ケロイド   作:石花漱一

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七、素敵なディナー(中編)

 それから、二人は昼食の時間になるまで、他愛ない話と、自分たちが少しのニュースになっていたことを知り、そして、昼食の時間になると、いい匂いのするご飯をたくさん食べた。今度は、タキオンの満足な量だったようだ。 

 昼食を食べ終わると、家に帰る支度をしなくてはならなかった。短い間だったが、田上たちには一日という時間に見合わない量の時間を過ごしたように感じた。特にタキオンはそうだった。意識のある時間が田上より多かったというのもあるが、一番は田上が起きるまでの時間が物凄く長く感じられたからだろう。そして、田上が起きれば、それは楽しいものとなり、永遠とまではいかずとも長い長い時間を二人で過ごすことができた。タキオンは、田上の事が大好きなのだ。恋とか愛とかそんな一言で言い表せるような無粋なものではなく、ただ、田上と一緒にいることが楽しくて楽しくて仕方がないのだ。だから、二人でいる時の時間は大切に大切に扱って、できるだけ長く楽しもうとする。時には、それが裏目に出ることもあるのだろうが、特に差し障りは無かった。二人は必ず問題に向き合う。それが、いかに難しそうだろうと手強そうだろうと、なにも手をつけないで問題を見捨てることはしない。それが、二人でいることのよさだった。

 

 一時になると、父が迎えに来た。タキオンたちの今日着る服も持ってきたので、最後に病室で着替えた。着替えをするときに、仕切っているカーテンの向こうからタキオンが話しかけてきた。

「学園の方で風邪を引いて寝込んだのは、ここに来る前のことだったよね?」

「ああ、確かそうだった」

 田上は答えた。

「なんだか遠い昔のような気がするなぁ…」

 カーテンの向こうで、タキオンが感慨に耽っていた。

「俺もそんな感じがするよ」

 田上も同意して、最後にズボンを穿き終わった。

「タキオン、俺はもう着替え終わったぞ」

「ああ、私ももうすぐ着替え終わるよ。少し待っててくれ」

 そう言って、カーテンの向こうでガサガサ動く衣擦れの音が聞こえ、それが終わるとカーテンがシャーと開かれた。タキオンが、ニコニコしながらそこにいた。

「なんだか、いつもに戻った気がするね」

 そう嬉しそうに言った。

「まだまだ、旅行はあるぞ。…でも、それもあっという間だろうな」

「いや、そんなことはないさ。特に、これからの初詣は私は楽しみだな。…一体、何時に出かけるんだろう?」

 そこで、ちょうどよく賢助が入ってきた。

「やっぱり病院は暖かいな」

 そう言いながらニコニコしていた。

「父さん、初詣はどうするの?そもそも、爺ちゃん婆ちゃんは来てるの?」

「ああ、来てるよ。アグネスさんが来ているのには、めちゃくちゃ驚いてたし、入院してるのも心配してた。…だけど、ここでゆっくり話す訳にもいかないから、置いて来た。別に連れてこなくてもよかっただろ?」

「うん…。ただ、さっきも聞いたけど初詣は?」

「初詣はお前ら次第で、それももう少し近い神社に行こうって事になった。皆、車に一時間半乗って、大きな神社に行くのは疲れるみたいだったし。…で、どうする?…明日は、…さすがに無理だろうな。寝る場所がない」

「俺は行けるし、…タキオンも行けるんだよね?」

 田上がそう聞くと、タキオンは「うん」と頷いた。賢助もタキオンの方を見て、本当に大丈夫なのか顔色などを注意深く見て、それから、こちらも「うん」と頷いた。

「じゃあ、婆ちゃんにそう連絡をしておく。…それとアグネスさん、あなた、うちの年寄り連中から大人気になると思いますよ。今のうちにあいつらに落ち着くよう呼びかけておきましょうか?」

 賢助にそう言われて、タキオンは困ったように笑った。そして、助けを求めるように田上を見た。

「まあ、別に連絡して言わなくてもその場で言っておけば大丈夫だろ?それに、まだ当分は移動とか何とかで碌な話す機会も与えられないと思うから」

 そう言うと、話はまとまった。

「じゃあ、帰ろうか」と言うと、賢助は部屋を出て行った。タキオンは、以前の通りに田上の左隣についた。田上は、しつこくからませようとしてくるタキオンの手をうまい具合いによけながら、せめて病院を出るまでは手を繋がなかった。

 病院を出ると、そこには因縁の車があったが、今日は田上は運転しなかった。タキオンと後部座席で、愉快そうに話をした。話の内容は、極々くだらないものだった。

 

 家に着くと四人の爺ちゃん婆ちゃんが揃って出迎えた。皆口々に「おかえり」やら「もう大丈夫ね?」やら聞いてくるので、どれに答えようか田上は迷った。すると、隣でタキオンが「初めまして、アグネスタキオンです」と自己紹介したので、歓声が上がった。老人と子供は、ウマ娘が大好きなのだ。ここにいる老人たちもその例に漏れず、紙にサインなどを欲しがったが、それを遮って賢助が言った。

