ケロイド   作:石花漱一

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三十二、マンハッタンカフェ⑤

 田上がベンチに行くと、もうそこにはタキオンが座っていた。物憂げな表情で座っていたので、田上もその表情につられて物憂げになりながら、タキオンの隣に座り、声をかけた。

「寂しい想いさせてごめんな」

 そう言われると、タキオンは田上の体にぴったりと寄り添って、その肩に自分の頭をもたれ掛けさせた。

「すぐに追いかけてきたまえよ」

「トイレに行くって言ったから、もしかしたら帰って来るかもしれないと思ったんだよ」

「女の嘘くらいすぐに見抜きたまえ」

「俺だって分かってたけど…。…まぁいいか。…もう少しここで話していよう」

「…抜け出してきて良かったのかい?」

「しょうがないよ、タキオンがここに居るんだから」

「向こうは?」

「…二人でお菓子でも食べてるんじゃない?」

「じゃあ、私のせいで、君の計画はおじゃんになったわけだね」

「元々在って無いような計画だよ。それに、タキオンも一緒に居てほしいんだから、タキオンが心地良くあそこに座れない限りは、タキオンがどこかに行っちゃったとしてもタキオンのせいじゃない。 とにかく、俺はタキオンと一緒に居たいんだよ」

「泣かせるねぇ」

「本当にお前なしじゃダメなんだよ。一番大切な人なんだから、大切にしなきゃ始まらない」

「…女たらしだね…」

「お前専用のだよ」と田上が優しく言うと、タキオンは口元に笑みを浮かべた。

「…抱き締めてもらっても良いかい?」

「いいよ」

 田上はそう言うと、自分の膝の上を空けた。タキオンは立ち上がるとその膝の上に座ったが、正面から抱き合う形ではなく、トレーナー室での時のような、タキオンが、田上に背を向けた形で座った。田上は、それに何の疑問も抱かずに、タキオンの背中だけを見て、抱き締めた。人の温もりが妙に心地良く感じた。すると、タキオンもこう言った。

「さっき後ろから抱き締めてもらった時に、…良いと感じたんだよね。…正面から抱き合うのとでは、また違った良さがある…。…守られている感じがするのかな…」

「背中を預けるっていうのも、また何か違ったものがあるかもね」

 タキオンは、ふふふと静かに笑って、タキオンの腹に回されている田上の腕にそっと自分の手を添えて、その腕を大事そうに撫でさすった。そして、その腕の温もりをお腹の方に感じると、いつか来る日の事を想像しながらこう言った。

「…いつか、…このお腹にも子供が宿る日が来るのだろうね…」

 タキオンはしみじみと感慨深くそう言ったのだが、田上はこの言葉に思いの外動揺した。彼女はすっかり子供を作る気でいるのだろうが、田上は、未だにその方向へ決心を踏み切れないでいた。それでも一歩ずつ進んできてはいるのだが、どうも子供の話という事になると、罪悪のような物がジワリと心に沁み込んできた。

 とりあえず、田上は「ああ…」と軽い返事だけをした。しかし、それはタキオンの方に簡単に見破られて、彼女の背中の向こうからこう言われた。

「君は子供ができるのが楽しみなのかな?」

 田上は、タキオンに自分の心を見透かされていると感じたから、嘘を吐いても無駄だろうと思いつつも、「んん…」と誤魔化すような返事をした。それに穏やかな声が答えた。

「私は、…こう君に抱き締められていると、子供ができるというのも良いかもしれないと思う。…勿論、この私がしっかりと育てられるか不安ではあるがね」

「お前なら大丈夫だよ…」

「…君は大丈夫じゃなさそうだね。…まぁ、やってみなきゃ分からないという所はあると思うが、私は、君に、幸せそうに、自分の子供を見つめていてほしい物だね」

 田上は、これに返すべき言葉が見つからずに黙り込んだ。そうすると、タキオンも話すべき事柄を見失って、田上とおなじように黙り込んだが、田上とは違って、自分の腹に回されている腕を愛おしそうに見つめながら、撫でさすっていた。

 田上は、少しの物思いに沈んで、タキオンの背とうなじを見るともなく見つめていた。以前は隠れていたそのうなじも、今は髪が切られて露出するようになっていた。そのうなじを見つめていると、田上の気持ちは段々と落ち込んできて、タキオンの体重が、先程よりも重く、膝の上に感じられるようになった。タキオンは、未だに田上の腕を撫でさすっている。薄く毛の生えた腕の何が愛おしいのか知らないが、タキオンは飽きもせずに撫でて、自分を抱き締めてくれている田上に向かって言った。

「この腕が、私を包んでくれている」

 田上はこの言葉に答える義理もないので、無視したまま、自分とタキオンが将来何をするべきなのかを考えた。すると、タキオンは、田上のその落ち込みを察して、こう言った。

「少し体勢を変えても良いかい?」

「いいよ…」と田上は低い声で答えた。それで、タキオンは田上の膝から降りると、立ち上がって田上の顔を覗き込んだ。田上は、無理に明るい顔を作る気にもなれなかったので、少し落ち込んだ表情のまま、タキオンの顔を見つめ返した。すると、タキオンはその顔を見つめながら言った。

