風呂から上がると、二人は部屋の方へと戻った。イツモとも浴場で会ったので、三人はそこで分かれた。オータムの方が他人の世話好きだったようで、部屋に戻るとリリックの髪をドライヤーでしっかりと乾かしてくれる。まるで実際の母より母のような心地があった。リリックは、暖かい風を感じながら、半分眠るようにしてその世話を受けていた。
オータムが「終わったよ」と言って、リリックの頭をポンと叩いた時、リリックはそのままベッドに行って寝てしまおうかとも考えたが、ただやらなければいけない宿題があったので、眠さに半分落ちている瞼を引っ張って引っ張って、漸く自分の机の前についた。それから、机の上にうつ伏せになって寝てしまおうかと考えたが、オータムがまたも母親のように「宿題はやったの?」と言ってきた。これは、実の母も同じような事を言うから、少々鬱陶しくもあったが、実の母程苛つきもしない口調だったため、リリックはノロノロとノートを開いて、勉強を始めた。
ノートの中に漢字を何回も何回も書くという単純作業をしている間に、少し考える暇が生まれたので、眠い頭の中で自分の行く末の事を考えた。こうして勉強をしているのは中等部高等部の試験を通り抜けるためだ。何もレースの為にやっているわけではない。そして、レースの方はと言えば、今の所、自分の中に、タキオンさんのように第一線で走れるような気概はない。足は速い方ではあったが、GⅢを勝てるのかどうか…。試していないのだからまだ分からない。それに、選抜レースの方では勝てたことが無い。いつもここぞという時に足が重くなった。ゴールデンウィーク前にやった模擬レースでも同様だ。前には進めなかった。そういう、何に関しても三流のような自分が、ここで、レースをうだうだと続けて行った先に何があるのだろうか?果たしてどのようになるのかは、具体的には分からなかったが、その分からなさがリリックには恐ろしくもあった。今の所、真に迫るような恐ろしさではないが、心のわだかまりのような不安だ。このまま、なあなあに生きる事もできなくはないだろう。ただ、今のリリックには夢という物がないので、レースを引退した後、学校を卒業した後の展望が微塵もなかった。もしかしたら、世に言う『ニート』になるのではないかとすら思った。
リリックは、それから、小学校の頃に好きだった人の幾人かを思い出して、――あの人とはこんなことがあったなぁ、――あの人の前でこんな恥ずかしい事をしたなぁ、と思いながら、なあなあに宿題を終わらせていった。
夜寝る時になると、リリックとオータムは再び話をした。リリックのチームの話だった。田上トレーナーがどうだの、タキオンさんがこうだの、マテリアルさんがあれだの、もうすぐ新しい人をスカウトするらしいだの、先程に話していなかった昨今の出来事をまた話して聞かせた。その内に、オータムが「もう眠い」と言って、話を続けるのを拒否したので、リリックの方も眠りに就いた。特に、何かに縛られることもなく、安眠に就けた。
田上たちの方と言えば、二人は、寮の前で惜しそうに触れ合いながら別れた後、それなりに食堂で夕食を食べ、ささっと風呂に入り、二人きりの通話に移った。タキオンは、風呂に入って少し機嫌がよくなったようだった。少し明るさを持った声が聞こえた。
二人が話している事と言えば、これまでと相も変わらないこれからの事だった。そして、この時に田上の引っ越すアパートも決めた。その時の田上は、引っ越しをすっかり忘れ果てていたのだが、早急に引っ越したいのなら、まず出だしが肝心だろうという事で、あんまりタキオン程本気ではない田上を、タキオンが急かした。田上もまぁ、抵抗する訳もないので、言われるがままにタキオンと通話をしながらポチポチと物件を探して、適当な物をこれと選んで、明日の朝に不動産会社の方に物件の見学の予約をしてみる事にした。いよいよ事が動き出したことに、タキオンが嬉しがっているのが、電話越しからでも伝わってくるような気がした。田上もタキオンが嬉しいなら悪い気はしなかったが、相変わらず自分とタキオンの間に横たわる暗い影を思うと、その影とどう戦えばいいのだろうかと考えた。