「おい、爺様婆様共!今日、あなたたちが来た予定の方が先だ。いつもは、でかい神社に行っていたけど、今回はもうあそこにはいかねえんだな?」

「あそこ程は大きくないけど、ここの比較的近い大内神宮がいいでしょ?」

 母方の方の祖母である前田家の少し太り気味の婆ちゃんが言った。

「私はそっちの方がいいわ。だって、あそこは大きくて人が多いだけだったじゃない。無駄に時間を食っていたような気がするわ」

 父方の祖母である田上家の、こちらも同じく小太りの婆ちゃんが言った。すると、前田家のがりがりの灰色の髪をした爺ちゃんも言った。

「そうだそうだ。あそこは、なんだかもう穢されちまっていけねぇ。神様のいるところなのに、人が騒々しくて敵わんわ」

 田上家の厳めしい顔の爺ちゃんも頷いていた。

 そして、賢助は、皆の顔を見つめ言った。

「じゃあ、満場一致で決定だな?大内神社で、あそこも遠いっちゃ遠いが、一時間くらいで着くだろう。高速にも乗らなくて済むからその分安くて済む。…幸助もそれでいいか?」

「ああ、俺は元々あそこは人が多すぎて嫌いだって言ってたけどね」

 幸助は、少し恨みの含んだ声で言ったが、賢助はそれを無視すると言った。

「じゃあ、決まりだ。この十分後に出発する。皆、トイレとか何とか行く準備を済ませるんだ。十分したら行くからな」

 そう言うと、賢助も動きが慌ただしくなって、部屋を出たり入ったりした。皆、準備しろと言われたが、それは片手間にタキオンの所に寄り集まった。田上とタキオンは、無理矢理炬燵に座らされ、今回の出来事の諸々の事情を吐かされた。その過程で、田上の首筋にある。噛み痕もバッチリ見られて、タキオンはいたたまれない様子だった。田上は、タキオンを庇って、「皆準備しろ」と追い散らそうとしたのだが、この老人たちは中々に手強かった。そして、遂には「タキオンちゃん、私の孫はどう?」と聞いてきたから、田上は怒った。

「お前らくだらないことしないで、さっさと準備しろ!そういう冗談は、タキオンが嫌いなんだ!」

 タキオンは、今では老人たちにすっかり打ちのめされてしまって、田上に寄りかかって、「私、この人たち嫌いだ」と言った。

「ほら、お前らがほっとかないから嫌われたんだぞ!」

 田上は、そう言ったが、老人たちはニヤニヤしたばかりで、何にも打撃を食らっているようには見えなかった。まるで、「これが私たちの仕事のなのよ」と言っているようだった。腹が立ったが、もう老人たちは何も言わなかったので、怒るべき場所を見失った。それで、タキオンを見て心を落ち着かせた。

「ごめんな」

 田上はそう言った。

「俺が、あいつらを追い散らすつもりだったんだけど、ここまで酷いとは思わなかった」

「あら、そこまで酷くはないわよ」

 自分のバッグを取りに来た前田家の婆ちゃんが言った。

 田上は、「うるさい!」と一喝した。

「あんたらが、うるさく言うからタキオンが落ち込んじゃっただろ!」

「落ち込むとどうなるの?」

「…あんた人の心ないのか?落ち込んだら悲しいに決まってるだろ」

 すると、婆ちゃんが田上の肩にもたれかかっているタキオンに聞いた。

「タキオンちゃん、本当に悲しいの?うちの孫が慰めてくれるよ?どうだい?いい男だろ?」

 今度こそ田上は、大声を上げて追い散らすことに成功した。そこで、タキオンがクスクス笑って言った。

「いい男だって。君が」

「悪かったな。悪い男で」

 田上は、不機嫌そうにそう言った。

「いやいや、君が別に悪い男だとは言わないよ。ただ、いい男かと問われると…」

 そこでまたクスクス笑った。

 そして、開いた引き戸の向こうから「もう準備はできたかー?」と賢助の大きな声が聞こえた。

「タキオン、もう準備はいいか?トイレは?」

「…行っておく。ちょっと待ってて」

 タキオンはそう言って、今更トイレの方に駆け出した。もう、老人たちと幸助は靴を履いて外にぞろぞろと出ているところだった。

 田上は、玄関でタキオンが出てくるのを待っていた。すると、同じく最後に家の鍵を閉めるために待っていた賢助が田上に言った。

「お前らも大変だな。方々で人気者だったり、余計なことを言われたり。...やめようとかは思わないのか?」

 賢助がそう聞いてきたが、田上は、最初は答えに迷って頷くだけだった。しかし、暫くすると口を開いた。

「...それは彼女次第だよ。あいつが何もかも放り投げるって言ったら、俺にできることはなにもない...」

 その言葉が、少し怒っているようにも聞こえたから賢助は「ごめん」と一言謝った。そして、田上と同じくトイレの方を見つめると、最後の客人を待った。

 タキオンは、トイレから出ると苦笑した。これは、苦笑せざるを得なかった。大人の男二人が、自分がトイレから出てくるのを真剣な顔で見つめながら待っているのだから、これはいたたまれなくなるだろう。いたたまれなくなったから、苦笑したのだ。

