タキオンが居なくなると、マテリアルがスマホを置き、田上の方を見て言った。
「今度は何をなされるんですか?」
「…タキオンとの相談で、…引っ越しをしようかと…」
「…同居ですか?」とマテリアルが怪訝な顔をして言った。
「いや、…寮の生活に縛られて動くのが嫌そうなので、せめて俺だけでも寮から離れて自由になれば、タキオンも動きやすいそうです」
「…何か変わりますか?」
「…休日には泊りに来たいそうです」
「…アウトじゃないですか?」
「そうですかねぇ」と田上が情けなさそうに言った。「一応、一線だけは超えないつもりでいるんですが…」
「超えないと言ってもはずみで超えてしまったら、元も子もありませんよ」
「そうですかねぇ…」
「…ま、今更止めた所で止まるあなた方ではないでしょうし、超えないと言っているんだったら、一先ずそれを信じてあげましょう。 でも、超えないと言っているからには覚悟してくださいよ。超えたら、私、このチームをやめます。それに、学園の方にチクりますからね。いくら、トレーナーと生徒の恋愛が禁止されていないからと言って、学園の方もそれを見過ごせるわけがないでしょうし」
「はい。気をつけます」と田上が言ったところで、話は一旦途切れたが、マテリアルがまたすぐにこう言った。
「結婚って良いですよねぇ…」
田上は、これにどう反応したらいいのか分からなかったから、敢えて、返事をする事はしなかったのだが、マテリアルは田上との会話をしたいらしく、また続けてこう言った。
「田上トレーナーは、タキオンさんとの結婚楽しみですか?」
「…まぁ…、はい」
「嘘つかないでくださいよ。さっき、進展したくないって言ってたじゃないですか、屑彼氏みたいなこと」
これには、田上も答える術をしたないので、マテリアルから目を逸らして自分のパソコンの画面を見つめた。電源を入れてないので、自分の顔が映っていた。それから、マテリアルがまた言った。
「あんな美人を捕まえておいて進展したくないだなんて、贅沢にも程がありますよ。まだ、女子高生ですが、まぁ、美人な奥さんになるんでしょうね。…羨ましい」
どれもこれもあんまり答えづらい話だったし、どうも、田上の受け答えがそんなになくても一人で話し続けていそうだったので、田上はぼちぼち返事をする事にした。
「私も高校卒業して、男の人捕まえられるんだったら、捕まえたかったなぁ」
「いいなぁ、十八という若さでもう将来が安泰だなんて…。聞いてます?田上トレーナー」
「聞いてます」
「良いとは思いませんか?あなたも美人な奥さんが貰えてさぞ良い事でしょう」
マテリアルは、皮肉っぽくそう言った。田上は、少し返答を考えてから言った。
「…奥さんと結婚するのも難儀ですけど」
「なんでですか?あんな美人ですよ?世の中の男は、そうそうあんな人貰えませんよ?」
「…貰えたら嬉しい事ですけど、…歳の差がありますからねぇ」
「歳の差がなんですかい!愛し合えればそれでいいんですよ!トレーナー、何歳でしたっけ?」
「二十五ですね」
「って事は…?タキオンさんとは八歳差?ふーー、芸能界には八歳差くらいいくらでもいますし、そこら辺にも八歳差くらい余裕でいるでしょう」
「いますかね?」
「いますよ。ご両親は?」
「同い年です」
「私の両親も二、三歳しか歳は離れていませんが、二、三歳がいるなら、四、五歳年が離れているでしょう?すると、四、五歳離れていれば、八、九歳離れているのもいますよ」
「…まぁ、そうでしょうね…」と田上が、タキオンの事を考えながら言うと、また変なスイッチが入ったのか、マテリアルは結婚の事についてうだうだと言い始めた。
「結婚って良いですよねー。早く私もいい男を見つけて生涯安泰になりたいもんです」
——いい男は前に紹介したし、結婚したからと言って、生涯安泰になれることもないんだけどなぁ、と思いながら、田上はその話に黙して答えなかった。すると、またマテリアルは変な絡み方を田上にしてきた。
「田上トレーナーはどうですか?結婚って最高でしょう?」
「誘導尋問ですか?」
「最高でしょう?」とマテリアルは、圧をかけるように言ってきたから、田上も苦笑した。
「最高かもしれませんね」
「でしょう?私はとにかく、理想の男の人が欲しい。 生涯安泰って言葉、良い響きをしているとは思いませんか?」
「さあ」
「してますよ。いいですよねー、タキオンさんは。頼れる男の人がすぐ傍に居るんですから。ところが私は、頼れるものの無い一人暮らしですよ。一体何を信じればいいんだか」
その後に、マテリアルは自分の事を軽く鼻で笑って、それきり話さなくなった。田上も仕事に取り掛かり、トレーナー室は静かになった。
