ケロイド   作:石花漱一

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三十二、マンハッタンカフェ④

 タキオンが、多少眠たそうな目をしながらも、意気揚々とトレーナー室に入ってきた。そして、まだリリックが来ていない事を確認すると、「寝る」と言って、白い長机の上に腕枕をして、目を瞑ってしまった。それでも、田上が話しかければ応答をしてくれたので、田上は「眠いのか?」と聞いた。タキオンは、目を瞑りながら「六時間目は非常に退屈だったね」と言った。それから、リリックが来るまでは、田上はタキオンの隣の席に座って、黙ってタキオンを見たり、窓の外の空を見たりしていた。

 リリックが来ると、田上は、五時間目の授業中に抜け出して、店で買ってきたお菓子を机の上に広げた。タキオンは、まだ少し眠たそうにしながら、ソフトキャンディを一つ摘まむと、それを口の中に放り込んで舐め始めた。リリックは、不思議そうにしながらも、これから何が起こるかを警戒して、マテリアルの隣に座った。そして、タキオンと同じキャンディをリリックが摘まむのを見ると、田上は言った。

「今日は、特に何をするでもないけど、こういう日を作るのは良いと思って、やってみた。お出かけしても良かったかもしれないけど、…そういう気分?」

 田上は、女性三人を見回してそう聞いた。誰も何も言おうとしなかったので、マテリアルが、「ラーメン屋はどうなったんですか?」と口を開いた。すると、田上は固まった後に言った。

「ラーメン屋は…、また暇があったら行っても良いかもしれないね。…今から行きたいの?」

「私は行きたいですよ」とマテリアルが言った。田上は、それを聞きつつ、今度はリリックの方に問うような視線を向けた。すると、リリックが口を開いた。

「私は、…今からラーメンはちょっと…」

 その質問に頷いてから、次にタキオンの方を見た。

「タキオンはどうする?」

 タキオンは、口の中でキャンディを転がしながら言った。

「私たちがする事を説明するんじゃなかったのかい?」

「ああ、…じゃあ言うけど…」と言いながら、リリックの方を見た。

「リリーさんは、俺とタキオンが付き合っているのは知っているだろ?」

「…はい」

「まぁ、チームの中に私情はあんまり持ち込みたくないんだけど、報告しないのもあれだと思って、…まぁ、大したことじゃないけど、…近々引っ越すことになるかもしれないから、その時はよろしくお願いします」

「はぁ…?」

「忙しくなるかもしれないし、ちょっと予定も変わるかもしれないから、そこら辺で迷惑をかけるかもしれない」

 田上がそう言うと、タキオンが口を挟んだ。

「私と圭一君で半同棲みたいなのを営むんだ。ここだとあんまり自由が利かないからね。いっその事外に飛び出して休日だけでも一緒に居られたらいいと思うんだ」

「…寮はダメなんですか?」とリリックが、小さい声で聞いた。それに、タキオンが答えた。

「寮はダメなんだね。ただ、外に泊るんだったら、トレーナーの家でも構わないらしいから、私はそこを突くんだ」

「土日で泊まるんですか?」

 リリックは怪訝な顔をした。

「まぁ、付き合っているんだから問題あるまい。そもそもここは規則で恋愛は縛られていない。私たちを縛りたいんだったら、そこから縛るべきだね。と言っても、規則ごときで縛られる私ではないが」

 そう言うタキオンに微妙な表情を見せた後、田上は言った。

「まぁ、そういう事で、…リリックさんはあんまり興味が無いかもしれないけど、報告しておいた方が、俺とタキオンがこれから何をしようとしているのかが、リリーさんにも分かりやすいだろうと思って、報告しておきました。何か質問とかあるのなら、特に遠慮はしないで言ってもらっていいけど」

「…じゃあ、…もう…同棲するって事ですか?」

「それは違うね」とタキオンが言った。「私が、トレーナー君の家に、休日に通うことになる。二人の時間が欲しいからね。部屋でゆっくりする時間ができればいいと思って、話し合ったんだ」