 タキオンが、「すまないすまない」と言いながら歩いてきた。そうすると、男二人の顔も和らいだ。田上が玄関のドアを開け、狭い玄関から抜け出そうと体を半分外に出したところでタキオンが慌てて言った。

「待ってくれ、トレーナー君」

 この言葉に田上は苦笑して言った。

「分かってるよ。タキオンが靴を履きやすいように外に出ただけだから」

 そこで言葉を切ると、また言った。

「変わんないな、タキオンは...」

「いいや、変わるさ。...少なくとも変わるつもりでいる」

 田上が、またも苦笑したから、タキオンが険しい顔をして田上を睨んだ。

「なんだい?その顔は。私を舐めてるね?」

 タキオンがそう言うと、田上は今度は慌てて言った。

「違う違う。舐めるとかじゃなくて、...タキオンの変わり方の予想がつかなくて」

「やっぱり舐めてるじゃないか!...まぁ、今度は怒ったりはしないよ。もう二度とあんなことになるのは御免だ」

 そう言ってタキオンは靴を履くと、当然のように田上の左腕にくっついた。それを見ると、なんだか切なくなって田上は静かに言った。

「こんなことを教える立場が言ったらダメなんだろうけど...、あんまり変わんないでほしいなぁ...」

 そうすると、タキオンは喜んで言った。

「おや?君も永遠が欲しくなったのかい?」

「そんなんじゃないけど...、お前が急に変わったら俺の心が対応できる気がしないよ」

 タキオンは、ふふふと笑った。

「安心してくれたまえ。変わるときはアナウンスをしてあげよう。――迷子の子供がショッピングモール一階の迷子センターに来ています。服装は、黒いトレーナーに青いジーパン。お名前は、田上圭一くん」

「なんで俺が迷子センターにいるんだよ。お前のアナウンスだろ?」

「ああ、そうか。じゃあ、これは違うね。...つまりこれか。――今、大怪獣アグネスタキオンが姿を変えようとしています!」

 ここで会話の終わりを待っていた賢助が、待ちくたびれて言った。

「鍵を閉めたいし、そこで話してると時間も遅れるから車で話してくれ」

 タキオンたちはそう言われると、軽く返事をして進み始めた。金属の階段を下りると、カカカッ、コココッと二人の足音が小刻みに響く。そして、階段を下り終わると二人は車に乗った。タキオンが、一度「君が運転しないのかい?」とからかいまじりに聞いてきたが、それは、「うるさい」と言って無視した。タキオンは、「私の扱い酷くないかい?」と聞いてきたが、それも一笑に付して黙らせた。

 幸助は、助手席に乗っていたので、二人で後部座席に乗ることができた。と言っても、後部座席に幸助が座っていたとしても、タキオンがなあなあ言ってどかしたのは間違いがないだろう。

 老人たちは、ここには飛行機で来たようだから、車をレンタルして行くようだ。ここからは、見えないところで、タキオンが居なくとも楽しく愉快に話をしていた。

 そして、賢助が車に乗り込むと、二つの車はそれぞれで進み始める。タキオンにとっては、楽しい車の旅が始まった。それは、どうやっても田上と離れることのない車の中だからだ。

 車は、音を立てて駐車場から出て行った。

 

 車の中では、最初のうちはタキオンも田上に話しかけていたが、段々とそれも衰えていって、最後には田上の肩に寄りかかってぼーっとする他なかった。田上は、もうタキオンが近くにいることは慣れっこだったので、何も言わずに自分の肩に寄りかからせた。時々、タキオンのウマ耳が頬をくすぐるときがあった。そんな時は大抵、タキオンがわざとウマ耳を動かしているときで、暇すぎて田上と遊びたいときだった。田上は、それをされると少しの間我慢するが、やがてくすぐったさも痒みに達して、タキオンに怒った。すると、タキオンは嬉しそうに笑って、田上に「ごめんごめん」と謝るのだ。

 賢助と幸助は、その後ろのやり取りを微笑ましそうに聞いていたのだが、自分たちも話をした。大学卒業後の展望だったり、彼女とのこの先だったり、幸助は話していてあまり嬉しそうではなかったが、話しかけているのは父親だったので、黙ってその話を聞いた。そして、時々反論した。

「父さんも似たようなもんだろ」

 これを言われると賢助もぐうの音も出ずに、「そうだな、ごめん」と笑って謝った。それを聞けば、幸助の機嫌も回復したようだ。やがて、この先のことについて自分が思っていることを父に少しだけ話した。父は、その話を難しい顔をして聞いていたが、やがて幸助の話が終わると言った。

「あんまり難しく考えてもいけないからな。大事なことを見失わずに頑張れよ」

 幸助は、「はい」と返事をして、その後は自分のスマホを眺めた。

 