一時間目の休みが終わり、タキオンがトレーナー室にやってきたが、リリックの方も一緒にやって来たから、少し話がしづらかった。別に、この子に聞かせて悪い話というのではないのだが、今まで何も聞かせてこなかった分、この話を聞かせるのが億劫だった。田上は、これをあんまり芳しくない状況だと捉えた。チームである以上、聞かせて悪くない話は堂々とするべきだ。心に隔たりがあるから、聞かせて悪くない話も話すのが億劫になってしまうと思った。
ただ、タキオンも、田上と同じように、リリックの存在に億劫そうだったので、これが田上には中々面倒だった。最早、タキオンはチームから独立した物と考えて、その上でチームをまとめ上げて行かないといけないのでは?と思った。
リリックは、ただ、マテリアルと話に来ただけのようだったが、タキオンと田上が、その時間の内に話すことができなかったので、一時間目の休み時間は、結局有耶無耶となった。どちらにしろ、この休み時間で、引っ越しの事を話し切れるものでもないような気がした。
二時間目の休みに、また、タキオンが来た。今度は、リリックは来なかったから、二人は、ゆっくりと話した。田上は、仕事をしていたので、物件など何一つ探していなかった。田上は、「夜に探すよ」と言ったが、タキオンにこれを逆手にとられた。
「ほう、夜に探すのかい?」とタキオンが言った。
「夜に探すということは、もうアパートの事は決まったと言っていいのかな?」
「半分決まったけど、今のは言葉の綾」
「じゃあ、もっと話そうじゃないか。私は、本当に楽しみだね。いつ頃に引っ越しをしようかねぇ?」
「…五月末…くらいにちょちょいと終わらせたい感覚はあるよな」
「ふむ」とタキオンが悦に入った声を出したが、田上に対する直接的な表現は避けた。田上も、自分が結構乗り気なのを、タキオンに嬉しがられていると思ったが、敢えて何か言うということもせずに、こう言った。
「ただ、…何か問題とかないか?何か、後悔しそうなこととか」
「…朝に君と居れないのは、実に惜しいが、…まぁ、問題ないだろう? 勿論、毎週の週末には君の家に泊りに行っていいんだろ?」
「多分、…規則にもそういう事はなかったはず。外泊届を出せば、毎週でも毎日でも」
「おや、毎日?」
「毎日はダメ」
「分かっているさ、冗談だよ。じゃあ、毎週末は君の家に泊りに行くって事でいいね?と言うか、それができなかったらこの話をした意味がない」
「…まぁ、…まぁ、…危惧すべき点はあるかな?」
「君の家に、私が毎週通っているのが書類上で残る。そのくらいな物かな」
「外泊届をいつまでも残しているって訳もないだろうし、…まぁ、…まぁ、いいんじゃないか?」
「じゃあ、決定という事だね?正式に、晴れて、君のアパート暮らしが。いや、君と私のアパート暮らしが」
「…まだ、…何かないかな?…本当に、俺が寮から出て行っていいの?何か問題とかない?」
「ないだろう?……朝会う時間が短くなるくらいだし、その時間も今考えてみれば、それ程今の時間と大した違いはあるまい。…それとも、君は時間ギリギリに来るタイプかな?」
「通勤時間があるんだったら、朝の空いた時間をお前に当てる事はできない。あんまり早起きはしたくない」
「まぁ、君にばかり負担をかけすぎるのもあれだから、私もそこまでの我儘は言わないが、…通勤して来たら、私に真っ先に会いに来てくれよ」
「お前に会わないで誰に会うんだよ」
「そりゃあ、君、一人でぼーっと空見てる時があるから、空を見るんだったら、私の所に来てから空を見てほしい物だね」
「え?俺、そんなに空を見てるか?」
「暇さえあれば見てるよ。私がこの部屋に入ってくるときも、集中力が切れた人みたいに空をぼーっと見てる時がある」
「俺、そんなに見てたかなぁ」と田上が納得いかなさそうにそう言うと、マテリアルが「見てますよ」と言った。これはちょっとした情報の付け加えだったから、タキオンもそこまで苛つきはしなかったが、それでも、今自分たち二人だけで楽しく会話を盛り上げていたのに、そこにマテリアルが無遠慮に入って来られると、多少ムカつきはした。
しかし、怒る程の事でもないので、タキオンは普段通りに「ほら、マテリアル君もそう言っているじゃないか」と田上に言った。それでも、依然として田上は不納得そうだったが、タキオンは話を元の方に戻した。
「まぁ、…朝の電話はする。顔は見せてくれよ?心配するから」
「遅刻したら教室の方に行くのか?」と田上が冗談半分に言った。
「まぁ、それもいいだろう。別に私に声を掛けろとは言わないが、廊下を私の為に素通りしてくれればいい」
「それは、あんまりにも阿保らしくないか?」と田上がふふっと笑いながら言った。
「そうかなぁ?…私は君の顔を見たい」
「そんな時くらいは一時間目の休みくらいまで待っててくれ。遅刻するときは、ちゃんと連絡するから」
「ええ~?朝は、君の顔を見ないと始まらないよ」
「じゃあ、夜の内に授業でもやっておいてくれ」
「ええぇ?違うよ。朝は君の顔を見ないとやってらんないんだよ」
「じゃあ、…アパートの話は無しになるけど」
