひいてはお前の為になるんだろ?」

「…私の為にならないかもしれない」

「ええ?だって、さっきは彼女として見てくれよと言っただろ?」

「両立してほしいとも言った」

「でも、彼女として見てほしいんだろ?」

「そりゃあ、そうかもしれない」

「そうなら、走らない方がお前にとっては得だろ?」

「得かもしれない」とタキオンがのらりくらりと避けようとすると、田上も少し語気を強めて言った。

「そんなに逃げようとするなよ。俺は、お前の好きな彼氏なんじゃないのか?」

「そりゃあ、…そうかもしれないがね、……私だってあんまり良く分かってないんだよ」

「走る理由?」

「…そうかもしれない」

「その、かもしれないってのはやめないか?」

「いや、今のは逃げたいわけじゃないんだよ。本当に分からないんだ…」

「そうか…」と言いつつ、田上は真面目な顔をして、スマホの画面を見つめた。画面は、先刻と同じように、丸い光の輪郭がポヤポヤと舞っているだけである。

 沈黙が二人の間を暫く行き来した後に、田上が言った。

「多分、…お前が、俺と生きるために走るっていうのは嘘だな?」

「……おそらく」

「…お前が返事を曖昧するのも、一つには、考えたくないってのがあるんじゃないか?」

「…うむ…」とタキオンは唸った。

「お前は考える頭があるから、考えてみれば、自分の胸の中にある物に、それ程の苦労を要せずに近付けそうだろ?…少なくとも、俺からはお前の事がそう見える」

 田上はそこで次に言うべき言葉を見失って、言葉を切った。何か言おうにも、その後に言うべき適切な言葉が何なのか分からなかった。ここから助言に繋げるのも少し違うような気がする。考えてみろと責めるのも、タキオンに一種の強制力が働く。田上は、タキオンに自ら考えてほしかった。

 すると、田上はこのままタキオンを放置しておかねばならないような気がするが、惜しむべきは、電話口だったので、タキオンの様子が確認できない事だ。こうなると、田上もタキオンと同棲して対面で話をした方がやりやすいと思ったが、それはそれとして、田上はタキオンが何か反応を示してくれるのを待った。しかし、タキオンはいつまで経ってもうんともすんとも言わない。先程の自分と同じように、本を読んでいるのかとも思って電話口に耳を澄ませてみたが、何の物音も聞こえない。ここで田上から話し出してしまうと、また、タキオンに話を有耶無耶にされたようで、なんとも居心地が悪かったが、何も事態が進展しないとなるとそれはそれで仕様がないので、田上はそろそろ口を開いてみようかな…と思い始めてきた。丁度その時になって、タキオンがため息を吐いて言った。

「はぁ……。君と同棲したい…」

「話を逸らされると困るよ」

「…彼女の話も聞いてくれよ…」

「彼氏の話も聞いてほしいと思うね」

「…いやだ」

「我儘言われると困る」

「彼女の我儘を聞いてくれるのが彼氏ってもんだろ?」

「彼氏の我儘はどうなるの?」

「ちゃんと私が受け止めてあげるさ」

「じゃあ、彼氏の我儘として、宝塚記念の事をもう少し考えてみない?」

「それは、トレーナーの我儘だ。トレーナーの我儘は受け付けられない」

「…屁理屈が上手いなぁ」

 田上は少々の皮肉を込めてそう言った。タキオンは、それには何も答えなかった。

「……お前は、…トレーナーとしての俺は嫌いって事でいいんだな?」

「…そんなことはない。…好き」

「じゃあ、トレーナーとしての俺の我儘も聞いてくれよ」

「…できない…」

「…なんで?」

「……聞かないでくれ」

「…同棲すれば何もかも教えてくれるのか?」

 これにもタキオンは何も答えなかった。ただ、今は、二人の間に隔たるスマホが、田上には邪魔で邪魔で仕方がなかった。

「……お前の言った通り、堂々巡りにはなる。…堂々巡りにはなるんだけど、お前の口が達者だから、いつも際どい所で逃げられるんだよなぁ…」

 また、タキオンは何も答えなかったから、田上も遂に諦める事にして、こう言った。

「今日の夕飯美味しかったか?」

「……うん」とタキオンは間を空けて答えた。二人は、それからは宝塚記念の事には触れずに話を続けて、もう寝るという頃には、幾らか会話の弾むようになっていた。そこで田上が「宝塚記念の事と、引っ越すかもしれないアパートの事は、また明日話し合おうな」と言うと、タキオンの口はまた重くなった。しかし、うんと頷くことはして電話は切れた。

 二人は、静かな眠りに就いた。




これにて、春光編は終了となります。次回からは、宝塚記念編です。
長い間、春光編をご愛読くださりありがとうございました。次回からの話も、楽しんで読んでいただければ幸いです。
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