「…いつ頃に引っ越すんですか?」

 これには、田上の方が答えた。

「まだ、正確な日にちは決まってないけど、五月末辺りにできたらいいと思っている。もう、荷物とかまとめておいた方がいいかもな」

「気が早いんじゃないか?」とタキオンが、からかうつもりでニヤニヤしながら言った。田上は、それに微笑み返した後に、リリックの方に向き直った。

「まぁ、できるだけ簡潔に済ませたいとは思っている。五月末と言うと、リリーさんのデビューも近いしね」

「……六月の八日ですよね?」

「そう。…第二週だから、それ程近くでもないか?」

 田上が頭の中でカレンダーを思い出しながら言うと、話が途切れて沈黙が生まれた。その間に、マテリアルはクッキーが二枚入っている袋を摘まんで、開けると、それを口の中に放り込んでボリボリ言わせた。その後に、タキオンが口を開いた。

「私の宝塚記念は九日だろ?」

「うん」と田上が答えた。

「八日という事は、君は私よりも早く出るという事なのかい?」

「そういうつもりだね。ただ、タキオンの方にはマテリアルさんをつける予定だけど」

 すると、タキオンはマテリアルの方をチラと見てから言った。

「私は一人でも大丈夫だよ?」

「まぁ、マテリアルさんが居ても良いだろ?話し相手くらいは居てもいいはずだ」

 そう言われると、タキオンも不満そうな目つきをしながら、マテリアルの方を見た。その目は明らかに圭一君のほうが良いと言っていたから、田上は少し苦笑した。

「マテリアルさんも居て良いだろ?」

「まぁ、君にも私を養うための仕事という物があるからね。君の仕事の邪魔は、なるべく避けてあげるよ」

「ありがとう」と言うと、今度は田上がタキオンと同じソフトキャンディを摘まんで口の中に入れた。それから、何の気なしに口の中でキャンディを舐め続けていると、タキオンが口を開いた。

「話はそれで終わりかい?」

「いや?別に、終わりじゃないけど」

「君が急に黙ったから終わりなのかと」

「ちょっと話しすぎたから、糖分とらないとと思って。 リリーさんって、何かゲームをしたりするの?」

「え、私ですか?」

「そう」

「ゲームは、…スマホゲームなら少し触ったことがありますね」

「どんな?」

「えっと…、今はもう飽きちゃってやってないんですけど、なんか放置するほのぼの動物集め、みたいなのですね」

「…あー、あれね。猫とか犬とか鳥とかを庭に集める奴?」

「あ、そうそれです。案外やる事なくなって、すぐにやめちゃいました」

「ふーん」と田上は頷いた。田上はスマホゲームより、家庭用ゲーム機でのゲームを楽しみ方が主流だったので、今の話に関して、あまり口を挟む余地がなかった。しかし、タキオンの方が、田上に話しかけた。

「君は、美少女ゲームとかするのかい?」

「俺は、…一時期やってたんだけど、あんまり肌に合わなかったよね。アクションゲームとかの方がやってて楽しい」

「へぇ。…今日は、ゲーム機は持って来てないのかい?」

「最近は全然やってないから持って来てないね」

「ここ最近は、私につきっきりだものね。私は、君がゲームをしなくなって嬉しいよ」

「別にゲームをしてない事はないよ。 なんで、俺がゲームをしないと嬉しいの?」

「ゲームをし始めると、君、私の話を聞かないんだもの」

「そうかぁ?」と田上が言うと、マテリアルが口を挟んだ。

「ああ、そんな感じします。なんか、人の話を聞かなさそう」

「だろう?」と自分を支持してくれる人が出て、活気づいたタキオンが強く言った。「そう。少なくとも、君に前科はあるんだ。それで少し話した事もあっただろ?」

「…ああ、あったね」

「まぁ、近頃は大丈夫のような…気がしなくもなくもないような気はするね」

「ん?どっち?」

「まぁ、…ゲームをあんまりしなくなったからね。私のお陰だね」

「ゲームを悪く言うのは違うだろ?」

「…まぁ、君の趣味を悪く言ってもしかたない。悪かった」

 タキオンがそう謝ると、妙な沈黙が続いた。田上は、なんだか自分が悪いかのような気がした。ただ、タキオンの謝罪も適当ではなく、しっかりと誠意の籠ったものだった。田上は、――この次に何を言えばいいのだろう?と思いながらも、何か言うべき言葉を見つけられずに、その空気を有耶無耶にしたまま机の一点を見つめ続けた。その曖昧な空気が続いた後に、タキオンが言った。