その後に幾らか二人は、お互いの声を聴いてから、布団の中で眠りに就いた。田上は、明日の不動産との電話の事を思いながら、タキオンとの新しい生活の事を思いながら、眠りに就いた。気が重いという程重くはなかったが、気楽だと言える程気楽でもなかった。黒いタールの中に次第に沈んで行っているような感覚だ。その感覚を、ベッドの中で実際に味わいながら田上は眠っていた。
そんな感覚を味わって眠ってしまったせいか、不思議な夢を見た。ピアノを弾いている夢だ。聞いた事のあるような無いような曲が、頭の中で鳴り響き、自分はそれに夢中になって弾いている。弾くのが先か、音楽が奏でられるのが先なのかは田上には分からなかった。ただ、その音楽に夢中になっていた。場所は、鹿児島にいた頃の家だった。畳の上で電子ピアノを置いて練習していたのを覚えているが、今の夢は、大人になった田上が一生懸命弾いていた。その内、母が近くに現れて、「上手だね」と褒めてくれた。田上はもっと前のめりになってピアノを弾いた。ピアノの音には力強さが増した。その内に父が現れて、母さんとどこかへ行ってしまった。
次にタキオンが現れた。暫く聞き入っていたが、やがて「君のピアノは下手だね」と言った。そこで田上の集中は途切れて、少しがっかりとした面持ちになりタキオンの方を見た。タキオンは見つめ返して来て、こう言った。
「そんな事より家族になろうよ」
田上は返答に迷ってあちらこちらに目を泳がせた。この畳の部屋から、隣の食卓が見える。その食卓に、今は電気は灯されておらず、外から入り込む太陽の光によって、食卓が色濃く黒く浮かび上がっていた。すると、次の瞬間には田上はマンガを読んでいた。これも家の中の話だ。キッチンの近くにはマンガの本棚があったから、あの部屋から歩いてここに来たのだろうと思われる。田上は、本棚と壁に挟まれて通路の様になっている空間の中に、退屈そうに座り込んでマンガを読んでいた。その横にタキオンが立って、マンガの本棚を見回していた。そして、「君はこんなのを読んでいるんだね」と田上に言ってきた。その調子が、田上にはバカにしてきているように感じられたので、田上は少しむっとなって言い返そうとした。そこで、また場面が途切れて、家の外の階段に座り込んで、友達と携帯ゲーム機で遊んでいた。同じゲームをやっているのではなく、それぞれ違うゲームをやっている。
田上の家は団地の二階だったから、家の前の階段からは、団地から出る出口の坂が見える。陽光に照らされた明るい坂があり、その手前には、自分たちが座っている階段の暗い景色が見えた。田上には、それがまた色濃く黒く浮かび上がっているように見えた。
タキオンは、いつの間にか隣に座っていた。それに気が付くと、タキオンは田上に微笑みかけてから言った。
「早く大人になりなよ」
あんまりタキオンらしくない口調だったが、確かにタキオンの口から発せられたものだった。
田上は、朝起きた時にそれに少し違和感を覚えながらも、モーニングコールをしてきたタキオンに夢の事を報告してみた。タキオンは、ん~と少し考え込んでみた後に、田上に「早く大人になりなよ」と言った。こうして聞くと、タキオンの口から発せられても違和感の無いように思う。そんな事を思いながら、とりあえず、朝に食堂で朝食を食べる事にした。
不動産会社への電話は、その会社の電話の対応時間になってからかけないとしょうがないので、できるだけ急かしたいタキオンも、そこは我慢するしかなく、朝食時はずっと田上の顔を見ながら「楽しみだなぁ。楽しみだな」と零していた。そして、今日ばかりは授業に出るのが嫌になってきた。今、田上との将来の輝きが目の前に広がり、一緒に居れる日々が刻一刻と近づいているような気がするのに、当の本人が、田上の下から離れて授業に出るというのはなんだか滑稽のような気がした。タキオンは、授業に行きたくない旨を田上に伝えると、田上は困った顔をして、そのまま黙ってタキオンを見つめるばかりでいた。すると、タキオンも少々後ろめたくなって「行くよ」と呟くように言った。