「やっぱり落ち込んでいるね?…私が彼女は嫌かい?」

「そんなんじゃないよ。……子供って、…。大人って大変だなぁと思って」

「それならよかった。ちょっと座るよ」

 そう言って、タキオンは田上の膝の上に、今度は正面で抱き合う形で座り、見つめ合った。田上は、タキオンと見つめ合っていると、段々と耐え切れなくなってきたので、数秒経つと横の方に目を逸らした。すると、タキオンが言った。

「私を見てみてよ」

「…」

 田上は、無言のうちに少し口角を上げながら、タキオンの目を再び見つめ返した。が、やっぱり、中々どうして耐え切れるものでもないので、すぐに横の方に目を逸らした。タキオンは、口から微かに笑い声を漏らしながら言った。

「可愛い彼氏だね」

 田上は、反論する気もなく、またタキオンの目を見つめては、自分から目を逸らすというのを繰り返した。タキオンは、田上から一切目を逸らす事もせず、田上の事だけを見つめ続けた。愛しい自分の彼氏のその愛らしい仕草に、もっと愛おしさを感じ、そのキョロキョロと動く瞳の中に自分たちの幸せな将来を見出そうとした。

 瞳は、終始、瞳であり続けたが、もう来年にはこの人と自分は結婚しているかもしれないとも思うと、何時間でも見つめていて良いくらい嬉しくなった。しかし、少々からかうような目付きで見つめてくるタキオンに、嫌になった田上が「いつまで見てくるの?」と言った。タキオンは、当然「いつまででも」と答えたが、そろそろ見つめ合う雰囲気も崩れてきそうだったので、不図思いついた事を聞いた。

「君は、あっちには帰らなくていいのかい?」

「あっち?」

「トレーナー室の方だよ。帰りは待たれていないのかい?」

「ああ、待たれているかもしれないけど、…帰るのか?」

「君が一人で帰りたいのであれば、それでもいいよ」

「それじゃあ、俺はここに居ないといけないな。タキオン一人だけを置いて行くなんてできない」

「健気に帰りを待っていてあげるよ」

「いいよ。お前が行くんだったら、俺も行く。お前が行かないんだったら、俺も行かない。一人にさせるつもりはない」

「……君のお嫁になったら、夏合宿の時が心配だよ」

「…そうだね…。…俺だって、一人で行くのは寂しいよ」

「私も寂しい」

「……ただ、二か月の移動ともなるとね…。…辞めた方がマシかな?」

「…職を?」

「そう」

「…私は、…今の所、君に養ってもらう立場にあるわけだから、仕事に関してはあまり強い事は言えないけど、…他に手段が無いって言うんだったら、辞めてほしいねぇ…」

 そう言われると、田上は大きなため息を吐いた。

「…そうだよなぁ…。子供の一人くらいいれば寂しくないだろうけど、一歳児や二歳児でも手は掛かるだろうからなぁ…」

「他の人に任せるしかないんじゃないか?マテリアル君とか」

「マテリアルさんと言っても、便利人間じゃないからなぁ。あの人にだって生活があるわけだから、いつか結婚でもするかもしれない」

「するかなぁ?あの人が」とタキオンが、軽く嘲笑の意を込めてそう言った。

「仮定の話だよ。いつかどこかで良い人と出会うかもしれない」

「出会うかねぇ?雰囲気として、あの人はあのまま四十になっても独身のような気がするよ?」

「独身だったら独身でもいいけど、あの人に全て任せるというのもね…。あの人が喜んでやりたいというんだったら、こっちもお言葉に甘えさせてもらうけど、その言葉を無理矢理引き出すのは、俺の好みじゃないよ」

「この際、なりふり構っていられないんじゃないか?」

 タキオンがそう言うと、田上も苦笑した。

「なりふり構わないで、何も諍いが起きないならそれでいいけど、そうすると、誰かに迷惑が掛かる可能性があるからなぁ。…そうしたいのは山々なんだけど…」

「…子供はいつ作る?」

「子供?」と幾分動揺しながら田上は、オウム返しに言った。

「そう、子供。君は、リリー君を担当したから、少なくともあと三年はあの子の事を担当しないといけない。仕事を辞める予定があるのであれば、子供を作るのもそれに合わせたほうが良いのかなぁ、と思ってね」

「いや、…まだ当分はない。予定の組みようがない。辞めるかどうかも定まっていないし、そもそも、夏合宿で他の家族持ちの人たちがどのように過ごしているかも調べてない。まだ、もうちょっと先だよ、判断は」

 田上がそう断ると、タキオンは、少し気分を落としたように、田上の体に寄りかかって、抱き着いた。少し戸惑いながらもそれを受け入れた。

「……何もかも上手く行きたいよ…」とタキオンが、疲れの滲んだ声で言った。田上は、タキオンの背を慰めるように優しくなでながら、こう返した。

「今は、大分事態が好転したよ」

「…そうだよ。…そうなんだよ。…君を説得する事に、私がどれほどの苦労を費やしているか…。…まぁ、あんまり言うと、また君の自信がなくなってしまうからあんまり言わないけど、…何もかも上手く行きたいものだね…」