 そうこうしているうちに一行は、大内神宮についた。毎年行っていた神社より小さいとは言いつつもここも大きな神社だった。そして、同じように人で込み合っていた。

 それを見ると、タキオンは嬉しそうに言った。

「これは、君と手を繋がないとはぐれてしまうね」

 タキオンの嬉しそうな顔を見ると、田上も苦笑が出てきた。しかし、同時に嬉しくもあった。

「ああ、手を繋がないとな」

 田上もタキオンの手を取った。そして、二人は先に歩き始めた。幸助と賢助の後に続いた。

 幸助と賢助は、二人とも付かず離れずでぶらぶらしながら歩いた。山の頂に見える大きな社を指差しては、「ここでも全然よかったな」と言って楽しんでいた。

 人々の群れは、坂を上っていけば行くほど多くなっていった。坂は、まだ広い駐車場の中頃である。なので、神社に上る階段程人は多くはなかった。

 その坂には、屋台が三つほど立っていた。それぞれ、『たこ焼き』『クレープ』『焼きそば』と書かれた暖簾を提げて、人を集めていた。

 タキオンは、人混みの上にそれを見とめると、「クレープ...」と一言呟いた。しかし、田上が言った。

「ダメだ。まずは、爺ちゃんたちと合流しないと。...その後でクレープでもなんでも買って貰えるさ」

 タキオンは、不満そうな顔をしたが、素直に頷いた。そして、尚のこと田上にぴったりくっついた。田上は、歩きにくそうだったが、少しの幸せを感じた。この歩きにくさは、やがては別のものに変わってしまうのかもしれないと思うと悲しくなったが、その幸せを左腕に目一杯感じながら歩いた。奇妙に波打つ自身の心臓の音が聞こえた。その奇妙さは、どこかに置いて来たものを取り戻したいと切に願うものだった。田上には、その正体など分からなかったし、その奇妙さを言葉にすることも叶わなかった。だから、それから脱するように、こうタキオンに言った。

「俺もお前と一緒にクレープが食べたいよ」

 タキオンは、田上の声にどこか物悲しさを感じたから、不思議そうに隣にある顔を見上げた。それは、田上が時々見せる、ここではないどこかを見ている顔だった。タキオンは、その顔があまり好きではなかった。だから、田上の言葉にこう返した。

「あそこのベンチだったら、もしかしたら私たちが食べるときに空いているかもね」

 タキオンは、何の根拠もない理論を論じてベンチを指差したが、田上は、やっぱりその方向を見たとしてもそこを見てはいなかった。だから、田上の悲しさは段々タキオンの方にも伝染していった。ただ、悲しいと言っても田上とタキオンの悲しさは違うものだった。その乖離を感じると、タキオンはより一層悲しくなったが、もう次の瞬間には田上はここにいるタキオンを見ていた。

「あんまりくっつくと歩きにくいし、それにここは人の目が多いから俺たちがこんなにくっついてたら勘違いされるぞ」

 田上の瞳に自分が映っているのを確認すると、タキオンの心は微かに高揚した。そして、言った。

「いいや、木の葉が隠れるなら森の中、人が隠れるなら人混みの中、と言うだろ?特に、問題はないさ。それよりも問題にすべきは、あのご老人たちの事さ。あの人たち、私たちの名前を大声で呼んだりしないだろうか?騒ぎになるというより、とっても迷惑だ」

 タキオンがそう言うと、田上も苦笑した。

「あの人たちも悪い人たちではないんだけどね。タキオンが来たから少し興奮したみたいだ。あんなに面倒だとは思わなかったけど…。けど、まぁ、今度こそ言えば分かってくれるよ。少なくとも、大声で呼んでくれたりはしないはずだ」

「本当かなぁ…」

 タキオンは、訝しみながら前方の方を見た。田上もまた、その視線につられて前を見た。賢助と幸助から少し離されていた。

「タキオン、少し急ごう。スマホがあると言っても、はぐれるのは少し面倒だ。せめて、合流するところまでは、一緒にいないと」

 そう言って、二人は少し小走りになった。それでも、やっぱりくっついていたので走りにくかった。そして、一回互いの足が絡み合ってこけそうになったのを境に、少し離れることにした。それから、二人は幸助と賢助の後ろに着くと、田上が賢助に聞いた。