朝食が終わっても電話の対応が始まっているわけではないので、二人は言葉数少なに、一時間目の授業までの暇な時間を、トレーナー室で寄り添って過ごした。寄り添ったと言っても、タキオンが一方的に、田上の肩に寄り掛かって過ごしていただけだ。二人共、特に何も話す事が無いので、黙ったままでいた。タキオンは、本当はもっと話したかった。特に、授業に出たくない事をもっと強く田上に打ち明けたかったのだが、それを言ったところでどうにもなるわけでもない。先程の様に田上を困った顔にさせるだけだ。タキオンとしては田上を困った顔にさせてみたい気持ちもあったのだが、結局、自分が授業に出るという事実を覆すことができないので、わだかまりを抱えたまま田上の隣でじっとしていた。
田上は、タキオンが授業に出たくないという気持ちを十分に分かっていながらも、自分にはこれと言った解決策を生み出すことができないので、タキオンと同様に口を閉じていた。もう少しタキオンに優しくできたらなぁ、と思いはするのだが、果たして授業に出ないでその先をどうやって行くのか、田上には想像し難かったので、適当な解決策を生み出しづらかった。
二人は、黙したままに、お互いの事を熱心に考えながら、時間を無為に過ごして行った。
一時間目が始まったところで、不動産会社が営業を始めるわけではない。九時から営業が始まるので、丁度二時間目あたりだ。タキオンはその時間の遠さにうんざりしながら、教室に行かなければいけないぎりぎりまで、田上と椅子の上で抱き合って過ごしていた。途中でマテリアルが入ってきて「おはようございます」と声を掛けてきたが、タキオンはそれに全く取り合わないで、田上の体に包まれながら、そのぬくもりを感じて眠るようにしていた。
教室に行く時には、タキオンは田上とキスをして出て行った。その様が、田上の目には健気に映ったので、少々胸が痛かった。何かしてやれる事はないかと考えた。
一時間目の休み時間になると、タキオンは普段より数段大人しい様子で戻り、また朝の時と同じように、椅子の上の田上に抱き着いて、そこに落ち着いた。心持ちは先程より上がったようである。先程よりも少しばかり明るい表情を取って、「いよいよ次の時間だね」と言っていた。田上もタキオンを励ましたいがために、いつもよりもしっかりと頷いてみせた。
不動産会社への電話は二人でする予定だった。二人でする予定と言っても、話すのは田上一人だ。それをタキオンがどうしても観察したいらしかった。田上は特に頓着もなかったので、タキオンのやりたいようにさせるために、タキオンが居る時間にする事にした。タキオンはそれから、田上の頬をそっと撫でた後に、キスはしないで授業に出て行った。その後にマテリアルがこう言ってきた。
「もう内見でもされるつもりですか?」
「ああ、はい。そうです」
「いつに?」
「土曜のトレーニングが終わったあたりにしようかなと思っていて」
「へぇ。いよいよですか」
「いよいよですね」
「…」
その後の言葉にマテリアルは迷った。本当は「もう逃げられませんね」と言おうと思ったのだが、これではあまりに無礼すぎるような気がする。田上の覚悟を疑うような事は、タキオンの為にもあんまりすべきではないだろう。いざこざを起こすなら自分が火種になるのではなくて、本人たちで勝手にやってほしいものだ。だから、マテリアルは一瞬言葉につまった後、こう言った。
「どこら辺に住む予定なんですか?」
「まぁ、…順当に行けば、…二駅先くらいの場所ですかね」
「駅からはどのくらいですか?」
「駅から徒歩十三分あたりの場所です」
「ふぅん」とマテリアルは適当な評価の仕様がない返事をしてから、またこう言った。
「家賃は?」
「家賃は順当でしたね。まぁ、こんなもんだろうってくらいの物を探しました」
「へぇ」
それからまた暫く考える間か、躊躇う間かを空けてから言った。
「どうですか?…覚悟は」
「覚悟?」
「覚悟です。…タキオンさんはどうですか?」
「…まぁ、…それなりですね」と田上は、答えにくい質問をする人だな、と思いながら答えた。マテリアルもそれを自覚しながら、次の質問をどうしようかと考えた。なぜ自分がこんな質問ばかりをしたがるのか分からなかったが、気になるのだからしょうがない。マテリアルは、再び次のように質問をした。