「…そう上手くも行かないよ?」

「言われなくても分かってるさそんな事!…それでも何か上手く行ってほしいんだよ。迷いも悩みもない理想の時間の中で、君と触れ合えるだけの人生が良い。…子供なんていらないよ」

「…子供は、…いたほうが良いんじゃないか?」

「君がそれを言うのかい?」

「…まぁ、言えたもんじゃないけど、…子供は可愛いよ?」

「まぁ、そりゃ、自分の子でなけりゃ可愛いんじゃないか?」

「自分の子供こそ可愛いんじゃないか?」

「…私は、…夜に泣く子のお守りなんて嫌だよ」

「そりゃあ、…泣く子もいれば泣かない子も居るんじゃないか?」

「子供は泣くもんだよ」

「じゃあ、泣かない子であれば、迷いも悩みもない時間の中に、子供も一人居て良いのか?」

 そう言われると、タキオンは少し嫌そうな顔をした。

「君と二人きりが良いんだよ」

「でも、お前今は子供ができてほしいんじゃなかったのか?」

「今?」

「さっき後ろから抱き締めてる時に言ってた」

「ああ…。そりゃあ、……君との幸せとか理想を願う上で、子供ってのは都合がいいもんだよ。今まで、約束の中でできなかったことをして、子供が生まれるんだ。最上の愛だよ。一番の幸せだよ。その中に子供を願わないでどうする?」

「じゃあ、俺との幸せを築くために子供を産むのか?」

「まぁ、そう言ってもいいだろう。…ただ、…私は、……揺れている。君との結婚が近づくにつれて、見たいものと見たくないものが目に映ってくる。…特に、夏合宿は嫌だ。一人にしないでほしい…」

「それは分かってるよ」と田上は、急に落ち込んだ顔をしたタキオンの背を軽く擦ってやった。

「どうにか解決はしたいと思ってる。けど、まだまだ先の事だよ。今からそんなに心配しなくていい」

「でも、…いつか来る日の事だし、…君も今は夏合宿に一人で行きそうな気配がある」

「タキオンが引退しなければ、夏合宿には一緒に行けるんじゃないか?」

「………私は、…来年までには長引かせない。…来年はもうしない。これ以上お金も要らない」

「…じゃあ、何をどうしようと、来年の夏までに子供は生まれてないだろうから、タキオンが…どこか合宿近辺のマンスリーマンションとか滞在用のホテルとかを探して、そこに泊まるっていうのもあるかな…?」

 すると、タキオンは面倒そうな顔をしながらも、少しの間考え込んだ。それから、こう言った。

「そんな面倒なのは嫌だ。…君がずっと居てよ…」

 そう言われると、田上も苦笑した。

「ずっと居てって言われてもなぁ…」

「…愛すべき妻が第一に優先すべきことじゃないのかい?」

「そりゃあそうだけど、…社会の中で生きている限りは、その社会のルールにある程度則って行動しないといけないからなぁ」

「…だから、理想の世界が欲しいんだよ。…君が、アパートに引っ越して、二人きりで部屋の中で話している何気ない日常の中で、何事も起こらずに一生を終えたい。…トレーナーなんて職はダメだ。忙しすぎるよ。夏合宿でないにしても、レースの度に家を空けないといけなくなる。父さんもそんなのがあるから、トレーナーを辞めたんだ。…お願い」

 タキオンにそう懇願されると、田上も弱かったが、今すぐというわけにもいかない。少なくとも、リリックと契約したばかりで、あと三年もある。ただ、タキオンの言う事も尤もだ。家族を持つには、トレーナーという職は、少し家族を振り回しすぎるかもしれない。

 その家族が、タキオンという寂しん坊だったら、尚の事トレーナーという職は向いていないだろう。それに、田上も日常には憧れがある。毎日変わる事のない日々を生き続けるというのは、田上にとっても理想的だ。だが、何しろ今すぐというわけにはいかなかった。職を離れるのにもそれなりの決心が居る。二言三言で決められるものではない。田上は、タキオンの顔を困ったように見つめながら考え込んだ。タキオンは、どうにか今すぐ田上を動かしたくて、「ダメかい?」とすぐに返答を促すように言った。田上は、それから少し考えた後、こう言った。

「…とりあえず、…とりあえず、今は無理だよ。まだ判断するための材料が揃ってない。…お前が、そう判断を急ぐのもなんでなんだ?まだ時間はあるよ」

「君と…、君との生活が良いじゃないか。君なんて、私が居なくても平気なようだし。さっきも寂しいって言ってたけど、私の寂しさに比べたら君の寂しさなんてなんでもないよ。一人で置いて行かれる女の気持ちを考えたことがあるかい?」