田上がそう言うと、タキオンは不満そうに唇を尖らせながら、考えるためにそっぽを向いた。田上は、暫くそのタキオンを見つめて、何か話しだすのを待ったが、考えるのにはまだ時間を要すようだったので、パソコンの方を見た。そちらの方を向くと、仕方がないから暇だし、物件でも探してみようかなという気分になった。そして、探すためにキーボードを打つか打たないかの内に、タキオンが、田上の方に向かって言った。
「朝は君なしじゃ始まらないだろ?」
「…俺は最初からいるけどね」
「そりゃあ、君は初めから君として居るからいいさ。羨ましいもんだよ、同棲したい。…ちょっとくらい無茶言っても許してくれるかな?」
「同棲はダメだよ」
「違う、同棲じゃない。朝は私の為に早く来てくれないかなぁーって」
タキオンは、その時に、少し上目遣いのあざとい顔をして見せた。田上もそう見つめられると、困ってしまって、一度目を逸らしてから言った。
「…お前が言うんだったら、してやらないこともないけど、…正門で待ってれば?」
「んん?名案かな?」
「…どうだろう?……とりあえず、もし引っ越すとしてもあっちでの生活が整わない限り、そう規則正しく動くのは無理だぞ。なんてったって、俺が引っ越したら自炊をしないといけない事になる」
「おや、そりゃあ不味い。今まで食堂に頼り切っていたのに」
「そうだ。俺も夕飯はそんなに遅くしたくないから、タキオンのトレーニングが終わったらすぐに帰るくらいの勢いが良い」
「ええ…、それじゃあ、ちょっと問題だ。大問題だ。何とかして、君の自炊を簡単に済ます方法を考えよう。…コンビニ飯!」
タキオンが、これで決まりだとばかりに言った。
「俺は炊き立ての白飯が食いたい」
「ふむ。…では、…。すると、私が、休日に君の家に行く時は、君にお昼ご飯を作ってあげても良いというわけだね?」
話が唐突に変わったが、田上は特に驚きもしないで答えた。
「まぁ、作りたいんなら作ってもいいよ」
「まるで新婚気分だね。彼氏と二人で料理なんて」
「俺も作るの?」と田上が心外そうに言った。
「当然だよ。私のサポートは誰がしてくれるんだい?」
「てっきり、お前が作ってくれるもんだと」
「そりゃあ、私もなれればそうしてやるが、台所の使い方は学んでいないのだから、手取り足取り教えてくれよ」
「お前は俺に教えてもらいたいだけだろ?」と田上が、少々嬉しそうに聞くと、タキオンもニヤリと笑って、「その通りだよ」と嬉しそうに言った。
結局、田上が引っ越すことについては、新たな問題が見つかったままで二時間目の休みは終わった。そして、また、マテリアルが田上に面倒な絡み方をしてきた。
「田上さんって、よくあんなに人の居る所でいちゃいちゃできますよねー」とマテリアルは、タキオンがトレーナー室から出て行った十分後くらいに言った。田上は、少し返答に迷った後に「そうですか?」と答えた。
「そうですよ。見てるこっちが、砂糖のゲロを吐きそうでした」
「…迷惑でしたか?」
「迷惑も何も、もうあれだけ言ったんですから、それでも止まらないあなた方には何を言っても無駄だと思っています。本当に、所かまわずいちゃいちゃしようとするんですから」
「…いちゃいちゃしてました?」
「してましたよ。あれを聞かされるこっちの身にもなってくださいよ。劣等感を煽られて堪りません。さぞ良い心地でしょうねぇ。彼女が居るというご身分は」
マテリアルが、また僻みのような事を言ってきたので、田上も返答に困ってしまったが、こう言い返した。
「マテリアルさんも彼氏を作ったらどうです?」
「それがちょちょいのちょいでできたら苦労しませんよ。できないから、こうして田上さんに愚痴ってるだけに留まっているんですよ」
「…好きな芸能人とかは?」
「…あのスターズ(アイドル事務所)のアップルジュース(アイドルグループ名)の林竜太郎(はやしりゅうたろう)って人は好きです。強いて言うなら、あれが好みの顔でしょう」
「じゃあ、林竜太郎って人の顔に似た人を探したらどうです?」
「それは、…簡単には見つからないし、別に、結婚できるんだったら、ある程度整った顔の人であれば誰でもいいですよ」
「…マッチングアプリなどをなされては?」
「ええ?…あれはどんなもんなんですか?」
「俺も使った事が無いから分かりません」
「はぁ…、順風満帆の彼女持ちってのはいいもんですね。お気楽なご身分です」
「言う程順風満帆でもなかったのは、マテリアルさんもご存じでしょう?」と田上もマテリアルの言葉に納得が行かなかったので、少し言い返した。すると、マテリアルは、腕を組んで机に体を預け、少しの間黙り込むと、またため息を吐いて言った。
「それでも、今仲良くしてるのは順風満帆の風があったからでしょう?」
「…順風満帆ってそういう意味ですか?」