「田上トレーナーは、タキオンさんの事をどう思いますか?」
「どう?」
「…引っ越すことってどうですか?タキオンさんに振り回されたりはしませんでしたか?」
田上は、少しだけ首を傾げて考えながら言った。
「まぁ、…そんなもんですよ。…二人の時間がほしくないわけじゃないので」
「でも、タキオンさんが提案しなければ、それは上ってこなかったりしたんじゃないですか?」
「…まぁ、……なに?これも後学ですか?」
「後学です」といかにも迷惑そうな困ったような顔をしている田上に言った。
「ん~」と田上は唸ってから答えた。
「後学の為に俺一人から聞くよりかは、書店で本でも買った方が良さそうですけどね」
「書店の本は信用できませんよ。なんでもかんでも似たようなタイトルをつけて読者を釣ろうとするんですから」
「そうですかね?」と特に義理もない、どこぞの本を庇うような素振りを田上は見せた。
「そんなもんですよ。実際に一人の個人から聞き出した方が有益な話もあります」
「でも、結局俺個人の主観ですよ?」
「主観でも何でもいいですよ。それに主観と断ってくれるだけ分かりやすいもんですよ」
「んん」と田上はあんまり納得の行かなそうな返事を出した。しかし、マテリアルはとにかくタキオンと田上の関係を問いただしたかったので、また口を開いた。
「それで、どうですか?タキオンさんと…自分の人生ってどうですか?」
「どうって聞かれましてもねぇ…。質問の意図が、いまいち俺にははっきりとしないような気がするのでねぇ…」
「……んー、…絡まっていく二人の人生に恐怖なんかはありませんか?」
「…ないと言えば嘘になりますよ」
「それをタキオンさんに言えますか?」
田上は、いよいよしかめっ面で迷惑そうな顔をしたが、答える事には答えた。
「言ったらタキオンの方も動揺するので、あんまり言いたくはありませんね」
「なんでですか?二人の間に隠し事があっていいんですか?」
「これは別に隠し事じゃありません。元々タキオンの方も知っている事です。 マテリアルさんの方こそ、なんでそんなに聞きたがるんですか?俺とタキオンの事であって、マテリアルさんの事ではないでしょう?」
「それは…」後学ですと言おうとしたところで、不意に思いとどまった。後学であるにはあるが、その先にもっと何かがある。それをじっと考えてから、マテリアルは首を傾げつつこう言った。
「…多分、…二人の人生が…。いや、…なんだろう?…あなた方二人が…、どう…結婚していくか?…んー、…二人の人生が交わって絡まって解けなくなる瞬間?その瞬間に私は今立ち会っているような気がするんです」
「はぁ?」と田上は、マテリアルと同様に首を傾げた。
「その瞬間?その瞬間に、…二人はどうなるんだろう?…その瞬間に発生する勇気?度胸?そういう物が田上トレーナーには備わっているんでしょうか?」
「…備わっているんじゃないですか?」
「本当ですか?タキオンさんに良いようにされたと感じませんか?それは、田上トレーナーのしたかったことじゃないんでしょう?」
「したかったことじゃないですよ」
その後に田上は言葉を続けようとしたのだが、それはマテリアルが遮ってしまった。
「でしょう?その上、お金まで取られるんですよ。 同棲じゃないんでしょう?ただ二人の時間を作るためでしょう?」
「二人の時間を十分に取れる機会はほしいと常々思っていましたよ」
「でも、どうですか?タキオンさんがお金を出すわけじゃないんでしょう?」
「タキオンはお金を出したいと言っていました。普通に正直に言ったものだと思います」
「でも、結局振り回されるのは田上トレーナーでしょう?」
「俺にそこまで振り回されている感覚はありません」
「じゃあ、…お金はどうですか?結局は田上トレーナーが出す事になりました」
「それは二人で話し合った結果です。別に、二人共出し惜しみはする気はありません。タキオンは口座の暗証番号を教えてもいいと言いました。だから、全然大丈夫です」