「話はゲームの話で良かったのかい?」

「え?ああ、今週の日曜日には、一人か二人スカウトをする予定だからそれもよろしく」

「あと二人スカウトするんですか?」とリリックが聞いた。

「ああ、あと二人くらいなら、俺とマテリアルさんでお世話できるかな、と思って」

「じゃあ、君はもっと忙しくなるのかい?」

「まぁ、大して…変わらないんじゃないかな?ここから頑張って行こうという話だよ」

「でも、他の子たちのトレーニングの世話もしてあげないといけなくなると、私に接する時間も減るだろ?」

「まぁ、…減るかもしれないけど、…別にお前を見てないなんて事はないぞ」

「それで、私が他の子たちと同様に、担当として扱われるんだったら、たまったもんじゃないよ?私は、君の彼女だ」

「それは分かってる。ちゃんとそうするけど、俺の仕事の邪魔はしないんじゃなかったのか?」

「なるべく、しないんだ。私の立場が危ういとなったら、私は邪魔をしないといけない」

「危うくはならないだろ。休日に泊りに来るのはお前だけだぞ?」

「それは、…そうかもしれないが、…今までずっと一緒に、二人だけで頑張ってきたというのに、今になって私を見捨てようというのかい?なんて非情な彼氏なんだ!」

 最後の言葉は、半分冗談のような物だった。頭にぱっと思いついたから、その言葉を言ったのだろう。ただ、その前の言葉は、田上の胸に、少量の気にするべき淀みを与えた。確かに、タキオンとの繋がりは、マテリアルやリリックとは比べ物にならないくらい濃くある。恋人同士という関係でなくても、これまで苦労を分かち合ってきた二人の二年間は、二人の間に濃く横たわっているだろう。田上は、タキオンとの間にある特別に濃い信頼関係を垣間見て、その信頼関係を揺るがすのは如何なものだろうかと考えた。

 そう思いながら見つめていると、タキオンも微笑んで言った。

「君の立場も知っているが、…私とのあの二年間を君は無下にはできないんじゃないか?泣いた日もあったし、笑った日もあった。全て二人でやっていた。あの頃に戻りたいとは言わないよ。今の関係の方がずっといい。恋人同士になれたことは、私の一番の喜びだ。 でも、君は担当を公平に扱うというだけで、私との二年間の全てを忘れる事はできないはずだ」

 タキオンは確かに微笑んでいたが、その微笑みは、ある種の確信を得た微笑みだった。タキオンは、田上が忘れられない事を知っている。そして、田上自身もあの日々を忘れられない。公平に扱うと言いながらも、恐らく、確実にタキオンを優先してしまうだろう。現状がそれだ。自分はタキオンの担当を外れることなく、リリックだけをマテリアルに押し付けた。そのけじめとして、田上がリリックのデビューについて行こうと言っていたのだが、これではあまりに卑怯な気がした。公平公平と言いながら、公平に扱う事のできない自分から目を背けて、ひたすらに誠実な人間であろうとした。しかし、その実体は、ただの卑怯な男である。

 田上は、これからどうすればいいのだろうと思った。確実に、タキオンを他の子達と公平に扱うことはできない。付き合っている付き合っていないに関わらず、タキオンは田上にとって大切な人だ。他の子たちにはない苦楽を、文字通り、二人きりで共に過ごしてきた。他の子たちにはない絆だ。タキオンは、それを全て分かった上で、田上に微笑みかけている。――君は私の事を忘れることができないだろう、と。

 公平と誠実と信頼の中で田上の心は揺れた。いや、元から定まっているのかもしれないが、その事実を改めて考えざるを得なかった。自分は、心底タキオンに惚れている。その中でチームを成り立たせてゆかねばなるまい。この事実を無視したままにチームを運営していこうと思えば、いつか矛盾にぶち当たる。

 ただ、田上には、タキオンとチームを両立させる方法が分からなかった。公平を唯一存在する物として、チームの姿を考え、トレーナーの姿を考えれば、このチームを運営する事はできない。しかし、公平以外に何をもってチームを運営すればいいのか分からない。タキオンだけを優先してしまえば、他の子たちにもタキオンだけを依怙贔屓しているように映るだろう。そして、実際にそうなる。恋人同士なのだから、当然の如くそうだろう。

 田上が揺ぎ無い冷徹の人間ならば、恋人と他の子たちの見境なく、公平に接することができたかもしれないが、二年間を共にした教え子に惚れた人間だ。揺ぎ無い冷徹というわけにはいかなかった。