「あるよ。目の前のお前が一人で置いて行かれると寂しくて泣き出すような奴だから、俺もお前の事を考えなくちゃいけないんだよ」

「…なら、それを実行に移してくれ」

「だから、それは、まだ早いんじゃないか?まだ時間はある。そう急がなくても良い。何がそんなに不安なんだ?」

「……キスしよう?」

「…まぁ、いいよ」

 田上がそう返事をしたものの、二人は目を見合わせたまま固まってしまった。今まで何度もキスをしてきたのにもかかわらず、まるで、二人共キスの仕方を忘れてしまったかのように、固まって互いの目を見つめていた。二人共、どちらかが動き出すのを待っていたかだった。タキオンが目を瞑れば、田上がキスをするし、田上が目を瞑ればタキオンがキスをするつもりだった。ただ、普段であればこういう場合はタキオンが目を瞑るか、それとも、強引にしてくるかだったから、田上もタキオンが動かなければ動くつもりはなかった。ここで、自分が目を瞑ってキスを待つのも何か違うだろうと考えた。

 タキオンは、普段のように強引にするつもりもなく、かと言って目を瞑って田上のキスを待つのも、何だか億劫だった。それなら、田上が目を瞑ればキスをするのかと問われれば、まぁ、キスをしやすいようになるかもしれなかったが、田上が目を瞑って待とうとしてくれることは、タキオンの願望の中にはなかった。なら、何なのかと言われると、タキオンには分からなかった。今強引にしてしまうと、田上かタキオンのどちらかの何かが、傷付いてしまうような気がした。

 タキオンは、その為に躊躇って田上の目を見つめていたが、田上から「しないのか?」と聞かれると、「する」と答えて、それから、「目を瞑ってくれないか?」と心持ち臆病な様子でそう頼んだ。田上は、タキオンの言うように目を瞑って、待ってあげる事にした。タキオンは、数秒の間自分の年上で社会人である彼氏の顔を見つめてから、その唇にそっとキスをした。しかし、そのキスにいつものような喜びや幸せを感じる事はできなかった。それどころか、田上の中に存在しているかもしれない罪悪感が、タキオンの中に逆流してくるようでもあった。タキオンは、それでも何か喜びや幸せを感じられはしまいかと、長い事キスを続けていたが、遂に田上の方から身を引き剥がされて、キスをやめる事となった。

 タキオンは、田上から半ば無理矢理にキスを引き剥がされると、悲しそうな媚びるような顔をして田上の顔を見つめた。田上もそれと似たような顔をしながらも、少し平気そうに言った。

「ちょっと終わり所が無かったんじゃないか?」

 それに、タキオンは意気消沈しながら答えた。

「…溺れていたい…」

「溺れるって言っても、このまま食事すら忘れて生き続けるってのも無理だろ?」

「忘れたい」

「俺は忘れたくないよ。目を瞑ってるだけだと、お前の顔が見えない」

「顔なんて見えなくていいよ…」とタキオンが疲れたように答えた。

「じゃあ、途中で誰かにすり替わってても良いのか?」

「それは嫌だ」

 そう言ってから、タキオンは、少しの不安に怯えて、タキオンの体にしっかりと抱き着いて、その体の温かみを感じようとした。

 春の日の午後は、二人の木陰の周りに意気揚々と陽を落とすが、二人の影の中には雨でも降った時のような湿っぽさがじわりじわりと残っていた。

 田上は、タキオンの背を優しくなでながら、その湿っぽさの中でこれからどうしていこうかと、これまで考えてきた事を再び考えた。ただ、二人の関係はどうしようもなく測り難かった。距離が近いのかと思えば、考えてみると遠いような気もする。壁があるのではない。ただ距離が遠くてそこに走って行くのに何千歩も必要な気がする。

 つまり、田上は、タキオンの中に潜むものを、あまり良く分かっていなかった。このどうしようもなく自分に甘えてくる女性を、どう扱うかについて知らず、なぜこんなにも互いの身を縛る程に甘えてくるのかも知らない。そして、タキオン自身がそれを隠そうとしてしまうから、何千歩も距離があるように感じてしまった。走れば届く距離にいるのだが、同時にタキオンも走ってしまうのだからどうしようもない。その陰に潜む者すら、遠い影としてでしか認識できなかった。

 ただ、影があると分かっている以上、田上も、タキオンと触れ合うにつれて、何だかおかしいぞと思い始めてきた。そして、空を見上げながら、これからどうしようかと思うのだが、如何せんタキオンを捕まえるのが難しい。自分の触れられたくない所には決して触れさせようとしないし、触れてこようとすればすぐに逃げる。そして、田上もタキオンにあんまり逃げてほしくないものだったから、そこまで深追いできずにいた。これではいたちごっこも同然だ。触れようとすれば逃げられる。タキオンの逃げ足が速いから捕まえられない。だから田上も諦める。そして、有耶無耶になる。田上は、もう無理矢理にでも不意打ちで捕まえて、タキオンの本当の所を全て聞き出してしまおうかとも考えたが、これで話が拗れても田上としては困る。まだまだ、いつまでも仲良しでありたかった。