「でも、…でも、引っ越すのは田上トレーナーでしょう?振り回されるのは田上トレーナーでしょう?それで自分の懐から金が出るんでしょう?」
「二人で話し合った結果です」と田上は根気強く答えた。
「でも、それにしちゃ早急過ぎやしませんか?」
「俺とタキオンに早急すぎるという気はあんまりなかったと思います。二人だけで居れる場所は必要だと思っていましたから」
「……なんですかね?……本当に、彼女にそこまで尽くして良いんですか?まだ付き合って一か月でしょう?」
「…大丈夫だと思います。今まで十分すぎる程に喧嘩してきたのはマテリアルさんも知っていると思います」
「そして、また喧嘩して今度は別れてしまったら?」
すると、田上も少し哀愁の籠ったような顔をして言った。
「俺もタキオンも喧嘩をするのはもうこりごりだと思います。もうしたくありませんよ」
「……なんでなんですか?…なんで…そんなにタキオンさんを信用できるんですか?」
「…なんでかは、…俺もあんまり良く分かりませんが、あっちには誠意があるし、信じられてるんですから、こっちも信じないわけにはいかないでしょう」
「恋人って、…同棲って、…何の為にあるんですか?なんで見ず知らずの人を信用できるんですか?」
「タキオンは見てるし知ってますよ」
「ああ、…あれが、言葉が違いましたね」
そう言ってから、マテリアルは暫く考え込み、またこう言った。
「なんでですか?なんで……なんでなんでしょうね?」
マテリアルも、自分の言葉の筋の通らなさに苦笑しながら言った。田上も、同じように苦笑の微笑みを浮かべて、「俺も知りませんよ」と返した。
「私は、…私は、…何か知りたいんですよ」
「何を知りたいんですか?」
「それが掴めたら苦労はしませんよ」
「変な質問されて苦労してるのはこっちですよ。たまにはタキオンの方に質問してみたらどうですか?新鮮な答えが返って来るかもしれませんよ」
「タキオンさんだとこっちは邪険に扱われて終わりですよ。最近は酷くないですか?タキオンさん、私とリリーちゃんを完璧に要らない物扱いですよ?」
こう言われると、田上も困った顔をした。
「どうにかそこらへんを解決したいと思って、昨日お菓子パーティーをしたんですけどね」
「段々とエスカレートしていっているんじゃないですか?」
「…そうですかねぇ…?…まぁ、以前より人の話を聞かなくなったかな…?」
「まぁ、前は…もう少し何かありましたよ。もう少しくらいは私たちに興味を示してくれたと思うんですけどね」
「……でも、」と田上は困ったように言った。「俺の言葉も中々聞き届けてくれないんですよ。あいつ頑固だから一度決めたことを曲げようとしないんです」
「どんな感じですか?」
「どんな感じ? んー…、俺の話を遮ろうとする感じですかね」
「ふーん」とマテリアルが返事をすると、田上が首を傾げながら言った。
「まぁ、…勿論、引っ越しの話は俺もしたいと思ってたから、そこら辺は押されて動いたという感じでもないんですよ。…ただ、…俺の話を聞いてくれないんですよねぇ…。 どうすればいいんですか?」
「私に聞かれても困りますよ。私の話なんて田上トレーナーの話より聞いてくれないでしょうから」
「マテリアルさんも経験は御ありでしょう?」
「そんな面倒な彼氏の経験はありませんよ。皆いつの間にか別れました」
「そんなに軽く話す事ですか?」と田上は苦笑気味に言った。
「まぁ、今更隠す事でもないですし」
そう返すと、二人は一種の気まずさを感じて、一瞬押し黙った。それから、また田上の方が口を開いた。
「俺は、これが結構困ってます。マテリアルさんは女として、この場合どのように対処してあげたらいいと思いますか?」
「ええ?私ですか!?」とマテリアルは、嫌そうに驚いた声を出した。「タキオンさんが、田上トレーナーの話を聞いてくれない問題ですよね?」
その問いに田上が「ええ」と頷くと、マテリアルは「う~ん」と考えてから言った。
「私は…、聞いてあげたらいいんじゃないですかね?」
「何を?」
「タキオンさんの話をです」
「聞いてませんかね?」と田上が困惑した顔をした。