 ——私情を挟むべきじゃなかったな、という思いと、――惚れたんだからしょうがない、という思いが田上の中に混在した。今更、タキオンと前の関係に戻るつもりはない。自分を受け入れてくれた彼女に最後までついていくつもりだ。今別れるのは、むしろ損だ。こんなに自分の事を信じてくれる人間が、こんなに自分が信じられる人間が、この先現れるのかどうか分からない。抱き締められるうちに抱き締めておいたほうが良いだろう。

 しかし、チームを運営していくという上では、田上の信頼が、他の子たちよりも格段に、タキオンの方に向けられているのが難しかった。公平という言葉に取り残された田上の頭は、その道筋以外でチームを運営していく方法を知らない。

――いっその事、タキオンを明確に一段階上の身分みたいなものにして、その下に他の子たちが居るという形式をとったほうが良いのだろうか?と思った。タキオンと田上が恋人同士というのは、結局、変えられない事だ。そうすると、タキオンを特別な人として、田上の傍に置いておいたほうが良いだろう。それで、少なくとも嘘は吐かなくなる。嘘は吐かなくなるが、依怙贔屓はする事になる。これが、田上にはどうも面倒だった。誠実の道を行こうとすれば、他の何かを捨てなければいけない。嘘を吐く事と、依怙贔屓をする事はどちらがより不誠実なのだろうか。教え子たちの目の前に映る田上とタキオンの関係は、果たして許されるべき不誠実なのだろうか?

 こう考えた所で、田上の胸にはもう答えが出てきたような気がした。騙すよりも確実に、大っぴらに依怙贔屓をしたほうが良いだろう。ただ、田上も他の子たちを貶めてまで依怙贔屓をするつもりはないが、タキオンが大切な人であるという事を今更隠しても詮無いはずだ。この上に公平を築いていかなくてはならない。タキオンが他の子たちと同列であるという妄想を捨てて、タキオンの大切さを守り抜いて行かねばならない。タキオンを大切にしつつ、他の子たちを大切に扱う方法については、まだ考える余地があった。しかし、とりあえずは、目の前で微笑んでいるタキオンを蔑ろにしてはいけないという決意が湧いた。

 田上は、長い長考の末に、目の前で自分の返答を待っているタキオンに言った。マテリアルとリリックは、もうすでに別の話をしていた。

「………お前の言う通り、…無下にはできない」

「だろう?」

「そうだ。…そして、お前も、俺の事を無下にできない事を知ってる」

「…私はするかもしれないよ?」とタキオンが、少しの後ろめたさに目を泳がせながら言った。

「いや、案外優しいからな、タキオンは。俺がちゃんと説明したら、ちゃんと聞いてくれる」

「…でも、……私は…君を独り占めにしたい」

「それは、…したい時にはおんぶでもなんでもしてやるよ。話の邪魔をしたって構わない。邪魔をして怒られるんだったら、頑張って仲裁するよ。とりあえず、お前は俺の好きな人だ」