 そうすると、今までのようないたちごっこではない、何からしらの行動が必要だろう。こうやって、いつまででもうだうだと二人で抱き締め合って、傷の舐め合いをするのではなく、どこかなんでも良いから真相を確かめに行く旅が必要だ。ただ、田上はタキオン程器用ではないので、何をすればいいのか分からなかった。田上は、タキオン以外に当てがあるような人間ではなかったから、果たして、何にどのように働けば、何の反応が返って来るのか。そして、それが自分に嫌な結果をもたらさないのか。

 そこまで考えると、田上自身として、旅に出るのが億劫なように感じた。このような自分の曖昧なところを嫌いながら、田上はタキオンと時折二言三言話しながら、ぼーっと空を見つめ続けた。

 

 結局、その日はトレーナー室に最後の最後で帰ったきりで済ませた。途中でマテリアルの方から連絡が来はしたが、タキオンがどうしてもトレーナー室の方には行かないでほしいと言うので、ぎりぎりまで行かない事にした。そして、門限が迫ってきて、トレーナー室でやらなければいけない事があると田上が説得すれば、タキオンも渋々動き出した。

 二人でトレーナー室に戻ると、マテリアルとリリックが手遊びをして遊んでいた。歌いながら手を相互に動かすものだったり、マテリアルが昔遊んでいた手遊びをリリックに教えていたりした。それから、タキオンと田上が入ってくると、二人は手遊びをやめ、マテリアルの方が「お疲れ様です」と元気よく声をかけた。

 リリックは、入ってきたタキオンの方を黙ってじっと見つめていた。タキオンは、田上の手を握って地面を見つめているばかりだったので、特にリリックは睨み返されることもなく、落ち込んでいる様子の尊敬すべき先輩の事を眺めた。

 テレビで見ていたのとでは数段違うような気がする。勿論、落ち込んでいるタキオンを見るのはこれが初めてではないが、テレビで見た時に感じた活発さは、今はコインの裏表のように、くるくるとひっくり返すように無いように思えた。つまり、活発さの影もあるのだが、それは今は真裏に隠れているという事だ。

 田上トレーナーと尊敬すべき先輩との間に、恋以上の何があるのか、リリックは詳しく知らないが、どうにも面倒臭そうなチームに入ったという事だけは念頭にあった。

――もしかすると、他のチームも大体こんなものなのだろうか?とリリックは考えた。しかし、――いくら何でも、大概のチームでトレーナーと教え子が付き合っている事はないのだろう、と思うと、先の考えは捨てた。流石に、自分は特殊なチームに入ってしまった。ここで、マテリアルさんが居なければ、自分はどれだけ一人で居たのだろうと思うし、また、田上トレーナーも一人でチームをまとめようとして奔走する羽目になったのだろうと、少し同情した。リリックの中では、一番厄介なのはタキオンさんだろうと決まっていた。田上トレーナーも、タキオンさんの扱いで困っているのが目に見えている。幾らこのチームの責任が田上トレーナーにあると言えど、一概に田上トレーナーばかりを責めるわけにも行かなさそうだった。

 リリックは、タキオンが、何故、あんなにも田上にベタベタなのだろうと思いながら、その落ち込んでいる様子を眺めた。田上が、自分とマテリアルの正面に座り、タキオンが田上の横に座っても、その目が上を向く事はなかったから、話している田上の言葉を適当に聞きながら、タキオンの事を見つめた。田上の話は手短に終わった。明日の事を少し話した後、「じゃあ解散」という感じだ。リリックは、不思議そうに思いながらもここにダラダラいる気もなかったので、さっさとその部屋から出て行った。

 廊下に出て、歩きながらリリックは先程の思考の続きを重ねた。

――何故、タキオンさんは田上トレーナーとあんなにベタベタなのだろう。何故、二人はトレーナーと教え子という関係であるにも関わらず、付き合うという事をしたのだろう。

 リリックには、この奇妙な二人の関係が気になった。確かに、テレビで見ていたときから仲が良いという印象はあったが、それは人として仲が良いのであって、恋人としてではないように思えた。まぁ、実際にその時は恋人ではないのだから当然ではあるのだが、それにしても、そこから恋人同士にまで発展するとは思わなかった。リリックも単純な色恋の話は、別に嫌いではなかったが、こう込み入ってきて、自分の立場が危うくされるようになると、それとこれとは別だった。

 いかにして二人は結ばれたのだろうか?そして、これからどうやって行くのだろうか?田上トレーナーにしてみれば、タキオンさんは一癖も二癖もある簡単には行かない彼女だ。傍から見ててもそれが分かる。となれば、このまま話が拗れて行く未来もない事はないだろう。二人にどれ程の覚悟があるのかは知らなかったが、傍から適当に見てみれば、いかにも上手く行かなさそうな二人だった。

 次に、リリックは二人が何を以て恋をし、愛し合うようになったのかを考えた。大阪杯で付き合ったというのは聞いたが、そこで何があったのだろうか?タキオンさんの方は、あまり口を挟んでほしくないようだったが、そこで何をしたのだろうか?よくあるのは、スポーツ選手が、優勝とか何とかしたらプロポーズをするという話だろう。そう言えば、タキオンさんが好き勝手にやったウイニングライブも少し話題になっていた。あの後かどこかでタキオンさんの方から告白でもしたのだろうか?そもそも、田上トレーナーは何故タキオンさんと付き合っているのだろうか?現在も相変わらず悩んでいるが、そんなに悩むのなら付き合わないほうが良いだろう。そこに恋という物があったのならば、何故、田上トレーナーはタキオンさんに恋をしたのだろうか?