「まぁ、聞いてない事はないだろうとは思いますが、…なんでしょうね…。…慰めてほしい?自分を見てほしいんですかね?」
「見てない事はないと思いますけどねぇ…」
「いや~、男と女って感性がやっぱり少し違う所がありますからね。田上トレーナーは現実としてタキオンさんの事を見ているのかもしれませんが、タキオンさんは空想として…、やっぱりお姫様として扱われたいんじゃないですか?」
「お姫様?」と田上は尚の事首を傾げた。
「タキオンさんってそういう所があるんじゃないですか?こう…あなたと二人だけの世界を作ろうとしているとか…」
「まぁ、そういう感じは在りますね」と田上は、今までのタキオンの言動を思い出しながら言った。
「そうでしょう?やっぱり、女は皆お姫様なんですよ」
「そんなもんですか?」
田上は苦笑した。
「そんなもんですよ。そら、また歳をとれば感じは違うかと思いますが、三十くらいまではお姫様ですね」
これにも田上は苦笑し、その後にこう口を開いた。
「お姫様って言ったって、具体的にどうすればいいんですか?」
「それはあなたが考えてみれば良いんじゃないですか?」
「俺ですか?」と言いつつ、田上は、ん~と考えてみた。それから、こう言ってみた。
「なんですかね?エスコートでもしてあげればいいんですかね?」
「まぁ、田上トレーナーは少し頼りない所がありますからね。たまにはそれをしてみてもいいんじゃないですか?」
それに田上は「はぁ」と返事をした。こうして面と向かって「頼りない」と言われると、少し傷付いてしまったので、その様な曖昧な返事しかできなかった。まぁ、それ程自覚していない事でもなかったが、面と向かって言われてしまった以上、自分は自分が思っているよりも頼りない男なのかと思ってしまう。自分もタキオンの行動や言葉を頼って行動している節があったので、これはなんとかしたほうがいいのだろうか、と思ってしまう。
思えば、初めからタキオンに説得されて交際した関係である。決して自分から動いたわけではない。むしろ付き合うのは嫌がっていた方だ。それをタキオンに説得されて動いたのだし、今回の引っ越しの件も田上が肯定的であったと言えど、タキオンの言葉が無ければ決して動かなかっただろう。今回の件が、ダメかと言われるとそうでもないような気がするのだが、タキオンとの結婚や同棲や実家への帰省も、全てタキオンの方が積極的である。自分から何かしようと言った事は、何一つなかったのじゃないかと思う。
田上は、ん~と唸りながら考えた。果たして、自分は変わったほうが良いのかどうか。
今の所、全てが崩壊するような大問題らしい問題は起きていない。けれども、自分がなよなよした頼りない人間であることによって、大問題とまでは行かなくても、タキオンに気苦労をかけさせ続けてしまうのだろうか?そもそも、タキオンは自分に頼りたいのだろうか?言ってしまえば、頼りにされてそうではあったが、別に、田上を頼りにしなくても、自分で立っていそうだったので、田上には物事の正否が測り難かった。
とりあえず、今の状況を考えてみると、タキオンは相当弱っているのではないかと思う。宝塚記念もちゃんと走ってくれるのかどうか怪しい所だし、今までずっと二人だけの世界に閉じこもりたい、というようなことを言い続けてきた。その度に、田上は、タキオンを励まして現実を見させようとしていたのだが、実際にタキオンがしてほしかったことは違うのだろうか?マテリアルが言っている事を、本当の事だと仮定して、タキオンを見てみるならば、二人だけの世界に閉じこもりたいと言った時には、…田上はどう答えればいいのか分からなかった。王子様という柄でもないし、一緒に閉じこもった後にどう動けばいいのかが分からない。実際に、田上が生きている体は現実の方にあって、夢の中にはない。それでもそのように動いてあげたほうが良いのだろうか。タキオンの言うように、溺れたいと言われれば、一緒に溺れてあげればいいのだろうか?一緒に死のうと言われたら、一緒に死んで上げたほうが良いのだろうか?そのようにしてあげれば、女性という物はこの上なく喜ぶのだろうか?