「そうだが、…そうだが…」とタキオンは少し頬を赤らめながら言葉を続けた。「私は、君に口なんて利かせないよ?」

「利くように頑張る」

「私が本気を出したら、君なんて赤ちゃんだ」

「じゃあ、すぐに成長してタキオンよりも本気を出す」

「それじゃあ、論理が通ってない」

「お前だって、論理は通ってないぞ?」

「私はウマ娘だ。そして、君はただの男だ。よって、私の力で簡単に、手も足も抑えられる」

「でも、お前には致命的な欠点がある」

「なんだい?」とタキオンは心の内でなんとなく察しながら聞いた。

「俺だ。お前の一番の弱点は俺だ」

「君の弱点だって私だろう?」

「そうかもしれないけど、お前は俺に弱いね」

「弱くはないさ」

「いや、そこら辺は弱いよ。俺に頼まれると弱い」

「じゃあ強くなる」

「じゃあ、俺はそれより強くなる」

 田上がそう反論した。この恋人たちの喧嘩未満、口論未満のお喋りを、マテリアルとリリックは微笑み呆れながら見つめていた。

 口論はまだ続く。

「じゃあ私は強くなった君より強くなる」

「じゃあ、俺はその上を行く」

 タキオンは、少し田上の顔を睨んだ。

「…結局、君は私に勝てないんだよ?」

「でも、お前は俺に弱いって言っただろ?」

「でも、私は本気を出せば君なんかちょちょいのちょいなんだ」

「俺には俺のやり方がある。幾ら力で抑え込まれようと、タキオンは俺に弱いんだからしょうがない」

「…それじゃあ納得が行かない。私も君に勝ちたい」

「俺だってお前に弱いよ」

「どんな時に?君が本気を出したら、私は勝てないんだろ?」

「アパートの話はちゃんと乗ったよ。俺は別にどっちでもいいけど」

「でも、それは君にとっても良い事じゃないか。私と誰も居ない部屋でゆっくりできるのは嬉しいだろ?」

「別に、嬉しくない事はないけど、俺はあのベンチででも、この部屋で話しているのでも、結構満足はしてるよ」

「…それじゃあ不満だ。私が君に振り回されるんじゃなくて、私が君を振り回したい」

「…俺も振り回されるだけなのは嫌だな」

「だろう?だから、私に振り回されたまえ」

「アパートの話は結構振り回してるんじゃないか?」

「だから、君も乗り気じゃないか」

「乗り気だよ?…乗り気だけど、……ちょっと話がずれてきてないか?喧嘩はしたくないよ」

「…私はする」とタキオンは田上の事を睨みながら言った。こうなってくると、田上にも少し面倒だったので、真顔で少し考えると、こう言った。

「しないでほしい。…嫌だよ?崖っぷちに立つのは」

 それでも、タキオンは田上の顔を睨み続けていたが、やがて、一瞬目を逸らしてから言った。

「……私の事をもっと見てくれよ…」

「ちゃんと見てるよ。俺の視線に気が付いてないか?」

 その後に、タキオンは返答に言い淀んだが、不意にマテリアルとリリックの視線に気が付くと、八つ当たりをするようにそちらの方を睨みながら、「ここじゃ話しづらいね」と言った。マテリアルは、平気な顔をして「私たちの事はお構いなく。見てるだけですから」と言った。その後に、田上が口を開いた。

「俺は、お前の事が一番好きだよ。それはお前も分かってるだろ?」

 マテリアルが、ふふっと笑い声を漏らすのが聞こえてきたが、田上は気にしなかった。だが、タキオンの方はマテリアルの方を一睨みすると、顔を赤らめた。

「それは、…それは、…ここにマテリアル君やリリー君が居るのに、言う言葉じゃないんじゃないか?」

「どうせ、分かる事だよ。それに、俺たちは見境なくキスをしてきただろ?あの土手で強引にキスをしてきたお前が何を言っているんだ」

「それは悪かった。でも、……そういうのは二人きりの時に言う言葉だ」

 タキオンは、はにかみながらそう言った。

「今更な話じゃないか?それに、お前としてはこういう言葉は他の人が居る時に言われたほうが良いんじゃないか?」

「なぜ?」

「他の人の牽制になるだろ?お前の立場が危うくなることもなくなる」

「…でも、……そういう事は二人きりの時に言ってほしい」

 そう言われて、田上は、一瞬マテリアルたちの方に目をやってから言った。

「まぁ、言ってほしいのであれば、二人きりの時に言うけど、…今は、…スカウトの話だったかな?」

「そんな事だったような気がする」

「…うん。お前を大切にする話だった。別に、お前を無下にしたりはしない。ちゃんと恋人として接するよ。無理に平等に、平坦にしたりはしない。ちゃんとお前は大切な人だよ」

「そりゃあ、そうだが…」とまたタキオンは顔を不機嫌そうにした。「…君は私の物だ」

「そうだ」

「…私の物は私の言う通りにすべきだ」

「そうだ」

「…じゃあ、君はスカウトをやめるべきだ。これ以上、他の子に割く君の時間はない」

「そうだ」

 田上がきっぱりと言い切ると、タキオンは不満そうな面持ちで彼氏の顔を見た。田上は、今自分の言った事を気にも留めずに、タキオンの事を見つめ返した。だが、何も話す事はしなかった。マテリアルとリリックは、いつの間にかタキオンたちを見るのをやめて、一つのスマホを覗き込んで話していた。