「爺ちゃん婆ちゃん、どこにいるって?」

「え?…ああ、もう少し上の方の駐車場だって、この階段が始まるところで合流しようということになった」

「オッケー、了解。…別にさ。先に行っててもいいんじゃない?あの人たちが来ても、特に俺たちはうるさくなるだけだし」

 田上は、タキオンに配慮して言った。

「ああ、いいかもな。じゃあ、お前らだけでも先にいったら?…でも、そうすると、お前たちが少し暇になるかもよ。それだけ早く終わるってことだから」

「う~ん、じゃあ、あれでいい?…いや、…う~ん……」

 田上は、少し悩んでいるようだったが、最後にタキオンに答えを求めるように見た。だから、タキオンは提案した。

「私は、先に行きたいな。それで、クレープを買って食べて待ちたい」

 タキオンの言葉に賢助が反応した。

「ああ、クレープね。それがいいかもしれない。…お金渡そうか?」

 賢助が、田上の方を見て行ったのだが、その時にまるで学生かのように扱ったから、田上は言った。

「俺を何だと思ってるんだ?あんたよりいい給料もらってるんだぞ。……だけど、何にも金は持ってきてなかったな」

「だろうと思ったよ」

 賢助は笑った。

「だったら、お賽銭も必要だろ?初詣だし、五百円でも渡そうか?」

「いや、いいよ。五十円くらいがちょうどいいし。なんでもかんでも大きくしたってしょうがないだろ?」

「その通りです」

 賢助は、息子の尤もらしい言葉に負けて笑って、財布から五十円を取り出した。

「穴の開いた硬貨は、見通しがよくなるってことだからな。今のお前たちにぴったりだろう。…そう言えば、次のアグネスさんが出走するレースは?」

 賢助がタキオンと田上の両方を見つめながら聞くと、田上が答えた。

「大阪杯。三月三十一日だね」

「そうか……。たまには俺も現地に見に行ってみようかな」

「やめておいた方がいいんじゃない?まあまあうるさいよ」

「大阪杯は……大阪でするんだっけ?」

「いや、兵庫県の宝塚」

「宝塚か~。遠いな~。でも、一度は見に行きたいな~」

 賢助が困ったように言った。

「大阪杯の次はまだ詳しくは決まってないけど、千葉とか東京とかそこらへんでしないことはないと思うから、その時に来れば?」

「そうか、東京か。東京観光ついでに行くのもいいな」

 賢助は、そう考えながら言った。

「東京観光つっても、一人だけだと寂しいだろ?」

 田上がそう言ったのだが、これが賢助の癇に障ったようだ。

「それならお前と一緒に行こう。もうアグネスさんも置いて二人で行こう」

「分かった、ごめんって」

 田上が、賢助の怒りを察知して、笑いながら謝った。そこで、話は終わったようだ。田上は、少しの間、落ち着かなげにタキオンと坂の下の方を眺めた後、賢助に言った。

「俺たちはもう行くよ。タキオンもいいだろ?」

 タキオンは、「うん」と頷いた。そして、二人は階段を上る列に加わった。

 

 階段を上る列は、ごちゃごちゃしていて人のうるささが不快だったが、それでも、列の動きは順調だった。長い長い階段を二人は、列が動くたびに一段、また一段と上って行った。

 階段の所には、坂のところ以上に店があった。なんだか、奇妙なお面を売っていたり、アクセサリーを売っていたりした。その中の一つのアクセサリーにタキオンは、興味を持った。赤いガラス細工が綺麗に輝いていた耳飾りだった。

 興味深げにそれを屈んで見つめているタキオンに、店の中にいるおっちゃんと言うべきおじさんが言った。

「お、これまた可愛いウマ娘さんが来たね。これに興味を持ったのか?」

 突然話しかけてきたおっちゃんにタキオンは少し警戒しながら、頷いた。

「これは、またいいのに目を付けたね。そして、この赤色。ウマ娘さんの目の色とそっくりだ。あんた綺麗な色をした目を持ってるよ」

 タキオンは、おっちゃんにそう言われて何と思ったのか、「別にそんなことを言われた例なんて…」とぶつぶつ口の中で言った。おっちゃんは、「え?」と聞き返してきたが、タキオンがそれ以上物を言わなさそうだったので商売話を始めた。

「これはね。確か、名匠・滝切渓村が作ったと言われるガラス細工だよ」

「…なぜそんなものがここに?」

 横で見ていた田上が口を挟んだ。

「おや、兄ちゃんも興味を持ったのかい?」

「…いや、別に…」

「そんならいいけどさ。これは、ここらへんで適当に歩いている人には手が出せない金額だよ」

「どのくらい?」

 田上がそう聞くと、おっちゃんは嬉しそうに言った。

「ざっと数十万」

「数十万!?なんでそんなものがここにあるんですか?こんな野ざらしで、箱にも入れないで盗まれないんですか?」

 そうすると、おっちゃんは微妙な顔をしながら言った。

「一回盗もうとした奴はいたさ。だけど、すぐに捕まえられた。……俺は、ここのやつら皆を信用してんのさ。子供も大人も皆いい奴だと思ってる。中には、盗むやつもいるだろうけど、この階段を上る奴は皆いい奴さ」

 田上は、不思議そうにおっちゃんの顔を見た。とても礼儀がよさそうな顔立ちとは言えなかった。日に焼けて、顔も年季が入っていて、海の男の様な感じだった。

「……なんで、そう言い切れるんですか?」

 田上は聞いた。

「そりゃあ、勿論、何年もこうしてここに野ざらしにしてるが、取った奴は一回しかいねぇ。こいつの値段を聞いてきた人は何人もいるが、盗もうと思ったやつは奴以外いなかった。だから、俺はここが好きなんだ。この階段でお前さんたちみたいな人たちを待ってんのさ」

 その言葉を最後にタキオンは立ち上がって言った。

「いいものを見せてもらいました。ありがとうございました」

 田上は、びっくりして隣を見たが、タキオンが「行こう、トレーナー君」と言うとその手を引いて階段を進もうとした。田上は、店のおっちゃんに「ありがとうございました」と言って、頭を下げるとタキオンに引っ張られて階段を少し上った。そして、列の行き当たりに来ると立ち止まって聞いた。