「そういう意味じゃないかもしれませんが、…とりあえず、今は仲良くしてるでしょう?今から同棲するカップルみたいに、嬉々として家を選んでる。これを順風満帆と言わずして、何を順風満帆って言うんですか?」
「もっと、…悩みもなく上手くやってるカップルも居るんじゃないですか?」
「悩みの無いカップルなんていませんよ。むしろ、あなた方のように打ち解けて悩みも何もかも洗いざらい話せてしまえるようなカップルが順風満帆みたいなもんです。だって、結局、二人で暮らすんでしょう?結婚するんでしょう?」
「…どうなるのかは分かりません」
「いい加減心を決めてしまいなさいよ。あれだけの美人ですよ?あれだけあなたを思っているんですよ?仲も十二分にいいでしょう」
「…まぁ、別に心を決めてないわけでもないですが…」
「それならそれで腹立ちますね。せめて、私より後に結婚してください」
田上はとんでもないいちゃもんをつけられて、思わず笑ってしまった。
「いつ結婚される予定ですか?」
「ええ?できれば、二、三年後には結婚しておきたいです」
「それじゃあ、俺とタキオンの方が早いかもしれません」
「卒業したら結婚されるんでしょう?」
「ええ」
「あー、いいなー。私も早く結婚したい」
このように、話は一向の進展も見せずに、ただだらだらとマテリアルの不満が垂れ流されるだけに留まった。田上は、飽きもせずに一度巡っては、また振り出しに戻る話に付き合ってあげた。
マテリアルは、暖簾に腕を押しているような感覚を持ったが、それはそれで妙に心地が良かった。まるで、学生時代に戻ったような感覚だった。
三時間目の休みになると、タキオンはトレーナー室に来て早々に「さぁ、今度こそはアパートの事を君の口から決定だと言わせてもらうぞ」と言った。ただ、田上はこう反論できた。
「いや、お前が俺の自炊に不満を持ったんだろ?何か考えでもあるのか?」
「…ないが、…ない。…自炊は大変かな?」
「まぁ、それなりにこれまでの生活リズムと違った生活にはなるだろうな」
「それを君は自分の苦になると予想できるかい?」
「タキオンと自炊の両立?」
「そうだ」
「…タキオンが、俺の事を素直に帰してくれるんだったら、まぁ、そんなに苦労はしないと思う」
「…君、疲れて帰った時に、軽率に夕飯を抜いたりしないかい?」
「…するかもしれないね。…否定はできない」
「となると、君の健康の維持も必要になってくるわけだ」
「社会人なんだから、それくらいはちゃんとするよ」
「今、軽率に夕飯を抜くと言ったばかりじゃないか」
タキオンの正論中の正論に、田上は反論するための言葉を失ってしまい、黙り込んだ。その後にタキオンが言った。
「ほら、何も言えなかったじゃないか」
「でも、…そんな連続で三晩四晩も夕飯を抜いたりはしないよ」
「どうかな?私は、その点では君を信用していないよ。人の健康を指導する立場の癖に、自分の健康はどうでもいいと思っている男だからね」
その論に、また田上は言葉を詰まらせてから言った。
「それじゃあ、何か策でもあるんですかね?タキオンさん」
「そう邪険に扱わないでほしい。悪かったよ、言い過ぎた」
「別に、俺もそんなに怒ってないよ。だって、実際に抜くし」
「そんなに悪びれもせずに言うなよ。ここに、圭一君を心配している心優しき彼女がいるんだよ?」
「…でも、疲れ切った日なら、最早、夕飯を自力で作る方が健康に悪いとは思わないか?」
「それは一理あるが、私はそれが癖づいてしまわないかが心配だよ。一度、味を占めてしまうと、二回目三回目も繰り返す可能性がある。…君はこれを否定できるかな?」
「…まぁ、否定はしないかもしれない」
「となると、いよいよ君の食生活が心配になってくる」
「別に、パンくらいは食うよ?」
「菓子パンかい?」
「…まぁ、十中八九菓子パンは疲れ切った体には合わないだろうから、サンドイッチとかそこら辺の軽食だろうね」
田上が平然としてそう言うと、タキオンは悩ましげな顔をして、その彼氏の顔を見た。
「…やっぱり、私が君の家に通って、夕食を作ってあげた方がいいのかなぁ?」
「やめろよ。それだといよいよ通い妻だろ?」
「通い妻だって上等さ。君も、高校を卒業して、一人暮らしを始めたばかりの大学生じゃないんだ。お節介を焼きに来る押しかけ女房くらいささっと受け入れたまえ」
「それは、そもそも規則から駄目だ。夜は出られないだろ?門限のギリギリ前に来たって、帰っていくのが間に合わない」
「…同棲するかい?」
思考が行き詰まった後にタキオンは言った。それに、田上は苦笑しながら「そこは一線だろ?」と諭した。すると、タキオンはため息を吐いてから言った。
「中々上手く行かないものだね。…君の健康的な食生活は諦めるしかないのかな?」
「まぁ、炊き立ての白飯が食いたいくらいだから、普段の食生活はしっかりするよ。疲れたら作らないって選択をするだけだから」
「そういう安易な気持ちで食べないという選択肢を選ぶということが、心優しき彼女のアグネスタキオンには心配なんだよね」