 少し見つめ合ってから、タキオンが口を開いた。

「……他の子に割く時間はない」

「そうだ」

「……嘘だろ?…嘘つき。スカウトなんてやめないくせに。…碌でもない奴だ」

「……見抜けるくらいの嘘なら大丈夫かな?って」

「…彼女を寂しくさせたいんだろ」

「そんな事ないよ。…俺の膝の上に乗る?今くらいなら許してくれると思うよ」

「…何を根拠に?」

「タキオンは、乗りたくないの?」

「…乗りたい」

 タキオンは、不満そうな面持ちを、できるだけ変えないようにしながらも、目を逸らしてそう言った。そして、田上が腕を広げると、ゆっくりと立ち上がって、決して、田上と目を合わせないようにしながら、その膝の上に腰かけた。いつもなら膝に乗ると言えば、正面で抱き合う形だったが、今回は田上に背を向けて座る形だった。少しの怒りを表して、そのようにしたのかもしれない。田上は、それを後ろから抱き締めた。小さいと思っていた背中は、案外大きかったが、それは女性らしさの残った背中だった。今は制服に身を包んでいたが、田上はそれをしっかりと抱き締めてこう言った。

「お前、案外大きいな」

「大きいのは嫌いかい?」と静かな声でタキオンが言った。

「嫌いじゃないよ。それに言うほど大きくもない。タキオンらしい背中だよ」

「……たらしめ…」

「タキオン専用のたらしだ」

 田上が調子に乗って冗談を飛ばすと、タキオンは、自分の腹周りに回されている田上の腕にそっと自分の手を添えた。

「…君の部屋に泊るのが楽しみだ…」

「…できるだけ早く引っ越そう。…その為に、ちょっとスマホでも取って、また新しい物件を探したいんだけど」

「今、乗ったばかりじゃないか」

「まぁいいや。…お菓子取って」

「何が良い?」

「んー、……そのせんべい取って」

「分かった」

 タキオンは、そう言って立ち上がると、せんべいが二枚入っている包みを手に取った。その時に、マテリアルと目が合った。マテリアルは悪戯っぽくタキオンに微笑みかけてきたが、どうもそれに真面に反応するのが面倒だったので、一瞬睨み返した後に、すぐに田上の方に向き直った。

 今度は、田上の膝の上に、正面から向かい合って座った。田上はタキオンを多少見上げながら、彼女が自分にせんべいをくれるのを待った。

 タキオンは、袋からせんべいを取り出すと、それを欠片にして「あ~ん」と言った。どうやら、タキオンが田上にせんべいを与えてくれるようだった。田上も仕方ないから、半笑いになりながらタキオンに向かって口を大きく開けた。

 その中に、ぽいとせんべいの欠片が放り込まれた。田上とタキオンは、見つめ合いながらせんべいを食べた。このような恋人らしい事をするのが、田上には可笑しかったので、自然と顔に笑みが浮かんできた。タキオンもそれにつられて笑みを浮かばせた。それから、また「あ~ん」と言うと、田上の口にせんべいを放り込み、自分の口にもせんべいを入れた。

 

 マテリアルはいちゃいちゃしている恋人二人を暫く見つめていたが、自分だけ蚊帳の外にいるのもつまらなかったので、こう声をかけた。

「田上トレーナーは、次にどんな子をスカウトする予定ですか?」

「え?……特に、…良さそうな人を見つけられたらと思っていただけだから、…どんな子という予定はないですね」

「そうですか」とマテリアルが返事をすると、田上の顔はタキオンの方に向かれた。その様が、まるで田上の視線を自分だけが独占していたいというように、顔を少々強引に自分の方に向けさせて、せんべいを口に放り込んでいたので、マテリアルは少し腹が立った。特に、口を挟むでもなかったが、こうして再び恋人たちが自分の前で堂々といちゃいちゃとし始めると、鬱陶しくて仕方がなかった。

 マテリアルは面白くなさそうな顔をすると、仕方なく隣のリリックの方を向いて話しかけた。

「リリーちゃんは、どんな人がスカウトされたら嬉しいですか?」

「ええ?……趣味が合う人だったら嬉しいですね」

「…リリーちゃんの趣味って?」

「……まぁ、散歩とかですかね。あんまり趣味らしい趣味が…。散歩でもないね。…スマホでずっと何かしてる気もします」

「ゲームは?」

「…ゲームも、…すぐに飽きちゃうんですよね。やるのが面倒になるというか…」

「…私ね、…スカウトしたらもう少し真面…という言い方は変だね。リリーちゃんが真面じゃないんじゃなくて、あの二人がアレじゃん?」

 マテリアルはそう言いながら、顎でそちらの方を指し示した。田上とタキオンは、今はもうお互いに夢中になって、微笑み合いながらせんべいを食べていた。リリックはその様子を見ると、苦笑しながら無言でうなずいて見せた。