田上は、あんまり良く分からなかったが、自殺に関して言えば、流石にそこは止めてあげたほうが良いだろう。死んでしまえば元も子もないと田上は思っていた。溺れるに関して言えばどうだろうか?タキオンが昨日言ったように、ずっと目を瞑ってキスでもしてあげればよかったのだろうか?
そこで田上は少しピンときた。――してあげればよかったのだろうか?確かに、止めたのは自分だった。理由は、恥ずかしさや飽きのような物を感じたからだと思う。あれを押し止めてひたすらにタキオンに尽くしてあげればよかったのだろうか?しかし、そうという事になれば、世間の言う自分らしさとは一体何なのだろうか?キスをする時間がぴったりの人と結婚できて、キスをする時間がぴったりではないばかりに結婚できなくなるのだろうか?頭と頭が正面からぶつかれば、自分らしさを体現している人間は、そのまま、作用と反作用の法則に任せて離れていくしかないのだろうか?相手を思いやる心とは一体何なのだろうか?自分らしさとは一体何なのだろうか?我儘に感情のままに生きて良いのだろうか?
田上は、自分の身の内にある『自分らしさ』の存在に戸惑った。全ては自分が世界の中心だ。自分の考えが全てであり、自分はそれに則って動かなければならない。その様な思想が田上の中にあった。あの人を嫌いだと思えば、あの人を嫌いになり、世間一般の常識上離れて行かなければならないだろう。決して嫌いな人の傍に居てはいけない。他に何か術があろうとも、嫌いになれば自分の心が許さないから、あの人の傍から離れなければならない。
そのような思想をどのように取り扱えばいいのだろうか?確かに、嫌いな人の傍にいるのは辛い。その通りだ。全く以てその通りだ。しかし、相反する矛盾した感情がそこにあるのならば、一体全体人という物はどちらの方角へ動き出せばいいのだろうか?『タキオンを大切にしたい』という感情と、『キスを長時間するのは嫌だ』という感情だ。そして、今直面しているのは、タキオンの事をお姫様のように大切に扱わなければいけないという事だ。お姫様が言うからには、そのお姫様の言う通りにしないといけないのだろう。その際には、したくもないキスもしないといけないのだろう。まだ、モルモット君として扱われていた時期は、自分も、意気込みややりがいがあったからよかった。ただ、タキオンに恋をし始めてからは少し違うようになった。
その時に、田上は、辛かった記憶を思い出してしまい、少し気持ちが萎えてしまった。タキオンを好きになった事を後悔する気持ちさえ、再び芽生えるようでもあった。実の所、その後悔は田上の罪悪となって、まだその身の内に存在していたのだが、何しろ後悔してしまうと気が沈んで、にっちもさっちもいかなくなるので、罪悪として、その土の中に埋めておくしかなかった。だから、今回も、芽生えてきた後悔に、すぐに土を被せて蓋をすると、再びタキオンの事を元の様に考え始めた。
お姫様とはどのように扱えば良いのだろうか?と田上は再び考えた。そして、自分の立場にも一考の余地がある事に今気が付いた。今までは、モルモット君=執事、タキオン=お姫様というような関係性で考えていたが、王子様やお姫様の父の立場だってあるだろう。そして、自分はどこの立場に立てばいいのだろうか?と考えた。マテリアルの言い方によれば、お姫様の傍には、執事よりも王子様のほうが良いだろう。恐らく、エスコートするという言葉からも、王子様の方が真っ当のように思われる。――ただ、と田上は考えた。ただ、自分は王子様という柄じゃない。顔もあんまり良いとは思っていないし、エスコートなんていう言葉は自分の人生とは無縁な話だ。高級レストランなんて一度も行った事はない。人付き合いも、あの友達四人とタキオンくらいなものだ。人生の幅は狭いと言えるだろう。そんな甲斐性の無い自分が、突然に王子様などになれるのだろうか?突然煌びやかな衣装を着て、タキオンの手を取って「さぁ行きましょう、姫」などと言えるのだろうか。田上は、今の言葉を考えただけでも、自分と全くの正反対のような気がして、少々気持ちが悪かった。