「…大丈夫だよ?そもそも疲れないといけないんだから、ホワイトなこの職場じゃ早々疲れない」
「どうかな?…君、面倒な物を避ける性分だからな。…飯を作るのが面倒だと感じたら、適当に済ませたりしようとしないかな?」
「言っても、生きることだからな。作らないといけないよ」
「本当かい?面倒だからってインスタントラーメンで済ませようとしないかい?」
「否定はできない」
田上が、全く悪びれもせずそう言うと、タキオンは、困ったような可笑しいようなという顔をした。
「君、もう少し私の言うことを考えてみたらどうだい?」
「だって、…抜く時は抜くからな、俺は」
「それじゃあ、私が心配じゃないか。君が、ガリガリか、もしくはぶよぶよになっていく様は見たくないよ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「……悩ましい物だね。…どうする?」
「俺に聞かれても」
「…私じゃ決断できないよ」
「…まぁ、そんなに死ぬほど不健康になるってわけでもないと思うよ。これでも、大学生の時は一人暮らししてたし」
「本当かい?大学生の時の体重の変化はどうだった?」
「……ここの寮に入ってから、体重は増えたね」
「…どのくらいからどのくらい?」
「…どのくらいだったかは覚えてないけど、体重はそれから大体維持してる」
「じゃあ、君は痩せっぽちだったんだ。少なくとも、毎週末は、栄養のある物を食べさせに行かないといけない」
「良かったね。行く口実ができた」
「行く口実なんて、付き合っているという時点で初めからあるよ」とタキオンは、田上の顔を咎めるように睨んだ。田上は、その顔から目を逸らしてから言った。
「とりあえず、…どうする?俺の食生活は放っておいて、アパート暮らしを始めるか?」
「君が一度その暮らしをして、痩せてしまったとなった以上、今回もそうなるのは明々白々じゃないか。せめて、私が毎日傍に居てあげられたらなぁ…」
「俺も子供じゃないよ」
「子供みたいなもんだよ。世話の焼ける彼氏だ」
「うるせえ女房だ」と田上が言い返した。すると、その言葉に嬉しくなったのか、タキオンの顔は段々とニヤリと笑みを作っていった。
「うるせえ女房というのも良いものだね」
「どうぞご自由にそう思ってくれて構わないけど、答えは?」
「…う~ん…、君が痩せっぽちになるのも気に掛かるしなぁ…。でも、私も君の家に泊りたいしなぁ」
「俺は、死にはしないよ」
「死にはしないだろうがね…。…死なないかなぁ…」
「死にそうになったらお前を呼ぶから」
「意識が無かったらどうするんだい?」
「間の良いときに意識を無くすよ。…お前が朝に電話をかけてくる直前にとか」
「じゃあ、君が電話に出なかったときは、意識を失って重篤だという事でいいのかい?」
「それでいいよ」
「私はそれじゃ嫌だ。重篤になんてなってほしくない」
「じゃあ、休日に精のつく物でも食べさせてくれ」
すると、タキオンは困った笑みを浮かべた。
「それでいいのかな?」
「心配し過ぎだよ。死にゃしない」
「…本当に死なないかい?」
顔に多少の不安を滲ませながらタキオンは言った。田上はそれに安心させるように頷いてから、「死なないよ」と言った。そして、また少し考えてから、タキオンは「まぁ、それでいいか」と頷いた。
「その代わり、ちゃんと食事はとってもらうよ」
「どの代わりだよ」
「アパートで一人暮らしをしていいと許可を出す代わりさ」
「今までの会話はどうした」
「それはそれさ。…食事をしなかったと言ったら怒るからね」
「無理して食べろって事?」
「違う。私が作りに行く。朝にトレセン学園を抜け出して君の家に作りに行くから。だから、抜いた時はちゃんと報告してね。私が作ってあげるから」
「…どうだろうね…」と田上が誤魔化すように言うと、タキオンも顔を少し強張らせて言った。
「言ってくれよ?」
「…その時は疲れて寝ちゃってる可能性もあるからな…」
「…じゃあ、…朝はカフェテリアだね。そういう時は早めに来て、カフェテリアで朝食をとりたまえ」
「…面倒だなぁ…」
田上は不満そうな顔をしながら言った。
「私を心配させたいのかい?」
「別に、そういうわけじゃないけど、…気が向いたら行くよ」
「心配になるよ」
「まだ起こってもない事なんだから、今グチグチ言ったってしょうがないだろ?」
「そりゃあ、しょうがないがね…。君の食生活が心配だなぁ…」
そう言ったところで、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。タキオンと田上は見つめ合った後に、タキオンの方が口を開いた。
「仕方がない。また、次の時間にお預けだ。次の時間こそ決めるからね」
「次の時間はカフェテリアだろ?」
「そうだ。食べながら考えよう。というか、もうほとんど決まったようなもんだ」