「そう。あれなんだよ。そして、今アレと二対二でしょ?そこに真面な人がもう一人投入されるだけで、大分マシになると思うんだよね」

「そうですかね?」とリリックが、少し声を低めながら言った。

「そうだと思うよ?」

「でも、あの人が、人が一人増えたくらいで止まる様な人ですかね?むしろ、下手に優しい人が来たら、取り込まれてしまいそうな気がしますけど」

「それは…、そうかもしれないですね…。…何しろ止まらないんですからね。…最近ちょっと大人しくなったと思ったらこうだし」

 リリックは、これに対して、特に何と言う事もないと思ったので、「そうですね」という返事だけで済ませておいた。マテリアルも、すぐに思いつける文句が無かったので、一旦そこで話を終わらせたが、少し間を空けると再び言った。

「リリーさん、あの二人の事どう思いますか?」

「ええ?……ベタベタしてるなぁと」

「今は、大分マシになったと思いますか?」

「今は…」と言いながらリリックは、丁度、せんべいの最後の一欠けを、田上の口に放り込んでいる恋人たちを見た。キスこそしていないものの、今はゴールデンウィークの前と同じような様子に思う。人目をはばからずにいちゃいちゃしている。見ているこっちも少々気持ち悪い。どこか他所でやればいいのにとは思うが、特に、その二人に口出しするほどの気持ちはない。やりたいのならば、ここでもやればいいが、その気持ち悪さはリリックの胸に残った。

 そう思って、二人の方を見ていると、唐突に田上と目が合った。教え子に見つめらているのを知った田上は、今までタキオンに微笑みかけていた顔を少し引き締めると「なにかある?」と聞いた。すると、マテリアルの方が答えた。

「いつまでいちゃいちゃしているんだろうと思いましてね。二人で話していたんですよ」

「やっぱりダメでしたか?」

「まぁ、他所でやってほしいもんですね。アパートの一室とか」

 田上はそう聞くと、微笑みながらタキオンに向かって言った。

「ダメだってよ」

「…君が言ったのに」とタキオンは、がっかりとした声を出した。

「まぁ、少しくらいせんべい食べれたからいいだろ?」

 そう言うと、タキオンは、眉を寄せながらも、田上の膝から降りた。そして、振り向いて自分の椅子に座る時に、マテリアルと目を合わせると「余計な事を言うなよ」と文句を垂れた。マテリアルは、それにしてやったりという顔をした。タキオンはそれに多少苛つきながらも表に出さずに、今度はリリックの方を見た。ただ、この子には何も言う事はせずに、すぐに田上の方を見て言った。

「つまらない。何かしたまえ」

「何か?」

「何かだよ」

「…リリーさんって」と田上が、考えた後に話しかけようとしたら、すぐにタキオンが口を挟んだ。

「ちょっと待った。無視かい?」

「いや、何かって言ったから皆で何か話そうかな、と思って」

「ああ、…そうか。…じゃあしたまえ」

 タキオンは、もう少し、田上に、自分の方を向いてほしかったが、チームを一つにまとめたいという田上の思いも、簡単には無下にできなかったため、仕方なく身を引いた。田上が話しかけるまで会話に参加する気もなかったため、タキオンは、後ろの背もたれに大きく体重を預けて、田上の話を聞いた。

「リリーさんって、なにか皆で行きたいところとかある?できる範囲であれば、連れて行ってもいいけど。…何か挑戦したい事だったり」

「……特に…ないですね」とリリックが言ったから、田上も仕方なさそうに笑って、今度はタキオンの方に話を振った。

「タキオンは何かある?挑戦したい事とか」

「挑戦?」とタキオンは気怠そうに言った。「挑戦ねぇ…」

 そう答えたタキオンの頭には、これからすべきことである田上との部屋で通い妻生活や、同棲生活へと進むための道が思い起こされた。それらはタキオンにとって魅力的なものだったが、これは田上が求めている答えとは違うだろう。もっと分かりやすく実のある物だ。別に、通い妻生活に実が無いわけではないのだが、田上の言う挑戦したい事とは、折り鶴を千羽折るとか、何か新しい趣味を見つけるとか、そういう事だろう。それで言えば、タキオンに今の所挑戦したい事はなかった。頭の中は、今は田上との生活の事で持ちきりだった。それでも、何か言ってやろうと思って、考えを巡らせてみたが、何しろ田上の事で頭が一杯なので、何も浮かんでこなかった。