「タキオンは、もしあれが買える値段だったら買ってたか?」

 すると、タキオンは首を振ったから、田上は「なんで?」と聞いた。

「なんで?…それは、…私の目と似ていると言われたからだよ。何だか癪だ。気持ち悪いじゃないか。宝石のような眼だねって褒められるのは」

「じゃあ、あの宝石なんかじゃなくて、おっちゃんが嫌だから買わないのか?」

「ああ、その通りだ」

 タキオンは、そう言った。その後に、田上は、タキオンに言いたいことがあって口を開いたが、果たしてこれは言ってもいいものかと思って、また口を閉じた。その様子を見ていたタキオンが聞いた。

「何か言いたいことでもあるのかい?」

「いや、……俺はお前の目が好きなんだけどな。…なんかあんまり嬉しくないようだから…」

「ふぅん…」

 タキオンは、さっきの耳飾りを見た時よりも丁寧に田上を見つめた。

「あんまり目のことを褒められたことはないんだけどね。今日は、なぜか二回も褒められたよ」

「…だって、タキオンの目、赤くて暗くて少し不気味だけど、その不気味さの中に垣間見えるあどけなさが素敵なんだよ」

「素敵なんだよ?」

 オウム返しにそう聞くと、タキオンはハッハッハと笑った。

「君もお世辞が得意になったな。いつからそんなに得意になったんだい?」

「さあね」

 自分の言ってることが、あんまり信用されなくて安心したのか残念がったのか分からず、曖昧な答えを田上は返した。

 そして、その後にもう一度何か言おうとしたが、再び躊躇うと口を閉じた。この時のタキオンは、田上の顔を見ておらず、田上のもやもやは抱えられたものとなった。

 

 それから、二人はぐんぐんと上って行って、遂には頂上の社まで辿り着いた。この階段を上るのには大した手間はなかった。長くて急な階段ではあったけど、二人とも楽しむことができたからだ。タキオンは、あのアクセサリーの店以外にも、様々なお店に目を付けた。「あの店のあれが可愛いね」だったり「あのおみやげは誰が買うんだろう」だったり、まるでデートをしているカップルみたいな会話をしたので、田上は自分が何者であるかを再確認しなければならなかった。タキオンは、そんな田上には気付かずに悠々と自分の楽しい時間を過ごした。

 二人が、社まで着くとそこはさらに人でごった返していて、もはや何が列かは分からなかった。だが、列としての形はなくとも、機能としては働いているようだ。タキオンたちは、前の人が動くたびに少しずつ動くことができた。

 社のところでは風がビュウビュウ吹いていて、殊に寒かった。人混みが、風除けとなってくれる節もあったが、それでも寒いのは寒く、田上などは歯をカタカタ言わせた。

「トレーナー君、寒いのかい?」

 昨日のこともあって、タキオンは心配そうに聞いた。

「いや、寒いっちゃ寒いけどね。一回寒さで死にかけた身からすると、まだ余裕かな」

 田上は強がったが、その強がりがタキオンを余計に心配させた。タキオンは、急に田上の前に回り込むとその頬を両手で触った。

「うん、やっぱり冷たい。…どうすればいいだろう?君の体が温まりそうなもの…」

 そう言って、タキオンは目を泳がせた。そして、あるものを見つけた。

「自販機!…があるけど、君、クレープの代金そういえば貰っていたかい?」

 そこで田上も気が付いた。自分のポケットを探ってみたが、出てきたのは五十円玉だけだった。

「二人で百円か…」

 タキオンは、自分の五十円玉を持って残念そうに呟いた。

「クレープは、もう車の中で食べればなんとかなるよ。…それに、俺はそれほど寒くないからね」

 田上は、歯をカタカタ言わせながら、そう言った。勿論、タキオンもそれに気が付いていて、じろりと睨んだがその後にはぁとため息をついた。

「まぁ、本当なんだろうね。昨日がとんでもない状況だっただけで、本来はこういうものだ。…でも……」

「でも?」

「なんだか君のことが心配なんだよ。本当に大丈夫なんだろうね?急に倒れたりしない?」

 タキオンは、表情を曇らせて、田上に言った。田上は、こう返した。

「急に倒れたりはしないよ。倒れるときは言うから」

「そういう問題じゃないだろ…」

 タキオンは、どうしようもなさそうにため息をついた。そして、言った。

「どうしてだか分からないけど、君が倒れるのがあんまりにも怖いから。傍に寄らせてもらうよ」

 タキオンは、そこで田上にぐっと近寄った。階段を上るまでは、せいぜい手を繋ぐくらいだった距離が、今では田上の左腕を掴んで寄っている。そうすると、タキオンも少し落ち着いたようだ。少し笑顔になりながらこう言った。

「せめて君の左腕くらいは暖めないとね。君が凍えてもらっちゃ困るから」

「…ありがとう。左腕が暖かいよ」

 田上は、少し皮肉っぽく感謝の言葉を告げたが、タキオンにはその言葉に含まれたものには気づかなかったようだ。

「どういたしまして」と嬉しそうに返してきたから、田上は申し訳なくなった。だから、もうその後は口数を少し減らし、タキオンが指差す方向を見たり、話に相槌を打ったりするだけになった。それから、二人は進んで、果たしてどんな順番だったのかは分からないが、お賽銭箱の前まで来た。そして、各々ポケットから五十円を取り出すと、カチン、コロ、チャッと音を立てて賽銭箱に投げ込んだ。