「あとは、お前が俺の食生活を放っておくかどうするかだ」
田上が今度も悪びれもせずに言うと、タキオンは、その顔をじっと睨んだ。それから、「まぁ、いいや」と言うと、田上に別れを告げて、トレーナー室から出て行った。田上は、その背を満足そうに見送った。
そして、またマテリアルが話しかけてきた。
「相変わらずいちゃいちゃしてますね」とマテリアルが田上に言った。田上は、四の五の言わずに「すみません」とだけ言った。すると、マテリアルは口の端に軽く笑みを浮かべた。しかし、目の方はと言えば、あんまり笑っているようには見えなかった。
「怒ってませんよ。羨ましいだけです。どうすれば、あんな風に会話ができるんですか?」
「…特に、…何も考えては…」
「…うるせえ女房だ、って、一度は言われてみたいもんですねぇ…」
田上は、話す気が失せてそっぽの方を向いた。
「…ああ~、…いいなぁ~。いいなぁ~。私も仲の良い彼氏が欲しいなぁ~」
その後にマテリアルはため息を吐いてから言った。
「はぁ~…、羨ましい。…羨ましいなぁ。あんなにいがみ合ってたのに、今ではこんなに仲がいいんだから…。羨ましいなぁ。…理想の男の人が欲しい…」
その時のマテリアルは、田上に受け答えをしてほしかったのかもしれないが、生憎、田上はそれに正面から答える言葉を持ち合わせていなかったので、答える事はできなかった。マテリアルも、その時は返事を催促するまでの気力はなかった。ただ、それ以降はもう仕事の話しかしなかった。
四時間目が終わり、すぐさまタキオンはトレーナー室の戸を叩いた。そして、二人でカフェテリアに行く事になった。マテリアルは、今回は二人に同行するようだった。タキオンは、これに嬉しそうな顔を見せなかったが、嫌そうな顔も見せなかった。もしかしたら、後者の顔の方は、マテリアルに悪いと思って押し隠していたのかもしれない。少なくとも、マテリアルが来なかったら、タキオンはマテリアルが居る時以上にウキウキとしながら、田上と共にカフェテリアへ向かったに違いなかった。
三人で食事を持って席につくと、タキオンは話しにくそうにマテリアルの方を見た。マテリアルは、すぐにその表情を読み取って、言った。
「私の事は気になさらず話して下さって構いませんよ。元々、あのトレーナー室でも私に筒抜けの話だったんですから」
「…それでも、…君が真正面から聞くとなると話しづらいなぁ」
「正直に言って、うるせえ女房だって言われた時の気分ってどうでした?」
マテリアルは、目をランランと輝かせながら聞いた。
「ほら、こうなるから嫌なんだ」
「どうでした?やっぱり嬉しかったでしょう?」
そう聞かれると、タキオンは一度面倒臭そうに、はにかみながら田上の方を見た。それから、またマテリアルの方を見て言った。
「嬉しい事には嬉しいさ。君も彼氏からそう言われたら嬉しいだろう?」
「残念ながら、そんなことを今まで言われたことがありませんでした」
「?…君、これまでも誰それと付き合ってきたんだろう?どんな交際をしてたんだい?」
「どんな交際って言われましても…」と言ってから、マテリアルは田上の方をチラリと見た。田上は、急にマテリアルから見つめられても何が何だか分からなかったので、キョトンとした顔でマテリアルの顔を見つめ返していた。それから、マテリアルは自分の料理に目を戻しながら言った。
「…交際は、…まぁ、…あなた方程仲良くはなかったです。…なんでなんでしょうね?」
「…そりゃあ、…君が…付き合うというのを勘違いしていたからじゃなかったのかい?」
「清い交際が良いとは思ってましたけどね」
「そりゃあ、清さは悪くはないが、今の所私たちは清さに振り回されてる真っ最中だ」
そう言って、タキオンは田上の方を見た。田上は、タキオンの目を見つめ返しながらも、食事を口に運んで、「このスープ美味いね」と平然としながら言った。その様子を見ると、タキオンは微笑みを浮かべ、マテリアルの方を見た。
「ほら、この通り、清さと不純の間に私たちは成り立っているよ」
「どういうことですか?」とマテリアルは半笑いで聞いた。すると、タキオンは田上の方を向いて「そのスープは美味しいだろう?」と聞いた。田上は、先程と同じ様にキョトンとした調子で「美味しい」と答えた。そして、また、タキオンはマテリアルの方を見て言った。
「ほら、この通りだ」
「どの通りですか。さては、適当言って誤魔化そうとしていませんか?」
「適当なんかじゃないさ。スープが美味しいってのは真理だよ」
「何が真理なのか説明してみてくださいよ」
「説明すると野暮になる」
「じゃあ、誤魔化しているだけじゃありませんか」
「誤魔化してはいないんだよねぇ」とタキオンは、ニヤニヤ笑いでマテリアルを見つめながら言った。
「君も、こういう彼女思いの彼氏を持てば分かるさ」
「く~、狡いですね。こっちは余裕が無いっていうのに」