「ない?」と田上が微笑みながら聞いてきた。タキオンは、「ん~」と言いながら、いっその事田上との生活でしたい事のあれやこれやを言ってしまおうかと考えた。これを言うと、もしかすると、マテリアルやリリックが嫌な顔をするかもしれないが、こちらにだって、恋人として、最低限の事は言っても良い権利がある。邪険に扱われようとどうされようと、止められることではない。ただ、やっぱり田上の事が気に掛かって、タキオンはいつまでも「ん~」と唸っているばかりとなった。だから、田上は再び微笑みながら「ないの?」と聞き直した。それでも、タキオンは唸ったが、やがて、こう口を開いた。

「……君との……生活かなぁ…」

 タキオンは敢えて田上の顔しか見ないようにした。ここで、マテリアルとリリックの事を気にしてもしょうがない。田上は、まぁ、予想していなくもなかった返答が来て、これにどう答えればいいのか悩んだ。田上としては、これからの抱負で話を盛り上げたいところだったが、タキオンに聞けばこうなる事は明白だっただろう。

 ただ、田上はタキオンにも一緒に話に入ってほしかったので、これを聞かざるを得なかった。そして、この答えが返ってきた以上は、田上とタキオンの二人だけ、プライベートな話となってしまう。この話を上手く皆にも話しやすいような話に変換することができれば、もっと盛り上げる事もできたのだろうが、元来田上はそんなに話し上手ではない性質なので、これには「ん~」と困ったように唸る事しかできなかった。

 タキオンはそんな様子の田上から目を離さなかった。簡単には自分の話から逃げさせないためだ。そして、そう見つめられると、田上の方もタキオンから目が離せなかった。タキオンの視線から、その想いが汲み取れたからだ。ここで田上が逃げてしまえば、またタキオンとのいざこざが発生するだろう。そういう目をしながら、タキオンは田上のことを見つめていた。どうにも面倒だったから、今の言葉を無視してマテリアルさんの方に話を振ろうかとも考えたが、そう考える度にタキオンの視線が田上の胸に刺さった。

 けれども、他に何と言いようもないので、遂には適当に「うん、そうだな」と返事を済ませると、マテリアルの方に話を振った。その途端に、タキオンがガタリと椅子の音を鳴らせて立ち上がった。その顔は真顔に、田上の方は極力見ないようにしていた。そして、「トイレに行ってくる」と呟くように言うと、そのまま部屋から出て行った。あの顔が明らかに怒っているのを隠しているのは、マテリアルにもリリックにも容易に察しがついた。だから、タキオンが出て行ってしまった事に固まって驚いている田上に向かって、マテリアルは苦笑しながら言った。

「今のは怒らせてしまったんじゃないですかね?」

「どう答えれば良かったんですか?」

「どうって、…それを考えるのが彼氏の役目なんじゃないですか?」

「彼氏の役目って言われましても、ここは職場なんですよ…」

「それじゃあ、タキオンさんと付き合ってしまったのが、あなたの運の尽きでしたね」

「…それは、…違いますよ」

「なにが?」とマテリアルが悪戯っぽく聞いた。

「…むしろ、運は良かった方です」

「じゃあ、彼氏の役目を全うして差し上げては?」

「…タキオンは本当にトイレに行ったんですかね?」

「どうでしょうねぇ」とマテリアルはニヤニヤしながら言った。田上は、意地悪なマテリアルの答えに不服そうにしながらも、とりあえず、トイレにかかる時間だけは待ってみようと、せんべいを一つ手に取ってぼりぼりと食べ始めた。

 

 タキオンは、結局、トイレにいるにしては長すぎる時間の内に帰ってこなかったので、拗ねてどこかに言ったのだろうという結論になった。だから、田上はダメもとでタキオンのLANEにこうメッセージを送った。

『さっきのは悪かった。二人きりで話したい』

 すると、それ程間を置かずにタキオンからメッセージが返ってきた。もしかすると、『二人きり』という言葉が効いたのかもしれない。

『分かった』

 そう一言だけ返ってきたので、田上は話す場所をいつものベンチと決めて、そこに集まった。

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