 タキオンが鈴をガラガラと鳴らすと、田上もガラガラと鳴らした。そして、二人は一緒に神様に祈った。田上は、これからのことを祈った。それから、自分とタキオンを救ってくれてありがとうと、お礼も告げた。タキオンは、祈りたいことが何も浮かばなかったから、とりあえず、トレーナーを救ってくれてありがとうと神様に感謝の言葉を告げた。その想いが強かったのか、夢中になって感謝を告げていて、隣の田上に肩を叩かれるまで目を瞑って祈っていた。

「ああ、ありがとう」

 タキオンは、ぼーっとしたように田上の顔を見た。それから、言った。

「君が生きていてくれて本当に助かったよ」

 田上は、前も聞いたその言葉を聞いて、苦笑して言った。

「俺もタキオンが生きていて、本当に嬉しいよ」

 タキオンは、その言葉を聞くと少し照れたようだったが、口角を少し上げただけで何も言わなかった。

 そして、二人は、帰りの階段に立った。

 

「あんまり、手を洗ったり、頭に煙を浴びたりしなかったね」

 タキオンが、帰りの階段で夕日を浴びながら言った。

「ああ、俺も気がついてはいたんだけど、面倒臭かったから何も言わなかった」

 それを聞くと、タキオンはふふふと笑った。

「君らしいよ。面倒臭くなったら投げ出してしまうところ」

「人聞きが悪いなぁ」

 田上は、嫌そうな顔をしながら言った。

「別に貶しているわけじゃないさ。ただ、それが君の君らしいところって言うものさ」

「ふぅん…」

 田上は、曖昧に頷いた。それと言うのも、目の前に見える夕日が、あまりにも眩しくて落ち着かなかったからだ。タキオンもそれに気が付いたのだろう。田上に言ってきた。

「夕日が眩しいね」

 田上は、何も答えなかった。ただ、胸がざわざわする想いを秘めて、どうすればこれが治るのか考えているだけだった。

 それから、二人は歩き続けた。賢助たちの姿はどこにも見当たらなかったので、どこかで気が付かないうちにすれ違ったものじゃないかと思う。

 途中で、危ない階段が何個かあったから、田上はタキオンに注意して自分も気を付けて降りた。

 夕日は、その間も自分たちを照らし続けた。あんまり胸の内がざわつく想いは、消えなかった。――多分、夕日が照り続けている限りはこの想いは消えないのだろうと、田上は、また危ない段差をタキオンに手を貸しながら思った。

 そして、その段差を下りた時、タキオンが言った。

「君、この階段を降りるとき、ずっと心ここにあらずみたいな様子だけどどうかしたのかい?」

 田上は、思わず握っていたタキオンの手を強く握った。タキオンはそれを感じて、尚の事不思議そうに田上を見つめた。

 田上は、数秒の間黙っていたが、後ろの人が待っているのに気が付くと、「行かないと」と言って、タキオンの手を引いた。タキオンは、やっぱり田上を不思議そうに見つめていた。

「君、本当に大丈夫なのかい?」

 隣からそう言う声が聞こえてきたが、田上は首を振って答えた。

「なんにもないよ」

 そう言うと、また夕日を見つめた。なんだか、心の全てが見透かされているような気がして不安だった。

【挿絵表示】

――こんな夕日を前にも見たことがある。田上はそう考えた。それは、中学の時の出来事だった。そう、田上が好きな人に告白しているときだ。

 田上は、体の右半身に夕日を浴びながら校舎三階の渡り廊下であの子に告白をした。緊張して、上手く口が回らずなんども躓きながらやっとの思いで、田上は「好きです」という言葉を言った。それなのに、それが受け入れられることはなかった。――俺の努力はなんだったんだ。田上は、心底絶望した。それが、何年たっても心の中から消えないくらい絶望した。忘れることができるなら忘れたかった。ただ、その中に、何か別の道があったんじゃないかと思うと、忘れることもままならなかった。

 特に、こういう夕日を見れば思い出す。田上は、思い切り何かを叫びたい衝動に駆られた。「死ね!」だろうか?それとも、「糞食らえ!」だろうか?どちらにしろ、悪口であることには変わりがなかった。

 ちょうどその時、田上は、何もない階段の上で躓いた。「あっ」と言葉が出た。前には、人がいた。50代くらいのおばちゃんだろうか?何も気が付かずに話をしている。田上は、その人にぶつかる瞬間をスローモーションのように感じたが、その時、腕がぐっと引っ張られて、田上はぶつからずに足を軸にぐるりと回って階段で脛をぶつけただけで済んだ。だが、それはとても痛かった。