「余裕ならあるじゃないか。今度は君の方から松浦トレーナーを誘ってみたらどうだい?今回は、なりふり構わず猛烈アタックを仕掛けてみるとか」
「その話はしないでください」
タキオンがそう言った途端に、マテリアルは語気を強めて言った。そのマテリアルの顔があまりにも本気の顔だったので、タキオンも一瞬言葉を詰まらせたが、次には平然とした表情を崩さないで言った。
「良いじゃないか。軽い話にしよう。たかだか男女の恋愛事だ。世界が滅びる瀬戸際の話でもあるまいし」
「世界が滅びます」
マテリアルは、変わらずに語気を脅すように強めてそう言った。
「これで世界が滅びるんだったら、相当な滑稽話だ」
「私の世界が滅びるんです。だから、その話には触れないでください」
「…しかし、始まってしまった話だ。…圭一君はどう思う?迷惑を被らされてきた側として」
「…俺は何も言わないよ」
「じゃあ、私の事はどう思う?」
それに、田上は一度目を逸らしてから、「好きだよ?」と答えた。すると、タキオンは得意気な顔でマテリアルを見てから言った。
「ほら、好きだよの一言で世界が滅びるなんて事があるわけないじゃないか」
「そりゃあ、あなた方はできあがっているからいいんです。このまま結婚でも何でもすりゃいいでしょう。しかし、私は生まれてないんです。どこに生まれるかくらいは私に決めさせてください」
「そう上手くも行かないのが世の中だ」
「じゃあ、私の事は放っておいて、自分たちのアパートの話でもしておいてください」
マテリアルは、タキオンたちが次の話に移行しやすいように、話題を振っておいたので、タキオンもあんまり流れに逆らう訳にもいかず、田上と目を見合わせた。それから、こう言った。
「思えば、昼飯はここでとるんだな」
「朝食と夕食は家になると思うけど」
「そこが肝だ。インスタントラーメンは、てっきり昼に食うもんだと思っていたが、昼はここで食うし、休日には私が行くんだ。昼飯に関しては全く案ずる事はない」
「朝、夕に関しては?」
「案ずるところありだ。…だけど、また、三時間目の休みのような堂々巡りを繰り返してもしょうがないからな…。…どうしようか…」
「いい加減決めてしまったら?」
まるで他人事のように田上が言うので、タキオンもその顔を微笑ましく睨みながら言った。
「君の問題だよ?もう少し考えてみたらどうだい?」
「俺は、…食生活を改める気はないよ。面倒だったら食わない。これが鉄則だ」
「それを鉄則にされるとこちらが困るのだけれど」
「大丈夫だよ。死なないから」
「そりゃあ、死なないだろうけどね…。このまま行くと、また堂々巡りだ」
「じゃあ、今、やるかやらないかで決めたら? さあ、どっち?」
「…いやに攻めるね。……ちょっと、今答えを出すのはなぁ…」
「いや、今決められないと、いつまでも決められないぞ。三秒で答えを出せ。一…二…」
「ちょ、ちょっと待った。そう急かすな。…まぁ、私の心は決まっているようなもんだよ。私には、君と誰もいない家で二人っきりで過ごせるというのは、あまりにも魅力的過ぎる」
「じゃあ、決まりだね」
「…ああ、決まりだ」とタキオンが観念したように言った。
「ただ、…君の食生活が心配だなぁ…」
「もう決まった事だ。諦めろ。それに、食生活を改善したいんだったら、早く卒業して、早く結婚でも同棲でもしろ」
そう言った後に、田上は同じテーブルにマテリアルが居たことを思い出し、恥ずかしくなって顔を横の方に背けた。タキオンは、嬉しそうな笑みを顔に滲ませて言った。
「最近は殺し文句が多くなってきたね。君に何回殺されたか分からないよ」
「…言ってから恥ずかしくなった」
田上がそう報告すると、タキオンはハハハと大笑いした。それから、笑いが落ち着くと、タキオンはこう言った。
「そう言えば、今思ったが、君と私が結婚して、同棲したとするだろ?」
「うん」
「そして、君が夏合宿に行くとするじゃないか」
「うん」
「そうすると、私はどうなる?夏合宿の期間は約二か月だ。私、そんなに長い間君に会えないのは耐え切れないよ」
「う~ん…、行くか行かないかはとりあえず選択はできるが、…俺としてはできるだけ担当した子には夏合宿に行かせてあげたい。いいリフレッシュにもなるだろうし」
「担当した子を優先して私を優先しないというのかい?」
「そういう事じゃない。…少し考えさせてくれ」
田上はそう言って、暫く唸って食事を食べながら考えた後、タキオンに向かってこう言った。
「マテリアルさんも居るし、俺も何とか都合をつけて帰ってこれるようにするよ」
すると、マテリアルが話に割り込んできた。
「私一人で大丈夫ですかね?」
せっかくの二人きりの話だったのに、マテリアルに邪魔されてタキオンは嫌そうだったが、田上もマテリアルも、そんなタキオンの顔には気が付かずに、言葉を交わした。