 リリックには、そこの所が、笑みが漏れ出てくるくらい可笑しな所であった。あの田上トレーナーが恋をするような人間には見えなかった。勿論、今日はタキオンさんにデレデレしている所を見たが、それは恋人になったからであって、恋人になる前からデレデレしているわけじゃないだろう。リリックにとっては、恋人になってデレデレしているのも阿保らしいこととは思えた。

 田上トレーナーが人を好きになるというのが、なんだかリリックには面白かった。あのいかにも堅物そうな男の面をして、年下の女子高生に恋をしていたのだろうか?それとも、タキオンさんに振り回されるままに、付き合うという選択肢をしたのだろうか?あのタキオンさんだけには甘い田上トレーナーの事だから、リリックには後者の方があり得そうな気がしたが、それにしては、トレーナー室に居た時にタキオンさんにデレデレしていた田上トレーナーの顔は、自分の彼女に、心底惚れていなければできないような顔のような気がした。

 リリックは適当にそんな事を想いながらぶらぶらと歩いて帰った。陽はもう落ちて、街灯が明るく輝いていた。トレーニング場からは男の人の野太い声だったり、ウマ娘の元気な声が聞こえた。すると、今日トレーニングも何もしなかった自分が少し怖くなった。このままでは、デビュー戦を勝てる希望もなく惨敗してしまうのではないかとさえ一瞬思った。田上が、突然言い出した事であったので、リリックもどうこう言えるものではなかったが、こうして一生懸命にトレーニングをしているウマ娘と、今適当に自分のトレーナーの阿保らしさを思いながらぶらぶら歩いている自分とを見比べると、その努力の差は天と地程もあるように思えた。

 その後で、――まぁ、トレーナーの言った事だから仕方がないか、と思い直すと、リリックは自分のメイクデビューの事を考えながら、心持ち元気をなくして寮の方へと向かった。

 

 食堂でご飯を食べて部屋に戻ると、オータムが勉強をしていた。――よくも飽きずにやるものだ、と思いながら、リリックは帰宅の挨拶を告げてベッドに寝転がった。自分も勉強しないといけない所ではあるが、それは今はやる気にはなれなかったので、もう少し経ってからやるつもりだった。

 リリックは、自分の顔に掛かってきた長い髪を払いのけながら、スマホで適当な物を見た。近頃のニュースをじっと見つめては、ページを更新して新しい記事が追加されていないか見た。それを、五回ほどやった後に、何も新しい記事が追加されていない事を確認すると、リリックは何か面白いスマホゲームでもないかと、アプリがダウンロードできるアプリを開いた。

 近頃リリースされたばかりのアプリだったり、現在キャンペーンをやっているアプリだったりが初めに表示され、それから、自分の趣味趣向に基づくおすすめのアプリが羅列られていった。

 リリックは、近頃リリースされた物にも、キャンペーン中の物にもあんまり面白そうな物はないなと思いながら、ページを下にスクロールした。それを何回か繰り返してから、そのページを抜けると、次は自分から好みのアプリを探し出そうと検索をしてみた。目に優しい可愛くてほんわかとしたものが好きだったので、その様なものが見つかりそうな検索の仕方をした。

 すると、ドット絵のペンギンが、ジャンプをしたり物を掴んだりして、冒険をするゲームを見つけた。特に、リリックにとって際立ったものも無さそうだったので、適当にそれをスマホにダウンロードしてみた。リリックは、そのダウンロードを待つ少しの暇な時間の間、天井をただ見つめて過ごしたが、すぐにダウンロードが終わったので、またスマホの方に目を戻した。

 どうやら、海外の作品を日本語に翻訳したようなものだったので、日本語が少し変ではあったが、気になる程でもなかったし、ペンギン自体が喋るわけでもないので、リリックは適当にゲームを開始した。

 最初にチュートリアルの説明があり、つまらない氷の景色をただ無頓着に眺めるだけの時間が過ぎた。そこで、リリックの心は、ゲームから少し離れてきだした。だが、折角ダウンロードした物をまたすぐに削除するというのも何だか滑稽だったので、少しだけその心の離れを我慢して、続きを進めようとしてみた。

 敵が現れたので、それを倒して先に進む。何か特殊能力を得て、氷の息を吹けるようになる。それらを駆使して先へ進む。そして、二つ目の関門まで来ると、リリックはもうやる気をなくしてゲームアプリを閉じ、ベッドに仰向けになって上げていた腕を、ポトリとシーツの上に落とした。それから、部屋に響くようなため息を一つ吐き、勉強をしているオータムに言った。こういう時でも受け答えはしてくれる優しい友達だった。