 田上が、痛みに思わず脛を抑えて悶絶していると、タキオンが安心したように言った。

「いや~、よかったよかった。君、ぼーっとしているからこんなことになるんだよ」

 どうやら、腕を引っ張ったのはタキオンだったようだ。しかし、田上はそのことに例を告げることもできずに、痛みを抑えようとひたすらに脛を擦っていた。

 そして、ようやく立ち上がれた時には、後ろを塞いでいたので、道のそばによけなければいけなかった。まだ、歩くのにはちょっと抵抗があるくらい痛かった。

 タキオンが心配して聞いた。

「そんなに痛かったかい?」

「いや、もう痛みはありえないほどあるけど、多分骨は折れてない。…ありがとう、タキオン」

「どういたしまして。…ちょっと触ってみてもいいかい?」

 そう言って、タキオンが田上の脛に手を伸ばしてきたので、手をどけるとタキオンの手がちょうどぴったり痛いところにあたって、田上は思わず「いてぇ!」と声を上げた。

「ごめんごめん」とタキオンが謝って、ぱっと手を離した。

 そして、再び聞いてきた。

「やっぱり君、ぼーっとしていただろ?なにかあるんだったら私にも話してくれ。私は君の教え子と言う立場だけではないんだ。友人であり、モルモットを見守る飼い主なんだよ」

 タキオンが、そう言うと、田上はなにが可笑しかったのか痛みに顔を歪ませながらもハハハと元気なく笑った。

「俺は、やっぱり夕日が嫌いだ。あんな夕日があると、悪いことばっかり起きる」

「悪いこと?」

「タキオンには言いたくないことだ」

 田上は、そう言って顔を背けた。タキオンは、まだ話したいようだったが、その時に別の声が飛び込んできた。

「おう、誰かと思ったら、圭一とタキオンちゃんじゃねえか」

 前田家の爺ちゃんがそこにいた。そして、その後にぞろぞろと一行が下りてきて、最後には賢助と幸助が下りてきた。

「何かあったのか?」

 およそ状態のよくなさそうな兄の顔を見て、ニヤニヤしながら幸助が聞いた。

「こけて脛をぶつけたんだよ。ニヤニヤするのをやめろ。腹立つなぁ」

 田上は、少しイラっとして言った。

「立てないのか?」

 尚もニヤニヤしながら幸助が聞いたから、田上も怒りに任せて立った。

「ほら、立てますよ。帰りましょう。もう暗くなる」

 もう四時も終わろうとしているころだった。夕日は沈み、代わりに暗い夜空が空に広がろうとしていたが、まだ西の空の端には夕日の名残である赤みがあった。

 そして、一行の中にタキオンと田上が入ると、婆ちゃん二人組に話しかけられながら、階段を一段ずつ下りて行った。

 

 帰りは、クレープは断念することになった。暗くなったとは言え、まだまだ人が多くクレープ屋の行列の幅は狭まることを知らなかったからだ。それに暗さが一行を急かしたのも理由の一つだった。時刻は五時。田上家、前田家の爺婆が帰るのは、八時だったためまだ少し時間の余裕はあったが、暗くなってきたことにいくらかの不安を感じて、賢助は先を急ごうと言った。

 タキオンは、最後に残念そうにクレープやを眺めていたが、田上が慰めるようにこう言った。

「別に東京の方に帰ったら、クレープ屋なんて幾らでもあるだろ?たまに、学園の前に売店が来てたりするし、食べる機会なんて幾らでもあるよ」

 そうすると、タキオンが怪しげに企んでいる顔をして言った。

「クレープ?…一人で行くのは面倒臭いな。…モルモット君の実験ついでに行ってみるか?」

「クレープ屋で実験するの?」

「いや、あんまりアイディアはまとまっていないが……、そう言えば、ここでまとめる予定だったのに、すっかり忘れていたな。キャリーケースの奥の方にノートをしまいっぱなしだった。…どうしようか。今更、慌ててまとめたとしても…。ただ、あそこはあんまり私の集中できる場所じゃないからなぁ」

 タキオンの歩みが遅れがちになってきたので、田上は引っ張って急かした。

「とりあえず帰るぞ。今日は、ご飯がたくさんあるってよ」

「本当かい?」

 タキオンは、考え事から急に覚めて、田上を嬉しそうに見た。

「ああ、朝のうちに父さんが半分ほど作っていたらしいから、帰って温めたらすぐに食えるって」

「それは良かった。私、お腹がぺこぺこだよ」

「奇遇だな。俺もだ」

 一行は二手に分かれると、再び車に乗った。そして、暗い夜道の中を下って行って、建物のある街中へと出た。田上には、神社のある山を下っていく道の両側にある林が妙に目に焼き付いた。街灯などは一切ない真っ暗な道だ。そこを車で下っていくのだが、その車のライトが林の中を映し出した。獣一匹いない林だ。もしかしたら、今は見えない場所に隠れているのかもしれないが、その人気のなさはどこか不気味だった。上の上までそびえる針葉樹。低い下草。枯葉などもたくさん落ちているだろう。

 その道を車は通っていた。タキオンは、少し疲れたのか、帰りは話すことなど最初から忘れて、田上の肩に寄りかかってぼーっとしていた。田上も疲れがあったのかどうか、欠伸が一つ出てきた。もしかしたら、外の真っ暗闇が眠気を誘ったのかもしれない。

 帰りの車の中は、極々静かなものだった。


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