次に、田上は――この世に王子様らしい人間が、そこら辺にポツンと見つかるのだろうか?と考えた。王子様らしい人間。甲斐性があり、エスコートできて、身なりも良く、女性の憧れの的。その様な人間がいるのだろうか?田上の友達四人は、女性の憧れの的というには少しオタク気質があるような気がした。辛うじて、鳩谷がモテるのではないかと思う。背も高いし、顔も悪くないし、性格も悪くない。体も筋肉質である。男らしい声の低さもある。こう考えてみると、田上は、鳩谷がもっと女性からちやほやされても良いような気がしてきた。流石に、そこら辺の恋愛事情は田上も何とも分からなかったが、自分らに隠していない限り、今の鳩谷に彼女はいなかったと思う。また、高校大学時代にモテていたという話も聞かない。これは、もしかしたら鳩谷が謙虚なだけかもしれないが、その謙虚さももっと女性に評価されても良いモノじゃないかと思う。そう思いながら、田上の思考は――何故鳩谷がモテないのか?という話に移行していった。
もっとモテて良い。これは、いつも遊んでいた友達四人も満場一致で言うだろう。そうすると、鳩谷はもしかしたら「俺は普通にモテていた」というかもしれない。これが謙虚さの証だ。犬も大きいとおおらかになるというから、人も背が高ければおおらかになるのかもしれない。田上は、鳩谷の人柄の良さや顔の良さが羨ましくもあった。こいつは、何の苦労もせずに人に優しくしているのではないかと思う。もしかしたら、鳩谷も裏では苦労をしているのかもしれないが、あまりにも自然体なので田上はそう思っていた。田上は、昨今では人に優しくする際に苦痛を感じるようになっていたから、そういう鳩谷に羨ましさを持っていた。全く、自然に何か人に良い事ができるのなら、褒められもするし、苦痛も感じないので、一石二鳥だろう。田上は何か考えてから人に良い事をしないといけないので、不自然として苦痛を感じていた。全く以て羨ましい。このような人間になりたい。優しい事をする際に躊躇わない人間になりたい。そうすれば、タキオンとも、もう少し上手く付き合うことができるだろう。全知全能になりたい。別に、鳩谷の事を全知全能と認めているわけではないが、田上は不図そう思った。
それから、田上は話が逸れている事に気が付いて、鳩谷ではなく王子様について考えようとしたが、同時に、自分がずっと黙っていたことも気が付いたので、マテリアルの方をチラリと見た。マテリアルは、机の上にスマホを置いて指先で暇潰しの様にぽちぽちと触っていた。田上は、少しの間マテリアルに話しかけようかどうしようか迷った。ただ、話す内容は定まっていなかったので、それを解決する必要があった。そして、結局田上は、適当に頭の中に思い浮かんだことを言った。
「マテリアルさん。…マテリアルさんは、……どうだろう?…王子…様が良いんですよね?」
「うん?それはお姫様に対してって事ですよね?」
「はい」
「ならそうですよ。タキオンさんも王子様が良いんじゃないですか?」
「そうですか…」と言った切り田上はまた黙ってしまった。これはいよいよ王子様になりきらないといけないと思うと、少々気が重かった。気障っぽいイケメンになりきってタキオンを相手しないといけない。何度考えてみても、そんなのは自分らしくないような気がするし、なんだか見っともないような気もした。――それでも、タキオンが喜ぶのならやらないといけないのかなぁ?と首を傾げた。その後に、田上はまたマテリアルの方を見た。マテリアルは、今度はこっちを見ていて、田上と目が合うと「どうですか?」と聞いてきた。田上は、また少しん~と唸った後に、「まぁ、念頭には入れてみます」と返事をした。
そして、そのまま二時間目は終わった。