「オータムちゃん今日のトレーニングどんな感じだった?」

「…普通だったよ?」とシャープペンシルでカリカリと書く音を静かに響かせながら、オータムが答えた。それに、リリックが「走ったの?」と返した。

「ううん、筋トレが中心だった。  トレーニングで何かあったの?」

「んー……、今日のトレーニングは無しだったの」

「へぇ」

「…田上トレーナーが、皆でお話ししながらお菓子食べようって」

「へぇ?…意外なことするね」

「まぁ、一緒のチームだと意外な感じでもないよ。顔は怖いかもしれないけど、まぁ、阿保っぽいから」

「阿保っぽいって言っていいの?」とオータムが苦笑気味に聞いた。

「こうしてオータムちゃんに言うだけならいいよ。本人に言うならまた別よ。傷付くだろうし」

「傷付くだろうね」

 オータムがそう答えてから、リリックは次に言うべき言葉を見失い、少しの間黙り込んだ。それから、こう言った。

「タキオンさんと田上トレーナーが付き合ってるって言ったでしょ?」

「うん」

「今日のお菓子食べながら話そうっていうのも、それが関わってたらしいの」

「へぇ」

 この返事で、オータムがこの話に興味があるのかどうか一瞬疑ったが、次にはこう言った。

「なんか、あんまり良く分からないけど、田上トレーナーがタキオンさんと一緒に居たいからって、トレーナー寮から別の所へ引っ越すらしいよ」

「へぇ、…寮はダメなんだ?」

「ダメらしいよ。…で、私には、忙しくなるかもしれないからよろしく、だって。…タキオンさんと田上トレーナーが付き合ってるってどう思う?」

「………少女漫画みたいじゃない?」と勉強に半分程集中を持っていかれているオータムが、長考の末に適当な返事をした。

「…少女漫画かぁ…。それにしてはあんまり上手く行ってなさそうだったけどね」

「そりゃあ、少女漫画も上手くは行かないでしょ」

「少女漫画にしては、…阿保らしいと言うか」

「阿保らしい?」

 また苦笑気味になったオータムが聞き返した。

「阿保らしい…。うん、阿保らしい。なんか、…もう少し上手く関係を隠しながら付き合うっていうのはできないのかな?あんな大っぴらに付き合っておいて、周囲の対応には二人共不揃いなんだよ?」

「…どんな風に?」

「タキオンさんは――こっちに来るな、って態度だし、田上トレーナーは、――皆で仲良くしよう、って態度なんだから」

「…それは、…田上トレーナーはタキオンさんに興味が無いって事?」

「んー、そういう訳じゃないと思うんだけどね。……田上トレーナーを見てみれば、タキオンさんにベタ惚れっていうのが分かるよ」

「そんなにベタ惚れなんだ?」とオータムは微かに笑いながら言った。

「まぁ、そこらじゅうでキスするはなんやかやで、一緒に居ると気まずいよ」

「へぇー」

「それでさ、なんであの二人って付き合ったんだろうね」

 リリックがそう言うと、丁度オータムの勉強も一区切りがついたようだった。「んー」と唸りながら、机の上に広げていた教科書やノートやプリントを閉じて持ち上げると、机の上でトントンと落として、下の端を揃えた。それから、一まとめに机の端へ置くと椅子をくるりと回して、リリックの方を振り返ってから言った。

「私には分からないよ」

「私にも分からないよ」

「じゃあ、尚の事私には分からないよ」

「いやぁ、オータムちゃんなら分かるかなーって。頭が良いから」

「頭が良いって言ったって、流石に何考えて付き合ってるのかまでは分からないよ」

「んー」とそれから暫くリリックは唸ったが、また同じ質問を繰り返した。「なんであの二人は付き合ったんだと思う?」

「そりゃあ、好きだったんじゃないの?」とオータムはとりあえずそう答えた。すると、当然それにリリックは反論した。

「でも、…私から見たら、田上トレーナーは悩んでるように見えるんだよ。実際、今日も唐突にお菓子パーティーを開いたみたいに、こっちに来るなっていうタキオンさんと、私と、補佐のマテリアルさんを一緒に丸めて仲良くしたいと思ってる。だけど、肝心のタキオンさんがこっちに来るなって言ってるんだよ。だから、今日のお菓子パーティーも途中でタキオンさんが出て行っちゃって、最終的には私とマテリアルさんだけになったもん」