「今年のはタキオンも行くので大丈夫です。そこで、大体の事が分かるでしょうし、むしろ、マテリアルさん一人だけでも大丈夫なくらいにはなると思います。だから、もし、チームの子で、トレセン学園に残りたいという子と、長期合宿に行きたいという子に分かれても、十分に大丈夫だと思います。…大丈夫ですか?」
「私は全然大丈夫ですよ。むしろ、夏合宿が楽しみで楽しみで堪りません。海と山の近くにある涼しい木造校舎なんでしょう?テレビの特集で見ましたよ」
その後に、タキオンが「私もトレーナーになろうかな…」と呟いたから、話題はそちらの方に持っていかれた。
田上がタキオンに向かって言った。
「トレーナーになりたいの?」
「引退しても君の傍に居れるだろうし、引退したウマ娘がトレーナーになるという道も珍しくはない」
タキオンはそう言いながらマテリアルの方を見た。マテリアルは、田上の方を見て「どうなんですか?」と聞いた。
「…タキオンがやりたいって言うんだったら、俺は止められないけど、…子供が生まれた時が大変じゃないか?」
「そうかな…?」
「俺と同じチームに入って、補佐でもしたいんだろ?」
「そのつもりだね」
「となると、子供が生まれたときとかに二人揃って休むことになる。そうなると、マテリアルさんに負担がかかる事になる」
すると、タキオンはマテリアルの方を見て、あざとく上目づかいをしながら言った。
「ちょっとの負担くらい良いだろう?」
「…そりゃあ、良くない事はありませんが、…夫婦が同じ職場で働くってどうですか?ちょっと異質な事じゃないですかね?」
「ほら、あるじゃないか。研究所で共に研究をする夫婦の話とか。それと同じだよ」
「でも、私も子供が生まれる度に休まれてたらかないませんよ?」
そうすると、タキオンは困ったのを隠すように眉を上げて、田上の方を見た。田上は、タキオンとマテリアルの顔を見比べながら言った。
「まぁ、お前が結婚して暇になった生活に不満を抱くくらいなら、仕事をして貰ってもいいけど、やっぱり、結婚するとなると出産があるからなぁ…」
「育休があるだろ?」
「そりゃあ、育休はあるけどなぁ」と田上が、困ったように言うと、マテリアルが口を開いた。
「タキオンさんは、本当にトレーナー職に就きたいんですか?」
「…まぁ、就きたいよ。できるかぎり、一緒に居られたらいい」
「それじゃあ、いつまで恋人気分でいるつもりなんですか?」
マテリアルがそう言うと、タキオンはきょとんとした顔をして、「どういうことだい?」と聞いた。
「私は、お二人の関係にあんまり口を挟みたくはないですけど、…タキオンさんの今の発言を鑑みるに、子供が邪魔だと言っているようなもんですよ」
それに、タキオンは口をへの字に曲げて、不満そうな顔をした後答えた。
「子供は邪魔さ」
「じゃあ、子供を作らないという選択をするつもりですか?」
マテリアルの言葉を正面から受け止めきれずに、タキオンは田上の方を見て、「それも良いかもしれないね」と言った。田上は、箸で摘まみ上げかけていた食事を、空中で一度止めると、再び下ろして固まった。田上は子供が欲しかった。家族になって子供がいない生活などあり得ないと考えていたから、タキオンからそう言われた時、まあまあな衝撃を受けた。――タキオンは本当に子供が欲しくないのだろうか?と考えた。その思考を上手くまとめ上げることができずに、田上が固まっていると、またマテリアルが言った。
「田上トレーナーは、子供が欲しいそうですよ」
タキオンは、田上の顔を見ながら、それを薄々感じ取っていたが、何か言うという事はできなかった。タキオンとしても子供が欲しくないわけではなかったが、子供が邪魔というのが口から出任せという訳でもなかった。田上との愛に溺れて、己の一瞬一瞬を永遠に感じられるのならばそれでよかった。子供がそれを邪魔するというのならば、タキオンは産まなくても良いという選択肢を持っていた。田上はきっと男だから、そういう事には思いを巡らさないのだろう。結局、田上の態度であれば、育児を手伝ってくれても、主体となって育てるのは自分だった。出産だって痛いだろう。田上は、男だからこれが分からないのだ。子供に自分の生活を縛られることなく、自由にやれるだろう。しかし、タキオンは縛られないといけないのだ。田上が主体となってお世話をしない以上、子供のお世話を積極的にしなければいけないのは自分だ。それは、子供が生まれれば、また考え方も変わるかもしれないが、今の所タキオンは自由な自分の身が、田上との愛や恋を楽しんでいる自分の身が、子供によって縛られるのが嫌だった。
マテリアルは、一向に話さない二人の恋人たちを見比べると、自分も話すのをやめた。適当に首を突っ込んで、自分まで火傷を負うのは御免だったからだ。そういうわけで、三人の昼食は物思いに沈んだまま終わり、田上とタキオンは手を繋ぎながら、いつものベンチの方へと向かった。