「田上トレーナーは、彼女であるタキオンさんを放っておけなくて?」とオータムが事実確認の為にそう聞いた。

「そう。そもそものタキオンさんがあんな態度じゃあ、こっちも仲良くなれないよ。私と何か話すとしても、田上トレーナーの為という姿勢を崩さないからね」

「じゃあ、田上トレーナーの為に、お菓子パーティーも最後までいれば良かったのに」

「それができるのは、機嫌が頗る良い時だけだよ。常に、田上トレーナーに対しては、――私だけを見て、みたいな人だから」

「嫉妬深いんだ」

「そう、そんな感じ。だから、多分、今回も、田上トレーナーと…マテリアルさんはどうか分からないけど、私とは仲良くなってほしくないんだろうね」

「へぇ」とオータムは、リリックの所属しているチームの複雑さに、改めて重大さを感じた。これまで何度かそういう愚痴を零されたことはあったが、今回ほど強くは重大さを感じなかった。このまま行けば、リリックは先輩からいびられる後輩と化すだろう。それはあんまりにも可哀想だったから、「そのチームに居て大丈夫なの?」と心配そうに聞いた。すると、リリックはちょっと首を傾げてからこう言った。

「マテリアルさんが居るから今の所大丈夫ではあるんだけどね」

「マテリアルさんに何か言ったりしないの?」

 すると、今度は諦めた様に首をちょっと傾げた。

「マテリアルさんでも止められないよ。そもそも、一番付き合いが長くて、その上彼氏でもある田上トレーナーでも止められないんだから、マテリアルさんに止められるわけがない」

「じゃあ、田上トレーナーはタキオンさんを止めたいんだ」

「だから、今回のお菓子パーティーも企画したんじゃないかな?」

「へぇー」とため息まじりにオータムが頷いてから、少しの間が空き、リリックが言った。

「なんであの二人は付き合ったんだろう?」

「またそれ?…好きだったからじゃないの?」とオータムはまた同じ答えを繰り返した。

「そうじゃないんだよ。なんで好きになったんだろう?なんで付き合ってるんだろう?って事だよ」

「私は、リリーちゃんの言っている事があんまりよく分からないよ?」

「よく分からないかなぁ?」とリリックは困った顔をして言った。「田上トレーナーとタキオンさんが付き合ったのって、……私にとって凄く不思議…と言ってもなんだけど、不思議なんだよ。勿論、そりゃあ、付き合ったらお似合いのような気がしなくもないけど、…何て言ったらいいかなぁ…?……うん。不思議なんだよ。なんで付き合ったんだろう?」

「話が何も伝わってこないよ?」とオータムも苦笑しながら聞いた。

「そうだよねぇ。伝わんないかなぁ…?…好きと…好き?が合体したらなんで付き合うの?」

「…そりゃあ、…男と女だからじゃない?」

「そこの所が分からないんだよなぁ…。…じゃあ、男と女だから付き合うの?」

「…そうじゃない?」

「…男と女だからって、…教え子とトレーナーじゃん。そこに愛はあるの?」

「あるんじゃない?」

「……田上トレーナーって、タキオンさんの事好きなのかなぁ?」

「まぁ、好きじゃないと、トレーナーと教え子という立場からしたら、断らないわけにもいかないんじゃない?」

「今のタキオンさんだったら、強引にしそうな感じはある」

「じゃあ、昔のタキオンさんだったら?」

「…まぁ、…双方の意見が合致した時だよね」

「じゃあ、合致したんじゃない?」

 すると、リリックは納得が行かない様子で首を捻りながら「そうかなぁ?」と言った。

「田上トレーナーの今はどんなもんなの?付き合った時とか」

「……まぁ、タキオンさんの事は嫌いじゃなさそうだったね」

「じゃあ、好きだったんじゃない?」

「そうかなぁ?…田上トレーナーだよ?あの田上トレーナーだよ?堅物そうな。そこらへんのトレーナーよりもしっかりとモラルと言うか、規則でもないけど、人の目を気にするというか、そんな感じのトレーナーが、教え子と付き合うのかな?」

「そこはタキオンさんがごり押したんじゃない?」

 なんだか、一歩ずつ、オータムに、正解の方へ押し動かされているような気がしたが、それが、リリックには、あんまり面白くなかった。ただ、何が面白くないのかもあんまりよく分かっていなかった。

「まぁ、…ごり押しただろうねぇ…」

「それで、好き同士だったらそれでいいんじゃない?」

「んー」とリリックは唸った。どうやら、正解へ突き動かされていった気はするが、どうにもそれだけでは物足りないというか、なんというか…。もっと熟考したいような気もするし、まだ謎は解けていないような気はするし…。

 とにかく、田上がなぜタキオンと付き合ったのかという疑いについては、考えが晴れたような気もする。ただ、どうにも腑に落ちない。この表現で正しいのかは分からないが、腑に落ちないような気がする。しかし、何が腑に落ちないのかと問われても、何と答えればいいのか分からないし、そもそも本当に腑に落ちていないかと問われると、そこも少し怪しい所ではあったので、心にわだかまりを抱えながらリリックは「ん~」と納得行かなそう唸った。オータムの方は、リリックが何に引っ掛かっているのか、もう何も分からなかったので、ただ友人の顔を見つめるばかりとなった。

 その内に時間が経過したので、二人は揃って大浴場の方へ入りに行った。お湯に浸かっている間は、リリックは今まで悩んでいたことをすっかり忘れて、天井に上って行く湯気と天井の白さを見つめながら、体が浮力で軽くなるのに任せて、ぼーっとしていた。

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